聖橋
我が家(浅草橋)から湯島聖堂、ニコライ堂を回って、神田志乃だ寿司に寄って我が家に戻る、1万2千歩、9㎞の散歩です。
①昌平橋ビル・・・・・・・・・・・神田川に架かる万世橋と聖橋の間に昌平橋 がある。 この橋の左岸にどこにでもありそうな都住宅供給公社の集合住宅「昌平橋ビル」が建っている。、、、、、昭和41年(1966)竣工の地上10階/地下1階建てのビルで、1階から4階までが事務所。5階から上は戸数42戸の公共住宅「昌平橋住宅」である。 この建物も耐震性に問題があることから、今年の10月に取り壊しが始まるらしい。、、、、、私がゼネコンに勤務していた頃、先輩達が施工した建物で、また、思い出のある建物が一つ消えることになった。 残念!
②湯島聖堂・・・・・・・・・・・元禄3年(1690)、将軍徳川綱吉によって建てられた孔子廟。 明治時代には、昌平坂学問所として私塾が開かれ、以後、聖堂構内には、現在の国立博物館、筑波大(東京教育大学)、お茶の水女子大などが同居した。大正12年(1923)の関東大震災で建物は悉く焼失した。、、、、、、、現在の大成殿は、昭和10年(1935)に伊東忠太(築地本願寺 などを手がける)の設計、大林組の施工で、鉄筋コンクリート造で再建された。
・・・・・・・・・・・・・・仰高門、、、、、、お寺に例えると山門だね。
・・・・・・・・・・・・・入徳門、、、、、、中門というところかな。
・・・・・・・・・・・・・大成殿、、、、、、、お寺であれば本堂だ! 黒塗りの重厚な建物。
・・・・・・・・・・・・・・大成殿から眺めるニコライ堂。
・・・・・・・・・・・・・・昭和50年(1975)に中華民国から寄贈された、世界で一番大きな孔子像。
・・・・・・・・・・・・・湯島聖堂を維持・管理する公益法人の“斯文会”の「斯文会館」。 こちらも、伊藤忠太の設計で昭和9年(1924)に鉄筋コンクリート造により建てられた。
・・・・・・・・・・・・・聖堂の周囲は築地塀が囲んでいる。 東日本大震災では、塀の損傷が著しく、数年前まで補修工事が行われていた。
③聖橋・・・・・・・・・・・・・湯島聖堂とニコライ堂の二つの聖堂を結ぶ聖橋。 特徴的なアーチ構造のコンクリート橋で有名である。 建築家:山田守(1894-1966)の設計、東洋コンプレッソルの施工で、昭和2年(1927)に竣工した震災復興橋の一つ。 長さ72.9m、幅22.0m、工事費は約80万円である。、、、、、、現在は、橋の下で御茶ノ水駅の改良工事が行われており、チョイと名所の風景も変わったものになっている。
・・・・・・・・・・・・・上の写真と同じ位置から撮った、昭和4年頃の聖橋
④ニコライ堂・・・・・・・・・・・ニコライ堂(=東京復活大聖堂)は、岩崎邸 を手掛けたジョサイア・コンドルの設計で明治24年(1891)に竣工した。 その後、関東大震災によりドームが崩壊し、昭和4年(1929)に修復された。 国内最大級のビザンチン様式の建築で、国の重要文化財。、、、、、、何時みても、豊満なロシア美人のような雰囲気の教会で、好きな建築の一つである
・・・・・・・・・・・・・敷地内の教会の正面に府主教庁の建物がある。 こちらも古そうだが年代不詳。
・・・・・・・・・・・・・この建物の横の外壁に、几号水準点 がある。 吹き付け塗装が施され、よく見ないと識別できなくなったが、明治時代から残されている水準点と思われる。
⑤TA邸・・・・・・・・・・・・ニコライ堂前の本郷通りを挟み、東側のビルの谷間に和風建築がある。 関東大震災直後に伊勢丹の初代社長:小菅丹治の隠居処として建てられた建物だそうだ。 しっかりした石垣の上に建つ、入母屋造の建物は、大正末期の住宅建築として貴重なものである。、、、、、、ちなみに、伊勢丹は「伊勢屋丹治呉服店」として明治19年(1886)に神田旅籠町(現在のTA邸の近く)で発祥した。
⑥神田志の多寿司・・・・・・・・・・創業明治35年(1902)の当時より、まろやかな甘味の稲荷寿司と、じっくりと煮込まれたかんぴょうと上質の海苔を使ったのり巻で、評判の味である。、、、、、、私は、幼き頃秋葉原で育ち、この味に慣れている。 今日は出がけに妻から買ってくるよう頼まれ、散歩の〆はこの店となった。、、、、、ちなみに、人形町には「志乃多寿司総本店」があり、神田はコチラの暖簾分け。
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