信濃町駅周辺
中央線信濃町駅で下車し、気ままに歩いて信濃町駅まで、1万1千歩、8Kmの散歩です。
①信濃町駅・・・・・・・・・・・・明治27年(1894)、甲武鉄道の新宿~牛込間開通時に同時開業した。 明治39年(1906)には甲武鉄道が国有化され、国鉄の駅になる。、、、、駅の所在地は「新宿区信濃町34」で、信濃町には“丁目”がない。 信濃町の西側は慶応病院と東京電力病院(取り壊しの真っ最中)、東側は創価学会の関連施設が点在する狭いエリアである。、、、、、通勤時間帯は、駅前の信号を渡り、慶応病院へ向かう人が多い、病院勤務の人だろう。 看護婦さんなのか、美人が多いね!
②大番児童遊園・・・・・・・・・・・JRの線路と慶応病院の間の道を千駄ヶ谷方面に向かうと、四谷第六小学校前に小さな公園「大番児童遊園」がある。 “大番”とは、江戸幕府の職名で、旗本により編成された江戸城を警固する武士のこと。 その“大番”の屋敷があった地が大番町である。 大番町の隣りは、武家屋敷のあった右京町があった。 昭和18年(1943)、大番町と右京町を併せ、一文字づつ頂戴し現在の「大京町」が誕生した。 「大番児童遊園」は、大番町の名を留める公園で、昭和49(1974)に開園した。、、、、、道路面から1.5mほど下がった窪地に約300㎡の公園がある。
・・・・・・・・・・・・・・公園内には遊具として1基のブランコと、10匹近くの動物の置物が点在している。、、、、、誰も利用していない公園では、動物は雑草の中から顔を出し、子供にはチョイと怖そう!
・・・・・・・・・・・・・・時計塔の後ろに、盛土のJR線路がある。 この盛土の裾の部分に煉瓦造の構造物がある。 煉瓦造の構造物は関東大震災で大きな被害をだしたため、それ以降の使用は無くなった。、、、、、つまり、この煉瓦の構造物は震災前の明治・大正時代のものだ! 煉瓦の積み方は小口と長手の段が交互に見えるイギリス積みで、明治時代中期以降に多く見られる積み方である。、、、、ところで、この構造物は何だ! もっと、よく見たいのだが、雑草が邪魔だ! あきらめた!
③新宿御苑正門・・・・・・・・・・・新宿御苑には、夫婦で、恋人と、家族で、(寂しい男は)一人で、行った人は多いはず。 ところで、『正門』はどこと聞かれて答えられる人は少ないと思う。、、、、、慶応病院の西側(大京町)で、外苑西通りの大京町交差点前にある門が正門である。 御苑内から見ると、フランス式庭園の突き当りにある門が正門である。、、、、知らない人が多いのは、普段は開いていないから、、、、、環境省の見解は、『正門は、新宿御苑がかつて皇室苑地だった頃、皇室をはじめ国内外の賓客の入園門として設けられました。現在の新宿御苑は誰でも入園できる公園になっていますので、利便性の高い場所に出入口を作る必要から、新宿、大木戸、千駄ヶ谷の3ヶ所に入場門を設置しています。正門は交通の便が悪く、それほど入園者数も見込まれないため、国の特別行事を行うとき等を除き閉鎖しております。』、、、、、つまり、観桜会とか大喪の礼のときに招待されれば、正門から入れるかもね?
④多武峰神社・・・・・・・・・・・・四谷四丁目交差点の南側に、新宿区内藤町がある、新宿御苑の東側だ。 この町の中央に「多武峰内藤神社」があり、主祭神:藤原鎌足が鎮座している。、、、、、新宿御苑は信州高遠藩内藤家の屋敷跡に造られた。 その内藤家は、先祖が藤原鎌足であることから、江戸時代に屋敷内神社として創建したそうだ。 明治5年(1872)、屋敷は大蔵省に買収されたため、明治19年(1886)に神社を現在の御苑の外に移した。
・・・・・・・・・・・・・・・神社の脇に、小さな公園があり、その片隅に「鉛筆の碑」が建てられている。、、、、、明治20年(1887年)、「眞崎鉛筆製造所」の創業者:眞崎仁六は、現在は公園のこの地に、水車を動力とした鉛筆工場を建て、鉛筆工業生産を開始した。 それが現:三菱鉛筆の前身である。 大正5年(1916)に品川区東大井に移転するまで、ここで鉛筆を製造していた。
⑤慶応病院・・・・・・・・・・・信濃町駅の前に堂々と構える慶応病院(慶応義塾大学病院)。、、、、安政5年(1858)に福澤諭吉が慶応義塾を起し、明治6年(1873)には医学所を開設した。 大正6年(1917)には、北里柴三郎を学部長として医学科を開設し、3年後(1920)には、医学部を開設し、慶応義塾大学病院を開いた。、、、、平成29年(2017)に医学部が創立100年を迎えるにあたり、新しい大学病院棟(1号館)を建設している。 その後も、建て替えは順次行われ、慶應義塾の信濃町キャンパスは、一新されるようだ。
・・・・・・・・・・・・・・慶応大学予防医学教室・・・・・・・・・・・昭和4年(1929)の竣工で、信濃町キャンパスに現存する最も古い建物。 鉄筋コンクリート造4階建て、設計は曾禰中條建築事務所、施工は清水組。 現在も校舎として使用している。、、、、寄生虫学研究室などが入っている。
・・・・・・・・・・・・・・慶応大学北里記念医学図書館・・・・・・・・・・・・・予防医学教室に並んで建つ、昭和19年(1944)竣工の図書館。、、、、、、、医学部創設に功績があった北里柴三郎の威徳を顕彰し建てられた。 正面玄関には北里柴三郎の像がある。
・・・・・・・・・・・・・慶応稲荷大明神・・・・・・・・・・・昭和8年(1933)に鎮座した塾内にある神社。 受験シーズンには慶應義塾ほか医・歯・薬学部(慶大に限らず)の受験生が合格祈願に来るそうだ。、、、、、、塾内には、社務所も無いようなので、御札は貰えないかもね! その時は、病院の診察券でも貰ったら!
・・・・・・・・・・・・・信濃町煉瓦館・・・・・・・・・・平成7年(1995)に、病院前の外苑東通りに面して建つ、地上6階/地下1階建てのオフィスビル。 清水建設の設計・施工で、旧食養研究所跡に建てられた大学の建物。、、、、、、外苑東通りに壁のように建つ大きなビルだが、煉瓦の素材がもつ温かみで、なじみやすい。
・・・・・・・・・・・・・・・陸軍省所轄地の境界石・・・・・・・・・・慶応病院と隣の創価学会民音文化会館の敷地境界に“陸軍省所轄地”の境界石が埋められている。、、、、、この辺は、江戸時代に幕府の御焔烟蔵(ごしょうえんぐら)や御鉄砲場があった。 信濃町には明治6年(1873)から陸軍輜重兵(物資輸送部隊)の部隊が設けられた。 大正時代に部隊は目黒に移り、その後を慶応大学が買収し、医学部と附属病院となった。、、、、、ということは、境界石は明治時代のものである。 古いね!
⑥四谷於岩稲荷田宮神社・・・・・・・・・・左門町の四谷於岩稲荷田宮神社は、江戸幕府の御家人田宮家の屋敷社であった。 “四谷怪談”の主人公田宮伊左衛門の妻:於岩を合祀し於岩稲荷と称している。、、、、、、夏は、やはり怪談ものがいいのだが、最近は時代物の怪談映画は無くなり、怪談噺も少なくなり、チョイとつまらない時代になってきたね。、、、、、、写真のベビーカーは、於岩の水子の霊が乗ってきた?
⑦陽運寺・・・・・・・・・・四谷於岩稲荷田宮神社の斜向かいに、日蓮宗の陽運寺があり、こちらにも於岩稲荷が祀られている、、、、、どっちが、どうなのか?、、、、寺の案内には、『四谷怪談は作られた物語で、実在した女性「お岩」は家庭をとっても大事にした貞淑な妻だったと伝えられています。このお岩さまを祀る陽運寺は、「えんむすび」の寺として全国に知られています。』と、記されていた。
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