浅草橋~東京都現代美術館
浅草橋の我が家から、両国橋を渡り、東京都現代美術館まで、1万1千歩、8kmの散歩です。
①浅草橋・・・・・・・・・・・・昨夜からの雨は上り、空は薄曇り、気温6℃はチョイと寒い。、、、、今夜も雨は降るようで、道行く人は傘持参。 後ろからブラブラ歩くは“おジサン”


②両国橋 ・・・・・・・・隅田川に架かり、中央区東日本橋と墨田区両国をつなぎ、昭和7年(1932)に架け替えられた両国橋。 この橋は、両岸間を一本の桁で架けているわけではなく、両岸から桁が突き出し、中央スパンでは、両側の桁の先に梁が出て、その上に中央の桁をのせている。 つまり、両側と中央の3本の桁で架けられている。 橋脚の不等沈下などに対応できる「ゲルバー桁橋」である。


・・・・・・・・・・・・両国橋の西詰(中央区東日本橋)には、両国広小路の碑がある。 西詰には、上野、浅草とともに江戸三大広小路として賑わった盛り場があった。 また、広小路は明暦の大火(1657)の教訓もあり、「火除け地」としての機能を担った。


・・・・・・・・・・・・両国橋の東詰(墨田区両国)には、表忠碑がある。 「明治三十七八年戦役の戦病死者」、つまり地元本所区から日露戦争に出征し、国の為に身命を捧げた英霊を奉る『表忠碑』。 陸軍総司令官大山巖侯爵の筆にて、明治40年(1907)1月1日に建立した。、、、、、写真右奥の公衆便所と比べても、かなり大きな碑であることが判る。

③一之橋・・・・・・・・・・浜町から出た首都高7号線が隅田川上で6号線と別れ、堅川の上を小松川方面に伸びていく。 一之橋は堅川が隅田川に合流する直前に架かる橋で「第1橋梁」の意がある。、、、、、万治2年(1659)の竪川開削時に架けられた一之橋~六之橋の一つである。 赤穂浪士が討ち入り後、吉良邸から泉岳寺に引き上げるとき最初に渡った橋だ。、、、、現橋は、3径間鋼桁橋で、橋長は約37m、昭和54年(1979)に架けられた。




④高橋のらくろ~ド・・・・・・・・・都営新宿線の森下駅でクロスする新大橋通り、清洲通りの両通りを渡り、江東区高橋に入ると「高橋商店街」がある。 この地は、戦前から戦後にかけ人気の漫画キャラクター「のらくろ」の生みの親、田河水泡(1899~1989)が青年期まで江東区に住んでいた処で、商店街もそれにちなみ、愛称:「高橋のらくろ~ド」と称している。、、、、、商店街のいたるところで「のらくろ」が出迎えている。、、、、、、商店街の端には区の施設「田河水泡・のらくろ館」があり、作品などが展示されている。(注:8月まで改修工事のため休館)



・・・・・・・・・・・・「田河水泡・のらくろ館」は休館中のため4年前の展示写真。


⑤都営高橋アパート・・・・・・・かつて、周辺には簡易宿泊所が多く、「高橋ドヤ街」と呼ばれたこともある地に、昭和32年(1957)に建てられた都営アパート。 1階は店舗、2階以上は住宅であるが、1階の店舗は多くがシャッターを下ろしている。 そろそろ建て替え時期が来たようだ!







⑦雲光院・・・・・・・・・・・江東区三好に、浄土宗寺院の雲光院がある。 雲光院は、徳川家康の側室:阿茶局(法名雲光院殿従一位尼公正誉周栄大姉)が発願し、慶長16年(1611)に神田馬喰町に創建した菩提寺である。 明暦3年(1657)の大火の後、天和2年(1682)に現在地に移転した。

・・・・・・・・・・・・阿茶局の墓、、、、、甲州武田氏の家臣飯田直政の娘である局は、今川氏の家臣神尾忠重の妻であったが、忠重没後に家康に仕え、阿茶局と称し、単に側室というより側近として重用された。 その局の墓が雲光院にある。、、、、墓を見て、一瞬叫んでしまいそう、『アチャー、こりゃ何じゃ!』 、、、、家康の局にしては、チョイと粗末な墓で、墓地の中央部で一般の墓に交じり、せせこましい場所に祀られている。

⑧東京都現代美術館・・・・・・・・・・都立木場公園の北側に、平成7年(1995)にオープンした、現代美術の美術館。、、、、、建物は柳澤孝彦(TAK)の設計で、平成6年(19945)に竣工。 地上3階/地下3階建て。



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