潮見
生まれながらに東京に住んでいるが、今だ下車したことのない駅が都内にも多く残っている。 その一つ、JR京葉線の潮見駅で下車してみた。 潮見駅から東西線東陽町駅まで、1万1千歩、8Kmの散歩です。
・・・・・・・・・・・・潮見とは、、、、、東京湾の埋め立てで広くなっていく江東区。 「潮見」もその一地域で、北は塩浜、東は新砂、南は辰巳、西は枝川の各埋立地と、運河を挟んで独立する埋立地である。 大正時代には埋め立てが始まり、昭和42年(1967)に工事は竣工した。 同年から、準工業地区として鉄工所、造船所などと、さらに一般の居住も始まった。 その潮見に埼京線の駅が開業したのは平成2年(1990)である。
①潮見駅・・・・・・・・・・・都区内のJRの駅ではワースト5に入る利用客の少ない駅。(平成26年の一日当たりの乗車人数は、12,110人)、、、、、1面2線の高架駅で、改札は高架下にある。




②潮見の町・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・駅前は、人影少なく静かで、タップリとゆとりあるロータリーが広がる。 東京駅から、たった3つ目の駅(乗車時間7分)とは思えない! 駅前にはコンビニが1軒、パチンコ屋は無し、喫茶店も無し、もちろん商店街も無し。

・・・・・・・・・・・・・・ロータリーの前には、印刷、製本工場が並んでいる。

・・・・・・・・・・・・・・さらに奥は、工場兼住宅と一般住宅が入り混じる下町的雰囲気の町となる。



③都営住宅潮見一丁目アパート・・・・・・・・・・周辺は臨海部で高層ビルがないため、潮見駅ホームからも良く見える、36階建の都営住宅。 平成13年(2001)に、清水建設他のJVによる施工で、竣工した。 1棟(482戸)の超高層は潮見では目立つ存在である。 ちなみに家賃は約100,000円。


④カトリック潮見教会・・・・・・・・・・・・潮見駅の南にカトリック潮見教会がある。 現聖堂は、親建会一級建築士事務所の設計、間組の施工で、昭和61年(1986)に建てられた。、、、、、、シンプルなデザインの小さな教会である。




・・・・・・・・・・・・・教会の隅に北原玲子(さとこ)の像がある。、、、、、年配の人なら「蟻の街のマリア」と言えば、思い出す人が多いことでしょう。

・・・・・・・・・・・・・蟻の町の話しとは、、、、、、戦後、職もなく、住む家もない人々が隅田川の言問橋の近くに集まって、「蟻の会」という共同体を作り、廃品回収で生計を立てていた。 墨田公園の一角にあった「蟻の町」と呼ばれたその地を、修道士と共に訪れた北原怜子は、その後たびたび訪問し献身的に蟻の町の子どもたちの世話をした。 しかし、怜子は次第に持てる者が持たない者を助けるという姿勢に疑問を抱くようになり、自ら「バタ屋」となって廃品回収を行うようになった。 怜子は「蟻の町のマリア」と呼ばれるようになったが、いつしか結核を患い、病状は悪化し、これ以上の治療方法がないことが判ると、蟻の町の十字架が立つ建物の小部屋に住み込んだ。 そこで、怜子は貧しい人々のために必死の祈りを捧げた。 蟻の町は都から立ち退きを求められ、代替地として「8号埋立地」(現在地の潮見)が提示された。 昭和35年(1958)1月19日には移転が決定し、その直後の1月23日に28歳の若さで怜子は息を引き取った。 蟻の町は当時の地名で枝川と呼ばれた埋立地(現在地の潮見)に移り、新しい教会も建てられた。 当時は京葉線もなく、何もない地で、繁華街からも遠く、廃品回収には難しいものがあった。 昭和40年代には、高度成長もあり、蟻の会の人々は少しずつ離れ解散となった。 その後、地名は「潮見」に変わり、聖堂はコンクリート造となったが、教会はいつも貧しい人の教会であったことを忘れずに、現在も居場所を見失った人を暖かく迎えている。
・・・・・・・・・・・・・・怜子が住んだ、言問橋際の蟻の町に最初(1951/5/11)に立てられた十字架。

・・・・・・・・・・・・・昭和38年(1963)頃、現在地に建てられた教会。

⑤砂潮橋・・・・・・・・・・・江東区潮見2丁目と新砂1丁目を結び、曙北運河に架かる橋。 昭和48年(1973)に架けられた、橋長:90.5mの3径間鋼製ガーター橋。

●・・・・・・・・・・・・砂潮橋を渡り、新砂の町から明治通りを北上し、東陽町駅に着いた。