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2015年12月

2015年12月31日 (木)

一年の〆

平成27年(2015)も今日でおしまい。 散歩は、今年も家族で浅草へ、年越そばを食べ、浅草寺へ一年の御礼参りし、最後は田舎しるこで〆た。、、、、、平穏無事に過ごせた今年一年、神と仏に感謝して、来年こそジャンボ宝くじが当たりますように、アーメン!!

●・・・・・・・・・・・時刻は17時を過ぎ、日は落ち、明かりが灯る

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●・・・・・・・・・・・蕎麦屋の玄関先では、お持ち帰り用の蕎麦を売る可愛い娘が御出迎え。

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●・・・・・・・・・・・新仲見世、仲見世を抜けて浅草寺へ向かう、、、、、大晦日の夕暮れだというのに、相変わらず外人観光客が多いね。

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●・・・・・・・・・・・初詣客を迎える浅草寺はライトアップしてスタンバイ。

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●・・・・・・・・・・・・本堂内には大きな賽銭箱が用意されている。、、、、、10億円ぐらいは、楽に入りそうだ。 宝くじより確実な金儲け!

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●・・・・・・・・・・・・手を合わせた後は、チョイと、ひと休み、、、、

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●・・・・・・・・・・・・ゴロゴロさまに、来年もよろしく! 

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2015年12月30日 (水)

浅草橋~上野

我が家の片付け、年始の準備もほぼ終わり、あとは家内が重箱に詰めるだけ。 私の出番は無くなったようだ。 日が沈む前に、歳の瀬の巷の様子を見に、散歩に出た。 浅草橋の我が家から、商店街を廻って上野駅まで、8千歩、6㎞の歩きです。


①銀杏岡八幡神社
・・・・・・・・・・まずは浅草橋駅裏の我が氏神様へ、明日の大祓いで、この一年間の家族の罪や穢れを祓い清めてもうため、形代(人型の紙に名前と歳を書いたもの)を託してきた。、、、、、、私の穢れは、一生、落ちないようで、毎年、怪我・大病・大損と、何かと天罰を受けている。 たまには、宝くじの一等に当たり、イタリア美人に囲まれて、ローマ風呂にでも入りたい。 こんなこと言ってると、風呂に入って、のぼせて、ポックリてなことになりかねないね。 ♪♪どうする どうする スチャラカチャン♪♪

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②福栄会
・・・・・・・・・・・我が家から20m程の「福井町通り」にあった商店街。、、、私の住む処は、かつて新福井町と称した。 それ以前は福井町であった。 どちらにしても、越前福井藩邸が在った地で、名はそれに由来している。 現在は浅草橋2丁目となった。、、、、、浅草橋駅の在る1丁目と、我が家の在る2丁目の境の通りが「福井町通り」。 マイナーな通りで、地元の人も「福井町通り」と言われると、首をかしげる人が多いかも?、、、、この通りには、昭和30年頃まで、「福栄会」と言う商店街があった。 さらに、近くには弁天堂があり、毎月13日・26日に縁日が開かれていた。 八百屋・魚屋・パン屋・そば屋・呉服屋・下駄屋・衣料品屋・惣菜屋・本屋・・・・・私が思いたすだけでも、30店舗以上あったが、いまは、まぼろしの商店街となった。 通りの両側にはビル・マンション、どこにでもある普通の商業地区となった。

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・・・・・・・・・・・・・・弁天堂はなくなり、福井町通りに面した銭湯の入口に弁天様が祀られている。、、、、、銭湯の名は弁天湯。 私の母(92歳)が、いまだに通う銭湯で、お世話になってます。

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③おかず横丁
・・・・・・・・・たまにはTVにでてくる、鳥越1丁目の商店街「おかず横丁」。 長さ200mほどの横丁の商店街。 周辺は家内工業・職人の町で、商店街には惣菜店・魚屋・八百屋・味噌屋・菓子屋などの、働く人向けの店舗が多かった。 半分以上の店は商売をやめたようだが、佃煮屋、味噌屋など数件、元気な店がある。、、、、、、私の小学校の同級生も、この横丁には10名ぐらいは居たと思う。 60年の時が流れ、友達も流れてバラバラ。

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④佐竹商店街
・・・・・・・・・・おかず横丁を抜け、150m程北へ向かうと「佐竹商店街」(台東区台東3丁目、4丁目)のアーケードがある。 明治31年(1898)に商店街組合を結成し、金沢の片町商店街に続き、日本で2番に古い商店街である。 商店街名の“佐竹”は、江戸時代に当地に出羽国久保田(秋田)藩の上屋敷(藩主:佐竹氏)があったことに由来する。 商店街の北端は、春日通りで“御徒町”までは、目と鼻の先。 客が減り、日ごとに寂しくなるようだ。

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・・・・・・・・・・・・・・全長350m程の商店街を抜けると、春日通りに出る。 アーケードの右隣のビルは「つくばエクスプレス」を運営する首都圏新都市鉄道(株)の本社。、、、、、、春日通りの地下には、つくばエクスプレスと地下鉄大江戸線の新御徒町駅がある。

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⑤多慶屋
・・・・・・・・・・・春日通りと昭和通りが交差する台東4丁目交差点に来ると、急に人出が多くなる。 この人たちは、安売りの店「多慶屋(たけや)」の客だ。 周辺に複数の店舗があり、それぞれ、1号館、2号館、インテリア館、レディース館などの名がついている。 戦後、現在地にて質屋から大きく成長した企業。 店舗の外装は全て紫色に統一され、ポイントカードは紫、レジ袋は紫の印刷、何とも紫の好きな店だ。 ついでに、江戸紫も売っていた!、、、、、交差点周辺は、東南アジア系と思われる人々で、大変な混雑!

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⑥アメ横
・・・・・・・・・・・昭和通りを越えて、御徒町駅の北側に、御存じ「アメ横」がある。、、、、、「アメ横」の名は、戦後、闇市となり様々な物品が売られており、特に飴を売り捌く店が当時200軒以上あった事から「アメヤ横丁」と呼ばれ、それが略され「アメ横」と呼ばれることが多くなった。 私も、動物ビスケットや駄菓子などを一斗缶単位、一箱単位で買いにいった記憶がある。 その頃は、まだ食料品が中心の横丁で、ガード下では駐留軍から流れた、化粧品、チョコレート、タバコなども売っていた。、、、、もちろん日本人を相手とした商売であった。 今は、売り手は黒人、買い手は東南アジアの人、何だか世の中変わったね!

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・・・・・・・・・・・・・・まずは、JR高架下の店舗へ、、、、、、昔ながらに、チョコレート、キャンディ、ガムなどを売る店もあった。

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・・・・・・・・・・・・・・アメ横の一画、海産物を売る店が並ぶ通りは、警察官が誘導し、本日は一方通行だ。、、、、、出口から入っちゃダメだよ、入口から出るのはOKだよ。 アレ?日本語通じないようだ、、、、、アメチャンタラ、ギッチョンチョン、困ったね!

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・・・・・・・・・・・・・・ぐるり入口に回って入ってみた。、、、、、確かに、混んでるね!

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・・・・・・・・・・・・・・アメ横センタービルの地下も探訪することに、、、、、地下から上がってくる外人さん

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・・・・・・・・・・・・・・こちらは、完全に東南アジアの人で満員!、、、、、豚肉を買う中国の人、綺麗な韓国の人、、、、、どこの国も、正月の準備だ。

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・・・・・・・・・・・・・・ケバブ、都まんじゅう、、、、いろいろ食べて、お祭り気分は観光客。

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●・・・・・・・・・・・上野駅に着いた。

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2015年12月27日 (日)

千住柳町

日没になる前に、千住氷川神社の几号水準点を見てこようと思い、北千住駅から歩き、ついでに、かつて千住遊郭のあった千住柳町周辺を歩いてきた。 1万歩、8Km。

・・・・・・・・・・・・千住遊郭とは、、、、、千住遊郭は、大正中頃までは旧日光街道の千住宿場の中に点在していたが、警視庁により、現在の千住柳町が新遊郭地として指定され、旧日光街道からの移転組を含めて16軒の遊郭でスタートした。 関東大震災では、損害は軽微で、他の地域から業者も転入してきた。 昭和4年(1929)時で、貸座敷53軒、娼妓330人が居た。 戦後は昭和32年(1957)の赤線廃止まで営業は続いたが、廃止となると、全ての業者が他のまぎらわしい商売に変えることなく、完全に廃業した。、、、、、そのため、私の散歩の対象となる、それらしき建物、それらしき町の雰囲気は、50年の歳月の間にほぼ消えてなくなった。


①千住本氷川神社
・・・・・・・・・・・足立区千住には、“氷川神社”が4社もある、今日はその内の2社「千住本氷川神社」と「大川氷川神社」を歩いていた。 千住本氷川神社(足立区千住3)は、北千住駅と西側の日光街道(国道4号)の中間に位置している。、、、、、、徳治2年(1307)に牛田の地にて創建され、江戸時代初期には、現在地に分社として建立された。 昭和45年(1970)には、鉄筋コンクリート造で社殿を新築した。

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・・・・・・・・・・・・・・境内には、昭和45年の社殿新築により、旧社殿を末社(大黒天を祀っている)として保存している。 旧社殿の向拝は、千鳥破風、その前面が唐破風となり、二重の破風を形成し、頭貫や虹梁の部分には、龍や鳥類の彫刻が施されている。

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②氷川神社
・・・・・・・・・・千住大川町にある氷川神社。 創建は永仁年間(1293~1298、鎌倉時代)で、かつては、現在の千住5丁目地域の鎮守であった。 明治44年(1911)から荒川放水路工事により、現在地に移転再建された。 現在の本殿は昭和43年(1968)に竣工。、、、、、、今日は日曜日で休みなのか? 暗くなって早々と店じまいしたのか、拝殿の扉は閉じられていた。

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・・・・・・・・・・・・・・今日の散歩の目的である、几号水準点が境内にある。、、、、社殿前の燈籠の隣りに、当地が江戸時代から紙すき業が盛んであったことを記念して、大正6年(1917)に建立された、「紙すきの碑」がある。 この碑の台座部分に几号(「不」の字の形)水準点が彫られている。
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・・・・・・・・・・・・・境内には、荒川に架かっていた初代千住新橋の親柱も保存されている。 初代の千住新橋は大正13年(1924)に、119万円(当時の帝国ホテルのシングル宿泊料は8円)の費用を費やし完成した。

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③ニコニコ商店街
・・・・・・・・・・・千住大川町と千住柳町の境に、ニコニコ商店街がある。 名前に負けたのか、寂れに寂れてにこにこ笑ってはいられない、危機的な商店街となっている。 夕暮れの商店街には人影は数えるほど、街路灯が綺麗に並ぶ光景は、寂しくなるだけだ!、、、、、、遊郭街の裏門があった商店街とは思えない。

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④タカラ湯
・・・・・・・・・・・昭和2年(1927)に荒川土手近くでタカラ湯は開業した。 昭和13年(1938)、道を挟んだ現在地(千住元町)に移転・改築。 昭和から平成へ変わっても、銭湯は変わらず営業中。 

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・・・・・・・・・・・・・・風呂が沸いたと案内する「わ」板。 風呂を掃除中(湯を抜いたときは)は、「ぬ」板。
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⑤千住大門商店街
・・・・・・・・・・その名のごとく、千住遊郭の大門(おおもん)の近くにあった商店街だ、しかし遊郭の跡を示す物証はない。 今は、落ち着いた地域密着型の商店街である。

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・・・・・・・・・・・・・・・商店街の寿司屋さん。  看板の電話番号は局番が3桁の時代のままだ!

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・・・・・・・・・・・・・そろそろ店じまいの時刻となったようだ!

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・・・・・・・・・・・・・・大門商店街のアーチの横に在る十字路。 写真中央が、かつての目抜き通り「仲通り」。 この四つ角に大門(遊郭街の正面玄関)があった。
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⑥千住柳町の裏道
・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・古い建物は取り壊され、大きな空き地が目立つ!

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・・・・・・・・・・・・・・遊ぶ子もいない公園、、、、、私の幼き頃は、日が落ちても公園で遊んだものだが、今は日中でも遊ぶ子は少ないね。

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・・・・・・・・・・・・・・どこを歩いても、遊郭時代の建物はなくなった。

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・・・・・・・・・・・・・「ブリキヤ」さんの横に出た。 

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⑦千住寿町の建物
・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・昭和5年(1930)の建築と言われてる中村畳店

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・・・・・・・・・・・・・・こちらは、昭和4年(1929)の建築、大黒湯

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●・・・・・・・・・・・・・北千住駅に戻って、帰ることに、、、、、

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2015年12月26日 (土)

白金北里通り

地下鉄南北線の白金高輪駅で下車し、港区白金の町の中央を抜ける白金北里通り(都道305号の白金1丁目交差点~恵比寿3丁目交差点、約1.2km)を歩き、帰りは裏通りを通って白金高輪駅まで、9千歩、7㎞の散歩です。

・・・・・・・・・・・「港区白金」の町の南側は「港区白金台」で、超金持ちの「シロガネーゼ」が住んでいるのは白金台である。 白金台をとおる有名な道が「プラチナ通り」。 白金に住む人の中には、“城がねーぜ”の人もいる。


①白金高輪駅
・・・・・・・・・東京メトロの南北線と、都営地下鉄の三田線が乗り入れている駅。 平成12年(2000)に開業した、島式ホーム2面4線の駅である。 駅名は、駅の東西の町、「高輪」と「白金」に由来する。、、、、、、ホームで電車を待つ人を見て“セレブ”かと思ったが、よく考えるとホントの“セレブ”は電車に乗らないね!

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②白金1丁目交差点
・・・・・・・・・・都道305号(白金北里通り)の始点。

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立行寺
・・・・・・・・・白金高輪駅の西側(白金2)に、法華宗陣門流の立行寺がある。 寛永7年(1630)、旗本大久保彦左衛門(大久保忠教)によって麻布六本木にて創建された。 寛文8年(1668)に旧地が火災に遭い、現在地に移転した。、、、、、、境内には鞘堂付の大久保彦左衛門の墓がある。 近くに一心太助の墓もあるが、架空の人物と言われているので、怪しいね(?)

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④白金氷川神社
・・・・・・・・・・・白鳳年間(650~654年頃)に、所謂白金村の総鎮守の氏神様として、大宮の氷川神社を遥拝する当地に建立された。 江戸時代、明和9年目(1774)、目黒の行人坂から出た火災により類焼、その後、大規模な権現造りの社殿が造営されたが、昭和20年(1945)戦災で被災し、社殿は焼失した。 昭和33年(1958)、現在の本殿・拝殿・参道・社務所等の境内整備が行われた。

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・・・・・・・・・・・・・後醍醐天皇・護良親王・楠木正成公はじめ203柱の吉野朝の諸忠臣を祀る境内社「建武神社」もある。

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⑤北里研究所/北里大学
・・・・・・・・・・北里研究所は、大正3年(1914)、北里柴三郎により設立された私立伝染病研究所。 現在は、北里大学、北里研究所病院などもある。 本部は、白金5丁目。、、、、、、只今、大村智特別栄誉教授のノーベル賞受賞で、大学はお祭り騒ぎかと思っていたが、予想外に静かであった。

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・・・・・・・・・・・・・・薬学部3号館の屋上に尖塔が?、、、、、この尖塔は、大正4年(1915)に芝白金に、北里柴三郎が建てた研究所本館尖塔のレプリカである。 木造二階建ての旧北里研究所本館は、30年前に愛知県犬山の明治村に移築され、現存している。

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・・・・・・・・・・・・・・・・北里研究所病院前の庭に鎮座するコッホ・北里神社。 細菌学の父ロベルト・コッホのもとに集まった弟子の中で北里柴三郎が1番優秀で忠実な弟子だったそうだ。 北里はコッホ博士に心からの尊敬と信頼をささげた。 コッホ博士亡き後も自らが所長を務める伝染病研究所に師の遺髪をまつる祠を建てて恩を偲んだ。 北里の死後門下生が隣に北里祠を建てた。 昭和20年(1945)、東京大空襲で北里祠は焼失するがコッホ祠は無事で、これを機に師弟が合祀され、コッホ・北里神社となって、現在の前庭に祀られた。

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⑥昭和の街並
・・・・・・・・・・・北里研究所から恵比寿3丁目交差点にかけ、白金北里通りには昭和の匂いが残る看板建築・長屋建築などが残っている。

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⑦亀屋橋
・・・・・・・・・・・・北里研究所病院の裏手に位置し、古川に架かる小さなトラス橋。、、、、歴史の在りそうな、古い橋だ! 昭和初期に架けられたのか?

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⑧古川地下調節池整備事業
・・・・・・・・・古川は、護岸が老朽化し、水害の危険性も有しているため、平成10年度から整備が進められている。 その一環として、白金5丁目では、洪水被害への対策として、護岸整備と併行して、洪水ピ-ク時における河川の水を一時的に貯留させることを目的とした地下調節池を整備している。1時間50ミリメートル程度の降雨に確実に対応できる施設として、平成20年度から事業に着手し、平成25年度までに調節池トンネルが完成した。 平成27年度末取水を開始し、平成28年度末までに事業完了を予定している。、、、、、、、普段は水量も少ないようで、洪水は想像できないが、、、、、備えあれば憂いなし。

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2015年12月25日 (金)

銀座

毎日が日曜日になって8年目、私のイメージでは、歳を取るにつれ暇な時間が増えるはずだが、、、、、今年の年末は、なぜか忙しい。 日中の散歩が難しいので、夕方、久しぶりに銀座に行ってみた。

・・・・・・・・・・やはり、爆買ツアーが大勢、銀座通りにウロチョロ、ガヤガヤ、、、、、何だか、落ち着いた街並みを観光している客が、街中のラーメン屋の前にたむろして、食い散らかしているような感じだ。、、、、、裏通りを歩き、銀座のクリスマスに触れてきた。 

・・・・・・・・・・・・・・そろそろ夜の部の開演時間  

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・・・・・・・・・・・・・電飾の飾りつけも技術が向上し、美しさ倍増

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・・・・・・・・・・・・・・Oh! Wonderful!  Beautiful !

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・・・・・・・・・・・・・山野楽器のツリー。 隣のミキモトは只今工事中。

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・・・・・・・・・・・・・Oh! 足の長いお姉さん。 短足の私には羨ましいね!

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・・・・・・・・・・・・・クリスマスの夜になってきた!

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・・・・・・・・・・・・・・きよし この夜 二人は あつい あとで サンタが 子をくれる

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・・・・・・・・・・・・・・ウィンドの紳士・淑女もお出迎え。

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・・・・・・・・・・・・・・外人さんもウィンド・ショッピング

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・・・・・・・・・・・・・・オヤ? どこぞの可愛い娘。、、、、、つい、カメラを向ける悪い癖。

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・・・・・・・・・・・・・今週の私は、連日、街角でお会いしている救世軍の社会鍋。 歳の瀬を感じる懐かしい光景。 

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・・・・・・・・・・・・・爆買いツアーも ここまで来ない 静かに歩ける裏通り

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・・・・・・・・・・・・・・そろそろ子供は おねむの時間 早く寝てねと 頼む親

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2015年12月22日 (火)

船橋~西船橋

稲毛へ行った帰り、船橋駅で下車しブラリ散歩してきた。・・・・・・先月、船橋駅から京成西船駅まで京成本線沿いに歩いたので、今日は、船橋駅から西船橋まで千葉街道沿いに歩いてきた。 7千歩、5㎞。



①船橋駅南口
・・・・・・・・旧市街地側の出入口で、賑わいは絶えないようだ。 駅前では、地上11階/地下1階のJRの駅ビルを建設中。

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②船橋市街地へ
・・・・・・・・・・JR船橋駅、京成船橋駅の周辺は、相変わらずゴチャゴチャしている。 (私の好きな町並みだが) 道は狭く、真っ直ぐ伸びておらず、チョイと怪しい店もあり、夜は楽しそうな町だ、、、、?

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・・・・・・・・・・・・・・海神遊郭があったと言われている本町2丁目から海神1丁目あたりを歩いてみると、道は狭く、それらしい雰囲気は何となく感じられるが、今は住宅地と変わってる。、、、、、、住宅地と変わる町に唯一残るソープランドも、町の歴史を知らない人は、“なぜこんな処にあるの?”と言いたいくなる。

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・・・・・・・・・・・・・・ソープランドの近くには、平成25年(2013)まで、千葉県唯一のストリップ劇場「若松劇場」があった。 閉館した劇場は既に取り壊されたが、私の手元には数年前の写真が何故か残されていた。、、、、、、遊郭の時代は、姿を消したね!

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③海神稲荷神社
・・・・・・・・海神1丁目に鎮座するお稲荷さん。 創建年代不詳だが、彦左衛門家の屋敷神だったと言われている。 慶安年間(1648~1651)に地蔵院の管理となった。、、、、、、拝殿はシャッターが下り、“アレ、休み?”と思ったら。 『参拝はコチラから』の貼り紙があり、素直に従うと、拝殿と本殿の間で参拝することになっていた。 賽銭箱はシッカリ本殿前に置かれていた。

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④地蔵院
・・・・・・・・・海神1丁目、海神稲荷神社の近くにある、真言宗豊山派の寺。 寺の案内によると「天正3年(1575)僧長蓮、法印勝誉の創建」といわれてる。、、、、、本堂の脇には「お願い地蔵」が祀られている。、、、、、私も、手を合わせヨロシクとお願いしてきた。 「何をお願いしたかは、ナ・イ・ショ」 

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⑤海神念仏堂
・・・・・・・・・・・船橋市海神1丁目の海神念仏堂には、古そうな石仏・墓がゴロゴロしている。 実際には、享保5年(1720)の地蔵立像、寛延2年(1749)の庚申塔などや、明暦3年(1657)の墓などがある。

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・・・・・・・・・・・・・元禄14年(1701)には江戸神田の商人高麗屋佐治右衛門が寄進した観音堂が境内にある。 この高麗屋は豊臣秀吉の朝鮮出兵の折に、加藤清正が連行した現地朝鮮の人の子孫といわれてる。

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・・・・・・・・・・・・・・・堂の傍らに、船橋市内最古の道標が残っている。 元禄7年(1694)の銘があり、「右 いち川みち  左 行とくみち」と記されている。 近くにあったものを、移設したそうだ。

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⑥式内元宮入日神社
・・・・・・・・・・・総武本線の線路を千葉街道が通る跨線橋で越えると、すぐ右下に、海神村の鎮守「式内元宮入日神社」がある。 この地は第12代景行天皇の王子:日本武尊が東夷征討の折り、伊勢より海路を利用し上陸した地点の一つである。 その上陸を、記念し且つその偉徳を偲び、併せて郷土守護、五穀豊穣、豊漁の神として社を建立し崇拝して来たのが入日神社である。、、、、由来を聞くと歴史を感じるが、社殿はチョイとお粗末だ。

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⑦あかもん寺
・・・・・・・・海神6丁目、京成バスの停留所名「赤門寺前」の元となる、真言宗豊山派の大覚院。 天正17年、権大僧都法印秀巌和尚の創建と伝えられてる。 鎮守龍神社の別当であり、海上安全を祈る寺であった。、、、、、本堂は、大正11年(1922)に大改築をし、現在に至る。、、、、、念のため、東京大学とは無関係です。

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⑧龍神社
・・・・・・・・・海神1に鎮座する、創建年代不詳、古くからの海神村の鎮守さま。 赤門寺の大覚院がかつては別当であった。、、、、、海神の名前の起こりになったという、龍神を祀っている龍神社である。 神社は、別名阿須波(あすは)の宮と呼ばれ、海上安全を守る神社とされた。

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・・・・・・・・・・・・・・龍神社の境内に、几号水準点 (きごうすいじゅんてん)が残っている。 ここの几号水準点は、狛犬の台座前の花崗岩に刻まれ、古さを感じない。赤○の中に“不”型の水準点がある。 おそらく、明治初期に内務省が設置した几号水準点よりも、後の、新しい時期に設置されたようだ!

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⑨山野浅間神社
・・・・・・・・船橋市西船で、千葉街道に面して参道が出ている。 嘉永3年(1850)創建の神社。 富士山浅間神社を祭った神社で、社殿は千葉街道から急な石段を上り、長い参道を歩き、さらに石段をチョイトのぼり、疲れたころに拝殿に達する、奥深い御利益のありそうな神社だ。 社殿は昭和47年(1972)に増改築が行われた。

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⑩西船橋駅
・・・・・・・・・・・JR東日本・東京メトロ・東葉高速鉄道の駅である。、、、、、昭和33年(1958)、総武本線の駅として開業した。 昭和44年(1969)には、地下鉄東西線が開業し、昭和53年(1978)には武蔵野線が開業、そして平成8年(1996)に東葉高速鉄道線が開業。 3社5路線が乗り入れる千葉県内では、利用客数の最も多い駅。、、、、、私が知る、西船橋は何もない処に突然できた駅で、中山競馬場の最寄駅として造られたような駅だった。 当時、駅周辺はラブホテルと、ストリップのOS劇場があるだけの駅。 今や、通勤の要所となった。 でも、駅周辺には大規模施設が、いまだにないね!

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2015年12月20日 (日)

高円寺

青空の下、北風が後方から吹き付け、チョイと寒さを感じ、マフラーを巻き直したくなる日だ。 荻窪方面でも歩いてみようかと家を出たが、電車に乗っているうちに、「高円寺」(寺)に行ってみようと、「高円寺」(駅)で下車し、駅南側の「高円寺」(町)周辺を歩いてきた。 1万歩、7㎞。


①高円寺駅
・・・・・・・・・・新宿駅~立川駅間に甲武鉄道が開業したのは、明治22年(1889)で、明治39年(1906)に国有化された。 高円寺駅は大正11年(1922)に開業。 昭和41年には現在の高架駅となる。、、、、、駅で地図を見て、高円寺に行く前に長仙寺に寄ってみることにして。 今日は南口に出た。、、、、、東京駅で、八重洲口に出て丸の内口に行くには、大変! 我が浅草橋駅も、西口に出て東口に行くには駅の端から端まで歩くので、チョイとしんどいね! 高円寺駅は、改札が1か所で、右へ曲がれば南口、左へ曲がれば北口、駅の中を通り抜けできるので、違う出入口に出てもすぐに反対側の出口に行ける、便利でいいね!、、、、、「私 北向き あなたは 南 ともに 寝返り 仲直り」

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長仙寺
・・・・・・・・・・・杉並区高円寺南3にある真言宗豊山派長仙寺は、宝永元年(1704)に創建された。 戦災で堂宇を全焼し、昭和44年(1969)に鉄筋コンクリート造の寝殿造りの現本堂と庫裡を再建した。 昭和56年(1981)には八脚門が建てられた。、、、、、高円寺駅まで、直線距離で50m程、駅前商店街の一画にある。 しかし、樹木が茂る静かな広い境内は、門前に飲食店が並んでいることを忘れさせる。、、、、、呑めない私は、スグ忘れるが、酒好きは寺を忘れて酒を忘れず。、、、、、、「寺で 念仏 おわれば 呑み屋 家で 待つ神 知らぬが仏」 

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③高円寺
・・・・・・・・・駅名となった、正真正銘の高円寺。弘治元年(1555)に開山した、曹洞宗の寺院である。 将軍徳川家光が鷹狩りの際、度々立ち寄り、お茶の接待をした徳川家ゆかりの寺。 本尊は観音菩薩で、「桃園観音」と呼ばれている。(チョイと艶っぽい名で、ぜひ一度、拝んでみたいね。)、、、、、寺は寛保2年(1742)、弘化4年(1847)、明治33年(1900)、昭和20年(1945)と4度罹災し、現在の本堂は昭和28年(1953)に宮大工・中村青雲により再建された。(只今、本堂は瓦の葺き替え工事中。)

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・・・・・・・・・・・・・境内の開運子育地蔵堂。 堂内を覗くと、“子作り”地蔵堂かと思った。、、、、、高円寺駅北側の高円寺庚申通り商店街にも、似たような御神体が祀られている。、、、、、、、ナイショで、小型のレプリカを持ってる信心深い人もいるようだ。

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・・・・・・・・・・・・・・高円寺参道の南側に桃園川緑道がある。 桃園川は、杉並区天沼3の天沼弁天沼公園を水源として、杉並区、中野区を通り、北新宿付近で神田川に合流していた。 戦後、近隣の宅地化がすすみ、桃園川も昭和40年代までにすべて暗渠化された。 その上に、杉並区、中野区が緑道を整備し、現在は約2.3kmの緑あふれる遊歩道となっている。、、、、、その「桃園」の名は、江戸時代、高円寺の境内に桃の木が多くあり、将軍が「桃園」と呼ぶように命じたそうだ。(その後、桃園は中野に移された。)

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④カトリック高円寺教会
・・・・・・・・・・・教会は昭和3年(1928)東京で10番目の教会として誕生した。昭和6年(1931)に地下聖堂として建てられたが、戦災で焼失し、昭和24年(1949)地下聖堂の上に現在の聖堂がたてられたそうだ。 聖堂の下にも出入り口があるのはそのためらしい。、、、、、、シンプルで落ち着いた感じのする教会だ!、、、、、、今日は日曜礼拝で、多くの信者が集まっていた。 遠慮して、チョットだけパチリ!

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・・・・・・・・・・・・・・・3年前に撮った写真。

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⑤真盛寺
・・・・・・・・・青梅街道と環七通りが交差する杉並区梅里1に、天台真盛宗の東京別院で、本山は滋賀県大津:西教寺である、天羅山養善院真盛寺(しんせいじ)がある。 寛永8年(1631)に現在の文京区湯島に創建され、その後、谷中、本所に移り、大正11年(1922)に現在地に移転した。 江戸日本橋の越後屋(現:三越)の菩提寺である。 境内は広く、庭は綺麗に手入れされ、静寂と威厳と平穏を感ずる。

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・・・・・・・・・・・・・・墓地へ、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・ここの墓地は、公営の霊園のように区画も広く、まさに仏の安住地である。 その一画には、三井組の大番頭で、三井財閥の中興の祖である三野村利左衛門の墓、そして三越社員墓所などもある。

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⑥堀の内三丁目アパート
・・・・・・・・杉並区堀ノ内3、環七通りに面して1棟だけポツリと建つ、昭和44年(1969)完成の14階建て(291戸)都営住宅。 屏風のように、視界を遮り、威圧するようだ。

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⑦妙法寺
・・・・・・・・・・・堀の内3の、元和(1615~1623=徳川秀忠の時代)の頃、真言宗の尼寺であったが、日蓮宗に改宗した。 元禄12年(1699)には身延山久遠寺の直末となり、日蓮大聖人の像があらゆる災難除けに霊験あらたかであることから、「堀ノ内やくよけ祖師」と呼ばれている。、、、、、、「厄払い 神社に行こうか お寺に行こか できることなら尼寺へ」

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・・・・・・・・・・・・・妙法寺の鉄門・・・・・・・・・・この鉄門(国の重要文化財)は、鹿鳴館、岩崎邸、ニコライ堂などを設計した、英国人建築家:ジョサイア・コンドルの設計により明治11年(1878)に完成したものである。 寺に和洋折衷のデザインによる門とは、奇異ではあるが、モダンな組み合わせ。 門柱の左右には漢詩もある。

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●・・・・・・・・・・・・・・今日は、各寺に賽銭をはずみ、懇ろに手を合わせ、年末ジャンボの一等当選と、家内安全をお願いしてきた。、、、、、、「神よ 仏よ ジャンボ 当てて 願い かなって ポックリと!」 (早死にしたくないので、2等の1000万円でもいいね。)

2015年12月18日 (金)

土器の出土地 弥生

我が家(浅草橋)から、御徒町、東大、根津、谷中を回って鶯谷駅まで、1万5千歩、11㎞の散歩です。

9軒長屋+9軒長屋 ・・・・・・・・台東区台東4丁目には、9軒長屋が向い合せに建つ狭い路地がある。 路地には、自転車、洗濯機、エアコン屋外機などが置かれ、路地中央のマンホールの蓋とともに、長屋の景色にリズムを奏で、演出している。、、、、、お江戸の長屋は、「のぞき 聞き耳 なんでも OK すべて オープン プライバシー」。 そして長屋の住人は、「若い 二人は 深夜に 燃える 火元が 心配 眠られぬ」

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②御徒町駅
・・・・・・・・・大正14年(1925)、鉄道省の駅として開業した、現在は京浜東北線電車および山手線電車の2系統が停車する。、、、、、島式ホーム2面4線の高架駅で、出口は北口と南口の2か所がある。、、、、写真は、大正14年、竣工時の御徒町駅。

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・・・・・・・・・・・・北口はアメ横に近い春日通りに面している。南口は松坂屋の駐車場前に出る。 駅は只今改良工事中。

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・・・・・・・・・・・・・・南・北出口の中間にでは、高架下の店舗を取り壊して工事していた。 そこに、煉瓦造の構造物を見つけた。 おそらく、竣工時の駅舎の一部と思われる。、、、、、私は、煉瓦の構造物を見つけると、興奮する癖があるようだ。 美人を見るともっと興奮するのだが、、、、、?

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③不忍池のカモメ
・・・・・・・・・・・カモメを見つめて、独り言、、、、、「沖の カモメに 深酒 させて かわい あの子と 千鳥足(?)」

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④暗闇坂
・・・・・・・・・・・東京大学本郷キャンパスの北側に位置する、約300mの緩やかな坂。 坂は、東大弥生門と、弥生美術館・竹久夢二美術館に挟まれている。 、、、、、坂の案内板には、「暗闇坂 (くらやみざか)   江戸時代は,加賀屋敷北裏側と片側寺町の間の坂で,樹木の生い茂った 薄暗い寂しい坂であったのであろう。 江戸の庶民は,単純明解に このような坂を 暗闇坂 と名づけた。23区内で同名の坂は 12か所 ほどある。区内では,白山5丁目の 京華女子高校 の裏側にもある。 この坂の東側 鹿野氏邸(弥生2-4-1)の塀に,挿絵画家,高畠華宵の記念碑がはめ込まれている。華宵は,晩年 鹿野氏の好意でこの邸内で療養中,昭和41年7月に亡くなった。大正から昭和にかけて,優艷で可憐な画風で 若い人たちの大きな共感を呼んだ。   文京区教育委員会  昭和59年3月」と、記されている。

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・・・・・・・・・・・・・・写真、右側が弥生美術館・竹久夢二美術館、左側は東大

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・・・・・・・・・・・・・・東大の弥生門と門の正面に建つ工学部第3号館。 工学部3号館は平成25年(2013)に、旧建物の外壁を保存し改修工事が完了した。 旧建物は、内田祥三の設計で、昭和14年(1939)に完成した。

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・・・・・・・・・・・・・弥生美術館の近くの住宅:S邸。 昭和初期の建物か?

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⑤東京大学浅野キャンパス
・・・・・・・・・・・・東大の本郷地区のキャンパスは、安田講堂のある本郷キャンパス、主に農学部が使用する弥生キャンパス、工学部が使用する浅野キャンパスの3キャンパスに分かれている。 (それぞれのキャンパスは至近の距離にあるが、間に公道が通り、分断されている。)、、、、、、浅野キャンパスは、暗闇坂の北側にあり、住所は文京区弥生2丁目である。、、、、、校舎の建物は、戦後に建てられたものが多い。

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・・・・・・・・・・・・・・キャンパスの奥に保存されている「弥生二丁目遺跡」。 弥生式土器と命名された土器が出土したのは向ヶ丘貝塚と呼ばれる地点だが、その現在地は不明となった。 浅野キャンパス内には、遺跡が複数あり、弥生二丁目遺跡を含め、弥生式土器の出土地となっている。

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・・・・・・・・・・・・・・言問い通りに沿いのキャンパスの一画に、「弥生式土器発掘ゆかりの地」の碑が建てられている。、、、、、、今日は石碑の横の枝を植木屋さんが切っていた。 碑文の下が読めないが、「弥生式土器発掘ゆかりの地」と彫られている。

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⑥サトウハチロー住居跡
・・・・・・・・・・文京区弥生2丁目に住んでいた、詩人サトウハチローの住居跡。、、、、、サトウハチローの詩、最近、耳にしなくなった。 不勉強の私だけか? 40年前は、披露宴の最後に、新郎新婦の母に感謝するメッセージとして、必ず誰かが読んだもんだ。 詩を聞いて、涙して、ありがとうして、宴はお開きに!

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⑦異人坂
・・・・・・・・・・・文京区弥生2丁目の北側にある坂。 名の由来は、、、坂の風景が長崎の坂の街に似ているので、異人坂と呼ばれたという説、、、、昔は坂下から見上げると坂上に異人さんが住んでいるようで、異人坂と呼ばれたという説、、、、どちらが、いいかはお好みで!、、、、、、坂上には東大農学部があり、この辺は浅野侯爵の所有地が多くあったそうだ。 坂の途中に刻まれている、「昭和6年2月工事竣成 浅野侯爵家建設」なるプレートは何を意味するのか?

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・・・・・・・・・・・・・・異人坂の上には、チョイと歴史がありそうな住宅(弥生2)が建っていた。

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・・・・・・・・・・・・・・札幌旅館は数年前に閉館し、廃墟化していた。 弥生に在って、札幌とは?、、、、、北海道からの修学旅行客相手に営業していたのか? 私の勝手な憶測だ!

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・・・・・・・・・・・・異人坂から西へ進むと、東大農学部にぶつかり、道なりに曲がり、奥へ進むと階段坂となる。 下れば、文京区弥生から文京区根津に変わり、根津神社(根津権現) に出る。

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●・・・・・・・・・・・・・・・・・この後、根津を抜け、鶯谷駅へ

2015年12月17日 (木)

そろそろ正月の準備

今年も、残り15日余り。 我が家も、そろそろ年末モードに切り替え! 妻は、既に数日前から、カーテンの洗濯、レンジフードの油落し、など、、、、着々と進めているようだ。  『パパ、“御年賀”買うの忘れないでね!』と、そろそろ毎年おなじみの、年末の言葉が飛び始めた。 こちらも、『あいよ!』と、いつもの調子で返事を返す。、、、、、ところで、60代後半の歳となり、もう『パパ』はないだろう! 道端ですれ違ったキャバレーの熟女ホステスに、声を掛けられているようだ。  

どんな言葉で呼んでもらおうか?、、、、、『パパ』はないな、『おじいちゃん』は年寄りみたいだ、『お父さん』は改まりすぎ、『あなた』は強い調子で言われると喧嘩で、甘い調子で言われると夜と間違えるし、使用する音程とTPOが難しい、『主さん』は遊郭用語、『オイ』は論外、『ねえ、チョイと』は主語がない、『マーちゃん』は幼稚だね、『○○(名前)さん』は来客用、、、、、、決めるのが、なかなか難しいね。 当分は、今のまま、キャバレーの雰囲気を味わうことにするか!

・・・・・・・てな、わけで今日は、午前中に散髪屋に行って頭を刈って、午後は夫婦で銀行に呼ばれお話聞いてカレンダーと手帳を貰い、合間に年賀状を書き、、、、、、年末モードに切り替えた。

・・・・・・・今日は、散歩休みです、、、、

散髪屋・・・・・・・・・・・私は、15年程前まで、お祭り好きの夫婦が営む散髪屋で刈ってもらっていたが、親爺が他界し後は足が遠のき、今は常床の無い状態。 ある時は、秋葉原の「ダンディー○○」なる、男の美容院へ行き、ピチピチの娘に、顔中にオイルを塗られ、油を採られ、頭部のマッサージに、耳をほじくられ、、、、、いい~~気持ちになっていたら。2年後に潰れた! 次に行ったのは、両国駅の「QB××」。 安いが、家に帰ると、顔中毛だらけ猫灰だらけ、風呂に入るまで、上半身、痒~~い、、、、、もう、止めた!  今日は、浅草橋の散髪屋、お値段はお手頃価格。 でも、鬚を剃った後、親爺さんの荒れたカサカサの手で、メンソレを塗られて鼻の下がヒリヒリ状態となった。 シャンプーは季節外れのクールシャンプーで、一瞬のヒヤーを我慢すれば、頭がキリット締まり、ホッとした。

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宝くじ・・・・・・・・・・・浅草橋駅から100mの範囲内に、宝くじ売り場が3ヵ所もある。 ジャンボはどこで買おうか?、、、、、、

・・・・・・・・・・・・・・一番人気は駅東口を出た直前のボックススタンド。 売り場は左から「せっちゃんの窓口」、「秀じいの窓口」、「ひでちゃんの窓口」と3ヵ所ある。 この中でも、「秀じいの窓口」には行列ができている。、、、、ボックスの中で、サンタ姿の80歳ぐらいのおじいさんが鈴を鳴らして売ってくれます。 うん! 当たりそうだ! でも、30分待ちで並ぶのは嫌だ。、、、、、、“秀じいさん”、食事と用便どうするのだろう? “運”が逃げないように、我慢するのかな。

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・・・・・・・・・・・・・・二番人気は駅を出て、100m程行った「みずほ銀行」内の売り場。いつでもスグ買えます。 サービスでティッシュは貰えますが、神頼みは銀行裏の八幡神社へセルフサービスで行ってください。、、、、、ちなみに、売り場には若い娘はいません。

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・・・・・・・・・・・・・・三番人気は江戸通りを挟み、駅の向かい側に在る「宝くじプラザ」。 こちらは、招き猫を祀って、椅子まで用意し、「門前市を成す」状態を期待したのか、現実は「閑古鳥が鳴く」状態。

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・・・・・・・・・・・・・・私は、「みずほ銀行」の売り場で買いました。 今日から10億円の使い道を考えなければならず、仕事が増えた!



●地下鉄浅草橋駅
・・・・・・・・・・都営地下鉄浅草線の浅草橋駅は、江戸通りの下に改札とホームがあり、JR浅草橋駅東口とは同一建物で繋がっている。 

・・・・・・・・・・・・・・壁に埋め込まれたプレートには、「地下鉄浅草橋停車場」と標されている。 そして、私には懐かしい会社名が、一番下には「完工 昭和36年5月」の文字が、、、、昭和36年(1961)、54年前だ。 私は15歳の中学生、紅顔の美少年の頃。 この頃の現場は、杭はハンマーで叩き、鉄骨はリベットで接続し、ストーン・ストーンとたたく音、ダダダダダーと打ち込む音、賑やかで、うるさい現場だったが、懐かしい。

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・・・・・・・・・・・・・・地下鉄の改札を出て、地上に出れば、そこは宝くじ売り場の真ん前だ!、、、、、、、ここでは、外人観光客に、「浅草」と「浅草橋」を間違えて「観音様はどこですか?」と訊ねられることがある。 こんなとき、男性の外人には「この道を歩いて行きなさい。(徒歩:45分)」と江戸通りを指さし、教える。 去って行く後ろ姿に“ニタ”と笑う。 女性の外人には「この地下鉄で2つ目ですよ。(所要:5分)」と地下鉄の改札まで見送る。 去って行く後ろ姿に“ニコ”と笑う。、、、、、どうやら、私は国際親善に不向きかも?

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●・・・・・・・・・・・・あら、あら、やーね、えどうしたの? 今日も、おちゃらけ、ホイ、サッサ!

2015年12月16日 (水)

東京~赤坂見附

品川方面を歩いてみようと思い山手線に乗ったら、東京駅直前で車窓から丸の内の黄葉のイチョウが見え、衝動的に下車した。 大手町の黄葉の多くは散ったあとで、私の足は皇居、国会議事堂、山王神社を抜け赤坂見附駅まで、1万1千歩、8Kmの散歩となった。


①東京駅丸の内駅舎前で
・・・・・・・・・・夜汽車にゆられ いびきで眠れず 母の手を引き やっとこ着いた、『東京だょ おっ母さん』。 朝の駅前に降り立てば、朝弁の焼売のカスが入れ歯に残り、チョイと匂うね!、、、、、一粒で二度おいしい崎○軒の焼売だ! 

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・・・・・・・・・・・・・・まずは、おらーの村にゃ無い 西瓜(Suica)で乗れる駅だっぺ。 駅さ、造ったのは 唐津の役人のせがれ「辰野金吾」郎だっぺ。

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・・・・・・・・・・・・・駅の前には、天を突くよな 高け~ぃビル。 腰さ曲がって、上さ見るのはつれ~ぃもんだ! “丸ビル”だって? 丸くねえぞ、真っ直ぐだ!

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・・・・・・・・・・・・・イチョウの黄葉、綺麗なもんだ。 おら~も、ビフィブスヨーグルト毎日飲んで、胃腸は綺麗なもんだ!

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②皇居
・・・・・・・・・・・♪♪ 久しぶりに 手をひいて 親子で歩ける うれしさに 小さい頃が 浮んで来ますよ おっ母さん ここが ここが 二重橋 記念の写真をとりましょうね ♪♪、、、、、、、「せがれや、どっちを見てる おっか~は こっちぞえ! 60過ぎになっても 助平癖は 治らんようだ!」
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・・・・・・・・・・・・・・「せがれや、これが天皇様のお住まいだべか?」 「おっか~ これは巽櫓(たつみやぐら)と言うて 天皇様に使える辰巳芸者の住まいかも?」 「どおりで、白く塗りたくっているものだ!」

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・・・・・・・・・・・・・・死んだ親爺の話しでは、、、、、70年前、この橋の前で 復員した親爺は泣き崩れたそうだ。 日本を復興させると陛下に誓い、働き手となる若い者を増やすため、村さ戻った親爺は、その日の晩におっか~と祝言を挙げ、その夜にせがれの俺をつくったと、自慢しておった。

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・・・・・・・・・・・・・・おっ母さん、この懐かしい交番は「祝田町見張所」と言うて、明治21年(1888)頃に、ここ皇居正門前に建てられたそうだ。 「せがれや、こんな小そううて どこで 用をたすのやら?、、、?」

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・・・・・・・・・・・・・おっか~、この大きい門は渡櫓門、小さい門が高麗門、両方合わせて桜田門。、、、、、、死んだ親爺の残した下着 大きいシャツに 小さいパンツ 両方合わせて おっか~の寝間着。

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③国会議事堂
・・・・・・・・・・・東京駅から 母の手引いて やってきました、『議事堂だょ おっ母さん』。 山奥の 田舎暮らしにゃ 政治は知らん 知っているのは 土俵と関取。、、、、、、「おっか~、それは国技館だべ、ここは議事堂だ!」 「ありゃ? 何時から名前変えたと?」 「わしゃ知らん、安倍晋三だべ!」、、、?、、、安倍晋三は、“I'm sorry.”で、“ごめんなさい”

・・・・・・・・・・・・・・「こんな立派な国技館、いつ造ったのかね?」 「議事堂は、大正9年(1920)に着工し、17年かけて昭和11年(1936)に完成したそうだ」 

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・・・・・・・・・・・・・・議事堂前の公園でひと休み。 「あんれ! 公園にローマの神殿のミニチュアがあっぺ」 「あれは、日本の山の高さを決める基準となる原点標を保護する建物だ!」(日本水準原点標庫 )、、、、、、「ローマ神殿 壊せぬ小屋だ いつのまにやら 文化財」

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山王日枝神社
・・・・・・・・・・・・「おっか~、ここまで来たら 山王さま(山王日枝神社)に 手さ、合わせてけえろ!」 「来年の干支の猿が、神さんの使いでいる神社だべ!」 「おっか~、よ~知ってるな。 縁結びに御利益を期待して、60過ぎたが、ピチピチのギャルと赤い糸で結ばれるよう、賽銭奮発すっぺ!」、、、、、「猿のお尻は 毛がなく赤い むすこ嫁見て顔赤い」

・・・・・・・・・・・創建年代不詳。 文明10年(1478)、太田道灌が江戸城築城にあたり、川越日枝神社を城内に勧請したのが始まりらしい。 東京大空襲で、社殿を焼失し、昭和33年(1958)に再建した。

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●・・・・・・・・・・・・・・・きょうも、ちゃらけて、安倍晋三!

2015年12月15日 (火)

京成押上線高架化工事

今朝は霧雨でも降りそうな空模様、“万が一”降られてもすぐに帰れるように、押上駅から京成押上線に沿って八広駅方向に歩くことにした。 ただ漠然と歩いても“ボケナスの能ナシ”なので、散歩のテーマとして、京成押上線高架化工事 のその後を確認しながら歩くことにした。 1万歩、7㎞。

工事概要・・・・・・・・公式には「京成押上線(押上駅~八広駅間)連続立体交差事業」と称し、押上駅~八広駅間の約1.5kmを、平成12年度から平成28年度までの16年間に、約336億円で高架にして8か所の踏切を撤去する工事。、、、、、上り線は平成25年(2013年)8月に高架に切り替え、下り線は今年(2015年)8月22日に高架に切り替えられた。 現在は駅舎の残工事、仮下り線の撤去工事、が進められている。 


①押上駅
・・・・・・・都営地下鉄浅草線が乗り入れている京成電鉄の押上駅。 大正元年(1912)に開業したが、昭和35年(1960)に都営地下鉄との相互直通運転開始により地下駅となった。、、、、、、現在はスカイツリータウンが、駅の上部に開業しており、狭いホームには通勤客・観光客が溢れ、チョイと“危険”と“イライラ”を感じる駅となった。、、、、、、サラリーマンは、「昨日 飲み会 その後 ホテル 今日も 遅刻だ あきらめた!」

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②押上駅~京成曳舟駅間
・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・地下から顔を出す押上線、、、、、、、「地下は 暗くて 化粧は いらず 出たよ 地上に 粗も出た」、、、、あらあら恥ずかし、あらかしこ。

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・・・・・・・・・・・・・・線路沿いに歩く、、、、、、、「気をつけよう 狭い路地裏 犬の糞」と、独り言。 塀の内から、怪しい男と見つめるおばさん。、、、、、あらあら恥ずかし、あらかしこ。

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・・・・・・・・・・・・・「行けそで 行けない 行き止まり」、わざと道訊き こりゃまた恥ずかし!

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・・・・・・・・・・・・・取り壊される煉瓦造の小さなガード(京島1)。 小さい写真は、2012/4/1撮影。、、、、、ガード壊して 道スッキリ 腹こわして 腸キリキリ 

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③京成曳舟駅
・・・・・・・・・・・・地上駅から高架駅に変身

・・・・・・・・・・・・・・駅前広場となる予定だが、只今は駐車場、、、、、「早く つくって 駅前広場 ないと 眠れぬ ホームレス」

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・・・・・・・・・・・・・・・懐かしい地上駅(写真:小さいサイズ)、いつのまにか立派な高架駅に!、、、、、赤子のナメコは、いつのまにか立派な松茸に! 
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・・・・・・・・・・・・・丸みある屋根が特徴的な3階ホーム、、、、、“人間、歳とりゃまるくなる”、私の母は92歳、背も腰もまるくなり、丈は縮んだ! 実証したね???

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・・・・・・・・・・・・・・・2階には、東改札口(明治通り側)と西改札口(たから通り側)が設けられた。、、、、、、若い二人は改札で、「西に行こうか 東に行きましょか?」、「いっそ このままホテルに行こう!」、、、、迷う改札です。

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④京成曳舟駅~八広駅間
・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・明治通りの踏切も無くなった、、、、、、「ないぞ 踏切 スイスイ 通る たまに 泊めたい 二人きり」

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・・・・・・・・・・・・・線路は無くなり、道路に変わる(同じ位置)、、、、、「線路 なくなり もどれぬ 二人 道に はずれて 子ができた」

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・・・・・・・・・・・・・チョイと上から眺めてみると、♪線路は続くよ どこまでも♪、、、、、それにしても、この辺り高いビルが少ないので、見晴らしはいいね!、、、、見晴らしいいけど、買えぬ住宅。 買えぬはずだよ、アパートだもの! 

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⑤八広駅
・・・・・・・・大正12年(1923)に「荒川」駅として開業。 平成6年(1994)に「八広」駅に改称。 高架下2階にコンコース・改札と、小さな売店が在るだけだ! アプローチの薄暗い駅は荒川寄りの、なぜか奥まった位置にある。 駅前には、商店街なし、パチンコ屋なし、コンビニなし、銀行なし、在るのは民家だけ。、、、、いつ来ても、『なんじゃ、この駅? もんじゃ屋もない! そんじゃ帰ろか! どうじゃ!』と言いたいね。

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●・・・・・・・・・・今日の雅万歩は、チョイと、おちゃらけてみた。、、、、電車は安全運転、雅万歩は脱線だ!

2015年12月14日 (月)

篠崎街道 (上篠崎~一里塚)

きょうは篠崎街道を浅間神社から一里塚交差点まで歩き、これで篠崎街道を終点の今井橋から起点の一里塚まで踏破した。 今日の散歩は1万3千歩、9km。


・・・・・・・・・・・・・まずは、4日前の終着点「浅間神社」バス停で下車した。、、、、スカッとしない空模様だが、寒さは感じず『よし、歩くぞ!』、、、、、土手上の篠崎街道からはずれ、下の道を歩くことにした。

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・・・・・・・・・・・・・・浅間神社の北側にある妙勝寺に寄ってみる。、、、、、日蓮宗の石暦山妙勝寺は、弘安年間(1278~1287、鎌倉時代)に浅草の石浜に創建されたのが始まりである。 元享2年(1322)に当地に移転し、かつては中山法華経寺や池上本門寺の貫主を輩出した。、、、、、、寺の建物は、もと500mほど東方の川畔にあったが大正4年(1915)江戸川の改修により現在地に移転した。、、、、、現在は、江戸川のスーパー堤防化による、工事対象地域に境内が含まれ、立ち退きが求められているようだ。 寺は“スパー堤防不要!”を訴えている。

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・・・・・・・・・・・・・・妙勝寺山門前から篠崎公園に入る。 篠崎公園は、昭和16年(1941)に改正された防空法に基づき、砧公園、舎人公園などと同じように都内各所に作られた防空大緑地の一つである。 戦時中は、154haの敷地に高射砲陣地や、飛行場も建設されたようだ。、、、、、戦後は規模も縮小し、87haの都立公園として整備中である。、、、、、、雨上がりの早朝、まだ公園は静かだ。

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・・・・・・・・・・・・・・所々に残る農家の建物、、、、、今は、皆さん大地主のようだ!

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・・・・・・・・・・・・・・北篠崎1丁目付近で、江戸川の土手に上がってみると、、、、、“あたり前田のクラッカー”で江戸川が見える。 対岸には、市川駅前の高層マンションも見える。

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・・・・・・・・・・・・・・土手上の篠崎街道、、、、、まだ車は少ない。

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・・・・・・・・・・・・・・東小岩1丁目に鎮座する天照大御神。 ここの天祖神社は、弘治元年(1555)の創建といわれ、旧笹ケ崎村の鎮守だった。、、、、、明治元年から、浅間神社の兼務になり、人のいない境内は静かで、寂しい。

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・・・・・・・・・・・・・・東小岩2丁目に、天文5年(1536)に創建された、真言宗豊山派の萬福寺(まんぷくじ)がある。 本堂は明治15年(1882)に公立小学校「明物小学校」(現:小岩小学校)として貸し出された。、、、、、小岩生まれの第44代横綱:栃錦(春日野清隆)の菩提寺で、栃錦の墓がある。

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・・・・・・・・・・・・・萬福寺の北(東小岩2)に、真言宗豊山派の薬王山東養寺がある。 創建の由来は覚裔和尚が、鴻ノ台合戦(1563~1564)で里見家滅亡の際家老の持仏であった木造薬師如来立像を本尊として一寺を建立したもので、通称「入谷の薬師様」といわれている。、、、、、本堂前に祀られている延命地蔵尊はもと小岩駅前の通称地蔵通りにあったが、昭和38年(1963)ここに移されたものである。

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・・・・・・・・・・・・・・東小岩2丁目、地蔵菩薩を本尊とする真言宗豊山派の善養寺 (ぜんようじ)がある。 寺の自慢は、樹齢600年の「影向(ようごう)の松」で、広がった枝はおよそ30m四方におよび、100本以上の支柱で支えられている。

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・・・・・・・・・・・・・・本堂には「おびんずるさま」が安置され、『頭を撫でれば頭がよくなる。鼻を撫でれば美人になる。手を撫でれば器用になる。』と、御利益が記されていた。 もう一行追加して欲しいね、『尻を撫でれば運がつく。』と! 東西南(北ない)の話しでゴメン!

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・・・・・・・・・・・・・・東小岩3丁目にて、篠崎街道は江戸川土手から下り、千葉街道に向かう。

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・・・・・・・・・・・・・全長7.5kmの篠崎街道の起点:一里塚交差点に到着。 (終点は今井橋) ここ、一里塚交差点で千葉街道と交差する。、、、、、「一里塚」の名が気になり、調べてみた。 かつて、昭和30年頃まで、交差点近くの千葉街道沿いに一里塚があったが、現存していない。

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小岩神社・・・・・・・・・・一里塚交差点から小岩駅に向かう中程(東小岩6)に小岩神社がある。 かつて五社大明神または五社明神社と称し、東葛西領行徳に鎮座されていた古社を天文5年(1536)下小岩村の萬福寺に遷座、中小岩村・下小岩村の鎮守となった。 天保11年(1840)現在地へ遷座し、明治初年小岩神社と改称した。、、、、、現社殿は昭和37年(1962)に竣工した。、、、、

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小岩地蔵通り・・・・・・・・・小岩駅南口の高架沿いに伸びる、商店街とは言い難い、飲食街である。 目に入る看板は、パチンコ屋、ラーメン屋、スナック、居酒屋、パブ、、、、この通りに、昭和38年(1963)まで延命地蔵尊が祀られていたそうだ。 今は、東養寺に安置されている。、、、、、酒好きの地蔵さんなら、東養寺に移ったのは失敗だったかも、この辺り夜は小岩の歓楽街だ。

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2015年12月12日 (土)

山谷掘

地下鉄日比谷線の三ノ輪駅から山谷掘跡を歩いて隅田川に出て、浅草によって我が家(浅草橋)まで、1万3千歩、10kmの散歩です。


山谷掘
(さんやぼり)とは・・・・・・・・・山谷堀は、江戸初期に荒川の氾濫を防ぐ目的で、三ノ輪橋から隅田川まで掘られた掘。 堀の源は石神井川で、その支流として王子で分流した音無川が、日光街道と交差する位置に架けられた橋が三ノ輪橋である。 三ノ輪橋の近くから“山谷掘”として隅田川に注いでいた。 昭和50年(1975)から昭和53年(1978)にかけて、堀は埋め立てられ一部は公園となっている。 上流から日本堤橋、地方橋、地方新橋、紙洗橋、山谷堀橋、正法寺橋、吉野橋、聖天橋、今戸橋と9橋が架けられていた。

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①三ノ輪駅
・・・・・・・・・昭和36年(1961)、営団地下鉄日比谷線の駅として開業した、相対式ホーム2面2線を有する地下駅。 付近には大きな商業施設、娯楽施設はなく、地元民と通勤客ぐらいしか乗降しない駅で、地味な存在である。、、、、、東京メトロの「2014年 乗降人員ランキング」では、一日平均36,553人で94位である。

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②三ノ輪橋跡
・・・・・・・・・・・三ノ輪駅で下車し、日光街道(4号線)を北の方向に歩くと常磐線のガードがある、その直前に荒川区と台東区の区境があり、この地点が三ノ輪橋の跡である。 橋の長さは五間四尺(約10m)、幅三間(約6m)であったといわれている。 明治後期には音無川は農業用水としての役目も終え、大正12年(1923)の関東大震災後には、川は暗渠となり、橋は撤去された。 現在は、何も残っておらず、有るは『ここに在った!』と言いたい案内のみ。

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・・・・・・・・・・・・・・音無川は、写真奥から手前に流れていたのか? 左右に走る道路は水戸街道。

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浄閑寺
・・・・・・・・・・三ノ輪橋跡の近くにある浄土宗の栄法山清光院浄閑寺(じょうかんじ)。 吉原遊郭が誕生する直前の、明暦元年(1655)に創建された。

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・・・・・・・・・・・・・浄閑寺は通称「投込み寺」といわれるように、死んでも引き取り手のない哀れな遊女たちの無縁寺として、近くの吉原遊郭が利用したようだ。 遊女の霊をまつっている新吉原総霊塔の台座には、花又花酔の句壁が有り、「生きては苦界 死しては浄閑寺」と彫られている。

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・・・・・・・・・・・・・墓地入口の脇には、「角海老 若柴之墓」がある。、、、、、「角海老」は遊郭の名、「若紫」は明治31年に吉原に身を沈めた遊女の名。、、、、、若紫は、五日後に待望の年期あけを控えた明治36年8月24日、男と所帯を持つ約束に胸をはずませていたのですが、偶々、登楼した酔客の凶刃にあい、22歳の若さで殺されてしまった。(もったいない!) その哀れをはかなみ、墓が建てられている、今日も花があげられ、誰が供えたか“かんざし”もあった。

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④日本堤
・・・・・・・・・江戸時代初期に、音無川が浄閑寺前から「山谷堀」となって隅田川に注いでいたが、灌漑用水としては明治末期にその使命は終わりとなる。 浄閑寺(三ノ輪)から聖天町(現:浅草7)まで山谷堀の脇の堤を「日本堤」と言った。

・・・・・・・・・・・・・・浄閑寺前の三叉路から日本堤(にほんづつみ)は始まる。 写真右側の道。 建物が建っている処が、山谷堀の跡と思われる。

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・・・・・・・・・・・・・・・日本堤が三ノ輪二丁目交差点で広い通りに吸収され、「土手通り」となる。

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・・・・・・・・・・・・・・土手通りには、老舗の「中江」と「伊勢屋」。 吉原の入口である大門見返り柳もある。
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⑤山谷堀公園
・・・・・・・・・・土手通りの日本堤署前あたりから山谷堀公園は始まり、隅田川縁の隅田公園「山谷堀広場」まで、約700mの長さで続く。、、、、、、上流から日本堤橋、地方橋、地方新橋、紙洗橋、山谷堀橋、正法寺橋、吉野橋、聖天橋、今戸橋と9橋が架けられていたが、日本堤橋だけは親柱が現存していない。、、、、、橋は関東大震災で壊滅し、昭和初期に架け替えられた。

・・・・・・・・・・・・・東浅草2丁目、日本堤署前の山谷堀。、、、、、堀の護岸か? コンクリート構造物が並ぶ。 この辺りに「日本堤橋」があったはずだ!

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・・・・・・・・・・・・・・・地方橋(じかたばし)、、、、、公園内に見える、コンクリート製のマンホールは、公園の下に堀が暗渠化された証。

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・・・・・・・・・・・・・・・地方新橋

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・・・・・・・・・・・・・・・紙洗橋(かみあらいばし)

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・・・・・・・・・・・・・・山谷堀橋
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・・・・・・・・・・・・・・正法寺橋

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・・・・・・・・・・・・・・吉野橋、、、、、、、橋の上は都道464号線(吉野通り)が通っている。 親柱はどっしりした四角い大きなものだ。

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・・・・・・・・・・・・・聖天橋、、、、、、、名のごとく、待乳山聖天 の北側に位置する。、、、、、写真、公園の後ろの白い建物は都立浅草高等学校。
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・・・・・・・・・・・・・・最後は今戸橋(いまどばし)、、、、、橋上を走るのは都道314号線で、9橋の中では最大の大きさ。 橋の東側は隅田公園で、現在整備工事中。
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・・・・・・・・・・・・・・山谷掘は、隅田公園のスポーツセンター付近で(桜橋と言問橋の間)、暗渠となって隅田川に注ぐ。

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2015年12月10日 (木)

篠崎街道 (下篠崎町~上篠崎)

篠崎街道の続き、きょうは「新町商店街入口」バス停から「浅間神社」バス停まで、1万2千歩、9㎞の散歩です。

・・・・・・・・・・・・「新町商店街入口」バス停から、散歩はスタートする。、、、、、JR小岩駅から、瑞江駅行のバスで約20分、220円である。 都内ではあるが、23区の片隅に来て、“遠くに来たもんだ!”と感じる。

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・・・・・・・・・・・・江戸川区には、道路空間に「親水」の機能を持たせた親水緑道が、18路線(延べ18km)ある。 ここ、篠田堀親水緑道(江戸川区下篠崎町)もその一つで、延長1600mの親水緑道である。 しっかり水も流れ綺麗に整備され、町にうるおいとやすらぎのある、空間を演出している。

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・・・・・・・・・・・・・・親水緑道の東側には、公団によって昭和51年(1976)に建てられた9階建ての下篠崎町団地(3棟、総戸数143戸)がある。 この付近では、高い建物だ!

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・・・・・・・・・・・・・団地の前を抜け江戸川に向かうと、病院の脇の土手(篠崎町3)に地蔵菩薩が祀られていた。 菩薩の横には、旧伊勢屋村の住民が建立したと彫られている。 明治22年(1889)、市制・町村制が施行され、伊勢屋村は他の5村と合併し篠崎村となった。、、、、、この地蔵は合併後の作と思われる。

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・・・・・・・・・・・・・・地蔵の後ろの土手に上がると、江戸川水閘門が目の前に見える。 東京湾の海水が上流へ遡上することを防止し、金町の浄水場で安定的な取水を確保する目的で昭和18年(1943)に竣工した。、、、、ここが、水閘門のある旧江戸川と行徳橋 の方に流れる江戸川の分岐点である。  

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・・・・・・・・・・・・・篠崎街道の東側に江戸川水閘門、西側には無量寺(篠崎町3)がある。 無量寺は、真言宗豊山派の寺で、本尊は“量りしれない喜びを与える無量寿仏(阿弥陀如来)”である。 昭和58年(1983)に観音堂・本堂を、昭和62年(1987)に山門を、再建した。 建物は新しいが、境内全体は重厚なイメージでまとめている、落ち着いた雰囲気の寺だ。

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・・・・・・・・・・・・・篠崎町3丁目、京葉道路江戸川大橋の西詰に、仔馬のポニーと遊べる「ポニーランド」がある。 その厩舎のある施設の角に、篠崎街道の「河原渡場道の庚申塔石造道標」が残っている。、、、、、正面には「青面金剛」の文字と三猿と「此方 江戸道」の文字が、左側面には「文政八 酉十月吉日」、右側面は判読しがたく、「此方下かま田新川道」と刻まれているそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・京葉道路の北側に来ると、篠崎街道の道幅は広がり、線形は蛇行し、江戸川土手にすり寄ってくる。 そして、上篠崎の町に入ると江戸川土手の下を並行する。

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・・・・・・・・・・・・・土手上から見る江戸川、対岸は市川市。

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・・・・・・・・・・・・・・上篠崎のあたりは農業を営む家も多いようだ! 畑、ビニールハウスが点在し、中には“産地直売”のノボリを出す家も! 大地主と農業を兼業し、小遣い銭は産直野菜の販売で、ガッポリ儲かっているのかな?

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・・・・・・・・・・・・・・・上篠崎1丁目の浅間神社は、天慶元年(938=平安時代)に創建された江戸川区内で最も古い神社である。 明治時代には神祇官を拝命するなど、郷社としても多くの人に崇敬されてきた。、、、、、境内は広く、社殿は小高い山の上に在る。 また、境内社も多く、霧島神社、須賀神社、香取神社など14社もあり、さらに幼稚園もある。、、、、、神社では、すでに年末年始の参拝の受入準備で、拝殿前にはテントが張られ、境内には照明の線を引き回し、忙しそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・・神社裏の江戸川土手に「浅間神社」バス停がある。 今日の散歩はここまでとする、、、、、、
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2015年12月 8日 (火)

浜野~蘇我

稲毛に行った帰り、旧生浜町役場庁舎を見たく、JR内房線の浜野駅から蘇我駅まで、9千歩、8Kmの散歩です。

浜野駅 ・・・・・・・・・・・2週間前に下車した駅だ!、、、、、きょうの散歩は、ここから蘇我駅の方角に歩く。

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②第六天神社
・・・・・・・・・・・浜野駅から北へ400m程歩き茂原街道沿いに、空き地のような、公園のような、神社としてはあまり整備されていない神社がある。 境内の草木を採ることを固く戒めた第六天神社と、牛頭天王を祀る八坂神社、信濃から勧請された下諏訪神社が祀られている。、、、、、なんだか、人寂しい神社だが、綺麗に掃除され、荒廃した様子はない。

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③諏訪神社
・・・・・・・・・・第六天神社の北側の細い道を入って行くと、こんどは諏訪神社に出くわす。、、、、、、諏訪神社の由来は、室町時代後期の大永元年(1521)に上総国市原郡養老荘の領主が、信濃国の上・下諏訪神社を領内に勧請しようと重臣、神官を遣わし、神璽・神鏡などを奉じての帰途浜村(現:浜野町)に宿泊したとき、村人がこれを奇縁としてこの神を勧請し、祀ったのに始まるという。 祭神は建御名方命で武神、風雷の神とされる。  かつては境内は松が鬱蒼と茂っていたというが、明治16年(1883)に落雷で社殿とともに焼失した。 現社殿はその後数次に渡り再建されたものである。

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④夜光稲荷
・・・・・・・・・・諏訪神社の鳥居の左手を100m程進んで行くと、真っ赤な鳥居と赤い社殿の夜光稲荷がある。、、、、、、「夜光稲荷」とは、狐が光を発し、パワーを送るという伝説に基づいているようだ。 お稲荷さんの鳥居が赤いのは、狐が光(=火、=赤色)を生むからだそうだ。、、、、、なんだか、“夜光”という言葉と響き、“狐”から“狐の嫁入り”とか“女狐”を連想すると、艶っぽい狐狸の世界に入りそうだ。(考えすぎか?)

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⑤本行寺
・・・・・・・・・夜光神社の先に、本堂の屋根が見える本行寺。 寺は顕本法華宗に属し、文明元年(1469)に開基し、大曼陀を本尊とする。 当初浜野村(現:浜野町)の東方に道場を構え、「七里法華」の根本霊場となった。 戦国時代末期、天正18年(1590)に焼失し、その後現在地に再建された。、、、、、昭和20年(1945)戦災に遭い焼失し、現在の諸堂はその後再建されたものである。、、、、、広い境内を有する寺だ!

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⑥旧生浜町役場庁舎
・・・・・・・・・浜野町の北端、内房線の線路脇に旧生浜町役場庁舎がある。、、、、、、昭和3年(1928)にそれまでの生浜村が生浜町になったのを機に新しい庁舎の建設が計画され、昭和7年(1932)に建物が竣工した。 この建物は昭和初期の木造2階建洋風建築物で、1階が役場の事務室、2階が議会室となっている。、、、、、建物の屋根はフランス瓦で葺かれ、とくに玄関ポーチ上のバルコニーは明治初期から大正期に建てられた郡役所建築によくみられるもので、この建物の大きな特長になっています。、、、、、築後80年以上経過し、建物も劣化したため、2階の議場には重いものを展示することや、15名以上の見学者を案内すると、天井が抜ける恐れがあるそうだ。 早く、恒久的な保存・整備に向けた対策を実施して欲しいものだ。、、、、、今日の見学者は私一人、ゆっくり、のんびり、しっかり、見せてもらってきた。

・・・・・・・・・・・・・まずは、外観、、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・1階の事務室、、、、窓口が役場の雰囲気を出している。 チョイと農機具などの展示物が邪魔だけど!
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・・・・・・・・・・・・・・2階の議会室、、、、、、議員定数12名の議会室は机と椅子が在るだけだ。 隅には6帖ほどの畳敷きの議員控室もある。

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⑦塩田天満宮
・・・・・・・・・・浜野駅と蘇我駅の中間に塩田町があり、そこに鎮座する天神様。 創建年代不詳。 神社は鎮守だったそうで、歴史と親しみを感じる雰囲気だ。 

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⑧蘇我駅
・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・貨物線を越え蘇我の町に入る。、、、、、日が沈む時間も早くなり、そろそろ夕暮れとなる。

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・・・・・・・・・・・・・蘇我駅は、外房線・内房線・京葉線の3路線が乗り入れ、さらに貨物線の京葉臨海鉄道臨海本線が乗り入れている。、、、、、明治29年(1896)に房総鉄道(現:外房線)の駅として開業し、明治40年(1907)には、房総鉄道が買収され国有鉄道の駅となった。、、、、、島式ホーム3面6線と、貨物用の着発線・側線のある地上駅。 駅舎は橋上にある。

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2015年12月 7日 (月)

篠崎街道 (東瑞江~下篠崎町)

三日前の続きで、きょうは篠崎街道を、江戸川区東瑞江1丁目の豊田神社近くから下篠崎町の新町商店街まで歩いてきた。 1万2千歩、9㎞。

①豊田神社・・・・・・・・東瑞江1丁目、創建年代不詳の神社。、、、、、たった三日、されど三日、境内の欅も秋色が深まった!

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②篠崎街道
・・・・・・・・・ 

・・・・・・・・・・・・・・三日前に篠崎街道とお別れした地点、江戸川2丁目交差点に到着。

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・・・・・・・・・・・・・・チョイと街道の奥にあたる旧江戸川の方に歩いてみる。 裏通りの商店は寂れて、閉じた店も見られる。(江戸川1丁目)

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・・・・・・・・・・・・・・江戸川1丁目に鎮座する稲荷は当代稲荷神社。 創建年代不詳であるが、当地当代島村の鎮守社であった。、、、、、ピンクの蔵造りの社殿に住むは妖艶な女狐か? チョイと中を覗いてガッカリ!

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・・・・・・・・・・・・・・当代稲荷のさらに奥、旧江戸川べりに、真言宗豊山派の不動院がある。 不動院は川向山大滝寺と号する。 元亀元年(1570)頃に覚俊法師が不動尊を安置して創建したと言われてる。

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・・・・・・・・・・・・・・不動院の近くに鎮座する、旧前野村の鎮守で素盞雄命、面足神、倉稲魂神をまつる前川神社。 別当は不動院であった。、、、、、社殿・境内は平成21年(2009)に整備され、見るべきものも無い、綺麗なもんだ!

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・・・・・・・・・・・・・北区王子を起点として、柴又帝釈天の参道前を通り、江戸川区篠崎に至る柴又街道の終点が前川神社前のT字路である。

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・・・・・・・・・・・・・・T字路前の旧江戸川、対岸は千葉県市川市(行徳)である。

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・・・・・・・・・・・・・・篠崎街道沿いの裏道。(江戸川1丁目)

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・・・・・・・・・・・・・篠崎街道に戻り、南篠崎2丁目に、上鎌田の庚申塔がある。 文政9年(1826)建立の「青面金剛」と刻まれた庚申塔で、台石に三猿、右側面の台座には「右ぎやうとく(行徳)みち」と刻まれている。、、、、、文政9年とは、遠山金四郎が33歳、井伊直弼11歳、勝海舟は3歳の時代である。 約200年前の庚申塔、よくぞ残った!

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・・・・・・・・・・・・・南篠崎1丁目には、真言宗豊山派の薬王山蓮華院西光寺がある。 法伝中僧都が永正2年(1505)に創建した。 

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・・・・・・・・・・・・・・篠崎街道は、この付近ではチョイと狭くなり、片側1車線である。

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・・・・・・・・・・・・・・この辺りの街道裏には、南篠崎町五丁目アパート、下篠崎アパートと都営住宅が続く。 
・・・・・・・・・・・・・・南篠崎町五丁目アパート、、、、、、昭和63年~平成7年(1988~1995)の建設、総戸数:533戸(10棟)の都営住宅。

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・・・・・・・・・・・・・下篠崎アパート、、、、、、昭和40年~昭和41年(1965~1966)の建設、総戸数:315戸(8棟)の都営住宅。
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・・・・・・・・・・・・・・篠崎町、街道に残る三橋青果店。 老夫婦二人で店を守っているようだ。

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・・・・・・・・・・・・・・今年の夏歩いた、篠崎新町商店街 に再びやってきた。、、、、、商店街のある下篠崎町は、旧江戸川が市川市(行徳)側に膨らんでいる処で、商店街は都内では最東端に位置してる。 昭和がプンプン匂う町。

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・・・・・・・・・・・・・・・商店街前から小岩駅まで、バスで30分、、、、、遠い!

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2015年12月 4日 (金)

篠崎街道 (今井橋~東瑞江)

都営新宿線一之江駅から隣の瑞江駅まで、篠崎街道の一部をブラブラ歩いてきた。 1万1千歩、8Km。


一之江駅
・・・・・・・・・・・南北に長い江戸川区のほぼ中央に位置する駅。 区の中央でも、東京23区で位置づけると、東京の東端に近く、近くを流れる旧江戸川までは500m程、旧江戸川を渡れば千葉県市川市となる。、、、、、駅は昭和61年(1986)に開業した、島式1面2線の地下駅である。

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②瑞江大橋
・・・・・・・・・・・・新中川に、昭和35年(1960)に架けられた瑞江大橋を渡る。、、、、、、橋上からは、上流側に平成4年(1992)に架橋された、4本の塔を備えるアーチ橋:明和橋が見える。

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③篠崎街道
・・・・・・・・・・・篠崎街道(しのざきかいどう)は、江戸川区今井橋から同区の一里塚交差点(東小岩)まで、旧江戸川の右岸(東京側)の堤防沿いに整備された全長約7.5Kmの幹線道路。 対岸の千葉県側には行徳街道が通っている。、、、、、今日は、篠崎街道を今井橋側から1.2㎞ほど行った江戸川2丁目まで、歩いてみた。

・・・・・・・・・・・・・今井橋の手前からスタートする篠崎街道

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・・・・・・・・・・・・・江戸川3丁目、街道沿いにある上今井香取神社、室町時代の永禄7年(1565)に創建された。、、、、、、、社殿は昭和49年(1974)に鉄筋コンクリート造にて改築。

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・・・・・・・・・・・・・・香取神社の裏道には、祠に入った地蔵尊が2体。

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・・・・・・・・・・・・・・・さらに裏道を歩くと、天文年間(1532~1555)に開山した新義真言宗の円照寺がある。

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・・・・・・・・・・・・・・江戸川3丁目から旧江戸川を眺める。 対岸は千葉県市川市。

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・・・・・・・・・・・・・・再び街道を歩くと、民家が見える、誰も住んでいないようだ!、、、、、、農家の雰囲気が残る建物。
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・・・・・・・・・・・・・・・街道沿いにある上今井八雲神社。 創建年代は不詳。 上今井香取神社とともに当地周辺で尊崇されていたようだが、昭和41年(1966)に上今井香取神社に合併された。、、、、、今は神主不足で合併か? 収入不足で合併か? 神社の経営も楽ではないようだ、困ったときの神頼みで、神主さんはどこかの神社にお願いしたら!

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・・・・・・・・・・・・・・八雲神社の横道を入り、しばらく行くと、浄土宗の金蔵寺がある。 寺は魁誉覚願(応永22年(1415)寂)が開山となり創建した。、、、、、、現本堂は昭和11年(1936)に建てられた。

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・・・・・・・・・・・・・・・篠崎街道は八雲神社の前から、しばらく、川沿いからはずれた処を抜けて行く。 写真で、直進すると旧江戸川沿いを行くことになる。 篠崎街道はマイクロバスが向かう細い通りである。

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・・・・・・・・・・・・・・江戸川3丁目の東の端に、鎌田川親水緑道がある。、、、、、、「鎌田」とは、室町時代の地名で、池沼が多く蒲(がま)の生い茂った土地から「蒲田」と命名されたが、いつの間にか「鎌田」と変った。 昭和25年(1950)に農業用水路として開削された「鎌田川」は、近年市街化が進むなかで、家庭からの排水が流れ込む排水路となっていたが、下水道が整備されたので、親水緑道として生まれ変わった。

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・・・・・・・・・・・・・・・街道沿いの次なる寺は浄土宗の明福寺。 嘉禄2年(1226)親鸞聖人が常陸国から上洛の途中、この地の人々が昇天に苦しんでいたので、雨乞いをにより雨を降らせて村人を救った。 その時の草庵が寺の始まりらしい。、、、、、境内には付属幼稚園があり、若いママが集まっていた。  気の弱い私の不得意とする集団である。 怪しまれないうちに、早々と手を合わせ逃げてきた。

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・・・・・・・・・・・・・・街道の近く(江戸川3丁目、東瑞江2丁目)は寺社が多く点在する。 その間を埋めるように、曲がりくねった道筋に住宅が建ち並んでいる。 さらに、点在する空き地を取得して建てたと思われる都営住宅も、寺社に負けぬ数だけ目に入る。

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・・・・・・・・・・・・・・東瑞江2丁目、浄土宗の泉福寺。 創建年代不詳。 都営アパートの間に在るお寺。

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・・・・・・・・・・・・・ナント、交番と地蔵堂と火の見櫓の“街道”三点セットがあった! 交番にはお巡りさんが常駐している。 地蔵堂は、外に庚申塔が、内には地蔵さまと庚申塔が祀られている。 火の見櫓には、櫓に半鐘が吊るされて、火事があればたたくのか?、、、、、、どこの街道にも在った、懐かしい光景。

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・・・・・・・・・・・・・・東瑞江2丁目の東端の交差点、今日の篠崎街道の散歩はここまで! これより、瑞江駅に向かう。

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④豊田神社
・・・・・・・・・・・東瑞江1丁目にある豊田神社、創建年代は不詳。、、、、、境内は広く、ケヤキ、クスノキ、イチョウなどの大木も数本ある。

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・・・・・・・・・・・・・・可愛い子が、おばあちゃんと手を合わせに来た、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・御神木の欅。 樹齢200年、高さ23m、幹の径1.5mなり。
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瑞江駅
・・・・・・・・・・・昭和61年(1986)に開業した、島式ホーム1面2線の地下駅。、、、、、駅前の大型店舗、賑やかな商店街などがなく、駅前に出るまでが判りにくい処に在る駅だ!

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2015年12月 2日 (水)

竹ノ塚~北綾瀬

きょうは、東武鉄道伊勢崎線の竹ノ塚駅で下車してみた。 東西南北どの方向に歩くか? 改札の前で、しばし思案。 なんとなく、東口からの乗客の方が美人が多そうだ、これにて決定。 東の方角に歩いてみたが、途中から方向は無視して、気ままに歩き、着いたところは東京メトロの北綾瀬駅。 1万3千歩、10㎞の散歩です。


①竹ノ塚駅
・・・・・・・・・・足立区の北に位置する竹ノ塚駅、北隣の谷塚駅 は埼玉県となる。 伊勢崎線は明治32年(1899)8月に北千住~久喜間が開業した。 開業時は、西新井駅 の北隣は草加駅 で、途中駅の竹ノ塚は、路線開業から約7ヶ月後にあたる明治33年(1900)3月に開業した。、、、、、島式ホーム1面2線の地上駅で、橋上駅舎を備えている。 ホームに停車するのは、全て緩行線である。、、、、、平成17年(2005)に駅の南側:大踏切で遮断機誤開による死亡事故が発生した。 これがきっかけとなり、平成23年(2011)に足立区による立体交差化の計画が決定し、平成24年(2012)に連続立体交差事業の工事が着手された。 総工費は約544億円で、完成は平成32年(2020)度の見込み。 

・・・・・・・・・・・・・・都心に向かう上り線(日比谷線直通)は満員状態

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・・・・・・・・・・・・・・ホームの西側では下り急行線の高架橋工事が進められている

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・・・・・・・・・・・・・・工事が進むと取り壊される運命の橋上駅舎(改札)

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・・・・・・・・・・・・・・東口の駅ビル、、、、、、竹ノ塚駅東口の駅ビル「竹ノ塚 T BOX」。 昭和43年(1968)に「伊勢崎線竹ノ塚駅ビル」として竣工した。 当初は4階から10階部分を賃貸マンションとしていたが、平成15年(2003)に4階以上を解体撤去し、店舗および駅施設だけとなり、「竹ノ塚T BOX」としてリニューアルオープンした。、、、、さらに、現在は、全ての入居テナントも立ち退き、このビルも工事の進捗に合わせ取り壊しとなる。

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・・・・・・・・・・・・・駅前にはロータリーはあるが、周囲は旧公団のアパートがズラリ! まさに、団地の真ん中に下車した感じである。

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②竹の塚けやき大通り
・・・・・・・・・・・・・駅前ロータリーから、線路とは直角に東へ伸びる、団地の中央を貫く道路「竹の塚けやき大通り」。

・・・・・・・・・・・・・・まづは、ロータリー前の「竹の塚第三団地」、、、、、昭和40年代の建物が多い。 総戸数ウ728戸。、、、、ロータリー前の1・2・3号棟から15号棟まである。

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・・・・・・・・・・・・・・店舗が通り沿いに並んでいる

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・・・・・・・・・・・・・・国道4号に出る手前に、「竹の塚第一団地」がある。 こちらは昭和40年(1965)に造られた、35棟、総戸数1,522戸の団地。

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・・・・・・・・・・・・・・国道4号(日光街道)とぶつかる、竹の塚交差点まで続く。

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③元渕江公園
・・・・・・・・・・・・保木間2丁目に、昭和44年(1969)に開園した足立区立公園。 園内には、広場のほか、釣りのできる池、昆虫・両生類などに触れられる生物園などがある。、、、、、もう、仕事はやめたのか、池では中高年がのんびり釣りを楽しんでいる。

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④保木間第四アパート
・・・・・・・・・・・昭和41~43年(1966~1968)に完成した、22棟からなる総戸数824戸の都営住宅。、、、、、、、、竹ノ塚駅から、大小の公団住宅、都営住宅、区営住宅、さらには民営のマンションと、いささか見飽きた光景が続き、私もそろそろ食傷ぎみだ。、、、、、、「団地 アパート 公団 都営 どれも おなじだ 大年増」

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六町駅
・・・・・・・・・・つくばエクスプレス六町(ろくちょう)駅前を素通りして、先へ向かう、、、、、、

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⑥綾瀬川を越える
・・・・・・・・・・六町加平橋 を渡り綾瀬川をこえる。

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⑦加平天祖神社
・・・・・・・・・・・加平3丁目に鎮座するのは、天祖神社の天照大神。 天祖神社は当地を開拓した伊藤嘉兵衛氏の屋敷神を神明宮として、慶長15年(1610)に創建された。 明治7年(1874)には村社となる。

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⑧北綾瀬駅
・・・・・・・・・・・・・環七通りに面して、駅の出入口はある。 3両編成の電車が隣の綾瀬駅との間、一駅間を折り返し運転している東京メトロ千代田線の北綾瀬支線 である。

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2015年12月 1日 (火)

東大・根津権現

我が家(浅草橋)から、御徒町、不忍池を抜け、東大のイチョウ並木を見て、根津権現をまわり鶯谷駅まで、1万5千歩、11㎞の散歩です。


①不忍池
・・・・・・・・・ハスの葉も枯れ、池もそろそろ冬仕度、、、、、「秋がきたけど 内緒にしてと ドジョウつぶやく 池の端」 (誰かの作)

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②無縁坂
・・・・・・・・・・・無縁坂(むえんざか)は、台東区池之端1丁目から文京区湯島4丁目へ登る坂。 坂の途中にあった無縁寺(現:講安寺)が名前の由来と伝えられている。、、、、、、旧岩崎邸庭園 の煉瓦塀が風情ある景色を演出している。

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③講安寺
・・・・・・・・・・・無縁坂を登りきると、浄土宗専修山講安寺がある。 慶長11年(1606)に湯島天神下に創建され、その後元和2年(1616)に現在地に移転した。、、、、、外壁が漆喰で何度も塗り込められた土蔵造りの本堂は、江戸時代の建築で、火事に悩んだ江戸の人たちの防火対策の知恵である。

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④東大
・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・チョイとマイナーな鉄門から構内に入る。、、、、、東大病院の南側に位置し、無縁坂を登りきった先にある門。 この門の由来は古く、東京大学医学部と付属病院の前身である、江戸時代の種痘所に遡る。 神田和泉町にあった種痘所の門扉は厚い板を鉄板で囲い真っ黒に塗ってあったので、江戸の人々は種痘所を「鉄門」と呼んでいた。 明治9年(1876)に本郷に移転した東大医学部の正門には、当初種痘所の門扉が用いられていたが、後に格子模様の鉄製扉に替えられた。 当時、医学部正門は本郷キャンパスの全体の正門も兼ねていたため、「鉄門」の名は一度消滅した。 明治17年(1884)に本郷通りに新しい正門が設けられ、医学部正門は再び「鉄門」と呼ばれるようになった。 平成18年(2006)に、東大医学部創立150周年を記念して、現在の門が再建された。、、、、、東大医学部の象徴であり、同窓会も「鉄門倶楽部」と称している。、、、、、、東大医学部の前身である種痘所があった和泉町の敷地跡は、大学移転後、財閥:三井家が入手し、東大病院の医療支援により三井慈善病院(現:三井記念病院)が開設されている。 昨年、私もお世話になった病院。

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・・・・・・・・・・・・・・医学部本館(2号館)・・・・・・・・・赤門の正面に建つ、昭和11年(1936)、内田祥三の設計により完成した医学部本館。 繊細で優美な建物だ!・・・・・・・・・3階には歴代教授の胸像や肖像画が並び、まさに医学の巨塔である。

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・・・・・・・・・・・・・・赤門前のイチョウ並木、、、、、まだ、緑の葉が多いね!

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・・・・・・・・・・・・・法文1号館・・・・・・・・・・昭和10年(1935)竣工、設計は内田祥三。(国の登録有形文化財)、、、、、1階には、法文1号館と2号館を結ぶ動線上にアーケードがつけられている。 内部は、教室中心の建物であるためか、飾りの少ないシンプルなデザインだ。

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・・・・・・・・・・・・・安田講堂・・・・・・・・・・内田祥三、岸田日出刀の設計で、大正14年(1925)完成。国の登録有形文化財。、、、、、、昭和43年の安田講堂占拠事件の時、私は明治大学3年生。 明治大、早稲田大、中央大などでも、全学連が暴れまわっていた。 何だか、騒々しい時代であったが、いまは懐かしい時代でもある!

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・・・・・・・・・・・・・・安田講堂前のイチョウ並木、、、、、まだ、落葉は少ない

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・・・・・・・・・・・・・・工学部前のイチョウの木、、、、、「落ちた わたしを じっくり 干して あつく 熱して 実(身)を食べて」 (銀杏の食べ方)

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⑤東京聖テモテ教会
・・・・・・・・・明治35年(1902)、米国宣教師によって建てられた、日本聖公会の歴史ある教会。 あたたかみのある木造建築で落ち着いた雰囲気を醸し出している。 森鴎外の小説にも登場し、昭和20年(1945)の東京大空襲で消失してしまったが、国産最初のパイプオルガンが設置されたことでも有名。

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⑥根津神社
・・・・・・・・・古くは、日本武尊が千駄木に創祀したといわれてる。 文明年間(1469~1487)には太田道灌により社殿が造られた。 当地は、五代将軍綱吉の兄綱重(家光の第二子)の山手屋敷(別邸)であったが、家宣(六代将軍)の産土神として、綱吉により宝永3年(1706)千駄木にあった当社を移して造営された。 当時造営された本殿、唐門などが、現存する建物で、国の重要文化財に指定されている。 建物は権現造り(本殿、幣殿、拝殿が一体として造られたもの)の代表です。、、、、、、、別名「根津権現」と呼ばれている。 私の母は、子供の頃、この近くに住んでいたらしく、ツツジの季節になると、92歳となった今でも『根津権現に行ってくる』と、一人で家を出て行く。 元気で、長生き、困ったもんだ!

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⑦表具師 武田
・・・・・・・・・・根津1丁目、下町の職人(今は匠)の仕事場兼住居。 いいね!

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