稲毛~作草部
稲毛に行った帰り、千葉市稲毛区の戦争遺跡をみてきた。 8千歩、6㎞。
①稲毛駅・・・・・・・・・・・数年前から稲毛で行われているパソコン同好会に出席している。 今日もその帰りにプチ散歩。、、、、、、稲毛駅は、明治27年(1894)に総武鉄道(市川~佐倉)が開通し、5年後の明治32年(1899)に幕張と千葉の間に開業した古い駅である。、、、、昭和40年(1965)頃までは、まだ沖合の埋め立てが進んでおらず、海に近い駅であった。 私も、海水浴・潮干狩りに連れて来てもらった記憶がある。 今や、海は遥か彼方に行った。
②大日寺・・・・・・・・・・・・・千葉大西千葉キャンパスの東側にある真言宗豊山派の寺。 寺は、千葉頼胤が源氏三代の霊を供養するために、建長6年(1254)に松戸に創建した。 その後、頼胤の子胤宗が千葉氏の菩提寺として弘安7年(1284)、現:千葉市中央区中央付近へ移転した。 昭和になり、戦災で全山焼失し、現在地の稲毛区轟町に移転、再建した。、、、、、、、さほど大きな寺ではないが、落ち着いた雰囲気の癒しの寺である。
・・・・・・・・・・・・・古い建物はないが、千葉氏十六代廟所として、墓碑である五輪塔(鎌倉時代から室町時代のものと言われている)が建立されている。
③来迎寺・・・・・・・・・・・・大日寺と道路を挟み向い合せにある、浄土宗の来迎寺は建治2年(1276)一遍上人を開基に千葉貞胤が建立したと伝える古刹。 この寺も大日寺と同様に、千葉市中央区にあったが、戦災で被災し現在地に移ってきた。、、、、、、本堂には山号額も架かっておらず、まるで老舗の温泉旅館風の建物である。
・・・・・・・・・・・・境内には7基の五輪塔が並び、千葉氏胤以下7名の紀年銘が見られる。五輪塔は室町時代初期のもので、氏胤ゆかりの追善供養塔と考えられている。
④旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築・・・・・・・・・・・・・稲毛区轟町の住宅地は、かつて陸軍関係の施設が建ち並んだ場所で、その住宅地の一角に、千葉経済大学がある。 キャンパス内に、かつての陸軍鉄道第一連隊の材料廠の赤煉瓦の建物が残されている。 この建物は、明治41年(1908)に建てられた、アーチ構造の煉瓦造で、南北の長手方向に幅2.7mの下屋を付設し、煉瓦構造の主要部分は54.4m×7.3mと細長い。 この建物は、明治41年、鉄道連隊材料廠の機関車の修理工場として建築され、昭和20年からは旧日本国有鉄道が大蔵省から借り受けて、レール等の修理工場として使用し、昭和60年から千葉経済学園の所有となった。 一部にはレールも残されている。、、、、、、2年ぶりに立ち寄ってみたが、何も変わっておらず、貴重な文化財として、補修をしっかり行い保存して欲しい。
⑤「陸軍用地」の境界石・・・・・・・・・・・稲毛区天台と作草部の境界に位置する交差点に、「陸軍用地」と標した境界石が残っている。 モノレール天台駅・作草部駅の周辺には、軍の施設が多数あったそうだ。、、、、、石も削られ文字が判読できなくなってきた、戦後70年、まだ忘れてはならないね!
⑥旧陸軍気球連隊格納庫・・・・・・・・・・・稲毛区作草部の台地の上に、風船爆弾の作戦を実施した陸軍気球連隊の格納庫跡が残されている。 風船爆弾は、直径は約10メートルの風船で、楮を原料とした和紙をコンニャク糊で幾層にも貼り合わせて気密性を保って作られ、水素ガスを詰めて米国本土に向け飛ばすものである。 その製作に、東京、京都、大阪など都市部の女学生が動員され、ここ作草部や、国際劇場、日劇など天井の高い大空間の施設が使われた。、、、、、、格納庫は現在「川光倉庫株式会社」の米穀倉庫として利用されている。
⑦作草部神社・・・・・・・・・川光倉庫の近くに、大雷神などが鎮座する作草部(さくさべ)神社。 公園と地続きで隣り合う神社だが、無人の神社。 かつては、皇室領であったとも言われている。、、、、、、この神社も、気球連隊の施設内にあったものか?
⑧千葉県計量検定所・・・・・・・・・・・・作草部にある千葉県計量検定所の敷地は気球連隊跡地。 そして、敷地内に残る木造倉庫は連隊の施設であったらしい。
⑨作草部駅・・・・・・・・・・・・作草部駅(さくさべえき)は千葉都市モノレール2号線の駅で、ホームは2面2線。 平成3年(1991)の開業。
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