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2015年9月

2015年9月30日 (水)

水道道路 (新宿~笹塚)

かつての淀橋浄水場から明大前の和泉給水所まで、「水道道路」と呼ばれる直線道路がある。 今日の散歩は、この道を新宿(淀橋)側から、途中の笹塚まで歩いてみた。 1万3千歩、10km。


水道道路
・・・・・・・・一般的には、明治以降の生活様式の近代化と、都市への人口集中に伴い、上水道への需要が高まってきた。 一方で水源地の不足、河川の汚染などにより原水の確保が難しくなってきた。 そこで各地では水源地・浄水場・配水拠点の整備が行われ、各施設間には、新たな水路が確保された。 現在、この水路跡に造られた道路を、「水道道路」と呼び、多くは一直線の道路である。、、、、、お江戸の「玉川上水」もその内の一つで、、、、、明治31年(1898)に淀橋浄水場が新設された。 その時、現在の和泉給水所地点から玉川上水を分岐させ、「玉川上水新水路」として、淀橋浄水場まで定規で引いたような一直線の水路が開削され、水を供給した。 関東大震災では、盛土が崩壊し、決壊するなどしたため、その後、新水路に代わるものとして、昭和12年(1937)に甲州街道に導水管を埋設して、新水路は廃止された。


①淀橋浄水場跡
・・・・・・・・・・・浄水場が存在した当時のまま残っている遺構は、六角堂のほかにはないようだ。

・・・・・・・・・・・・・浄水場跡地に建つ超高層ビル。、、、、、見方によっては、浄水場跡を標す巨大な記念碑かな?

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・・・・・・・・・・・・・旧淀橋浄水場六角堂、、、、、、明治39年(1906)から始まった沈澱池の増設工事で発生した残土を積み上げできた富士見台と呼ばれる築山に、浄水場の見学者用に建てられた四阿(あずまや)。 浄水場唯一の遺構で、新宿中央公園に現存する。

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・・・・・・・・・・・・・・旧淀橋浄水場蝶型弁、、、、、、超高層ビルの一つ新宿住友ビル(三角ビル)の敷地内に残されている、旧淀橋浄水場で使用された、蝶型の止水弁がついた排水バルブ。 この弁は、関東大震災により玉川上水新水路が決壊したときに施設改良工事の一環として昭和12年(1937)に設置された。

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・・・・・・・・・・・・・・昭和23年(1948)の淀橋浄水場の航空写真。

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②水道道路
・・・・・・・・今日歩いた「水道道路」は、西新宿交差点を起点とし、和泉二丁目交差点を終点とする、ストレートな直線で結ばれた都道431号角筈和泉町線である。、、、、、、用水の時代には、水路は盛土上につくられ、周囲より多少高い位置にあったと思われる。 水路には、16の橋と、3つのトンネルが造られ、水路を横切る交通路を確保した。 橋には淀橋側から順に、一号橋、二号橋、三号橋と付けられていた。 その名残は随所にみられる。

・・・・・・・・・・・・・起点の西新宿交差点。 50m先の議事堂南交差点を左折すると、あとは道なりに和泉二丁目交差点へ向かうだけだ。

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・・・・・・・・・・・・角筈区民センター前交差点、このあたりに二号橋が架かっていた。 首都高下の西新宿四丁目交差点には三号橋が架かっていた。

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・・・・・・・・・・・・・・西新宿四丁目交差点をこえた、渋谷区本町付近からは「水道道路」の道路面だけが周囲の道路面より高く、盛土上に道路が造られたことが判る。 写真のビルは水道道路に面した部分が一階だが、その下に地階がある。 後ろから見ると地階の駐車場には、脇の斜路のような道路から入る。

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・・・・・・・・・・・・・・新宿を望む水道道路。

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・・・・・・・・・・・・・本町1丁目には、用水の下をくぐって抜けた本村隧道が現存している。 大正9年(1920)の竣工。 円柱のデザインが、いかにも時代を感じさせるね。 

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・・・・・・・・・・・・・この付近では、「水道道路」と周囲の道路の高低差がかなりある。

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・・・・・・・・・・・・・本村隧道に続き、本町1丁目と幡ヶ谷2丁目の境に位置する本町隧道。 昭和50年(1975)に新しく造ったようだ。 すぐ隣に、旧本村隧道とおもわれる、コンクリートで塞いだ隧道跡らしきものが残されている。

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・・・・・・・・・・・・・水路跡の都営住宅・・・・・・・・・「水道道路」の南側沿いに、幡ヶ谷から笹塚まで約2.3kmにおよび、何十棟かの都営住宅が建ち並んでいる。 5・6階建て程度で、昭和40年代の建築だ!、、、、、、まさに、水路跡を活用しての団地づくり。 続~く、続~く、どこまでも続~く、長~い団地。 

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・・・・・・・・・・・・・・“○号橋”をわたる通りには“○号通り”の呼称がつけられ、バス停、公園、商店街には、その名が残っている。

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③清岸寺・・・・・・・・・・・・寛永元年に創建されたと言われている、浄土宗の清岸寺が幡ヶ谷2丁目にある。 寺の本堂は空襲で被災し焼けた。 現本堂は、明治32年(1899)に千葉県岩井町で建てられた、岩井御殿と呼ばれていた建物で、戦後に清岸寺が譲り受け本堂とした。 明治期の高級住宅の面影を残す貴重な建築である。

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●・・・・・・・・・・今日の「水道道路」散歩は、十号通りまで、、、、、このあと、笹塚駅に出て、お帰りです。

2015年9月29日 (火)

目白台の坂

目白台の台地上を、江戸川橋方面と落合方面を結び、目白駅前を東西に抜ける「目白通り」。 また目白台の崖下には、神田川が西から東に流れている。 崖上の目白通りから、崖下の神田川に向かい数本の坂道がある。 今日は学習院大 から日本女子大までの間にある、数本の坂を上ったり、下ったりするアップ・ダウン・コースを歩いてきた。 目白駅から早稲田停留所まで、1万2千歩、9㎞。


①西坂
・・・・・・・・・・・・目白駅と学習院大学西側の間を、山手線に沿って南南西に下り学習院下の交差点に出る坂。 古くから西坂(にしざか)と呼ばれ、学習院大にも「西坂門」の名称がある。 ところが、豊島区は平成16年(2004)に、この坂に公募で「学習院椿の坂」と命名した。、、、、、、学習院大に椿の生垣が続くことから命名したそうだが、わざわざ名を変える必要はないね! “うれない”ホステスが、“占い”で源氏名を変えるようなもの。、、、、、長さ450m、高低差15m程の緩やかな勾配の坂である。

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・・・・・・・・・・・・・・坂上(目白駅前)には、大正12年(1923)に架けられた旧目白橋の高欄の一部が残されている。 現在の目白橋は平成10年(1998)に架け替えられた。
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・・・・・・・・・・・・・・坂の下には、山手線最古の隧道のひとつで、明治18年(1885)に品川~赤羽間(山手線)が開通したときに造られたレンガ造りの新井薬師道ガードがあった。 現在の隧道(ガード)は昭和初期に道路拡張により鉄筋コンクリート造に改築された。

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②明治通り
・・・・・・・・・・学習院大の東側を掘割で抜ける都道305号で、目白通りが走る千登世橋 から神田川(高戸橋) 方向に緩やかに下っている。、、、、、“明治通り”の名が広まり、あえて、坂とは言わないようだ。
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③のぞき坂
・・・・・・・・・・・・千登世橋東側、豊島区高田2丁目にある坂。 坂上から覗き込むように急な坂で、下りは怖いし、上りは疲れる、長さ210m、最大13度の勾配は、雪が積もればゲレンデになるような坂。、、、、、助平な人は、“のぞき坂”に、坂を上る若い女性を期待するかも?

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④宿坂
・・・・・・・・・・・高田1丁目と高田2丁目の境(旧・鎌倉街道)にある坂。 坂名は宿坂 (しゅくざか)である。 目白通りの高田一丁目交差点から南に下る、長さ230m、勾配(2.3度)の急な坂道。 名の由来は、中世の頃「宿坂の関」と呼ばれる関所が設けられていたことにちなむそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・坂を下ったところに、真言宗豊山派の金乗院 がある。 江戸守護の江戸五色不動(青・黄・赤・白・黒)の随一として名高い目白不動明王が境内に祀られている。

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・・・・・・・・・・・・・金乗院の南には、同じ真言宗豊山派の南蔵院がある。 こちらは、三遊亭円朝作の「怪談乳房榎」にゆかりの寺でもある。、、、、、本堂へ上る階段は閉ざされ、さらに段上にはバラの鉢がぎっしり並べられ、手を合わせることもできない。、、、、、参る人よりバラが大切そうな寺だった。

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・・・・・・・・・・・・・南蔵院の前に、創建年代不詳の高田氷川神社がある。 社殿は空襲で被災し、現社殿は昭和29年(1954)に再建された。

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⑤名前は?の階段坂
・・・・・・・・・・・高田1丁目、宿坂と稲荷坂の間に名前不詳の階段坂がある。、、、、、、路地裏の坂か?、崖に張り付いた坂か? チョイと私好みの、なにか物語のありそうな雰囲気の坂だ!

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・・・・・・・・・・・・・坂の上から、早稲田の方角を望む。

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・・・・・・・・・・・・・坂の下には、春日局の猶子榮春法印が神田にて開山した、真言宗豊山派の根生院がある。 現在地には、明治36年(1903)に移転してきた。 裏道の小さい寺だ!

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⑥稲荷坂
・・・・・・・・・・・高田1丁目の稲荷坂も、急な傾斜の坂で、長さ150m、平均斜度3度、高低差8mである。 由来は崖地の切通し坂で、坂下では東側の富士見坂につながっている。 坂上の住宅裏に稲荷の祠があるため、古くからこの名で呼ばれている。

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⑦富士見坂/日無坂
・・・・・・・・・・・目白台2丁目交差点から下る、長さ120m、平均斜度3.8度の急な坂。 名の由来は、名前のとおり富士山が見えていた(過去形である)。

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・・・・・・・・・・・・・富士見坂の途中から分岐する階段坂は日無坂(ひなしざか)。 この坂は豊島区高田1丁目と文京区目白台1丁目の境にある。 長さ160m、かなり急な坂で、多少左右に曲がっている。 坂の名は、これもそのものズバリで、日光の当たらない狭い坂。、、、、、、、写真右に下る富士見坂、左に下るは日無坂。 

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・・・・・・・・・・・・・富士見坂の坂上(目白通り)には、昭和初期の建築と言われている「鳳山(ホーザン)酒店」がある。 いつまでも見ていたくなるような、タイムスリップした酒屋さん。

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⑧小布施坂
・・・・・・・・・・・・・・“栗は小布施(おぶせ)、坂は小布施坂(こぶせざか)” なんて、キャッチフレーズができないか? 文京区目白台1丁目は、日本女子大付属豊明小学校の西に沿って南に下る、長さ270mの、長~い、狭~い、急な坂。 明治時代に小布施新三郎という人の屋敷が近くにあったので名付けられた。

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⑨豊坂
・・・・・・・・・・・・・目白通りの日本女子大前の交番の横を南に下る豊坂(とよさか)。 坂は途中でクランク状に曲がっている。 坂下は、都電早稲田停留所から300m程のところである。 名は坂下に豊川稲荷社があるところからつけられた。

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・・・・・・・・・・・・・坂の上には、目白通りに面して日本女子大のキャンパスがある。 可愛い女の子がキャンパスに吸い込まれて行く。 

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・・・・・・・・・・・・・坂の途中には、チョイと歴史ありそうな日本女子大豊坂別館が建っている。

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・・・・・・・・・・・・・坂を下り、チョイと横に曲がると、「目白ハウス」と呼ばれる、スクラッチタイル貼りのアパート風の建物がある。 

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・・・・・・・・・・・・・・坂の下(目白台1丁目)の道路脇に、豊坂の由来となった豊川稲荷神社の小さな社を見ることができる。

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2015年9月27日 (日)

新京成線(くぬぎ山~松戸)

新京成線(起点:松戸~終点:京成津田沼)の全駅を踏破するつもりで、昨年5月に津田沼駅から歩き始め7月のくぬぎ山駅まで歩いたところで、入院して未完になっていた。 今日、残りのくぬぎ山駅から松戸駅まで歩いてきた。 2万3千歩、17km。 


①くぬぎ山駅
・・・・・・・・・・・昭和30年(1955)に開業した。 島式ホーム1面2線の橋上駅舎。

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・・・・・・・・・・・・・・駅前に本社を構える新京成電鉄。

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②陸上自衛隊松戸駐屯地
・・・・・・・・・・・・くぬぎ山駅ホームの端から北側100m程のところに駐屯地はある。 昭和15年(1940)に松戸飛行場として開設されたそうだ。 現在は滑走路などは無いが、敷地内の線路脇に、機体に『陸上自衛隊松戸駐屯地 今日もありがとう!!』と記した輸送機の一部が置かれている。、、、、、、、何が“ありがとう”なのか? 客寄せパンダ輸送機か?

・・・・・・・・・・・・・・この踏切の南側はくぬぎ山駅、北側は左右ともフェンスで囲われた駐屯地。

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・・・・・・・・・・・・・・電車は駐屯地を走り抜け、私は敷地を大回りして、、、、、次の元山駅側に駐屯地の正面ゲートがある。、、、、、、私は、過去に数か所の自衛隊基地を撮影し、不審人物と思われた経験があるので、今日は遠くから撮ることにした。 捕まって磔の刑にされるのは、嫌だからね!

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③元山駅
・・・・・・・・・・・・・京成津田沼方面からの電車は、この元山駅(もとやまえき)から松戸市内を走ることになる。 駐屯地正面ゲートから150m程住宅地の奥に入ったところに駅はある。、、、、、、昭和30年(1955)開業、2面2線相対式ホームの地上駅。

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④五香駅
・・・・・・・・・・・・五香駅(ごこうえき)は、昭和30年(1955)に開業した。 島式ホーム1面2線の橋上駅。 メインの西口は新京成電鉄の駅ビルで、銀行、書店、理容室などが入居している。 ビルは橋上の改札と結ばれている。

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・・・・・・・・・・・・・「五香」(ごこう)と読むと、花札の「五光」の役を連想したのは私だけか!、、、、、「五香」とは、何の“香り”か気になり地名の由来を調べて、ビックリ、シャックリ、チンチクリン、、、、この辺りは北総台地と呼ばれる、比較的なだらかな台地の奥にあり、水の入手が難しく未開の地であった。 明治政府は、廃藩置県で失業した武士に開墾させた。 開墾が済んだ土地に、順番に13の地名を付けたそうだ。 初富、二和、三咲、豊四季、五香、六実、七栄、八街、九美上、十倉、十余一、十余二、十余三、、、、現在の駅名、地名として残っている名が多い。、、、、、『寿限無、寿限無 五劫の擦り切れ・・・・』も地名に入れておけば良かったね!

・・・・・・・・・・・・・駅前にはロータリーが整備され、幅広い駅前道路もあるが、商店街の建物は低層の古びたビルが多い。、、、、常盤平団地、牧の原団地など大きな団地の最寄駅として、団地建設と同時期から商店街として造られたものと推測する。 商店街の建物も高齢化したようだ。

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⑤常盤平団地
・・・・・・・・・五香駅から常盤平駅までは、団地の中をチョイと見てみようと線路を外れて歩いてみた。、、、、、昭和30年(1955)に発足した日本住宅公団が、初期に開発着手した大規模団地で、新京成線沿線の松戸市金ヶ作・五香地区の一部が300万坪の宅地開発事業の対象に選ばれた。 中層集合住宅170棟(戸数5000戸近く)の団地で、昭和34年(1959)から入居が始まった。 当時は最高(?)の文化住宅だったのか、その頃入居した人は、今や高齢となり孤独死する人もいるそうだ。、、、、、デカイ団地で、今日はさわり部分だけ拝見してきた!

・・・・・・・・・・・・・桜の名所である「さくら通り」から入る。 新京成線と並行し半円状に緩やかにカーブしたメイン通り。

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・・・・・・・・・・・・・公団が建てた団地。 「E地区」だけでも約60棟、、、、全部は見てられないね!

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・・・・・・・・・・・・・・緑豊かな団地だ! 飲んで帰って棟を間違え、よその奥さんの胸を借りないように!

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⑥常盤平駅
・・・・・・・・・昭和30年(1955)に金ヶ作駅として開業し、昭和35年(1960)に 常盤平駅(ときわだいらえき)と改称した。 島式ホーム1面2線で橋上駅舎をもつ地上駅。
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⑦常盤平~八柱間
・・・・・・・・・・・・去年から「ジェントルピンク」と称するピンク色のコーポレートカラーに塗装した車両が走りだした。 2017年までに、これまでの茶色っぽい色からピンクに、全車両を塗り替える計画らしい。
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⑧八柱駅
・・・・・・・・・・昭和30年(1955)開業の八柱駅(やばしらえき)は、JR武蔵野線新八柱駅(しんやはしらえき)と接続している。 新京成は“やばしら”、JRは“やはしら”、お間違えなきように! 間違えても、どうってことないけど!

・・・・・・・・・・・・・新京成の駅。 改札は3階にあり、JRの駅とは3階で接続している。

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・・・・・・・・・・・・・・新京成の駅ビルの隣りに、JRの駅ビルがある

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⑨八柱~みのり台間
・・・・・・・・・・・線路脇に清楚に咲く花。 なんだか、自分を見ているようだ!

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⑩みのり台駅
・・・・・・・・・昭和30年(1955)開業。 相対式ホーム2面2線の地上駅。 みのり台~松戸新田~上本郷の駅間距離は短く、それぞれ0.6、0.7㎞程である。
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⑪松戸新田駅
・・・・・・・・・・・昭和30年(1955)開業、相対式ホーム2面2線を有する地上駅。 松戸までは、あと2駅。
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⑫上本郷駅
・・・・・・・・・島式ホーム1面2線を有する橋上駅で、昭和30年(1955)に開業した。
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⑬花蔵院
・・・・・・・・・・・・・上本郷駅からスタコラ歩いて、国道6号線の岩瀬交差点近くに、花蔵院(けいぞういん)がある。 正観世音菩薩を本尊とする、延宝9年(1681)創建の真言宗豊山派の寺。 緑豊かで山奥にあるような癒される寺だ。

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⑭松戸駅
・・・・・・・・・・・・・駅はJRと共同で、島式ホーム1面2線を持つ地上駅である。 JRは1~6番線を使用し、新京成は7・8番線を使用している。
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●・・・・・・・・・・・・やっと、新京成線の全駅踏破を達成しました。 自分自身に、ご苦労さま。

2015年9月24日 (木)

青砥~新小岩

京成本線青砥駅から歩き、青砥橋を渡ったら降ってきました。 『まだ、歩き始めたばかり! ここで引き返すのは男の名折れ!』と、粋がってみたが、雨は止まず、身体もしっとり濡れてきた。 あたためあい、慰めあい、励ましあう相手もおらず、男一匹どこへ行く? 濡れて、寒くて、『早く、新小岩駅に出て、帰ろう!』と、寂しい、悲しい、つらい散歩となった。 1万1千歩、8Km。


①青砥駅
・・・・・・・・・昭和3年(1928)に開業した、下町の駅。 高架下の駅前に、「ワルツの塔」がある。 ワルツ王、J.シュトラウスがバイオリンを弾く姿を模した像で、下町の駅には場違いな像だ! 私の気ままな気持ちでは、浪曲の名跡:広沢虎造の像でも置いた方が、町に合うかも?、、、、、「ワルツの塔」は、葛飾区とウィーン市フロリズドルフ区が姉妹都市になって、それにちなみ設置されたようだ、、、、、、今度は清水市と兄弟都市になって、区長と市長が兄弟の盃をかわし、次郎長の像でも置いたらいいね!

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②中原八幡神社
・・・・・・・・・青砥駅前にある、誉田別命を祭神とする八幡神社。 中原八幡神社は、中原村が開村した江戸時代初期に、旧中原村の鎮守として大永7年(1527)に創建された。 現社殿は昭和56年(1981)の再建で、総工費約5000万円也。、、、、、鳥居の前には交番があり、賽銭泥棒にとっては、商売のしにくい神社だ! 

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③青砥橋
・・・・・・・・・・・青砥駅の東側を流れる中川。  そこに架かる青砥橋は、橋上を環七通りがとおる、昭和60年(1985)開通の橋である。 この橋の開通と、青砥駅の高架化工事完成はほぼ同時期であった。、、、、、、これで、都心により近くなり、地元住民は喜び、提灯行列、花電車運転など計画したのかな?

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・・・・・・・・・・・・・青砥橋から眺める、下流(西方)の景色。 低い建物ばかりだ、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・橋の上では、空からポツリポツリと落ちてきた。 足元は、雨粒でまさに水玉模様が描かれた。、、、、、青砥駅はすぐ近く、引き返せば、濡れずにすんだのに! 

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④諏訪野八幡神社
・・・・・・・・・・・青砥橋を渡り高砂1丁目に入ると橋の右手奥に、大分の宇佐八幡宮を総本社とする諏訪野八幡神社がある。 八幡神社の創建年代は不詳であるが、当地が曲金、細田両村の間に挟まれた新宿町の飛地で字諏訪野と呼ばれる地であったことから諏訪野八幡神社と呼ばれている。、、、、、境内には、目ぼしい建物、緑もなく、話題もない。 あるのは、訪れた人のボヤキ声。

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⑤高砂一丁目アパート・
・・・・・・・・・昭和42年(1967)に建設された、総戸数:136戸の都営アパート。、、、、、、昨年、耐震補強工事も完了し、住民は『これで、当分、建て替えの話が出てこないだろう。』と安堵した様子で話していた。、、、、、、築50年にの建物には見えない!

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⑥小降り
・・・・・・・・・・・・ここいらで、雨も小降りとなり、肌寒く、服も濡れてきた。 環七通りを新小岩へ向け足早に歩くことにした。 展示場の中古車も濡れている。

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⑦妙法寺
・・・・・・・・・・奥戸8丁目にある、日蓮宗の妙法寺は、天正年間(1573~1591)に創建された。 本堂は大正15年(1926)に再建。、、、、、、雨に濡れた庭の緑が美しい!

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⑧新小岩駅
・・・・・・・・・・・・雨降られ いそぎ着いたぜ 新小岩

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2015年9月23日 (水)

彼岸の中日 (散歩の休日)

私は今日も墓参り。 東京郊外、遠く山々が望める、小高い丘の上の霊園。 空気の澄んだ気持ちの良い処だ。 仏も墓の中では窮屈なので、たまにはみんな揃って外に出て、フォークダンスで手足を伸ばし、年に2回のストレッチ、、、、、

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墓参りする私の方も、そろそろ歳で、ここまで来ると、心身ともにくたびれる。 こんなときの悲願(彼岸)の妄想は、

      女房にゃ言えない 仏が出来て 秋の彼岸の まわり道 

墓参の帰り、チョイと、生き仏の処に寄って、極楽浄土のストレッチができたら、もう、死んでもいいか、、、、、でも、こんな本音は女房に言えん。 聞こえたら、まわり道の行先が地獄になるぞ!

2015年9月21日 (月)

東急大井町線(二子玉川~溝の口)

大井町線踏破の最後、二子玉川駅から溝の口駅まで、1万歩、8Kmの散歩です。

①二子玉川駅・・・・・・・・・・明治40年(1907)、玉川電気鉄道の玉川駅として開業したが、現在は二子玉川駅になり、田園都市線と大井町線が乗り入れる、若い人に人気の駅。 二子玉川~溝の口間は、複々線化されて田園都市線と大井町線の両線が走っている。、、、、、昭和41年(1966)に田園都市線が高架駅となり、以後、改良工事も行われ、現在は島式ホーム2面4線の高架駅となり、両側の1・4番線を田園都市線、中央の2・3番線を大井町線が使用している。 

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・・・・・・・・・・・・・長編成の電車が発着するため、駅敷地のスペースもなく、ホームの半分は多摩川の河川敷にはみ出している。

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・・・・・・・・・・・・・ホームの溝の口寄りに立つと、多摩川をこえた先に、お客の姿までは見えないが、隣の二子新地駅のホームが見える。 

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②二子橋
・・・・・・・・・・・二子橋は片側1車線、人道は下流側のみの道路橋であるが、昭和41年(1966)までは、橋の中央に単線の線路がひかれた鉄道道路併用橋であった。 東京都側は多摩川通りに接続し、神奈川県側は大山街道に接続している。、、、、、、大正14年(1925)に竣工した、橋長440m、幅員11mの橋。 戦後の高度成長期まで、11m幅の中央に電車が走り、左右に1車線の車が走り、その隙間を人が歩き、、、、、渡るのが怖かったかも?

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・・・・・・・・・・・・・現在は下流側に東急の二子橋梁が架かっている。 ホームが川の上にあるのが判る。

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・・・・・・・・・・・・・・上流側には、昭和49年(1974)に竣工した新二子橋がみえる。

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・・・・・・・・・・・・・橋を渡り、大山街道の入口に、二子橋の親柱が残されてた。

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③二子新地駅
・・・・・・・・・・昭和2年(1927)、玉川電気鉄道溝ノ口線の「二子」停留所として開業。 昭和10年(1935)に「二子新地前」に改称し、 昭和41年(1966)には、相対式ホーム2面4線を有する高架駅となった。 その後、駅名も「二子新地」と改称し“前”がなくなった。、、、、と言うことは、三業地として“男の歓楽街”が消えてしまったのである。 残念、無念、坊主の邪念!、、、、、でも、“新地”とは、何となく艶っぽい言葉の響き、いい駅名だね!

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・・・・・・・・・・・・・蛇足だが、、、、当時の駅名「ふたこしんちまえ」を車内放送すると、お客には 「つぎは、ふたこしんちまえ~」というアナウンスが、「次は、双子、死んじめぇ~」と聞こえたそうで、不評だったそうだ。、、、、ナルホド、ナットク、ホットドック! ホントか? 


④二子神社
・・・・・・・・・・駅の北に天照皇大神が鎮座する二子神社がある。 神社は寛永18年(1641)創建といわれている。 江戸時代の社殿は拝殿二間に三間、本社三間四方、南向きに建っていたと風土記に書かれているらしい。、、、、、現社殿は、昭和18年(1943)に建てられた。

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・・・・・・・・・・・・・・境内には、バクハツする彫刻家:岡本太郎(1911~1996)の、母で作家:岡本かの子(1889~1939)の碑がある。 制作はもちろん岡本太郎。

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⑤光明寺
・・・・・・・・・・・真宗大谷派の光明寺は、創建年代不詳だが、寛永18年(1641)に百姓と共に、二子村の現在地に移ってきたといわれている。、、、、、、現本堂は、浄土真宗地方本堂の様式をとどめ、街中の寺院であるが落着いた佇まいをみせている。

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⑥高津駅
・・・・・・・・・・手前の二子新地駅と同様に、昭和2年(1927)の開業。、、、、、相対式ホーム2面4線を有する高架駅。

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⑦大山街道
・・・・・・・・おもに江戸時代、関東各地から相模国大山にある大山阿夫利神社への参詣者が通った古道の総称で、「大山街道」と呼ぶ。 その一つが、「青山通り大山道」で、矢倉沢往還とも呼ばれる。 赤坂(東京都)をスタートし、渋谷、三軒茶屋、二子の渡し(多摩川)、溝口(川崎市)、長津田、海老名、厚木、伊勢原市、を経て大山へ至る道。、、、、、、二子新地から溝の口間の、大山街道を歩いてみた。 二子神社光明寺なども街道沿いの寺社である。

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・・・・・・・・・・・・・・・江戸時代からの薬屋。昭和35年(1960)まで店として使われた蔵。

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・・・・・・・・・・・・・・・大山道の道標

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・・・・・・・・・・・・・・街道が横切る二ヶ領用水

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・・・・・・・・・・・・・・

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⑧溝口神社
・・・・・・・・・・溝の口駅の北側に位置する神社は、創建年代不詳ながら赤城神社と称して溝の口村の鎮守社だった。 明治維新後、伊勢皇大神宮よりから分霊を勧請して祭神を天照皇大神に改めて、溝口神社と改称、村社となった。、、、、、群馬の“赤城山”では、チョイとマイナーで、お札・お守り・おみくじの売れ行きも良くないので、次回サミットが開かれる“伊勢”から人気ある皇大神宮を呼び寄せ、売り上げ拡大を狙ったわけだな! (勝手に、勘ぐってみたりして、ゴメン!)

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⑨溝の口駅
・・・・・・・・・・・・ここも、昭和2年(1927)、玉川電気鉄道溝ノ口線の溝ノ口駅として開業した。 島式ホーム2面4線を有する高架駅で、大井町線の終着駅である。 

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・・・・・・・・・・・・・・大井町線の終着:溝の口駅には車止めは無く、線路は田園都市線に入って行く。

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●・・・・・・・・・・・・これにて、大井町線の全18駅踏破を達成! 

2015年9月20日 (日)

彼岸の入り

本日は「彼岸の入り」、我が家でも墓参りです。 私が墓参するのは、八王子の霊園、松戸の霊園、千葉の寺と都心でなく、郊外にある墓ばかり、どこに行っても一日がかりの年中行事。、、、、、これで、季節も変わり、、、、、「二人で 抱き合う ひとつの 布団 暑さ 寒さも 彼岸まで」

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2015年9月19日 (土)

高砂~小岩

京成本線高砂駅から総武線小岩駅まで、1万歩、7㎞の散歩です。 (昨年の1月22日に、ほぼ同じコースを歩いている。)


①高砂駅立体化
・・・・・・・・・・・・葛飾区と江戸川区が、高砂駅~京成小岩駅間の“開かずの踏切”対策として、立体化の調査を始めた平成13年(2001)から、14年経過したがが実現のはなしは聞こえてこない。 あと20年はかかるだろうな!  

・・・・・・・・・・・・・“開かずの踏切”として有名な高砂駅前の高砂第1号踏切。 駅からは、本線、北総線、高砂検車区への入出庫線などがのび、遮断機の開閉も多い!

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・・・・・・・・・・・・・色あせてきた旗がなびく駅前。

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②都営高砂アパート
・・・・・・・・・こちらは、建て替えも進んできた団地。 

・・・・・・・・・・・・・都営高砂団地は、昭和38年(1963)~昭和44年(1969)にかけて建設された、総住戸数1263戸の大規模団地であった。 全ての住人は立ち退き、残っている建物は全て閉鎖され取り壊しを待っている。、、、、、、すてられたランドセル、雑草に混じり咲く彼岸花、思いである人には悲しい光景だ!

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・・・・・・・・・・・・・古い建物の内、団地中央に在る商店街の建物2棟は、郵便局・診療所・薬局など営業中の店舗があり残されている。 住居部分は立ち退き済み。、、、、、、人影も少ない寂しくなった商店街だ!、、、、、いずれ、この建物も壊される運命だ!

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・・・・・・・・・・・・・団地の南側から建て替えは進められており、バリアフリー仕様の幾つかの新しい棟は完成し、約900戸程の入居も終わっている。

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・・・・・・・・・・・・・都の計画では、団地の建て替えにより、創出される土地には京成の車庫などを移転させ、立体交差化に向けた基盤整備を進めていくらしい。、、、、、中央には給水塔の跡が残る。

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③ドングリ
・・・・・・・・・・・マンションの庭先で、秋の味覚?

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④旧石川島播磨重工社宅
・・・・・・・・・葛飾区鎌倉1丁目にて、『アレ、メゾネットの公営住宅?』と思わせる、建物が10棟近く並んでいる。 『でも、チョイと変だ! 玄関ドアのデザインがバラバラ。』、、、、、、住人のおじさんに聞くと、『ここは、戦後、石川島播磨が社宅として建て、その後、住人に払下げた建物。 払下げた後は、住人が玄関などを直し、現状になった』そうだ。 話しを聞いた、50歳代のおじさんも、お父さんが石川島播磨の社員だった。、、、、、ここで、専門用語の解説・・・・・メゾネットタイプとは、各住戸が2階(以上)建てになっている、内階段のある集合住宅。

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2015年9月16日 (水)

矢切~市川真間

北総線矢切駅から下総国分寺に寄って京成本線市川真間駅まで、1万1千歩、8Kmの散歩です。



①中原寺
・・・・・・・・・・矢切駅の南:国府台5丁目に、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の中原寺(ちゅうげんじ)がある。、、、、、古くは天台宗で開基学禅坊が、甲斐国山梨郡牛奥村に一寺を建立したことに始まる。 その後、寺は山梨県勝沼で十数代にわたり相続されてきたが、慶応4年以後無住寺院となる。 現住職の祖父と父(前住職)が、大正2年(1913)、石川県能登より首都開教の志から東京荒川区に真宗教会を開設した、昭和22年(1947)には前住職が中原寺の寺基を現在地に移転し、再び創建された。、、、、『歴史のある、新しい寺』と言うことだ!

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・・・・・・・・・・・・・・ここで一句 「柿食えば 渋くてペッペ 中原寺」

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②じゅん菜池緑地
・・・・・・・・・・・市川市国府台と国分の両台地の間に、深く入り込んだ細長い沼があった、これを国分沼と称した。 この沼にはじゅん菜がたくさん生えていたことから、じゅん菜池と呼ばれていた。 昭和初期に沼は涸れ、戦後は田圃となったが、昭和54年(1979)に現在のじゅん菜池緑地に復活・整備された。、、、、、こちらは、『歴史ある、新しい池』

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③下総国分尼寺跡
・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・じゅん采池緑地から南東にあるき、台地に上る階段をのぼる。

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・・・・・・・・・・・・・「和洋国府台女子中学校」の裏手に出ると、下総国分尼寺の跡があり、公園として整備されている。、、、、ここで一句 「夏草や 尼が捨てたか ガムの跡」

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④下総国分寺
・・・・・・・・・・国分尼寺の南東300m程のところに、薬師如来を本尊とする、真言宗豊山派の国分山国分寺がある。 奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうちの下総国分寺の後継寺院で、当時の伽藍跡に現:国分寺がある。

・・・・・・・・・・・・・・南大門・・・・・・・・・昭和49年(1974)に再建された、天平様式の南大門である。、、、、、、奈良時代の南大門とは、位置、大きさなども異なるようで、チョイとまぎらわしいね!

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・・・・・・・・・・・・・・本堂・・・・・・・・・・現:本堂のある位置は、かつて国分寺の金堂が在った場所だ。 では、当時の本堂はどこかと言うと、現本堂の裏に広がる墓地の中央に在ったそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・境内の外にも残る、かつての国分寺跡
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⑤宝珠院
・・・・・・・・・・・・・国分寺の前にある、チョイと小ぶりの寺院は、真言宗豊山派の宝珠院。、、、、、、枯れた雰囲気の山門が、私を引き付け中へ誘う。 本堂前に置かれた巨大なヤカン、『これは、何だ!』、、、、、特別な理由はなく、なんとなく置いたそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・・やかんを見て、思い出した大分の歌、、、、♪♪ やかん 金柑 酒の燗 子供に羊羹 やら 泣かん 親が折檻 子は聞かん 田舎のねえちゃん 気が利かん 相撲とりゃ裸で 風邪ひかん ♪♪


⑥六所神社
・・・・・・・・・・・市川市須和田に鎮座する神社で、祭神として伊弉諾尊、素盞嗚尊など、6柱が祀られている。 神社は、以前、国府台のスポーツセンターの位置に鎮座していたが、明治19年(1886)に陸軍練兵場造成のため、神主の屋敷地があった現在地に移転させられた。

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・・・・・・・・・・・・・・ビックリ、シャックリ、驚きの賽銭箱。、、、、、虎の子の賽銭を、虎の檻に入れた神社。、、、、、、賽銭を取り出す、泥棒も、神職も、一苦労だね。 互いに協力して開けたらいいかも?

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⑦旧京成電鉄社員倶楽部
・・・・・・・・・・・・・・市川真間駅 の前に残る京成電気軌道(現京成電鉄)の福利厚生施設として建てられた。 しかし、建物は昭和4年(1929)の竣工直後に葛飾瓦斯(現京葉ガス)の本社となりました。 その後も幾多の変遷を経て昭和20年から個人住宅となり現在に至る。

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2015年9月15日 (火)

スカイツリー

   天空へ 一緒にのぼる 約束し 

   「イク(行く) イク(行く)」と 甘い声だし ねだる妻 

   「マダ マダ 」と ひっしに延ばす ダメ夫 

   とうと二人は 一つとなって 念願叶え のぼっタワー

、、、、、、、平成24年(2012)5月に完成したスカイツリーだが、隣りの区に住む都民としては、この3年間一度も上ることはなく、足下の商業施設:「東京ソラマチ」ばかり訪れていた。、、、、、、妻には、「のぼるときは一緒に行こう」と言い。 本音は、高所恐怖症の気(ケ)があるようで、「怖い」の一言。、、、、、ところが、先日、ひょんなことから、妻より先に私がのぼってきた。 妻は「一緒に行く約束だったでしょ!」、私は「ゴメンゴメン、怖くないぞ! ヨシ、今度連れて行く!」、、、、、、そして、今日、二人でのぼってきた。

●・・・・・・・・・・地下鉄降りて 見上げるタワー 怖さ堪えて ヨシのぼる!

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●・・・・・・・・・・・・怖さ隠して 行列並び 寡黙な男で 一時間

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●・・・・・・・・・・・・展望台 足を踏み出し 怖くは無いぞ 俺は男だ! 江戸っ子だ! 

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●・・・・・・・・・・・シースルーのエレベーターで、最高の「展望回廊」(450m)へ、、、、、、乗ってビックリ 見えるぞ空が いそぎ目を閉じ 南無阿弥陀仏 

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●・・・・・・・・・・・・手摺にぎって 窓側さけて 上る回廊 目が回る

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●・・・・・・・・・・・・怖い怖いと 空から戻り 甘いあの娘は 生き仏

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2015年9月14日 (月)

鶯谷~浅草

根岸の町を歩くつもりで鶯谷駅から歩き始めた。 途中、三島神社で几号水準点(きごうすいじゅんてん)を見たら気が変わり、橋場の几号水準点を見て浅草まで。 1万2千歩、9㎞の散歩となった。



①根岸3丁目の洋館
・・・・・・・・・・・・鶯谷駅前のラブホテル街を突き抜け、言問通りを越えた根岸3丁目の裏通り奥に洋館風の建物がある。 写真、右側には、医院風の建物、突き当りには洋館。

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・・・・・・・・・・・・・・・空き家となり取り壊しを待っている、青い瓦の医院風の建物には、玄関右に「酒井工務店」、左に「下谷区上根岸町十七番地」の表札が架かっている。、、、、、下谷区が台東区に変わったのは昭和22年(1947)のである、この建物はせんぜんの建築か?、、、、、、玄関には「解体工事のおしらせ」が貼られ、2014年1月着工と記されているが、遅れているようだ。 

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・・・・・・・・・・・・・・・陸奥宗光旧別邸・・・・・・・・・・陸奥宗光(天保15年(1844)~明治30年(1897))は幕末から明治にかけて活躍した政治家:外務大臣で、不平等条約の解消に努めた。、、、、、、陸奥宗光の邸宅は現在の古川庭園 である。(のちに、宗光の次男・潤吉が古川財閥創業者:古川市兵衛の養子となったため、古河家に所有が移った。) 根岸のこの洋館は明治20年(1887)頃、三井家から献上され、ここで諸外国の外交官を招きパーティーも行われたそうだ。、、、、、、現在は、庭も無くなり、洋館部分が残っているだけ。 区などで所有し、整備し保存できないものか?

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②根岸3丁目の建物
・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・関東大震災の頃から建っていた、モルタル塗り看板建築の4軒長屋。 

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・・・・・・・・・・・・・・以前は、旅館?、下宿?、、、、?

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③三島神社
・・・・・・・・・・・金杉通りを挟み根岸4丁目の向かい側下谷3丁目に三島神社がある。 神社は、弘安の役で勇名を馳せた河野通有の発願により、彼の出身地に鎮座する三島神社を、弘安4年(1281)に勧請、創建したと言われている。 鶯谷駅前の元三島神社、台東区寿の三島神社の三社は、元は一つの神社であり、由緒も共通している。、、、、、、つまりは、兄弟神社である。 

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・・・・・・・・・・・・・・几号水準点、、、、、、三島神社の北門の敷石に几号水準点が標されている。、、、、、、今月は、鳥越神社、湯島天神  ニコライ堂 と几号水準点を見て来たので、今日の散歩はここで、『台東区根岸の散歩』から『台東区橋場の几号水準点を見てみよう』と変更した。

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④橋場に向かう・
・・・・・・・・台東区橋場は、隅田川沿いの町で白鬚橋の西詰だ、、、、、昭和通りを渡り、竜泉の飛不動を通り、吉原を横目でチラリ、山谷を抜けて行く。

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⑤旧東京北部小包集中局
・・・・・・・・・・現在は台東区が取得し、台東清掃事務所清川清掃事務所車庫として使用中。、、、、、明治20年(1887)逓信省発足以来、逓信省出の建築家が多数う輩出され、その建築作品は独特のスタイルを創りだしていた。 郵政省となった、戦後もその伝統は引き継がれ、「郵政建築」として多くの作品が残されている。 その特徴は、各階全面に庇を回し、シンプルなスタイルとなっている。、、、、、そのデザインを受け継ぎ、昭和42年(1967)開局し、平成2年(1990)には他局と共に、廃止・統合した郵政省の建物が東京北部小包集中局である。、、、、、建物のデザインが旧東京国際郵便局 旧東京貯金事務センターなど、似てるでしょ!

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⑥橋場の名所
・・・・・・・・・・・チョイト、台東区橋場の名所を紹介!

・・・・・・・・・・・・・平賀源内の墓が、旧東京北部小包集中局の近くにある。 エレキが発生して危険なのか、塀に囲まれ、扉は閉められている。 合鍵がなくても入れます。

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・・・・・・・・・・・・・おばけ地蔵、、、、、、、この石仏は享保6年(1721)の建立。 かつて大きな笠をかぶり、その笠が向きをかえたから、あるいは高さ3m余の並はずれて大きいからなど、いくつかの伝承があるが真偽不明?

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・・・・・・・・・・・・・橋場不動尊、、、、、、お不動様ご真言『ナーマーサーマン・ダーバーサラナン・センダーマーカロシャーナー・ソワタヤウンタラ・ターカンマン』だって! ナンノイミーダローカ・サーッパリーワーカラン・ウントコドッコイ・ホイサッサ

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・・・・・・・・・・・・・長屋、、、、、、5軒長屋+1軒+7軒長屋。 もちろん木造です。 

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・・・・・・・・・・・・・・煉瓦の蔵、、、、、、、駐車場の片隅に建つ蔵。 何時、建てられた蔵なのか? 何時まで経っても解決しない問いだ!

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⑦橋場の几号水準点
・・・・・・・・・・・・・白鬚橋西詰と言問橋西詰をとおり隅田川に並行する道路上に2か所、几号水準点がある。 どちらも、歩道の中央に在り、道路舗装工事で、いつのまにか覆い隠されてしまうか判らない! 風前の灯である。、、、、、「いつまでも あると思うな 几号の石。 夢も 几号も なくなるよ!」

・・・・・・・・・・・・・建材店前の几号水準点、、、、、、、建材店(台東区橋場2-1-17)の前に埋められている。 こうなった経緯は不明?

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・・・・・・・・・・・・・今戸教育会館前の几号水準点、、、、、、、今戸教育会館(台東区今戸2-26-12)の前に埋められている。 舗装する人も、これがなんだか判らずに、貴重な埋設物と思いこみ頭だけ見えるようにしているのかな?

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2015年9月12日 (土)

聖橋

我が家(浅草橋)から湯島聖堂、ニコライ堂を回って、神田志乃だ寿司に寄って我が家に戻る、1万2千歩、9㎞の散歩です。



①昌平橋ビル
・・・・・・・・・・・神田川に架かる万世橋と聖橋の間に昌平橋 がある。 この橋の左岸にどこにでもありそうな都住宅供給公社の集合住宅「昌平橋ビル」が建っている。、、、、、昭和41年(1966)竣工の地上10階/地下1階建てのビルで、1階から4階までが事務所。5階から上は戸数42戸の公共住宅「昌平橋住宅」である。 この建物も耐震性に問題があることから、今年の10月に取り壊しが始まるらしい。、、、、、私がゼネコンに勤務していた頃、先輩達が施工した建物で、また、思い出のある建物が一つ消えることになった。 残念!

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②湯島聖堂
・・・・・・・・・・・元禄3年(1690)、将軍徳川綱吉によって建てられた孔子廟。 明治時代には、昌平坂学問所として私塾が開かれ、以後、聖堂構内には、現在の国立博物館、筑波大(東京教育大学)、お茶の水女子大などが同居した。大正12年(1923)の関東大震災で建物は悉く焼失した。、、、、、、、現在の大成殿は、昭和10年(1935)に伊東忠太(築地本願寺 などを手がける)の設計、大林組の施工で、鉄筋コンクリート造で再建された。

・・・・・・・・・・・・・・仰高門、、、、、、お寺に例えると山門だね。

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・・・・・・・・・・・・・入徳門、、、、、、中門というところかな。

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・・・・・・・・・・・・・大成殿、、、、、、、お寺であれば本堂だ! 黒塗りの重厚な建物。
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・・・・・・・・・・・・・・大成殿から眺めるニコライ堂。

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・・・・・・・・・・・・・・昭和50年(1975)に中華民国から寄贈された、世界で一番大きな孔子像。

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・・・・・・・・・・・・・湯島聖堂を維持・管理する公益法人の“斯文会”の「斯文会館」。 こちらも、伊藤忠太の設計で昭和9年(1924)に鉄筋コンクリート造により建てられた。

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・・・・・・・・・・・・・聖堂の周囲は築地塀が囲んでいる。 東日本大震災では、塀の損傷が著しく、数年前まで補修工事が行われていた。

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③聖橋
・・・・・・・・・・・・・湯島聖堂とニコライ堂の二つの聖堂を結ぶ聖橋。 特徴的なアーチ構造のコンクリート橋で有名である。 建築家:山田守(1894-1966)の設計、東洋コンプレッソルの施工で、昭和2年(1927)に竣工した震災復興橋の一つ。 長さ72.9m、幅22.0m、工事費は約80万円である。、、、、、、現在は、橋の下で御茶ノ水駅の改良工事が行われており、チョイと名所の風景も変わったものになっている。

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・・・・・・・・・・・・・上の写真と同じ位置から撮った、昭和4年頃の聖橋

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・・・・・・・・・・・・・現在の聖橋

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④ニコライ堂
・・・・・・・・・・・ニコライ堂(=東京復活大聖堂)は、岩崎邸 を手掛けたジョサイア・コンドルの設計で明治24年(1891)に竣工した。 その後、関東大震災によりドームが崩壊し、昭和4年(1929)に修復された。 国内最大級のビザンチン様式の建築で、国の重要文化財。、、、、、、何時みても、豊満なロシア美人のような雰囲気の教会で、好きな建築の一つである

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・・・・・・・・・・・・・敷地内の教会の正面に府主教庁の建物がある。 こちらも古そうだが年代不詳。

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・・・・・・・・・・・・・この建物の横の外壁に、几号水準点 がある。 吹き付け塗装が施され、よく見ないと識別できなくなったが、明治時代から残されている水準点と思われる。

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⑤TA邸
・・・・・・・・・・・・ニコライ堂前の本郷通りを挟み、東側のビルの谷間に和風建築がある。 関東大震災直後に伊勢丹の初代社長:小菅丹治の隠居処として建てられた建物だそうだ。 しっかりした石垣の上に建つ、入母屋造の建物は、大正末期の住宅建築として貴重なものである。、、、、、、ちなみに、伊勢丹は「伊勢屋丹治呉服店」として明治19年(1886)に神田旅籠町(現在のTA邸の近く)で発祥した。

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⑥神田志の多寿司
・・・・・・・・・・創業明治35年(1902)の当時より、まろやかな甘味の稲荷寿司と、じっくりと煮込まれたかんぴょうと上質の海苔を使ったのり巻で、評判の味である。、、、、、、私は、幼き頃秋葉原で育ち、この味に慣れている。 今日は出がけに妻から買ってくるよう頼まれ、散歩の〆はこの店となった。、、、、、ちなみに、人形町には「志乃多寿司総本店」があり、神田はコチラの暖簾分け。

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2015年9月11日 (金)

東急大井町線(九品仏~二子玉川)

雨もあがり、久しぶりに朝から青空、東急大井町線の九品仏駅から二子玉川駅まで、1万2千歩、9㎞の散歩です。


①九品仏駅
・・・・・・・・・・・・今日は駅の北側にある浄真寺 に寄らず、南側の住宅街を歩いた。

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②線路沿いを歩く
・・・・・・・・・・線路の南側(尾山台3丁目)を歩く。、、、、自由が丘~二子玉川間が開通した昭和4年(1929)当時の尾山台3丁目は、田圃が広がり、民家もほとんど無かったようだ。、、、、、現在の線路の北側(等々力5)は、人も羨む高級住宅街である。(私も羨み、今日は歩かず。)

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③尾山台駅
・・・・・・・・・・大井町線の開通から1年遅れの昭和5年(1930)に、島式ホーム1面2線の地上駅として営業を開始した。 昭和39年(1964)に、現在の相対式ホーム2面2線に改築。 改札は方面別にそれぞれ一か所ずつある。、、、、、、東京都市大学(旧武蔵工業大学)世田谷キャンパスの最寄駅だが、学生の姿が少ないようだ。 まだ、夏休みボケで寝ているのか?

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・・・・・・・・・・・・・・・駅前から等々力駅の方を望む。、、、、、、、、等々力駅まで、線路は真っ直ぐ伸びている。 ちなみに駅間の距離は500mと短い。

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・・・・・・・・・・・・・等々力2丁目の住宅街、、、、、、静かな町のようだね。

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④等々力駅
・・・・・・・・・・・・昭和4年(1929)に開業した1面2線の地上駅。 上り線と下り線に挟まれて駅舎があり、改札を出ると必ず上下どちらかの踏切を渡らないと、道路に出られない。、、、、、、駅構内が狭く、九品仏駅と似ている。、、、、、、輸送力を増やし、混雑を緩和するため、等々力駅を地下駅にして急行通過線を増設する計画があるが、駅の地下化工事により近くの等々力渓谷の湧水が妨げられ、渓谷の自然が破壊されるとの懸念から、工事に反対する住民の声が上がった。 計画の実現は難しいようだ!

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⑤等々力渓谷
・・・・・・・・・・・・渓谷を流れる谷沢川(やざわがわ)は、世田谷区桜丘を水源とし、多摩川まで流れ下る、ナント!総延長3.7㎞の一級河川である。 谷沢川は等々力駅の西側から等々力渓谷公園として整備され多摩川へ向かう。、、、、、、今日は“さわり”の部分をチョイと歩いてみた。、、、、、、雨上がりのしっとりとした遊歩道を歩くと、心地よい風が肌を撫でてくれる。 二人で歩けば、しっとり濡れるかも?

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⑥雨上がり
・・・・・・・・・好みの傘はどれ?

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⑦上野毛1丁目の大井町線
・・・・・・・・・・
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⑧上野毛駅
・・・・・・・・・・・・昭和4年(1929)、目黒蒲田電鉄の二子玉川線の駅として開業。、、、、、、旧木造の駅舎は取り壊され、現在は平成23年(2011)に安藤忠雄の設計、鹿島建設+東急建設の施工で竣工した新駅舎となっている。 この駅舎は掘割を走る線路上に陸橋が架かり、橋上はバスも走る公道である。 この公道の両側に向かい合って「正面口」と「北口」という改札口がある。 それぞれの駅舎は公道をまたぐ大屋根でつながっている。 大屋根は大きな穴が開いており、青空も見える特徴的なものである。

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⑨五島美術館
・・・・・・・・・・・上野毛駅から歩いて数分、五島家の住宅の隣りに、五島美術館がある。 昭和35年(1960)に開館した、日本・東洋の古美術を中心に、『源氏物語絵巻』、『紫式部日記絵巻』などの国宝5件、重要文化財50件を含む約5000件の収蔵品を誇る美術館。 もちろん、東急を創設した実業家:五島慶太のコレクションである。、、、、、美術館の敷地は五島邸の敷地の一部(約6000坪)が提供された。 武蔵野の面影残す雑木林が庭園を特徴づけている。 本館の建物は、芸術院会員:吉田五十八(1894~1974)による設計。しました。 寝殿造の意匠を随所に取り入れた建物は、昭和36年(1961)、第二回建築業協会賞を受賞した。

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・・・・・・・・・・・・・・美術館の隣りには五島家の住宅がある。

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・・・・・・・・・・・・・美術館(左側)脇の掘割を大井町線は走る。 正面は「楽天クリムゾンハウスアネックス」ビル。

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⑩二子玉川駅
・・・・・・・・・・・明治40年(1907)に玉川電気鉄道(東急玉川線)玉川駅として開業。 戦後は、遊園地の復活に合わせ、「二子玉川園駅」と改称する。 昭和60年(1985)には遊園地が閉園したが、駅名はそのまま使用していた。 平成12年(2000)に、二子玉川とした。、、、、、大きな駅で、年寄りには疲れる駅だ!

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2015年9月10日 (木)

大雨で、今日も散歩は休み

連日の大雨により、とうと栃木県では、50年に一度あるかないかの大雨で「大雨特別警報」が発せられた。 栃木、埼玉、千葉では河川の氾濫情報が流され、なんだかヤバそうだ!。

ここいらで、わが町の状況を偵察すべく、チョイと“御近所”を一回りしてきた。 4千歩、3㎞。

●・・・・・・・・・・・まずは、小降りの中を浅草橋駅西口(秋葉原側)へ、、、、、道路に出っ張ったホームの下は、傘を持たない人には、嬉しい歩道!

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●・・・・・・・・・・・駅前のカフェバーでは、昨夜から店先で呑み、酔いの醒めぬ娘が呼んでいた、、、、、雨の中、そんな格好して、風邪ひくよ!

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●・・・・・・・・・・・神田川、上流側から左衛門橋、浅草橋、柳橋の順に、橋が流されていないことを確認。 安心したよ!、、、、、、柳橋は、今も昔も女性の後ろ姿が似合う橋。

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●・・・・・・・・・・・・茶色く濁った隅田川。 まだ、川は氾濫していない。、、、、安心、安心、ひと安心。

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2015年9月 5日 (土)

九品仏

東急大井町線完全踏破を目指し、今日は九品仏駅から二子玉川駅まで歩くつもりで家を出た。 九品仏駅で下車し、駅名の由来となった浄真寺にチョイと立ち寄る。 参道にて、浅草神社の神職と称する方と親しくなり、境内を案内していただいた。 駅名になるほどの大きな広い寺を、堂宇は中に入り、庭の木々を1本ずつ、墓地は個々の墓の前で、親切・丁寧な説明をしていただいた。 お別れするまでタップリ2時間の拝観となり、後姿に頭を下げて、『今日の散歩はこれでおしまい!』と囁き、再び九品仏駅に戻り帰宅。 8千歩尾、6㎞の散歩。


九品仏駅
・・・・・・・・・・・・九品仏(くほんぶつ)駅は、二子玉川寄りの車両一両だけドアが開かない、ホームの短い駅である。 現在は全て大型車両(20m)5両にて運転されているが、昭和50年代に、大規模な東急車両の配転が行われ、一時、大型車両5両と、中型車両(18m)6両が混在した運転が行われた。 この時は、中型車両の2両がドアの開かない運転だった。

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・・・・・・・・・・・・・中延駅ホームの乗降位置に標されていた、『九品仏ではこの車両のドアは開きません』。

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②九品仏浄真寺
・・・・・・・・・・・・・正式には「九品山唯在念仏院浄真寺(じょうしんじ)」と言う、浄土宗の寺で京都知恩院の末寺。 浄真寺は、秀吉の小田原征伐後に廃城となった世田谷吉良氏の奥沢城の跡地に、延宝6年(1678、=徳川四代将軍家綱の時代)に開山した。 今でも、城跡と思わせる参道・総門の配置、土塁の遺構なども見られる。

・・・・・・・・・・・・・・九品仏駅から参道が伸ている。 奥沢城の時代の参道は、ポストの左側の細い道だけだったらしい。

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・・・・・・・・・・・・・・閻魔堂、、、、、、総門をくぐり右手に閻魔堂がある。 正面の大王の横に「葬頭河婆(そうずかば)=奪衣婆(だつえば)」も控えている。 堂の前には、亡者の生前の罪の重さを計る衣領樹(えりょうじゅ)と書いた木がある。、、、、、奪衣婆とコンビを組む懸衣翁(けんえおう)は、本日は修理のため留守だった。

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・・・・・・・・・・・・・仁王門、、、、、、寛政年間に建立された仁王門の上層には二十五菩薩が、下層には阿吽の仁王像が安置されている。 寺の伝統行事「お面かぶり」は、この二十五菩薩の面をかぶり、本堂(現世)と三仏堂(彼岸)の間に架けられる橋を渡り行き来するそうだ。 4年に1回行われる行事で、お面をかぶることができるのは、昔は“講”の人だったが、現在は檀家の人がかぶるそうだ。 ちなみに、かぶることのできる人は3万円払うらしい(?)。

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・・・・・・・・・・・・・綺麗に手入れされている庭。 聞いた話では、、、、現住職の奥様が、庭の石・樹木も整備されたらしい。 真偽の程は?

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・・・・・・・・・・・・・・本堂、、、、、、、元禄11年(1698)に、本堂(=龍護殿)の正面に向かいあう三仏堂と共に建てられた。 総欅造りの11間四面の堂。 昭和42年(1967)に修築し、かや茸屋根を銅茸にかえた。、、、、、、本堂には釈迦牟尼仏を中心に、善導大師、法然上人の像などが安置されている。 堂の奥の隅には、身体の悪いところを撫でると治る、ぴんずる尊者像がある。 私は像の身体じゅうを撫でてきた。

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・・・・・・・・・・・・・・三仏堂、、、、、、、本堂正面に向かい合う三つの堂(元禄11年~12年建立)には、それぞれ3体の丈六の阿弥陀如来9体があり、右から中品、上品、下品の位があるので九品仏といわれている。 本堂の現世に対して、三仏堂は浄土の彼岸をあらわしている。、、、、、関西の九品仏として、京都の木津川市(奈良若草山の北側)にある浄瑠璃寺を思い出した。

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・・・・・・・・・・・・・・三十三観音、、、、、、、案内してくれた方が「綺麗な観音様が祀られているから見て行きなさい」と教えてくれた観音堂。 “綺麗”、“観音様”と聞いては、見て行かずばなるまい! 小さな観音堂で、一人で扉を開け、一人でこもり、一人で合掌、仏の道に帰依したような気分で観音様を見つめてみた。、、、、、、『ウム~、なるほど綺麗だ!』、、、、、、堂を出て『チョイと色気が足りないね!』

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・・・・・・・・・・・・・墓地では、著名人の墓のいくつかを案内していただいた。 まずは、観世流家元の墓

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・・・・・・・・・・・・・俳優:実業家(洋食屋「紅花」のオーナー):ロッキー青木(1938~2008)の墓

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・・・・・・・・・・・・・五島慶太の墓、、、、、正面は五島家、その左側に五島慶太の墓

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・・・・・・・・・・・・・・クレージーキャッツの石橋エータロー(1927~1994)が眠る石橋家の墓

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・・・・・・・・・・・・・巨人軍名誉監督家の墓

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・・・・・・・・・・・・・山久運輸を創設した中村家の墓、、、、、真後ろに菊田一夫の墓がある。

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・・・・・・・・・・・・・「君の名は」、「放浪記」の菊田一夫(1908~1973)の墓

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●・・・・・・・・・・・・・・・・きっと、再び訪れたくなる、印象深い寺であった。

2015年9月 4日 (金)

浅草橋~水道橋

我が家(浅草橋)から本郷・春日を抜けて水道橋駅まで、1万2千歩、9㎞の散歩です。

①蔵前橋通り・・・・・・・・・・・我が家から蔵前橋通りに出て、西へ向かうことにした。 蔵前橋通りの西端は文京区本郷3丁目のサッカーミュージアム入口交差点だ。 まずは、西端まで歩いてみよう!

・・・・・・・・・・・・・・・散歩のスタート地点:鳥越神社前で蔵前橋通りに出る。

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・・・・・・・・・・・・・・・台東一丁目交差点で昭和通りと交差する。

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・・・・・・・・・・・・・・続いてJRの練塀橋架道橋の下を抜ける。、、、、、、架道橋上には合計10本の線路が敷かれている。 架道橋の桁は東側(昭和通り側)から、留置線の4線分が平成2年(1990)の施工、縦貫線2線分と京浜東北線南行と山手線外回りの計4線分は昭和4年(1929)の施工、山手線内回りと京浜東北線北行の2線分は大正12年(1923)の関東大震災直後の施工と思われる。、、、、、施工年代の違いは、桁と橋脚の接合部に剛接合/ピン接合の違いとして見ることができる。(チョイと専門的な話でゴメン!)

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・・・・・・・・・・・・・・・蔵前橋通りが中央通りと交差する外神田五丁目交差点。、、、、、この交差点の地下には地下鉄銀座線末広町駅がある。 昭和5年(1930)に開業した駅は、2面2線の相対式ホームで、エレベーター、エスカレーターの設置されていない、いまどき珍しい駅である。、、、、、私が小学生になるまでは、下の写真を撮影した場所の近くで育てられた、思い出多い町だ!

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・・・・・・・・・・・・・・神田明神の北側で、蔵前橋通りは新妻恋坂を上がる。、、、、、、大正12年(1923)の 関東大震災後の都市計画により、この付近の蔵前橋通りが昭和4年(1929)に完成した。  この蔵前通りの新設によってできた新しい坂は、江戸時代からある妻恋坂に平行しているので、新妻恋坂と名づけられた。

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・・・・・・・・・・・・・・妻恋坂を上がり200m程行くと、湯島2丁目と本郷3丁目の境で、蔵前橋通り(写真:左奥の道路)は本郷通り(写真:前面の道路)にぶつかり、これにて終点となる。

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神田明神
・・・・・・・・・・・・・蔵前橋通りから参拝できる「裏参道」がある。 この参道を上ると本殿の裏側に出られるので、散歩がてらチョイと立ち寄ってみた。

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・・・・・・・・・・・・・今朝の神社はガラガラ、ゆっくり参拝し、その後はじっくり国の有形文化財を観てください。

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・・・・・・・・・・・・・神田明神と言えば、“銭形平次”。 その銭形平次の碑が、子分・がらっ八の小さな碑と共に、明神下を見守る境内に建てられている。 恋女房お静の碑も欲しいね!、、、、、、、昭和41年(1966)から放映された、大川橋蔵の平次と八千草薫(初代)と香山美子(3代目)のお静を思い出すね!、、、、、、舟木一夫が歌う ♪♪ 男だったら 一つにかける かけてもつれた 謎をとく 誰がよんだか 誰がよんだか 銭形平次 花のお江戸は 八百八町 今日も決めての 今日も決めての 銭がとぶ~ ♪♪ もいいね。

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③本郷1・2丁目をブラブラ
・・・・・・・・・・・蔵前橋通りの西端まで来て、『さて、どこを歩くか?』、、、、、、熟知した町なので、気の向くままに適当に歩いてきた。

・・・・・・・・・・・・・三河稲荷神社、、、、、、徳川家康公が江戸開府のおり、先勝祈願が叶う、自身のお守りとして信仰していた隣松寺(愛知県豊田市)三河稲荷の末社を、天正18年(1590)江戸吹上に建立した。 明治23年(1890)、現在地に遷座した。

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・・・・・・・・・・・・・日本基督教団弓町本郷教会、、、、、、、日本キリスト教団弓町本郷教会は明治19年(1886)に創立された、130年余りの歴史ある教会。 教会の建物は鉄筋コンクリート造地上3階建て、1階は幼稚園、礼拝堂は2~3階、設計者は中村鎮(なかむら まもる、1890~1933)である。、、、、、月2回、教会では生の音楽が奏でられている。 先日、牧師さんに誘われたのだが、私はいまだ中に入ったことがなく残念である。

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・・・・・・・・・・・教会の通りに大きなクスノキがある。 樹齢600年以上と言われており、室町時代の頃に誕生したこのクスノキは、現在幹回りは8.5mあり、樹高は20mである。 ジッとこの場で、静かに、人々の生活の移り変わりを見守ってきたらしい。、、、、、、これだけ大きくなると管理も大変そうだね!

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・・・・・・・・・・・・・クスノキの前の瀬川ビルの奥には、初代東大工学部長:古市公威の邸宅がある。明治20年(1887)に建てられた数寄屋造りの邸宅が、洗練された苔庭や茶室とコラボし、静寂なる空間に残されている。 現在、古市邸(現:瀬川邸)は登録有形文化財に指定されている。 一般公開はされていない。

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・・・・・・・・・・・・・・・“本郷”は修学旅行・合宿・ゼミ旅行など、学生御用達のお宿が多い処だが、そのうちの一つが「朝陽館」。 180名程を収容できる、大きな宿である。、、、、、、最近は、ビジネスホテルなどに宿泊する学校も増え、商売は難しいかもね!

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・・・・・・・・・・・・・・朝陽館の脇から壱岐坂下交差点(後楽園遊園地角)に向かう裏通りにある、長さ25m程の階段坂を外記坂(げきさか)という。 坂の標識の説明では、、、、、『江戸切絵図』(嘉永6年尾張屋 清七坂)いよると、坂上北側に内藤外記という旗本の大きな屋敷があり、ゲキサカとある。別名:新坂というが、江戸時代からあった古い坂である。  この坂の一帯は、もと御弓町、その後、弓町と呼ばれ、慶長・元和の頃(1600年ごろ)御弓町の与力同心六組の屋敷がおかれ、的場で弓の稽古が行われた。 明治の頃、石川啄木、斎藤緑雨、内藤鳴雪などの文人が住んだ。

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・・・・・・・・・・・・・出世稲荷神社、、、、、、、、本郷1丁目にある小さな稲荷神社。 神社のある地は、春日局の屋敷だったそうだ。 春日局は邸内鎮守として創建し、局が敗軍の将(明智光秀)の娘から大奥の権力者へと出世したことから、出世稲荷と称されている。、、、、、地名の“春日”も局に由来している。

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2015年9月 3日 (木)

湯島

我が家(浅草橋)から湯島天神まで往復してきた。 1万2千歩、9kmの散歩です。



①浅草橋の建物
・・・・・・・・・・・我が家の周り(浅草橋3)には、“昭和”の木造建築が多く残っている。 ほんの一例。

・・・・・・・・・・・・・・YA邸・・・・・・・・下見板張りの純和風住宅。

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・・・・・・・・・・・・・出桁造りの商家。

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・・・・・・・・・・・・・トタン張りの2軒長屋

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②鳥越神社
・・・・・・・・・・・我が家から歩いて2分の鳥越神社。 白雉2年(651)、日本武尊を祀って白鳥神社と称したのが始まりらしい、歴史ある神社。 まずは神様に、朝のご挨拶に立ち寄った。、、、、、二拝二拍手一拝し、今日も家族の無病息災を願い・私の病気平癒のお礼・ついでに宝くじの一等当選を願う。 期待するほど御利益がないね!

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・・・・・・・・・・・・鳥越神社の几号(きごう)水準点、、、、、、、“几”の字は“き”と読み、机の意味がある。 几号水準点とは、明治時代初期に水準測量(高低を測る)の基準点として設定された。 3本足の机のような、“不”の字に似た記号の横棒が標高を示す位置となる。 当時の内務省では、明治9年(1876)、東京・塩釜間の水準測量から、この記号を用いた。 測量が参謀本部に引き継がれると、几号水準点は使用されなくなったが、都内には、約30か所程(上野東照宮、江戸城本丸跡など)に現存している。、、、、、、鳥越神社裏鳥居(扁額には明治22年と標されている)の足元にある几号水準点が目に入り、今日の散歩の行先は、おなじように几号水準点のある湯島天神に変更した。

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③上野1丁目の建物
・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・看板建築の長屋、、、、、地下鉄千代田線湯島駅の出口横に並び建つ、2軒+5軒のモルタル系看板建築の長屋。 各戸の2階上部には、それぞれ異なるデザインのレリーフがある。 以前は各店舗が営業していたようだが、現在は3軒程が営業しているだけだ!、、、、戦前は商店街のように活気があったのかな?

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・・・・・・・・・・・・出桁造りの商家、、、、、、長屋の北側に残る建物。 空き家となったのか?

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・・・・・・・・・・・・・・Once Upon A Time、、、、、、明治初期の煉瓦蔵を再利用した店舗。
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・・・・・・・・・・・・SA邸、、、、、、下見板張りの和風建築。 かつて商家であった思われる、格子窓はいいね!

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④湯島3丁目の建物
・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・WA邸、、、、、、、年代不詳だが古そうだ。 

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・・・・・・・・・・・木造3軒長屋、、、、、、下見板張りの下町風の長屋。
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・・・・・・・・・・・・湯島聖天、、、、、湯島天神男坂下にある、天台宗の心城院は通称:湯島聖天と言われている。 元禄7年(1694)、歓喜天(聖天さま)を弁財天堂に奉安したのが寺の開基とされている。 本堂・庫裏は戦後になって改修された。、、、かつては、湯島天神の別当寺であった。

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⑤湯島天神
・・・・・・・・・社伝によると、雄略天皇2年(458)、勅命により天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祀る神社として創建された。正平10年(1355=室町時代)、住民の請願により菅原道真を勧請して合祀した。現在の正式名称は「湯島天満宮」と称するらしい。 私は、婦系図のお蔦・主税を連想させる「湯島天神」の呼称がいいね!

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・・・・・・・・・・・高台にある湯島天神へ、天神下からの参道として「男坂」と「女坂」がある。 38段のきつい勾配の階段坂が「男坂」。

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・・・・・・・・・・・・33段の緩やかな階段坂が「女坂」。

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・・・・・・・・・・・・拝殿正面に在る表鳥居。 銅製のこの鳥居には、寛文7年(1667)の刻銘がある。、、、、今日、湯島天神へ来るきっかけとなった几号水準点が、この鳥居の柱下の台座に標されている。

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・・・・・・・・・・・・天神さまで、弁天さまのようなバスガイドさんをパチリ! 観光バスに乗りたくなったね!

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・・・・・・・・・・・・境内の脇に「都都逸之碑」か建立されている。 都々逸の発祥地は名古屋らしいが、その節回しが江戸っ子に気に入られ定着したっらしい。 私も、7・7・7・5の節回しが好きだ!、、、、、、碑には、『都都逸は日本語の優雅さ言葉の綾言い回しの妙などを巧みに用いて人生の機微を二十六文字で綴る大衆の詩。・・・・・短歌、俳句と並ぶ三大詩型の伝統を守り更なる向上と発展を願い各吟社協賛の下詩歌の神の存すこの地に碑を建立する。平成20年12月吉日』と、記されている。

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⑥実盛坂/三組坂
・・・・・・・湯島の高台から上野方面に下る坂の内、2か所。

・・・・・・・・・・・実盛坂、、、、、、実盛(さねもり)とは長井斎藤別当実盛のことで、武蔵国に長井庄(現:埼玉県大里郡妻沼町)を構え、平家方に味方した。寿永2年(1183)、源氏の木曽義仲と加賀の国で戦い討たれた人物で、この近くに居住していったそうだ。、、、、、かなりきつい階段坂である。

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・・・・・・・・・・・・三組坂、、、、、元和2年(1616)徳川家康の死去にもとない、家康お附きの中間、小人、駕籠方「三組の者」に、当時駿河町といわれていたこの地一帯を与えた。その後、町名を三組町(みくみちょう)と改めた。 この町内の坂も「三組坂」と名づけた。、、、、坂の途中には、ラブホテルが数件並んでいる。、、、、、この坂道は、6年程前まで、浅草橋~後楽園に歩いて通う私の通勤経路であった。

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⑦下水道局和泉町ポンプ所
・・・・・・・千代田区和泉町に大正11年(1922)に建てられた2階建てのポンプ所。 建物の外装は煉瓦風の化粧をしているが鉄筋コンクリート造だ。 建物の周りの塀と小屋は煉瓦造。 施工は清水組(現:清水建設)。 現在は無人で管理されている。、、、、、大正11年に、我が国初の三河島汚水処分場が完成し、同時期に雨水の排除を目的とした浅草ポンプ場と、汚水を処分場に送水する和泉町ポンプ場が稼働した。 大正12年の関東大震災のためポンプ所建設も遅れ、その後のポンプ所が都内にできるのは、昭和4年(1929)の三の橋、業平橋、木場の3か所である。、、、、、私が小学生の頃、まだ戦後の荒廃した街中に建つ、このポンプ場は、薄汚れ廃屋のような建物で、チョイと、前を通るのが怖かった。 

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2015年9月 1日 (火)

蔵前橋通り

今日は「防災の日」、お年寄りは「震災記念日」である。 今朝は、慰霊のため「震災記念堂」に行き、その足で蔵前橋通りを東へ向かい“雨中散歩”となった。 浅草橋から、東京都慰霊堂、亀戸天神に寄って、総武線平井駅まで、1万3千歩、10㎞です。


●am7:56
・・・・・・・・・しとしと雨が降る中、浅草橋の我が家を出発。 駅前で、近くのコーヒーショップの割引券を貰い、細やかな喜びを感じ『今日は、ついているかな?』

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●am8:05
・・・・・・・・・「江戸通り(国道6号)」と「蔵前橋通り(都道315号)」が交差する、蔵前一丁目交差点。 ここから蔵前橋通りを東へ、震災記念堂に向かう。

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●am8:12
・・・・・・・・・雲に隠されるスカイツリーを見ながら、蔵前橋 を渡る。

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●am8:22
・・・・・・・・・墨田区横網町の旧震災記念堂(現:東京都慰霊堂)では、慰霊祭の準備中で堂の中には入れず、犠牲者10万余人の霊に、外から手を合わせてきた。、、、、、、平成24年(2012)の慰霊祭

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・・・・・・・・・・・・・幼き頃は手を合わせた帰り、屋台で、ヨーヨーつり・金魚すくい・綿あめ・べっこう飴・カルメ焼き・・・など、買ってもらうのが楽しみだったね。 店は雨の中で準備中。

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●am8:38
・・・・・・・・・墨田区石原の山田記念病院では、巨大なイカリが玄関わきで出迎えている。 病院創始者:山田正明が昭和15年(1940)に軍医長として乗艦した駆逐艦「初霜」のイカリだそうだ。 初霜は、天一号作戦から帰還後、舞鶴で空襲を受け、宮津湾で大破・着底した。 戦後、引上げられ、初代院長が軍医長をしていた縁で、イカリがこの病院にやって来た。、、、、、、病院は、地域密着型のこじんまりした総合病院だが、親切で、やさしい対応をしてくれる。(かつて、私の母がお世話になった)

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●am8:54
・・・・・・・・・スカイツリーの足元で北十間川から分流し、江東区木場を通り隅田川に合流する運河:大横川。 上流部は親水公園となったが、ここに報恩寺橋 が架かっている。 橋上は蔵前橋通りである。 この橋の両端部:石橋部分は大正13年(1924)に造られたままである。 中央部は昭和57年(1982)の架設。

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●am9:07
・・・・・・・・・「四ッ目通り」と「蔵前橋通り」が交差する太平四丁目。 雨は降り続き、艶っぽく濡れてきた私だが、誰も寄ってこないね。 『皆、目が悪いのか!』

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●am9:19
・・・・・・・・・天神橋を渡り江東区に入る。 橋を渡ると、くず餅の「船橋屋」。 『オ、店が開いてる! 氷あずきが私を呼んでる! しかし、チョイと時間が早いね、まだ他の客もいなし、辛いが男だ諦めよう!』

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●am9:21
・・・・・・・・・亀戸天神に到着。 雨中の境内、人影は数人ほど。 神社を独り占めした気分だが、社務所に巫女さんが見当たらない! 逃げられたか?

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●am10:01
・・・・・・・・・東武亀戸線 を越える。

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●am10:05
・・・・・・・・・昭和36年(1961)に架けられた江東新橋を渡り、江戸川区平井に入る。 下を流れるは旧中川

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●am10:22
・・・・・・・・・平井駅出口交差点にて蔵前橋通りからそれ、平井駅に向かう。

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●am10:27
・・・・・・・・・平井駅に到着。 散歩の間中、雨は止まず、しっとりと濡れた2時間半であった。、、、、、、滑らないように、転ばぬように、気をつかい歩くのは、チョイと疲れるね、雨の日の散歩は今後も要注意! 

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