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2015年12月12日 (土)

山谷掘

地下鉄日比谷線の三ノ輪駅から山谷掘跡を歩いて隅田川に出て、浅草によって我が家(浅草橋)まで、1万3千歩、10kmの散歩です。


山谷掘
(さんやぼり)とは・・・・・・・・・山谷堀は、江戸初期に荒川の氾濫を防ぐ目的で、三ノ輪橋から隅田川まで掘られた掘。 堀の源は石神井川で、その支流として王子で分流した音無川が、日光街道と交差する位置に架けられた橋が三ノ輪橋である。 三ノ輪橋の近くから“山谷掘”として隅田川に注いでいた。 昭和50年(1975)から昭和53年(1978)にかけて、堀は埋め立てられ一部は公園となっている。 上流から日本堤橋、地方橋、地方新橋、紙洗橋、山谷堀橋、正法寺橋、吉野橋、聖天橋、今戸橋と9橋が架けられていた。

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①三ノ輪駅
・・・・・・・・・昭和36年(1961)、営団地下鉄日比谷線の駅として開業した、相対式ホーム2面2線を有する地下駅。 付近には大きな商業施設、娯楽施設はなく、地元民と通勤客ぐらいしか乗降しない駅で、地味な存在である。、、、、、東京メトロの「2014年 乗降人員ランキング」では、一日平均36,553人で94位である。

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②三ノ輪橋跡
・・・・・・・・・・・三ノ輪駅で下車し、日光街道(4号線)を北の方向に歩くと常磐線のガードがある、その直前に荒川区と台東区の区境があり、この地点が三ノ輪橋の跡である。 橋の長さは五間四尺(約10m)、幅三間(約6m)であったといわれている。 明治後期には音無川は農業用水としての役目も終え、大正12年(1923)の関東大震災後には、川は暗渠となり、橋は撤去された。 現在は、何も残っておらず、有るは『ここに在った!』と言いたい案内のみ。

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・・・・・・・・・・・・・・音無川は、写真奥から手前に流れていたのか? 左右に走る道路は水戸街道。

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浄閑寺
・・・・・・・・・・三ノ輪橋跡の近くにある浄土宗の栄法山清光院浄閑寺(じょうかんじ)。 吉原遊郭が誕生する直前の、明暦元年(1655)に創建された。

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・・・・・・・・・・・・・浄閑寺は通称「投込み寺」といわれるように、死んでも引き取り手のない哀れな遊女たちの無縁寺として、近くの吉原遊郭が利用したようだ。 遊女の霊をまつっている新吉原総霊塔の台座には、花又花酔の句壁が有り、「生きては苦界 死しては浄閑寺」と彫られている。

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・・・・・・・・・・・・・墓地入口の脇には、「角海老 若柴之墓」がある。、、、、、「角海老」は遊郭の名、「若紫」は明治31年に吉原に身を沈めた遊女の名。、、、、、若紫は、五日後に待望の年期あけを控えた明治36年8月24日、男と所帯を持つ約束に胸をはずませていたのですが、偶々、登楼した酔客の凶刃にあい、22歳の若さで殺されてしまった。(もったいない!) その哀れをはかなみ、墓が建てられている、今日も花があげられ、誰が供えたか“かんざし”もあった。

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④日本堤
・・・・・・・・・江戸時代初期に、音無川が浄閑寺前から「山谷堀」となって隅田川に注いでいたが、灌漑用水としては明治末期にその使命は終わりとなる。 浄閑寺(三ノ輪)から聖天町(現:浅草7)まで山谷堀の脇の堤を「日本堤」と言った。

・・・・・・・・・・・・・・浄閑寺前の三叉路から日本堤(にほんづつみ)は始まる。 写真右側の道。 建物が建っている処が、山谷堀の跡と思われる。

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・・・・・・・・・・・・・・・日本堤が三ノ輪二丁目交差点で広い通りに吸収され、「土手通り」となる。

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・・・・・・・・・・・・・・土手通りには、老舗の「中江」と「伊勢屋」。 吉原の入口である大門見返り柳もある。
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⑤山谷堀公園
・・・・・・・・・・土手通りの日本堤署前あたりから山谷堀公園は始まり、隅田川縁の隅田公園「山谷堀広場」まで、約700mの長さで続く。、、、、、、上流から日本堤橋、地方橋、地方新橋、紙洗橋、山谷堀橋、正法寺橋、吉野橋、聖天橋、今戸橋と9橋が架けられていたが、日本堤橋だけは親柱が現存していない。、、、、、橋は関東大震災で壊滅し、昭和初期に架け替えられた。

・・・・・・・・・・・・・東浅草2丁目、日本堤署前の山谷堀。、、、、、堀の護岸か? コンクリート構造物が並ぶ。 この辺りに「日本堤橋」があったはずだ!

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・・・・・・・・・・・・・・・地方橋(じかたばし)、、、、、公園内に見える、コンクリート製のマンホールは、公園の下に堀が暗渠化された証。

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・・・・・・・・・・・・・・・地方新橋

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・・・・・・・・・・・・・・・紙洗橋(かみあらいばし)

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・・・・・・・・・・・・・・山谷堀橋
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・・・・・・・・・・・・・・正法寺橋

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・・・・・・・・・・・・・・吉野橋、、、、、、、橋の上は都道464号線(吉野通り)が通っている。 親柱はどっしりした四角い大きなものだ。

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・・・・・・・・・・・・・聖天橋、、、、、、、名のごとく、待乳山聖天 の北側に位置する。、、、、、写真、公園の後ろの白い建物は都立浅草高等学校。
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・・・・・・・・・・・・・・最後は今戸橋(いまどばし)、、、、、橋上を走るのは都道314号線で、9橋の中では最大の大きさ。 橋の東側は隅田公園で、現在整備工事中。
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・・・・・・・・・・・・・・山谷掘は、隅田公園のスポーツセンター付近で(桜橋と言問橋の間)、暗渠となって隅田川に注ぐ。

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