湯島
我が家(浅草橋)から湯島天神まで往復してきた。 1万2千歩、9kmの散歩です。
①浅草橋の建物・・・・・・・・・・・我が家の周り(浅草橋3)には、“昭和”の木造建築が多く残っている。 ほんの一例。
・・・・・・・・・・・・・・YA邸・・・・・・・・下見板張りの純和風住宅。
②鳥越神社・・・・・・・・・・・我が家から歩いて2分の鳥越神社。 白雉2年(651)、日本武尊を祀って白鳥神社と称したのが始まりらしい、歴史ある神社。 まずは神様に、朝のご挨拶に立ち寄った。、、、、、二拝二拍手一拝し、今日も家族の無病息災を願い・私の病気平癒のお礼・ついでに宝くじの一等当選を願う。 期待するほど御利益がないね!
・・・・・・・・・・・・鳥越神社の几号(きごう)水準点、、、、、、、“几”の字は“き”と読み、机の意味がある。 几号水準点とは、明治時代初期に水準測量(高低を測る)の基準点として設定された。 3本足の机のような、“不”の字に似た記号の横棒が標高を示す位置となる。 当時の内務省では、明治9年(1876)、東京・塩釜間の水準測量から、この記号を用いた。 測量が参謀本部に引き継がれると、几号水準点は使用されなくなったが、都内には、約30か所程(上野東照宮、江戸城本丸跡など)に現存している。、、、、、、鳥越神社裏鳥居(扁額には明治22年と標されている)の足元にある几号水準点が目に入り、今日の散歩の行先は、おなじように几号水準点のある湯島天神に変更した。
・・・・・・・・・・・・看板建築の長屋、、、、、地下鉄千代田線湯島駅の出口横に並び建つ、2軒+5軒のモルタル系看板建築の長屋。 各戸の2階上部には、それぞれ異なるデザインのレリーフがある。 以前は各店舗が営業していたようだが、現在は3軒程が営業しているだけだ!、、、、戦前は商店街のように活気があったのかな?
・・・・・・・・・・・・出桁造りの商家、、、、、、長屋の北側に残る建物。 空き家となったのか?
・・・・・・・・・・・・・・Once Upon A Time、、、、、、明治初期の煉瓦蔵を再利用した店舗。
・・・・・・・・・・・・SA邸、、、、、、下見板張りの和風建築。 かつて商家であった思われる、格子窓はいいね!
④湯島3丁目の建物・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・WA邸、、、、、、、年代不詳だが古そうだ。
・・・・・・・・・・・木造3軒長屋、、、、、、下見板張りの下町風の長屋。
・・・・・・・・・・・・湯島聖天、、、、、湯島天神男坂下にある、天台宗の心城院は通称:湯島聖天と言われている。 元禄7年(1694)、歓喜天(聖天さま)を弁財天堂に奉安したのが寺の開基とされている。 本堂・庫裏は戦後になって改修された。、、、かつては、湯島天神の別当寺であった。
⑤湯島天神 ・・・・・・・・・社伝によると、雄略天皇2年(458)、勅命により天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祀る神社として創建された。正平10年(1355=室町時代)、住民の請願により菅原道真を勧請して合祀した。現在の正式名称は「湯島天満宮」と称するらしい。 私は、婦系図のお蔦・主税を連想させる「湯島天神」の呼称がいいね!
・・・・・・・・・・・高台にある湯島天神へ、天神下からの参道として「男坂」と「女坂」がある。 38段のきつい勾配の階段坂が「男坂」。
・・・・・・・・・・・・33段の緩やかな階段坂が「女坂」。
・・・・・・・・・・・・拝殿正面に在る表鳥居。 銅製のこの鳥居には、寛文7年(1667)の刻銘がある。、、、、今日、湯島天神へ来るきっかけとなった几号水準点が、この鳥居の柱下の台座に標されている。
・・・・・・・・・・・・天神さまで、弁天さまのようなバスガイドさんをパチリ! 観光バスに乗りたくなったね!
・・・・・・・・・・・・境内の脇に「都都逸之碑」か建立されている。 都々逸の発祥地は名古屋らしいが、その節回しが江戸っ子に気に入られ定着したっらしい。 私も、7・7・7・5の節回しが好きだ!、、、、、、碑には、『都都逸は日本語の優雅さ言葉の綾言い回しの妙などを巧みに用いて人生の機微を二十六文字で綴る大衆の詩。・・・・・短歌、俳句と並ぶ三大詩型の伝統を守り更なる向上と発展を願い各吟社協賛の下詩歌の神の存すこの地に碑を建立する。平成20年12月吉日』と、記されている。
⑥実盛坂/三組坂・・・・・・・湯島の高台から上野方面に下る坂の内、2か所。
・・・・・・・・・・・実盛坂、、、、、、実盛(さねもり)とは長井斎藤別当実盛のことで、武蔵国に長井庄(現:埼玉県大里郡妻沼町)を構え、平家方に味方した。寿永2年(1183)、源氏の木曽義仲と加賀の国で戦い討たれた人物で、この近くに居住していったそうだ。、、、、、かなりきつい階段坂である。
・・・・・・・・・・・・三組坂、、、、、元和2年(1616)徳川家康の死去にもとない、家康お附きの中間、小人、駕籠方「三組の者」に、当時駿河町といわれていたこの地一帯を与えた。その後、町名を三組町(みくみちょう)と改めた。 この町内の坂も「三組坂」と名づけた。、、、、坂の途中には、ラブホテルが数件並んでいる。、、、、、この坂道は、6年程前まで、浅草橋~後楽園に歩いて通う私の通勤経路であった。
⑦下水道局和泉町ポンプ所・・・・・・・千代田区和泉町に大正11年(1922)に建てられた2階建てのポンプ所。 建物の外装は煉瓦風の化粧をしているが鉄筋コンクリート造だ。 建物の周りの塀と小屋は煉瓦造。 施工は清水組(現:清水建設)。 現在は無人で管理されている。、、、、、大正11年に、我が国初の三河島汚水処分場が完成し、同時期に雨水の排除を目的とした浅草ポンプ場と、汚水を処分場に送水する和泉町ポンプ場が稼働した。 大正12年の関東大震災のためポンプ所建設も遅れ、その後のポンプ所が都内にできるのは、昭和4年(1929)の三の橋、業平橋、木場の3か所である。、、、、、私が小学生の頃、まだ戦後の荒廃した街中に建つ、このポンプ場は、薄汚れ廃屋のような建物で、チョイと、前を通るのが怖かった。
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