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2015年8月

2015年8月30日 (日)

散歩は休み

雨がしとしと降り続き、ここ数日は散歩も休み、自宅待機の状態だ。

こんな雨の中、味噌カツの産地から、友が海老せんべいをぶら下げて訪ねてくれた。、、、、、東京の名所であるスカイツリーへ行ってみた。 実は、私は、足元が透けて見えるところは、寒気がして何かに掴まりたくなる、高所恐怖症の気がある。 それゆえ、スカイツリーが完成して3年以上経過したが、準地元民である私は、いまだ350mの展望台に上がったことはない。 今日は覚悟を決め、多少の好奇心で“ワクワク”、好奇心を100倍上回る恐怖心で“ドキドキ”、そしてほんのちょっぴり可愛い娘見たさの浮世心で“ニタニタ”。、、、、、、行ってきました! なんだ、ちっとも怖くない、また快晴の日に行きたくなった! 

・・・・・・・・・・・・・・・雨のしょぼ降るスカイツリー

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・・・・・・・・・・・・・・・展望台チケットを求め並ぶ人。

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・・・・・・・・・・・・・・展望台は視界不良。 でも、チョットだけよ!

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・・・・・・・・・・・・・・・この写真、中央の隅田川の向こう岸に我が家見えるはずだが、、、、、我が家からスカイツリーは見えるのに?
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●・・・・・・・・・・・昔話で盛り上がり、楽しかった雨の日曜日。、、、、、、「友あり 遠方より来る また楽しからずや」に、「塔あり 高所より望む また楽しからずや」を加筆する。

2015年8月27日 (木)

浅草橋~綾瀬

猛暑の夏から秋風を誘う肌寒い夏、早くも女心の空に変わったか! スッキリしない空の下で、今日は我が家(浅草橋)から、2時間半でどこまでいけるか、スタコラ・サッサとよそ見せずに歩いてみた。 1万6千歩、12kmの散歩です。


●am7:50
・・・・・・・・・浅草橋をスタート。 まずは、江戸通りを浅草方向へ向かうことにした。

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●am8:05
・・・・・・・・・都営浅草線蔵前駅を通過。 何となく地味な駅だ!

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●am8:20
・・・・・・・・・駒形橋の西詰に位置する浅草線浅草駅。 この出口から、浅草寺までは、チョイと遠いです。 

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●am8:25
・・・・・・・・・東武鉄道浅草駅に到着、ここからは隅田公園を歩くことにした。

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●am8:37
・・・・・・・・・東武伊勢崎線隅田川鉄橋 を通過。 電車に見とれ小休止。

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●am8:42
・・・・・・・・・言問橋際から、スカイツリーを眺め、先へ急ぐ。

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●am8:43
・・・・・・・・・隅田公園を自転車通勤。 楽しそうだ!

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●am8:53
・・・・・・・・・隅田公園・桜橋に到着。

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●am8:53
・・・・・・・・・隅田公園・グランドでは、只今から、朝練の開始。

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●am9:07
・・・・・・・・・歩きながら手を合わせて、橋場不動尊 前を通過。 

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●am9:07
・・・・・・・・・白鬚橋西詰で明治通りを越え、台東区から荒川区に入る。

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●am9:21
・・・・・・・・・水神大橋を右奥に見て、隅田川土手を歩く。

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●am9:33
・・・・・・・・・隅田川を千住汐入大橋で渡り、足立区千住曙町に入る。

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●am9:43
・・・・・・・・・引き続き、堀切橋を渡り、葛飾区堀切に入る。 並行して荒川を越える鉄道は京成本線。

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●am9:58
・・・・・・・・・京成本線堀切菖蒲園駅に到着。 菖蒲園の花が咲くと、駅周辺も賑わうのだが、普段は寂しい駅だ。

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●am10:09
・・・・・・・・・堀切菖蒲園駅から川の手通り(都道314号)を北上し、小菅二丁目、小菅三丁目と通過する。 小菅三丁目の交差点を過ぎると、再び足立区に入り綾瀬の町になる。

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●am10:27
・・・・・・・・・足立区に入ると、裏通りを歩き、綾瀬駅に到着。 高架下の和菓子屋さんで「栗どら焼」の看板が目に入り、「あんみつ」を買って帰った。、、、、、浅草橋から1万6千歩の散歩。 

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2015年8月24日 (月)

西新井~高野

『足立区方面を散歩してくる』と言い残して家を出た。 押上で、東武線久喜行の快速に乗り換え、車中で梅島駅にて下車し散歩することに決めた。 しかし、快速の車中で、前に座っている可愛い娘と、隣のスマホゲームに夢中の汗ばんだおじさんに気を取られ、北千住駅で緩行に乗り換えるを忘れてしまった。 気づけば、既に北千住駅を出て、次の停車駅は西新井である。 梅島駅は無情にも通過した。、、、、、、、どうせ、行くえ定まらぬ爺さんの一人旅、西新井で下車し西へ向かうことにした。、、、、、西新井駅から日暮里舎人ライナー高野駅まで、1万3千歩、10kmの散歩となった。 



①西新井駅
・・・・・・・・・・・夏休み期間中なのか(?)、電車は比較的すいていた。 駅は通勤客だけのようだ、学生がいない、通勤しやすいね!、、、、、、私もサラリーマンのときは、夏の暑い日、汗ベッチョリで乗る、混んだ通勤電車は“地獄の釜ゆで”で最悪だった思いがある。

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②西新井大師道
・・・・・・・・・・・・・・・・・西新井駅前のバス通りが、尾竹橋通りにぶつかった正面に「西新井大師道」のアーチが見える。 この道を行くと、途中で環七通りを横断して、西新井大師の正面の出る参道である。 
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・・・・・・・・・・・・・・“参道”といっても、土産物屋、食事処、の並ぶ道ではなく、ゴク普通の道だ! 大師線 が西新井大師の近くまで開通し、わざわざ西新井から歩く必要もないので、ここから歩いてお参りする人は少ないかも?、、、、、、私は、この先で左に折れて足立区興野(おきの)の方へ向かう。

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③本木新道
・・・・・・・・・本木新道とは、北端の環状7号線の西新井大師交差点から、南端の荒川土手沿いに走る首都高中央環状線高架下の本木一丁目交差点を結ぶ、2キロ余りの2車線の道路をいう。 新道は古くからの歴史ある街道とは異なり、昭和30年代から農業用水らしき川が暗渠化され、その際、今のように川の流れに沿った曲がりくねった道となった。、、、、、、沿線には、西新井病院、西新井小学校、足立西郵便局などが道路沿いに在る。 またこの道路には、商店街らしい賑わい、アーケード、大型スーパーなどは無いが。 長い距離の沿線に、新旧の個人商店がかなり点在しているのには驚いた。、、、、、、昔ながらの面影を残す生活道路となっている。

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④足立区興野
・・・・・・・・・・・・興野(おきの)は、興野一丁目と二丁目からなる、古くから発展してきた町。 上記の本木新道が1丁目と2丁目の境となっている。 裏通りは細い道が曲がりくねり、入り組んで、初めて訪れた人は、“絶対”方向音痴となることを、私は確信した。 訪れた回数が数回目のとなる私は、今日も道に迷い、方向を見失い、行ったり来たり、迷路の様で面白い町だ!、、、、、、興野の町は、北に西新井本町、東に関原、南に木本、西に扇の各町と接し、古くからの町が、大師道、鳩ヶ谷道などでつながっている。

・・・・・・・・・・・・・・・先の見通しができない、曲がりくねった細い道

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・・・・・・・・・・・・・・奥へ、奥へ、さらに奥へ、奥まで歩いて、行き止まりだった! (足立区扇にて)

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・・・・・・・・・・・・・・こんな行き止まりもある。 なんじゃコリャ! アッチも、コッチも、アパートで通り抜けできない、そして自転車も邪魔をする。 来た道を戻るか、、、、、コン・チクショウ!

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・・・・・・・・・・・・・感動のお宅もあった! 見てください、この植木、、、、、植木の種類、植木鉢、植木の背丈、綺麗に揃っています。 安い植木を買ってきて、100円ショップで中国製、イタリア製の鉢を買って、ハサミで背丈をそろえて、玄関先に飾る、、、、これが、当家のご主人の楽しみだそうです。 (本人に聞きました)、、、、、、窓下の植木は缶ビールの空き缶の上に置かれてる。 よく見て、缶ビールは全て「アサヒドライ ZERO」で統一。 感服しました!

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善応寺・興野神社
・・・・・・・・・・・・興野の町に迷い、出たところが善応寺。 今年の4月に来たぞ! しばらくすると、また迷い、出たところは社殿を修理中の興野神社。 こちらも、来たことあるぞ!
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⑥吉祥院阿弥陀堂
・・・・・・・・・・・・足立区扇にある吉祥院阿弥陀堂は、創建年代は不詳。 吉祥院 (足立区本木西町)の境外仏堂。

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⑦高野駅
・・・・・・・・・・・平成20年(2008)、日暮里舎人ライナーに開業した駅。 駅名の「高野(こうや)」は現在は存在しない、江戸時代の足立郡高野村が出どこである。 地名としては昭和51年(1976)mで足立区高野町として存在していた。

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2015年8月23日 (日)

浅草橋~門前仲町

浅草橋の我が家から、両国橋を渡り門前仲町まで、1万2千歩、9㎞の散歩です。


①両国橋際
・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・チョイと雲の多い空模様だが、散歩にはよさそうな天気だ!

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・・・・・・・・・・・・・・・両国橋 を渡り、墨田区に入ると、橋の際に大きな『表忠碑』が建っている。 表忠碑は地元:本所地区の日露戦争での戦没者、病死者を慰霊するため、陸軍元帥:大山巌の筆で、明治40年(1907)に建立された。 碑の裏には200名程の兵の名が記されている。

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・・・・・・・・・・・・・・表忠碑の近くには、「日の恩やたちまちくだく厚氷」の碑がある。 なんて書いてあるのだ、誰の句だ、意味は、どうしてここにあるのだ、どこにも説明がない謎の碑か?、、、、、調べてみたら。 句碑は昭和3年(1928)に建立されたものだ。、、、、、向島の俳諧師であった赤穂浪士:大高源吾が、討ち入りの夜、俳句の師匠宝井其角に両国橋で出会い、詠んだ句といわれている。 意味は「太陽のお蔭で、積年の厚く張った氷が、たちまち融けた」。、、、、、この句には、討ち入りと結びつけた逸話もあるそうだ。

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本所松坂町公園・・・・・・・・・・・・チョイと時季外れだが、“本所松坂町”の吉良邸跡に寄ってみた。 公園は白い「なまこ壁」に囲まれ、正面には黒塗りの門があり、当時を偲ばせる造りである。、、、、、、公園内には、遊具はなく、約98㎡の吉良邸跡の史跡となっており、上野介の座像、みしるし洗いの井戸などが在る。 元禄の吉良邸は約8,400㎡の広さだったから、現公園の約86倍程の広い屋敷だった。、、、、、、只今、シーズンオフで、見学に来る人も少ないようだ、誰もいない!

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③竪川護岸工事
・・・・・・・・・・・・竪川は旧中川と隅田川を結ぶ運河で、頭上には首都高7号線が走っている。 千歳橋近くの竪川では、地震時の耐震性を強化するため、只今、護岸の耐震補強工事が行われている。 見た目は地味な工事だが、約200m程の区間に7億8000万円程の工費を掛けた工事だ、(1mの整備に244万円かかる)、高いか、安いか、お手頃価格か?

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高橋
・・・・・・・・・・・・小名木川に架けられた高橋(たかばし)。 昭和49年(1974)架橋。 橋上は清澄通り。

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・・・・・・・・・・・・・葛飾北斎の作品に「高橋の富士」という絵がある。 小名木川に架かる太鼓橋のような高橋の足元から富士山を眺める風景。 昔は、このように見えたようだ!

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清洲寮
・・・・・・・・・・・・江東区白河に建つ、“寮”とは言っても、民間のアパート。 大林組の設計・施工で昭和8年(1933)竣工。 現在もアパートとして人気のある建物で、“昭和レトロ”を求め空き室を探す人もいるようだ。

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⑥霊巌寺
・・・・・・・・・霊巌寺は寛永元年(1624)、霊巌島(現:中央区新川)にて創建したが、明暦3年(1657)の大火で被災し、万治元年(1658)に現在地(江東区白河1)に移転した。

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・・・・・・・・・・・・・八代将軍徳川吉宗の孫にあたる松平定信(1758~1829)は、天明7年(1787)に老中となり、寛政の改革を行った。 その定信の墓が霊巌寺にある。

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・・・・・・・・・・・・・・水戸街道を見守る、江戸六地蔵の第五番が安置されている。

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⑦長専院不動寺
・・・・・・・・・・・霊巌寺の前に在る、浄土宗の長専院不動寺は、深川の出世不動尊として知られている。 長専院は、德川四天王の一人:榊原忠次が開基し、霊巌島に創建された。 万治元年(1658)に霊巌寺とともに現在地に移転し、昭和3年(1928)に不動寺を合併した。、、、、、、、手を合わせて出世できるなら、毎日、来るのだがね!

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⑧紀伊国屋文左衛門の碑
・・・・・・・・・・・寛永元年(1624)、霊巌寺の塔頭寺院として創建された成等院(江東区三好)。 この寺は小さな寺だが、境内の一角に「紀伊国屋文左衛門」の墓がある。、、、、、成等院は戦災に遭い寺は全焼した。 その後、紀伊国屋文左衛門の石碑を建てる話が出て、昭和33年(1958)に墓と石碑が整備された。 しかし、その後墓を維持してきた和歌山県の材木商を中心とする支援団体も休眠したらしく、現在は荒れた状態になっている。、、、、、、、豪商も凋落したようだ、助けてあげたいね?

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⑨間宮林蔵の墓
・・・・・・・・・・・平野2丁目にある、間宮海峡を発見した間宮林蔵の墓。、、、、、生きていれば、『樺太を返せ!』とは言わないが、北方四島を返してくれるようにロシアに特使として行ってほしかった!

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⑩骨董市
・・・・・・・・・・・散歩の最後は、富岡八幡 の境内で開かれていた、骨董市を覗いてきた。、、、、、、、骨董品の品定めは難しい、「値があって、値がないのが骨董品」、、、、、「これは お宝 あれは ガラクタ 売り手は どれも 同じもの」

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2015年8月21日 (金)

高円寺~中村橋

JR中央線高円寺駅から西武池袋線中村橋駅まで、1万1千歩、8㎞の散歩です。


①高円寺駅
・・・・・・・・・・・・・甲武鉄道新宿駅~立川駅間の開業は明治22年(1889)で、明治39年(1906)に国有化される。 高円寺駅は国有化後の、大正11年(1922)に開業した。、、、、、、昭和39年(1964)頃から高架化工事が進み、昭和41年には高架複々線化工事が完了する。、、、、、、現在は、方向別に急行線+緩行線の島式ホーム2面4線の高架駅となっている。 高架下に1箇所の改札口を備え、南北に出入口がある。 北口は「ホテルメッツ」の1階にある。

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②庚申塔
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・・・・・・・・・・・・・・高円寺駅の北側周辺だけでも6か所の商店街がある、商店街の好きな町だ。 北口のメインは駅前の「高円寺純情商店街」。

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・・・・・・・・・・・・・・その北側に連続し、早稲田通りまで300m以上伸びるのは「高円寺庚申通り商店街」。 朝は、通勤・通学の人がゾロゾロ、、、、、
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・・・・・・・・・・・・・商店街の中程に庚申塔がある。 杉並区教育委員会の説明文では、、、『この庚申塔は正徳6年(1716)高円寺村の講中10人が、悪病退散、村民安全祈願のため建立したものです。 庚申塔は庚申待供養のために、江戸時代さかんに建立されました。 本尊は青面金剛が多く、不見、不聞、不言の三猿が刻まれていることもあります。 庚申待とは民間信仰行事の一つで、60日に1回めぐってくる庚申の夜に、講中の人々が集まって、寝ずにお経を唱えたり、酒食を共に語り合いながら一夜を過ごしたといわれています。 当初は現在の場所で真南に向って鎮座していましたが、大正12年の関東大震災で横転してしまい、その後西向きに建立されました。 また、昭和20年の東京大空襲の際には、戦火によって塔の一部が破損しました。 現在のごとく修復されたのは昭和37年のことです。』、、、、、たいへん解りやすい説明だが、形の記述がなく、チョイと残念! (庚申塔の写真は2013年撮影)

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・・・・・・・・・・・・・早稲田通り側の商店街の入口

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③荒牧医院
・・・・・・・・・・・・高円寺庚申通り商店街を通り抜けた正面に、水色の木造2階建ての建物が見える。、、、、、大正末期に現在地で内科・外科・小児科・皮膚科の診療を開始した。 その後、子が受け継ぎ、現在は4代目も開業し親子で地域の方々を診ているそうだ。 現在は、耳鼻咽喉科と皮膚科の専門医らしい。、、、、、耳鼻咽喉科の建物は開業時の建物で90年程経過している。 その脇に皮膚科の建物が建っている、こちらも古そうだ?

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④大和町中央通り親和会
・・・・・・・・・・早稲田通りを高円寺駅の方から越えると、杉並区から中野区に入り大和町となる。 大和町のほぼ中央を南北に抜ける通りが、ズバリ、「大和町中央通り」で、商店街名も「大和町中央通り親和会」。、、、、、、商店街と言っても、アーケードがあり、パチンコ屋があり、商店街放送が流れ、中程でサマーセールの抽選会を行っている商店街とは異なり、、、、、長い通りに、日常品を扱う店がポツリポツリと点在する、元気のない寂しい商店街だ。

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・・・・・・・・・・・・・・商店街は妙正寺川の手前で終わる。

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・・・・・・・・・・・・・・妙正寺川には昭和42年(1967)完成の川北橋が架かっている。

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⑤都立家政駅
・・・・・・・・・・・・駅の南側に駅名の由来となる都立鷺宮高等学校がある。 鷺宮高等学校は、旧制東京府立高等家政女学校が前身で、昭和12年(1937)に西武新宿線の駅が開業したとき、「府立家政駅」とした。 昭和18年(1943)には都立中野高等家政女学校となり、駅名も「都立家政駅」となる。 昭和21年(1946)には都立鷺宮高等女学校に、昭和23年(1948)には都立鷺宮新制高等学校、昭和25年(1950)に都立鷺宮高等学校となった。、、、、駅名を学校の名が変わるたびに変更するのは面倒なので、戦前の名で打ち止めにしたのかな?、、、、、、、、相対式ホーム2面2線を有する地上駅で、上下線にそれぞれ改札口(南口、北口)があるが、上下ホーム間は地下道により連絡している。

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⑥中村八幡神社
・・・・・・・・・・・都立家政駅から北に向かうと、新青梅街道が東西に走っている。 街道を越えると、中野区から練馬区に移り、中村南3丁目に八幡神社がある。、、、、、、この八幡神社は旧中村の村社で、祭神は応神天皇なり。創建年代は不詳。、、、、、神社の本殿は、現在、覆屋に納まって見ることができないが小祠である。 一間社、流れ造り、こけら葺きの本殿は17世紀の建築と推定されている。 拝殿は慶応2年(1866)の改築と言われている。

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・・・・・・・・・・・・・・参道にある文政13年(1830)奉納の御手洗石には卍の彫刻があり、神仏混淆時代の石造遺物と評価されている。

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⑦中村橋駅
・・・・・・・・・・・大正13年(1924)開業の西武池袋線の駅。 平成7年(1997)に高架駅となる。 旧駅舎 は大正13年(1924)に建てられた、洋館風駅舎として有名であった。、、、、、移設しても残して欲しかった駅の一つである!

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2015年8月19日 (水)

信濃町駅周辺

中央線信濃町駅で下車し、気ままに歩いて信濃町駅まで、1万1千歩、8Kmの散歩です。



①信濃町駅
・・・・・・・・・・・・明治27年(1894)、甲武鉄道の新宿~牛込間開通時に同時開業した。 明治39年(1906)には甲武鉄道が国有化され、国鉄の駅になる。、、、、駅の所在地は「新宿区信濃町34」で、信濃町には“丁目”がない。 信濃町の西側は慶応病院と東京電力病院(取り壊しの真っ最中)、東側は創価学会の関連施設が点在する狭いエリアである。、、、、、通勤時間帯は、駅前の信号を渡り、慶応病院へ向かう人が多い、病院勤務の人だろう。 看護婦さんなのか、美人が多いね! 

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②大番児童遊園
・・・・・・・・・・・JRの線路と慶応病院の間の道を千駄ヶ谷方面に向かうと、四谷第六小学校前に小さな公園「大番児童遊園」がある。 “大番”とは、江戸幕府の職名で、旗本により編成された江戸城を警固する武士のこと。 その“大番”の屋敷があった地が大番町である。 大番町の隣りは、武家屋敷のあった右京町があった。 昭和18年(1943)、大番町と右京町を併せ、一文字づつ頂戴し現在の「大京町」が誕生した。 「大番児童遊園」は、大番町の名を留める公園で、昭和49(1974)に開園した。、、、、、道路面から1.5mほど下がった窪地に約300㎡の公園がある。

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・・・・・・・・・・・・・・公園内には遊具として1基のブランコと、10匹近くの動物の置物が点在している。、、、、、誰も利用していない公園では、動物は雑草の中から顔を出し、子供にはチョイと怖そう!

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・・・・・・・・・・・・・・時計塔の後ろに、盛土のJR線路がある。 この盛土の裾の部分に煉瓦造の構造物がある。 煉瓦造の構造物は関東大震災で大きな被害をだしたため、それ以降の使用は無くなった。、、、、、つまり、この煉瓦の構造物は震災前の明治・大正時代のものだ! 煉瓦の積み方は小口と長手の段が交互に見えるイギリス積みで、明治時代中期以降に多く見られる積み方である。、、、、ところで、この構造物は何だ! もっと、よく見たいのだが、雑草が邪魔だ! あきらめた!

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③新宿御苑正門
・・・・・・・・・・・新宿御苑には、夫婦で、恋人と、家族で、(寂しい男は)一人で、行った人は多いはず。 ところで、『正門』はどこと聞かれて答えられる人は少ないと思う。、、、、、慶応病院の西側(大京町)で、外苑西通りの大京町交差点前にある門が正門である。 御苑内から見ると、フランス式庭園の突き当りにある門が正門である。、、、、知らない人が多いのは、普段は開いていないから、、、、、環境省の見解は、『正門は、新宿御苑がかつて皇室苑地だった頃、皇室をはじめ国内外の賓客の入園門として設けられました。現在の新宿御苑は誰でも入園できる公園になっていますので、利便性の高い場所に出入口を作る必要から、新宿、大木戸、千駄ヶ谷の3ヶ所に入場門を設置しています。正門は交通の便が悪く、それほど入園者数も見込まれないため、国の特別行事を行うとき等を除き閉鎖しております。』、、、、、つまり、観桜会とか大喪の礼のときに招待されれば、正門から入れるかもね?

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④多武峰神社
・・・・・・・・・・・・四谷四丁目交差点の南側に、新宿区内藤町がある、新宿御苑の東側だ。 この町の中央に「多武峰内藤神社」があり、主祭神:藤原鎌足が鎮座している。、、、、、新宿御苑は信州高遠藩内藤家の屋敷跡に造られた。 その内藤家は、先祖が藤原鎌足であることから、江戸時代に屋敷内神社として創建したそうだ。 明治5年(1872)、屋敷は大蔵省に買収されたため、明治19年(1886)に神社を現在の御苑の外に移した。

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・・・・・・・・・・・・・・・神社の脇に、小さな公園があり、その片隅に「鉛筆の碑」が建てられている。、、、、、明治20年(1887年)、「眞崎鉛筆製造所」の創業者:眞崎仁六は、現在は公園のこの地に、水車を動力とした鉛筆工場を建て、鉛筆工業生産を開始した。 それが現:三菱鉛筆の前身である。 大正5年(1916)に品川区東大井に移転するまで、ここで鉛筆を製造していた。

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⑤慶応病院・・・・・・・・・・・信濃町駅の前に堂々と構える慶応病院(慶応義塾大学病院)。、、、、安政5年(1858)に福澤諭吉が慶応義塾を起し、明治6年(1873)には医学所を開設した。 大正6年(1917)には、北里柴三郎を学部長として医学科を開設し、3年後(1920)には、医学部を開設し、慶応義塾大学病院を開いた。、、、、平成29年(2017)に医学部が創立100年を迎えるにあたり、新しい大学病院棟(1号館)を建設している。 その後も、建て替えは順次行われ、慶應義塾の信濃町キャンパスは、一新されるようだ。

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・・・・・・・・・・・・・・慶応大学予防医学教室・・・・・・・・・・・昭和4年(1929)の竣工で、信濃町キャンパスに現存する最も古い建物。 鉄筋コンクリート造4階建て、設計は曾禰中條建築事務所、施工は清水組。 現在も校舎として使用している。、、、、寄生虫学研究室などが入っている。

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・・・・・・・・・・・・・・慶応大学北里記念医学図書館・・・・・・・・・・・・・予防医学教室に並んで建つ、昭和19年(1944)竣工の図書館。、、、、、、、医学部創設に功績があった北里柴三郎の威徳を顕彰し建てられた。 正面玄関には北里柴三郎の像がある。

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・・・・・・・・・・・・・慶応稲荷大明神・・・・・・・・・・・昭和8年(1933)に鎮座した塾内にある神社。 受験シーズンには慶應義塾ほか医・歯・薬学部(慶大に限らず)の受験生が合格祈願に来るそうだ。、、、、、、塾内には、社務所も無いようなので、御札は貰えないかもね! その時は、病院の診察券でも貰ったら!

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・・・・・・・・・・・・・信濃町煉瓦館・・・・・・・・・・平成7年(1995)に、病院前の外苑東通りに面して建つ、地上6階/地下1階建てのオフィスビル。 清水建設の設計・施工で、旧食養研究所跡に建てられた大学の建物。、、、、、、外苑東通りに壁のように建つ大きなビルだが、煉瓦の素材がもつ温かみで、なじみやすい。

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・・・・・・・・・・・・・・・陸軍省所轄地の境界石・・・・・・・・・・慶応病院と隣の創価学会民音文化会館の敷地境界に“陸軍省所轄地”の境界石が埋められている。、、、、、この辺は、江戸時代に幕府の御焔烟蔵(ごしょうえんぐら)や御鉄砲場があった。 信濃町には明治6年(1873)から陸軍輜重兵(物資輸送部隊)の部隊が設けられた。 大正時代に部隊は目黒に移り、その後を慶応大学が買収し、医学部と附属病院となった。、、、、、ということは、境界石は明治時代のものである。 古いね!

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⑥四谷於岩稲荷田宮神社
・・・・・・・・・・左門町の四谷於岩稲荷田宮神社は、江戸幕府の御家人田宮家の屋敷社であった。 “四谷怪談”の主人公田宮伊左衛門の妻:於岩を合祀し於岩稲荷と称している。、、、、、、夏は、やはり怪談ものがいいのだが、最近は時代物の怪談映画は無くなり、怪談噺も少なくなり、チョイとつまらない時代になってきたね。、、、、、、写真のベビーカーは、於岩の水子の霊が乗ってきた?

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⑦陽運寺
・・・・・・・・・・四谷於岩稲荷田宮神社の斜向かいに、日蓮宗の陽運寺があり、こちらにも於岩稲荷が祀られている、、、、、どっちが、どうなのか?、、、、寺の案内には、『四谷怪談は作られた物語で、実在した女性「お岩」は家庭をとっても大事にした貞淑な妻だったと伝えられています。このお岩さまを祀る陽運寺は、「えんむすび」の寺として全国に知られています。』と、記されていた。
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2015年8月18日 (火)

旧東京商船大学

旧東京商船大学の帆船「明治丸」を見て来た。 月島駅から門前仲町駅まで、1万1千歩、9㎞の散歩です。



①佃水門
・・・・・・・・・・・・・・清洲通り沿いの中央区佃・月島・勝どきの各町と、晴海1・3・5丁目の間を流れる朝潮運河が隅田川派川(分流)と接続する地点に昭和38年(1963)に設置されたのが佃水門。 下流側の朝潮水門とともに朝潮運河とその周辺を高潮や津波から守っている。 水門はローラーゲート式で、幅員11.4m×2連。、、、、、、都民の生命・財産を守る水門の一つ。

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②古川組機械整備工場
・・・・・・・・・・・中央区佃3丁目にある、港湾工事/海岸工事などを得意とする古川組の整備工場(閉鎖したようだ)。

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・・・・・・・・・・・・・・私が興味を抱いたのは、工場右隣の建物。 戦後の事務所なのか、住宅なのか、チョイと古そうだ、白塗りのシンプルな外壁に木製のドアが、昭和を感じさせてくれる。

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・・・・・・・・・・・・・工場自体は閉鎖したのか、だれも居らず、雑然とした状態で放置されていた。 

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③相生橋
・・・・・・・・・・・・・相生橋(あいおいばし)は、隅田川派川(分流)にかかる橋で、中央区佃と江東区越中島に架かる。 隅田川の中程に小さな「中の島」があり、以前の相生橋は、この島により長短二橋で構成されていた。、、、、、現在の橋は、3径間鋼トラス桁橋で、橋長は149.1m、昭和63年(1988)に着工して平成11年(1999)に全通した。

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・・・・・・・・・・・・橋の中程に「中の島公園」がある。 中の島公園は、隅田川の汚染がひどくなった昭和48年(1973)に閉鎖され、水質が改善された昭和55年(1980)に整備され、再び開園した。 潮の干満が判る感潮池がある。、、、、、燈籠のある池に、隅田川の水が入り水位を知ることができるのだ。

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④旧東京商船大学
・・・・・・・・・・相生橋を渡ると右側(江東区越中島)に現:海洋大学越中島キャンパス(海洋工学部)がある。、、、、、旧東京商船大学だ!、、、、明治8年(1875)内務卿であった大久保利通が三菱の岩崎弥太郎に命じ創立した、私立三菱商船学校が前身である。 当初は霊岸島に繋がれていた成妙丸を校舎としていたが、後に越中島に移った。 明治15年(1882)に官立の商船学校となる。 昭和20年(1945)には、東京、清水、神戸の商船学校が統合され高等商船学校となる。 その後、商船大学が清水で設立され、高等商船学校は商船大学に包括される。 昭和32年(1957)、商船大学は東京に移り、東京商船大学となる。 平成15年(2003)には、東京商船大学と東京水産大学が統合し、東京海洋大学となった。、、、、旧商船大学の長い長~~い歴史を掻い摘んでみた。

今日は、構内の博物館である「百周年記念資料館」が休館のためか、夏休みの子供づれも来ておらず、のんびり明治丸を見て来た。

・・・・・・・・・・・・・・正門と守衛所・・・・・・・・・・・スクラッチタイル貼りの守衛所。

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・・・・・・・・・・・・・東京商船大学1号館・・・・・・・・・・・関東大震災後の昭和7年(1932)に再建された、東京高等商船学校時代の本館。 外壁はスクラッチタイル貼りで、屋上に校章が飾られ、正面に半円形の大アーチの玄関部を設け、2階・3階の窓まわりにはテラコッタタイル(素焼きのタイル)も見られる校舎。 鉄筋コンクリート造3階建て。 国の登録有形文化財。

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・・・・・・・・・・・・・東京商船大学事務局管理棟・・・・・・・・・・・1号館と同時に昭和7年(1932)、図書館として再建された建物。 外壁をスクラッチタイル貼りとし、船をイメージしたデザインらしい(?)。 こちらも国の登録有形文化財。

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・・・・・・・・・・・・・東京商船大学2号館・・・・・・・・・・・昭和8年(1933)に竣工した、元水産講習所本館。 この建物も、外壁には当時流行したスクラッチタイルを使用し、正面中央に4本の柱型を立て垂直性を強調した意匠となっている。 鉄筋コンクリート造2階建て。 登録有形文化財。、、、、、現在は、健康管理室、売店、ラウンジ、セミナールームなどで使用している。

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・・・・・・・・・・・・・・東京商船大学旧天体観測所(第一観測台)・・・・・・・・・・・明治36年(1903)に建てられた赤道儀室。 内部には東洋一の天体望遠鏡を備えた教育施設であった。 登録有形文化財。、、、、、こんな、勉強部屋(年寄りには書斎)があったら楽しいね!

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・・・・・・・・・・・・・・東京商船大学旧天体観測所(第二観測台)・・・・・・・・・・・第一観測台と同じ明治36年(1903)に建てられた子午儀室。 内部には子午線測定用の望遠鏡を備えた教育施設。 登録有形文化財。
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・・・・・・・・・・・・・・明治丸・・・・・・・・・・東京商船大学構内に保存されている、日本に現存する最古の帆船で、明治7年(1874)にイギリスで建造された。 明治天皇も東北・北海道地方巡幸に利用した。 当初は灯台巡視船として使用され、明治30年(1897)に商船学校に練習船として貸与された。、、、、、、緑の芝生に固定されたた、陸の帆船。 こちらは国の重要文化財。

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2015年8月16日 (日)

新橋~東京

夫婦で、暑い日差しを避け美術館・博物館をめぐり、帰りには孫のおもちゃと服などを買い、新橋から東京まで歩いてきた。 8千歩、6㎞。


①アール・ヌーヴォーのガラス展
・・・・・・・・・・・まずは、汐留のパナソニック 東京汐留ビル4階の「汐留ミュージアム」で開催中の「アール・ヌーヴォーのガラス展」を鑑賞。 ヨーロッパ随一のガラスコレクションで知られる(私は知らなかったけど!)デュッセルドルフ美術館のゲルダ・ケブフ・コレクションから花器・鉢など135作品が展示されている。 このコレクションは、新芸術(=アール・ヌーヴォー)の二大拠点となった、パリとロレーヌ地方の中心地であるナンシーを舞台に繰り広げられた制作活動の成果を集めた、第一級のガラス工芸作品群で、ドイツ国外では初めての展示となったそうだ。 (ギャラリー内は撮影禁止につき、写真なし)

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・・・・・・・・・・・・・会場前ではビデオで作品が紹介されていた。 私は気が短いせいか、事前に学習するのは嫌いで、ダメだ! 『ビデオなんて、どうでもいいよ! 本物が見られるのだから、早く入ろう!』と妻をせかして入場する。

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・・・・・・・・・・・・・・ギャラリーの一室に、ギャラリーが所有するジョルジュ・ルオーの作品230点の内、20点程が展示されている。 


②旧新橋停車場鉄道歴史展示室
・・・・・・・・・・・・汐留の旧新橋停車場を復元し、内部は鉄道歴史展示室が造られている。 コチラでは、企画展「温泉と文芸と鉄道」が開かれていた。 明治・大正・昭和にかけ、関東近辺の熱海・伊香保・軽井沢・草津・塩原などの温泉場には相次いで鉄道が開通し、多くの作家も足を運んだ、その歴史を“温泉”、“文芸”、“鉄道”をキーワードとして紹介している。 

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・・・・・・・・・・・・・・この建物は明治5年(1872)10月14日に開業した日本最初の鉄道ターミナル新橋停車場の外観を当時と同じ位置に、できるだけ忠実に再現したものだ。 新橋停車場は、アメリカ人の建築技師ブリジェンスの設計によるもので、木骨石張りの構造で、明治4年(1871)年に着工し、同年12月に完成した。 現在の建物は、日建設計の設計で、鹿島・大成建設・竹中工務店共同企業体の施工により平成15年(2003)に完成した、鉄筋コンクリート造2階建ての建物。 正面左側が鉄道歴史展示室として活用されている。、、、、、旧横浜停車場(現:桜木町駅)の駅舎も、この建物と同形状だったそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・建物の後ろ側には、ホームと0哩標識も復元されている。

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・・・・・・・・・・・・・・隣の汐留ミュージアムから撮った旧新橋停車場。

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③銀座
・・・・・・・・・・・・爆買いのツアー客が押し寄せ、銀座も変わった。 特に表通りは、『銀ブラ』する雰囲気は薄れ、旅行ケースを引き、タブレットで撮影する人を避けながら、ヨタヨタ歩く『銀ヨタ』では、面白くない!、、、、つい、マナーを知らない“爆買いツアー客”に文句を言いそうになるが、私には他国語を喋る力はなく、喧嘩では負けそうなので、止めておく。 ストレスも溜まり健康に悪い銀座と変わってきた。 半年ほど、チョイと『銀ブラ』はひかえていたが、今日は長年付き合っている妻のため『銀ヨタ』をすることにした。

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・・・・・・・・・・・・・バスから降りてくる爆買いのツアー客

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・・・・・・・・・・・・・・『おいおい、歩行者天国に自転車乗ってくるなよ!』、『おいおい、邪魔ならないように撮れよ!』、、、、、歳のせいか? つい愚痴ってしまう、私。

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・・・・・・・・・・・・・『でも、可愛い娘なら許す!』、勝手に評価するのも、歳のせいだ!

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・・・・・・・・・・・・・東京駅に着いた時には、二人の手には買い物でイッパイ。 爆買いに愚痴りながら、ニコニコして孫のものを買いすぎた!、、、、、、反省!

2015年8月15日 (土)

鳩の街

今朝、散歩に出る直前、妻から使いを頼まれ、散歩の帰りに浅草に寄ることになった。 私の行く先はまだ決めておらず、『どこに行こうか? 帰りは浅草に寄らねばならないし。 今から浅草へ行っても店は開いていないし。 遠くには行けないし。』、、、、てなこと考え、結局は地下鉄押上駅で下車することにした。 押上駅から、向島の鳩の街をぶらつき、浅草へまわり、バスで帰る。 1万歩、7㎞の散歩となった。


①スカイツリー
・・・・・・・・・天気も良く、「とうきょうスカイツリー駅」の留置線にて、ちょっくら撮影。

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②飛木稲荷神社と圓通寺
・・・・・・・・・・・・押上2丁目、東武線沿いに飛木稲荷神社がある。 創建の詳細については、度々の水害・火災などで、記録が失われ不明だが、明治時代の「神社明細帳」では、応仁2年(1468)の創建と書かれており、古いことは確からしいね。 古老の言い伝えによると、大昔ある暴風雨の際にイチョウの枝が飛んできてこの地に刺さり、いつの間にか高くそびえるようになり、これは吉兆なことと稲荷神社を祀ったのが、「飛木」の名の起源らしい。 今、境内にある大イチョウは、その「飛木」かな(?)

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・・・・・・・・・・・飛木稲荷神社の鳥居の前に、圓通寺の山門があり。 圓通寺は天台宗の寺で飛木山普門院と号し、応仁元年(1467)に創建された。 飛木稲荷神社の別当寺であった。 

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③高木神社
・・・・・・・・・・・・飛木稲荷神社の北100m程のところに、高木神社がある。 創立年代は不詳だが、応仁2年(1468)と伝えられている。、、、、あれ!飛木稲荷神社と同じ年に、至近な地に2社が創建されたなんて、チョイとおかしいね? なんだか、隠された事情がありそうだ!

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④鳩の街
・・・・・・・・・・鳩の街は、現在の墨田区向島と東向島の境界にある「鳩の街」商店街の東側にあった赤線地帯。 鳩の街から、400m程南西に向かうと現在の花街「向島」があり、1㎞程北東に向かうと大正時代から戦後まで続いた私娼街の「玉の井 」があった。、、、、、、鳩の街は、東京大空襲で焼け出された玉の井の業者が、この地で開業したのが始まりである。 終戦直後は、米軍兵士の慰安施設として出発したが、兵士が性病に感染することが多いため、昭和21年(1946)に米兵の立ち入りが禁止された。 その後は、日本人を相手とした特殊飲食店街(赤線)として発展したが、昭和33年(1958)の売春防止法の施行とともに、すべての業者が廃業した。、、、、、、戦後生まれの私には、まだ幼き頃の世界で、残念だが想像するのみである。 想像力が逞しく、良からぬことに頭がめぐり、疲れるね!

・・・・・・・・・・・・・・現在の「鳩の街」商店街。 この商店街の裏通りに、多くの作家・芸能人が訪れた“原色の街”があった。 (商店街に面して店を開業することは許可されなかったらしい)、、、、、、ピンクのポールの商店街入り口、、、盆休みか?シャッターを下している店も多い、、、、店を閉めた元床屋さん、、、、今も営業中の米屋さん、、、、吉川英治の旧居跡には保育園

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・・・・・・・・・・・・・・裏道に残る、赤線時代の建物。 当時、警視庁は通達を出し、娼家はタイルを貼り、カフェー風の造りにするように指導した。 その結果、どこの娼家もカラフルなタイルを貼り、庇、柱、壁に丸みをつけ、入口を狭くした、独特の造りの建物となった。 ちなみに昭和27年(1952)には、娼家が108軒、接客する女性が298人いたらしい。、、、、、昭和33年に赤線が廃止され、60年経過した現在は、当時の建物は数件を残すのみとなった。、、、、、、、近代建築史的には、このような建物も建築様式の一つになるだろうね。 保存しなくていいのかな?

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⑤浅草寺
・・・・・・・・・・・・・

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・・・・・・・・・・・・・15日は旧盆である。 浅草寺では施餓鬼棚(せがきだな)が設けられていた。 施餓鬼棚とは、祖先の精霊や共に訪れる無縁仏・餓鬼を供養する祭壇のこと。 五色の施餓鬼幡と「三界萬霊」の位牌が棚の上に安置されている。.

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・・・・・・・・・・・・・五重塔の内部では法要が行われていた。

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2015年8月14日 (金)

糀谷~大森町

昨年の昨日は、大動脈解離を起し病院にて緊急手術を受けた、忘れることのできない日である。 今年の盆休み期間中も“何かあったら、ヤバイ!”と思い、我が家で静かに過ごす予定だが、“今日はチョイと散歩ぐらい、いいだろう!”と家を出た。 京浜急行の糀谷(こうじや)駅から大森町駅まで、1万歩、7㎞の散歩です。



①糀谷駅
・・・・・・・・・・京浜電気鉄道の穴守線(=羽田支線)として、明治35年(1902)、蒲田~稲荷橋間 (3.6km) の開通と同時に開業した蒲田の次の駅。 京急蒲田駅付近連続立体交差事業として、糀谷駅も平成17年(2005)頃から仮駅舎に移ったり、線路の切り替えなど、来るたびに変化していた。、、、、、今日は高架駅となり、改札も本来の場所に開設されて、初めて下車してみた。 以前は駅前の商店街に面して改札があり、ホームも地上にあり、商店街を小走りに駆け飛び乗る人もいたが、新しい駅舎は商店街の通りから100mぐらい引っ込んだ位置にでき、しかも高架であるため、駆け込む人も見られなくなった。 ・・・・・・・・糀谷駅に初めて私が下車したのは、約50年前の中学生の頃だ、まだ小さな駅で空港に近い駅というイメージはなく、町工場の最寄駅というイメージであった。 線名が「穴守線」から「空港線」に変わったころである。

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・・・・・・・・・・・・・商店街から駅への仮歩道。 ここに、工事中の仮駅舎があった。

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・・・・・・・・・・・・・・3年前(2012年)に撮影した同じ位置。 駅右隣のクリーニング屋さんの黄色の看板は同じだ。

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・・・・・・・・・・・・・3年前は高架下に、まだ踏切があった。

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・・・・・・・・・・・・・踏切からはホーム(下り:羽田空港方向)が見えた。

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②西仲天祖神社
・・・・・・・・・・・糀谷駅から商店街の裏を北の方へ200m程行ったところに神社はある。 神社の創建年代は不詳であるが、村民久左衛門が創建したと言われている。、、、、、、、村民“臭さエモン”ではなく、“キューザエモン”と読むのだろうね!

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③そろそろ
秋の準備・・・・・・・・・・・・・西糀谷の住宅では、栗、柿が実をつけ始めた、、、、、、、、ここいらで、「汗をカキカキ 二人の夏は クリと マツタケ 厭き(秋)を待つ」

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④西糀谷の住宅
・・・・・・・・・・こちらは西糀谷2丁目、裏道の住宅。 珍しくなってきた純和風住宅、玄関先も綺麗に手入れがなされ、いいね!
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⑤北糀谷橋
・・・・・・・・・・・・西糀谷1丁目・2丁目と北糀谷2丁目を結び、呑川(どんかわ)に架かる橋。 平成9年(1997)架け替え。

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・・・・・・・・・・・・・・北糀谷橋から下流を眺める。 呑川は下流で羽田空港にぶつかる。
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・・・・・・・・・・・・・・上流側は、蒲田駅付近から、池上本門寺、自由が丘と遡って行く。
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⑥旧呑川緑地
・・・・・・・・・・・京急蒲田駅から下流に下ったところに東蒲田中学校がある。 ここで、旧呑川は現在の呑川の北側を蛇行し、途中で産業道路を横切り、昭和島にぶつかる手前まで、約1.8kmを流れていた。 呑川は昭和30年(1955)から昭和50年(1975)にかけて、大田区により埋めたてられ、公園と化した。 最下流には呑川水門 がある。、、、、、、、道路中央に遊歩道のように長くのびる緑地となった。

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⑦キネマ通り商店街
・・・・・・・・・・・・・旧呑川緑地から京急蒲田駅へ向かい伸びる「キネマ通り商店街」がある。、、、、、、“アレ? この商店街は松竹蒲田撮影所へ向かっているのか? 撮影所は京急線、JR線を挟み反対側なのだが?”と疑問がわいた。 そうです、松竹撮影所とは全く関係なく、この通りには「蒲田キネマ」という映画館があったそうだ。、、、、、残念ながら、活気の薄れた、半分シャッター商店街。 まぎらわしく、ややっこしいね!

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⑧京急蒲田駅
・・・・・・・・・・・・・駅はほぼ連続立体化工事も終わりだが、駅前整備などが残されている。、、、、、今日は駅に寄らず京急線沿いに品川方面へ歩く。

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⑨薭田神社
・・・・・・・・・京急線とJR線の間(蒲田3丁目)に薭田神社(ひえたじんじゃ)がある。 この神社は、社伝によれば和銅2年(709)に行基によって創建されたらしい。 石の鳥居は、柱背面に寛政12年(1800)と記されており、貴重なものである。

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・・・・・・・・・・・・・・神社の北側に隣接する、日蓮宗の栄林寺は、かつて薭田神社の別当寺であった。、、、、、、、今日は盆休みか?(稼ぎ時なのだが?)、閉門されてた。
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大森町駅
・・・・・・・・・・・今日はここまで。

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2015年8月12日 (水)

東急大井町線(大岡山~九品仏)

東急大井町線の大岡山駅から九品仏駅まで、1万歩、7㎞の散歩です。 (前回の大岡山駅まではコチラ


東京工業大学
・・・・・・・・・・大岡山駅前にキャンパスが広がる東京工業大学は、震災後の駒場での仮住まいから、大正13年(1924)年に現在の大岡山に移り、昭和4年(1929)に「東京工業大学」と称した。 一方、目黒蒲田電鉄線(現:目黒線)は大正12年(1923)に開業し、昭和2年(1927)には大井町線も開業した。、、、、、、大岡山のキャンパスは、移転当初から目蒲線の南北に敷地が確保され、北地区には全学科の教室・工場・実験室を配し、南地区には学校本部・共通学科の建物が配された。 現在のキャンパスの利用法と同じようだ。、、、、、今日は、大井町線を追っかけキャンパスの北地区を通り抜けてきた。

・・・・・・・・・・・・・大岡山駅前の正門を入ると、ケーキのような三角形の図書館がある。

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・・・・・・・・・・・・・・図書館の西側の坂を上り、キャンパス内の南北地区を結ぶ跨線橋から眺めると、、、、、、跨線橋の下で目黒線と大井町線が大岡山地下ホームに出入りし、その先は横浜方面に直進する目黒線と、その上を右に曲がり二子玉川方面に向かう大井町線の分岐ポイントが見える。

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・・・・・・・・・・・・・・キャンパス北地区では、緑豊かな木立の中に実験棟が点在する。

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・・・・・・・・・・・・・・キャンパスの出入口は、緑ヶ丘駅の高架下に直結する。

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②緑が丘駅
・・・・・・・・・・昭和4年(1929)の大岡山~自由ケ丘間の開業に合わせ、「中丸山駅」として開業した。 昭和8年(1933)には、緑ヶ丘駅(現:緑が丘駅)に改称。、、、、、、現在の駅舎は相対式ホーム2面2線のホーム下に改築された近代的な駅だが、以前は交差点角に向かい四半分の円形型に出て、勾配の緩い薄い屋根を細い円柱4本が支える昭和モダンな駅であった。、、、、、、山手の静かな駅で、“絵”になったね!

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③海軍村
・・・・・・・・・・緑が丘駅から大井町線沿いに世田谷区奥沢2丁目を歩くと、海軍村の案内が目に入った。 地元の町並み保存の団体が活動しているようだ。 『海軍村』とは、、、、、、大正12年(1923)、関東大震災後、田園調布の開発に触発され、奥沢村でも耕地整備の対象となった。 震災後の郊外への転居ラッシュなどもあり、地元、世田谷区では人口増加もあり、さらに、当時の海軍将校にとっては、横須賀の基地・目黒の海軍研究所・霞が関の海軍省などに便利なこともあり、ココ奥沢に海軍軍人らが殺到した。 多いときには30世帯程が住み、「海軍村」が誕生した。 また、大井町線の線路を挟んで反対側には、洋行帰りの人が集まり「ドイツ村」も誕生したそうだ。

・・・・・・・・・・・・・・案内板の貼り紙を見て、現存する住宅3軒を探してみた。

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・・・・・・・・・・・・・・・MU邸、、、、、当時植えられたシュロの木が洋風住宅のワン・ポイントとなっている。

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・・・・・・・・・・・・・K邸、、、、、、読書空間と称し、まちづくりに場となっているが、今日は門が閉められ入れなかった。 門の隙間から、玄関部分をチョイと撮影。

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・・・・・・・・・・・・・MS邸、、、、、、、白いポーチに葡萄棚が印象的だ。
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・・・・・・・・・・・・・・MS邸の近くには海軍村跡の碑がある

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・・・・・・・・・・・・・海軍村の近くに建つ住宅

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・・・・・・・・・・・・・ここまで来たら、、、、、と思い「ドイツ村」を探してみたが、発見できず。 それらしき場所に、かすかに、チョイと“ドイツ風かな?”と思われる分譲住宅が建っていた。 

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④自由が丘駅
・・・・・・・・・・・1階地上ホームに大井町線が、2階高架ホームに東横線が入る乗換駅。  昭和2年(1927)、東横線の九品仏前駅として開業。 昭和4年(1929)、自由ヶ丘駅(現:自由が丘駅)に改称。また、同年には現在の大井町線が開通した。、、、、、、なんと言っても、山手のセレブを相手にする高級志向の店舗が並ぶ街。 私には、浅草・上野の空気が肌に合うね! 早々と駅から離れた!

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・・・・・・・・・・・・・・・遊歩道の両側には、シャレた、お高そうな、お店が並んでいる。

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⑤九品仏駅
・・・・・・・・・・・昭和4年(1929)に開業。 駅名は駅北側にある、九品仏浄真寺にちなみ命名された。、、、、、この駅の名物は、なんと言っても構内が狭く、ホームの両端は踏切で、ホームの長さは4両分しか確保されていないため、5両編成の大井町線は5号車(溝の口より)はドアが開かない駅となっている。 

・・・・・・・・・・・・・・駅舎は踏切の上下線の間にある。 改札はここのみ1か所。

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・・・・・・・・・・・・・・お手洗いは島式ホームの中央に鎮座している。 これも狭いため、致し方ないか、、、、、チョイと気の弱い人は、利用しにくいトイレだね。

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・・・・・・・・・・・・・・・溝の口側のホーム端部。

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2015年8月11日 (火)

千葉県立美術館

稲毛に集うパソコン同好会の帰り、千葉港にある千葉県立美術館に寄ってみた。


①千葉県立美術館
・・・・・・・・・・・千葉市中央区:千葉港の一角に県立美術館がある。 昭和51年(1976)に建築家:大高正人(1923~2010)の設計、竹中工務店の施工で竣工した。 十字形平面の4翼に展示室を配した、鉄筋コンクリート造、地上2階/地下1階のタイル貼りの建物。 工事費は約12億円。、、、、、この建物は、戦後の合理的、機能的な近代モダニズム建築に対して、装飾性、折衷性、過剰性などの回復を目指した「ポストモダン建築」の代表例の一つである。、、、、、地方都市に建つ、シックで、落ち着いた、使い勝手の良さそうな、美術館。 私は気に入った!・・・・・・・・今日は大きな特別展が開かれているわけでもなく、常設の絵画を中心に鑑賞してきた。 洋画の浅井忠のほか、ミレー、ルソー、ルノワールなどの作品も展示されている。 (念のため、高齢者は無料だった。ラッキー!)

・・・・・・・・・・・・・・外観は、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・内部は、、、、、     (絵画が展示されている部屋は撮影不可)

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②千葉ポートタワー
・・・・・・・・・美術館の近くに建つ千葉ポートタワーにも、チョイと立ち寄ってきた。、、、、、、、ポートタワーは、千葉県民500万人突破を記念して昭和61年(1986)に千葉港にオープンした展望施設です。 設計は日建設計、施工は竹中工務店(JV)で、一辺の長さ15.12mの菱形の断面形状をもつ、高さ137.25mのガラス貼りの塔。、、、、、高さ113mの展望室までは、エレベータで1分半程である。 外が見えるガラス張りのエレベータは、高所恐怖症の私にとっては試練の地獄部屋である。 1分半は、外の世界を見ず、エレベータガールのお姉さんの容姿を見て、よからぬ想像をして、ひたすら止まるのを待つ、長い長~~い時間である。 エレベータから展望室へ出ると、さらに怖くなった。 菱形の部屋の中央はエレベータで周囲が展望室だが、ガラス張りで足元からも下界が覗ける、心臓ドキドキ、気持ちはビクビク、足はフラフラ、“早く地上に戻りたい!”、、、、、、『これも、孫とスカイツリーに行くための予行練習』と、ひたすら自分に言い聞かせ、恐怖に耐えた!

・・・・・・・・・・・・・・見上げるタワー、、、、、、何だか、折れそうな華奢な構造が恐怖心を掻き立てる! 怖そ~~!

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・・・・・・・・・・・・・死んだ気持ちで外を撮影、手摺をしかっり握って、片手でパチリ!
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・・・・・・・・・・・・・千葉県立美術館が足下に見える

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・・・・・・・・・・・・・・地上に降りて、タワーの前でスイカ(風船)割する娘。 こちらの方が、いいね!

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2015年8月 9日 (日)

青砥~亀有

京成本線の青砥駅から、常磐線の亀有駅まで、1万歩、7㎞の散歩です。


①青砥駅
・・・・・・・・・・大正元年(1912)に開通した京成押上線の立石~高砂間には(青砥)駅は設置されていなかったが、昭和3年(1928)に現:本線の分岐駅として青砥駅が開業した。 当時はまだ地上駅の時代であった。、、、、、、、昭和48年(1973)2月、青砥駅の立体交差化工事を起工し、昭和57年から59年にかけ、下り線・上り線が順次完成し高架化された。 竣工式は昭和61年(1986)10月である。 13年間を要した高架化工事である。 電車を止めることなく行う鉄道関連工事は、工期が長く、安全に気を配り、心労が絶えない仕事である。、、、、、、現在の青砥駅は3階建ての高架駅で、それぞれ島式1面2線のホームを持ち、2階は上り線、3階は下り線として使用している。

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②環七通り
・・・・・・・・・・青砥駅の北側で環七通りを越えて、中川の方向に歩く、、、、、「環七通り」は、大田区平和島を起点とし、世田谷区、中野区、板橋区、足立区、葛飾区を回り江戸川区臨海町まで、東京都心を“ぐるり一周”する一般道。、、、、、、環七通りの建設計画は昭和初期に策定され、大田区、世田谷区などでは、昭和15年(1940)頃に建設が始まっていた。 今日歩いた葛飾区内の環七通りの工事は、最後の最後となり、昭和60年(1985)に完成した。、、、、、、、この工事も、計画から完成までは約60年を要した、長~~い工事だ。

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③中川
・・・・・・・・・・・・・・空には雲が多く、連日の猛暑日から解放されたようだ。 中川の土手に上がってみると、暑い、熱いはやわらいだようだが、ベトベト、ジワジワ感は残っている。

・・・・・・・・・・・・・・下流側には京成電鉄中川橋梁 が見える

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・・・・・・・・・・・・・・・上流側には、マンションがみえる・・・・・だけ!

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④東京慈恵会医科大学葛飾医療センター
・・・・・・・・・・・・戦前、結核の治療を目的として開設された大島病院中川診療所を前身とする東京慈恵会医科大学の付属病院。 平成24年(2012)に、新病棟が完成し、名称も「東京慈恵会医科大学葛飾医療センター 」に変更し、新たな総合病院として再スタートした。 平成24(2012)に現在の名称に変わり、建物も大病院にふさわしい姿となった。 病院の理念は、『病気を診ずして、病人を診よ』である。 素晴らしい言葉だ!、、、、、私はどうも、『医者を見ずして、看護婦を見よ』の悪い癖があるようだ。

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⑤青戸7丁目のアパート
・・・・・・・・・戦後の建築と思われる、木造アパートが数棟あった

・・・・・・・・・・・・・こちらは空き家というより、朽ちて廃屋かも?

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・・・・・・・・・・・・・・こちらは、住んでる人もいるようだ。 地図には○○荘と記されている。
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⑥葛西城址
・・・・・・・・・・・青戸7丁目に『葛西城』が在ったとは、私は今日まで知らなかった。 現在の青戸7丁目を南北に横切る環七通りの両側に「御殿山公園」、「葛西城址公園」がある。 環七通りの真下も含め、この地に平城が在ったそうだ。 城は鎌倉時代に、中川の蛇行部を掘りとして利用し築かれた。 その後、3代徳川家光の頃まで残されていたが、明暦3年(1657)の大火で焼失した江戸城再建の資材として、破却された。、、、、、、今は、当時を偲ぶものは何もなく、城址の碑と案内板があるのみだ。

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⑦青戸8丁目交差点
・・・・・・・・・・・・・・環七通り水戸街道の交差点。 環七通りは「青砥陸橋」で交差点をこえて行く。

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⑧青砥やくじん延命寺
・・・・・・・・・・・・青戸8丁目、中川大橋の際に位置する、新義真言宗の長久山地蔵院延命寺。 嘉応元年(1169)の創建で、800年以上続く古刹である。 地蔵菩薩の本尊と摩怛梨天を祀り、古くから「やくじん(疫神)さま」と呼ばれきた。 これは鎌倉時代に葛西城の領主:青砥左右衛門尉藤綱が摩怛梨天を守護神として祀ったといわれている。、、、、、、盆の墓参りと思われる人が墓地で手を合わせていた。 我が家では、旧暦の盆は暑いので、墓参りは8月前に済ませておいた。 仏を“ほっとけ!”の罰あたりかな?

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⑨亀有食品市場
・・・・・・・・・・・亀有駅南口の商店街「ゆうろーど」の中程に市場がある。 三方から入れるY字型の通路に、八百屋、魚屋、惣菜屋など、一部店舗は閉ざされているが8軒ある。 折れ曲がった狭い通路には、空いたダンボールなども散乱し、通路の上部は塩ビの屋根と吊るされた蛍光灯が特別の空間を創りだしている。 スーパーになれた私には、なんだか懐かしいような、面白いような、奇妙な「昭和」の市場だ。

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⑩亀有駅
・・・・・・・・・・・・明治30年(1897)、日本鉄道の駅として開業した。 駅は高架駅で、島式ホーム1面2線でえある。 常磐線緩行線が停車する駅だが、常磐線は隣の綾瀬駅までで、北千住駅からは地下鉄千代田線に変身してしまう。、、、、、JRで乗継したい人は北千住で乗り換えなければならず不便だ!

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2015年8月 7日 (金)

両国

東京は午前中に35℃を超える猛暑日。 これで、8日間連続となった。 私は、隅田川を挟み対岸の墨田区横網町の病院で、3年前に除去した、頭部の悪性腫瘍の経過について検診を受けてきた。(もちろん異常なし!)、、、、、検診後、東京都慰霊堂、両国駅を回り我が家(浅草橋)まで、7千歩、5kmの熱中行軍となった。


①同愛記念病院
・・・・・・・・・・・・・蔵前橋を渡り墨田区に入ると、すぐ右手大きな病院がある。 同愛記念病院である。、、、、、、、大正12年(1923)の関東大震災に際し、アメリカの当時のウッズ駐日大使は、その惨禍を本国に報告するとともに、救援活動の必要性を訴えた。 クーリッジ・アメリカ大統領の指示で、赤十字社が中心となり救援活動に取り組み、多額の義捐金も集まった。 この義捐金をもとに、翌年:大正13年(1924)に同愛記念病院財団が設立され。 開設する病院の位置は、死者3万人以上を出し、最も悲惨を極めた陸軍被服廠に近接する現在地(安田邸跡)に決定された。 昭和4年(1929)、病院建物の完成を待ち診療が開始され、ここにアメリカ国民の善意と友愛による一般病院が活動を始めた。、、、、、戦後、病院の建物は占領軍に接収され、昭和30年(1955)の接収解除までは、病院は両国橋近くの仮設病院で活動をした。、、、、、、私の知る病院は、戦後の接収時期からである。 子供の私は、暗い建物、玄関前の占領軍などがイメージされ、怖い建物であった。 旧病院は昭和4年(1929)の完成、設計者は近藤十郎、平成13年(2001)に取り壊された。

・・・・・・・・・・・・・現在の病院

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・・・・・・・・・・・・現在の病院に、旧病院の写真と、玄関上部に飾られていたアールデコ調のオブジェ。

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東京都慰霊堂
・・・・・・・・・・・まもなく9月1日の震災記念日である。 病院に来た帰り、近くの震災記念堂に寄ってみた。・・・・・・・・・昭和5年(1930)に関東大震災の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を祀る震災記念堂として建てられた。 昭和23年(1948)からは、東京大空襲の身元不明の犠牲者も合祀している。 名前も「東京都慰霊堂」と変わった。 今年の3月現在では、震災の犠牲者の遺骨58,000体、戦災の犠牲者の遺骨105,000体、合計163,000体の遺骨が祀られている。 遺骨は堂の後ろの三重塔の基部が納骨堂となっており、そこに711甕で納められている。、、、、、、堂は伊東忠太の設計による、寺院風の建築で、講堂の広さは200坪。 三重塔の高さは約41m。 施工は戸田組(現:戸田建設)。・・・・・・・・・・堂は来年:平成28年(2016)2月の完成を目指し、只今、戸田建設のJVにより耐震補強工事に取り組んでいる。 工事費は11億3400万円也。、、、、、、まだ完成していないが、ハトの糞で汚れてグレーに変わっていた外壁が純白に変わり明るく、綺麗な姿に戻ってきた!

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③東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑
・・・・・・・・・・慰霊堂の隣りにある祈念碑。 花壇の下には、東京大空襲ので犠牲になった方々の名前を記録した「東京空襲犠牲者名簿」が納められている。 

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④東京都震災復興記念館
・・・・・・・・・・・・記念堂の敷地内に旧防災資料展示館がある。 この建物は、関東大震災からの復興事業を記念し、震災記念堂の付帯施設として昭和6年(1931)に建設された。 設計は、記念堂と同じ伊東忠太と佐野利器、施工は戸田組、鉄骨鉄筋コンクリート造2階建て帝冠様式の建物である。、、、、、、暑さに負けて、冷房の効いた展示室でひと休み。 この暑さでは、見学する人もおらず、私一人でのんびり拝見してきた。

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⑤江戸東京博物館
・・・・・・・・・・・・・・菊竹清訓の設計により、平成4年(1992)に竣工した、地上7階建ての博物館。 高さは約62m程あり、20階建てのビルと同じぐらいだ、高い!、、、、、、今日は前を素通り、ゴメン!

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⑥両国駅
・・・・・・・・・・・・暑くて、早く帰りたくなった。 救急搬送されないように、こちらも、今日は素通りだ! 

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2015年8月 6日 (木)

浅草橋~日本橋

一週間連続の猛暑日、“もう、どうしょう!”、“もう仕様がない”、煮てくれ! 焼いてくれ! どうにでもしてくれ!、、、、、、今日も、夜の散歩となった。 我が家から(浅草橋)、ブラブラ歩いて日本橋まで、7千歩、5㎞です。


①浅草橋駅
・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・まずは、我が家から徒歩3分の秋葉原寄りの西口。 

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・・・・・・・・・・・・・・只今、総武線緩行の駅で、最後となったバリアフリー化工事を実施中。 浅草橋駅ホームは高架の両側の道路上に字型に張り出して造られている。 ここに、エレベータを設置するため、一部鉄骨の柱が道路にはみ出るようだ。 完成は来年らしい。 

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・・・・・・・・・・・・・・・ホーム下の高架部分には、店もあり、耐震化工事で空いた部分もあり、倉庫もあり、住居もある、『高架下の商店街』にはほど遠い!、、、、、都心の駅の高架下とは思えぬ、異次元の世界かも?

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・・・・・・・・・・・・・・江戸通りに面する東口は、浅草橋駅のメインゲートだが、よく見ると『浅草橋で降りて飲んで帰ろう』と思う人はいないようだ。 皆、一刻も早く浅草橋から離れ、帰宅経路の繁華街に向かい、人の流れは一方通行なり!

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②横山町
・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・神田川に架かる浅草橋を渡り、中央区に入る。 橋は昭和5年(1930)の架橋。

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・・・・・・・・・・・・・・店じまいした横山町の繊維・衣料品の問屋街を歩く。 

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・・・・・・・・・・・・・問屋街を出ると、昭和4年(1929)に清水組(現:清水建設)が設計施工した大原第5ビルがある。 レトロなビルは飲食店も入居し、まだ明りが灯っている。

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旧古河銀行元浜町支店
・・・・・・・・・・・・・・大正15年(1926)に竣工した旧古河銀行元浜町支店で、現在は、「ベストブライダル」という会社の結婚式場となっている。 建物の設計は、東京駅を設計した辰野金吾の事務所に所属していた中村與資平である。、、、、、、、アールデコ風の建物が電飾で飾られ、チョイとロマンティックだが、周辺は問屋街、オフィス街で、『なぜ、ここに結婚式場が?』と、考えてしまうかも。

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④旧川崎貯蓄銀行富沢町支店
・・・・・・・・・・・昭和7年(1932)の建築で、現在はハリオグラスの本社として使用されている。 国の登録文化財であるが、ライトアップもされず暗闇に静かに寝ている。

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⑤日本橋室町三井の発祥地
・・・・・・・・・・・室町は「三井」の城下町で、再開発が進んでいる。

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・・・・・・・・・・・・・三井タワーと三井本館・・・・・・・・・日本橋三井タワーは、昭和4年(1929)に竣工した三井本館の歴史・文化を受け継ぎつつ、日本橋地区の再開発を両立するというコンセプトの下に建築された。 建物は地上39階、地下4階、高さ 194.69mで平成17年(2005)に完成した。、、、、、、新旧の大きな建物のコラボ!

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・・・・・・・・・・・・・・隣は御存じの三越。 現在の建物は、昭和10年(1935)に完成したルネッサンス式建築の威容を誇っている。

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・・・・・・・・・・・・・・ライオン像も、夜は閉店時間の案内を首にぶら下げ、顧客サービスに参加!

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・・・・・・・・・・・・・・平成22年(2010)、三井本館前にオープンした、コレド室町
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⑥日本橋
・・・・・・・・・・・・・・石造のアーチ橋で橋の長さ49m、設計は米本晋一により、明治44年(1911)完成した。 現在の橋は19代目か、20代目になるそうで、国の重要文化財に指定されている。

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・・・・・・・・・・・・・日本中の道路の基点となる日本国道路元標のプレートが、橋の中央に埋め込まれている。 写真撮影には、車道の真ん中までいかねばらず、まだ轢かれて死にたくないので、橋の脇に飾られているレプリカを撮ってきた。

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2015年8月 4日 (火)

南千住~西日暮里

今日で5日連続の猛暑日は、とうとう連続記録を更新した! この調子だと、あと数日は記録更新しそうだ。 私は、熱中症で救急車には乗りたくないので、日中は静かに昼寝で過ごしている。 今宵も夜の散歩となった。 南千住から西日暮里まで、1万歩、7㎞の散歩です。



隅田川駅
・・・・・・・・・・・・南千住駅の東側に広がる、JR貨物の隅田川駅。 夜の貨物ターミナルは、寝ずに働く男の職場、灯光器の光で輝く線路は哀愁を感じさせる、、、、、、私と高倉健が駅員で主役の映画『ハトポッポ屋』が作れそうな夜景。

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三ノ輪橋停留所
・・・・・・・・・・・・都電荒川線起点の停留所。、、、、、還暦を過ぎ清純派の私と吉永小百合のコンビで青春映画が出来そうな、静かな夜景だ! 映画は二人が自転車に乗って、転倒する『青い山脈・初老編』。

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③三の輪ガード
・・・・・・・・・・常磐線三河島と南千住間にある煉瓦造のガード、第1、第2、第3と3ヵ所にある。 かなり古く、歴史の在りそうなガード。、、、、、亭主の私と女房の松原智恵子がスパーのビニール袋を両手にぶらさげ、幸せそうに帰宅するシーンがピッタシ! (これホント、二人とも明治大学の同期生なのだが、縁がなかったね!) 映画は『骨まで愛して』の続編で、幸せな二人が手羽先を食べ愛を語る『骨まで食べて』。

・・・・・・・・・・・・・第1三の輪ガード

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・・・・・・・・・・・・・・第3三の輪ガード
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三河島駅
・・・・・・・・・・・・明治38年(1905)に開業した古い駅だが、乗降客は少ない。、、、、、、渡世人の私が女賭博しの江波京子と永の別れとなるシーンが想像できるね。 駅のキヨスクでゆで卵を買って、二人で別れの爆食い!

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三河島踏切
・・・・・・・・・・三河島駅から高架で日暮里・上野方面へ向かう常磐線、その下で踏切を通り田端へ向かう常磐貨物線。 ここで、常磐線と常磐貨物線が左右に別れる。、、、、、、この踏切では、踏切をわたる極道の妻:高島礼子が悪に狙撃されるのを、私が身を張ってかばい助けるシーン。 弾は私の胸のスマホに当たり跳ね返り、難を逃れる。 二人の姿は踏切から遠ざかり、日暮里・鶯谷へ消えて行く。 いいね、自己満足!

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⑥西日暮里駅
・・・・・・・・・・・駅は、チョイと他に見とれて、写真撮影に失敗! 駅前の写真で我慢してね!、、、、、、、飲めない私が、駅前旅館の女将:淡路恵子、駅前飲み屋の女将:大空真弓、駅前飯店の女房:草笛光子、民謡酒場の女将;五月みどりにつかまり、アルコール漬けとなりダウンするシーンでエンディングとなる。

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●・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今日の散歩は、チョイと映画の世界で楽しんでみた! 乞うご期待!!

2015年8月 2日 (日)

大川端

今宵の夕涼みは、我が家(浅草橋)から大川端(隅田川)を新大橋まで歩いたところで、雨がポツリと落ちてきた。 急ぎ、清洲橋通りに出て我が家まで戻った。 8千歩、6㎞。  (日中の隅田川はコチラを見てね!

・・・・・・・・・・・・・・我が氏神さまも、暑い日曜日で疲れたのか閉門して、すでに床入りか? 

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・・・・・・・・・・・・・・浅草橋架道橋から線路沿いに隅田川に出る、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・おや? 対岸の墨田区は明るいね!

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・・・・・・・・・・・・・・総武線隅田川橋梁を眺める。 なんとなく地味だが日本美人のような橋梁、橋梁の月下美人か?

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・・・・・・・・・・・・・柳橋を渡り、浜町方面へ行こう!

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・・・・・・・・・・・・・先週、花火大会があった、静かな両国橋

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・・・・・・・・・・・・二人で夕涼み、いいね。 羨ましいね!

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・・・・・・・・・・・・・隅田川の上で悩ましく腰を振り、中央区から墨田区に抜ける首都高6号線両国大橋

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・・・・・・・・・・・・・・斜張橋の主塔がシンボリックな新大橋

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・・・・・・・・・・・・・ポッリと降ってきた、急ぎ足で帰路に、、、、、浅草橋交差点では晴れ、ひやかしの雨だ!

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