鶯谷~日暮里
猛暑日の東京は気温37℃、毎日が日曜日の私には、猛暑日はエアコンを入れて昼寝。 (働いてる人には、申し訳ないね。)、、、、、、でも、夕暮れ近くになると、ゴソゴソ起き出して、『散歩してくるよ』と家を出た。
今日は暑いので、木陰が多いとろろにしよう。、、、、、以前から気になっていた、几号水準点を探しに行くことにした。 行先は、鴬谷の寺と谷中の墓地。 9千歩、7㎞の散歩。
①鶯谷駅 ・・・・・・・・・・・明治45年(1912)、東北本線の駅として開業した。 当時は2両連結の電車の時代でありホームはさほど長くないため、現在の南口寄りの崖上に駅舎があった。 現在のラブホテル街に通じる北口と、南口の橋上駅舎はまだ存在していなかった。、、、、、、現在の北口、南口が出来たのは、昭和5年(1930)頃と言われている。(正確な時期は不明)
・・・・・・・・・・・・・東京国立博物館の裏側に位置する南口
・・・・・・・・・・・・・ラブホテル街の中心に出る北口
②寛永寺橋・・・・・・・・・・・・・・北口の北側に、言問通りが線路を跨ぐ寛永寺橋がある。 昭和3年(1928)に竣工し、既に90年近くが経過した。 橋はかなり老朽化したようだ。 橋を渡った先には、寛永寺と関連する寺、谷中の墓地が、台地上に広がっている。
③寛永寺坂駅・・・・・・・・・・・・寛永寺橋を渡り、言問通りを西へ進むと、「上野桜木二丁目」の交差点に出る。 この角に「台東倉庫(株)」がある。 ここは京成電鉄の「寛永寺坂」地下駅の跡である。 昭和22年(1947)に駅は廃止されたが、地上の駅舎や地下ホーム跡などは現存していて会社が借りている。、、、、、、チョイと、ボロッチクなった建物だが、中には地下へ降りる階段、切符売り場と思われる部屋などが残っている。
④浄名院・・・・・・・・・・天台宗寺院の浄名院は、寛永寺36坊の一つとしてとして、寛文6年(1666)に創建された。 享保8年(1823)に寺号を浄円院から浄名院へ改名した。 本日の散歩の目的地:1か所目。 まずは手を合わせて、、、
・・・・・・・・・・・・・・境内には、江戸六地蔵 の六番がある。、、、、、明治初年神仏分離に際し、江戸六地蔵六番(永代寺、富岡八幡宮の別当寺)は廃寺となり、地蔵尊も破壊され、以後当寺に江戸六地蔵第六番のピンチヒッターとして、明治39年(1906)に再造された地蔵さまがある。
・・・・・・・・・・・・・さて、私の目的である「几号水準点」がこの寺の山門脇にあるはずだ!、、、、、、「几号水準点(きごうすいじゅんてん)」とは、“几帳面”の“几”で“き”と読み、机の意味である。 石碑・鳥居・石垣・欄干などに刻まれ、水準測量に用いた“不”の字に似た記号が、三本足の机に似ているところから“几号水準点”と呼ばれた。 “不”の字の横棒が標高を示す位置となる。、、、、、内務省では、明治9年(1876)の東京・塩釜間の水準測量(高低を測る)から、この記号を用いたが、明治期に測量が参謀本部に引き継がれると使用されなくなった。 都内には、約30か所(上野東照宮 、江戸城 、ニコライ堂 など)に現存している。・・・・・・・・その一つが、この浄名院にあると解り、今日の散歩となった。
・・・・・・・・・・・・・黒塗りの旧山門の前に「不許葷酒入山門」の碑があり、その後ろにあった。
⑤谷中の墓地・・・・・・・・・・「几号水準点」のもう一つが、この谷中の墓地にあると聞いて、今度はコチラを探すことにした。 おおよその位置は調べてきたが、墓地なので掘り返してもうないかも、、、、、
・・・・・・・・・・・・・まずは、墓地へ
・・・・・・・・・・・・・さっそく、在ったのは渋沢栄一の墓。 なんじゃ、この大きさは! ジャンボだ!
・・・・・・・・・・・・・次は、徳川慶喜、、、、、厳重に管理されているね。
・・・・・・・・・・・・・・さすが谷中の墓地だ! 有名人がズラリと墓地を構え、全て見て周ると一週間以上かかりそう、、、、今日のミッションである「几号水準点を探せ!」に戻る。、、、、、墓地の中を1時間程、行ったり来たり、あきらめたりねばってみたり、、、、、、
・・・・・・・・・・・・・やっと見つけた! 車の前にあった! こんなところにあるなんて、草の中、墓石の脇、敷石の脇、、、、アッチャ・コッチャ探して疲れたね!
・・・・・・・・・・・・・・まさしく、几号水準点。 表面に“不”の記号が標されている。 明治時代から、本当にここに在ったのか? チョイと疑いの気持ちが過ぎる、、、、
⑥紅葉坂・・・・・・・・・・・・・・本日の散歩、目的を達成したので、谷中の墓地から日暮里駅に向かう「紅葉坂」を下り、帰ることにした。 名の由来は、江戸時代、坂道周辺の紅葉が美しかったので命名したとのこと。