両国
東京は午前中に35℃を超える猛暑日。 これで、8日間連続となった。 私は、隅田川を挟み対岸の墨田区横網町の病院で、3年前に除去した、頭部の悪性腫瘍の経過について検診を受けてきた。(もちろん異常なし!)、、、、、検診後、東京都慰霊堂、両国駅を回り我が家(浅草橋)まで、7千歩、5kmの熱中行軍となった。
①同愛記念病院・・・・・・・・・・・・・蔵前橋を渡り墨田区に入ると、すぐ右手大きな病院がある。 同愛記念病院である。、、、、、、、大正12年(1923)の関東大震災に際し、アメリカの当時のウッズ駐日大使は、その惨禍を本国に報告するとともに、救援活動の必要性を訴えた。 クーリッジ・アメリカ大統領の指示で、赤十字社が中心となり救援活動に取り組み、多額の義捐金も集まった。 この義捐金をもとに、翌年:大正13年(1924)に同愛記念病院財団が設立され。 開設する病院の位置は、死者3万人以上を出し、最も悲惨を極めた陸軍被服廠に近接する現在地(安田邸跡)に決定された。 昭和4年(1929)、病院建物の完成を待ち診療が開始され、ここにアメリカ国民の善意と友愛による一般病院が活動を始めた。、、、、、戦後、病院の建物は占領軍に接収され、昭和30年(1955)の接収解除までは、病院は両国橋近くの仮設病院で活動をした。、、、、、、私の知る病院は、戦後の接収時期からである。 子供の私は、暗い建物、玄関前の占領軍などがイメージされ、怖い建物であった。 旧病院は昭和4年(1929)の完成、設計者は近藤十郎、平成13年(2001)に取り壊された。
・・・・・・・・・・・・・現在の病院
・・・・・・・・・・・・現在の病院に、旧病院の写真と、玄関上部に飾られていたアールデコ調のオブジェ。
②東京都慰霊堂 ・・・・・・・・・・・まもなく9月1日の震災記念日である。 病院に来た帰り、近くの震災記念堂に寄ってみた。・・・・・・・・・昭和5年(1930)に関東大震災の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を祀る震災記念堂として建てられた。 昭和23年(1948)からは、東京大空襲の身元不明の犠牲者も合祀している。 名前も「東京都慰霊堂」と変わった。 今年の3月現在では、震災の犠牲者の遺骨58,000体、戦災の犠牲者の遺骨105,000体、合計163,000体の遺骨が祀られている。 遺骨は堂の後ろの三重塔の基部が納骨堂となっており、そこに711甕で納められている。、、、、、、堂は伊東忠太の設計による、寺院風の建築で、講堂の広さは200坪。 三重塔の高さは約41m。 施工は戸田組(現:戸田建設)。・・・・・・・・・・堂は来年:平成28年(2016)2月の完成を目指し、只今、戸田建設のJVにより耐震補強工事に取り組んでいる。 工事費は11億3400万円也。、、、、、、まだ完成していないが、ハトの糞で汚れてグレーに変わっていた外壁が純白に変わり明るく、綺麗な姿に戻ってきた!
③東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑・・・・・・・・・・慰霊堂の隣りにある祈念碑。 花壇の下には、東京大空襲ので犠牲になった方々の名前を記録した「東京空襲犠牲者名簿」が納められている。
④東京都震災復興記念館・・・・・・・・・・・・記念堂の敷地内に旧防災資料展示館がある。 この建物は、関東大震災からの復興事業を記念し、震災記念堂の付帯施設として昭和6年(1931)に建設された。 設計は、記念堂と同じ伊東忠太と佐野利器、施工は戸田組、鉄骨鉄筋コンクリート造2階建て帝冠様式の建物である。、、、、、、暑さに負けて、冷房の効いた展示室でひと休み。 この暑さでは、見学する人もおらず、私一人でのんびり拝見してきた。
⑤江戸東京博物館・・・・・・・・・・・・・・菊竹清訓の設計により、平成4年(1992)に竣工した、地上7階建ての博物館。 高さは約62m程あり、20階建てのビルと同じぐらいだ、高い!、、、、、、今日は前を素通り、ゴメン!