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2015年10月

2015年10月30日 (金)

小菅~青井

東武伊勢崎線の小菅駅からつくばエキスプレスの青井駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。


①小菅駅
・・・・・・・・・・・大正13年(1924)に開業し、昭和25年(1950)には休止していた駅を復活開業した。、、、、、、ご存知「東京拘置所 」の最寄駅ですが、拘置所にお泊りの方はお近くの警察署から、直接、車で送ってもらえます。 

・・・・・・・・・・・・・北千住駅から荒川放水路橋梁を渡ると、小菅駅(こすげえき)である。

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・・・・・・・・・・・・・駅は1面2線で普通列車しか停車しない、乗降客も少ない駅である。

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・・・・・・・・・・・・・・ホームから、東京拘置所が遠望できる。

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・・・・・・・・・・・・・・高架ホームから改札へ下りる階段は、なぜか暗く寒々しい。

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・・・・・・・・・・・・・・高架下の広い空間に、最小限の費用で駅施設を備えたように見える。

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・・・・・・・・・・・・・駅前には、コンビニ、商店街、居酒屋、食堂、、、、、全てナシ!

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②足立区足立の裏道
・・・・・・・・・・・小菅駅を出て、拘置所とは線路を挟み反対側の足立地区を歩いた。 一車線の道路も多く、方向感覚も狂いだす裏道が多い。

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・・・・・・・・・・・・・裏道の一画、綺麗に清掃された小さな公園に、リンゴの彫刻があった。、、、、、なぜか、ひと休みしたくなる気分になった! 

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③西之宮稲荷神社
・・・・・・・・・・・・・足立区足立3丁目に鎮座する稲荷大明神。 神社の創建年代は不詳。  弥五郎新田村(現在の五反野駅周辺に在った村)には東之宮稲荷、本田之宮稲荷、西之宮稲荷、氷川社があった。 この内、明治3年(1870)に東之宮稲荷・氷川神社を合祀し、大正元年(1912)には本田之宮稲荷を合祀し、4社が一つにまとまった神社が西之宮稲荷神社だそうだ。 社殿は戦災により焼失し、昭和30年(1955)に再建。 さらに、現在の社殿は平成12年(2000)に建てられた。

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④五反野駅
・・・・・・・・・・・・大正13年(1924)開業。、、、、、今日は駅前をとおり、高架下を抜ける。

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⑤弘道一丁目第3アパート
・・・・・・・・・・五反野駅の北東、弘道1丁目には弘道第1アパートから第5アパートまで、数棟ずつ100戸前後の都営住宅が点在している。 この第3アパートも3棟、95戸の規模で、平成3年(1991)に建てられた。、、、、、、そろそろ都営住宅も、少子高齢化に対応して、年寄りが安心して住めるように、医療・介護とセットにした建物にするなど、建設計画を抜本的に変えてみたらどうだろう。
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・・・・・・・・・・・・・アパートの隣りの公園に、一本のイチョウが印象的に色づいていた。

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⑥弘道1丁目の貸倉庫
・・・・・・・・・・・・・チョイと建築に関わってきた私が、ビックリするほど、建築基準法を無視したのか、法に従っているのか、判らない倉庫と遭遇した。 一見、「戦前の建物で廃屋かな?」と思い、近づくと、増築用(?)の鉄筋は丸出し、壁・柱・梁のいたるところに、錆びた鉄筋が出てる。 控え柱(?)も劣化している、、、、、「なんじゃこれは!」、、、、、、通りすがりの私も、気になり建物の周囲を3周し、たまらず、ご近所の人に訊ねてみた。、、、、、『あの建物は、かつて製氷会社の倉庫で、素人の当時のオーナが自ら一人で建てたらしいですよ。 建物の一部が落下したりして危険でもあり、役所に陳情しました。』、、、、、、ネットで調べると、現在は貸倉庫・貸工場として貸し出していた。、、、、、ここまで造った当時のオーナに、変に感服した次第なり!

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⑦四家交差点
・・・・・・・・・・・弘道1丁目と中央本町2丁目・3丁目と青井1丁目・2丁目が接する四家(よつや)交差点は、6か所の信号が混乱なく点滅する六叉路となっている。、、、、、、パノラマ写真で撮ってみた。 チョイと見てると、見てる私の方が混乱しそうだ。 

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⑧青井三丁目第3アパート
・・・・・・・・・・青井駅前に建つ都営住宅で、昭和57年(1982)~昭和60年(1985)に建てられた、総戸数458戸の団地。 つくばエキスプレスの開通は平成17年(2005)であるから、約20年間は近くに鉄道の駅がない不便な生活を過ごしてきた団地だ。

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・・・・・・・・・・・・・・・団地の隅に青和ばら公園がある。 約100種のバラが咲いてるそうで、色鮮やかなバラが訪れる人を出迎えてくれる。、、、、、訪れた時期がチョイと遅かったかな?

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⑨青井駅
・・・・・・・・・・・・・首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスの駅。 ここから秋葉原駅まで5駅、14分とは、驚異的な速さだ!、、、、、、陸の孤島が、丸の内の隣り町になった感じ。

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2015年10月28日 (水)

中野~新井薬師前

JR中野駅から西武新宿線沼袋駅前をとおり、隣の新井薬師前駅まで、1万1千歩、8Kmの散歩です。

 


①中野駅前
・・・・・・・・・・中野駅の北側も、南側にも、再開発計画がある。 北側のサンプラザ、区役所のある一画も再開発でいずれ取り壊しとなる、ジャ・ジャ・ジャ・ジャーン(運命)だ。

 

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・・・・・・・・・・・・・・駅前から伸びるバス通りも、色づいてきた。

 

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②AS邸
・・・・・・・・・・・・・中野駅から北へ500m程、新井2丁目の裏道に建つ住宅。 昭和13年(1938)に建てられたものだが、近年、外壁も塗り直され、大切に使用されているようだ。

 

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③MU邸
・・・・・・・・・・・新井3丁目には、下見板張りの外壁に洋風窓の平屋の建物があった。 住宅と思われるが、詳細は不明。、、、、、、チョイと気になる建物だ!

 

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④旧豊多摩監獄表門
・・・・・・・・・・・中野駅から北へ1㎞程行った新井3丁目に、法務省矯正管区矯正研修所、東京都下水局中野処理場、平和の森公園、などが並ぶ広い一画がある。 ここが、1400名を収容できた旧豊多摩監獄の跡地である。、、、、、、豊多摩監獄は明治43年(1910)に着工、 大正4年(1915)に竣工し、以来、昭和58年(1983)廃止になるまで、「豊多摩刑務所」、「中野刑務所」と改称しながら、73年の歴史を刻んできた。 ここには、多くの政治犯、思想犯も収容されたそうだ。(私は入っていないので実態は?)、、、、、、監獄の設計は、東京帝大卒後、司法省に入った後藤慶二(1883~1919)が26歳で担当した。 現在は法務省矯正研修所の敷地内に監獄の表門が残されている。 簡単に壊して脱走できないと実感できる頑丈な門である。

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・・・・・・・・・・・・矯正研修所敷地内には、周囲に巡らされたコンクリート塀も一部残されている。

 

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沼袋駅
・・・・・・・・・・・・西武新宿線の沼袋駅(ぬまぶくろえき)は、昭和2年(1927)に開業した駅である。 只今、新井薬師前駅と沼袋駅は地下化工事が始まっている。、、、、、、今日は、駅横の踏切を渡り、さらに北へ歩いてみた。

 

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⑥実相院
・・・・・・・・・・・沼袋4丁目に真言宗豊山派の実相院がある。 正平7年(1352)に新田一族が足利軍と戦ったとき、 新田六郎左衛門政義の三男、矢島三郎信氏の子孫である矢島内匠、同図書が戦いに破れ、結城氏一族とともに沼袋村に来て 一家屋を建立したのが起源であるらしい。 現在でも矢島姓を名乗る檀信徒が半数以上を占め、別名「矢島寺」とも呼ばれているそうだ。、、、、、、本堂は昭和56年(1981)に鉄筋コンクリート造で改築された。 本堂に黄金の燈籠が連なっている。、、、、、明かりが灯ったときに見てみたい!

 

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・・・・・・・・・・・・境内には古い石仏が多数祀られている。 おそらく、寺の周りの村々に祀られた馬頭観音・地蔵尊などが、都市化で集められたものであろう。

 

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⑦沼袋2丁目の三寺
・・・・・・・・・・・・明治以降に沼袋2丁目に移転・創建された、明治寺、密蔵院、久成寺の三寺。

・・・・・・・・・・・・・明治寺、、、、、、百体の観音様が境内に立つ「百観音」の寺

 

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・・・・・・・・・・・・・密蔵院、、、、、、真言宗の寺院で、慶長16年(1611)の創建。明治43年(1910)に現在地に移転した。

 

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・・・・・・・・・・・・・久成寺、、、、、、日蓮宗の寺院で、こちらは慶長12年(1607)に創建。 明治44年(1911)、現在地へ移転した。

 

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⑧新井薬師前駅
・・・・・・・・・・・・昭和2年(1927)に開業した駅で、その名の通り新井薬師 に近い。、、、、、現在、工事中の中井~野方間の連続立体交差事業では島式1面2線の地下駅となる。

 

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2015年10月27日 (火)

稲毛~作草部

稲毛に行った帰り、千葉市稲毛区の戦争遺跡をみてきた。 8千歩、6㎞。


①稲毛駅
・・・・・・・・・・・数年前から稲毛で行われているパソコン同好会に出席している。 今日もその帰りにプチ散歩。、、、、、、稲毛駅は、明治27年(1894)に総武鉄道(市川~佐倉)が開通し、5年後の明治32年(1899)に幕張と千葉の間に開業した古い駅である。、、、、昭和40年(1965)頃までは、まだ沖合の埋め立てが進んでおらず、海に近い駅であった。 私も、海水浴・潮干狩りに連れて来てもらった記憶がある。 今や、海は遥か彼方に行った。

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②大日寺
・・・・・・・・・・・・・千葉大西千葉キャンパスの東側にある真言宗豊山派の寺。 寺は、千葉頼胤が源氏三代の霊を供養するために、建長6年(1254)に松戸に創建した。 その後、頼胤の子胤宗が千葉氏の菩提寺として弘安7年(1284)、現:千葉市中央区中央付近へ移転した。 昭和になり、戦災で全山焼失し、現在地の稲毛区轟町に移転、再建した。、、、、、、、さほど大きな寺ではないが、落ち着いた雰囲気の癒しの寺である。

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・・・・・・・・・・・・・古い建物はないが、千葉氏十六代廟所として、墓碑である五輪塔(鎌倉時代から室町時代のものと言われている)が建立されている。

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③来迎寺
・・・・・・・・・・・・大日寺と道路を挟み向い合せにある、浄土宗の来迎寺は建治2年(1276)一遍上人を開基に千葉貞胤が建立したと伝える古刹。 この寺も大日寺と同様に、千葉市中央区にあったが、戦災で被災し現在地に移ってきた。、、、、、、本堂には山号額も架かっておらず、まるで老舗の温泉旅館風の建物である。

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・・・・・・・・・・・・境内には7基の五輪塔が並び、千葉氏胤以下7名の紀年銘が見られる。五輪塔は室町時代初期のもので、氏胤ゆかりの追善供養塔と考えられている。

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④旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築
・・・・・・・・・・・・・稲毛区轟町の住宅地は、かつて陸軍関係の施設が建ち並んだ場所で、その住宅地の一角に、千葉経済大学がある。 キャンパス内に、かつての陸軍鉄道第一連隊の材料廠の赤煉瓦の建物が残されている。 この建物は、明治41年(1908)に建てられた、アーチ構造の煉瓦造で、南北の長手方向に幅2.7mの下屋を付設し、煉瓦構造の主要部分は54.4m×7.3mと細長い。 この建物は、明治41年、鉄道連隊材料廠の機関車の修理工場として建築され、昭和20年からは旧日本国有鉄道が大蔵省から借り受けて、レール等の修理工場として使用し、昭和60年から千葉経済学園の所有となった。 一部にはレールも残されている。、、、、、、2年ぶりに立ち寄ってみたが、何も変わっておらず、貴重な文化財として、補修をしっかり行い保存して欲しい。

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⑤「陸軍用地」の境界石
・・・・・・・・・・・稲毛区天台と作草部の境界に位置する交差点に、「陸軍用地」と標した境界石が残っている。 モノレール天台駅・作草部駅の周辺には、軍の施設が多数あったそうだ。、、、、、石も削られ文字が判読できなくなってきた、戦後70年、まだ忘れてはならないね!

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⑥旧陸軍気球連隊格納庫
・・・・・・・・・・・稲毛区作草部の台地の上に、風船爆弾の作戦を実施した陸軍気球連隊の格納庫跡が残されている。 風船爆弾は、直径は約10メートルの風船で、楮を原料とした和紙をコンニャク糊で幾層にも貼り合わせて気密性を保って作られ、水素ガスを詰めて米国本土に向け飛ばすものである。 その製作に、東京、京都、大阪など都市部の女学生が動員され、ここ作草部や、国際劇場、日劇など天井の高い大空間の施設が使われた。、、、、、、格納庫は現在「川光倉庫株式会社」の米穀倉庫として利用されている。

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⑦作草部神社
・・・・・・・・・川光倉庫の近くに、大雷神などが鎮座する作草部(さくさべ)神社。 公園と地続きで隣り合う神社だが、無人の神社。 かつては、皇室領であったとも言われている。、、、、、、この神社も、気球連隊の施設内にあったものか?

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⑧千葉県計量検定所
・・・・・・・・・・・・作草部にある千葉県計量検定所の敷地は気球連隊跡地。 そして、敷地内に残る木造倉庫は連隊の施設であったらしい。

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⑨作草部駅
・・・・・・・・・・・・作草部駅(さくさべえき)は千葉都市モノレール2号線の駅で、ホームは2面2線。 平成3年(1991)の開業。

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2015年10月25日 (日)

浅草

昨夜から北風が吹き、「木枯らし1号」となった。 今日も風は強く、散歩をひかえていたが、午後3時過ぎに浅草へ行く用事ができ、ついでに散歩となった。 6千歩、5㎞。

●・・・・・・・・・・・・・強風で雲も吹っ飛んだ青空

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●・・・・・・・・・・・・手焼きせんべいの香ばしい匂いも風で飛んだが客は絶えない。 

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●・・・・・・・・・・・六区では大道芸人が飛んでるぞ!

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●・・・・・・・・・・・・今日は菊花賞、WINSでは札が飛んだ!、、、、、結果は、北島三郎の持ち馬「キタサンブラック」が1着。 三郎の「まつり」風に ♪♪男は競馬に そうさ カネ賭けて 生きてきた 山の神 海の神 今日は本当に ありがとう ・・・・♪♪

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●・・・・・・・・・・・競馬に負けて、懐にも北風が吹きぬけた、寒い帰りのラーメン、一杯

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●・・・・・・・・・・・そうそう、今年は三の酉まであるぞ、“火の用心、火の用心!”

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●・・・・・・・・・・・寒くないのか、ジェラートたべて、、、、、外人は何を食べてもカッコいいね。

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●・・・・・・・・・・・団子がとりもつ国際親善? 商売は甘くない、辛口だ!

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●・・・・・・・・・・・右も、左も、絵になる親子!

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●・・・・・・・・・・・爆買い旅行の記念写真!

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●・・・・・・・・・・・夕暮れ時、風は冷たい、二人は暑い。 ♪♪もしもし ベンチでささやく お二人さん 早くお帰り夜が更ける 野暮な説教 するんじゃないが ここらは 近頃 物騒だ ・・・・♪♪と、口ずさみ、男一匹、家路を急ぐ! 

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2015年10月24日 (土)

西荻窪~上石神井

中央線西荻窪駅から西武新宿線上石神井駅まで、1万2千歩、9㎞の散歩です。


①西荻窪駅
・・・・・・・・・土曜日の早朝とあって、一昨日の西荻窪駅に比べ、通勤客も少なく静かな駅である。

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②吉田弓道場
・・・・・・・・・・弓道正法流の創始者:吉田能安(よしだのうあん、明治24年~昭和60年)が西荻北3丁目に開いた道場。昭和4年(1929)の建築。、、、、、、吉田能安は、高梁市出身で、早稲田大を2年で中退し、貿易に従事し、昭和3年(1928)自宅内に「遊神館(ゆうしんかん)弓道吉田教場」を開設し、館長となる。 西荻窪の土地・建物・弓道具など一切は、遺族より高梁市に寄贈された。、、、、、黒板張りの腰に白壁があざやかな弓道場。

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③美容室:若草
・・・・・・・・・・西荻北3丁目のある美容室。 戦前の建物と思われる。

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④関根橋
・・・・・・・・・・善福寺川に架かる橋。 橋上には、西荻窪駅前から青梅街道へと伸びる通りが走っている。 「関根」とは、近くにある荻窪八幡神社の神官の屋号と言われている。、、、、、、ここらあたりの善福寺川の水質はまあまあだが、豪雨の時は橋桁の辺りまで水位が上がるそうで、チョイと怖い。

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⑤善福寺1丁目は住宅街
・・・・・・・・・・・シャレた住宅が並ぶ静かな町

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⑥井草八幡宮
・・・・・・・・・・善福寺1丁目、青梅街道と早稲田通りに面し、広大な境内を誇る神社。 神社は縄文時代からこの地に祀られていたそうで、平安時代末期には春日社を祀り、鎌倉時代になると源頼朝が奥州征伐の途中、戦勝を祈願し、以来八幡大神を主祭神とするようになった。 江戸時代には、三代将軍:家光は、寺社奉行井上正利をして社殿を造営し、 慶安2年に朱印領六石を寄進している。 明治時代以降も氏子崇敬者によって社殿の改修や増築が繰り返され、同時に植林も行われた。、、、、、、各時代に、しっかりと権力者とつながりを持ち、世渡り上手な神社。

・・・・・・・・・・・・・・高さ9m、たたみ八畳分の大きさの大灯籠がある北参道入口。

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・・・・・・・・・・・・・・昭和46年(1971)に鉄筋コンクリート造で建てられた楼門(ろうもん)。

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・・・・・・・・・・・・・拝殿前には神門がある。

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・・・・・・・・・・・・・神門を入ると拝殿が参拝客を迎えてくれる。 本殿は拝殿の後ろに鎮座し観えない。、、、、、、、昭和49年(1971)に建てられたの鉄筋コンクリート造の覆殿内に、杉並区最古の木造建築物である、寛文4年(1664)に造営した一間四方の朱塗の本殿が納められているそうだ。(観てないので?)

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・・・・・・・・・・・・・・七五三詣での時期となり、数組の親子が参拝していた。

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・・・・・・・・・・・・・・5年毎に行われる流鏑馬神事の馬場となる東参道。 参道の先には、昭和33年(1958)建立の高さ約9mの大鳥居がある。

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⑦下石神井調圧水槽
・・・・・・・・・・上石神井駅近く、千川通り沿いの上石神井南町に都水道局配水塔があった。 名前をネットで調べてみたら「下石神井調圧水槽」と言うらしい。 外側にラセン階段があり、葉っぱの落ちた蔦の枝が絡まり、チョイと可哀そうな姿となっている。、、、、、、ところで、上石神井駅近くの上石神井南町に下石神井調圧水槽とは、これ如何に?

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⑧上石神井車両基地
・・・・・・・・・・西武新宿線上石神井駅に隣接する車両基地。 昭和3年(1928)に44両を収容する車両基地として設置され、その後拡張され現在は152両収容できる。 

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⑨上石神井駅
・・・・・・・・・高田馬場~東村山間が開通した昭和2年(1927)、上石神井駅も同時開業した。、、、、、現在は島式ホーム2面3線の地上駅で、駅舎は橋上である。、、、、、ついでの話しだが、上石神井駅のある練馬区は23区で唯一JRの駅が無い区である。 

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2015年10月22日 (木)

荻窪~西荻窪

JR中央線荻窪駅から隣の西荻窪駅まで、直線距離で約2kmの駅間を、1万歩、8Kmの散歩です。 同駅間を今年の3月に歩いているが、その時は中央線の南側、今日は北側を歩いてみた。


①荻窪駅西口北側
・・・・・・・・・・・明治24年(1891)に甲武鉄道の駅として開業した荻窪駅は、昭和35年(1960)まで東側の南・北出入口しかなかった。 その後西口改札が跨線橋上に造られ、こちらにも南・北の出入口が設置された。、、、、、、今日は西口改札から北側に出た。

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・・・・・・・・・・・・・・・駅前はパチンコ屋、居酒屋、ゲームセンターなどが並ぶ裏道。

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②荻窪白山神社
・・・・・・・・・・駅前のパチンコ屋の並びに鎮座(チン・ジャラジャラ)する神社。 文明年間(1469~1486)に関東管領:上杉顕定の家来中田加賀守が、屋敷内に加賀の霊峰白山を御神体する神社を祀ったのが始まりである。 旧下荻窪村の鎮守。 現社殿は鉄筋コンクリート造で昭和43年(1968)に建てられた。

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③光明院
・・・・・・・・・・荻窪駅から環八通りを越えた、中央線北側の線路脇に真言宗豊山派の慈雲山光明院がある。、、、、、、和銅元年(708)行基作の仏像を背負った遊行中の僧が、この地を通りかかったところ急に仏像が重くなり、萩の草堂を作って仏像を安置したのが開創と伝えられている。 この辺には、かつて、萩が鬱蒼と繁っていたそうだ、それ故、光明院も通称「萩寺」と呼ばれ、地名の「荻窪」も萩に由来している。、、、、、現本堂は嘉永3年(1850)に再建され、明治21年(1888)には甲武鉄道建設のため、現在地に移設したそうだ。

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④上荻2丁目の建物
・・・・・・・・・・・光明院のある杉並区上荻2丁目は住宅街で静かな町である。

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・・・・・・・・・・・・・SU邸・・・・・・・・・国の登録有形文化財に指定されている木造の洋館。 屋根は北側を腰折れ屋根とし、外壁は下見板張りで、住宅街の景観に調和した綺麗な建物である。 大正13年(1924)に施主の末光績自身の設計により建てられた。

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・・・・・・・・・・・・・・SA邸・・・・・・・・・・SU邸を設計した末光績の設計で、同じ大正13年(1924)の建築と言われている。 木造の洋館風建築。

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・・・・・・・・・・・・・・TU邸・・・・・・・・・町の景観に合わせたようなハーフチェンバー風の造りの住宅です。 古い建物ではないようだ。 

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・・・・・・・・・・・・・・NU邸・・・・・・・・・・私が学生の頃(昭和40年代)に流行したピロティ形式の住宅。 住宅建築の雑誌に載ったような模範的なピロティ住宅。 

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⑤やはり、住宅地だ!
・・・・・・・・・・隣の上荻3丁目では、分譲地に「邸宅地」の文字が、、、、、確かに広い、100坪以上ありそうだ! 買ったら“邸宅”を建てなければならないのか?

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⑥西荻北2丁目の住宅
・・・・・・・・・・AM邸・・・・・・・上荻の隣り西荻北でも、住宅建築の雑誌に載っていそうな住宅があった。 四角のボックスを四隅に配したような平面の住宅。、、、、、、憎らしいほど軒下の車も似合うね!!

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⑦西荻窪駅
・・・・・・・・・・・大正11年(1922)に開業し、昭和44年(1969)に高架駅となった。、、、、、、駅の北西に東京女子大があるせいか、やたら女子大生が目につく明るい駅。 私の住む浅草橋にも、女子大が出来ると嬉しいのだが無理だろうな。

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2015年10月20日 (火)

草加~八潮

東武伊勢崎線草加駅から、迷子にならぬようにスマホの地図を片手に、つくばエキスプレス八潮駅まで、1万2千歩、9㎞の散歩です。 


①草加駅
・・・・・・・・・・・明治32年(1899)に開業した古参の駅。、、、、、、、浅草橋から都営地下鉄浅草線で4駅目の押上まで行き、東武に乗り換え急行で4駅目が草加。 我が家(浅草橋)の玄関から約40分で、草加駅前に到着できる。 東武鉄道が押上から東京メトロ半蔵門線に乗り入れ、草加は行きやすく、さほど遠くない駅となり、私の散歩圏内の駅である。

・・・・・・・・・・・・・・春日部方面に向かう下りホームは空いている、都心に向かう上りホームには行列もできている。、、、、、『お勤めご苦労さま!』

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・・・・・・・・・・・・・草加駅東口。 駅前ロータリーは広く、スッキリしている。
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②草加の町
・・・・・・・・・観光スポットの草加宿は駅の北側で、私は草加駅から東南の方角に位置する八潮駅に向かう。 立ち寄る観光スポットもない新興住宅地(草加市手代町)を、八潮を目指してひたすら歩く。、、、、、そうか(草加)! そうだね! 観るものないよ 八潮 八潮へ 歩くだけ

・・・・・・・・・・・・・・かつての用水は暗渠化し住宅が立ち並ぶ。

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・・・・・・・・・・・・・・住宅の庭には秋の色が、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・市内を流れる小さな川、、、、、一言、『汚い川だ!』

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・・・・・・・・・・・・・若夫婦向けの住宅が建ち並ぶ、、、、

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③宮代橋
・・・・・・・・・・草加市と八潮市の市境を流れる綾瀬川に架かる幅の狭い人道橋。 橋を渡り八潮市に入る。、、、、、、小粒の橋だが、地元では重要な橋のようだ。 草加市では交差点名とバス停名に、八潮市ではバス停名に使用されていた。

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④柳之宮橋
・・・・・・・・・・・・宮代橋の下流側に架かり、県道「草加三郷線」をとおす橋。 県道の拡幅など大規模な整備が行われ、柳之宮橋も架け替えられることになった。、、、、、、交通量対策だけでなく、洪水対策も兼ね、橋桁は現在よりもだいぶ高くなるそうだ。

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⑤蓮花寺
・・・・・・・・・・・柳之宮橋の東200m程のところに、真言宗豊山派の蓮花寺(れんげじ)がある。 寺は寛文9年(1669)以前に創建された。、、、、、、本堂は昭和の建築か(?)、村の分校のような建物で古さは感じられない。、、、、、本堂手前には薬師堂もある。 呆け封じに御利益があるそうだ。 賽銭を奮発し、しっかり手を合わせて来た。 参拝を終え県道に出たら、寺の名を忘れ、賽銭に100円硬貨を何枚入れたか忘れてた。 即効性があり、早速呆けた??? 

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⑥八幡村道路元標
・・・・・・・・・・・県道を進み、八幡図書館(八潮市中央3)の道路わきに「八幡村道路元標」があった。 この地(旧南埼玉郡八幡村)は、上馬場村、中馬場村、大原村、大曽根村、浮塚村、西袋村、柳之宮村、南後谷村の8村が合併して、明治22年(1889)に誕生した旧八幡村役場の跡地だったそうだ。、、、、、道路元標は、大正8年(1919)に公布された道路法施行令にて、市町村単位での道路の起点・終点および町村の位置を示す指標として、道路元標の設置が義務付けられた。(現在は、道路元標の設置・保守義務はない) 

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⑦中馬場諏訪神社
・・・・・・・・・・・・八幡図書館の東隣に、中馬場諏訪神社がある。 創建年代不詳だが、延徳3年(1491)に当地の鎮守として祀られたと言われている。、、、、、、当神社は、「お諏訪様」と称して村人から親しまれ、中馬場(現:八潮市中央3付近)の鎮守であった。 さらに、古くから安産守護の神として信仰されている。 明治時代までは、境内の一角に「屋形」と呼ばれる小屋があり、ここで妊婦が出産していたといわれている。

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八潮駅
・・・・・・・・・・・平成17年(2005)のつくばエキスプレスの開通と同時に開業した八潮駅は、島式ホーム2面4線の高架駅。

・・・・・・・・・・・・・・駅の北、若柳交差点から“市役所通り”を南下し、首都高三郷線をくぐると駅前に出る。

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・・・・・・・・・・・・・八潮駅からは、普通で南千住駅まで11分。 南千住から我が家の在る浅草橋までは都バスで、飛ばして15分。 合計30分で我が家に到着、早いね。

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2015年10月19日 (月)

大山~要町

東武東上本線大山駅から地下鉄有楽町線要町駅まで、1万2千歩、9㎞の散歩です。


①大山駅
・・・・・・・・・・東上本線の前身:東上鉄道が池袋~田面沢間を開通させたのは大正3年(1914)である。 開通から17年後の昭和6年(1931)に開業した、相対式2面2線の地上駅。 池袋駅から3つ目の駅で、普通列車しか停車しない駅。 ホームはカーブしており、乗降時には要注意! 

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②ハッピーロード大山
・・・・・・・・・大山駅と川越街道(国道254号)を結ぶ延長560mの商店街。 今日は朝の通勤時間帯に来たので、店はまだ開いてないが、私の推測ではどうやらパチンコ屋と、個人経営の店などが多そうだ。、、、、、、商店街のある、都道については拡幅計画があるそうだが、客数の減少に危機感を持った商店街は、アーケードを設置して工事の着手を阻止しているらしい。、、、、地図を見ると、確かに、ここの商店街部分を除く前後の都道は拡幅工事が完了し、幅の広い道路となっている。

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③大山福地蔵尊
・・・・・・・・・ハッピーロード大山商店街の川越街道側の入口脇を少し入ると地蔵さまを祀っている祠が見える。(上の写真の左下隅、「大山福地蔵尊入口」の案内が見える)、、、、、、今から150年程前の江戸時代文化文政の頃、鎌倉街道(日大交差点付近)にお福さまという行者が来て、人々の難病苦行を癒し大山宿の人々に慕われた。 死後はお福地蔵として祀られた。、、、、、丸窓からはお福地蔵の顔だちも見える。

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④板橋交通公園
・・・・・・・・・・・・川越街道を横断し大山西町に「板橋交通公園」がある。 ここは、ゴーカート、自転車などに乗って交通ルールを学べることが特徴の公園らしい。まだ開園前なのか、子供は一人もおらず、いるのはゲートボールの爺さん婆さんが多数。、、、、、子供いないよ 年寄りばかり 公園いらぬ 墓地欲しい!

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・・・・・・・・・・・・・・公園の隅で、色あせ、錆びて、埃に汚れ、悲しい運命をたどる、昭和61年(1986)に廃車となった7508号の都電。 都電に付き合う、雨ざらしの都バスも哀れ。

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⑤大谷口給水所
・・・・・・・・・・・板橋区大谷口(おおやぐち)1丁目には、大谷口給水塔が建てられていたが、老朽化により平成17年(2005)に取り壊された。、、、、、給水塔の跡地には、給水塔のデザインを模した大谷口給水所が平成23年(2011)に建てられ、板橋区・豊島区などの12万人に、ポンプ圧送による給水が行われている。 建物は地上5階、地下2階、高さ33mで、地下に給水池が造られている。

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・・・・・・・・・・・・・・平成17年(2005)に取り壊された大谷口給水塔は、東京帝大教授:中島鋭治博士により設計された、高さ33m、鉄筋コンクリート造で、昭和6年(1931)に完成した。 地域のシンボル的な建物であった。

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⑥木密地域:大谷口1丁目
・・・・・・・・・・給水所のある大谷口1丁目は、中型車両がギリギリ通れるような細い道が、イナビカリ状に折れ曲がる地区である。 都、区は“木密地域”(木造住宅密集地域)として、不燃化住宅の建築などに取り組んでいる。、、、、、木部がむき出した建物は少なく、かなりの数の住宅は新築・改築したようだ。

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⑦UD邸
・・・・・・・・・・・豊島区要町1丁目の裏道で、戦前の建築と推測した木造住宅があった。 懐かしさを感じる木製の窓枠に、パテでとめたガラス窓、味があるね!

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⑧要町駅
・・・・・・・・・・・東京メトロ有楽町線・副都心線が並走する小竹向原駅~池袋駅間は、有楽町線が上層を、副都心線が下層を走る2階建て構造である。 要町駅でも、地下2階の島式ホーム1面2線を有楽町線が使用し、地下3階の島式ホーム1面2線を副都心線が使用している。、、、、、駅は昭和58年(1983)の有楽町線開通時に同時開業した。

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2015年10月18日 (日)

皇居の几号水準点

皇居東御苑の写真を拝見して、『そうだ、今日は皇居の几号水準点を見てこよう!』と家を出た。 飯田橋駅から新橋駅まで、1万4千歩、10㎞の散歩です。


几号水準点とは
・・・・・・・・・・・・几号(きごう)水準点とは明治7年頃に、水準(高低)測量を行うために設けた基準となる測量点。 水準測量は英国人:マクヴィーンの指導により、英国式の測量法に従って漢字の“不”に似た記号を簡単に動かない石の鳥居・石垣・石碑などに刻印したり、“不”を彫った標石を埋めて水準点とした。 “不”の字の横棒が標高を示す位置となる。 測量の基準点として、鳥居、石碑、石垣などに水準点が彫られ。 この“不”の字の形が、3本足の机に似ていることから、机の意味がある几”の字により、几号(きごう)水準点と称された。 霊岸島(現:東京中央区)の水位を0.0mとして標高を測った。、、、、、、、明治初期には、内務省が測量を担当していたが、明治17年(1884)に陸軍の陸地測量部がドイツ式の測量方式を採用したため、現行の水準点に変わった。 以後、几号水準手は使用されず、マニアックな人だけが知る、人目につかない産業遺産となった。 東京から東北、神奈川、大阪、京都などに几号水準点は設置された。、、、、、、、東京では約300ヵ所に設置されたらしいが、現存が確認されているは、靖国神社鳥越神社湯島天神ニコライ堂 一石橋など、約40ヵ所ほどである。



①田安門
・・・・・・・・・・九段坂を上り、武道館へ向かうとき、誰もが最初に通過する高麗門に几号水準点がある。 “不”の字を削ったチョイワルがいたようで、3本足の一部がかろうじて残されている。、、、、、、水準点設置時の標高は25.5786mで、mm単位以下まで測り、信じられない精度だ。

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・・・・・・・・・・・・・高麗門を入ると、続いて櫓門が控えている。 田安門は桝形門とよばれる形式(外側の高麗門と城内側の櫓門の2つの門でL字型に曲がる城壁を構えた造りになる)の門で、寛永13年(1636)に建てられたらしい。 国の重要文化財。

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②竹橋
・・・・・・・・・・・元和6年(1620)に造られた江戸城の竹橋門があったところ。 門は撤去され石垣の一部と橋だけが残っている。、、、、、、ここの几号水準点は、10日ほど前に見たので、今日は写真を2枚だけ!

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③江戸城天守台跡
・・・・・・・・・・・・田安門から北の丸公園を抜けた正面に北桔橋門(きたはねばしもん)がある。 ここから、東御苑に入るとスグ目の前に江戸城天守台跡が見える。 この石垣にも几号水準点が彫られている。

・・・・・・・・・・・・・・北桔橋門と平川濠・・・・・・・・・・江戸城天守閣の北側、本丸大奥から外部に直接通じる門で、江戸城の要所であり、濠を深くして石垣は最も堅固雄大に造られている。 橋は跳ね上げる仕掛けにし、通常は上げられていた。、、、、、、現在は、皇居東御苑 への出入口の一つである。、、、、、、暴れん坊将軍が城下に、お忍びで出かけ、夜遊びしての帰宅は、この門からか?、、、、、、大奥には3000人の奥女中がいたらしい。 羨ましい、一人ぐらい分けて欲しいね!

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・・・・・・・・・・・・・天守台跡・・・・・・・・ズバリ本丸の跡地。 ここに几号水準点が彫られている。
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・・・・・・・・・・・・・桃華楽堂・・・・・・・・天守台跡の前に、香淳皇后(昭和天皇の皇后)の還暦を記念して、昭和41年(1966)に建てられた音楽堂:桃華楽堂がある。 建物の屋根は「テッセン」の花を模し、八角の外壁は華やかな陶片とタイルで彩られています。 陶片には、有田焼・信楽焼などが用いられてる。 設計は今井兼次(1895~1987)、施工は前田建設工業。

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④大手門
・・・・・・・・・・大手門も田安門と同様に、高麗門と櫓門からなる枡形門となっている。 門は明暦3年(1657)の振袖火事で、天守閣などとともに焼失した高麗門や渡櫓を再建した。、、、、、、几号水準点は高麗門の石垣に彫られている。

・・・・・・・・・・・・・まずは高麗門の几号水準点

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・・・・・・・・・・・・・櫓門

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⑤桜田門
・・・・・・・・・・・・寛永年間(1624~1644)に建てられたが、関東大震災で被災し、復元された。

・・・・・・・・・・・・・・大手門から、爆買ツアー客で賑わう二重橋前を抜けて桜田門へ向かう。
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・・・・・・・・・・・・・桜田門も、高麗門と櫓門からなる枡形門となっている。 まずは、警視庁前の高麗門。 御存じ、井伊直弼暗殺の場である。
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・・・・・・・・・・・・・・櫓門の内側に几号水準点がある。
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●・・・・・・・・・・・・・・・・以上が皇居にて、見ることができる4ヵ所の几号水準点。 皇居の隣り、日比谷公園にも2か所に几号水準点があるので、チョイと“おまけ”に寄ってみた。


①日比谷公園亀石
・・・・・・・・・・・・まずは、日比谷交差点に近い心字池の畔にある敷石状の亀石に几号水準点が彫られている。 几号水準点は高さの基準点で、垂直に彫られていなければならないが、この石は水平に置かれた面に彫られている。 この亀石は牛込門にあったもので、当時は、そこで垂直に立っていたものを、移設し、寝かせたようだ。

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②日比谷公園烏帽子石
・・・・・・・・・・・日比谷公園内にある内幸町交番の後ろに、烏帽子(えぼし)石と呼ばれる石がある。 この石はもともと市ケ谷御門の石垣の中にあったもので、明治時代に道路拡張工事で石塁が壊され、ここに移設し保存されている。、、、、、保存は御門の石としての価値を評価して保存されており、几号水準点が彫られているから保存しているとは思えない。

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2015年10月15日 (木)

秋山~本八幡

北総線秋山駅からJR総武線本八幡駅まで、1万3千歩、10㎞の散歩です。

この辺りは、5月に秋山駅から本八幡駅 まで歩き、さらに先週は、東松戸駅から本八幡駅 まで歩いている。、、、、、、歩いた道も 歩いてない! 行ったところも 行ってない! ついにボケたか 顔見た妻に どちら様?


①松戸市から市川市に入る裏道
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・・・・・・・・・・・・・・駅前の広い道路が県道に突き当ったところに小さな階段がある。 上ると点在する農家の間に新興住宅が並ぶ住宅地に出る。

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・・・・・・・・・・・・・そろそろ葱の収穫かな? カラスの食べ残した柿もある。

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・・・・・・・・・・・・・松戸市秋山・市川市稲越付近の裏道には、直線道路はなく、南へ行きたくても西へ向かい、東に向かいたくても北に行く、よそ者にはイライラ、ムカムカ、頭にくる曲がりくねった道になる。、、、、、方向感覚の狂う道。

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・・・・・・・・・・・・・・厳島神社・・・・・・・・・市川市稲越町の厳島神社付近は、名だたる湧水地らしい。 古くから湿地帯であったが、近年は宅地化が進んでいるそうだ。、、、、、湧水のためか、参道は水にぬれてぐしゃぐしゃ、歩き辛いね!

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・・・・・・・・・・・・・・市境の道、、、、、、、写真左側の高台は松戸市高塚新田の住宅、右側の平地には市川市曽谷の住宅。

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・・・・・・・・・・・・・・市川市曽谷4丁目のアップダウン、、、、、階段・坂道、どちらもきついね!

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②曽谷貝塚
・・・・・・・・・・・羊でも飼って放したいような“牧草地”と間違える、市川市曽谷2丁目の史跡:曽谷貝塚。 只今、市では保存のため史跡部分の土地を買い上げている。、、、、、まだ、観光地として、売店、見学施設、トイレなど整備されていません。 興味のない人は行かない方がいいでしょう。

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③春日神社
・・・・・・・・・・・市川市下貝塚の春日神社。 近くの市川市曽谷2丁目にも春日神社はある。、、、、、無人の境内、由緒書きもない、あるのは境内を掃除する箒だけ。

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④昭和学院
・・・・・・・・・・市川市東菅野2丁目に、昭和15年(1940)創立の昭和学院がある。 学院は幼稚園から短大まで一貫 して教育する総合学園。 平成19年(2007)から新キャンパス計画が実施され、校舎・記念館などの増改築が進み、市川市景観賞を受賞するほど整備された。

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・・・・・・・・・・・・・・キャンパスの一画に、学院創立者:伊藤友作の自宅が移築されている。入母屋造の木造2階建ての住宅は、昭和6年(1931)の建築で、国の登録有形文化財に指定されている。、、、、、現在は、創立記念館として活用されている。

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2015年10月14日 (水)

上中里~田端

J京浜東北線上中里駅から、町屋、南千住方面に出る気持ちで歩き始めた。 都電宮の前停留所あたりで、歩く方向が変わり、散歩の終着地は田端駅となった。 1万2千歩、9㎞。


上中里駅
・・・・・・・・・・・東北新幹線高架橋が並行する、島式ホーム1面2線の地上駅。 昭和8年(1933)の開業。 駅舎はホーム南端から階段を上った滝野川の台地にある。、、、、、、駅は利用客数の少ないことでは、都内23区内のJR駅で、“ワースト○”の称号が与えられる程有名。 

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②梶原踏切
・・・・・・・・・・・・・上中里駅の北側にある、宇都宮線+高崎線の踏切。 ここも開かずの踏切として有名。 踏切の横にはエレベーター付きの立派な跨線橋があるのだが、不評のようで、電車が4本通過する10分間に利用した人はなかった。 踏切が下りている間のコミュニケーションも大事な近所付合いだ。、、、、、この光景を見ていた私は閑人のようだね。

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・・・・・・・・・・・・・エレベータの前で待つ人も、跨線橋を利用する気配なし。
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・・・・・・・・・・・・・左側の2線が宇都宮線+高崎線、右側は車両センター。

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③川口印刷工業東京支店
・・・・・・・・・・西尾久7丁目で、通りすがりに、チョイと古そうな表現派風の鉄筋コンクリート造の工場を見つけた。 外部を見た感じでは、昭和30年代以前の建築と思われる。 この建物の隣りでは、同社の新しい工場を建築中だ。

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④都電荒川車庫
・・・・・・・・・・・・荒川車庫は、荒川区西尾久にある都電の車庫で、営業所もある。、、、、、大正2年(1913)、王子電気軌道三ノ輪(現:三ノ輪橋)停留所~飛鳥山下(現:梶原)停留所開業に伴い船方車庫として開設された。 昭和17年(1942)には、東京市内の路面交通事業の統合により市電荒川電車営業所となる。 車庫前の停留所には数分おきに、カラフルな新しい都電が発着し見飽きない。

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・・・・・・・・・・・・・・・荒川車庫前停留所

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・・・・・・・・・・・・・車庫から本線に入線する三ノ輪橋行き

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・・・・・・・・・・・・・・朝一で、営業運転してきた車両が帰ってきた!

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⑤西尾久の建物
・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・下見板張りの木造平屋住宅。 同じ間取りと思われる住宅が2軒並んでいた。

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・・・・・・・・・・・・・・西尾久8丁目アパートは入居中(After)が1棟、消防検査中が1棟、立ち退き中(Before)が1棟と並んでいる。 

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・・・・・・・・・・・・・・西尾久8丁目、御影石を敷いた奥には和風住宅が静かに佇む
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・・・・・・・・・・・・・西尾久8丁目は曲がりくねった裏道が多い、、、、、、下町だ!

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⑥尾久八幡神社
・・・・・・・・・・・西尾久3丁目の八幡さま。 創建年代不詳だが、鎌倉時代末期(1312)に、神社周辺の地が鎌倉鶴岡八幡宮に寄進されたそうで、その頃に八幡さまも在ったようだ!

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⑦碩運寺
・・・・・・・・・・・尾久八幡神社前の都電道路をこえると、曹洞宗寺院の碩運寺がある。 碩運寺は、慶長元年(1596)に創建され、大正年間に本所石原町から現在の西尾久2丁目へ移転した。 大正3年(1914)に寺内にラジウム鉱泉が掘られ、寺は温泉の営業を開始した。 都電の開通と相まって、周辺は温泉街として温泉旅館・商店街が形でき賑わうこととなった。 碩運寺は「寺の湯跡」として知られている。、、、、、現在は敷地いっぱいに建物が建ち、どこで温泉を掘ったのか? 

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・・・・・・・・・・・・・寺の前の道は“すいろみち”と称し、江戸時代、農業用水として石神井川の水を引いて隅田川に注いでいた用水の跡らしい。 寺の前に案内板があった。、、、、、、この案内を読み、“ヨシ、この道を行ってみよう”と、即実行したら田端駅に着いた次第である。、、、、、細い裏道で、特に面白い興味を引くものは無かった。

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⑧旧瀧野川信用金庫本店
・・・・・・・・・・・“すいろみち”をひたすら道なりに歩き、出たところは北区田端新町。 その角に残る、旧瀧野川信用金庫本店の建物である。、、、、、昭和14年(1939)の戦時体制下、東京市滝野川区の地元有力者は、物資の不足・資金難に喘ぐ中小企業等の要望を受け、相互扶助の精神に則り地元の金融機関として、西ヶ原町に滝野川区信用組合を設立した。 太平洋戦争では、営業拠点の焼失などもあり、存続が危ぶまれたが、が拡大するなか、戦時企業の合同や転廃業、空襲の災禍による営業の拠点の焼失もあり、朝鮮動乱を境に経済復興の兆しも顕著となり、時代の要請を受け昭和26年(1951)滝野川信用金庫(現在ある滝野川信用金庫とは別組織)と改組した。、、、、、、今は無き信用金庫の跡。、、、、、、建物の窓・枠は木製、外壁のリーフレットなどが、時代を語っているが、建築年代は不詳。

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田端駅
・・・・・・・・・・・・・・

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2015年10月13日 (火)

市場町

稲毛でのパソコン同好会の帰り、千葉県文化会館に寄ってきた。 文化会館のある千葉市中央区市場町 は“丁目”による分割のない狭い町である。 しかし、町の中に、県庁、中央図書館、などもある、千葉県の中心的な町である。 千葉中央駅で下車し、ぐるり回って千葉駅まで、6千歩、5㎞のプチ散歩。


①千葉中央駅
・・・・・・・・・・・京成電鉄の駅で、津田沼方面からはこの駅までが京成千葉線である。 この先、ちはら台までの区間は京成千原線となる。 駅は2面2線の高架駅で、京成線の東隣りにはJR外房線が高架で並走している。、、、、、、大正10年(1921)、「千葉駅」として現在地の北東にある中央公園付近で開業した。 昭和6年(1931)、「京成千葉駅」に駅名変更。 昭和33年(1958)現在地に移転した。 昭和62年(1987)、「千葉中央駅」に改称。 平成4年(1992)には千葉急行電鉄(現:千原線)が開業し、千葉中央駅は終着駅から途中駅に変わる。

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・・・・・・・・・・・・・・昭和32年(1957)、京成千葉駅が現在の千葉中央駅へ移転する前年の、駅開業準備中の写真。 まだ高架駅にはなっておらず、地上駅の時の写真。 (京成社史「京成電鉄85年の歩み」より)

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②県庁前駅
・・・・・・・・・・・平成11年(1999)に開業した千葉都市モノレールの県庁前駅。 相対式2面2線の高架駅で、終端駅のため普段は1番線のみを使用している。、、、、、道路上に巨大なカエルがしゃがんで、こちらを見ているような印象を与える駅。 

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・・・・・・・・・・・・・・駅の隣りは県庁。

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・・・・・・・・・・・・・近くには千葉教会もある。
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③胤重寺
・・・・・・・・・・・県立中央図書館の隣り、千葉教会の東側、千葉城(博物館)の西の坂下に、浄土宗の胤重寺(いんじゅうじ)がある。 胤重寺は、千葉氏の支族武石胤重の後裔で僧となった雲巌が開基となり永禄年間(1558~1570)に創建された。、、、、、飾り気のない、何となく素朴な感じの寺。

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④千葉県立中央図書館
・・・・・・・・・・建物は大高正人の設計で、日本を代表する現存の近代建築の一つである。 戸田建設の施工により、昭和43年(1968)の竣工。 昭和45年(1970)のBCS賞受賞作品。、、、、、この建物を見ていると、今は明治村に移築されたライトの帝国ホテルを思い出した。 なぜだろう?・・・・・水平線を強調したフォルムが似ているようだ!

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⑤千葉県文化会館
・・・・・・・・・・中央図書館と地続きの隣りに、こちらも大高正人の設計、戸田建設の施工により、昭和42年(1967)に開館したコンサート用の文化会館がある。 鉄骨鉄筋コンクリート造り、地下3階地上3階で、1,787席の大ホールと252席の小ホールを備えている。 日本建築学会作品賞、BCS賞を受賞した作品。、、、、、千葉城の建つ丘の上から中腹にかけ斜面を活かし、大きさを感じさせない自然に溶け込んだ設計である。

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・・・・・・・・・・・・・・4階分ぐらいありそうな、天井の高いロビー中央。

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千葉城
・・・・・・・・・・・昭和42年(1967)の築城した、文化会館前に建つ現代の城。 内部は博物館。

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2015年10月 9日 (金)

東松戸~本八幡

北総線東松戸駅から、県道51号市川柏線沿いに歩いて総武線本八幡駅まで、1万4千歩、10㎞の散歩です。


①東松戸駅
・・・・・・・・・・・私の住む浅草橋からは、都営浅草線に乗り入れてる京成線のアクセス特急に乗ると、乗り換えなし、7駅目で26分で到着する。 便利だね!、、、、、駅は島式ホーム2面4線の高架駅である。 JR武蔵野線と交差するため、ホームは地上17mの高さにある。 通勤時間帯は、京成線(北総線)とJRの相互に乗り換える客で、人の流れは絶えないようだ。、、、、、、平成3年(1991)、北総開発鉄道の駅として、島式ホーム1面2線で開業。 平成10年(1998)にはJRの東松戸駅が開業した。

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②県道51号
・・・・・・・・・・松戸市の「紙敷」、「高塚新田」と呼ばれるこの付近では、県道は片側1車線で歩道とは段差なし、ここにバス・トラック・乗用車がビュンビュン通り、ときおりママチャリがサーと横をかすめ、危ねえな~~! 

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③気になるバス停
・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・東松戸駅前では、女性に寄り添うバス停(?)、、、、、バス停に車がぶつかったのか?

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・・・・・・・・・・・・・・「住宅入口」とは、イージーな命名!、、、、、ちなみに、バス停付近の地名は「高塚新田」、また近所に大規模な団地・公営住宅などはない、在るのは普通の民家だけ。 誰が、どうしてつけた名だ?
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④公団高塚団地
・・・・・・・・・JR武蔵野線市川大野駅から800mほど西のところに、住宅公団の分譲による5階建て、21棟、604戸の団地がある。 昭和45年(1970)の建築。 現在の中古価格は55㎡で600万円前後らしい、高いか?、安いか?、サッパリわからん!

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⑤図々しい分譲地
・・・・・・・・・・団地に隣接する分譲住宅。 看板、見てください誰が名付けたか、『セキハウスタウン リッチ市川 豪邸街』。 タウンの入口には、リッチ市川の竣工記念碑まである。 さらに付け加えると、ここは“松戸市”高塚新田、“市川市”ではないよ!、、、、、ここは、松戸の田園調布か(?) どう見ても“億”の住宅は見当たらないね! 

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⑥市川市の裏通り
・・・・・・・・・・高塚入口交差点を過ぎ、我が足は市川市下貝塚に踏み込んだ。 この辺りから、県道に沿った裏道が多くなり、我が身の安全も考え車の少ない道を行く。
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⑦白幡神社
・・・・・・・・・・・市川市宮久保4丁目の台地の上に鎮座する誉田別命・竹内宿禰・天満天神を祀る白幡神社。 創建は文明18年(1486、=室町時代)以前と言われている。 県道に面し参道入口の階段があり、そこを上ると八幡地区を一望する台地の上に立つことができる。 ここから、社殿までは細い参道を歩く。、、、、、、社殿は平成元年(1989)10月21日に竣工した。 奇しくもこの日は、私(雅万歩)の43歳の誕生日であった。(たまたまの偶然ですね!)

・・・・・・・・・・・・・県道から、きつい階段を上り参道に出る。

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・・・・・・・・・・・・・参道から眺めると、本八幡の高層マンションも見える。

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・・・・・・・・・・・・・・参道の突き当りにお社がある。

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⑧真間川
・・・・・・・・・・・・平成4年(1992)に竣工した宮下橋を渡り、真間川を越える。 川沿いにはサクラが植えられており、花見の時期には最高だ!

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本八幡駅
・・・・・・・・・京成八幡駅の横をとおり、総武線本八幡駅に到着。

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2015年10月 8日 (木)

一ツ橋

水道橋のクリニックで定期検診を受け、帰りに一ツ橋・神保町を回って御茶ノ水駅まで歩いてきた。 1万1千歩、8km。


①今荘
・・・・・・・・・専大前交差点を南に50m程行くと、角に唐破風の玄関、2階は丸窓、3階は神社風の破風、何とも妙ちきりんな建物がある。 遊郭のようで遊郭でない、それは何かとたずねたら、うなぎの「今荘(いまそう)」、アそう!、美味(うま)そうだ!、、、、、昭和8年(1933)の木造3階建てなり。、、、、、、なお、営業時間は一応11:30~14:00ですが、売り切れ御免です。

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②中華そば成光
・・・・・・・・今荘の前(神保町さくら通り入口)の中華料理店。 モルタル系の看板建築。

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③妙法衛護稲荷神社
・・・・・・・・・・・・神保町3丁目、共立女子大、帝国書院などの建物囲まれた裏道、ビルの谷間に鎮座するお稲荷さん。、、、、、、幕末の頃、この辺りは大名:小出家の屋敷があったが、明治になるとこの地域は町家となった。 神社を屋敷神として祀った小出家は神社を残してとんずらし、祠だけが残された。 町の住民は、いかなる神を祀ったものかも知らず、震災・戦災にも被災せずに残る神社を、お稲荷さんと想定してお護りしてきた。、、、、、創建時期は誰も知らず、社名は珍しい「妙法衛護稲荷神社」、謎の神社である。

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④雉子橋
・・・・・・・・・・日本橋川に架かる雉子橋(きじばし)は、一ツ橋の上流約300mの所にある。 江戸時代、この付近に櫓門があり、橋が架かっていた。 橋は、家康が朝鮮の使節を饗応するために、好物の雉子を囲った場所がこの辺りであったので、雉子橋と俗称が付けられたといわれている。、、、、、明治時代には、櫓門は撤去され、鉄橋が架けられたが、震災で被災した。 その後、大正14年(1925)に、現在の雉子橋が架けられた。 長さ32.89m、幅27.6mの鋼橋。、、、、、頭上に首都高5号線が走り、橋に影を落とし薄暗い。

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⑤一ツ橋
・・・・・・・・・・雉子橋の下流側に架かる「一ツ橋」。、、、、、橋名の由来は、家康 が江戸城に入った頃は、この場所に丸太の一本橋が架かっており、「一ツ橋」と名付けられた。 寛永年間(1624~1643)になると、この丸太の一本橋の城内に「一ツ橋御門」が造られた。 徳川御三家の一つ、「一ツ橋家」は、八代将軍:吉宗の子:宗尹(むねただ)が、将軍から「一ツ橋御門」の傍に屋敷を与えられたことから始まっている。、、、、、現在の橋は、震災復興橋の一つで、大正14年(1925)完成した。 一見、3スパンの石橋風に見えるが、中央部分は鋼製桁の橋で、両端部がアーチ状の石積みである。 長さ30.8m、幅28.0m。、、、、、、、歴史ある橋も、頭上の首都高に邪魔され、薄暗く、ヨレヨレの疲れ果てた姿で、見るのも辛いね。 

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⑥住友商事竹橋ビル
・・・・・・・・・・雉子橋の南詰に建つ「住友商事竹橋ビル」。平成13年(2001)までは住友商事の本社ビルであったが、地上16階/地下4階建てのオフィスビル。

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⑦パレスサイドビル
・・・・・・・・・・昭和41年(1966)に竣工した、竹橋の濠の横に建つ長い建物。 昭和40年代の代表的な建築だ!、、、、、林昌二/日建設計の設計により、昭和41年(1966)に竣工した、地上9階/地下6階のオフィスビル。 毎日新聞が入居している。、、、、、、、パレスサイドビルはアントニン・レーモンド(聖路加病院 を設計した)が設計した、細長い木造の山小屋風のリーダーズ・ダイジェスト社社屋があった跡地に建てられている。 “リーダーズ・ダイジェスト”懐かしい本だ!

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⑧竹橋
・・・・・・・・・・・パレスサイドビル前の内濠に架かる橋。 橋名の由来は、初めは竹で編んだ橋が架かっていたからと伝えられている。、、、、、現在の橋は、平成5年(1993)に大林組にて補修された、長さ51.05m、幅22.8mのコンクリ-ト橋。 橋のデザインは大正15年(1926)の橋を踏襲している。

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・・・・・・・・・・・・現竹橋の西詰には、元和6年(1620)に造られた江戸城の竹橋門のあった石垣の一部が残されている。 この石垣に几号水準点 が彫られている。、、、、、土に埋もれ、チョイとかきだしてから撮影。 散歩も手が汚れ、労働を伴う、辛いこともある!

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⑨丸紅本社ビル
・・・・・・・・・・丸紅東京本社ビルのある大手町1丁目付近の土地は、一橋家の敷地の一部であった。 当時:江戸時代の地図では、現在の気象庁・大手町合同庁舎 あたりまでの間に18,000坪に近い広大な敷地があったそうだ。 その後、この土地は気象庁のものとなったが、昭和39年(1964)に気象庁が隣接地に新築移転し、跡地を三菱地所・日本セメントに払い下げられた。 昭和45年(1970)、その一画にて丸紅本社の新社屋の建設工事に着手し、昭和47年(1972)に竣工した。 地上16階/地下4階。、、、、、、大手町地区の再開発の話があり、このビルも建て替えとなるのか?

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2015年10月 7日 (水)

西新井~五反野

東武伊勢崎線(スカイツリーライン)の栗橋行急行にのった。 いつものように、『今日はどこで下車しようか?』車中で思案している間に西新井駅に到着。 次はの停車駅は“草加”と車内アナウンスを聞いて、反射的に飛び降りた。 そして、本能的に駅前ロータリーのある西口に出た。

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駅前で『どっちの方角に歩くか?』、これまた“思案橋”。 考えること5分、私の横を美人OLが駅へ急ぐ、またまた反射的・本能的に、後を追いOLは改札内へ消えた。

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寂しい男一人、東口へ出てみた。 『よし決めた、今日は伊勢崎線の東側を歩いてみよう!』。、、、、、、、結果は、裏道・路地裏をぬい五反野駅まで、1万歩、7㎞の散歩です。

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①西新井駅東口の彫刻
・・・・・・・・駅前に飾られている彫刻。 『第5回足立区野外彫刻コンクール 入賞作品 テーマ:ドリーム 作品名:生成Ⅳ 作者名:奥野誠 制作:1994年 作者のことば:混沌とした夢の中から 整然とした夢の世界への生成 [生きる 宇宙]』と標されてる。、、、、、芸術的・審査員的な評価は私にはできないが、一声『気に入った!』。 左右の乳房のようなデッパリ、下にタマタマのような珠二つ、若い黒人女性の肌のように黒光りする石、いいね!、、、、、、私は、朝っぱらから何を考えているのか???

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②梅島の住宅地
・・・・・・・・・足立区梅島の裏通りには、比較的新しい住宅が多い。 歩いていると、奥さんが施錠して外出する家が数件見られた。 おそらく、夫婦二人と子供の世帯だろう。 夫は会社、子供は学校、妻はその間にパート。、、、、、空き巣に狙われやすいね、鍵は2ロックしましょう! 

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③緑に囲まれた住宅
・・・・・・・・・・『おみごと!』の一言。 空き家にツタが絡まるのはよくあることだが、梅島3丁目のこのお宅は空き家ではなく人が住んでいる。 その証に、玄関ドアだけは開くようだ。 ガスメータも検針可能。 念のため、狭い裏側も見て来たが、家一棟、完璧にツタに覆われていた。 隣に住むお婆さんも『綺麗に覆われてますよ!』と褒め言葉(?)、、、、、、緑豊かな空気に囲まれ、健康的な生活か?

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④ベルモント公園
・・・・・・・・・・・梅島駅の北側の裏通りに囲まれたところ(梅田1丁目)に「ベルモント公園」がある。、、、、、『なんで、こんな裏道の奥にトマトジュース屋の公園があるのだ!』、『近くにジュースの工場でもあるのかな?』、『企業イメージ向上の一環で、足立区に公園を寄付したのかな?』、いろいろな思いが、私の頭の中でグルグル回る。、、、、、、とりあえず、中に入り案内板を見ると、『この公園は、1984年10月1日に足立区と姉妹都市になった、オーストラリアのベルモント市との友好交流を記念してつくられました。・・・・・』と書かれていた。 トマトジュースの「デルモンテ」と間違えた!、、、、、、開園は平成5年(1993)で、約13,000㎡の広い園内は池と芝生が中心で、中央にオーストラリアの工芸品や日用品を展示するレンガ造りの洋館が造られている。、、、、、、手入れの行き届いた美しい公園。、、、、、、念のため、トマトジュースは売ってません!

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⑤日光街道
・・・・・・・・・・国道4号(日光街道)を横断し、足立区役所 のある中央本町に入る。
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⑥五反野の商店街
・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・駅前の「五反野ふれあい通り商店街」 

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・・・・・・・・・・・・・駅からチョイと北に寄った「弘道商店街

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2015年10月 6日 (火)

渋谷~恵比寿

渋谷駅から高輪方面に歩き始めた、途中で寄った神社・史料館・学校と、行った先々で話し相手ができて先へ進めず、結局恵比寿駅までのプチ散歩となった。 8千歩、6㎞。



①渋谷駅大改造
・・・・・・・・・・・昨年7月31日に起工式が行われた渋谷駅の大改造工事が始まった。、、、、、まずは、旧東横線渋谷駅と東急百貨店の一部の跡地に、地下7階、地上46階の「渋谷駅街区東棟」建設。 JRは東横線跡地を利用し、山手線と埼京線ののホームを並列させ2面4線にする。 さらに大改造は現在の東横百貨店を取り壊し、跡地に「渋谷駅街区中央棟・西棟」も造る予定だ。 完成はオリンピック以降となる予定。、、、、、久しぶりに渋谷駅で下車した私には、駅前は仮通路で囲まれ、どこに出るやら、サッパリわからん!

・・・・・・・・・・・・・東横線渋谷駅は取り壊された。 小さい写真は平成12年、同位置から撮影。

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・・・・・・・・・・・・・道路上に残されている東横線の跨道橋。 まもなく撤去される。

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・・・・・・・・・・・・・・駅前(旧東急文化会館跡地)に建つ、地上34階建ての「ヒカリエ」。 造られている「渋谷駅街区東棟」は、このビルより45m程さらに高くなる。

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・・・・・・・・・・・・・ものはついでに、昭和31年(1956)開業の旧東急文化会館。 懐かしいプラネタリュウムのドーム屋根。  (写真:ヒカリエhpより)

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②金王八幡宮
・・・・・・・・・渋谷駅から国学院大の方に向かう途中の渋谷3丁目に、寛治6年(1092)、渋谷の地に渋谷城を築いた渋谷氏の祖となった河崎基家によって創建された金王八幡宮(こんのうはちまんぐう)がある。 当初は渋谷八幡と称していたが、社名の「金王」は、基家の子:重家の嫡男常光がこの神社に祈願して金剛夜叉明王の化身として生まれたことにより金王丸と称したことに由来しているそうだ。、、、、、現在の社殿は、慶長17年(1612)、春日局によって造営された。 権現造りで、彫刻・彩色の美しい社殿だ!

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③豊栄稲荷神社
・・・・・・・・・金王八幡宮とは道路を挟んで隣同士の神社。 昭和36年(1961)に、渋谷駅近くにあった田中稲荷神社(渋谷氏によって創建されたという。)と道玄坂にあった豊澤稲荷神社が合祀されて建立された神社。 現社殿は昭和47年(1972)の造営。

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④氷川神社
・・・・・・・・・・国学院大学前には氷川神社がある。 創建は古く、渋谷で最古の神社である。 日本武尊東征の時代で、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)と素盞鳴尊(すさのおのみこと)が祀られており、恋愛成就の神社である。 私もしっかりと手を合わせ、御利益を期待する。、、、、、、現社殿は昭和13年(1938)の造営で、一昨年に大改修工事を行い屋根の銅板などが張り替えられた。

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⑤銅板建築の魚屋さん
・・・・・・・・・・・・金王八幡宮参道脇に建つ魚屋。 この付近では、古い建物になった。

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⑥S邸
・・・・・・・・・・・氷川神社の近くに建つ住宅。 こちらも、古くなってきた。

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塙保己一史料館・・・・・・・・・・氷川神社の近くにある。 塙保己一(はなわほきいち):江戸時代の盲目の国文学者が編纂した『群書類従』の版木(17,244枚)を管理・保存する目的で建設された建物。 昭和2年(1927)、清水組(現:清水建設)の設計・施工で建てられたRC造2階建の建物で、正面中央に円形の玄関ポーチが在り、左右に翼を広げるデザインだ。 所蔵する版木と共に、建物も国の登録有形文化財。

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⑧広尾小学校
・・・・・・・・渋谷区東3丁目に建つ、関東大震災の復興小学校。  鉄筋コンクリート造3階建ての校舎は、昭和7年(1932)の竣工。 玄関廻りには多くの装飾が施されている。 校舎には、消防車が併設されていたことから、屋上には火の見櫓としての塔屋が備えられている。 校舎は国の登録有形文化財。

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2015年10月 4日 (日)

羽田6丁目

都心側から空港のある空港島に入るには、首都高ができる以前までは、海老取川に架かる弁天橋を渡って入った。 その弁天橋の北側に天空橋が架かっている。 今日の散歩は、この天空橋に近い京浜急行天空橋駅 で下車し、羽田6丁目の路地裏を歩き回って大鳥居駅 まで、1万歩、7㎞です。

①海老取川・・・・・・・・・・海老取川(えびとりかわ)は、多摩川下流の大田区羽田6丁目から分岐して、東岸に空港施設が広がり、西岸は町工場・住宅が密集する工場地帯の間を流れ、途中、新呑川と合流して東京湾に注いでる。

・・・・・・・・・・・・多摩川から分岐する海老取川、、、、、、左側の鳥居は羽田に残る穴守稲荷の大鳥居、、、、、周囲の人だかりは、TVドラマの撮影中、邪魔だ!どいてくれ!

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・・・・・・・・・・・・弁天橋・・・・・・・・・・平成16年(2004)に、間組の施工で架け替えられた、空港に発着する乗り合いバスが引っ切りなしに通る、空港への交通の要所。
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・・・・・・・・・・・・釣り日和の空の下、のんびり、日曜日を過ごす住民

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・・・・・・・・・・・・かつては空港からよく見えた看板の鉄骨、空港は沖合に移転し看板の宣伝効果は無くなった。、、、、すでに歴史遺産(?)となりかけた鉄骨だ! 

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・・・・・・・・・・・・天空橋・・・・・・・・・地下の天空橋駅から地上に出ると、目の前は雑草の生える空港の空き地。 そして一本の人道橋が架かっている。 この人道橋が、駅名になった「天空橋」。 幅約3m、長さ約74m、鉄道橋梁の中古活用かと思わせる、さび色のガータ橋で、平成5年(1993)に竣工した。 

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②羽田6丁目の町
・・・・・・・・町の北側は弁天橋を通るバス通り、南側は多摩川、東側は海老取川と多摩川の分岐点、西側は“隣の町”。 昔からの漁村らしい光景がチラリチラリと見え、また終戦直後に住みついた住民も多くゴチャゴチャした密集地区でもある。

・・・・・・・・・・・・・チョイと古そうな建物が、、、、漁師さんの家か? 商店か?、、、、当時の商売を想像すると、興味は尽きないね!

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・・・・・・・・・・・・・裏道の奥では釣り餌を売る家もある。 知る人ぞのみ知る餌屋さん(?)

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・・・・・・・・・・・・・細い裏道が、曲がり、続く、、、、どこへ出るのか楽しみだ!

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・・・・・・・・・・・・・大正7年(1918)から行われた多摩川の河川改修工事で築かれたレンガ造りの堤防 。 今はレンガ堤防の外に家が建ち、さらに外側に堤防ができている。

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・・・・・・・・・・・・・現在の堤防から、多摩川に架かる大師橋を遠望する。 シャレた斜張橋だ!

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・・・・・・・・・・・・・・昭和63年(1988)に造られた、鋼製ローラゲート1門、高さ19.5m、長さ23.5mの羽田水門は、船溜まりをしっかりと守っている。 施工は大成建設。

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・・・・・・・・・・・・・・最近、修繕したらしい住宅。 新建材を使用せず、木材を利用して風情を残すとは、いいね! きっと、家主は江戸っ子だ!

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・・・・・・・・・・・・・・こちらの路地のさらに奥にも住宅があった。 しかも、勝手口でなく、れっきとした玄関だ。 

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・・・・・・・・・・・・・おや、あじのある町内会の掲示板だ。 味がありすぎ、しぼり出し過ぎて、チョイとしからびたかな?、、、、10月は定例会・カラオケ大会・資源回収と忙しい。 振り込め詐欺にも、ご用心、ご用心。

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・・・・・・・・・・・・・雑誌が顔を出すコンビニ袋をぶら下げて、男一人で戻って帰る路地裏のアパート。 マンガを見たら、たまったパンツの洗濯だ!

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・・・・・・・・・・・・・東京湾の鷗が多く、大漁の兆しとしてまつられたことから鷗稲荷神社と名付けられた、創建年代不詳の鷗稲荷神社。 境内の鳥居には、「弘化二年乙巳年三月吉祥日」と刻まれている。 弘化2年(1845)は、12代将軍徳川家慶の時代なり。

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●・・・・・・・・・・・・・・・・羽田空港のイメージ・空気とは大きく異なる、“羽田”の町。 ぜひ、探訪を!

2015年10月 2日 (金)

立石~四ツ木

朝から昼過ぎまで、所用で散歩ができず。 夕方近くになり、京成押上線立石から四ツ木まで、夕景色を見ながらの散歩。 9千歩、7㎞。

●・・・・・・・・・・まずは立石駅で下車。

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●・・・・・・・・・・・京成の高架化工事により取り壊しの運命となった呑んべ横丁 、、、、まだ壊されず数件の店が営業中。、、、、金がない 会社帰りに よる横丁

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●・・・・・・・・・・こちらは、そろそろ忙しくなる「立石仲見世」商店街。 すでに、飲み屋の前には行列が!
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●・・・・・・・・・・・・昭和10年頃に建てられた高級マンション(?)。 現在、居住者は一人だけ、、、、、いつ壊す 俺が死ぬまで まってくれ!

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●・・・・・・・・・・昭和48年(1973)に鉄筋コンクリート造で再建した社殿が堂々とひかえる、葛飾区東立石の川端諏訪神社。 川端村が立石村から分村した天正元年(1573)に村の鎮守として創建した。

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●・・・・・・・・・・・中川に架かる平和橋

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●・・・・・・・・・・・平和橋から望むスカイツリー

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●・・・・・・・・・・・徳川家の祈祷所・御膳所として庇護され、江戸名所として賑わった木下川薬師(きねがわやくし)。 今は、園児を保護し、四つ木の名所として賑わう浄光寺と直営の幼稚園である。、、、、、ほれ!薬師さん 夕日に坊主 ダブル光線 まぶしいよ

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●・・・・・・・・・・・かつては「木根川商店街(きねかわしょうてんがい)」、今は理髪店と中華料理店が細々と営業中。、、、、、、客のいない 暖簾の奥に みえる姿は 猫ばかり

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●・・・・・・・・・・・荒川土手から見るスカイツリー

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●・・・・・・・・・・・駅前の商店街に寂しさを感じる四ツ木駅、、、、、仕事終えたぞ 一人で飲むぞ 俺は寂しい チョンガーだ

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2015年10月 1日 (木)

水道道路 (笹塚~明大前)

昨日は「水道道路」を新宿から十号通り商店街(笹塚)まで歩いたので、今日はその続きで和泉の給水所まで歩いてきた。 笹塚から明大前まで、1万2千歩、9㎞の散歩。


①水道道路
・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・朝、十号通り商店街から駅に向かうサラリーマンがゾロゾロと、、、、、商店街を抜けると水道道路に出る。

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・・・・・・・・・・・・・水路跡の都営住宅・・・・・・・・・「水道道路」の南側には、40番台の棟番号を標した都営住宅が並んでいる。、、、、、、『いったい、何棟あるのだ?』 チョイと気になり、暇なので、地図上で水道道路に面して建つ都営住宅を数えてみたら25棟程あった。 思ったより少ないね!

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・・・・・・・・・・・・・・全体的に周辺道路より高い位置にある水道道路に接続するため、階段、スロープが各所にある。

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・・・・・・・・・・・・・・道路沿いの建物は、1階から水道道路に出て、地下からご近所に煮物の御裾分け、、、、
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・・・・・・・・・・・・・水道道路は渋谷区から杉並区に入り泉南交差点(杉並区和泉1丁目)で、「環七通り」と交差する。 交差点の先は1車線の一方通行道路となる。(写真中央の細い道) 新宿方面から来ると直進できない。、、、、、、この交差点付近に十五号橋が架かっていたそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・・環七通りを越えて、泉南交差点の細い道(水道道路)の入口に立つ、、、、、、次の写真は、環七通りを挟んで水道道路の新宿方面を望み、その次の写真は180度振り返ってパチリ。 まるで終戦直後、悪ガキが遊んでいたような裏道の景色に一変する。

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・・・・・・・・・・・・・・チョイと、子供の頃を思い出すタイムスリップした水道道路である。、、、、、この道を30m道路に拡張する都市計画があり、建物を新築できず、戦後の雰囲気が残っているらしい。(地元の理髪店の店主が話してくれた。)

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・・・・・・・・・・・・・・水道道路をさらに進むと、「和泉明店街」と称する商店街に出る。 これまた、昭和の商店街だ。、、、、、、この付近に十六号橋があったそうだ。
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・・・・・・・・・・・・商店街を抜けた先は道路沿いに細長い公園が続く。、、、、、空き地には、フェンスが設けられ、所有者名が記されていた。

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・・・・・・・・・・・・・総延長約4.5kmの水道道路(=東京都道431号角筈和泉町線)の終点:和泉二丁目交差点に到着。

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・・・・・・・・・・・・・交差点横に和泉給水所のタンクと、玉川上水公園が出迎えてくれる。

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②LA PORTA IZUMI
・・・・・・・・・・・杉並区和泉1丁目に外部のデザインが変わった、奇妙奇天烈な5階建てのマンションがある。 平成2年(1990)の建築で、設計はドラード早稲田を手掛けた梵寿鋼(ぼんじゅこう)。、、、、、設計者の梵寿鋼の本名は田中俊郎で、「日本のガウディ」の異名を持っている。、、、、、前を通ったので、チョイと立ち寄ってきた。

・・・・・・・・・・・・建物の横に、天翔るペガサスが迎え。 金髪をなびかせ、妖しく身をくねらせた女性が、入口に誘うマンション。、、、、、、、電柱・電線が邪魔だ!

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・・・・・・・・・・・・・誘われ玄関に立つと、吹き抜けにはステンドグラスに浮き出た女性像と、他の3面は穴の開いたイボイボの面が不思議な空間を創る。

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・・・・・・・・・・・・・・足元の階段は、蛸の足、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・マンションの入口は、、、、、なんじゃ! コレ!

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