« 2016年2月 | トップページ | 2016年4月 »

2016年3月

2016年3月31日 (木)

北千束~学芸大学

東急大井町線北千束駅から、住宅地をクネクネ歩き、東急東横線学芸大学駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。

 



北千束駅
・・・・・・・・・・昭和3年(1928)に開業した北千束駅は、傾斜地に立地しているため、駅出入口はホーム下の小さな口を開けている改札口1ヵ所のみである。 一日の乗降人員は7000人弱で、大井町線では最も乗降客が少ない駅である。、、、、、今日は久しぶりに下車してみた。

・・・・・・・・・・・・・・・乗降客の少ない駅は、のんびりした雰囲気だ。

20160331-002

・・・・・・・・・・・・・・・木造のホーム上屋が時間を止めている。 昭和が残る駅。

20160331-006

20160331-007

・・・・・・・・・・・・・・・ホーム下に出てくる、たった一か所の出入口。 自動改札機も3機だけ!
20160331-014

20160331-013

・・・・・・・・・・・・・・隣の大岡山駅へ向かう電車。
20160331-020



北千束の町 ・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・アップ、ダウンの多い町だ!
20160331-026

・・・・・・・・・・・・・・よそ者が先へ進むのを阻む看板だ! 私も、坂を上がって行き止まりでは、チョイと辛いので他の道を歩くことにした。、、、、、“後で気がつく てんかん病み”だった、看板は車向けであった。
20160331-027

・・・・・・・・・・・・・・北千束1丁目と2丁目の境、広い道路に出たと思ったら、目黒線を地下化した線路跡である。、、、、、跡地は公園にするのか?
20160331-029

・・・・・・・・・・・・・・またまた広い道路に出た、環七通りである。 道路を横断し、大田区から目黒区へ入った。
20160331-033



③洗足・南の住宅・・・・・・・・・・・・目黒区洗足・南の住宅地を歩いた。

・・・・・・・・・・・・・私の住む浅草橋では、見られない住宅地。 当たり前田のクラッカー!
20160331-038

・・・・・・・・・・・・・・住宅の庭には桜が咲き、歩きながら上を見上げてしまう。
20160331-039

・・・・・・・・・・・・・・おや、こちらは山小屋風。 いいね!
20160331-041

・・・・・・・・・・・・・・こちらは目黒区の区営南1丁目アパート。 いいところに在るね!
20160331-054

・・・・・・・・・・・・・・・立派な門構えに桜の木、お大尽さまのお屋敷か?
20160331-057

・・・・・・・・・・・・・・何だか建材メーカのCMに出てきそうな住宅もある。
20160331-066



④碑文谷八幡宮・・・・・・・・・・・・碑文谷八幡宮の創建年代は不詳であるが、鎌倉時代に、源頼朝の家臣である畠山重忠のまたの家臣:宮野左近が、重忠の守本尊を当地(目黒区碑文谷3丁目)に勧請して創建した。、、、、、現:社殿は延宝2年(1674)に造替したものを明治5年(1872)に再建し、明治20年(1887)に改築したものである。

・・・・・・・・・・・・・・参道の一の鳥居から二の鳥居までの間は、桜の花が鮮やかに出迎えてくれた。
20160331-077

20160331-075

・・・・・・・・・・・・・・旧碑文谷村の鎮守で、祭神は誉田別尊(応神天皇)
20160331-073

20160331-071



⑤カトリック碑文谷教会・・・・・・・・・・・・カトリックの男子修道会であるサレジオ会によって、昭和29年(1954)に目黒区碑文谷1丁目に建立されたロマネスク様式の教会。 別名:サレジオ教会と呼ばれている。、、、、奥行き47m、幅16m、高さ36mの荘厳な教会。 内部は壁・天井一面にフレスコ画が描かれている。この絵はイタリア人:フェラーリ修道士が7年にわたり心血を注いだ労作だ!、、、、、安土桃山時代の華麗な障壁画を見ているようだ!
20160331-100

20160331-092

20160331-097

20160331-089

20160331-085

20160331-082



学芸大学駅 ・・・・・・・・・・大学の無い「学芸大学」駅。 そろそろ駅名を変更するかと思いきや、隣の都立大学駅とともに駅名を変更する話はなさそうだ。、、、、、駅前は整備された広い通りがなく、ゴチャゴチャ感のある下町の駅と似ている。
20160331-113

2016年3月30日 (水)

谷塚~六町

春の陽気に誘われて今日の散歩は、東武伊勢崎線の谷塚駅から、町名が春らしい足立区「花畑(はなはた)」を抜けて、六町駅まで、1万2千歩、9kmの歩きです。

 



①谷塚駅
・・・・・・・・・・・・谷塚(やつか)駅は、埼玉県草加市にある東武伊勢崎線の駅。 南隣の駅:竹ノ塚(東京都足立区)と谷塚駅のほぼ中間が埼玉と東京の境である。、、、、、駅は大正14年(1925)に開業した。 昭和63年(1988)に高架工事が完了し、1面4線の高架駅となった。、、、、、駅名:谷塚は旧村名に由来するそうだ。

・・・・・・・・・・・・・・朝、谷塚駅で下車する人は少ないようだ。

20160330-001

・・・・・・・・・・・・・・ペチャとしたかまぼこ型の屋根が、なぜかレトロな風味を醸し出している高架下の駅東口。

20160330-008

20160330-011

・・・・・・・・・・・・・・駅前のロータリー、、、、、200m程先に旧日光街道が通っている。
20160330-009



②富士浅間神社・・・・・・・・・・・駅前を真っ直ぐ進むと、旧日光街道に面して境内の広い富士浅間神社がある。 神社は木花開耶姫命を祀っている。 創建年代は不詳であるが、他所に祀られていた当神社を明暦年間(1655~1657)に、現在地へ遷座したといわれている。、、、、、鳥居の前は旧日光街道で交通量も多く、建物の痛みもひどいようだ。
20160330-014

20160330-016

・・・・・・・・・・・・・・ここにも、あった! 几号水準点 (きごうすいじゅんてん)、、、、、、境内に設置された教育委員会による案内板には以下のように書かれていた。 『慶応元年(1865)銘のある手洗石に刻まれている「不」の記号は、「高低測量几号」といい、水準点を示します。 内務省地理寮が明治9年(1876)8月から一年間、イギリスから招聘した測量技師の指導のもと、東京塩釜間の水準測量を実施したとき、一の鳥居際(現在、瀬崎町の東日本銀行草加支店近く)の境内末社、下浅間神社の脇に置かれていた手洗石に、この記号が刻まれました。 当時、測量の水準点を新たに設置することはせず、主に既存の石造物を利用していました。市域でも二箇所が確認されています。この水準点が刻まれた時の標高は、3.953mです。測量の基準となったのは霊巌島(現:中央区新川)で、そこの平均潮位を0.000mとしました。その後、明治17年(1884)に、測量部門はドイツ仕込みの陸軍省参謀本部測量局に吸収され、内務省の測量結果は使われることはありませんでした。 以後、手洗石も明治40年代(1907~1912)と昭和7年(1932)に移動し、記号にも剥落が見られますが、この几号は、測量史上の貴重な資料であるといえます。』
20160330-017

・・・・・・・・・・・・・・「手洗石」は拝殿横にあったが、私には几号を見つけることができず、諦めかけた。 ちょうどそのとき、地元の世話役と思われる方に尋ねることができ、かすかに読み取れる慶応元年の「慶」の字と、几号の“不”の字に似た形状を見つけることができる。、、、、、、まだチョンマゲ時代の手洗石に彫られた几号水準点と感動のご対面。 今日はついてるね!
20160330-019

・・・・・・・・・・・・・・神社境内には大正5年(1916)に地元の浅古清右ヱ門が発起人となり、自ら200円を出し、その他30数名が2円~10円を出して造った富士塚がある。、、、、、、往時に近い形で残る貴重な富士塚らしい。、、、、残念であるが、登山禁止。
20160330-029

20160330-035



③花畑大橋・・・・・・・・・・毛長川は埼玉県川口市・草加市と東京都足立区の境を流れ、綾瀬川に合流する一級河川。 毛長川に架かり、草加市瀬崎と足立区花畑を結ぶ橋が花畑大橋である。、、、、、“花畑大橋”と聞くと、何となく近代的で大きな橋をイメージするが、現実は厳しく、長さ31m程で中規模の橋。 デザインはシンプルでどこにでもある橋。 昭和58年(1983)竣工。、、、、、都県境が川の上ではなく、埼玉県側の川岸に在るため、この橋は、東京都の管理下にある。 それ故、橋名は足立区側の地名から名づけられた。 普通なら、両岸の地名から“花咲(崎)橋”とか、“足臭(草)橋”などと命名するのだが。
20160330-041

20160330-042

20160330-045



④花畑団地・・・・・・・・・・花畑大橋を渡ると、橋の南端(足立区花畑)の両側に大きな花畑団地が広がっている。、、、、、、団地は東京オリンピックが開催された昭和39年(1964)から入居が開始され。 78号棟までは全て5階建ての集合住宅であったが、昭和49年(1974)に8階建ての79・80号棟が建てられた。 東京ドーム約4.7個分(約22ha)の広大な敷地に80棟(2,725戸)の集合住宅が並ぶ、都内でも最大級の大規模団地となった。、、、、しかし、この団地も老朽化が進み、平成22年(2010)から、建物のリノベーション、リホーム、バリアフリー化、公園・施設の整備、植栽の手入れなど団地の再生が進められている。、、、、、暗い、薄汚れた団地のイメージも大きく変わったようだ。 民間のアパート、マンションでは考えられない、ゆとりある緑の空間はいいものだ!
20160330-072

20160330-069

20160330-068

20160330-060

20160330-059

20160330-056

20160330-054



⑤花畑の町・・・・・・・・・・・送電線の下を歩き六町駅に向かう。、、、、、かなりの数のモンシロチョウが飛びまわり、春を感じさせる光景も見られた。
20160330-079

20160330-081

20160330-082

20160330-084

20160330-085

20160330-090



六町駅・・・・・・・・・・・・・つくばエクスプレス六町(ろくちょう)駅から、秋葉原までは16分程、ナントマ~早いこと! 陸の孤島のようだった足立区北部も大きく変化したようだ。
20160330-131

2016年3月29日 (火)

お花見 散歩は休み

昨日の悪天候から、一気に春の陽気に変わり、気持ち良い青空となった。 今日は同好会の皆様と北の丸公園・千鳥ヶ淵・靖国神社でお花見し、散歩はお休みとしました。

20160329-013

20160329-044

20160329-072

20160329-091

 





2016年3月27日 (日)

駒込~西巣鴨

JR駒込駅から、桜の染井地区を抜けて都営三田線新板橋まで、染井吉野の発祥地を巡る、1万1千歩、8kmの散歩です。・・・・・・・途中、染井霊園で、私のカメラのシャッターが故障し撮影できず。 その後は、ただただ、ひたすら歩くだけの散歩となった。 (カメラは、メーカのサービスセンターに入院させた。)

 



駒込駅
・・・・・・・・・・・・明治43年(1910)に開業した山手線の駅。 土地が傾斜しているため、池袋寄りの改札口はホームから上って橋上駅舎にある、田端寄りの改札口はホームから階段を下り線路下にある。

20160327-019

20160327-009

20160327-002



②駒込橋・・・・・・・・・・駒込橋は関東大震災以降に架けられた山手線の跨線橋である。 現在の橋は地下鉄南北線の工事に伴い、平成3年(1991)に架け替えられたもので、欄干には染井吉野の桜と富士山がデザインされている。
20160327-016

20160327-017

・・・・・・・・・・・・・・橋の北詰、「染井吉野桜記念公園」に旧橋の欄干が保存されているが、「染井よしの桜まつり」の旗挿し台として活躍中だった。、、、、、文化財をたいせつに!
20160327-026

・・・・・・・・・・・・・・公園内の桜
20160327-024



③妙義神社・・・・・・・・・・・・駒込3丁目の当神社は、日本武尊が東征時に陣を構えたところで、白雉2年(651)に社が建てられ、当初は「白鳥社」と称した。 社殿は鉄筋コンクリート造だが、創建は豊島区最古の神社らしい。、、、、、文明3年(1471)から文明11年(1479)までに大田道灌が三度の出陣に際して戦勝祈願し、いずれも勝利したところから勝負の神として信仰を集めている。 夏のサマージャンボの時は、ここで一等当選を祈願するかな?
20160327-030



④中央聖書神学校・・・・・・・・・・・妙義神社に隣接して、日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の聖職者育成の為の学校がある。 学校の母体は昭和4年(1929)に開設された聖霊神学院だそうだ。 戦時中は閉鎖され、戦後、昭和25年(1950)に開校した。 現在はチャペル、寮、図書館などが備わり、3年制・96単位のカリキュラムによる教育が行われているそうだ。、、、、、、1700坪のキャンパスに建物が美しく配されていた。
20160327-033

20160327-034



⑤旧丹羽家腕木門・住宅蔵・・・・・・・・・・中央聖書神学校の西方200m程の処に、染井の植木職人として活躍した丹羽家の土地が公園となっている。、、、、、、そこには、腕木で屋根を支える腕木門と呼ばれる形式の、簡素であるが格式のある門が残されている。 津藩藤堂家下屋敷の裏門を移築したらしいが、年代は不明である。、、、、、、そして、園内にもう一つ、正面4.5m×奥行5.5m、鉄筋コンクリート造、地上2階/地下1階、切妻造妻入桟瓦葺の蔵がある。 こちらは国登録有形文化財。 この蔵は、昭和11年(1936)、旧丹羽家の八代目茂右衛門が建てた蔵。、、、、、、門・蔵ともに、状態もよく保存されていた。
20160327-044

20160327-047



⑥西福寺・・・・・・・・・・・駒込小学校正門前に真言宗豊山派の西福寺がある。 創建年代不詳であるが、江戸時代初期には既に創建されていたとおもわれる。 

・・・・・・・・・・・・・右手に西福寺の塀がある、小学校前の通り。 正面奥には、染井吉野の発祥地と言われている「染井よしの桜の里公園」があり、西福寺の隣奥に「染井稲荷神社」がある。、、、、、すでに、地元は花見で浮かれた状態のようだ!
20160327-052

・・・・・・・・・・・・・西福寺も本堂まで提灯が連なり、法事でもあったらどうなるのか?、、、、提灯に明かりを灯し、夜桜で宴を開き仏を送ると、仏も酔ってあの世に行かず、現世に戻るかも?

20160327-054

・・・・・・・・・・・・・・西福寺の墓地では、桜の大木が開花していた。
20160327-063

・・・・・・・・・・・・・・墓地の一角に、徳川将軍家の御用植木師として名高かった伊藤伊兵衛政武(宝暦7年(1757)没)の墓がある。
20160327-059



⑦染井稲荷神社・・・・・・・・・・・1600年代の創建といわれている染井稲荷神社。 ご神体は十地面観音石像とのこと。 社殿は震災・戦災に遭わず、300年以上経ているそうだ。
20160327-065

・・・・・・・・・・・・・拝殿に奉納されている「カンシンの股くぐり」の額は貴重なものらしい。
20160327-071



⑧染井よしの桜の里公園・・・・・・・・・・・染井稲荷神社の向かい側に、豊島区が「ソメイヨシノ」の発祥の地とする公園がある。 染井の一帯は植木屋が集まって住んでいた地域で、今や全国的に植樹されている「ソメイヨシノ」は、ここ染井の地から広まった。 そのことを後に伝え残す場所として、区は銀行の跡地を取得し、近隣住民と検討を重ね計画した公園。、、、、、正確の発祥地と言うより、染井と言う地で「ソメイヨシノ」が生まれたことを記念する公園のようだ。、、、、、、公園では、祭りの準備が行われていたが、園内の桜は一分咲き!
20160327-077

20160327-076



染井霊園 ・・・・・・・・・・・園内の桜も、チョイと早いようだ! 
20160327-084

20160327-088



●・・・・・・・・・・・・ここで、私のカメラがダウンした! 以後、撮影不能

2016年3月25日 (金)

矢切~松戸

北総線矢切駅から常磐線松戸駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。

 



矢切駅
・・・・・・・・・松戸市下矢切の台地にある、北総鉄道北総線の矢切駅。、、、、、矢切の地名は、天文7年(1564)の国府台合戦にて、上杉謙信方の里見氏が武田信玄方の北条氏に、矢がつき切れ負けたことから「やきれ」→「やきり」→「やぎり」となったらしい。 地名の読みは“やきり”と濁らずに読む、駅名と曲名は“やぎり”と濁るそうだ。

20160325-016

・・・・・・・・・・・・・・駅前ロータリー(上の写真のバスの陰)に、作家:水上勉氏旧居跡の碑が建っている。、、、、、直木賞受賞前、約2年間このロータリーの地に住んでいたそうだ。

20160325-014

・・・・・・・・・・・・・・駅前には松戸街道(=千葉県道1号市川松戸線)が走っている。

20160325-019

・・・・・・・・・・・・・・街道裏の駅周辺は国府台の台地上の住宅地という雰囲気だ。、、、、、古い住宅、新しい住宅、いろいろ建っているけど、超高級住宅は見当たらないね! 

20160325-021

20160325-020



②野菊の墓文学碑・・・・・・・・・矢切駅の北東500m程のところに、夏目漱石が、「自然で、淡泊で、可哀想で、美しくて、野趣があって、(中略)、あんな小説ならば何百編よんでもよろしい」と、絶賛した、伊藤左千夫の小説『野菊の墓』(明治39年(1906)発表)の文学碑がある。 小説は、15歳の少年・斎藤政夫と2歳年上の従姉・民子との淡い恋を描いている。 (筋書きは、新潮文庫で300円程なので、自分で買って読むこと!)

・・・・・・・・・・・・・・駅から住宅地の中を抜けてくる左側の道と、「矢切の渡し」で対岸の柴又から国府台台地に上がってくる右側の坂道が、ぶっかった地点に真言宗の西蓮寺がある。 ここの境内に文学碑はある。
20160325-029

・・・・・・・・・・・・・・碑は土屋文明の筆で、小説「野菊の墓」の一節が刻まれている。
20160325-031

・・・・・・・・・・・・・・碑の建つ台地から江戸川・柴又・金町の方角を望む。
20160325-036



③矢喰村庚申塚・・・・・・・・・・・矢切神社の近くに、地蔵尊・青面金剛・馬頭観音などが10以上建ち並ぶ、強力なパワースポット、矢喰村(やぐいむら)庚申塚がある。、、、、、中央に控える青面金剛は寛文8年(1668)に建てられたもので、強力なパワーを得られるかも?
20160325-046

20160325-042



④矢切神社・・・・・・・・・・矢切駅の北方500m程に位置する矢切神社。 宝永元年(1704)の長雨により、江戸川が大洪水を起こし、水高が地面より8尺余り(約2m50cm)となった。当時の矢切の民家は江戸川沿岸にあったため、多数の死者を出し、甚大な被害を受けた。 その後、災害から逃れるため村民は台地上に移住し、鎮守として京都から稲荷を勧請して祀ったのが矢切神社である。、、、、、、拝殿の屋根には漆喰で描いたと思われる龍がいた。
20160325-054

20160325-049

20160325-049p



⑤外郭環状道路・・・・・・・・・・中矢切付近では外環道の一部が暫定開通している。 この部分は、国道6号(水戸街道)との接続部である。、、、、、外環道の本線は半地下で見えないが、中央の開口部が写真中央に見える。
20160325-071

20160325-073



⑥小山樋門橋・・・・・・・・・・・・・・・・通称「めがね橋」と呼ばれ、明治31年(1898)に当時の金額7,100円で造られた。 千葉県内では最も古い煉瓦造りの構造物。、、、、、保存状態の良い煉瓦橋で、美しい!、、、、、、写真では、樋門橋の手前にある、人道橋がチョイと邪魔だ!
20160325-104

・・・・・・・・・・・・・・下を流れる坂川に沿って桜が植えられているが、どうやら花は散り、葉桜となった木もある。
20160325-110

20160325-102



⑦松戸神社・・・・・・・・・・・・寛永3年(1626)の創建とされ、松戸市の総鎮守とされている。神紋は左三つ巴。、、、、、、ご利益ありそうだ、今日、抽選発表のグリーンジャンボの1等当選をお願いして賽銭を奮発して、“よろしく”、、、、、賽銭を損した、コンチクショウ!

20160325-114



●・・・・・・・・・・・・・・・・・・・松戸駅から帰宅。

2016年3月23日 (水)

北国分~市川

北総鉄道北総線の北国分駅からJR総武線の市川駅まで、1万2千歩、9kmの散歩です。

 



①北国分駅
・・・・・・・・・・駅から100m程も歩けば、隣の松戸市に入る、市川市の北端に位置する北国分駅(きたこくぶんえき)。 駅は平成3年(1991)に開業した。、、、、駅は掘割による半地下構造で、地下2階に2面2線の相対式ホームがある。 ホームの両端にはトンネルの口が開いている。 改札は地下1階で、地上には出入口の階段が在るのみ。、、、、、駅は前はロータリーとなっているが、バスの発着は少なく、商店も少ない。 コンビニがポツンと1軒あった!

20160323-016

20160323-013

20160323-005

20160323-008



②外環道工事中・・・・・・・・・・市川市内を南北に縦貫する東京外郭環状道路は、千葉県内では、平成29年(2017)度開通を目指し、只今、工事の真っ最中。、、、、北国分駅近くでも工事が行われていたが、外環道は半地下式で、地上からは進捗状況がつかめない。

・・・・・・・・・・・・・・農家の後ろに、現場が見える。
20160323-023

・・・・・・・・・・・・・・この辺りに、「北千葉JCT」ができるらしい。 現場は、広すぎて、デカすぎて、どこに何ができるやら、サッパリ判らん!
20160323-027

20160323-026



③竺園寺・・・・・・・・・・・市川市国分に禅宗の竺園寺(ちくおんじ)がある。 西暦1326年~1331年(鎌倉幕府の末期から南北朝の初め頃)に創建されたそうだ。 本尊は十一面観音、釈迦牟尼仏である。、、、、、本堂前の前には四方に枝を巡らせた臥龍の松が映え、境内は日本庭園風に造られ、気持ちも和む雰囲気の寺。
20160323-042

20160323-038

・・・・・・・・・・・・・・・国府台の台地には、戦前、練兵場、陸軍病院、連隊本部などかなりの軍の施設があり、多くの陸軍部隊が駐屯していた。 その駐屯部隊の戦死者・病死者を葬った陸軍墓地もあった。 戦後、これらの施設・土地が農地化されたため、英霊の墓は竺園寺に移された。  昭和63年(1988)には、その墓も寺の境内に改葬された。 「浩気長存」と記された墓には約200名の名が彫られていた。
20160323-045



④龍珠院・・・・・・・・・・・竺園寺から南に150m程歩くと、護国山龍珠院般若寺がある。 地元では龍珠院(りゅうしゅいん)と呼んでいる。 不動明王立像を本尊とする、真言宗豊山派の寺である。、、、、、こちらの寺も、墓地には陸軍兵士の石碑があり、かつて陸軍の町であった面影を今に伝えていた。
20160323-049



⑤日枝神社・・・・・・・・・・龍珠院の隣に国分日枝神社がある。 創建年代は不詳だが、鳥居に元禄2年(1689)建立の銘があり、江戸時代中期以前の創建らしい。、、、、現:拝殿は昭和56年(1981)に改築された。、、、、、“村の鎮守さま”の雰囲気、プンプン匂う!
20160323-054

20160323-052



下総国分寺・宝珠院・六所神社 ・・・・・・・・・・・・日枝神社の南側を歩いていたら、昨年の秋に散歩した国分寺の前に出た。

・・・・・・・・・・・・・・下総国分寺、、、、、境内の桜も咲きはじめたようだ。
20160323-055

20160323-061

・・・・・・・・・・・・・・宝珠院、、、、、、国分寺前の巨大ヤカンがある寺。 意味のないヤカンは今日も本堂前に静かに鎮座してる。
20160323-064

20160323-063

・・・・・・・・・・・・・・六所神社、、、、、、、ビックリ、シャックリ、厳重に檻に入れられ、施錠された、驚きの賽銭箱がある神社。
20160323-077

20160323-074



⑦田中屋・・・・・・・・・・・六所神社の南、市川市須和田にある蕎麦屋さん。 文化財的な建物が蕎麦の味を引き立たせる感じだ、入りたくなったが、暖簾が出てない。 まだ開店前か、定休日か?
20160323-080



市川真間駅・市川駅 ・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・京成本線の市川真間駅の踏切を渡る。
20160323-091

20160323-089

・・・・・・・・・・・・・・JR市川駅から帰宅する。

20160323-099

20160323-107

2016年3月21日 (月)

浅草橋~飯田橋

我が家(浅草橋)から、靖国通り沿いに歩いて靖国神社へ、そして飯田橋駅から帰宅。 1万3千歩、10kmの散歩です。

 

浅草橋駅 ・・・・・・・・・・・・江戸通り(国道6号)に面する東口が浅草橋駅の正面玄関ならば、我が家から徒歩2分程の浅草橋駅西口(秋葉原寄り)は勝手口というところだ。、、、、、その勝手口に今月26日エレベータ設置工事が完了し、利用できることとなった。 総武緩行線に残るバリアフリー化未対応駅の最後の2駅(浅草橋、御茶ノ水)の一つが解消する。 メデタシ・メデタシ。、、、、このエレベータの設置にはJRも苦労したようだ。 昭和7年(1932)、総武線の両国~御茶ノ水間の開通と同時に開業した高架駅の浅草橋駅である。 ホームは高架の両側に張り出した位置にあり、ホームの直下は2車線程の道路となっている。 ホームに出る、エレベータを設けるためには、この問題を解決しないと設置できない。 JRの解決策は、西口改札内(高架部分の下)にエレベータを設置して、まずは1階改札から2階に上がり、2階には上下線のホーム下に張り出した部分にそれぞれエレベータを設けたのである。 (説明するのも、ややっこしいほど複雑な構造となている)、、、、、できたら、ぜひ一度、体験乗車(?)してみてください!

 

・・・・・・・・・・・・・駅の西口、、、、、道路側に出っ張った部分の円柱の上に、2階と3階ホームを結ぶエレベータがある。

20160321-006

・・・・・・・・・・・・・改札口は2階のエレベータホール下となる。

20160321-008

・・・・・・・・・・・・・西口改札口の右奥に、1階と2階を結ぶエレベータが設置された。 これで2階まで上がり、それぞれ上下線ホームに出るエレベータに乗り換えることになる。

20160321-009


②左衛門橋・・・・・・・・・・・・浅草橋駅西口南側に、神田川に架かる左衛門橋(さえもんばし)がある。 この橋は、台東区浅草橋1丁目、中央区日本橋馬喰町2丁目、千代田区東神田2・3丁目の町境となっている。 まず、橋の上流側は千代田区、下流側は南詰が中央区、北詰が台東区である。 3区の境の交点は橋の中央らしい。、、、、、この橋は、明治8年(1875)に民間の有料橋(賃取橋)として架けられた。 昭和5年(1930)には、震災復興事業の一環として現在のような橋となったという。 現在の橋は、親柱によると平成12年(2000)に大規模改修を行った。、、、、、橋名は、橋の北詰(台東区側)に鶴岡藩の酒井左衛門尉の下屋敷があったことからこの名となった。、、、、私が小学生の頃(昭和30年代)までは、浅草橋駅付近の北詰には“左衛門橋通り商店街”があったが、商店街はいつのまにか名も実も消え去った。
20160321-025

・・・・・・・・・・・・・北詰下流側に台東区が管理する公園があり、親柱の隣には台東区が設置した地名案内板がある。
20160321-017

・・・・・・・・・・・・・・北詰上流側に千代田区が管理する公園があり、千代田区の地名案内板が立てられている。
20160321-019

・・・・・・・・・・・・・・南詰下流側に中央区が管理する公衆便所があり、只今改築中、近々完成します。 綺麗なうちに、ぜひ、ご利用をお待ちしております。
20160321-023

・・・・・・・・・・・・・・南詰上流側は千代田区が管理する小公園。 只今ホームレスが一部使用中。
20160321-027



③和泉橋・・・・・・・・・・神田川に架かり、橋上には昭和通りがある。 さらに頭上には首都高が通る。、、、、、寛永年間(1632~1644)には「いつミ殿橋」(神田川の北側に藤堂和泉守(いずみのかみ)の屋敷があつたことに由来)として架けられていたようだ。 明治25年(1892)には、鉄橋として架け替えられた。 現橋は昭和 5年(1930)に震災復興事業によりアーチ橋として架けられた。 装飾の少ない、味気ない、面白くない橋だ!
20160321-047

20160321-040



④北原ビル・・・・・・・・・和泉橋の際に、昭和2年(1927)に建てられた、旧北原プレス機械の建物。 鉄筋コンクリート造、地上5階/地下1階建てだが、4階以上は後の増築だろう? 施工は清水組(現:清水建設?)。、、、、、玄関上の丸窓がワンポイントのようだ!
20160321-048



⑤柳森神社・・・・・・・・・和泉橋と万世橋の中間、神田川の岸(柳原土手)に、長禄3年(1459)に創建した由緒ある柳森(やなぎもり)神社。、、、、、太田道潅が江戸城を築いた際、神社周辺に柳を植えて鬼門除けの柳の森とし、その鎮守が柳森神社と言うこと。 境内社の福寿社は福寿神の狸を祀っている。、、、、、、新橋の烏森(からすもり)神社、日本橋堀留の椙森(すぎのもり)神社とともに江戸三森と称されている。
20160321-053

20160321-054



⑥神田まつや・・・・・・・・・・・明治17年(1884)に創業した老舗の蕎麦屋さん。 建物は大正14年(1925)の建築。
20160321-081



⑦麻雀kiya・・・・・・・・・・・小川町の雀荘。 営業をやめて、10年以上が経過したかもしれない。 一昔前の雀荘として、ドアが雰囲気を残している!
20160321-083



⑧神保町の建築・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・文房堂(文房ビル)・・・・・・・・・・大正11年(1922)の旧本社ビルの外観を保存した彫刻のような建物は、神田すずらん通り(三省堂の裏通り)の象徴的な画材屋さん。 重厚な建物は、いくつかの景観賞も受賞している。
20160321-089

・・・・・・・・・・・・・神田すずらん通り周辺には、まだ戦前の建物も残っている。
20160321-093

20160321-095

20160321-097

20160321-101

・・・・・・・・・・・・・・神保町の表通りにも、、、、、、かつては、棟続きで長屋のように並んでいた大正14年(1925)の建物。 3階には丸窓の付いた屋根裏部屋があったそうだ。 メガネの三鈴堂眼鏡店は、明治12年(1879)創業の老舗眼鏡店。
20160321-113

20160321-103

20160321-102

・・・・・・・・・・・・・一誠堂は、創業100年をこえる、神保町でも老舗中の老舗の古書店。 昭和6年(1931)に建てられたという店舗ビルは、靖国通り沿いの歩道から、一段高くなっている。
20160321-108

・・・・・・・・・・・・・矢口書店・古賀書店は洋風ファサードをイメージした木造3階建て建築で、昭和3年(1928)に建てられた。
20160321-121


⑨靖国神社・・・・・・・・・・・桜の標本木を見に来たので、まずは、手を合わせるだけ。
20160321-142

20160321-144

20160321-147

20160321-168

・・・・・・・・・・・・・・昨日の天気予報で、今日桜の開花宣言が出そうだと聞いて、桜の標本木を見てきた。 出ました、出ました、開花宣言が出ました!、、、、、標本木の周囲はテレビカメラがいっぱい、出ました、出ました、私がTVに出ました! 野次馬が桜の木を見上げている姿が、TBS、フジTVに映りました!、、、、帰宅すると、妻の口から、出ました、出ました、『パパ、フジTVに映っていたわよ!』 昼のニュースでは、TBSにも映っていました。 『NHKと日テレと朝日は、まだか?』 欲も出ました。
20160321-159

20160321-148

20160321-160

20160321-157

・・・・・・・・・・・・・・・神門をくぐって左側(標本木の反対側)の灯篭の基壇部分には、明治時代の測量の基準点である、几号水準点 が標されている。 こちらは、ついでの、おまけで、見てきた。
20160321-164p

20160321-163p



⑩桜・・・・・・・・・・飯田橋駅前では、満開に近い桜が綺麗に咲いていた。
20160321-176

2016年3月20日 (日)

彼岸の中日 (散歩の休日)

天気も良く、我が雅万歩家の墓参りに行ってきた。

 

東京郊外にある、柴又帝釈天直営の霊園。 所要時間は、我が家(浅草橋)からJRの最寄り駅まで小一時間。 駅からバスで30分。 我が家から2時間かけて、やっと霊園に着いた。 寺に挨拶し、墓を掃除し、手を合わせて『南無妙法蓮華経』。 帰りは駅近くで昼食をとり、我が家に帰宅したら16時過ぎである。 普段の散歩より、数倍、疲れる墓参りとなった。

 

・・・・・・・・・・・・・都心から 離れ今日は 野の匂い

20160320-001

20160320-005


・・・・・・・・・・・・・・・街道の 端に小さな 春が来た
20160320-027

20160320-006

20160320-022


・・・・・・・・・・・・・孝行息子がここで一句を三句

               親父さん 今年も来たよ 墓参り 
               お袋を 連れて今年も 墓参り
               いつになる 夫婦そろって 墓の中

20160320-014

20160320-021


・・・・・・・・・・・・・狭い街道は連休中日で大渋滞、しかもバスは45分~1時間間隔の運行。

               イライラし バス待つ気持ち わかるかな!
20160320-029

2016年3月18日 (金)

日暮里~浅草

日暮里駅から浅草まで、1万1千歩、8kmの散歩です。



JR日暮里駅南口 ・・・・・・・・・・・駅のメインは北口で、南口は裏口である。 南口は、橋上駅舎となっている。 とんがり帽子の駅舎を出ると橋上となり、東側は京成線の高架下を抜け駅前ロータリー方向へ、左は谷中霊園に直結している。 今日は“彼岸”だからか、年寄りが多く、皆さん近いうちに自分が入るであろう墓地に向かって行く。

20160318-007


②羽二重団子・・・・・・・・・・・南口から京成本線の高架下を抜け、線路沿いに鶯谷方向に歩くと、きめがこまかく羽二重のようだと絶賛され、そのまま名前となった「羽二重団子」の店がある。 文政2年(1819)、初代澤野庄五郎が、現在地(芋坂)に「藤の木茶屋」を開いたのが始まり。、、、、、団子は、生醤油を塗った焼き団子と、さらし餡を巻きつけた餡団子の二種類の串団子で、粒の形が扁平な円盤状になっている。 気になる人は、ぜひ、賞味あれ!、、、、羽二重団子を好んで食べた正岡子規の句、「芋阪の 團子屋寝たり けふの月」、、、、雅万歩も一句、「芋坂の 團子屋を買うて けふの土産(みや)」
20160318-009



③善性寺・・・・・・・・・・・「羽二重団子」の向かい側に、日蓮宗の善性寺がある。 長亨元年(1487)に創建、寛文4年(1664)六代将軍徳川家宣の生母長昌院が葬られて以来、将軍家ゆかりの寺となった。 宝永年間(1704~1711)には、家宣の弟の松平清武がここに隠棲し、将軍家宣のお成りがしばしばあったことから、門前の音無川(暗渠化された)にかけられた橋に将軍橋の名がつけられた。
20160318-020



④御隠殿坂橋・・・・・・・・・・・日暮里駅の南側で、谷中霊園と根岸7丁目を結び、JRの線路上に架かる人道跨線橋。 橋長:約90mの橋は昭和3年頃の竣工と思われる。、、、、、橋名の「御隠殿」とは、寛永寺の住職:輪王寺宮法新王の別邸で、御隠殿坂は寛永寺から別邸へ行くための道として、江戸時代に作られた。、、、、、いつ来ても、撮り鉄の一人、二人はいる、マニア撮影スポット。
20160318-026

・・・・・・・・・・・・・・御隠殿坂橋の南側には、昭和8年(1933)竣工の京成本線の跨線橋がある。
20160318-043



⑤御隠殿址・・・・・・・・・・・御隠殿坂橋の東詰(根岸2)の近くに根岸薬師寺という小さな寺がある。 ここは輪王寺宮の別邸「御隠殿」があった所と標されている。 御隠殿(ごいんでん)の創建年代は明らかでないが、宝暦3年(1753)に、百姓地を買上げ御隠殿前芝地としたといわれている。 この年までには3千坪以上の敷地に、優雅な庭園と建物は建造されていたようである。、、、、、慶応4年(1868)、御隠殿は彰義隊の戦いによって焼失し、現在は御隠殿の址を偲ぶものは残っていない。
20160318-053



根岸の町 ・・・・・・・・・・東日暮里4丁目から根岸3と4丁目の境(根岸柳通り)付近を歩いて、下谷から入谷に向かう。

・・・・・・・・・・・・・チョイと懐かしい木造家屋
20160318-067

・・・・・・・・・・・・・・ビルの隙間に煉瓦造りの蔵が見える
20160318-072

・・・・・・・・・・・・・・御行の松不動尊の前に出た!
20160318-078

・・・・・・・・・・・・・・不動尊の裏手には料亭の名残りらしき建物もある。
20160318-083

20160318-089

20160318-090



⑦正覚寺・・・・・・・・・・曹洞宗の正覚寺は、元和2年(1616)徳川秀忠の指示により、僧養山厳朗が創建したと伝えられます。、、、、、数年前、門前の整備では建築景観賞(台東区)を受賞した。
20160318-098



⑧お多福・・・・・・・・・・・・大正4年(1915)浪速千日前(法善寺境内)より、台東区千束1丁目進出し、浅草おでん大多福(おたふく)として生業した。 以後、関東大震災、大戦災と世は変わったが、変わらぬおでんの味で今日に至っている。
20160318-107



⑨浅草寺・・・・・・・・・・・今日は浅草寺本堂で「本尊示現会」の法要が執り行われ、境内では縁起にちなみ「金龍の舞」が賑やかに奉演されていた。、、、、知ってか知らずか、まるっきり知らなかったが、たまたま寄ったら、龍が舞っていた。 私は運のいい男かな?
20160318-152

20160318-127

20160318-130

20160318-136

20160318-145



⑩根岸の春・・・・・・・・・・咲いてます!
20160318-064

2016年3月16日 (水)

本八幡~下総中山

総武線本八幡駅から隣の下総中山駅まで、京成本線の北側(山側)をブラリ散歩。 1万1千歩、8km。

 



①本八幡駅
・・・・・・・・・・・・・昭和10年(1935)に総武本線の駅として開業した。 現在は1面2線の高架駅で、連絡通路により都営新宿線の本八幡駅と結ばれている。 京成八幡駅とは300m以上離れている。、、、、、朝は千葉方面から来て、当駅で総武線から新宿線に乗り換える通勤客が多くみられる。

20160316-008

20160316-002


・・・・・・・・・・・・・北口を出て、駅前の「八幡一番街」を歩いてみたが、“何が一番だ?”
20160316-011



②不知八幡森・・・・・・・・・・・本八幡駅の北側に千葉街道(国道14号)が走っている。 その国道沿い、市川市役所と八幡神社(葛飾八幡宮)参道入口の斜め前に、孟宗竹が茂る「不知八幡森(しらずやわたのもり)」がある。 ここは、「足を踏み入れると二度と出てこられなくなる」と言われてる禁足地である。 この禁足地の一角に「不知森神社」が祀られ、ここだけは足を入れてもOKだ。境内には、茨城県江戸崎の商人:伊勢屋宇兵衛が建立した、「八幡不知森」と記された安政4年(1857の石碑がある。、、、、小さな森だが、地元では現在も立ち入る事はタブーとされているようだ。
20160316-017

20160316-012

20160316-014



葛飾八幡宮・・・・・・・・・・・京成八幡駅の東側に、葛飾八幡宮がある。 祭神に誉田別命(応神天皇)、息長帯姫命(神功皇后)、玉依比売命を祀る。 寛平年間(889~898)に宇多天皇の勅命により石清水八幡宮を勧請して建立したそうだ。 武神であることから平将門、源頼朝、太田道灌、徳川家康など関東武士の信仰を集めた。、、、、弊殿と本殿は、八幡宮であるが、平(ひら)入りの切妻の建物が前後に2つ並ぶ八幡造りではなく、拝殿・弊殿・本殿を妻入りの棟が一本に貫く権現造りである。
20160316-036

・・・・・・・・・・・・・・本殿の横に、推定樹齢1200年といわれる巨木の御神木「千本公孫樹」(せんぼんいちょう)がある。 多くの幹が寄り添って支え合う姿をしていることから、縁結びの御利益があると伝えられている。 また乳の出ない婦人が乳房の形をしたイチョウの瘤を削り、煎じて飲むと、乳の出が良くなるという言い伝えから、育児守護の信仰があります。
20160316-039



④黒松の町・・・・・・・・・“市川市の木”はクロマツです。 “なぜ?” 市川市の国府台がある台地と、真間川を境としたこの辺は、かつて海であり、クロマツの自然林があった。 江戸時代以降も「市川砂州」として一帯に沿ってクロマツが植えられたり、大正時代には、その松林を生かした住宅地となり、市川市八幡に住んでいた永井荷風も、この地を好んだようだ! (私も好きだ!)、、、、、そんな、こんなで、京成本線の市川真間から鬼越近辺には、住宅の中に、道端に、公園に数多くクロマツが見られる。、、、、、アカマツなら、秋に松茸が収穫できたかも?
20160316-049

20160316-051

20160316-055



⑤市川市北方の町・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・市川市八幡から、境川を越えると、市川市北方となる。
20160316-067

・・・・・・・・・・・・・・昭和30年代頃から、北方の宅地化は進み住宅地と変わっていった。、、、その当時の商店か? 店は全て廃業し、2階の住宅も空き家となったのか?
20160316-073

20160316-070

・・・・・・・・・・・・・・北方の町には、民間のアパートが建ち並んでいる。
20160316-080

20160316-082



⑥神明社・・・・・・・・・・鬼越駅近くの鎮守様。 “古老の口碑によれば約700年前より鬼越村に鎮座したと”と案内板に記されている。、、、、ご神木のクロマツの陰に古びた拝殿がある。
20160316-096

20160316-091

・・・・・・・・・・・・・・・鳥居の前を京成電車が通過する光景は、なぜかホッとするね! 
20160316-093



⑦下総中山駅・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・京成本線の中山駅を過ぎると総武線下総中山駅はスグソコ!
20160316-121

・・・・・・・・・・・・・・下総中山駅前から京成中山駅を通り、法華経寺 に至る参道。
20160316-125

・・・・・・・・・・・・・下総中山駅はチョイと寂れたイメージを抱かせる薄暗い駅だ。、、、、高架下に、飲食店、ファミレスを入居させ、もう少し明るい駅にして欲しいね!
20160316-126

20160316-128

20160316-136

2016年3月15日 (火)

神谷町

数日ぶりに、快晴の東京。 地下鉄神谷町で下車し、駅をの東側(港区芝公園3丁目)と、西側(港区麻布台1丁目)を歩いてきた。 8千歩、6㎞。

 

①芝公園3丁目・・・・・・・・・・・一昨年の4月に歩いた「芝公園 」の行程と一部同じで、オランダ大使館前から飯倉交差点まで、芝公園3丁目を歩いた。

・・・・・・・・・・・神谷町駅、、、、、、神谷町駅(かみやちょうえき)は、昭和39年(1964)に開業した日比谷線の駅である。 開業時は乗降客もさほど多くない地味な駅であったが、昭和の後期あたりから駅周辺には、大きなオフィスビルが建ち、地下鉄利用客も増えた。、、、、、平成7年(1995)3月20日、地下鉄サリン事件が発生した時、私の勤務地は六本木で日比谷線を利用していた。 朝、私の乗る通勤電車が日比谷駅で停車したままとなり、運転中止となった。 私は、訳わからず、日比谷駅から裏通りを通り、神谷町駅前を抜け六本木の会社まで歩いた。 そして、会社でサリン事件を知ることとなった。 なんと、私が乗った電車の一本前の電車でサリンが撒かれたのだ。 当時の私の部下も一人被害者となった。 神谷町の駅に来ると、思いだす事件である。、、、、まもなく21年目となる、被害者に合掌。

20160315-004

 

・・・・・・・・・・・・オランダ大使公邸、、、、、、、現在地にオランダ公使館が移転したのは明治16年(1883)である。 木造の建物は関東大震災で焼失し、その後昭和3年(1928)に2階建て、鉄筋コンクリートの大使公邸が建てられた。 設計はアメリカ人のジェームズ・マクドナルド・ガーディナーであるが、施工中に他界したため、ガーディナー建築事務所の上林敬吉が引き継いだ。 施工は清水組である。、、、、門の中は他国につき、外からパチリ!

20160315-007

20160315-008

・・・・・・・・・・・・
東京都水道局芝給水所、、、、、、現正門は、明治31年(1898)に造られた淀橋浄水場の門を昭和40年(1965)に移築したものである。、、、、給水所のレリーフは、明治31年(1898)の通水時の流入弁室の入口部に、嵌め込んだ銘板である。
20160315-014

20160315-015

・・・・・・・・・・・・
幸稲荷神社、、、、、、、幸稲荷神社は、鎮守として応永元年(1394)に勧請した。、、、、扁額には、「幸神社」と「瘡護(かさもり)神社」の社号が掲げられている。 瘡護神社は、病気の際に土の団子を供え、平癒したら米の団子を供える風習があり、本社(稲荷神社)よりも参拝者が多かったといわれていたそうだ。
20160315-019

20160315-016


・・・・・・・・・・・・聖アンデレ教会/聖オルバン教会・・・・・・・・飯倉交差点から東京タワーの方角に上る坂の途中に日本聖公会の二つの教会がある。、、、、聖アンデレ教会は、明治6年(1873)に2人の英国人宣教師によって、日本人への伝道が開始され、明治10年(1877)には、現在の地に木造の聖堂が建てられた。 戦後、仮の礼拝堂が整備されていたが、平成8年(1996)には、現在の近代的で明るい鉄筋コンクリート造の聖アンデレ教会が完成した。、、、、一方、昭和31年(1956)には、聖アンデレ教会の「敷地内に英語礼拝のための聖堂を建てたい」という思いがあり、新たな礼拝堂としてアントニン・レーモンドの設計で木造の聖オルバン教会が建設された。、、、、、現在、聖アンデレ教会は礼拝を日本語で、聖オルバン教会は英語で実施している。、、、、ともに、私好みの名建築である。
20160315-068

20160315-062

20160315-056

20160315-063

20160315-048



②麻布台1丁目・・・・・・・・・・・こちらも、一昨年に歩いた「神谷町~六本木 」の行程と一部同じで、西久保八幡神社(この神社の住所は虎ノ門5)から霊友会釈迦殿、六本木一丁目駅まで歩いた。

・・・・・・・・・・・・西久保八幡神社、、、、、、神谷町駅出入口近くの八幡神社。 寛弘年中(1004-1012)霞ヶ関に創建され、太田道灌の江戸城築城に際して現在地に遷座された。、、、、参道の階段上の鳥居に、明治時期代の水準測量の標石である几号水準点 (“不”の字形)が標されている。

20160315-082

20160315-083kkk

20160315-092


・・・・・・・・・・・・霊友会釈迦殿、、、、、、、西久保八幡神社の境内裏の細い階段を下りると、霊友会釈迦殿に出る。 1階は吹き抜けで、その上に3500人収容の大ホール、廻廊がV型の柱で支えられている構造は、何度拝見しても“凄い!”、、、、大ホールでは数人の信者の方が手を合わせていたが、デカ過ぎて圧倒されるだけだ。 (内部は撮影禁止)
20160315-099

20160315-109

20160315-104

・・・・・・・・・・・・霊友会釈迦殿の前の
雁木坂、釈迦殿横の三年坂を抜けると、日本郵政飯倉ビル(旧逓信省貯金局)の裏手・崖下の窪地に出る。、、、、窪地に建つ、住宅、マンションなど、建物は半数以上が空き家となり、「森ビル」の再開発を待っているようだ!
20160315-111

20160315-121

20160315-124


・・・・・・・・・・・麻布ロングビーチマンション、、、、、麻布には海がないのに、“ロングビーチ”の名が印象的なマンション。 築後40年以上経過した、昭和48年(1973)に建てられたマンションも、再開発の対象なのか、空き部屋もあるそうだ。
20160315-125

・・・・・・・・・・・
吉田苞竹記念会館、、、、、、麻布ロングビーチマンションの前にある、書家:吉田苞竹の記念会館も立ち退き、閉鎖されてた。
20160315-128

・・・・・・・・・・・
横川省三記念公園、、、、、元朝日新聞の記者で、日清・日露戦争では海軍従軍記者などとして活躍した横川省三(1865~1904)を記念して造られた公園。 昭和13年(1938)、遺族保存会から寄贈された場所(現六本木3丁目)を公園にしたが、昭和39年(1964)の首都高工事のために現在地(麻布台1)に移された。、、、、、人影も少なくなった麻布台の窪地の小さな寂しい公園。
20160315-138

・・・・・・・・・・・・
六本木住宅、、、、、麻布台1丁目と地続きで隣接する六本木1丁目にある公務員住宅。 コンクリート造9階建て、総戸数90戸の集合住宅は昭和59年(1984)に建てられたが、こちらも再開発の対象なのか、建物は閉鎖された。、、、、、都心の高級オフィス街に建つ、2DK(50㎡)の家賃が21,500円程の物件だった。 残念だが入居できず!
20160315-145

2016年3月10日 (木)

浅草橋~東京都現代美術館

浅草橋の我が家から、両国橋を渡り、東京都現代美術館まで、1万1千歩、8kmの散歩です。

 



①浅草橋
・・・・・・・・・・・・昨夜からの雨は上り、空は薄曇り、気温6℃はチョイと寒い。、、、、今夜も雨は降るようで、道行く人は傘持参。 後ろからブラブラ歩くは“おジサン”

20160310-001

20160310-017



両国橋 ・・・・・・・・隅田川に架かり、中央区東日本橋と墨田区両国をつなぎ、昭和7年(1932)に架け替えられた両国橋。 この橋は、両岸間を一本の桁で架けているわけではなく、両岸から桁が突き出し、中央スパンでは、両側の桁の先に梁が出て、その上に中央の桁をのせている。 つまり、両側と中央の3本の桁で架けられている。 橋脚の不等沈下などに対応できる「ゲルバー桁橋」である。
20160310-033

20160310-030

・・・・・・・・・・・・両国橋の西詰(中央区東日本橋)には、両国広小路の碑がある。 西詰には、上野、浅草とともに江戸三大広小路として賑わった盛り場があった。 また、広小路は明暦の大火(1657)の教訓もあり、「火除け地」としての機能を担った。
20160310-024

20160310-026

・・・・・・・・・・・・両国橋の東詰(墨田区両国)には、表忠碑がある。 「明治三十七八年戦役の戦病死者」、つまり地元本所区から日露戦争に出征し、国の為に身命を捧げた英霊を奉る『表忠碑』。 陸軍総司令官大山巖侯爵の筆にて、明治40年(1907)1月1日に建立した。、、、、、写真右奥の公衆便所と比べても、かなり大きな碑であることが判る。
20160310-039



③一之橋・・・・・・・・・・浜町から出た首都高7号線が隅田川上で6号線と別れ、堅川の上を小松川方面に伸びていく。 一之橋は堅川が隅田川に合流する直前に架かる橋で「第1橋梁」の意がある。、、、、、万治2年(1659)の竪川開削時に架けられた一之橋~六之橋の一つである。 赤穂浪士が討ち入り後、吉良邸から泉岳寺に引き上げるとき最初に渡った橋だ。、、、、現橋は、3径間鋼桁橋で、橋長は約37m、昭和54年(1979)に架けられた。
20160310-048

20160310-047

20160310-049

・・・・・・・・・・・一之橋を渡ると、盲目の鍼灸師杉山検校が創建した江島杉山神社 がある。
20160310-050



④高橋のらくろ~ド・・・・・・・・・都営新宿線の森下駅でクロスする新大橋通り、清洲通りの両通りを渡り、江東区高橋に入ると「高橋商店街」がある。 この地は、戦前から戦後にかけ人気の漫画キャラクター「のらくろ」の生みの親、田河水泡(1899~1989)が青年期まで江東区に住んでいた処で、商店街もそれにちなみ、愛称:「高橋のらくろ~ド」と称している。、、、、、商店街のいたるところで「のらくろ」が出迎えている。、、、、、、商店街の端には区の施設「田河水泡・のらくろ館」があり、作品などが展示されている。(注:8月まで改修工事のため休館)
20160310-089

20160310-092

20160310-096

・・・・・・・・・・・・「田河水泡・のらくろ館」は休館中のため4年前の展示写真。
120213_134946

120213_134808c



⑤都営高橋アパート・・・・・・・かつて、周辺には簡易宿泊所が多く、「高橋ドヤ街」と呼ばれたこともある地に、昭和32年(1957)に建てられた都営アパート。 1階は店舗、2階以上は住宅であるが、1階の店舗は多くがシャッターを下ろしている。 そろそろ建て替え時期が来たようだ!
20160310-097

20160310-099

20160310-116

20160310-103

20160310-105



⑥東深川橋・・・・・・・・昭和53年(1978)に現橋に架け替えられた、小名木川 に架かる東深川橋。
20160310-125

20160310-122



⑦雲光院・・・・・・・・・・・江東区三好に、浄土宗寺院の雲光院がある。 雲光院は、徳川家康の側室:阿茶局(法名雲光院殿従一位尼公正誉周栄大姉)が発願し、慶長16年(1611)に神田馬喰町に創建した菩提寺である。 明暦3年(1657)の大火の後、天和2年(1682)に現在地に移転した。
20160310-141

・・・・・・・・・・・・阿茶局の墓、、、、、甲州武田氏の家臣飯田直政の娘である局は、今川氏の家臣神尾忠重の妻であったが、忠重没後に家康に仕え、阿茶局と称し、単に側室というより側近として重用された。 その局の墓が雲光院にある。、、、、墓を見て、一瞬叫んでしまいそう、『アチャー、こりゃ何じゃ!』 、、、、家康の局にしては、チョイと粗末な墓で、墓地の中央部で一般の墓に交じり、せせこましい場所に祀られている。
20160310-147



⑧東京都現代美術館・・・・・・・・・・都立木場公園の北側に、平成7年(1995)にオープンした、現代美術の美術館。、、、、、建物は柳澤孝彦(TAK)の設計で、平成6年(19945)に竣工。 地上3階/地下3階建て。
20160310-171

20160310-156

20160310-161

2016年3月 8日 (火)

旧千葉街道の裏道

稲毛からの帰り、幕張まで歩いてきた。 この区間は、総武本線の南側に京成千葉線が並行し、さらに南側に現在の千葉街道(国道14号)が走っている。 旧千葉街道 は京成千葉線と国道14号の間を並行している道である。 終戦直後までは旧千葉街道が海岸線であった。 この街道は崖下の道で、今日の散歩では、街道北側の崖上(千葉市花見川区検見川町)を歩いてみた。



①稲毛東公園
・・・・・・・・・月に2回ほど訪れる稲毛の公園(稲毛5丁目)。 ここの公園で野宿の練習をしているわけではなく、公園の一角にある高齢者のコミニティ施設でチョイと勉強をしてます。、、、、、この公園は、昭和55年(1980)に筑波の研究学園都市に移転した工業技術院微生物工業技術研究所の跡地である。 同研究所は昭和15年(1940)頃、商工省燃料局酒精研究所として設立し、その後工業技術院発酵研究所と変わり、昭和44年(1969)には微生物工業技術研究所となった。、、、、、研究所の面影をしのぶものは何もない!、、、、、写真後方は、研究所の隣接して操業していた「日本アルコール専売」(昔、アルコールは政府の専売事業だった)の工場跡地に建てられた、総戸数991戸、地上14階建てのマンション「ウェリス稲毛」。

20160308-004

 

②検見川の高台・・・・・・・・・稲毛から北西に向かって歩き、東関東自動車道を越え、花見川区検見川町に入る。検見川町は全体的に台地の上に在る町だが、南側の旧千葉街道、国道14号の付近は崖下となっている。

・・・・・・・・・・・検見川町5丁目の静かな住宅地。

20160308-009

・・・・・・・・・・・住宅地から南西方向を見ると、高台から一気に下る坂道、そのズウ~~ト先には海浜地区の高層ビルのシルエットが見える。 終戦直後、崖下にあった海岸線は高層ビルの先に、行って、行って、し~まった~!

20160308-011

・・・・・・・・・・・旧千葉街道に下りて高台を見ると。 崖になっているのがよく判る。(検見川町5丁目付近)

20160308-015

・・・・・・・・・・・旧千葉街道には、今や、懐かしい店構えとなったタバコ屋さんがあった。、、、、、戦後のある時期には、可愛いタバコ屋の娘がいたかもね!

20160308-021

・・・・・・・・・・・タバコ屋の近くで、旧千葉街道の道は分かれ、写真右側の道が検見川神社へ向かう旧街道。 左に行くと幕張町で旧千葉街道に合流する、旧街道のバイパス的道路。

20160308-023


③三峯神社・・・・・・・・・検見川町5丁目の神社。 雅万歩のブログに、度々登場した青く塗られた狐(?)がいる神社です。

・・・・・・・・・・・一昨年の手術で横隔膜が肺の中程に上がってしまった私にはチョイとキツイ、63段の階段を上り、青い狐に久しぶりの御対面。

20160308-027

20160308-032

・・・・・・・・・・・石の鳥居は、文政6年(1823)に建てられ、安政2年(1855)に再建した、200年前の古いものである。

20160308-030



④小さな祠・意味不明の石碑・道祖神・・・・・・・・・旧千葉街道には戻らず、三峯神社の境内を抜け、台地の上の道を歩いてみた。 小さな神社の多いことには驚いた。

・・・・・・・・・・・住宅3階分の高さがある崖だ!

20160308-040

・・・・・・・・・・・住宅の間の祠に、子安観音が祀られていた。 由緒? (検見川町3)

20160308-044

20160308-043

・・・・・・・・・・・検見川小学校の西側に鎮座する鷲神社。 祭神は鷲大明神で、検見川神社の境外末社である。 境内には「尾鷲神社」と彫った碑もある。、、、、どっちの名が正解か?、、、、本名と俗名だと、理解しておくことにした。、、、、お粗末ながら神楽殿らしき建物もある!

20160308-051

20160308-049

・・・・・・・・・・・鷲神社の境内は、「検見川3丁目自治会館」で二分されている。 その半分に、末社の秋葉神社・三峰神社・古峰神社・?神社などが並んでいた。 

20160308-052

・・・・・・・・・・・検見川公民館前の検見川町2丁目には「平和之礎 内閣総理大臣 岸信介書」と彫られた石碑が建てられていた。 裏側に昭和34年(1959)建立と標されているが、建立の趣旨が読めない。、、、、、千葉市内にある旧軍隊施設跡に「平和之礎」の碑が見られるが、ここもその一つなのか? もしそうなら、どんな施設があったのか? 謎の多い石碑だ!

20160308-055

・・・・・・・・・・・平和之礎の隣には、道祖神が祀られていた。

20160308-061

・・・・・・・・・・・検見川町2丁目の中央部、“ここにもあった!三峯神社”。 なぜか、賽銭泥棒でもするような気分となって、住宅の裏側の鳥居をくぐり、社殿(?)に向かう。、、、、、これでも神社か! 気落ち、落胆、アンポンタン!

20160308-068

20160308-065



⑤広徳院・・・・・・・・・京成千葉線検見川駅の南側に、真言宗豊山派の広徳院がある。 宝亀5年(774、=平安時代初期)に創建された。 広い境内があるお寺だ! 創建は平安時代初期の真言宗豊山派の寺。、、、、、フォーク歌手の吉田拓郎が、昭和41年(1966)(20歳頃)、民謡収集のために広島から上京しここ広徳院に半年間居候をしたことは、地元では有名な話らしい。 地元住民でない私は、知らなかった。

20160308-072

20160308-069



検見川神社 ・・・・・・・・検見川町の台地を歩き、検見川神社の前で旧千葉街道に出る。

20160308-074

・・・・・・・・・・・正面に検見川神社の鳥居が見える。

20160308-078

・・・・・・・・・・・これみて、ナント、ありとあらゆる願い事OKの神様だ! 願い事のデパートである、、、、、ヨシ!今日もグリーンジャンボの一等当選をお願いして行こう。

20160308-080

・・・・・・・・・・・賽銭を奮発して、“一等当選宜しく”

20160308-082

2016年3月 4日 (金)

市川~本八幡

総武本線市川駅から、京成本線市川真間駅、菅野の町を抜け、JR本八幡駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。

 


①市川駅
・・・・・・・・・・市川駅は明治27年(1894)7月、総武鉄道(市川~佐倉)の起点駅として開業したが、同年12月には本所(現:錦糸町)まで延伸したため5ヶ月後には中間駅となった。 昭和47年(1972)、快速も停車する島式ホーム2面4線の高架駅となる。、、、、南口 には高層マンションが2棟建ち並んでいるが、今日の散歩は高層マンションのない北口からスタートした。

20160304-011

20160304-009

20160304-002



②料亭2軒・・・・・・・・市川には戦前、陸軍の施設があり、駅の北側は料亭街として栄えていた。 その面影を残す料亭が数年前までは3軒残っていたが、1軒は廃業し、現在2軒(白藤、栃木屋)が残るのみとなった。、、、、、ちなみに、「市川二業組合」(昔は三業であったが、待合・割烹旅館がなくなり、二業となった)も十年程前になくなった。

20160304-023

20160304-013



③自然幼稚園・・・・・・・・・同志社大学を卒業した敬虔なクリスチャン石田締により、昭和6年(1931)に開園(現:市川1丁目)した。 幼児を自然の中で教育しようという理念に基づき命名された幼稚園。 園舎は昭和15年(1940)に建てられた、下見板張り、総2階建ての木造建築である。

20160304-017

・・・・・・・・・・・・ただいま、新園舎建設中で、以前見た石造りの園舎はなくなっていた。 以下2枚は2011年に撮影。

_20110104_160816

_20110104_160558



市川真間駅 ・・・・・・・・・・・・大正3年(1914)に「市川新田」駅として開業し、大正5年(1916)に「市川真間」に改称した。、、、、、駅名の“真間”は、母親の“ママ”にあらず、崖を意味する“まま”である。 国府台の台地から下った位置に駅はあり、納得!、、、、、京成電鉄かつての中枢部とも言える場所で、現在も駅北側には、旧京成電鉄社員倶楽部(現:伊藤家邸宅)、京成電鉄診療所、「本多貞次郎頌徳碑」などが残っている。

・・・・・・・・・・・・いまは郊外の中間駅となった市川真間駅

20160304-054

20160304-056

・・・・・・・・・・・・駅前に残る旧京成電鉄社員倶楽部

20160304-042

20160304-044

・・・・・・・・・・・・京成電鉄診療所の前に、京成の初代社長:本多貞次郎の頌徳碑が建てられている。

20160304-041

20160304-040



⑤国府台女子学園・・・・・・・・・・・菅野3丁目に、大正15年(1926)に開校した、小中高一貫教育の女子校、国府台女子学園がある。 浄土真宗本願寺派の仏教の教えに基づく教育を重視している。、、、、平成24年(2012)新校舎が竣工し、明るい学園のようだ。 なにせ女子校なので、カメラを持って校門前をウロウロ、立ち止まってパチリ、校内を覗いてニタニタ、あまりにも挙動不審な行動をするとチョイとヤバイので、足早に遠ざかる。 スタコラサッサノ、ホイサッサ!

20160304-060

20160304-059

20160304-061



⑥日出学園・・・・・・・・・・・国府台女子学園の隣に、こちらは中高一貫教育の日出学園中学校・高等学校がある。 男女共学で、現在の在校生は中高合わせて700名程。、、、、、校舎は平成20年(2008)に新校舎が竣工した。

20160304-064



⑦御代院・・・・・・・・・・市川市菅野2丁目に、御代院(みよのいん)と称した、美女の墓がある。、、、、、平安時代、平将門の乱(940年)のとき、菅野氏が将門討伐のために京から妻を連れ関東に下り、この地(市川市菅野)に館を構えた。 将門は下総国葛飾郡(市川市大野町)に大野城という出城を構えていた。 菅野氏の妻は容姿が美しかったため、御代の前(みよのまえ)と称して将門の内室となり、大野城にてスパイ活動を行った。 平安時代のハニートラップか、色仕掛けで活躍する女スパイだ! 御代の前は敵方の内情を夫に伝え、大野城落城の功績を立てたという。 その後、菅野夫妻は剃髪して仏門に入り、この地で将門との戦で亡くなった兵たちを弔いながら世を去ったという。 夫妻の死後、里人がその志を偲び、墓標を建てて祀ったのが御代院。、、、、チョイと色っぽさを期待して墓石を覗いて見たが、期待外れ!

20160304-069

20160304-074



⑧白幡天神社・・・・・・・・・・・市川市菅野1丁目に、2000坪の境内を持つ白幡天神社は、当地の氏神様として静かに鎮座している。 境内には、梅、桜、椿、ツツジ、萩など、花札を見ているように四季の花が咲くそうだ。 今日は梅、馬酔木が咲いていた。、、、、、今よりおよそ800年前の治承4年(1180)に、源頼朝が下総に入った際、当地に源氏の御印である白旗を掲げたことが社名の由来である。 その後、天正12年(1584)に、本殿が再建されたが、現在の本殿は明治13年(1880)の造営で、拝殿・幣殿は、昭和36年(1961)に造営された。

20160304-097

20160304-090

20160304-093

20160304-088

20160304-081



⑨不動院・・・・・・・・・・・白幡天神社の東250m程離れたところ(市川市東菅野1丁目)に真言宗豊山派の山王山不動院がある。 平将門平定のため、寛朝僧正がこの地に置いた不動明王が本尊になっている。、、、、平成19年(2007)に新しい本堂が完成した。 境内は広いが、緑の少ない寺である。

20160304-102



●・・・・・・・・・・・・これより徒歩10分で本八幡駅

2016年3月 2日 (水)

高輪の三寺

都営浅草線泉岳寺駅で下車し、泉岳寺、高野山東京別院、東禅寺を巡り品川駅まで、1万歩、7kmの散歩です。

 


泉岳寺
・・・・・・・・・・赤穂浪士の墓でおなじみの萬松山泉岳寺。 泉岳寺は慶長17年(1612)に門庵宗関和尚を招き、徳川家康が外桜田に創立した寺である。 しかし、寺は寛永18年(1641)の大火によって焼失し、現在地の高輪に移転した。、、、、、今朝も暇そうなご婦人が数人で、四十七士の墓参りに来ていた。 私は代表者の浅野内匠頭、大石内蔵助に手を合わせ、東宝映画 「四十七人の刺客」で古手川祐子が演じた瑤泉院の墓には念ごろに手を合わせてきた。

20160302-011

20160302-012

20160302-016



②泉岳寺から東京別院への裏道・・・・・・・・・泉岳寺中門前から、一方通行の裏道を抜け高野山東京別院の方へ向かう。

・・・・・・・・・・・・天保7年(1836)に再建された中門前を左に曲がる。
20160302-008

・・・・・・・・・・・・泉岳寺の境内に沿って時計回りに歩く気持ちで散歩する。 振り子時計のように戻らないで!、、、、、下町の裏道とは格が違うようだ、“裏道”と言えど高級マンション、住宅が建ち並ぶ高輪2丁目。
20160302-035

20160302-038

20160302-039

20160302-042

20160302-044

・・・・・・・・・・・・勾配22%の年寄りにはキツイ坂。
20160302-050

・・・・・・・・・・・・坂を上がると、高輪台小学校がある。 昭和10年(1935)に竣工した、鉄筋コンクリート造3階建て校舎は、インターナショナル様式(昭和初期頃から流行した、無駄な装飾を排し、シンメトリーよりもバランスを、建物の量感よりも空間感覚を重んじる様式)で、明るいイメージの校舎である。
20160302-053

20160302-056

・・・・・・・・・・・・高輪台小学校の前の細い道をチョイと下って、窪地から階段を上ると高野山東京別院の前に出る。
20160302-059



③高野山東京別院・・・・・・・・・・・高輪3丁目にある、高野山真言宗の総本山金剛峯寺の東京別院。 東京別院は、江戸に徳川幕府が開かれた際に高野山の宝門・寿門の学侶方の在番所として慶長年間に開創し、延宝元年(1673年)に現在の芝二本榎の地に「高野山江戸在番所高野寺」として建立された。、、、、昭和63年(1988)には、現在の本堂が竣工した。 別院の地下には、東京電力高輪変電所が設けられている。 変電所は平成元年(1989)に完成した、地下7階建て、床面積は延べ19,800㎡である。 地下に潜って見てみたいね!
20160302-062

20160302-075

20160302-067



④東芝山口記念会館・・・・・・・・・・・・東京別院前の坂を第一京浜の方(東方)に200m程下ると木立の奥に洋館が見える、旧朝吹常吉邸(現:東芝山口記念会館)である。、、、、三井傘下で活躍した実業家・朝吹常吉の邸宅で大正14年(1925)に竣工した。 高台に立つスパニッシュ・スタイルの白い洋館、設計はスコットホール、東洋英和女学院などを手掛けたウィリアム・メレル・ヴォーリズ。、、、、、現在は東芝グループの迎賓館として使用されている。、、、、、、今日も中には入れず、遠くからパチリ! 2枚目の写真は平成23年(2011)撮影。
20160302-079

_20110127_094802



⑤SI邸・・・・・・・・東芝山口記念会館の東隣に、今は亡き、ある著名人の邸宅がある。
20160302-083



⑥東芝山口記念会館から東禅寺への裏道・・・・・・・・・・東芝山口記念会館の入口脇に細い道がある。 この道を、道なりに進むと東禅寺の山門前に出る。

・・・・・・・・・・・・道の奥に「洞坂(ほらさか)」と標した案内がある。
20160302-085

 



・・・・・・・・・・・・・・東芝山口記念会館の裏側で洞坂を下る。 記念会館の建物もチラリと見える。

20160302-088

20160302-089

20160302-093

20160302-094

・・・・・・・・・・・・坂を下り終えると、TO邸がある。 イギリス風の綺麗な白亜の洋館は、落ち着いた雰囲気の建物。 私の推定では、戦前に建てられたものであろう。
20160302-102

20160302-110



⑦東禅寺・・・・・・・・慶長14年(1609)に赤坂にて創建し、寛永13年(1636)に現在地の高輪3丁目に移転した。 当時は寺の眼前に東京湾が広がり海上禅林とも呼ばれた。 また幕末以降、寺は西洋人用の宿舎に割り当てられ、安政6年(1859)には日本初のイギリス公使館が東禅寺に置かれた。、、、、寺は臨済宗妙心寺派の別格本山となっている。、、、、、都心に在るとは感じられない、静けさ、緑の多さ、境内の広さ、いいね!

・・・・・・・・・・・・山門からは奥の深い参道が伸び堂宇は見えない。
20160302-113

20160302-130

・・・・・・・・・・・・参道奥に進むと、木立の陰に本堂、三重塔がチラリと見える。
20160302-134

・・・・・・・・・・・・「海上禅林」と掲げた本堂
20160302-124

20160302-123

・・・・・・・・・・・・本堂の脇には三重塔が控えている。
20160302-120



●・・・・・・・・・・大きな寺を三か所巡り、今日の散歩はここまで。 品川駅より帰宅。

2016年3月 1日 (火)

新大久保~中野

JR新大久保駅から中野駅まで、1万3千歩、10kmの散歩です。

 


新大久保駅・大久保駅周辺
・・・・・・・・・・山手線の新大久保駅と、中央線の大久保駅の周辺(新宿区百人町)をブラブラ。

 

・・・・・・・・・・・・・・・新大久保駅から散歩を始める。

20160301-011

・・・・・・・・・・・・新大久保駅ホームから大久保駅方向を眺める。

20160301-001

・・・・・・・・・・・・新大久保駅と大久保駅の中間にある、勝負事にご利益が期待できる皆中稲荷神社に立ち寄って、「グリーンジャンボ」一等四億円的中をお願いしてきた。、、、、、、絵馬を見ると、同じような願掛けする人が多く、みんな欲ばりだ!

20160301-024

20160301-027

・・・・・・・・・・・・ガード下に出入口のある大久保駅
20160301-029

・・・・・・・・・・・・大久保駅の北側(新宿区百人町2)にある、日本キリスト教婦人矯風会(きょうふうかい)の本部ビル。、、、、、“矯風”とは、悪い風習・風俗を改めなおすこと。
20160301-031

・・・・・・・・・・・・百人町の裏道。 今日はゴミの収集日。
20160301-034

20160301-037

・・・・・・・・・・・・百人町2丁目に、ドミニコ会の教会、男子学生寮などがある。 建物は木造で、戦後に建てられたそうだ。 現在は、寮に年配の修道僧が一人だけいるらしい。
20160301-041

20160301-045

20160301-040



②都営百人町三丁目アパート・・・・・・・・・中央卸売市場淀橋市場の東側に平成2年(1990)~10年(1998)に建てられた、都営百人町三丁目アパートがある。 総戸数551戸のアパートは高層棟もあり、“都営住宅”の薄汚れたイメージを一新している。
20160301-047

20160301-051

20160301-053

20160301-060



南小滝橋 ・・・・・・・・・昭和61年(1986)に完成した南小滝橋を渡り神田川を越えると、新宿区北新宿4丁目から中野区東中野5丁目に入る。
20160301-077

・・・・・・・・・・・・橋から眺める神田川。 奥に東中野のタワーマンションが2棟見える。
20160301-072



④中野の住宅・・・・・・・・中野6丁目にあった“This is 木造住宅”。、、、、50年前はあちらこちらで見られた住宅だが、今や稀少価値となってきた。
20160301-095



⑤北野神社・・・・・・・・中野区中野5丁目にある北野神社。 創建年代不詳。、、、、、広い境内に、鳥居は小さく、粗末な社。 隅の神輿庫は大きく立派だ!
20160301-109

« 2016年2月 | トップページ | 2016年4月 »