鳩の街
今朝、散歩に出る直前、妻から使いを頼まれ、散歩の帰りに浅草に寄ることになった。 私の行く先はまだ決めておらず、『どこに行こうか? 帰りは浅草に寄らねばならないし。 今から浅草へ行っても店は開いていないし。 遠くには行けないし。』、、、、てなこと考え、結局は地下鉄押上駅で下車することにした。 押上駅から、向島の鳩の街をぶらつき、浅草へまわり、バスで帰る。 1万歩、7㎞の散歩となった。
①スカイツリー・・・・・・・・・天気も良く、「とうきょうスカイツリー駅」の留置線にて、ちょっくら撮影。
②飛木稲荷神社と圓通寺・・・・・・・・・・・・押上2丁目、東武線沿いに飛木稲荷神社がある。 創建の詳細については、度々の水害・火災などで、記録が失われ不明だが、明治時代の「神社明細帳」では、応仁2年(1468)の創建と書かれており、古いことは確からしいね。 古老の言い伝えによると、大昔ある暴風雨の際にイチョウの枝が飛んできてこの地に刺さり、いつの間にか高くそびえるようになり、これは吉兆なことと稲荷神社を祀ったのが、「飛木」の名の起源らしい。 今、境内にある大イチョウは、その「飛木」かな(?)
・・・・・・・・・・・飛木稲荷神社の鳥居の前に、圓通寺の山門があり。 圓通寺は天台宗の寺で飛木山普門院と号し、応仁元年(1467)に創建された。 飛木稲荷神社の別当寺であった。
③高木神社・・・・・・・・・・・・飛木稲荷神社の北100m程のところに、高木神社がある。 創立年代は不詳だが、応仁2年(1468)と伝えられている。、、、、あれ!飛木稲荷神社と同じ年に、至近な地に2社が創建されたなんて、チョイとおかしいね? なんだか、隠された事情がありそうだ!
④鳩の街・・・・・・・・・・鳩の街は、現在の墨田区向島と東向島の境界にある「鳩の街」商店街の東側にあった赤線地帯。 鳩の街から、400m程南西に向かうと現在の花街「向島」があり、1㎞程北東に向かうと大正時代から戦後まで続いた私娼街の「玉の井 」があった。、、、、、、鳩の街は、東京大空襲で焼け出された玉の井の業者が、この地で開業したのが始まりである。 終戦直後は、米軍兵士の慰安施設として出発したが、兵士が性病に感染することが多いため、昭和21年(1946)に米兵の立ち入りが禁止された。 その後は、日本人を相手とした特殊飲食店街(赤線)として発展したが、昭和33年(1958)の売春防止法の施行とともに、すべての業者が廃業した。、、、、、、戦後生まれの私には、まだ幼き頃の世界で、残念だが想像するのみである。 想像力が逞しく、良からぬことに頭がめぐり、疲れるね!
・・・・・・・・・・・・・・現在の「鳩の街」商店街。 この商店街の裏通りに、多くの作家・芸能人が訪れた“原色の街”があった。 (商店街に面して店を開業することは許可されなかったらしい)、、、、、、ピンクのポールの商店街入り口、、、盆休みか?シャッターを下している店も多い、、、、店を閉めた元床屋さん、、、、今も営業中の米屋さん、、、、吉川英治の旧居跡には保育園
・・・・・・・・・・・・・・裏道に残る、赤線時代の建物。 当時、警視庁は通達を出し、娼家はタイルを貼り、カフェー風の造りにするように指導した。 その結果、どこの娼家もカラフルなタイルを貼り、庇、柱、壁に丸みをつけ、入口を狭くした、独特の造りの建物となった。 ちなみに昭和27年(1952)には、娼家が108軒、接客する女性が298人いたらしい。、、、、、昭和33年に赤線が廃止され、60年経過した現在は、当時の建物は数件を残すのみとなった。、、、、、、、近代建築史的には、このような建物も建築様式の一つになるだろうね。 保存しなくていいのかな?
・・・・・・・・・・・・・15日は旧盆である。 浅草寺では施餓鬼棚(せがきだな)が設けられていた。 施餓鬼棚とは、祖先の精霊や共に訪れる無縁仏・餓鬼を供養する祭壇のこと。 五色の施餓鬼幡と「三界萬霊」の位牌が棚の上に安置されている。.
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