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2016年2月

2016年2月27日 (土)

青砥~堀切菖蒲園

京成本線の青砥駅から、本線の北側を線路とに並行して、お花茶屋駅、堀切菖蒲園駅まで、1万歩、7kmの散歩です。

 



青砥駅
・・・・・・・・・青砥駅の高架化工事は、昭和48年(1973)に着手し、昭和61年(1986)に完成するまで、約13年の月日を要した。 駅は3階建て高架駅で、地面よりチョイと高くなった中2階は出札口、2階は島式1面2線で1番線が押上方面、2番線が上野方面の上り線ホームとなっている。 3階も同様に島式ホームで3番線が押上方面からの到着、4番線が上野方面からの到着の下り線ホームとなっている。、、、、3階建てと言っても、駅の3階は高くホームからの見晴らしは良い。 冬、風の強い日は寒すぎるのが欠点だが!

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②青戸第一団地・・・・・・・・・・青砥駅の西側に、20棟程の中層住宅が建ち並ぶ、総戸数1100戸程のUR青戸第一団地がある。 平成5年~14年(1992~2002)に全棟が建て変えられ綺麗な団地である。、、、、、戦後、町として発展した青戸(町名は「青戸」、駅名は「青砥」)に、日本住宅公団が青戸団地の入居者を募集したのは昭和31年(1956年)7月である。 今では建物は新しくなったが、歴史ある古い団地だ。、、、、、現在の家賃は7万円~18万円程らしい。 一人暮らしの老人には負担も大きく、離れて行った人もいるようだ。

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③都営青戸三丁目アパート・・・・・・・・・青戸第一団地を抜け、京成本線沿いに100m程歩くと、7棟から成る都営青戸三丁目アパートがある。 こちらは、昭和50年(1975)~昭和65年(1990)にかけて建てられた総戸数314戸の都営住宅。、、、、URの団地より家賃は安そうだ。

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④水戸街道・・・・・・・・・青戸三丁目アパートを抜けると、国道6号(=水戸街道)に出る。 ここまで、青砥駅から途切れることなく団地の中を歩いてきた。

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お花茶屋駅 ・・・・・・・・・・相対式ホーム2面2線の地上駅で、橋上駅舎を有している。、、、、昭和6年(1931)の上野線(日暮里~青砥間)の営業と同時に開業した駅。、、、、駅前には、チョイと元気だが、チョイと風邪気味なのか今一寂しい、商店街「プロムナード お花茶屋」がある。

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⑥中華料理屋・・・・・・・・・堀切5丁目で印象的だった、“This is 下町の中華料理屋”。 玄関先に並んだ岡持ち、色あせたテント、庶民的なネーミングが、アクセントだ! 野菜炒め定食など、食べてみたくなるね!、、、、堀切駅周辺にはラーメン屋が多いという噂があるらしい。 ホントのようだ!

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堀切菖蒲園駅 ・・・・・・・・・・地元民ではない多くの人は、菖蒲の季節以外には下車することが少ないと思われる駅だ。 たまに、下車して周辺を歩くのもいいかもね!

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2016年2月26日 (金)

高田馬場一丁目

高田馬場駅から、早田通り南側の「高田馬場一丁目」の裏道・路地を右へ左へ、行きつ戻りつ、ウロウロ・キョロキョロ、怪しそうに歩いて早稲田駅まで、1万歩、8kmの散歩です。



①JR高田馬場駅
・・・・・・・・・明治43年(1910)、国鉄山手線の駅として開業。 昭和3年(1928)、西武鉄道の高田馬場駅が現在地(JRの東側)に移設される。 昭和39年(1964)、地下鉄東西線の高田馬場駅が開業。、、、、、JRのホームは1面2線の高架駅。 ホーム幅が狭いので、朝のラッシュ時の混雑は激しいものがある。 JR高田馬場駅の一日当たりの乗車人員は約20万人程で、JR東日本管内では12番目の乗車人数である。 ちなみに、上野駅は約18万人で13番目。、、、、、駅名は、伊予西条藩の菅野六郎左衛門らと村上庄左衛門らの決闘で、赤穂浪士四十七士の一人、堀部安兵衛が菅野に助太刀して名を挙げた。 決闘場所であった高田馬場(現:西早稲田)にちなんでいる。、、、、“決闘”と言えば、余談だが、ゲイリー・クーパー主演の「真昼の決闘」を思い出すね。 悪漢に復讐されるのが怖い保安官が、悪漢と決闘し勝つた後は、保安官バッジを投げ捨てて妻(グレイス・ケリー)と町を去っていく映画。 自分とゲイリー・クーパーが重なり、我妻とグレイス・ケリーが重なって見えるのは私だけか?

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②BIG BOX・・・・・・・・高田馬場駅隣に、昭和49年(1974)にオープンした西武の「BIG BOX 高田馬場」は、ボウリング、スイミングプール、テニスなどのスポーツ施設が充実した商業ビル。 私も、40年程前にボウリング場を利用したことは記憶しているが、内部の仕様は忘れてしまった。、、、、、黒川紀章の設計による、鉄骨鉄筋コンクリート造、地上9階建ての建物。、、、、、3年前に改修工事を行い、外装もチョイと変わったようだ。 
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③通勤・通学経路?・・・・・・・・・BIG BOXの脇を東に向かい、戸塚第二小の裏(南側)に鉤の手を組み合わせたような、曲がり曲がった裏道がある。 見ていると、サラリーマン、学生“ご愛用”の道らしい。

・・・・・・・・・・・裏通りを直進するかと思いきや? 
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・・・・・・・・・・・木の横を入っていくサラリーマン、OL、学生。 ママチャリも!
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・・・・・・・・・・・道幅は御覧のとおり、一人分だ! 自転車のすれ違いはかなり難しそうだ!、、、、、ママチャリ同士のすれ違い、どちらが譲るか見てみたい。 女は強い! いずれ、血の雨が降るかもね? 
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・・・・・・・・・・・細い道を抜けると、今度はマンションの前に、花屋さん以上に鉢を並べたマンションが登場した。、、、、、チョイと入りにくい玄関先である。
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④木造洋館風建築・・・・・・・・・高田馬場1丁目の木造建築。板張りに、漆喰壁(?)のような洋館風建築。 道路側の2か所の窓は閉じられているが、観音開きの雨戸をあけると、スライド式と思われる木枠のガラス窓がある。、、、、よく見ると、味わいのある建物だ。 昭和初期の建築か?
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⑤諏訪公園・・・・・・・・・高田馬場1丁目の住宅街の中央付近に、諏訪公園はある。崖のような場所にあり、道路からは階段を上がることになる。、、、公園なので遊具は揃っているが、道路からは子供の遊ぶ様子は見えず、チョイと子供だけでは遊びにくい公園だ。、、、、若いカップルなら人目につかずいいかもね!
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⑥早稲田松竹・・・・・・・高田馬場から早大へ向かう「早稲田通り」の途中にある名画座。 昭和26年(1951)封切館として開館、昭和50年(1975)からは2本立ての名画座として営業している。、、、、、私は一度も入る機会がなく、残念!
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⑦富士見荘・・・・・・・・・高田馬場、早稲田は下宿、アパート、そしてマンションが、ゴチャゴチャと建ち並ぶ町である。 そのアパートの一つが富士見荘。 木造のゴク普通のアパートだが、木製の窓枠などにチョイと古さを感じる。 昭和40年(1965)に建てられたそうだ。

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⑧日本館・・・・・・・・・・・こちらも高田馬場1丁目にある、今や、探さなければ見つからない“賄付きの下宿屋さん”。 女子禁制のここには、高校生や予備校生、大学生が住んでいるそうだ。 部屋は4畳半の和室で24室、共同トイレ、風呂なし、食事付で月5万7000円程度の家賃。、、、、、建物は昭和11年(1936)に竣工した、木造2階建てで、中庭があるそうだ。 建物竣工時は病院として利用されたらしい(?)
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⑨諏訪神社・・・・・・・・・・高田馬場1丁目に鎮座するは、大国主命(おおくにぬしのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、武御名方命(たけみなかたのみこと)の二祭神。 諏訪神社は弘仁年間(810 - 824)に創建された都内有数の古社。、、、、かつて、この付近一帯は当神社にちなみ諏訪町(すわちょう)と呼ばれていたが、住居表示による町名変更により、地名としては消滅した。 いまでは諏訪通り、諏訪公園、諏訪町交差点などに名を残している。、、、、社殿は昭和55年(1980)に再建された鉄筋コンクリート造の厳つい造りだ!
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・・・・・・・・・・・コンクリート製の校倉造の神輿庫。 校倉造りは木造だから湿気を調節してくれて価値があるのだが、コンクリート製とは何じゃらホイ?
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・・・・・・・・・・・境内の一画には、明治天皇射的砲術天覧所址の碑がある。 神社の境内から射撃演習を見たそうだ。、、、、私は、“射的”と言われると、温泉場の射的場をイメージしてしまう。 温泉に入り、夕方、可愛い娘と旅館の下駄を履いて、カランコロン坂を下って射的場に行くのも楽しいね! 1000円払って、キャラメル一箱、残念! 明治天皇も温泉場で演習していたら、明治のミルクキャラメルぐらい貰えたかもね?、、、、、話題は変わり、写真右端にちょこっと見える木札(天覧所址を説明した木札)の日付は、ナント、昭和18年(1943)、戦前のものである。
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⑩玄国寺・・・・・・・・・諏訪神社の西側に、真言宗豊山派の玄国寺がある。 寺は龍池山上珠院と号し、慶長6年(1601)頃、現在地の高田馬場1丁目に創建された。 かつては、隣の諏訪神社の別当寺だった。、、、、、山門正面に、高床の本堂が在る。その右に、馬場先門にあった明治の元勲岩倉具視の屋敷を大正15年(1926)に移築した庫裏がある。
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●・・・・・・・・・・・・・・・このあと、西早稲田二丁目を、これまたウロウロ、キョロキョロ歩いて早稲田駅へ。

2016年2月24日 (水)

護国寺~新大塚

地下鉄有楽町線の護国寺駅から、1km程離れた丸ノ内線の新大塚駅まで、豊島岡墓地の裏通りを歩き回って、1万歩、8kmの散歩です。

 


①護国寺駅
・・・・・・・・・・池袋~銀座一丁目間が有楽町線として開通した昭和49年(1974)10月30日に同時に開業した駅である。 出入口は駅名のごとく、護国寺の山門前にあり、参拝には都合のよい位置にある。

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②護国寺・・・・・・・・・真言宗豊山派大本山の神齢山悉地院護国寺は、5代将軍徳川綱吉の母、桂昌院の発願によって天和元年(1681)に創建された。 本尊は桂昌院念持仏の天然琥珀如意輪観音菩薩像で、“絶対秘仏”となっているそうだ。 “秘仏”で拝顔できなければ、像が有るか、無いかもわからず、ひょっとしたら古物商に売ってしまったかも?(失礼!)、、、、、、現在の観音堂は元禄10年(1697)に建てられた、華麗で雄大な本堂である。、、、、、境内は広く茶室なども配され、墓地は著名人の墓も多く、見るべきものも多い寺である。

・・・・・・・・・・・・山門をくぐり、奥へ進むと階段の上に不老門が見える。
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・・・・・・・・・・・・階段を上がりきると正面に堂々とした本堂を見ることができる。
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・・・・・・・・・・・・多宝塔鐘楼大師堂、惣門など、歴史ある古い建物も多い。
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・・・・・・・・・・・・惣門の前に「音羽ゆりかご会」の案内があった。 懐かしい名だ!、、、、昭和8年(1933)ここ護国寺で発足した児童合唱団で、NHKの東京放送児童合唱団の母体でもある。、、、、、私にとっては、昭和20年代(まだ、幼児の頃)、ピーピー、ガーガー雑音を出すラジオを通し、「ゆりかごのうた」、「お猿のかごや」、「みかんの花咲く丘」、「里の秋」などなど、いろいろな童謡・歌を聞き、今でも心に残っている。 合唱団とともに、当時、川田三姉妹とよばれた川田正子、孝子、美智子や、松島とも子、小鳩くるみ、近藤圭子、渡辺典子など、多くの少女童謡歌手もいた。 さらに思い出すのは、歌のおばさん、松田トシ、安西愛子、、、、、みんな懐かしい人達だ! 不思議と、私が覚えているのは女性ばかり!
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③豊島岡墓地・・・・・・・・護国寺の隣には、天皇・皇后を除く皇族専用の墓地である、豊島岡墓地(としまがおかぼち)がある。、、、、、この地は、元々は護国寺の所有地であったが、明治天皇の皇子が死産した際に、時の政府が皇室専用の墓地とした。 約8万平方メートルの広さの中に、63名(61基)の墓があるそうだ。、、、、一般庶民は立ち入り禁止なのか、門は閉ざされていた。
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④吹上稲荷神社・・・・・・・・ひょっとしたら、豊島岡墓地の中を覗けるかとおもい、外周を歩いてみることにした。

・・・・・・・・・・・・・墓地に沿い細い道を歩く。 私好みの裏道で、嬉しくなるね!
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・・・・・・・・・・・・細い道を行くと鳥居が見えた。 豊島岡墓地に背を見せるように、吹上稲荷神社がある。、、、、、元和8年(1622)、德川秀忠が日光山より稲荷大神の御神体を戴き、江戸城中紅葉山吹上御殿に「東稲荷宮」と称し祀った。 その後、徳川家から水戸家の分家松平大学頭家へ、そして宝暦元年(1751)に大塚村民の鎮守神として、現:小石川4丁目に遷座し、吹上稲荷神社と称した。 さらにその後も幾度かの遷座を経て、明治45年(1912)に、現在地(大塚5)に遷座した。
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・・・・・・・・・・・・吹上稲荷神社の境内を抜けて、北の方角に30m程歩くと、住宅の脇に「東京市管理 大塚先儒墓所入口 徳川時代儒者之墓所」と標した門柱のようなものがある。、、、、、奥の門扉は閉じられて墓所を見ることはできなかったが、ここ(豊島岡墓地に隣接する一画)には、古賀精里、尾藤二洲ら寛政の三博士(寛政の三助)はじめ木下順庵、室鳩巣らの墓がある。(注:登場する儒学者の皆さんについては、私の知らない人たちだった。)
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⑤戦前の住宅2軒・・・・・

・・・・・・・・・・・・チョイとした坂を上り、豊島岡墓地のほぼ北側に来ると、墓地を囲むコンクリート塀が見える。
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・・・・・・・・・・・・この付近(大塚5-36)で、横道に2軒の戦前の住宅が並んでいる。、、、、、戦前の大塚5丁目の空気が残っているようだ。
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・・・・・・・・・・・・こちらのお宅は、現在でも住宅として利用されているようだ。
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・・・・・・・・・・・・築80年のこちらは、レンタルスペース「国彩館」と称している。
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・・・・・・・・・・・・大塚5丁目の裏道はここで終わる。(写真右側の塀の中が墓地)
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・・・・・・・・・・・・墓地の北側は大塚6丁目。6丁目側の墓地の塀は新しくなり、まっすぐ西へ伸びている。、、、、あらためて、墓地の大きさにビックリ。

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⑥大塚の階段坂・・・・・・・・・・・大塚6丁目の東側は坂の多い町のようだ。 私のように、よそ者には町の風情を演出する、細い裏通りの坂道・階段も、住んでる人には辛いかも? 

・・・・・・・・・・・・・まずは、この階段坂。 チョイと長いよ!

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・・・・・・・・・・・・次は、こちらの大塚坂下町公園。 下から階段を上っていく公園。 出入り口は1ヵ所だけなので、老人には向かないね! 
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・・・・・・・・・・・・こちらの路地は、途中に料亭風の住宅もある、石畳の路地。 ここを抜けると新大塚駅に出る。
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2016年2月22日 (月)

サーカス見物 散歩は休み

「トーテム」とは・・・・・・人の好奇心・欲望・情熱を追い求め、人類の誕生から現在、そして未来へと数億年の旅を続ける、“不可能を可能にする人類の進化”をテーマにした壮大な物語である。

 

「シルク・ドゥ・ソレイユ」・・・・・・カナダ・ケベックで誕生した、世界が認めるエンターテインメント集団(サーカス集団)。 

 

私には、どちらも、初めて聞く単語。 

 

昨日、娘が『シルク・ドゥ・ソレイユのトーテム』のチケットが手に入ったから、夫婦で観てこないかと持ってきた。 『なんじゃ、それは?』と問い返すと、『サーカスだよ!』と返ってきた。 早とちりの私は「キグレサーカス」、「木下サーカス」、最近では「ボリショイ・サーカス」を思い浮かべ、そのたぐいなら、懐かしいので観に行くことにした。

 

そして今日、台場の会場へ行ってきた。 フジテレビの建物、ガンダムの前を抜けると、『おう~、アレがサーカスの掘っ立て小屋だ!』 『皆も、ぞろぞろ歩いて行くぞ!』 『大相撲の幟旗に似た、旗がないぞ!』 自分のイメージのサーカスとは、チョイと様子が違うようだ。

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会場のテントの中は、なんと20代の若い子が多いこと、しかも娘さんが多いこと、ラッキー、ポッキー、ウィスキー! 感謝・感激・雨・あられ!
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指定席に着くと、数千人は入りそうなテントの会場は超満員。 『平日の昼間だというのに、若い奴らは暇なのか?』

 

演目が始まった、、、、、原住民を想像させる独特の衣装を着たキャラクターが演じる、鉄棒、ブランコ、一輪車などの演技がストーリーを持って行われていく。 その間を、道化師が繋いで、観客を飽きさせず、引っ張り込んでいく。 音楽・プロジェクションマッピングなども、演技を盛り立てている、

 

約2時間半の公演もアッという間にすぎ、満足して終了した。

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終わって、妻は『楽しかったね!』 私は、『面白かったね! しかし、昔のサーカスには、象もいた、熊もいた、猿もいた、水着の姉ちゃんもいた。 そうそう、赤い鼻のピエロもいなかった。』 やはり、“元祖サーカス”ではなかった。 でも、最高のパフォーマンスであった。

2016年2月19日 (金)

赤羽~東十条

今朝は赤羽駅 で下車し、相変わらず裏通りをブラブラ、グルグル、ウロウロ歩き回り、駅からは南東方向にあたる北区神谷の「神谷陸橋」に出て東十条駅 まで、1万2千歩、9kmの散歩。


①幸福地蔵尊
・・・・・・・・赤羽駅南改札口を出て、駅前のピンク街を抜ける直前に「太郎会館」と称する雑居ビルがあり、地下へ下りる階段手前に幸福地蔵尊が祀られている。、、、、建立趣意書には、『二度と戦争の悲劇のない世界平和と一人でも多くの人達が幸せになれるならばとの思いを込めて幸福地蔵尊の建立を決意したものである。  昭和63年12月8日  御真言 おんかかかびさんまえいそわか  願主 太郎会館館主 倉石良夫』と、書かれていた。 戦死者の霊を供養するために建てたらしいね!

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②神谷町アパート・・・・・・・・昭和37年(1962)~昭和41年(1966)に建てられた都営住宅が、北区神谷2丁目に残っている。 複数棟立ち並んでいたが、当時の建物は2棟だけとなった。 残る2棟も立ち退きは時間の問題となったようだ。、、、、すでに取り壊された跡地には、新たに8階建ての都営住宅が建てられている。

・・・・・・・・・・・1階の店舗部分では店は閉じられ、空き家となった部分もある。、、、、入居して50年が経過すれば、経営環境も変わり、高齢化し、店を維持できなくなったのか? また、長く住めば勝手に部屋を広げたところもあるようだ。
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・・・・・・・・・・・・取り壊しが済み、新しい都営住宅が建てられている。、、、、新しい住宅は「神谷二丁目アパート」と呼ばれているようだ。、、、、新しいアパートでは、店舗は併設されず全て住居となっている。
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・・・・・・・・・・・・数年前に、建てられた神谷町二丁目アパートもある。、、、、、高層化、大規模化する都営住宅により、町の景観・雰囲気も大きく変わってきたようだ。
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③真言宗智山派の2寺・・・・・・・・・・・北区神谷3丁目に真言宗智山派の寺院が2寺ある。 両寺院とも創建年代は不詳であるが、江戸末期の創建と言われている。

・・・・・・・・・・・・真言宗智山派神谷山専福寺
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・・・・・・・・・・・・真言宗智山派常住山自性院
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④北区神谷の町・・・・・・・・・・・・北区にはJRの駅が、9駅(田端・尾久・上中里・王子・東十条・赤羽・十条・北赤羽・浮間舟渡) あるが、一駅も神谷にはない。 ありそうなのは、地下鉄南北線の王子神谷駅だが、南北線は神谷の町を地下で通過し、王子神谷駅は隣の北区王子5丁目にある。 と、言うことで、残念ながら駅の無い町だ。

・・・・・・・・・・・・古い町だが、特徴のない下町である。
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・・・・・・・・・・・・環七通りが町を貫き、神谷陸橋を過ぎると足立区新田に入る。
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・・・・・・・・・・・・こちらは神谷では古い産婦人科医院。、、、、建物が古いのは理解できるが、医療機器が古いことと、医師・看護婦が優しい人柄だが“お歳で古い”という話は、残念ながら、お会いしてないので?
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⑤柏木神社・・・・・・・・北区神谷3丁目にある神社。 元享年間(1321~1324)に神谷村の鎮守として、荒川に面した地に創建された。 安産の神様として、さらに荒川を行きかう舟の安全を守る神様として有名であった。、、、先の大戦では、荘厳な森に囲まれた境内は軍需工場に接収され、昭和18年(1943)現在地に遷宮された。 現社殿は昭和54年(1979)に建立された。
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⑥見守り地蔵・・・・・・・・東十条商店街の駅に近いところに、戦争で焼け野原になった後、平和を願い上野寛永寺より譲り受けたお地蔵様が祀られている。 お地蔵様に近い商店街のレコード店で、毎月3回ほど、演歌歌手のイベントが開催されているため、奉納されている堤灯に、今では有名になった人たちの名前をみつけることができます。

 

・・・・・・・・・・・・建物の1階に祀られている見守り地蔵。 奉納提灯には水森かおり、山内惠介など演歌歌手の名がみえる。

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・・・・・・・・・・・・演歌歌手がイベントで立ち寄るレコード店(左側)。 お地蔵さんは右手の建物の1階に祀られている。、、、、歌手が来ると玄関先にステージができ、サイン会、CD販売が行われる楽しい店である。
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⑦とげぬき地蔵分尊・・・・・・・・・次は、「巣鴨のとげぬき地蔵さん」の分尊。 見守り地蔵尊の前を、200m程南に寄ったところに「地蔵湯」という銭湯がある。 そこに、とげぬき地蔵分尊が祀られている。、、、、、おじいちゃん、おばあちゃんは、巣鴨まで出向かずに、ここで間に合わせたら、お風呂帰りにご利益を頂戴できるかも?
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2016年2月18日 (木)

東品川

京浜急行北品川駅で下車し、品川区東品川の周辺を歩いてきた。 1万1千歩、8km。

 


①北品川駅
・・・・・・・・明治34年(1901)に京浜急行電鉄の前身「京浜電気鉄道」により、川崎駅~大森停車場前が開業した。 3年後の明治37年(1904)には、品川駅まで伸び営業を開始する、この時の品川駅が現在の北品川駅だ。 現在の品川駅まで伸びたのは昭和8年である。、、、、、6両編成に対応した相対式ホーム2面2線の小さな地上駅である。、、、、、品川駅は港区高輪にあることは有名な話だが、北品川駅は品川区北品川にあり東海道:品川宿の最寄り駅である。 元祖“品川”はこの地である。

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北品川橋・・・・・・・・・元祖“品川”にある北品川橋。 品川はかつては海辺の町で、旧目黒川が品川浦に注ぐ位置に北品川橋が架かっていた。 現在は目黒川は南に寄った地点から天王洲アイルの南側で京浜運河に流れ込んでいる。、、、、橋は大正14年(1925)に竣工した古い橋である。
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・・・・・・・・・・・・橋から見る旧目黒川の尻尾。 船溜まりとなっている。
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・・・・・・・・・・・・船溜まりのようになった隅(上の写真で、中央ド真ん中にある木の茂っている処)に利田神社(かがたじんじゃ)がある。、、、、利田神社は、寛永3年(1626)、沢庵和尚が旧目黒川の河口に出来た大きな洲であった、この地に弁天堂を祀ったのが始まり。
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③正和稲荷神社・・・・・・・・・・・東品川1丁目の裏道を歩いてると朱の鳥居がチラリと見える。 裏道の奥に鎮座する倉稲魂命(うかのみたまのみこと)は“お稲荷さん”。 創建年代不詳で、現在は利田神社の境外末社。、、、、、ご利益なさそうだから、お賽銭はヤメタ!
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④天王洲運河・・・・・・東品川2丁目は、東側は京浜運河、北側と西側は天王洲運河、南側は天王洲南運河で、四方を運河に囲まれた人工島(天王洲地区)である。 今日は天王洲運河を歩いた。

・・・・・・・・・・・・天王洲水門、、、、、、天王洲水門は、高潮や津波などの潮位上昇による浸水を防ぐために整備された防潮水門。、、、、2連・単葉ローラーゲート水門で昭和47年度(1972)に竣工した。
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・・・・・・・・・・・・天王洲水門は東京海洋大学 (旧水産大学)の品川キャンパスと天王洲アイルを結ぶように造られ、水門の脇には練習船「雲鷹丸(うんようまる)」が陸に固定され、保存されてる。
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・・・・・・・・・・・・天王洲ふれあい橋、、、、、東京海洋大学側と天王洲アイルを結ぶ人道橋。 ピン接合のレトロなイメージを持つ鋼橋で、本物志向の橋として設計された。 運河に“ピッタシカンカン”、よく似合う橋だ!、、、、、下路式プラットピントラス橋(この形式のトラス橋は、大正年代以降、新規に架設 された例はない)、施工は佐藤工業、平成8年(1996)に竣工。
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・・・・・・・・・・・・目黒川水門、、、、、、目黒川水門も防潮水門で、天王洲運河と天王洲南運河の合流点付近に設置されている。、、、、2連・単葉ローラーゲート水門で昭和47年度(1972)に竣工した。
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⑤寄木神社・・・・・・・東品川1丁目の寄木(よりき)神社には、伊豆長八の鏝絵が残っている古い神社。 信州の寄木神社を勧請して、鎌倉幕府の頃(1288年前後)に創建された。 神社の本殿は大谷石の土蔵造りで、拝殿の後ろに倉庫があるような、チョイと珍しい姿である。
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⑥蒸気機関車2850形2851号 (西武鉄道7号)・・・・・・・2850形は、1897年(明治30年)、伊賀鉄道開業に際してアメリカから輸入された蒸気機関車である。3両が輸入された、1897年、ピッツバーグ・ロコモティブ・アンド・カー・ワークス製(製造番号1709 - 1711)である。 3両の内1両は、明治40年(1907)に国有化され、国鉄2850形2851号となる。 昭和20年(1945)6月、西武鉄道へ払下げられ、同社第7号機関車となる。 昭和44年(1969)品川区に寄贈され、東品川公園(東品川3)にて保存されている。、、、、、只今、公園では整備工事が行われ入ることができないので、近くの歩道橋から撮影してみた。 保存のための鉄骨製上屋が無くなり、車体は塗りなおされている。 保存されて40年も経過したため、若返ったようだ!
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2016年2月16日 (火)

市ヶ谷~早稲田

JR中央線の市ヶ谷駅から東京メトロ東西線の早稲田駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。

 

 

 

市谷亀岡八幡宮 ・・・・・・・・・・外濠を挟み市ヶ谷駅の向かい側に鎮座する八幡宮。 神社は太田道灌が文明11年(1479)に、鎌倉鶴岡八幡宮の分霊を、江戸城西方の守護神として勧請したのが始まり。、、、、、、現社殿は昭和37年(1962)に再建されたものである。

 

・・・・・・・・・・・・外堀通りから急な階段を上り、文化元年(1804)建立の銅鳥居をくぐると社殿。

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・・・・・・・・・・・・ここ亀岡八幡宮にも几号水準点 が残されている。 境内にある手水鉢の左側面に几号水準点である“不”字に似た形が彫られている。
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・・・・・・・・・・・・急な階段の中程に、当地に古くからあった茶の木稲荷(境内社)が祀られている。、、、、、階段も、年とると一気に上がるのがつらいので、稲荷詣でにかこつけて途中でひと休み!
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桝箕稲荷神社・・・・・・・・・・・靖国通りを挟み、防衛省前の新宿区坂町に、町の鎮守様、桝箕稲荷神社(ますみいなりじんじゃ)がある。 元和年間(1615~1624=江戸時代初期)に創建され、当初は「真須美稲荷」と称していたが、稲を司る神様ということから稲穂にちなみ「桝箕(ますみ)」と称されるようになった。、、、、社殿は戦災で焼失し、昭和34年(1959)に現社殿を造営した。、、、、神社の鳥居の正面には道路があり、社殿裏側にも道路があり、境内は道路の一部と化したようだ! 知らない人は、邪魔な神社と思うかも! 街路灯もあり、24時間通行可。
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③余丁町通り・・・・・・・・・・・通称「余丁町通り」と呼ばれている抜弁天交差点(都営大江戸線東新宿付近)から住吉町交差点(都営新宿線曙橋駅付近)までの道路は、都道302号線(=靖国通り)の支線である。 数年前に道路が拡張され、明るい通りだ。

・・・・・・・・・・・・・・住吉町交差点から「台町坂」と呼ばれる坂を上る。
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・・・・・・・・・・・・通りの中程に、「余丁町児童遊園」がある、どこにでもある公園だ。 この公園は南側で、小さな「富久町児童遊園」と接し、連続した広い公園となっている。
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・・・・・・・・・・・・「富久町児童遊園」の片隅に「東京監獄市ヶ谷刑務所 刑死者慰霊塔」が建立されている。、、、、、明治36年(1903)、現東京駅近くの鍜治橋にあった「東京監獄」は、東京駅建設に伴い富久町に移転した。 大正11年(1922)には「市谷刑務所」と改称した。 市谷刑務所では未決囚を拘置し、裁判所へ送致することが主な目的であったが、その後既決囚を収容するに至り、死刑囚の収監と処刑も行っていた。 ここでは、斬首場が設けられ300人あまりが処刑されたそうだ。 昭和12年(1937)、巣鴨刑務所の跡地に移転し、「東京拘置所」と改称し、市谷刑務所は閉鎖された。、、、、慰霊塔は昭和39年(1964)に日本弁護士会が建立したものである。、、、、、、明治時代には、市谷刑務所の東側(現在の台町坂のあたり)に「市谷監獄」があり、“刑務所”と“監獄”が併存していたそうだ。
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・・・・・・・・・・・・話題は変わり、、、、、「東京都道環状第4号線」の一部として、若松町から伸び、若松河田駅前で分岐し、余丁町通りと余丁町児童公園前で交差し、公園を横切り、富久町西で外苑西通りに繋がる道路が整備中である。 この道路は富久町の東京監獄跡を通るように計画されている。、、、、また新しい道路ができ、歴史の一部は壊されていく。
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・・・・・・・・・・・・余丁町12に在る出世稲荷神社。 神社は、長禄元年(1457)、太田道灌が「郭向の岡」と呼ばれていた地に創建し、大永6年(1526)遠山左衛門尉直影が現在地へ遷座した。、、、、社殿等は戦災で全焼し、現社殿は昭和47年(1972)に再建された。、、、、、道路工事の対象区域からは、チョイとズレており移転はする予定はないようだ。、、、、、“出世”の御利益、期待できるのか? 怪しいね!
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④内藤多仲博士記念館・・・・・・・・・大江戸線若松河田駅の近く、余丁町小学校の北側に、東京タワー、通天閣など多くの塔の設計を手掛けた建築構造学者:内藤多仲(ないとう たちゅう、1886~1970)博士の自邸跡がある。 建物は博士の死後、早稲田大学へ寄贈され、昭和61年に生誕百年を記念して内部が一部改築され、展示室となっています。(通常は非公開)、、、、、、内藤多仲自邸は大正15年(1925)に建設され、「耐震壁」のモデル住宅として有名です。 意匠設計は木子七郎、構造設計はもちろん内藤多仲による。、、、、、泥棒も入りにくい鉄の門扉が閉じられており、門の外からパチリ。 内部もぜひ見てみたいね!
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⑤国立国際医療研究センター・・・・・・・・・・新宿区戸山に在る、平成22年(2010)に開所した国立の高度医療を専門とする大病院。 エイズ・HIV・メタボなどの研究に期待されている。、、、、、建物は平成22年(2010)、日建設計の設計、大林組の施工で竣工した。 地下2階/地上16階建て、約800床を有する病院。、、、、、エイズで入院は嫌だが、一度体験入院してみたいね!
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⑥陸軍戸山学校将校集会所跡・・・・・・・・・都営戸山ハイツの隣接して戸山教会の建物がある。 この教会の下層(基礎のような石積みの部分)は、半地下式の旧日本陸軍戸山学校の将校集会所だった。 当時は上部の教会部分はなかったので、地上に半分顔を出した要塞のような造りだった。、、、、、この周囲には、かつて陸軍病院、戸山ヶ原射撃場、陸軍医学校などもあった。
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・・・・・・・・・・・・ちょうど、園児の帰宅時間で若いお母さんがママチャリでお出迎え。 私は気の弱い男で、特に美人に弱く、幼稚園のママは苦手である。 教会の前をウロウロしていると怪しまれるので、写真を撮るのもあきらめた。
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⑦戸山ハイツアパート・・・・・・・・・・この地(新宿区戸山2)には、元々は陸軍戸山学校が開かれ、戦後は米軍に接収され、昭和24年(1949)には兵舎が払い下げられ木造住宅が建てられていた。 昭和45年(1970)から現在のコンクリート式の団地として建替えられた。、、、、、約3000戸から成る大規模団地だが、緑豊かで、山手線内で利便性は良く、環境としてはもんくなし。
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2016年2月15日 (月)

新中川 (八剣橋~高砂諏訪橋)

今日の散歩は、新中川の最下流から22番目の橋:八剱橋より、最後の25番目の橋:高砂諏訪橋まで渡り、これで全25橋を制覇した。 1万2千歩、9km。

 


①八剱橋
・・・・・・・・・・東岸の葛飾区奥戸9丁目と西岸の奥戸8丁目を結ぶ八剣橋(やつるぎばし)は、昭和34年(1959)に中川放水路(現:新中川)掘削工事に伴い架けられた。 橋長111.4m、幅員4.5m、7径間上路鋼鈑桁橋である。、、、、現在は、下流側に八剣橋人道橋が増設され人車分離となっている。、、、、橋名は西岸に所在する「八剣神社」に由来する。

 

・・・・・・・・・・・・・今日も八剣神社に手を合わせて行く。

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・・・・・・・・・・・・・・上流側(写真左)に八剣橋、下流側に一段高く八剣橋人道橋が架かっている。

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・・・・・・・・・・・・・・八剣橋人道橋、、、、人道橋であるが、自転車もこちらを渡る。

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・・・・・・・・・・・・・・八剣橋、、、、、2台がギリギリ行違える幅は、チョイときついね!
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②三和橋・・・・・・・・・・・八剱橋上流の三和橋(さんわばし)は、東岸の葛飾区細田3丁目と西岸の細田2丁目を結んで架かる。、、、、3径間連続プレビーム合成桁、橋長は119.0m、幅員は18.0mの現橋は、平成24年(2012)に架け替えられた。、、、、旧橋は、昭和36年(1961)に架けられた。

 

・・・・・・・・・・・・・・新中川の土手を歩いていると、黒い雲が見える、一雨降るかも、、、、いやな雰囲気だ!、、、、晴れることを祈り、「ハレルヤ・コーラス」を口ずさみ ♪♪ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ 全能の神 統べたもう ハレルヤ ・・・・・♪♪、すれ違う人が近づいたら小声となり、すまして通過。 聞こえていたら、恥ずかしい!!

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・・・・・・・・・・・・・三和橋に近づく、、、、ますます怪しく黒くなる雲、神は見放したもう!

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・・・・・・・・・・・・・・三和橋の西詰には、総戸数48戸(4棟)のこじんまりとした都営住宅:細田二丁目アパートがある。 小規模な団地でも、中央には立派な集会場と公園が用意されている。 昭和59年(1984)築。
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③細田橋・・・・・・・・・・東岸の葛飾区細田3丁目と西岸の細田2丁目を結び、昭和35年(1960)に架けられた。 その後、昭和54年(1979)下流側に人道橋が増設された。 上流側(写真左)は細田橋、下流側は細田人道橋。
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・・・・・・・・・・・・・・細田人道橋、、、、、、橋の中央には、川にせり出した小さなバルコニーもあるが、必要性は疑問?
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・・・・・・・・・・・・・細田橋、、、、、、5径間上路鋼鈑桁、橋長119.0m、幅員4.5mの狭い橋。
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④高砂諏訪橋・・・・・・・・・・新中川の最上流に架かる橋。 下流から数えて25番目の橋は、東岸の葛飾区高砂2丁目と西岸の高砂1丁目を結ぶ高砂諏訪橋(たかさごすわばし)である。 この橋も昭和36年(1961)に、中川放水路掘削工事に伴い架橋されたが、その後、下流側に人道橋が設置され人車分離された。、、、上流側(写真右)が高砂諏訪橋、下流側が高砂諏訪橋人道橋。
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・・・・・・・・・・・・・・高砂諏訪橋人道橋、、、、、、午前10時半だというのに、薄暗く、水銀灯も点灯していた。
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・・・・・・・・・・・・・・高砂諏訪橋、、、、、7径間上路鋼鈑桁、橋長135m、幅員4.5m。
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・・・・・・・・・・・・・・・高砂諏訪橋(写真左端)の上流左岸(東岸)から中川との分流点(右側)を眺める。 対岸中央付近に木が茂る処は新中川通水記念公園。
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⑤新中川通水記念公園・・・・・・・・・・・・中川と新中川の分流点に新中川通水記念公園(葛飾区高砂1)がある。、、、、葛飾区・江戸川区を流れる中川の流域は、川の氾濫による水害にたびたび悩まされてきた。 昭和22年(1947)のカスリーン台風、昭和34年(1959)の伊勢湾台風などでは、大きな被害をうけた。 東京都は防災の必要として、中川放水路(現:新中川)の掘削工事に戦前から着手し、昭和38年(1963)には工事を完成させた。 総工費53億8000万円が投じられた。、、、公園は、新中川の開通と同時期に整備され、園内の石碑には、新中川の経緯が語られている。

 

・・・・・・・・・・・・・・公園内の記念碑、、、、、チョイと耐震上危険であり、只今は柵が設けられている。

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・・・・・・・・・・・・・・公園から中川に架かる高砂橋 を眺める。

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⑥分流点・・・・・・・・・・高砂橋から下流の分流点を眺める。、、、、写真右から流れてきた中川は中央奥に向かって流れ下る。 中央から左奥へ流れるのが新中川。
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●・・・・・・・・・・・・・これにて、延長約8kmの新中川を踏破し、全25橋梁も制覇したこととする。 全5日間でした。 

        下流から、瑞穂大橋~涼風橋 ・・・・・・2月5日

            春江橋~大杉橋 ・・・・・・・・2月6日

            鹿本橋~小岩大橋 ・・・・・・・2月8日

            辰巳新橋~奥戸新橋 ・・・・・・2月12日

            八剱橋~高砂諏訪橋・・・・・・2月15日

2016年2月12日 (金)

新中川 (辰巳新橋~奥戸新橋)

JR総武線小岩駅で下車し、南へ向かい辰巳新橋へ向かう。 ここから、新中川を北へ遡り総武線を越えて奥戸新橋まで、そして再び小岩駅へ。 1万2千歩、9km。

 



①沖天祖神社
・・・・・・・・・・小岩駅の南西300m程行くと、児童公園のようにすべり台・ブランコなど遊具がそろった境内の天祖神社がある。 創建年代は不詳であるが、明治維新の神仏分離令が出るまでは、隣の円蔵院が別当であった。、、、、、社殿は、戦後に建てなおしたのか(?)、チョイとお粗末である。

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・・・・・・・・・・・・・境内には「昭和14年(1939)2月」と刻まれた石造りの厳島神社も祀られている。 その­厳島神社の参道にはさし石(力石)が10個ほど並べられている。
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②円蔵院・・・・・・・・・・・・・沖天祖神社の隣は真言宗豊山派の円蔵院。 創建年代は不詳だが、江戸中期には創建していたらしい。 門前では庚申塔・地蔵尊が参拝客を迎えてくれるありがたい寺だ。

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③辰巳新橋・・・・・・・・・・・新中川の最下流から数えて16番目の橋が辰巳新橋である。 中川放水路(現:新中川)開削工事に伴い、昭和31年(1956)に初代の辰巳新橋が架けられたが、交通量の増大、橋の老朽化、幅員の狭さなどにより、平成5年(1993)に現橋に架け替えられた。 現在の橋は、橋長は120m、幅員15mのアーチ型ニールセンローゼ橋。 橋脚がなく、リズミカルで明るい感じのする橋。
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④JR総武本線中川放水路橋梁・・・・・・・・・・・・・・新中川に架かる鉄道橋で、総武本線緩行線の鋼橋が下流側に、上流側には快速線用に増設されたコンクリートPC桁橋が架かっている。 
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・・・・・・・・・・・・・緩行線の中川放水路橋梁は中川放水路掘削工事に伴い、昭和31年(1956)に架けられた歴史的鋼橋(土木学会選定)のひとつ。 1径間複線下路ワーレントラス橋、4径間単線上路プレートガーター桁橋。 国鉄の設計、橋梁製作は横河橋梁製作所。
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・・・・・・・・・・・・・ 昭和47年(1972)に高架・複々線化のため上流側に、長さ114.2m、下路コンクリートPC桁橋が増設された。 橋梁設計は国鉄、基礎工は錢高組、橋梁製作は横河橋梁製作所。
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⑤上一色中橋・・・・・・・・・・・新中川の東岸:江戸川区西小岩1丁目と西岸:上一色3丁目を結ぶ上一色中橋(かみいっしきなかはし)。 旧橋は中川放水路掘削工事により、昭和30年代に架橋されたが、老朽化と交通量に増加により、平成24年(2012)に現在の橋に架け替えられた。 現橋は鋼製3径間連続箱桁橋で、シンプルなデザインである。
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上一色橋 ・・・・・・・・・・上一色橋は、東岸:西小岩2丁目と西岸:上一色3丁目を結び、都道315号御徒町小岩線(蔵前橋通り)を通す。 昭和41年(1966)、蔵前橋通り築造工事に伴い架けられた、橋長約120.0mの5径間連続ガーダー桁橋。、、、、、私も、よく渡る橋だが、特徴も話題もなく印象の薄い橋だ。
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⑦上一色天祖神社・・・・・・・・・・上一色橋の東詰(西小岩2)に上一色天祖神社がある。 天照大神、経津主命、武甕槌命を祀る、旧上一色村の鎮守で、かつては神明社と呼ばれていた。 創建年代は不詳。、、、、、、、この神社で昔、行われていた裸祭りは、江戸に疫病が流行した時、病気退散のため始めたと言われている。 その様子を描いた板絵額が文化財として保存されているそうだ。 私は見たことがないので、一度見てみたいね!
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中川放水路橋梁 ・・・・・・・・・・・・上一色橋の上流に架かる新金貨物線の橋梁。  1径間単線ワーレントラス橋+4径間単線プレートガーダー橋で、橋長は約155.0m、昭和34年(1959)に竣工した。 橋脚は複線分造られている。 設計は国鉄、基礎工は熊谷組、橋梁製作は汽車製造。 現在はJR東日本の所有だが、JR貨物が線路を借受けて、一日数本の貨物列車を運行している路線である。 列車本数が少なく、貨物が通過する写真を撮るのは難しいね!
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奥戸新橋 ・・・・・・・・・・・新中川に架かる橋、21番目は葛飾区奥戸8丁目と9丁目を結ぶ奥戸新橋である。 この橋も中川放水路掘削工事に伴い昭和36年(1961)に架橋された。 橋長144.6mの5径間単純活荷重合成プレートガーダー桁橋で、橋上には奥戸街道を通す。
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⑩八剱神社・・・・・・・・・・・・・奥戸新橋の西詰に宝蔵院がある、さらにその北側に八剱神社(やつるぎじんじゃ)が隣接している。、、、、、、天文5年(1536)三河国の杉村小左衛門が当地を開拓するに当たり、守護神として勧請した、旧奥戸新田の鎮守です。 社殿は、度々、修繕・改築が行われ、現在の社殿は昭和47年(1972)に鉄筋コンクリート造で建て替えられた。
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2016年2月10日 (水)

浅草八寺

今日は、10時半に浅草で人と会う約束があり、我が家(浅草橋)から散歩を兼ねて、のんびり遠回りして歩いて行くことにした。 途中の元浅草2丁目、松が谷1丁目、西浅草1丁目には多くの寺院があり、今日の散歩は寺巡りとなった。 9千歩、7km




①如意輪観音・・・・・・・・・朝9時、北風が吹きつける中、颯爽と歩く一人の中高年の男姿がまぶしい。 家を出て15分ほど経過し、その姿に異変が現れた。 歩く姿はモジモジ・セカセカ、落ち着きがなくなってきた。 しばらくすると、横道に入り「小島公園」(台東区小島2)に向かう。 1分しないうちにスッキリした顔に戻り、落ち着きも取り戻した。 男が歩いた横道には、「如意輪観音」が祀られている。 男は「尿意凛観音」の導きと悟ったようだ。、、、、、チョイと朝から話は脱線してるが、“如意”とは「如意宝珠」(=意のままに願望を成就してくれる宝珠)のことで“チンターマ二”と言うそうだ。 どうしても、下(しも)の話になるね!

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②華蔵院・・・・・・・・・・・・元浅草1丁目にある、“信州信濃の善光寺”の東京支店(正しくは東京別院)。 天台宗の華蔵院の創建年代は不詳だが、慶長16年(1611)に田所町から谷寺町へ移転し、正保元年(1645)現在地に移転したといわれている。、、、、、私の知る、あの有名な長野善光寺の支店としては、狭い短い参道、小さな本堂、滑車のような数珠、チョイとお粗末な感じもするね!
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③長遠寺・・・・・・・・元浅草2丁目に、日蓮宗の安立山長遠寺がある。 文禄3年(1594)に妙栄寺と称し創建された、元和7年(1621)に池上本門寺末となり、長遠寺と改称した。 寺では「自開眼開運日蓮大菩薩」像を奉安し、土富店(どぶだな、現:元浅草2丁目付近の俗称)のお祖師様として広く信仰を集め、江戸の巨刹して繁栄していた。 しかしその後、火災のために焼失し、ようやく再建された伽藍も関東大震災、東京空襲により灰燼に帰した。 なお、自開眼日蓮大菩薩の像は大火の中でも一指も損ずることなく現在に伝わるという。(私は像を拝したことはないので?) 、、、、、、金ぴかの文字で寺名の額が掲げられている、どっしりとした山門を入ると、ゆとりある広さの境内から、本堂をじっくり見ることができる。
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④栄蔵寺・・・・・・・・・長遠寺の北側に、十輪山地蔵院と号す、天台宗栄蔵寺がある。 寺は応永中期(1396)に洛中神楽岡に地蔵堂を開基し、慶長元年(1596)谷寺(京都)に移り20年を経て、浅草新寺町に移転した。 本尊は霊験あらたかで福徳円満と言われている(?)、延命地蔵菩薩である。、、、、、建物は小さな寺で、民家のような山門をくぐるり、一歩足を出すと本堂(住職の自宅か?)と思われるような建物の前に出る。 身体を180度回転すると、納骨堂の前に立っている。 納骨堂の後ろは広い駐車場。、、、、、檀家も少ないのか、“寺”で稼ぐより、駐車場で稼いでいるようだな?
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・・・・・・・・・・・・・・納骨堂、、、、、、インド風のデザインの納骨堂は、昭和初期の建築らしい。
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⑤吉祥院・・・・・・・・・真言宗智山派の吉祥院は、摩尼山隆全寺と号す。 創建年代は不詳。 慶長16年(1611)に中野に寺領を得て、寛永21年(1644)には現在地へ移転した。、、、、、こちらの寺は、いつ前を歩いても、境内は手入れの行き届いた植栽と、きれいに掃き清められ、小さいながらも落ち着いた雰囲気がある。 私好みの寺だ!
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⑥誓教寺・・・・・・・・吉祥院の向かい(元浅草4)に、浄土宗の誓教寺がある。 起立年代は不詳。
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・・・・・・・・・・・・本堂の右手、住職の住む住宅の裏に墓地があり、その墓地の中央に、『生涯に30回以上改名し、93回の引っ越しをした浮世絵師』、葛飾北斎の墓がある。、、、、、葛飾北斎は、本所(江戸東京博物館の近く)で生まれ、嘉永2年(1849)に山谷堀の裏店で、90歳で没した。、、、、、、墓石正面には「画狂老人卍墓」と大書され、右側面に辞世の句「ひと魂でゆく 気散じゃ 夏の原」と刻まれている。 浅草のせせこましい墓地の一画に、特に目立つこともなく寝ている北斎は、『これぞ、北斎!』なり。
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祝言寺 ・・・・・・・・地下鉄銀座線の田原町駅と稲荷町駅のほぼ中間(台東区松が谷1)に、曹洞宗万年山祝言寺(しゅうげんじ)がある。 祝言寺は天文20年(1551、=戦国時代)頃、太田道灌が江戸城大手門付近に草創した。 天正18年(1590)には徳川家康から万年山の山号と松平家と同じ「丸に一つ葵」の紋所を賜り、江戸城から浅草へ移った。、、、、、現在の祝言寺は、平成18年(2006)に内井昭蔵(1933~2002)の設計、大成建設の施工で建て替えられた。 私の好きな寺院建築ある。
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・・・・・・・・・・・・今日は、慰霊塔の中もチョイと拝見! 塔の中は、正面に観音菩薩を祀り周囲には無縁仏の骨壺が並んでいる。
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東本願寺 ・・・・・・・・昭和56年(1981)真宗大谷派から独立し、「浄土真宗東本願寺派 本山東本願寺」となる。 宗門内の対立で4派に分裂し、チョイと世間を賑わした『お東騒動』である。、、、、、本堂は震災後の昭和14年(1939)に、鉄筋コンクリート造で再建された。
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眞福寺 ・・・・・・・・東本願寺の東側に位置する浄土真宗大谷派の眞福寺。 眞福寺は、貞和元年(1345)に近江浅井郡にて創建し、寛永元年(1624)に江戸へ移ってきた。、、、、、手狭な境内は狭そうだ。
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・・・・・・・・・・・・納骨堂(?)、、、、、確かに骨が納められているので“納骨堂”だが、墓石ごと納められているので“墓苑”かも?、、、、、大正末期から昭和初期の建築と思われる。、、、、、堂内には、墓石がギッシリ、すし詰め状態だ! 
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●・・・・・・・・・・・そろそろ10時半、人と会うため急ぎ足で浅草へ向かう・・・・・・・・・

2016年2月 9日 (火)

船橋市本町の4寺

稲毛へ行った帰り船橋で下車し、本町3丁目の寺にある四つの寺院を見てきた。 8千歩、6㎞。



船橋市本町3丁目は、南側に千葉街道、北側に船橋のメインストリート“本町通り”、東側には海老川が流れ、西側にはJR駅前から伸びる“駅前通り”、大きな通りと川に囲まれた、チョイと傾いているがほぼ矩形の町である。 ただし、町の中は細い道が多いゴチャゴチャした町である。 地図で見ると、ここに7寺院の名を見つけることができた。、、、、、、なんとなく、寄ってみたい“町”だった。




①浄勝寺・・・・・・・・・・駅前通りに面した、本町3丁目の寺院では一番大きな本堂の寺。、、、、、浄土宗増上寺の末派で、西光山と号す。 明応5年(1496)に開基し、天正19年(1591)には徳川家康より寺領10石の朱印状を拝領した。、、、、、現在は、広い境内に幼稚園を併設している。、、、、、信州・善光寺の別院にもなっており17年ほど前に善光寺を模した唐破風の向拝の本堂を再建した。 ついでに、漬物屋、蕎麦屋なども模して、参道をにぎやかにしてほしいね!

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・・・・・・・・・・・・境内の一隅に「お女郎地蔵」が祀られていた。、、、、、私は、この手の地蔵さんには目ざとく、その由来を調べてみた。、、、、、昔、常陸国(今の茨城県)の18歳ぐらいの気品ある女性(越後新発田藩主の落胤?)が行き倒れとなり、元は別の場所に墓があったが、なぜか浄勝寺が引き取ることになった。 それが江戸時代になってお女郎地蔵として、浄勝寺近くの新地の遊女の信仰を集めるようになった。 “下の病”に効くという霊験あらたかな地蔵として信仰を集め、“下の病”に悩む多くの遊女たちが参った。、、、、、、境内の祠の中央に、板碑の形をした墓塔があるこれが「お女郎地蔵」である。 左の地蔵様は、客寄せ“パンダ”かも?、、、、、、、いつの間にか「お上臈地蔵」が「お女郎地蔵」に変身したようだ!

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②不動院・・・・・・・・・・浄勝寺境内の本堂脇の細い道を突っ切ると、本堂裏の参道に出る。 その参道の北側に、真言宗豊山派の海應山不動院がある。 江戸時代中期以前の創建といわれている。

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・・・・・・・・・・・・門前に大仏(?)の石像が祀られている。 この大仏追善供養について、案内板には以下のように説明されていた、『船橋の海は、江戸時代初めことから半ば近くにかけて幕府に魚介を献上する「御菜浦」とされた好漁場でした。 元禄16(1703)年の大地震による海底地形の変化などで、翌年から魚介の献上は中止され、代金納になりました。その後この漁場を巡って、近隣(堀江・猫実・谷津・鷺沼など)の漁師たちと多くの争いが起こりました。 文政7(1824)年、船橋村と猫実村(現在の浦安市)との漁場の境界を巡る争いが続いていた時、船橋漁師の占有漁場の船が侵入してきました。その中に、一橋家の幟を立てた船があり、乗っていた侍を船橋の漁師が殴打し、幟を奪ってしまいました。大きな事件であったことから、船橋の猟師総代3名が入牢させられました。1名は牢死し、1名は牢を出て間もなく死亡しました。そのため、延享3(1746)の津波による溺死者と、漁場を守り死んでいった漁師総代の供養をあわせて行うようになったのです。 大仏追善供養は事件の翌年の文政8(1825)年以来、毎年1月28日(明治以降は2月28日)に行われるようになりました。本来この大仏は、津波によって溺死した漁師や住民の供養のため、延享3年に建立された石造釈迦如来坐像です。供養の日には、炊き上げた白米の飯を大仏に盛り上げるようにつけます。これは牢内で食が乏しかった苦労をなぐさめるためといわれています。』

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③覚王寺・・・・・・・・・不動院門前の道を東へ行って右に曲がると(行く人は地元の人に聞いてね!)、真言宗豊山派の覚王寺がある。 創建年代等は不詳であるが、江戸時代には寺はあったそうだ。、、、、本堂は鉄筋コンクリート造で建て替えられた。

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④円蔵院・・・・・・・・・覚王寺の東隣りにある真言宗豊山派の円蔵院。 号は海岸山である。 この寺も、創建年代は不詳であるが、江戸時代中期以前の創建と言われている。、、、、、新しい本堂では、入るとお不動様が迎えてくれる。

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・・・・・・・・・・・・本堂前の地蔵堂に「えんが地蔵尊」が祀られている。 堂の中央で、お高そうな赤い衣をまとい頭上にはキンキラキンが輝き、道端の赤いアブチャンを付けた地蔵尊とは格が違うようだ!、、、、“えんが”とは“因果”のこと。

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2016年2月 8日 (月)

新中川 (鹿本橋~小岩大橋)

中川からの分流点を目指し、新中川を遡る散歩も今日で三日目、下流から数えて12番目の鹿本橋から15番目の小岩大橋まで歩いてきた。 1万1千歩、8km。




①鹿本橋
・・・・・・・・・鹿本橋は、江戸川区松本2丁目と鹿骨6丁目を結び、鹿骨街道を通す。 昭和30(1955)に完成した橋長118.4mの5径間単純プレートガーダー桁橋。 人道橋部分は後の増設らしく、実質2本の橋が架けられている。、、、、、橋は川筋に対し直角に架けられているが、鹿骨街道は川を斜めに横切る線形で通っている。 そのため、橋の両岸では急カーブとなっている。 区では橋の架け替えを計画しているが、その時は橋を川に対し斜めに架け、両岸の道路を直線的に結ぶ予定らしい。 ただし、架け替え時期は財政ひっ迫により未定だそうだ。、、、、、かつては、バスも通っていた橋だが、架橋後60年経過し老朽化が目立つ橋となった。 現在は、バスも怖いのか(?)上流側に架かる鹿骨新橋経由で川を渡っている。

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②鹿骨新橋・・・・・・・・・鹿本橋の上流側に100m程離れて並行に架かる鹿骨新橋(ししぼねしんばし)は、松本2丁目と鹿骨6丁目を結んでいる。 平成7年(1995)に道路整備とともに架橋された。 橋長119.3mの3径間連続非合成箱桁橋は、約16億5千万円の工事費で造られた。、、、、、橋は広い歩道と、途中で川に張り出したバルコニーを特徴としている、またバルコニーには子供の像も設置され、親しみやすさを演出している。 でも、橋の上には一人・二人が歩いている程度、チョイと寂しいね。
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③江戸川区の心遣い・・・・・・・・・・川べりを北風にさらされて一人で歩いていると、身も心も冷え、しばしば厠を探す運命に遭遇する。 土手の上で、“前”を押さえ、足を止めることもできず、おたおたするのは、中高年紳士の振る舞いとしては恥ずかしい。 『漏っちゃう、誰か助けて~~!』と、叫びたくもなる。、、、、こんな場面を知っている区役所の人は、さりげなく土手上に300~500m程の間隔で、こんな案内板を設置してくれた。 これで、安心して土手上を散歩することができる、ホッとするね!
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④長谷院・・・・・・・・江戸川区松本2丁目の浄土宗寺院の宝雲山慈光寺長谷院(ちょうこくいん)は、寛永8年(1631)に芝にて創建された。 創建以後は、数回の火災に遭い、平成16年(2004)に現在地に移転した。、、、、建物は新しく、平成16年(2004)の竣工である。 設計は宮崎浩/プランツアソシエイツ、施工は清水建設による、鉄骨造+鉄筋コンクリート造、3階建てで、「2006年 日本建築学会作品選奨」を受賞した。、、、、、お墓の奥にチラリとカッコイイ建物が見えたので寄ってみた。、、、、“寺”という感じはしないね!
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⑤松本橋・・・・・・・・・鹿骨新橋の上流には松本橋が架かり、東岸の江戸川区東松本2丁目と西岸の松本2丁目を結んでいる。 昭和31年(1956)に架橋され、昭和45年(1970)に橋の両側に歩道を増設し人車分離した。、、、、、歩道を歩くと、橋桁のつなぎめから、川面がチラチラ見え、車道との境は亀裂が入り今にもパックリ割りそう、私は恐怖を感じ速足で渡ってきた。、、、、この橋も架け替え計画はあるらしいが、財源がなく実施は未定。
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⑥松本天祖神社・・・・・・・・江戸川区松本2丁目にある天祖神社。 神社は、元和9年(1623)に創建された、旧松本村の鎮守社であった。、、、、、小岩大橋近くの西岸の土手下に鎮座してる。 昭和2年(1927)に彫られた狛犬が、しっかりと怪しい者を見張ってるようだ。
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小岩大橋・・・・・・・・・小岩大橋は、東岸の江戸川区南小岩5丁目と西岸の興宮町を結び、国道14号(千葉街道)を通す。 昭和30年(1955)、中川放水路(現:新中川)掘削工事に伴い架けられた長さ133mの5径間プレートガーダー橋。、、、、、さすがに国道が通る橋で整備もよく、同時期に竣工した下流の松本橋とは天と地の差がある。
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2016年2月 6日 (土)

新中川 (春江橋~大杉橋)

昨日の続きで、新中川の下流から数えて6番目の春江橋から11番目の大杉橋まで歩いてきた。 1万3千歩、10km。

 



①春江橋
・・・・・・・・・春江橋(はるえばし)は、東岸の江戸川区春江町3丁目と西岸の一之江3丁目を結ぶ、幅員の狭い裏道的な橋である。 昭和35年(1960)、中川放水路(現:新中川)掘削工事に伴い架橋された。 橋長119.0mの単純プレートガーダー桁橋。、、、、、、架橋後50年以上経過し、老朽化も進み架け替えの話もあるようだ。 只今とりあえず、塗装補修工事中である。、、、、、歩道部分は昭和50年(1975)に拡張したものと思われる。

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②第六天宮・・・・・・・春江橋西詰にある第六天宮は、一之江妙覚寺の別院で、慶安元年(1368)に妙覚寺2世日典上人が勧請した社といわれている。、、、、境内は門扉で仕切られた、掃き清められていた。

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③南椿橋/首都高速7号小松川線/新椿橋・・・・・・・・・7・8・9番目の橋梁は、下流側から南椿橋、首都高速7号小松川線、新椿橋と並んでいる。 首都高を挟む形で、区道の東岸方向(春江3丁目)行きは新椿橋、西岸方向(一之江2丁目)へは南椿橋が架かっている。

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・・・・・・・・・・・・南椿橋(みなみつばきばし)、、、、、、、、昭和55年(1980)に、首都高の下流側に架橋された西行き一方通行である。 3径間連続箱桁橋。

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・・・・・・・・・・・・首都高速7号小松川線、、、、、、、、7号小松川線は、墨田区の両国JCTから江戸川区に至り京葉道路に接続する路線である。 昭和46年(1971)に開通した。

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・・・・・・・・・・・・新椿橋(しんつばきばし)、、、、、、、初代の「椿橋」は、昭和35年(1960)に中川放水路掘削工事に合わせ架橋された。 その後、交通量の増加などにより老朽化し、平成9年(1997)に、現在の「新椿橋」に架け替えられた。 橋名もこの時、“新”が冠せられた。 東行き一方通行である。 3径間連続非合成箱桁橋。

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④一之江名主屋敷・・・・・・・・・新椿橋の東詰をチョイと東に行くと、江戸時代に現:春江町の一帯の名主であった田島家の住宅が区によって保存されている。 安永年間(1772~1781)に建てられた主屋と長屋門、明治時代に建てられた蔵が残されているが、本日は茅葺屋根の修理中であり、かつ開門前であったため、中には入らず覗き見をして、『ハイ、さようなら!』。

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⑤一之江橋・・・・・・・・・一之江橋(いちのえばし)は、東岸の春江町3丁目と西岸の一之江1丁目を結び、国道14号(京葉道路)を通す、橋長126.0mの5径間カンチレバープレートガーダー桁橋。 昭和34年(1959)竣工。

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⑥新堀日枝神社・・・・・・・・新中川の土手から見える、江戸川区新堀1丁目にある日枝神社。 正福寺空鏡法印が寛永2年(1625)当地に山王権現を勧請、当地の名主八武崎隼人、仁助らが社殿を建立したといい、旧新堀村の鎮守社であった。、、、、、、昭和55年(1980)、それまでの老朽化した社殿に変わり、鉄筋コンクリート造の社殿に改築された。 この改築では、8千万円以上の費用を投じ、社殿だけでなく境内の諸施設も整備したそうだ。

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⑦大杉橋・・・・・・・・・・東岸の鹿骨1丁目と西岸の大杉4丁目を結ぶ大杉橋(おおすぎばし)。 初代の橋は、昭和36年(1961)に現橋の下流側に架橋された。、、、、、2径間偏心1面吊り斜長橋の現橋は平成6年(1994)に架けられた。 長さは120.0m。、、、、、、昭和の後期から平成の初期は斜張橋が流行した時代だ! 江戸川区も流行に乗ってこの橋を造ったのかな?

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2016年2月 5日 (金)

新中川 (瑞穂大橋~涼風橋)

今日の散歩は、荒川下流の葛西橋に行く予定で家を出たが、、、、、、途中、何を勘違いしたか、日本橋で東西線に乗り換えるのを、東日本橋で新宿線に乗り換えてしまった。、、、、、しかたなく、一之江駅で下車してみたが、どっちへ歩こうかキョロキョロ、ウロウロ、適当に歩き出したが、途中で散歩中の近所のおじさんに捉まり、話し相手にされた。 男の趣味の自慢話から、病気の自慢話と、長々と1時間のロスはイタイ! (ちなみに、病気自慢の話では、私も負けずと応戦し、救急車に乗った回数、手術の回数、通った病院数では勝った! 最後は、おじさんが自宅へ寄っていけと勧めてくれたが、私は丁重に辞して散歩を続行する。)、、、、、急遽、行き先を変更し、新中川の合流点から上流に向かい歩くことにした。 9千歩、7km。




●新中川・・・・・・・埼玉、東京を流れ東京湾に注ぐ、利根川水系の一級河川中川(なかがわ)から、葛飾区高砂付近で分岐し、江戸川区江戸川で東から流れてくる旧江戸川に合流する一級河川。、、、、、昭和40年(1965)、河川名を「新中川」に改称したが、以前は中川放水路と呼ばれていた。 全長7.84km、幅員143.5m。、、、、、、新中川には、最下流の瑞穂大橋から最上流の高砂諏訪橋まで25橋梁が架かる、今日から全橋梁を歩いてみることにした。

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①新中川と旧江戸川の合流点・・・・・・・・江戸川区江戸川4丁目、新中川の最下流に架かる瑞穂大橋から合流点を見る。、、、、、写真左から中央奥へ流れる旧江戸川に合流する手前から流れ下る新中川。

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②瑞穂大橋・・・・・・・・・瑞穂大橋(みずほおおはし)は新中川に架かる最下流の橋、平成23年(2011)に総事業費27億円で架け替えられた。 3径間連続鋼床版桁橋、橋長は163.3m、橋上で緩やかな「くの字」にカーブした形、車道の両側には幅3mの歩道が設けられ、自転車・歩行者が安全に通行できるように設計されている。、、、、、、ちなみに、旧橋は昭和37年(1967)に、現橋の上流側に架けられたが、平成24年(2012)に撤去された。
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③今井水門・・・・・・・・・・・今井水門は瑞穂大橋の上流側に、昭和38年(1963)に設置された、上流を高潮などの影響から遮断する防潮水門である。、、、、、江戸川区・葛飾区・足立区の低地帯を高潮や津波の侵入から守る役割を担っている、都内では最大級の水門である。 幅14.5m、高さ9.46mの鋼製単葉ローラーゲートが7連並ぶ、壮観な姿を見せる水門。
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④新今井橋・・・・・・・・・・・・新今井橋は、江戸川区西瑞江4の東西を結んで架けられている。 橋上は都道50号(新大橋通り)を通す。、、、、、平成9年(1997)に開通した、3径間連続鋼鈑桁、橋長121.5mの橋。、、、、、、新大橋通は新今井橋で新中川を渡り、続いて今井橋で旧江戸川を渡る。
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瑞江大橋・・・・・・・・・瑞江大橋(みずえおおはし)は、江戸川区西瑞江4丁目の東西を結び、橋上は今井街道を通す。 昭和35年(1960)の中川放水路(新中川)掘削工事に伴い架橋された。 単純プレートガーダー桁、橋長158.5m。
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⑥都営新宿線通過地点・・・・・・・・・・瑞江大橋と明和橋のほぼ中間地点に、都営新宿線が新中川を地下で通過している。 その位置を標すピンが土手上に埋め込まれていた。、、、、、、ここから地点の、水面下12m程まで穴を掘ると地下鉄のトンネルを突き破り、地下鉄は水没する運命となる。 くれぐれも、安全のためテロリストには、教えないように!
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⑦明和橋・・・・・・・・・・・下流側から4橋目は、東岸の江戸川区西瑞江3丁目と西岸の一之江3丁目を結ぶ明和橋(めいわばし)。 初代の橋は昭和36年(1961)中川放水路掘削工事に伴い架橋された。、、、、、現在の橋は平成4年(1992)に架け替えられ、4本の塔がシンボリックに目に入るデザインで面白い。 橋は川筋に対し斜めに架けられているが、それでも一之江側の取り付け道路とは急カーブで接続している。、、、、、3径間連続下路式ブレースドレスアーチ橋、橋長は137.0m。、、、、、、只今、橋は塗装工事中。
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⑧涼風橋・・・・・・・・・・・・本日の散歩の最後は、下流から5橋目の涼風橋(すずかぜばし)。 橋は江戸川区春江町3丁目と一之江3丁目を結んでいる。、、、、、、平成18年(2006)の竣工、3径間連続波型鋼板ウェブPC橋、橋長は121.3m。、、、、、、名前の通り、涼しそうなスッキリとしたデザインの橋。 名は区民からの公募で決めたそうだ。
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2016年2月 4日 (木)

本郷

午前中は病院の心臓血管外科で定期検診を受け、午後は検査結果を持って循環器内科のクリニックへ、もちろん“異常なし”。 帰りは、後楽園から本郷・湯島を抜けて、我が家まで歩いて帰宅。 9千歩、7km。




①外記坂
・・・・・・・・・・・白山通り、後楽園遊園地前の「壱岐坂下」交差点から、南東方向に上る坂は「新壱岐坂」。 東に向かう細い道の正面にある階段坂が「外記坂(げきさか)」。、、、、、長さ25mの短い階段坂で、坂上に旗本:内藤外記の大きな屋敷があり、坂の名となった。 別名「新坂(しんざか) 」とも呼ばれている。、、、、、、この坂のある一帯は、「弓町」と呼ばれていた、慶長・元和の頃(1600年頃)には与力同心六組の屋敷がおかれ、的場で弓の稽古が行われたそうだ。 今はなくなった「弓町」の名は、「日本基督教団弓町本郷教会」などに残っている。

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②壱岐坂と新壱岐坂・・・・・・・・・・・「新壱岐坂」は、白山通り壱岐坂下交差点から東洋学園大の南側を上りきった処まで。 関東大震災の復興計画に基づき新しく造られた坂で、幹線道路の一部となり坂の上と下には「壱岐坂上」、「壱岐坂下」の交差点があり、この新壱岐坂が「壱岐坂」と間違えることが多い。、、、、、、「壱岐坂」は、東洋学園大の北側の短い坂である。 白山通りまで直線的に突き抜け、新壱岐坂とX字形に交差している。


・・・・・・・・・・・・・・新壱岐坂、、、、、、壱岐坂下交差点から、東洋学園大の南側を上っていく。

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・・・・・・・・・・・・東洋学園大の壁画、、、、、、、北側に壱岐坂、南側に新壱岐坂がある、東洋学園大学の壁画。 この壁画は、大学の前身:東洋女子短期大学の新校舎が建設された昭和36年(1961)にシンボルとして制作された。 制作の指導は早稲田大学の教授で建築家の今井兼次である。 壁画の材料には主材料のタイルのほかに、当時の在校生、卒業生、教職員が持ち寄った陶片、ガラス片も使用されている。、、、、、、写真:中央の壁画を挟み、右に上る坂が新壱岐坂、左に上る坂が壱岐坂。 ここで、両坂は交差し、白山通りへ下っていく。
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・・・・・・・・・・・・壱岐坂、、、、、、東洋学園大の壁画から50m程上ると坂の上に達する。
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③本郷ハウス・・・・・・・・東洋学園大の北側に、昭和45年(1970)に建てられた、総戸数127戸、地上15階/地下1階のビンテージマンション。 施工は竹中工務店。 築後40年以上経過したが、管理状態が良く綺麗な建物である。、、、、、、煙突と思われるものが外壁にくっついて空に伸びている。、、、、、、竣工当時は高級マンションだった、今も高級マンションかな?
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ヱチソウビル・・・・・・・・・・・丸ノ内線本郷三丁目駅の近く、本郷通りに面して建つビル。 震災直後の大正13年(1924)に竣工した、鉄筋コンクリート造4階建てのアールデコ風の建物。 前面の本郷通りの向かいから眺めると、建物上部の幾何学模様が目に入るが、建物前の歩道を歩いていると1階の飲食店が気になり、歴史ある建物に気付く人は少ないようだ。、、、、、、ビルの名は、糸屋の「越前屋惣兵衛」の略で、「エチソウ」になったとか。 (嘘のようなホントらしい話だ)
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⑤日本基督教団本郷中央教会・・・・・・・・・本郷3丁目の春日通りを歩いたら、日本基督教団の中央教会の正面玄関が開いていたので、教会の方に許可をいただき内部を拝見させてもらった。(今まで何度も来た教会だが、1階が幼稚園となっており入りずらかったが、やっと想いが叶った。)、、、、、、元ヴォーリズ建築事務所のヴォーゲルと川崎忍(カリフォルニア大学出身、立教女学院の寄宿舎などを設計)が共同設計した、鉄筋コンクリート3階建て(塔屋は5階建て)の教会。 施工は辻組。 登録有形文化財。

・・・・・・・・・・・・外観、、、、、、、、明治・大正期には「本郷中央会堂」と呼ばれていた、伊藤為吉の設計、明治23年竣工の教会があった。 その後、震災復興建築として、現教会が建てられたため、入り口のアーチの上には右から大きく「中央会堂」と書かれている。
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・・・・・・・・・・・・1階、、、、、、期待に胸を膨らませ、風船状態で、フウフウ、ワクワク、ドキドキと拝見した。 まずは1階玄関を入り、正面の幼稚園はパスし、左手の階段から2階に向かう。
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・・・・・・・・・・・・2階、、、、、、礼拝堂は木製の引き戸で閉じられていたが、戸を開くと講堂として使用できる空間が現れる。 上階にも座席のある、まるで小劇場のようだ。、、、、、ちなみに、木製の古い映画館のような固定座席も、戦前からのものである。、、、、、演壇上では女の子がお母さんと、ピアノの練習中。
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・・・・・・・・・・・・劇場のように2階席(実際は3階)が左右と背後にある。 明治23年(1890)に中央会堂には、日本で最初にパイプオルガンが設置された。 その流れを残し、今年3月に完成する予定で、2階席中央に立派なパイプオルガンが設置される。
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・・・・・・・・・・・・3階、、、、、2階から3階へ向かう階段の途中に「聖歌団室」と標された扉があった。 “聖歌団”とは、いいね!、、、、、階段の手摺もいいね!、、、、、3階もチョイと拝見!
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●・・・・・・・・・・・・・・・内部を拝見し、これまで見てきた多くの教会とは異なる、控えめで素朴なデザインの礼拝堂に感動した。、、、、、、何だか、もの凄いものを見たような興奮が帰宅するまで続いた。

2016年2月 2日 (火)

銀座線

今日も寒いので家でゴロゴロ、夕方になって浅草方面に散歩に出た。 田原町の交差点に着いたら地下鉄銀座線に乗ってみたくなり、浅草から上野まで乗車してきた。 1万歩、7km。


昭和2年(1927)に東京地下鉄道、浅草~上野間が、東洋発の地下鉄として開業した。 浅草・田原町・稲荷町・上野の4駅は、この時開業した駅である。 現在は東京地下鉄(東京メトロ)の銀座線の一部である。




浅草駅・・・・・・・4番出入口・・・・・・・銀座線浅草駅で最も有名な出入口。 観音さまにちなみ朱塗りの建物で、円形の中に「地下鉄出入口」の文字がデザインされている。 駅百選の一つ。

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・・・・・・・・・・・・浅草駅構内・・・・・・床・柱などもレトロ調にデザインされている。
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・・・・・・・・・・・・留置線・・・・・・浅草駅は終端の駅であり、通常はホームにて折り返し運転をしている。 しかし、ホーム奥には3本の留置線がある。
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・・・・・・・・・・・・ホーム・・・・・・2面2線の相対式ホーム
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●田原町駅・・・・・・・・浅草六区の玄関口として、歌舞伎役者の家紋レリーフがホームの壁と天井の境目に開業時から飾られているが、只今リニューアル工事中のためか、黒のネットが掛けられチョイと見えずらかった。
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・・・・・・・・・・・・1000系車両・・・・・・・銀座線の車両は今年中には全て1000系に置き換わる
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●稲荷町駅・・・・・・・・・
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●上野駅・・・・・・・・安全確保・・・・・・・只今、ホームドア設置中のため、駅員、警備員が多数ホームに待機し、乗客の安全確保に努めていた。
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・・・・・・・・・・・・01系・・・・・・・・・平成9年(1997)にデビューした01系は今年中に引退する。
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・・・・・・・・・・・・改札を出て、斜路を上るとJR上野駅不忍口に出る。
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●・・・・・・・・・・・上野から寒い夕暮れの道を歩き帰宅

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