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2016年4月

2016年4月29日 (金)

雑司が谷

JR目白駅から、鬼子母神のある豊島区雑司が谷をじっくりとぶらつき、地下鉄護国寺駅まで、1万歩、7kmの散歩です。




①都電 鬼子母神前
・・・・・・・・・・・・都電荒川線が通る、鬼子母神前停留場と都電雑司が谷停留場間の都道は、只今、地下道路の建設工事中。 明治通りのバイパスルートとして、渋谷区広尾5丁目から北区滝野川2丁目に至る約14kmの都市計画道路の一部区間である。 この間は道路中央の専用軌道を都電が走り、その両側に1車線の車道と歩道が整備され、都電の軌道の真下に片側6.0m/2車線のトンネルが2本造られる。 この区間を含む、豊島区高田3丁目から南池袋2丁目までの約1.4kmは、事業費が370億円で2019年度までに完成する予定。、、、、、目白通りの千登世橋から見る都電、大鳥神社の鳥居越しに見る都電、都電の景色が変わりそうだ。


・・・・・・・・・・・・地下鉄副都心線の雑司が谷駅前。 写真左の仮囲いの中を都電が走っている。

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・・・・・・・・・・・・
鬼子母神前停留場、、、、、、仮の停留場でしばらくの辛抱!
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・・・・・・・・・・・・
大鳥神社の鳥居前も工事中
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②鬼子母神
・・・・・・・・・・・・鬼子母神は安産・子育(こやす)の神様として信仰されている。 日蓮宗では、鬼子母神はただ単に子供を守る神であるばかりでなく、信者・宗徒の外護神として崇められている。 女神であり、吉祥天の母である。、、、、、ここ雑司が谷の鬼子母神は、入谷の鬼子母神、千葉県市川の鬼子母神と並び、江戸三大鬼子母神の一つ。

・・・・・・・・・・・・鬼子母神前停留場から伸びる参道は、樹齢400年のケヤキも並ぶ石畳となっている。
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・・・・・・・・・・・・ケヤキ並木が終わると、鬼子母神が祀られている本堂が見える。
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・・・・・・・・・・・・
鬼子母神堂の本堂、、、、、、、鬼子母神堂は、法明寺(南池袋3)の境外仏堂。 堂は、永禄4年(1561)に現:清土鬼子母神堂で発掘した鬼子母神像を、稲荷社のあった現在地に村民が天正6年(1576)に堂を建立した。 その後、寛文4年(1664)、松平安藝守光晟の寄進により本堂が建立された。 昭和51年(1976)から3年間をかけ、江戸時代の姿に戻す解体復元の大修理が行われた。
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・・・・・・・・・・・・境内の
大イチョウは、応永年間(1394~1428)に植えられたもので、樹齢700年に達し、「子授けイチョウ」とも呼ばれているそうだ。 樹高:30m、幹周:8m。
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③大鳥神社
・・・・・・・・・大鳥神社は、もともと鷺明神と称して、正徳2年(1712)鬼子母神境内に祀られた。 明治の神仏分離後に現在地(雑司が谷3)へ遷座した。 現社殿は昭和56年(1981)に造営されたものである。、、、、、この神社も、毎年11月の酉の市では商売繁盛を願う人で賑わい。 そして最後に笑うのは、多いに商売繁盛した神社である。
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④雑司ケ谷霊園
・・・・・・・・・・・・・明治5年(1872)、神葬墓地として開設。 明治7年(1874)に共葬墓地となった都営墓地。 約10万㎡の広い霊園で、小泉八雲、泉鏡花、永井荷風、島村抱月、夏目漱石、東条英機、東郷青児など、多くの著名人が眠っている。、、、、、墓を守る人がいなくなり無縁墳墓として改葬される旨の立て札が立てられた墓も散見される。 立派な墓石の前に、改葬の立て札をみて、チョイと悲しくなるね!
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⑤雑司が谷旧宣教師館
・・・・・・・・旧宣教師館(雑司が谷1)は、明治40年(1907)にアメリカ人宣教師のマッケーレブが自宅兼布教活動の拠点として建てたもの。 マッケーレブは、昭和16年(1941)に帰国するまでの34年間この家で生活をしていた。 豊島区内に現存する最古の近代木造洋風建築で、明治期の宣教師館としても大変貴重なものである。、、、、、、19世紀後半のアメリカ郊外住宅の特色を残した、木造2階建ての質素な外国人住宅。、、、、、、今年3月にリニューアル工事も完了し、内外装とも美しくなった。
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⑥清土鬼子母神
・・・・・・・・・・・・雑司が谷1丁目と境を接する、文京区目白台2丁目に日蓮宗の清土鬼子母神堂がある。 清土鬼子母神堂は、雑司が谷の鬼子母神堂に祀られている鬼子母神像が、永禄4年(1561)、柳下若狭守の下男山本丹右衛門によって掘り出された場所だといわれている。 清土は当地の旧地名(雑司ヶ谷村小名清土)で、清土鬼子母神と称されている。
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護国寺
・・・・・・・・護国寺前の護国寺駅から地下鉄に乗車。
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2016年4月27日 (水)

浅草橋~南千住

我が家(浅草橋)から、国際通りを抜けて南千住まで、1万3千歩、9kmの散歩です。




①江戸通り
・・・・・・・・・・浅草橋駅前をとおる「江戸通り」は、千代田区大手町2丁目から室町三丁目交差点、浅草橋駅前、蔵前一丁目交差点、浅草駅前(東武伊勢崎線)、言問橋西詰までの道路の通称である。、、、、、今日歩いた、浅草橋から蔵前にかけては、日本を代表する問屋街で人形、玩具、文具、ビーズ、手芸、クラフト、造花など、見て楽しい、触って楽しい、買って楽しい、壊してガッカリのワクワクする街である。、、、、、“若い二人の散歩道”である、大手町から浅草まで全長約4.8kmの江戸通りに、“有ってあたまえだが、無いものがある、何~~だ?”。 その答えは、江戸通りに面してスターバックスが一軒も無いのだ! ドトール、ヴェローチェ、サンマルクはあって、スタバの無い、完全なる空白地帯である。



・・・・・・・・・・・・浅草橋駅前、、、、、、通勤時間帯となってきた!

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・・・・・・・・・・・・私の住む町の古社:
須賀神社、、、、、、創建は推古天皇の御代(600年代)とのこと。
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・・・・・・・・・・・・街角の大木:メタセコイア
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・・・・・・・・・・・・
蔵前一丁目交差点
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・・・・・・・・・・・・
蔵前二丁目交差点、、、、、、蔵前2丁目で江戸通りは二手に分かれ、右は、東武鉄道の浅草駅方面に向かう。 左は、「国際通り」でつくばエキスプレスの浅草駅方面に向かう。
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②国際通り
・・・・・・・・・蔵前二丁目交差点で江戸通りから分岐した「国際通り」は、昭和通りとぶつかる三ノ輪交差点までの約3kmの道路の通称。 名前の「国際」は、SKD(松竹歌劇団)の本拠地:国際劇場があったことに由来する。、、、、、、私の散歩も、今日は国際通りを歩くことにした。

・・・・・・・・・・・・
タイガービル 、、、、、、、蔵前4丁目、昭和9年(1934)に建てられた集合住宅。 台東区内に現存するビルの中では最も古く、有形文化財に指定されている。、、、、、このビルを見ると思い出すのは、“何にでも効く”と言われた中国の軟膏「タイガーバーム」である。 昭和55年頃、“何にでも効く”効能を信じ、男性の勃起を助けてくれると期待し、買い求める人が多かった。 今では、日本向けは製造しておらず、国内で入手するのは難しいそうだ。 そろそろ、私も欲しくなるかも?
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・・・・・・・・・・・・国際通りは、春日通り、浅草通りと交差し北上する。
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・・・・・・・・・・・・
雷門一丁目交差点、、、、、、国際通りに「雷門通り」(その名のごとく雷門前の通り)がぶつかる交差点。 、、、、この写真を撮った位置に、今は無き「仁丹塔」があった。、、、、仁丹塔とは、浅草のシンボルで関東大震災で倒壊した「十二階」:凌雲閣を模して昭和7(1932)年に建てられた仁丹の広告塔。 戦時中は金属回収の対象とされ、塔は撤去されたが、昭和29年(1954)に再建され、昭和61年(1986)に建物の老朽化の為、塔は取り壊された。 塔も懐かしく思い出すが、♪♪ジンジン仁丹ジンタカタッタッタ♪♪のCMも懐かしい、そして一番懐かしいのは、タバコ屋で売っていた緑のケースに入った銀の小粒。 中年のサラリーマンが一服した後、胸ポケットからケースを出し、仁丹を4、5粒口に含み、満足した顔。 今は見られぬ、懐かしき光景!
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・・・・・・・・・・・・
浅草ビューホテル、、、、、昭和60年(1985)、国際劇場跡地に建てられた、高さ:108m、地上28階/地下3階、客室数342室のホテル。、、、、SKD(松竹歌劇団)のラインダンス、思い出すとワクワク、これまた懐かしいね!
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・・・・・・・・・・・・国際通りをひたすら歩いていたが、言問通りとの交差点を過ぎたところで、横道に入り
吉原神社 にお立ち寄り。、、、、、吉原遊女の悲しい祈りや願いを思いつつ、手を合わせてきた。
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・・・・・・・・・・・・ふたたび、国際通りに戻り、“
酉の市 発祥の神社”である鷲神社と、“酉の市発祥の寺院”である長國寺に参り、閑散期の境内をチョイと拝見。、、、、酉の市では店が出る場所は、普段、駐車場となっており、年数回の市のため場所が確保されている。
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・・・・・・・・・・・・鷲神社の賽銭箱の上には「
おかめ」がのっている。 “なでおかめ”で、悪い処をなでると、良くなるそうだ。、、、、、私も願いをかけてきた。 おでこを撫でて賢くなり、左の頬を撫でて健康になり、鼻を撫でて金運を願い、嗚呼、面倒だ! 顔全部撫でてきた。
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・・・・・・・・・・・「
国際通り」が「昭和通り」に合流する三ノ輪駅前。 歩道橋から見る、歩いてきた国際通り。
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・・・・・・・・・・・・歩道橋上で振り返り、昭和通りを見る。
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③昭和通り
・・・・・・・・国際通りとの合流点から、200m程北東に進むと大関横丁交差点である。 昭和通りは、港区新橋交差点から、ここ大関横丁交差点までである。、、、、、200m歩き、大関横丁交差点に出た。
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④日光街道
・・・・・・・・・・・大関横丁交差点から先は日光街道となる。 これより、台東区から荒川区に移る。

・・・・・・・・・・・・・・
梅澤写真館、、、、、、、日光街道に面し、都電荒川線の停留場の入口ゲートのような役割を担う建物。 昭和2年(1927)に竣工した旧王子電気軌道の本社ビル。 王子電気軌道は明治44年(1911)に飛鳥山~大塚間を、大正2年(1913)に飛鳥山下~三ノ輪間を開通させた。 現在の荒川線を誕生させた会社だ!
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・・・・・・・・・・・・・円通寺
、、、、、、、、円通寺は南千住1丁目の曹洞宗の寺院。 延暦10年(791)に坂上田村麻呂によって、開かれたと伝えられている。 慶応4年(1868)の上野戦争の際には、戦死した彰義隊隊員を住職が火葬しそうで、境内には隊員の墓、銃弾で穴の開いた寛永寺の黒門などがある。、、、、、本堂は、ナンダ? コリャ!
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・・・・・・・・・・・・日光街道はここまでとして、南千住駅へ向かう。



⑤栗友亭跡
・・・・・・・・・南千住7丁目の雑貨屋「栗本」(現:栗本商店)は、亡くなられた経営者:栗本友爾氏が、昭和30年(1955)に開場した「演芸場栗友亭」の跡。、、、、、栗友亭は東京漫才界の悲願であった定打寄席となり、後に「東京漫才発祥の地」と呼ばれる。、、、、、昭和30年頃に、リーガル千太・万吉を会長に “東京漫才研究会“が結成され、 コロンビアトップ・ライト、 内海桂子・好江、 獅子てんや・瀬戸わんやなどのコンビが演芸に出るようになった。 だが当時は、既設の寄席は落語が中心であり、漫才を演じる場が少なかった。 昭和32年、栗友亭が漫才の定打寄席となった。 しかし、低料金の寄席は経営が難しく、昭和34年(1959)には幕を下ろした。 残念であるが、短命な演芸場であった。
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2016年4月25日 (月)

大森~蒲田

大森駅から蒲田駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。




①大森駅東口
・・・・・・・・・新橋~横浜間に鉄道が開業した明治5年(1872)から、わずか4年後の明治9年(1876)6月12日に大森駅は開業した。 この時から、大森駅の玄関口として、海側(東側)に改札口が設けられていた。 現在の東口駅ビル(アトレ大森)は昭和59年(1984)に完成した、地下1階/地上8階建ての商業施設+ホテルの複合ビル。、、、、、ちなみに、山側の現:山王口 は大正2年(1913)に開設された。、、、、、、、大森駅東口近くに、昭和40年頃から日立製作所 のコンピュータ事業部があり、日立製の大型コンピュータの営業拠点であった。 ユーザ企業のコンピュータ部門に勤務していた私には、訪れることの多い駅で、日中はコンピュータの操作・プログラミングなどの研修を受け、たまの夜には飲み会など、約20年間利用させてもらった駅である。

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・・・・・・・・・・・・大森周辺はマンション、公営住宅が多く、これから出勤のサラリーマンもいる。 また、工場、オフィスも多く、勤務先へ向かう人もいて、朝の駅周辺は、行き交う人も多い。

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②C57-66
・・・・・・・・・・大森駅から線路沿いに約500m、徒歩8分程の入新井西公園に、昭和13年(1938)8月20日、川崎車両製造(株)にて製造された蒸気機関車C57-66が保存されている。 この機関車は、昭和48年(1973)6月20日に廃車となるまの35年間に、梅小路機関区→宮原機関区→門司機関区→大分運転所→宮崎機関区で活躍した。 この間、地球を79周する3,124,321.6km走行した。、、、、、現在は公園の片隅に保存されているが、動輪は動くように保存され、毎日、時間を決めて動かしている。

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③学校踏切
・・・・・・・・・・西側は山王3丁目、東側は大森北4丁目、線路を4本(京浜東北線2線、東海道線2線)越える長い踏切がある。 児童の通学用に設置されたのか「学校踏切」と名付けられている。 遮断機が下りっぱなしの開かずの踏切のようだ、昨年の10月にはお年寄りが二人、遮断機をくぐり渡ろうとして死傷事故となったそうだ。、、、、、私も自分に言い聞かせている、『踏切は、くれぐれも注意すること!』
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④熊野神社/善慶寺
・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・山王3丁目、池上通りの裏道の坂を行くと、『おや!工事中』
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・・・・・・・・・・・・『工事の邪魔しちゃ可愛そうだ!』と、左の道に入っていった。
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・・・・・・・・・・・・階段下で、『こりゃ、なんだ!』 長そうな階段見て、ガックリ。
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・・・・・・・・・・・・階段上で振り返り、『高い処へ来たもんだ』
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・・・・・・・・・・・・目の先に、見える鳥居は何じゃらホイ!
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・・・・・・・・・・・・息はハアハア、胸はドキドキ、腹はペコちゃん。 着いた処は、高台の鎮守の森の中、
山王熊野神社に脇道から参拝した。、、、、、、、山王熊野神社の創建年代は不詳。 平将門の乱の鎮圧に下向した藤原恒望に従った熊野五郎武通が当社に戦勝を祈願したと伝えられている。 元和年間(1615~1624)にこの地域新井宿村の地頭木原木工允が日光造営の棟梁を務めた際にその余材で当社の社殿を造営したといわれているが、現在は鉄筋コンクリートの社殿になった。
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・・・・・・・・・・・・参拝済んで、急な階段坂の参道を下ることにした。 上から覗くと鳥居が見えるが、これは途中の鳥居。 階段はまだ続く!
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・・・・・・・・・・・・下から見上げると、、、、、
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・・・・・・・・・・・・・そして階段下から、鳥居の先の参道を見ると、左手には善慶寺の本堂、右手は墓地があり、参道は善慶寺の山門に向かう。、、、、、、ナント! 熊野神社は善慶寺の境内の先にあり、善慶寺は熊野神社の別当寺であった。
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・・・・・・・・・・・・日蓮宗の
善慶寺は、天正年間(1573~92)に開創され、正応4年(1291)に当地の増田三郎右衛門が、善慶寺を創建したといわれている。
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・・・・・・・・・・・・善慶寺の墓地に、「
義民六人衆の墓」がある。、、、、、新井宿(現:大田区中央7)村の農民は、延宝年間(1673年から1681年)に領主木原氏の厳しい年貢の取立てに耐えかねて、村役人6人が直訴することを計画した。 しかし事前に察知され、延宝5年(1677)6人全員が斬罪に処せられた。 その後、村人が、父母の墓という名目で六人衆の墓を建て、供養した。
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・・・・・・・・・・・・山門を抜けると、もと来た池上通りに出た。 一周御苦労様!



⑤春日神社
・・・・・・・・・環七通りを横切り、大田区中央1丁目に入ると新井宿村の鎮守であった春日神社がある。 鎌倉時代の創建と伝えられており、創建時の氏子は9軒だったそうだ。、、、、、今では、本殿は立派な木造春日造りの堂々たるものである。 昭和13年(1938)の建設。、、、、、、9軒の氏子が900軒の氏子になったようだ!
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⑥木造の商家?
・・・・・・・・・中央4丁目の商店街にある、懐かしいい構えの商家風建物。今では珍しい木造の出窓と、玄関の木製建具、いいね!
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⑦福興観音/観音通り商店街
・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・中央3丁目、池上通りに面し「
KANNONDORI」のアーチが見えた。 これはきっと、巣鴨の地蔵通りのように、中央に大きな寺があり、美しい観音様の像が迎えてくれるかと期待を大にして、商店街を歩く、、、、、
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・・・・・・・・・・・・約300m歩き、観音様とご対面できた。 商店街が中程で“く”の字に折れる地点があり、そこの一角に小さな観音様が祀られてた。、、、、、、昭和22年(1947)、戦後の復興を祈願し、大田区中央の地元有志が
復興観音を建立した。 そして、その観音堂を中心に生まれたのが「観音通り商店街」ということだ。 客寄せパンダならぬ、客寄せ観音様か?
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・・・・・・・・・・・・チョイと残念、ガッカリ気分で、商店街の反対側の端まで歩いた。
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⑧呑川
・・・・・・・・世田谷区桜新町を水源として、大岡山、池上、蒲田を流れ、羽田空港の手前で東京湾に注ぐ二級河川の呑川(のみかわ)。 臭わないが、色はわるい、まだまだけして綺麗とは言えない川。 この川を越え蒲田に近づいた。
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⑨蒲田の名物学校
・・・・・・・・・蒲田と言えば、駅前の「日本テレビ技術専門学校」、「日本電子工学院」と“おじさん”は思っていたが、、、、、ナント、名称は「東京工科大学 蒲田キャンパス」となり、校舎も大きく建て替え、ビックリ仰天!、、、、、、時代はドンドン変わる 
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●・・・・・・・・・・・・蒲田駅から帰宅

2016年4月24日 (日)

家族旅行で散歩は休み

混雑するゴールデンウイークを避け、早めの休日、家族で下田へ行ってきました。、、、、、散歩はお休みです。

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2016年4月21日 (木)

清洲橋通り

我が家のある浅草橋から、行く先のあてもなく歩き始め、東日本橋で清洲橋通りに入り、清洲橋を渡り、北砂・南砂を抜けて旧葛西橋まで、1万4千歩、10kmの散歩です。


・・・・・・・・・・・・・清洲橋通り、、、、、、台東区入谷の交差点から始まり、美倉橋で神田川を越え、東日本橋交差点、清洲橋、扇橋2丁目交差点を抜けて、旧葛西橋の架かっていた江東区の東砂6丁目交差点の先で終わる、全長約10kmの道路の通称である。




●am8:00
・・・・・・・・・・昼まで戻らぬ覚悟で、妻と涙の別れを笑ってかわし、浅草橋を発つ。

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●am8:05
・・・・・・・・・・幼き頃、遊んだ神田川の情景を、瞼に焼き付け、『さらば浅草橋』

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・・・・・・・・・・・・橋の上から先を見れば、道は二つ。 右は日本橋へ向かう江戸通り、左は清洲橋へ向かう道。 右か、左か、サイコロで決めたいが、あいにく持ってない、『前を行く女性について行こう!』

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●am8:10
・・・・・・・・・・長い道中、食あたりの薬の持ち合わせが無いことに気づき、浅草橋交差点に店を構える「玉置薬局」で買っていくか。 昭和4年(1929)の建物は、まだシャッターが閉まっていた。 『残念、コンビニで、おしゃぶり昆布でも買うか。』、、、、、一袋、全部食べても28kcalの健康食品?

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●am8:15
・・・・・・・・・・東日本橋駅前を通過。 これより先、道は「清洲橋通り」となる。 わが身の行方定まっておらず、ここで決めた! 『今日の散歩は、清洲橋通りを歩いてみよう!』、、、、、決断する男はステキだ!、ケツ出す男はクレしんだ!

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●am8:25
・・・・・・・・・・開演まで時間もだいぶある、浜町明治座前を通過。

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・・・・・・・・・・・・明治座前に仮社殿を建て営業中であった水天宮は、4月8日から新社殿に移り営業を開始した。 取り壊しを待つ仮社殿。、、、、、仮住まいでも、我が家より綺麗で、広い、もったいないね!

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●am8:30
・・・・・・・・・・浜町中ノ橋交差点(清洲橋通りと新大橋通りが交差する)を通過。

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●am8:35
・・・・・・・・・清州橋の西詰(日本橋中洲)にある金刀比羅宮を通過。 玉垣には「葭町 芸子芸妓屋組合」と彫られている。 葭町(よしちょう)とは、今の人形町で、江戸初期の遊郭だった。 明暦の大火で遊郭は吉原に移ったが、その後も、花街として残った。、、、、、浅草吉原に移るとき、葭町の“葭”を“吉”に変えて“吉原”としたとか?、、、、、昔は良かったね、できれば江戸時代に生まれ、一度でいいから葭町で遊んでみたかった!

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●am8:35
・・・・・・・・・清州橋 を渡る。

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●am9:00
・・・・・・・・・・白河1丁目の清洲寮 前を通る、、、、、先を急ぐしがない男の散歩、『今日は、道路の向かいからパチリで我慢!』 

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●am9:20
・・・・・・・・・・大横川に架かる扇橋を渡る。 昭和4年(1929)に震災復興事業として清洲橋通りを通すために架けられた橋が老朽化し、平成14年(2002)に現在の橋に架け替えられた。

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●am9:30 ・・・・・・・・・・錦糸町駅と東陽町駅を結ぶ四ッ目通りと交差する扇橋二丁目交差点を通過。、、、、、、スタコラ・スタコラ歩く我が身であるが、チョイと疲れと暑さで、息遣いが荒くなってきた。 『ハアハア、死にそうだ!』
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●am9:32
・・・・・・・・・西からほぼ東に向かって歩いてきた清洲橋通りが、扇橋3丁目で南東方向に折れ南砂へ向かう。 その扇橋3丁目の分岐点を通過する。、、、、、右側の道が清洲橋通り。
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●am9:37
・・・・・・・・・・扇橋3丁目で、横十間川親水公園の上に架かる岩井橋を渡る。 この橋は、最初、享保3年(1718)頃に架けられた。 現在の橋は、関東大震災復興橋として昭和5年(1930)に架けられたものである。、、、、、橋の名は、鶴屋南北の東海道四谷怪談の"お岩さん"に由来しているらしい。 砂村隠亡堀の場は、この近辺だそうだ。、、、、、橋の親柱が灯篭をイメージしたデザインに見えるのは私だけか? 『ウラメシ~ヤ~!』
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●am9:48
・・・・・・・・・南砂1丁目で、JR貨物南砂線の境川架道橋の下を歩く。 境川架道橋は越中島貨物線 を通すガードである。、、、、昭和49年(1974)、奥村組の施工で架けられた。、、、、今日はガード下から見上げて通る。
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・・・・・・・・・・・・ガードを抜けた位置に、
志演尊空神社がある。 神社は、志演神社と、尊空神社が、昭和22年(1947)に合併してできたそうだ。、、、、、、ガードをくぐる低い位置からパチリ!
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●am9:52
・・・・・・・・・・明治通りと交差する境川交差点を通過。
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●am10:01
・・・・・・・・・・丸八通りとの交差点を通過。、、、、、暖かな春なのか、シャツの下には汗がジワリジワリと出てきた。 『暑い、氷あずきが食べたい!』
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●am10:10
・・・・・・・・・・かつて都電の終点であった葛西橋停留場のあった旧葛西橋交差点に到着。、、、、、ここから先の荒川土手までは、半月前に来た道である。
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●am10:10
・・・・・・・・・・清洲橋通りの端、東砂六丁目交差点に着きました。 道路名の表示板も一方向に向けて示され、端まで来た実感がわいてきた。
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●am10:17
・・・・・・・・・・清洲橋通りが突き当る荒川土手に上り、荒川を見て、振り返り清洲橋通りの端まで来たことを実感した。 『浅草橋から葛西橋まで、清洲橋通りの制覇、おめでとう! 帰りは亀戸のくず餅買って、お祝いだ!』
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2016年4月20日 (水)

国府台~高砂

京成本線の国府台駅から、京成江戸川橋梁を見て高砂駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。




①国府台駅
・・・・・・・・・江戸川堤防(左岸)に寄り添うように駅ホームがある。 改札は高架のホーム下に口を開けている。、、、、、大正3年(1914)、市川鴻の台駅として開業し、その後、駅名を市川駅、市川国府台駅と変え、昭和23年(1948)に現在の国府台駅に改称した。、、、、現在は2面2線の高架駅で、普通列車しか停車しない“寂しい駅”と言いたいところだが、駅の北側に、和洋女子大、千葉商科大、東京医科歯科大があり、朝は学生がゾロゾロと下車する“若い駅”である。、、、、化粧の濃い女子大生も下車する“香の大”駅。

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・・・・・・・・・・・・・・人影の少ないホームを通過する通勤特急。

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・・・・・・・・・・・・・・ホームの端から江戸川橋梁までは、“スグソコ!”

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・・・・・・・・・・・・・・高架下の出入口は一ヵ所のみ。 普通電車が到着すると学生がゾロゾロ!

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②京成電鉄江戸川橋梁
・・・・・・・・・・大正元年(1912)に押上駅~伊与田駅(現:江戸川駅)が開通し、江戸川右岸手前(現:江戸川区北小岩)が終点だった。 対岸の市川国府台には、陸軍の旅団も置かれ、施設も多かったが、江戸川によって東京との輸送ルートが阻まれていた。 そこで、戦地での鉄道の建設/修理/運転などを行う鉄道連隊の支援により、大正3年(1914)に初代の江戸川橋梁として、5連トラス橋が架けられた。、、、、、現在は、昭和54年(1979)、初代の下流側に架けられた2代目である。 橋長:433.2m、下路ワーレントラス橋。

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③市川関所跡
・・・・・・・・・・・・京成電鉄江戸川橋梁と市川橋の中間、堤防上に「市川関所跡」がある。 江戸時代、参勤交代の制度が確立すると、市川と小岩の間には渡しが設けられ、定船場として番所が置かれた。 番所は後に関所となるが、明治2年(1869)に廃止になった。

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④市川橋
・・・・・・・・・・・・市川橋の下り線(上流側)は昭和38年(1963)に、上り線(下流側)は昭和42年(1967)に開通した。 全長399mのワーレントラス橋で、橋上には国道14号線(千葉街道)を通す。 

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⑤江戸川駅
・・・・・・・・・・・・国府台駅とは江戸川を挟み対照的に、こちらは江戸川右岸(江戸川区側)の堤防に寄り添う駅。 駅の歴史は古く、大正元年(1912)に京成本線は、押上~高砂~江戸川間で初めて開業した当時からの駅である。 開業時の駅名は「伊予田」で終着駅であった。、、、、、、、対岸の市川には、渡し船で渡ったそうだ、堤防上にその案内板が設置されていた。

・・・・・・・・・・・・堤防上からの写真:右側は江戸川橋梁、左端に江戸川駅が見える。

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・・・・・・・・・・・・・・・駅は高架下に改札がある。 一日当たりの乗降客数は約5,500人程で、国府台駅の半分。 かつての終着駅も、今では普通列車しか停まらない寂しい駅である。

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⑥北野神社
・・・・・・・・・・江戸川駅前にある、旧伊予田村(現:北小岩3・4丁目)の鎮守。 江戸時代に、この地にあった稲荷神社と北野神社を、明治42年(1909)に合祀し、さらに昭和39年(1964)には一里塚近くにあった須賀神社も合祀した。 現在は祭神として、稲荷神社の倉稲魂命、北野神社の菅原道真、須賀神社の素戔鳴尊の三柱を祀っている。、、、、、、祭神が多いと、ご利益も多いと良いのだが、そうもいかないようだ。 この世界も、賽銭の額によってご利益が変わるかも?

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⑦京成小岩駅
・・・・・・・・・・・昭和7年(1932)開業。 京成小岩駅を通る、現在の押上駅~江戸川駅間の路線開業は大正元年(1912)なので、駅は20年後に開業したことになる。、、、、、島式ホーム2面4線の地上駅で、橋上駅舎である。、、、、、JR総武線の小岩駅とは、徒歩20分程の離れた位置にある。 乗り換えは無理だね!

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線路脇の春・・・・・・・・・・

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●・・・・・・・・・・・・・・・・このあと、
高砂駅 まで歩き帰宅した。

2016年4月19日 (火)

白鬚橋

南千住から白鬚橋付近をうろついて浅草へ、1万歩、7kmの散歩です。




①明治通り
・・・・・・・・・・台東区三ノ輪(大関横丁交差点)から、明治通りを東へ向かうと泪橋交差点をとおり白鬚橋に出る。 白鬚橋で隅田川を越え、墨田区向島・曳舟方面に向かう。


・・・・・・・・・・・・・・泪橋交差点、、、、、、泪橋(なみだばし)とは、今は、明治通りの地下に暗渠化された思川に架かっていた橋である。 橋はなく名が交差点名、バス停名として残っている。、、、、、交差点の北に、江戸時代に小塚原刑場(延命寺)があった。その刑場に向かう罪人がこの世と最後の別れをする泪橋、家族・身内にとっては処刑される者の最後を偲び泪を流す泪橋である。

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・・・・・・・・・・・・歩道橋から眺める明治通り。 北側は荒川区、南側は台東区で、区界となっている。

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・・・・・・・・・・・・北側の荒川区側は、明治通り沿いに
東京ガス千住事業所の広大な敷地があり、ビル、水素ステーション、ガスタンクなどが並んでいる。
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・・・・・・・・・・・・南側の台東区側には、
NTTコミュニケーションズ白鬚ビルがあり、鉄塔が特徴的に天を指している。、、、、かなり高そうだ!
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・・・・・・・・・・・・NTTの隣は、
旧東京北部小包集中局 のビル。 現在は廃局となり、建物は台東清掃事務所清川清掃事務所車庫として使用中である。
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・・・・・・・・・・・・明治通りを東へ向かい、白鬚橋西詰(台東区側)には、
対鴎荘跡 の碑がある。、、、、、対鴎荘(たいおうそう)とは、明治時代の政治家:三条実美(1837~1891)の別邸であった。 「征韓論」をめぐって、政府内に対立が続き、明治6年(1873)、太政大臣の要職にあった実美は心労のあまり病に倒れ、この年の12月、明治天皇は病床の実美を、この邸に見舞った。 高さ3m程の碑は、この事蹟を顕彰して、市民によって建立されたものである。、、、、、対鴎荘は、昭和3年(1928)、白髭橋架橋工事に伴い、多摩聖蹟記念館に移築された。
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・・・・・・・・・・・・白鬚橋西詰の荒川区側には
石濱神社がある。、、、、、、荒川区南千住3丁目の隅田川右岸に鎮座し、天照大神・豊受姫神を祭神とする神社。 神亀元年(724)聖武天皇の命により創建した古い神社である。 木造銅板葺神明造の拝殿は昭和63年(1988)に落成した。
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②白鬚橋
・・・・・・・・・西詰は荒川区南千住と台東区橋場、東詰は墨田区堤通で、橋上は「明治通り」を通し、隅田川に架かる。 白鬚橋(しらひげばし)の名は、近くの「白鬚神社」に因む。、、、、、、初代の白鬚橋は、近隣住民が資金をだし、大正3年(1914)に架けられた木造橋であった。 しかも、有料で、橋の上に小屋を建て大人一人1銭の通行料を取ったらしい。、、、、、現在の白鬚橋は、昭和6年(1931)に竣工した震災復興橋である。 設計は「千住大橋」を設計した増田淳、施工は大林組、橋桁製作は川崎造船所により架橋された。 橋長は約169mほどある、鋼橋で横長の骨太な感じは永代橋 と似通っていて重量感があるタイドアーチ橋。
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・・・・・・・・・・・・下流側を眺める
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・・・・・・・・・・・・昭和初期の絵ハガキか?
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●蛇足・・・・・・・・・白鬚橋の“ひげ”は“鬚”。 “ひげ”にも色々ありまして、“鬚”は“あごひげ”、“髭”は“くちひげ”、“髯”は“ほおひげ”。、、、、、では、問題「ひげも自慢の内」の“ひげ”の字は?  答えは、「卑下」。



③リバーサイド隅田
・・・・・・・・・・白鬚橋の東詰(墨田区側)に建つ超高層ビルは何に?、、、、、、大林組の設計・施工で、平成6年(1994)に完成した、オフィス+賃貸住宅のビル。 1階~16階まではオフィス、17階~33階までは総戸数183戸の賃貸住宅。、、、、、高さ134.4mの超高層住宅には私は住めないね、金もないけど、高所恐怖症でダメだ!
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・・・・・・・・・・・・オフィス部分の中央は吹き抜けになっている。
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2016年4月18日 (月)

阿佐ヶ谷~鷺ノ宮

JR中央線の阿佐ヶ谷駅から西武新宿線の鷺ノ宮駅まで、1万歩、7kmの散歩です。




阿佐ヶ谷駅
・・・・・・・・・国鉄の駅として、大正11年(1922)に開業。 2面4線の高架駅。、、、、、今日は北口から出て、北の方角に歩くことにした。

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②世尊院
・・・・・・・・阿佐ヶ谷駅の北250m程にある世尊院は、永享元年(1429)頃の創建と言われている。 それまで阿佐ヶ谷の地にあった宝仙寺が中野に移転し、宝仙寺の子寺であった世尊院が宝仙寺の跡地に残されたそうだ。 本尊は立派な不動明王立像らしい。、、、、現本堂は昭和10年(1935)に再建された。
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・・・・・・・・・・・・道路を挟み山門前に
世尊院観音堂がある。 こちらには、室町時代の作と言われる木造聖観音菩薩立像が祀られている。
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阿佐ヶ谷神明宮
・・・・・・・・世尊院の隣に鎮座するは、建久元年(1190)頃の創建と伝える、天照大神を主祭神に祀る神明宮。、、、、、、広い境内の奥、小鳥の声が聞こえる森の中に、立派な拝殿・本殿が平成21年(2009)に造られた。
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④KU邸
・・・・・・・・・・・・阿佐谷北の住宅。 洋風の下見板張りの外壁、上げ下げ窓など、昭和初期の建物と独断で推定した。
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⑤阿佐谷北6丁目
・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・杉並区阿佐谷北5丁目から北側に走る早稲田通りを越える。
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・・・・・・・・・・・・阿佐谷北6丁目に入る、裏道は静かな住宅街だ。 私の住む浅草橋では得ることのできない住環境が、うらやましいね!
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・・・・・・・・・・・・正面に白鷺一丁目第3アパートが見えてきた、、これより先は中野区白鷺の町になる。 このあたりが、杉並区と中野区の区界。
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⑥白鷺一丁目第3アパート
・・・・・・・・・・・妙正寺川の右岸に位置する、昭和34年(1959)から建設された都営アパートが建て替えられた。 ここには、低層の都営住宅が19棟並んで立っていたが、妙正寺川の氾濫を防止するため、都営住宅の敷地を半分ほど利用し、地下に貯水量約35,000立方メートルの貯水池、上は多目的のグランドを整備した。 残る半分に高層(12階建て、5棟)の住宅を建て、戸数約800戸(建て替え前は418戸)の規模の団地となった。 工事は平成19年(2007)から平成22年(2010)まで行われた。
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⑦第2鷺の宮アパート
・・・・・・・・・白鷺一丁目第3アパートの北側に、こちらも都営住宅「第2鷺の宮アパート」が建っている。 昭和39年(1964)に建設された5階建て、5棟の団地。 こちらは、4号棟、5号棟の2棟が取り壊されていた。
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・・・・・・・・・・・・50年近く、このアパートで生活した人も居たであろう、思いで多い建物が壊されていく寂しさ、見てると泣けてくるね。、、、、、住んでいた人、建設した人を想うと、ほんとに、目が潤んで、ウルウル。
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⑧鷺の宮住宅
・・・・・・・・・・第2鷺の宮アパートの西隣には、『へ』の字型の屋根が特徴的な鷺の宮住宅のテラスハウス(境界壁を共有する複数の戸建て住宅が連続している形式の低層集合住宅)が7棟(20戸)並んでいる。 このテラスハウスは、東京文化会館などを手掛けた建築家:前川國男(1905~1986)の設計である。、、、、、、昭和33年(1958)に建てられた貴重な建築である。 建設時は公団の住宅であったが、現在は企業・民間に譲渡され、寮・住宅となっている。 そのためか、北側(玄関側)は建築時の姿を残してはいるが、南側(庭側)には部屋を増築した棟が多く、南面は雑然とした景観となっている。 チョイト残念だ!、、、、、【文科省へ】早く、文化財に指定しないと、高層マンションに変わってしまうかも?
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⑨鷺宮八幡神社
・・・・・・・・鷺ノ宮駅の南側の高台に、康平7年(1064=鎌倉時代)、源頼が東国征伐の後、鎌倉街道に面した当地に源氏の隆昌を祈願して創建したと伝えられている。、、、、、、この地には鷺が多く生息していたことから、鷺宮八幡、鷺宮大明神と称された。、、、、、現在の本殿・幣殿・拝殿は昭和35年(1960)に改築された。
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⑩鷺ノ宮駅
・・・・・・・・・昭和2年(1927)に開業した西武新宿線の駅。 単式ホーム1面1線(上り)と島式ホーム1面2線(下り)を併せ持つ地上駅。 駅舎は橋上である。
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2016年4月16日 (土)

足立・梅田・関原

東武伊勢崎線五反野駅から西の方角に、足立区足立・梅田・関原の各町を抜け尾竹橋通りまで、1万1千歩、8kmの散歩です。




①五反野駅
・・・・・・・・・・大正13年(1924)10月1日に、両隣の小菅・梅島の両駅とともに開業。 島式ホーム1面2線の高架駅。、、、、、、21年前の平成7年(1995)、オームの地下鉄サリン事件がおきた、私の会社の同僚が被害を被り実家のある五反野駅近くの病院に入院し、見舞ったことを思い出す。 同僚は幸い軽かったので、現在はピンピンして活躍中。、、、、、五反野駅は、私に事件を忘れさせない駅である。

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・・・・・・・・・・・・・・・“商店街”といえるか、どうか? 駅前の通り。
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②足立氷川神社
・・・・・・・・・・・足立4丁目に、素盞嗚尊を祭神として祀る氷川神社がある。 この付近は足立区千住4丁目の飛び地が多く、氷川神社(千住)を鎮守とする千住4丁目と縁が深かったことから、氷川神社が建立されたそうだ。、、、、荒川を挟み千住の飛び地が足立にあったとは、知らなかった!
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③曙湯
・・・・・・・・・・・足立区には、現在40軒程の銭湯が残っている。 そのうちの一軒、昭和32年(1957)に建てられた曙湯。 まだ、営業前でシャッターは下りた状態だが、クラシックな唐破風の外観、内部には滝のある庭もあるそうだ。 これぞ、“江戸の銭湯”と言えるらしいが、私は利用したことがないので断定できず、残念、無念!
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④足立4丁目の裏道
・・・・・・・・・・曙湯の前の路地を入り、先の見通せぬ路を、右に折れ、左に折れ、日光街道に出た!、、、、、
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⑤梅田の3寺
・・・・・・・・・荒川の北岸、足立区梅田の町に在る3寺に立ち寄った、、、、、どの寺も立派な本堂を構え、“坊主丸儲け”? 失礼しました。

・・・・・・・・・・・・・・真言宗豊山派の鷲谷山常楽院真福寺。 創建年代は不詳。
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・・・・・・・・・・・・・・日蓮宗の善立寺は応仁2年(1468)の草創で、三河安城から岡崎へ移転、さらに天正19年(1591)江戸内幸町へ移転し、その後、下谷へ移転。 江戸期には身延山久遠寺末の触頭として塔頭10ヶ寺を擁していた。 昭和25年、現在地(梅田)へ移転。、、、、、現本堂の設計はアイエムエー都市建築研究所。、、、、、私の個人的な感想として、“好きになれないデザイン”。
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・・・・・・・・・・・・・・真言宗豊山派の明王院は、万徳山梅林寺と号す。 明王院は、治承2年(1178)源為義の三男義広が建立した。 後に、明王院のかたわらに天満宮を勧請して、万徳山梅林寺と号し、姓を梅田と改めたことから、周辺の地名も梅田と呼ばれることになった。、、、、境内は広く、鐘楼、庭園などもある。
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⑥梅田から関原へ
・・・・・・・・・・またも、裏道を右へ左へ、、、、、「関原通り 」商店街に出た。
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⑦関原八幡神社
・・・・・・・・・・八幡神社は、関原通り商店街に面して鎮座している。 大聖寺の守護神として創建され、明治3年(1870)現在地へ移転した。、、、、、商店街のイベントスペースとして、ちょうどいいね。
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⑧大聖寺
・・・・・・・・・・・関原通りに面する真言宗豊山派の大聖寺は、関原山不動院と号し、関原不動尊として信仰を集めている。 関原不動尊大聖寺は、宝徳元年(1449)開山とも文明7年(1475)開山ともいわれ、どっちなんだ!、、、、、不動尊は秘仏で、見せないよ!
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⑨旧愛恵学園幼稚園舎
・・・・・・・・・・昭和5年(1930)、「愛恵学園」の園舎として建てられたもので、現在は関原地区のコミニティー施設「敬愛まちづくり記念館 」として利用している。、、、、、いまでも、建物の中から園児が飛び出してくるようだ。
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2016年4月15日 (金)

石原・本所

4年前に頭部の悪性腫瘍を除去し、その後の経過観察としてCT検査の結果を聞きに、朝一で病院へ行ってきた。 医師から『異常はありません』の一言を聞いて、またまた寿命が延びた! 


隅田川を渡り病院に寄った後、蔵前橋通りと春日通りに挟まれた墨田区石原・本所の町を、ブラブラ歩き錦糸町駅まで、1万歩、7kmの散歩です。




①新緑
・・・・・・・・・・東京都慰霊堂 のある横網町公園、イチョウの新緑が美しく、しばし見とれ足を止めた!

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●蛇足・・・・・・・・・・横網町公園は“網”(あみ)、近くの国技館に居る横綱は“綱”(つな)。 この“網”と“綱”、どっちがどっちだっけ? 書くとき読むとき間違えやすい字で苦労する、痔は苦労するものだ!、、、、“網”(あみ)の字はつくりの中が“亡”、“綱”(つな)はつくりの中が“山”。 網にあがる魚は亡くなるので“亡”、相撲の横綱は佐田の山、吉葉山、千代の山の“山”。、、、、、それにしても、最近、“山”のつく関取が少なくなった。




②徳之山稲荷神社
・・・・・・・・・・墨田区石原1丁目の徳之山稲荷神社は、本所築地奉行を務め、後に火付盗賊改となった徳山五兵衛の屋敷跡である。

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・・・・・・・・・・徳山五兵衛が、歌舞伎:白波五人男の一人、盗賊:日本左衛門一味を捕らえた話は有名である。 その「日本左衛門首洗い井戸跡之碑」なるものが建っている。
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③駆逐艦「初霜」のイカリ
・・・・・・・・・・石原2丁目、山田記念病院の玄関わきに、巨大なイカリが出迎えている。 病院創始者:山田正明が昭和15年(1940)に軍医長として乗艦した駆逐艦「初霜」のイカリだそうだ。 初霜は、「天一号作戦」(太平洋戦争末期の1945年3月~4月に日本の大本営が立案・実行した作戦の一部。戦艦大和を始めとした、海軍連合艦隊の生き残りによる、沖縄方面への水上攻撃作戦。)から帰還後、舞鶴で空襲を受け、宮津湾で大破・着底した。 戦後、引上げられ、初代院長が軍医長をしていた縁で、イカリがこの病院にやって来た。、、、、、病院は、地域密着型のこじんまりした総合病院だが、親切で、やさしい対応をしてくれる。(かつて、私の母もお世話になったが、天に昇らず、今も健在である。)
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④3層の蔵
・・・・・・・・・・石原3丁目にポツリと3層の蔵が建っている。、、、、、「伊勢半」という化粧品メーカーが所有する蔵。 「伊勢半」という会社は、男性の私にはなじみがなかったが、戦中・戦後を知る人には、あの色落ちしにくい口紅のメーカー“キスミー化粧品”といえば判るはずだ。、、、、懐かしくなってきたついでに、私の知る化粧品メーカー、、、、六本木の「ハリウッド化粧品」、浅草橋にあった「八重椿本舗」、白髪染めの「君が代」、男性化粧品:ポマードの「柳屋」、ホルモンクリームの「クラブ化粧品」、などなど、“ロゼット洗顔パスタ”なるクリームもあったね。
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⑤若宮公園
・・・・・・・・・・・関東大震災後、本所2丁目に隣の外手小学校とともに造られた復興公園。
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・・・・・・・・・・・・・・・若宮牛嶋神社、、、、、、若宮公園に隣接する神社。 若宮牛嶋神社は、三代将軍家光から牛嶋神社(本社)に寄進された当地を御旅所として利用したことに始まる。
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・・・・・・・・・・・・・・・若宮牛嶋神社の鳥居前の木立に隠れ、「満州事変忠魂碑」がある。、、、、、昭和6年(1931)に始まった満州事変では700余名が戦死し、その霊を祀り昭和10年(1935)に遺族が碑を建てた。、、、、塔頂部は満州らしい七重塔となっている。

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⑥天理教東本大教会
・・・・・・・・・・本所1丁目にある、天理教の中で格付の高い教会本部直属の教会である。 鉄筋コンクリート造の建物は、昭和20年(1945)の空襲でも残り、教会に避難した人も多かったそうだ。 (昭和初期の建築らしい?)
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⑦華厳寺
・・・・・・・・・・・古くは堅固院と称し薬師如来をまつる古跡だったが、延宝年間に一誉上人(開山上人)が復興し、元禄5年(1692)に小石川伝通院末となり、翌年(1693)華厳寺に改称した。、、、、、華厳寺のおえんま様は、延宝7年(1679)から境内に安置され、江戸六十六ヶ所えんま詣り第二十番目にあたり、「厄除けえんま堂」として広く庶民に信仰されてきた。 堂には、室町時代中期の作と思われる老婆の鬼「奪衣婆の像」もまつられている。 “怖い”というより、愛嬌を感じ、親しみが沸いた2体の像。、、、、平成5年(1993)にえんま堂の建て替えが行われた。
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⑧カトリック本所教会
・・・・・・・・・教会の歴史は古く、徳川幕府崩壊後の明治新政府は、キリシタンを解禁し、明治初期の本所地区にはカトリック教徒が増えてきた。明治12年(1879)現在地にて教会開設が行われたが、その後、教会は震災・戦災で、都度、建物を焼失した。 昭和26年(1951)、現在の聖堂が再建された。、、、、、建物は木造であるが、三廊式パルテノン様式、格天井の内部は大理石の聖堂を感じさせる。
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⑨妙見山別院
・・・・・・・・・・“能勢の妙見さん”と聞くと勝海舟を思い出し、昭和49年(1974)のNHK大河ドラマ「勝海舟」を思い出す。 大河ドラマでは、松方弘樹が海舟(勝麟太郎)で、二代目尾上松緑が父親の勝小吉。 松緑の小吉が素晴らしい“江戸っ子”だった。、、、、、小吉は麟太郎の病(犬にチン玉を喰われた)の時、ここ(本所4丁目)の妙見さんで水垢離をして祈ったと言われている。、、、、、攝津の能勢妙見山の東京別院で、小ぢんまりとした小綺麗な寺で、境内には、四季の野草などが花を咲かせている。海舟の像が花を楽しんでいるようだ!
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⑩紅葉橋
・・・・・・・・・・・妙見山別院の東側、大横川親水公園に架かる昭和5年(1930)竣工の橋。 親柱はアールデコ風?、、、、、紅葉橋の名は、近くに楓川という小川があったので、それにちなみ付けられたそうだ。
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2016年4月12日 (火)

稲毛~千葉

稲毛へ行った帰り千葉駅まで、青空の下、6千歩、5kmのプチ散歩。

 



稲毛駅
・・・・・・・・・・明治32年(1899)、総武鉄道の幕張と千葉の駅間に開業した駅が稲毛である。、、、、、ここで、かつては田舎の稲毛駅に有って、都心の浅草橋駅に無いものは、㋑ホームに上るエスカレータ(浅草橋には3月にエレベータができたばかり)、㋺高架下のショッピングモール(浅草橋の高架下は小さな店舗が数件あるだけ)、㋩快速列車の停車駅(浅草橋は普通列車のみ)、㋥旅行代理店ビュープラザ(浅草橋の住人は旅行嫌い?)、㋭駅そば(浅草橋駅にも30年程前にはあったのだが、キヨスクの売店もなくなった)、㋬駅周辺のマック、本屋、ミスタードーナッツ、耳鼻咽喉科医院、泌尿器科医院(いずれも、浅草橋駅周辺500m圏内には無し)、、、、、なんだか、私の住む浅草橋は稲毛に負けてるようだ!

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・・・・・・・・・・・・・・駅前に建つ37階建ての超高層マンション「プラウドタワー稲毛」。 そうそう、こんな超高層ビルも浅草橋にはないね! また、負けたようだ!

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②低層マンション・・・・・・・・・浅草橋より住み心地が良さそうな稲毛駅周辺に、超高層マンションを引き倒したような、長~い低層のシャレたマンションが建っている。


・・・・・・・・・・・・・・稲毛台ハウス、、、、、平成17年(2005)に建てられた、総戸数186戸の3階建て、低層マンション。 レンガ造りの外観を特徴として、欧米の雰囲気を感じさせる造りである。 ちなみに、施工は前田建設工業。

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・・・・・・・・・・・・・ザ・レジデンス稲毛台、、、、、、こちらは、平成20年(2008)に建てられた、総戸数249戸のマンション。 4階建ての長~いマンション。 設計は梓設計、施工はフジタ。

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③京成千葉線
・・・・・・・・・・線路沿いに歩いて行く、、、、


・・・・・・・・・・・・・京成稲毛~みどり台間

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・・・・・・・・・・・・・線路の点検、ご苦労様です!
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・・・・・・・・・・・・・・みどり台駅、、、、、、千葉線開業の2年後、大正12年(1923)に「浜海岸」という駅名で開業した。 その後、昭和17年には「帝大工学部前」、昭和23年からは「工学部前」、昭和27年からは「黒砂」、昭和46年からは「みどり台」。 5回も名を変えた駅である。、、、、、駅前は、かつて海が広がる海岸べりの住宅街である。
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・・・・・・・・・・・・・・・みどり台~西登戸間

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・・・・・・・・・・・・・・西登戸駅、、、、、、大正11年(1922)開業の西登戸駅。 “登戸”は“のぶと”と読み、小田急線の“登戸”は“のぼりと”と読む。 昭和42年(1967)までは、駅名は「千葉海岸」であった。 現在は、駅から最も近い稲毛海岸まで、直線距離で3.5km程ある。 歩いても1時間はかかるであろう、泳ぐ前に疲れてしまうね!
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・・・・・・・・・・・・・西登戸~新千葉間
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・・・・・・・・・・・・・・新千葉駅、、、、、、、大正12年(1923)に開業した古い駅。 JR千葉駅に近く、乗降客は少ない。 京成線内の96駅中、乗降客数ではワースト5にランクイン!、、、、、私の散歩は、ここから京成千葉線をはずれ、JR千葉駅に向かう。
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④登渡神社
・・・・・・・・・・登渡神社(千葉市登戸)は、千葉氏の末裔が祖先を供養するため正保元年(1644)に千葉神社の末寺を勧請したことに始まる。 明治41年(1908)鷲神社を合祀し、戦前まで村社に列格していた。、、、、、総欅造りの本殿は、500両の費用で嘉永3年(1850)に造営された。 でも、“500両”と言われても、私には、サッパリわからんね!、、、、拝殿は桧造りで、平成2年(1990)に竣工した。
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⑤千葉駅西口
・・・・・・・・・・駅西口の再開発が完了したようだ。 右からホテルサンルート千葉、ウエストリオ2(千葉駅西口)、フコク生命と三つのビルが並んだ。
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⑥千葉機関区の碑
・・・・・・・・・・・・現在工事中の千葉駅の南側、JR千葉支社の構内に、昭和36年(1961)に廃止された蒸気機関車の基地として千葉機関区跡に動輪の碑がある。
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・・・・・・・・・・・・・・・動輪の前の千葉駅は、只今、改築工事の真っ最中!
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2016年4月11日 (月)

大森~西馬込

JR大森駅から都営浅草線西馬込駅まで、1万歩、7kmの散歩です。

 



①新井道架道橋
・・・・・・・・・・・西側(山側)は京浜東北線橋、東側(海側)に東海道本線橋が走る、大森駅から150m程南に位置する新井道架道橋。 架道橋部分がすり鉢状に低くなっているのは、ここに新井川(現在は暗渠化されている)が流れてたそうだ。、、、、、当初は木造の橋で、明治11年(1878)に鉄製の橋に架け替えられ、現在は明治45年(1912)に架けられた3代目のプレートガーター桁橋となった。、、、、、チョイと残念なのは、高さ制限が2.4mで、バス、トラックなどの大型車両は通行できない。

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②旧高橋診療所・・・・・・・・・・・・山王3丁目、池上通りの商店街ある、昭和6年(1931)に、住宅を兼ねた診療所として建てられた建物。 昭和39年(1964)に大改造が行われたそうだが、スペイン瓦で葺かれた屋根や玄関、上下スライド窓などが昭和初期に流行したスパニッシュ建築のたたずまいを残している。 現在は医院を閉じている。 国の登録有形文化財。
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③八景坂マンション・・・・・・・・・・山王3丁目の住宅街へ上る坂道の途中に、どこにでもあるようなマンションがある。 この八景坂マンションの“売り”は、洋画家:日本芸術院会員:寺田竹雄(1908~1993)の製作による外壁の壁画。 寺田竹雄の壁画作品は、三宅坂ビル(民進党が入居している)、第百生命本社、松竹本社などにある。、、、、、八景坂マンション外壁は昭和36年(1961)マンション竣工時あわせて制作された。
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・・・・・・・・・・・・・【参考】三宅坂ビル(昭和39年(1964)竣工)の壁画。 (撮影:平成26年)
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④山王3丁目の住宅・・・・・・・・・・・いずれも、山王の文化人を想い出させるような、物語のありそうな住宅だ!

 

・・・・・・・・・・・・・・・KJ邸、、、、、、、昭和初期の木造住宅。

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・・・・・・・・・・・・・・E邸、、、、、、、こちらの住宅も昭和初期の建物か? 懐かしさを感じる建物だ!

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・・・・・・・・・・・・・・K邸、、、、、、、傾斜地に建つ3階建ての住宅。 外壁はスクラッチタイルを張り、チョイとシックな装い。

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⑤山王4丁目の階段坂・・・・・・・・・・・山王の小高い処に広がる高級住宅街から、環七通りの方角に一気に下る長く急な階段坂。

・・・・・・・・・・・・・・崖上に立つと、スキーのジャンプ台に立った感じ! 遠くは良く見えるが、足下は途中の踊り場が邪魔して見えにくい。 高低差20mぐらいあるようだ!

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・・・・・・・・・・・・・急な階段を上から下りる。 数段下り、上を見ると、戦前のコンクリート製の街灯がみえる。

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・・・・・・・・・・・・・途中まで下りてきたが、まだ先がある。

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・・・・・・・・・・・・・・やっと下り、階段を見上げる。 私とすれ違いに、階段を上がる人がいる。 無事に頂上制覇することを祈り、ご苦労さま!

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・・・・・・・・・・・・・・階段を下りた道。 右側が崖である。

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・・・・・・・・・・・・・・環七通りに出てきた!
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⑥大倉山公園・・・・・・・・・・南馬込3丁目の高台にある公園。、、、、山王から下り、南馬込で上る、アップダウンの多い町だ!、、、、、誰もいない公園だった
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⑦中井谷熊野神社・・・・・・・・・・・南馬込4丁目に鎮座する熊野神社。 創建年代等は不詳であるが、馬込村小名中井谷の鎮守社だったといわれている。、、、、、またまた、一段高い位置に神社があり、今日は疲れる散歩となった。
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⑧湯殿神社・・・・・・・・・・・・こちらは西馬込駅に近い、南馬込5丁目にある神社。 こちらも創建年代は不詳だが、馬込村のうちの根古屋谷の鎮守で、江戸時代には羽黒権現と呼ばれていたそうだ。、、、、、またまた、またも、お股が痛くなる階段。 
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2016年4月 8日 (金)

北斎通り

今日は、墨田区の病院で検査の日。 我が家から蔵前橋を渡り病院へ、検査終了後は錦糸町駅まで北斎通りの周辺を歩き、プチ散歩して帰宅。 1万1千歩、8km。

 



①旧震災記念堂(東京都慰霊堂
・・・・・・・・・平成25年12月から平成28年2月まで、約2年に亘る工期で行われた、東京都慰霊堂の耐震補強工事が完了し、白く吹き替えられた外壁を春の日差しが照らしていた。 仮囲いが撤去され内部も入れるので、チョイと、線香を手向け手を合わせてきた。、、、、、工事は、約12億円で戸田建設JVが請け、現在の耐震基準に沿って耐震壁の増設や窓枠周囲などを補強すると共に、屋根の銅板葺き替えなどの改修が行われた。、、、、、、昭和5年(1930)に建てられた慰霊堂は、85歳を超えシワが目立ち、肌の荒れた婆さんが、エステに行って、SONOKOの美白化粧品を塗り、一気に若返ったようだ。 

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②北斎通り・・・・・・・・・・・墨田区亀沢1丁目から錦糸町駅前、錦糸公園をとおり錦糸橋(横十間川)までの通り。 北斎通りは、江戸時代、通りの中央に掘割が設けられていたので、「南割下水通り」と呼ばれていた。 この江戸本所割下水にあたる場所で、浮世絵の大御所:葛飾北斎が生まれたことにちなみ、「北斎通り」と名付けられた。

・・・・・・・・・・・・・・北斎通りの西詰は、江戸東京博物館前である。
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・・・・・・・・・・・・・・亀沢1丁目、北斎通りから入った横道に相撲の八角部屋がある。、、、、元横綱:北勝海(八角親方、=日本相撲協会理事長)が平成5年(1993)に九重部屋から独立し創設した。、、、、、扉が閉まっており、中を覗くのは遠慮し、通過!
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・・・・・・・・・・・・・・八角部屋の北東100m程の行くと、人家の間に、せせこましく双葉稲荷神社がある。 地元の有志で祀っているのか?、、、、、赤い稲荷の旗がにぎやかだ。
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・・・・・・・・・・・・・・再び北斎通りに戻る
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・・・・・・・・・・・・・桜が満開の緑町公園。 公園と言っても、あるのは遊具と桜の木だけ。、、、、、見た目には白々とした公園だ!、、、、、公園は津軽家(津軽藩)上屋敷跡で、上屋敷は北斎通りの野見宿禰神社と緑町公園を含め、JR総武線の南側にある京葉道路までの長方形の土地:約8000坪程あったそうだ。
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・・・・・・・・・・・・・・公園の隣では、墨田区が約30億円(推定)ぐらいかけ、「すみだ北斎美術館」を建設中。 設計は妹島和世建築設計事務所、施工は大林組・東武谷内田JV、建物は4階建て、そろそろ完成に近づいてきた。、、、、、建物は1棟でなく、三角の大きなスリット(切れ込み)により分断された斬新なデザインとなっている。 乞う、御期待!
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・・・・・・・・・・・・・・緑町公園から50m程東に行くと、日本相撲協会が管理する相撲神社「野見宿禰神社 (のみのすくねじんじゃ)」がある。 相撲の始祖とされる野見宿禰を祀る神社。
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・・・・・・・・・・・・・・葛飾北斎誕生の地、、、、、、、、野見宿禰神社の向かい側に「葛飾北斎誕生の地」の立て札がある、せんべい屋がある。(写真:左端の建物)、、、、もちろん、せんべい屋は後にできたもので、北斎はせんべい屋の息子ではない。
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・・・・・・・・・・・・・・北斎通りには、小物・雑貨を扱う洒落た店も多く、デザイナー好みの街並みに変身している。 その一角に、ヨシダ印刷東京本社のビルが一昨年(2014)建てられた。 設計は北斎美術館と同じ妹島和世建築設計事務所、施工は鹿島建設。 建物の四周は、アルミエキスパンドメタルと呼ばれる網目状のスクリーンで覆われている。 これまた、斬新なデザインの建物である。
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・・・・・・・・・・・・・・・北斎通りと三ツ目通りが交差する角に、竪川中学校がある。 ここの正門付近に、幕末から明治にかけて活躍した剣術家の山岡鉄舟の生家小野家があった。、、、、、いまは、案内板が立つのみ。
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・・・・・・・・・・・・・・大横川親水公園を過ぎ、錦糸1丁目に入ると、北斎通りに面して津軽稲荷神社がある。、、、、津軽稲荷神社は、津軽藩下屋敷の屋敷神として祀られていた稲荷神を、明治43年(1910)に払い下げられ、錦糸町1丁目町会の守護神とした。、、、、、津軽藩の上屋敷・下屋敷は、ともに錦糸町にあったのだ?
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・・・・・・・・・・・・・・北斎通りは、錦糸町の駅前に出てくる。 今日の散歩はここまで。
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2016年4月 6日 (水)

亀戸~旧葛西橋

総武線亀戸駅から、気の向くまま、足の向くまま、行き着いた処は旧葛西橋。 1万1千歩、8kmの散歩です。

 



①JR亀戸駅東口
・・・・・・・・・・・明治37年(1904)3月29日に開業した亀戸駅。 駅は東武線改札口にも近い北口がメインである。 亀戸駅には総武線快速は停まらないので、ホームは緩行線用に島式ホーム1面2線だけである。 そのホームの東端の階段を下りると、盛土下の東口改札口に出る。 東口は京葉道路に面したビルの裏側にあり、初めての人には判りづらい、まさに、駅の勝手口のような処である。 それでも、通勤時間には多くの利用客が東口を利用している。

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・・・・・・・・・・・・・・駅前道路は、せまい裏通り!
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・・・・・・・・・・・・・・駅前のコーヒーショップに入り、モーニングの一杯を味わい、反対側へ出ると京葉道路だ。 便利な店構え!
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②昭和橋通り・・・・・・・・・・京葉道路から南に入り、竪川に架かる昭和橋が南端となる商店街。 京葉道路側に商店街名を標したアーチがあるが、客を呼び込むパワーが不足しているのか、活気を感じられない。、、、、300m程の商店街だが営業している店舗は、コンビニ、診療所、飲食店がある程度。 商店街のワクワク感はまるでなく、寂しいね!

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・・・・・・・・・・・・・南端は頭上を首都高が走る竪川(たてかわ)に、昭和橋が架かっている。 竪川は万治2年(1659)に起工された運河で、隅田川と中川を東西に結んでいた。 現在は暗渠化され、架けられていた橋は、“姿を残せど、実は道路なり!”、、、、、昭和橋もその一つである。
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③大島六丁目団地・・・・・・・・・・・昭和45年(1970)から昭和46年(1971)にかけて建てられた、鉄筋コンクリート造、14階建て、7棟(約2900戸)の公団住宅。 大きく、余裕ある敷地に建つ団地だ。、、、、、5年前(2011)の団地内の調査では、60歳以上の世帯主が72%、20歳・30歳代の世帯主は8%。 居住者の内、60歳・70歳代の合計がほぼ半数の50.1%。    当団地に25年以上住んでいる人は半数の55%にもなるそうだ。 間違いなく、高齢化、少子化が進んでいるね!
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大島稲荷神社 ・・・・・・・・・・・大島5丁目、通称「丸八通り」が小名木川を越える「丸八橋」の際に、慶安年間(1648~1651)に創建された、大島稲荷神社がある。、、、、今日は、上から目線で参拝して行く。

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⑤仙台堀川公園・・・・・・・・・・・•北砂6丁目と東砂1丁目の境で小名木川から分流し、南砂1丁目の付近で大横川に合流する仙台堀川に沿った全長約3.7kmの公園。 かつては砂町運河があり、周辺の製材工場の木材が浮かび川面を賑わしていた。 昭和40年前後から運河としての役目を終え、昭和55年(1980)に埋め立てられた。 その川筋は公園に変わった。、、、、、、満開の桜が公園に一直線に並び、お見事!

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⑥末広通り商店街・・・・・・・・・・・東砂一丁目末広通り交差点から、清洲橋通りに至るまで約1km程に連なる商店街。 昭和の風情も残り、どこか懐かしさを感じる商店街だ。、、、、、今日は、まだ午前10時、これから店開きの店舗もあり、人出は少ない。 活気づくのは、ヤッパリ午後だろう!

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⑦旧葛西橋・・・・・・・・・・・末広商店街の南端、清洲橋通りにぶつかった地点が旧葛西橋である。、、、、、、昭和47年(1972)11月11日まで、都電29系統が須田町~葛西橋間(8.8km)を運行していた。 神田須田町を出て、浅草橋、錦糸町を抜け、亀戸精工舎の脇から専用軌道を走り葛西橋までのルートである。、、、、、葛西橋には、父とシジミを採りにきた思いである懐かしい木造の橋だ。 橋は老朽化のため、昭和38年(1963)に旧葛西橋の300m程下流に現在の葛西橋が架橋され。 旧葛西橋は取り壊された、現在は都電の停留所付近に「旧葛西橋」というバス停が残り、旧葛西橋が架けられていた荒川には「旧葛西橋跡」の史跡案内が立てられている。

 

・・・・・・・・・・・・・・都電の終点「葛西橋」停留所があったのは、このあたりだ!、、、、、、写真中央の交番は昔も今も変わらぬ位置だ。 交番の手前(写真左側)に停留所があった。

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・・・・・・・・・・・・・・都電の停留所から葛西橋までは300m程歩く。 清洲橋通りが、グニャと曲がった形で旧葛西橋に向かう。

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・・・・・・・・・・・・・葛西橋の橋詰には、今も多くの釣り船、エサ屋が並んでいる。 その昔は、シジミ、アサリなどを売る店もあった。 写真正面には荒川の土手が見える。

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・・・・・・・・・・・・・・土手に上がって振り返ると、停留所から歩いてきた道が正面に見える。

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・・・・・・・・・・・・・土手から見る、正面は旧葛西橋が架かっていた位置で、写真中央に小さく旧葛西橋跡の案内板が見える。 対岸は江戸川区西葛西である。

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・・・・・・・・・・・・・・・旧葛西橋跡の案内板と、そこに載せられていた旧葛西橋の写真。

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・・・・・・・・・・・・・・・下流を見れば、現在の葛西橋が見える。 昭和38年(1963)に完成した、長さ727.4mの橋。

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2016年4月 5日 (火)

隅田公園の花見

連日の雨で、桜の花が散ってしまうのでは気になり、霧雨の中を散歩に出た。 我が家(浅草橋)から、隅田公園(桜橋)まで行き。 帰りは、チョイと浅草寺に寄って我が家まで、1万3千歩、9kmの散歩です。

 



①浅草橋架道橋
・・・・・・・・・・・明治37年(1904)、総武本線の銚子~両国間が開業した。 それから28年経過した昭和7年(1932)に、両国~お茶の水間が延伸された。 浅草橋駅前、江戸通りの架道橋はこの時に完成した。、、、、、、この架道橋を、終戦直後はチョコレート色の省線電車が走り、深夜には蒸気機関車に牽かれた貨物列車が黒煙を上げ過ぎ去った、昭和38年(1963)頃からカナリア色の101系・103系に移行し、今はE231系が走っている。、、、、省線電車の時代、架道橋の橋脚を背にして、靴磨きが商売し、その隣で白い着物姿の傷痍軍人が物乞いする光景を、私は忘れることがないであろう。 

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榊神社 ・・・・・・・・・・・・蔵前1丁目にある第六天榊神社は、日本武尊が景行天皇40年(110)に創建した。 もとは第六天神社と称して、現在の蔵前3丁目に鎮座し、享保4年(1719)に柳橋1丁目へ遷座した。 そして、明治維新の廃仏毀釈により社号を榊神社へ改称し、昭和3年(1928)に東京高等工業学校の跡地であった現在地へ移転した。
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・・・・・・・・・・・・・・ここ榊神社の地は、官立の図書館である「浅草文庫」が創設された地で、境内に浅草文庫跡碑が建てられている。、、、、、明治7年(1874)に蔵前の米蔵跡を利用し開設された公立図書館。 蔵書数は11万余冊とも13万余冊ともいわれている、現在その蔵書は国立公文書館、国会図書館、東京国立博物館などに保管されている。、、、、、明治14年(1881)に図書館は閉館した。
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・・・・・・・・・・・・・東京高等工業学校跡、、、、、、、浅草文庫が閉館した翌年(1882)に、現:東京工業大学の前身:東京職工学校(後に、東京高等工業学校に改称)の敷地の一部となった。 関東大震災後の大正13年(1924)、東京高等工業学校は目黒区大岡山に移転した。、、、、、、境内には当時の学校の全景が掲示されている。
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・・・・・・・・・・・・・・・揖取稲荷神社、、、、、、、“かじとりいなりじんじゃ”と読む。 「蔵前一丁目交差点」北東側の角の建物裏に鎮座する小さな神社で、第六天榊神社の兼務社。 神社は、慶長年間(1596~1615)、江戸幕府米倉造営用の石材を船で運搬中の遭難を避けるため浅草御蔵内に稲荷社を創建したといわれている。
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③蔵前変電所・・・・・・・・・・蔵前橋の西詰に北部第一下水道事務所がある、その建物の北側、年寄りには“旧蔵前国技館の裏側”に、そして地元の金持ちには“浅草税務署の前”に、「蔵前変電所」がある。、、、、、明治19年(1886)、日本初の電力会社として東京電燈が営業を開始する。 当初は、東京の市中各所に発電所を点在させていたが、明治28年(1896)に蔵前(現:蔵前変電所)に大規模発電所として浅草発電所が建設された。 大正15年(1926)には、より大規模な発電所が必要となり、「お化け煙突」で有名な千住火力発電所が造られた。 その後、震災で被災した浅草発電所の跡に、昭和8年(1933)に浅草変電所(現:蔵前変電所)が建てられた。

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・・・・・・・・・・・・・蔵前変電所は下谷変電所の2年後に建てられたが、両変電所とも静かな落ち着いた外観デザインで、存在を強調することなく80年の時が経過した。 しかし、残念なことに、上野マルイ裏にひっそりと建っていた下谷変電所は昨年取り壊された。 残念!、、、、、、写真は4年前に撮影
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駒形堂 ・・・・・・・・・・・駒形橋の西詰にある小さな堂。 ここは、推古天皇36年(628)、浅草寺の本尊聖観音像の「示現の地」とされ、かつて船で参拝する者はここで下船し、駒形堂に参拝してから観音堂へ向かったといわれている。、、、、、現在の堂は鉄筋コンクリート造、方三間、宝形造で、平成15年(2003)に建て替えたものである。
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⑤隅田公園の桜・・・・・・・・・・・・隅田公園は、台東区と墨田区の隅田川両岸に広がる公園である。 ご存じ、両岸で700本の桜が咲き競う名所!、、、、、今日は、散る前に見に来た!

・・・・・・・・・・・・・・青空を 隠して見せぬ 花曇り

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・・・・・・・・・・・・・・雨あがり 桜も濡れて 艶っぽく、、、、、手で招く桜はあぶない姥桜!
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・・・・・・・・・・・・・一輪よりも グループで 競う桜の美しさ、、、、、まるでAKB48!

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・・・・・・・・・・・・・・・じゃまだよ どかしてくれよ 旗・提灯、、、、、、写真うつりが悪くなる、邪魔な旗・提灯・コーン

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・・・・・・・・・・・・・・・お花見も 皆で来れば より楽し、、、、、爆買いツアー様のお通りだ!

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・・・・・・・・・・・・・・♪♪ 春のうららの隅田川 のぼりくだりの船人が 櫂のしづくも花と散る ♪♪、、、、、、これは、滝廉太郎作曲の有名な「花」という歌。 作詞は武島羽衣で、「花の碑」は羽衣本人自筆である。、、、、、誰もが知り、誰もが歌える、日本歌謡の第一号。、、、、、碑は桜橋の野球場近くにある。 
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2016年4月 2日 (土)

曳舟~亀戸

ポツリポツリと落ちてきそうな天気、降られてもスグに電車で帰れそうなところへ行こうと、曳舟から亀戸線に沿い亀戸まで歩くつもりで家を出た。 曳舟駅では、珍しい電車に遭遇し、散歩する親爺から撮り鉄に変身してしまった。 1万1千歩、8kmの散歩です。

 



①曳舟駅
・・・・・・・・・・「曳舟」駅は東武、京成は「京成曳舟」駅、駅間距離は300m程だが互いに乗換駅ではない。 今日は東武の曳舟駅で下車した。、、、、、明治35年(1902)に伊勢崎線の駅として開業し、明治37年(1904)には亀戸線が開通し、同線の起点駅となる。 3面5線の高架駅。、、、、、駅の東側には、来年(2017年)7階建ての駅ビルが完成し、私も一時世話になった白鬚橋病院 が移転し、駅に直結する病院となる予定。

・・・・・・・・・・・・・駅の高架下でも耐震補強工事が進められている。 来年には、大きく変化しそうな駅だ。

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・・・・・・・・・・・・・・左側は下りホーム、上りホーム(写真中央)、その後ろに隠れて亀戸線のホームがある。

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・・・・・・・・・・・・・・・2両編成の亀戸線が曳舟駅を出ていく。

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②亀戸線リバイバルカラー車両
・・・・・・・・・・・・見慣れた東武カラーとは違う電車が入ってきた。 『なんじゃ、こりゃ』、チョイと考え、『そうじゃ、こりゃ、かなり昔に姿を消した東武カラーの電車だ!』。、、、、、先週から投入された8000系リバイバルカラー車両である。 このカラーリングは昭和33年(1958)に7860型車両を採用した時の色である。 その後、日比谷線直通電車2000系がベージュ(私の嫌いな、色あせた寝ぼけたような色)に塗装されて登場し、リバイバルカラーの車両は昭和39年(1964)頃に消え去っていった。、、、、、3月23日から亀戸線のスタンプラリー「下町の魅力再発見ラリー」開始にあわせ、1編成2両(8577・8677)をリバイバルカラーにし、運行している。、、、、、今日は、散歩しながら追いかけてみた!

・・・・・・・・・・・・・亀戸線ホームの8000系
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・・・・・・・・・・・・・・京島2丁目付近を通過する8000系
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③墨田区京島地区・・・・・・・・・・木造家屋が密集する京島地区。 救急車両も通れない裏道。 お年寄りが増えた町。 そんな町が、防火建築に建て替え、道幅を広げ、住みやすい町に変身している。、、、、、でも、私には、懐かしい昭和の下町が残る町。


・・・・・・・・・・・・・・なぜか、懐かしい空気、これぞ京島か?

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・・・・・・・・・・・・・京島地区を走る亀戸線。 線路敷にたやすく入ることができるけど、事故、事件の話はとんと聞こえてこないね!
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・・・・・・・・・・・・・・防火用水のそばに、古い流し台もまだ健在。
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・・・・・・・・・・・・・股火鉢をして叱られた思い出は、植木鉢で余生をおくる。
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・・・・・・・・・・・・・・不用となったゴミ箱も防火用水と並び、軒先のアクセント。
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・・・・・・・・・・・・・・町中の公園は桜が満開、遊ぶ子は一人もいない。
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・・・・・・・・・・・・・・京島のメインストリート「キラキラ橘商店街」脇の公園に鎮座するは、お金が貯まる田丸神社。 この公園は、昭和20年(1945)の空襲の犠牲者364名が仮埋葬されたところだ。 平成元年の公園改修時には、遺骨や毛髪が若干出土したそうだ。 出土した遺骨は慰霊堂に合祀された。
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・・・・・・・・・・・・・・店舗兼住居の木造2階建て長屋も健在。
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香取神社 ・・・・・・・・・小村井駅の西側(墨田区文化2)に鎮座する鎮守さま。 平安時代末期の創建と言われている、古~い神社。 江戸時代は梅園があったことでも有名。
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⑤北十間川・・・・・・・・・・・墨田区の中央部を旧中川から隅田川まで横断している江戸時代に掘られた運河。 この川を越えると墨田区(京島方面)から江東区(亀戸方面)に入る。、、、、、、写真、右側が江東区、左側が墨田区で写るは「花王 東京工場」。
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⑥UR亀戸2丁目団地・・・・・・・・・・・・昭和43年(1968)に建てられ、50年以上経過した公団の団地。 9棟、806戸の団地で、駅から8分は便利である。 団地内のスーパーが賑わっていた。
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・・・・・・・・・・・・・・・この団地の前に、都営亀戸第二アパートがある。 こちらは、2DK(32㎡) 18戸と小規模だ。 江東区最古の都営アパートは高橋アパートで、こちらは2番手で、昭和36年(1961)の建築。
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2016年4月 1日 (金)

浜離宮

『明日は天気が悪そうだ、桜が散る前に花見に行こう。』と言うことで、夫婦で浜離宮に行ってきた。 1万歩、7kmの散歩です。

 



浜離宮恩賜庭園
・・・・・・・・・・・・江戸時代は徳川将軍家の庭園で、潮入の池と二つの鴨場をもつ大名庭園。 この地は寛永年間(1624~1644)までは、将軍家の鷹狩場で、一面の芦原であった。 そして、ここに初めて屋敷を建てたのは、四代将軍家綱の弟で甲府宰相の松平綱重。 承応3年(1654)、綱重は将軍から海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てる許しを得ました。 その後、綱重の子供の綱豊(家宣) が六代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となり、名称も浜御殿と改められた。、、、、明治時代になると、皇室の離宮となり、名前も浜離宮に変わった。 その後は、関東大震災や戦災によって、貴重な建造物が焼失し、庭園は荒れたが、昭和20年(1945)には東京都に下賜され、整備し、昭和21年(1946)から一般公開されることになった。

・・・・・・・・・・・・・大手門橋 、、、、、築地川に架かる大手門橋を渡って、庭園内に入る。 橋は関東大震災後に復興の一つとして、大正15年(1926)に架け直された。

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・・・・・・・・・・・・・・花が飾るシオサイトの超高層ビル。

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・・・・・・・・・・・・・・池も緑も、都心のオアシスに風情を添える。
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・・・・・・・・・・・・・桜が鮮やかに咲き、訪れた外人さんは、『 ビューティフル! ワンダフル! ハラガヘル!』と感動する。  そして私が応える、♪日本よいとこ 一度はおいで~ 酒はうまいし 姉ちゃんはきれいだ~ ~ ~♪ 
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②銀座の踏切・・・・・・・・・・・・・・・銀座8丁目、銀座郵便局横に残されている踏切。 踏切の台座には、以下のように記されている。、、、、、『保存理由:::元この高速道路の下には汐留川が流れ、鉄橋も架っていました。汐留駅は、わが国の鉄道開業当時における始発駅の新橋駅でしたが、大正3年(1914)東京駅が中央駅になると、ここは貨物駅になりました。大震災後、築地に東京市中央卸売市場が完成すると、汐留駅と市場間に荷物運搬のための線路がしかれ、大きな働きをしたのです。都民の暮らしの台所を支えて来たこの信号機を、国鉄廃止に当り捨て去られるのにしのびず、東京都中央卸売市場築地市場、東京都第一建設事務所並びに中央区教育委員会、地元各位の多大な御協力に依り、ここに永久保存されることになりました。  昭和62年(1987)12月  銀座御門通り会: 銀座金春通り会』、、、、、、踏切横の道路が線路跡だ、ここにレールを残しておいて欲しかったね!
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③中銀カプセルタワービル・・・・・・・・・・故黒川紀章(国立新美術館などを設計)が設計し、昭和47年(1972)に竣工したカプセル型の集合住宅。 2本の尖塔の周りに、鳥の巣箱のようなカプセル(幅2.3m×奥行き3.8m×高さ2.1m)を取り付けた13階建てのマンション。 奇怪な構造と姿を見せるこのビルは、メタポリズム建築(成長する建築)の代表作。、、、、、竣工後40年以上経過し、痛々しいほど設備の老朽化が目立ち、一旦は取り壊すことになったが、現在は、取り壊すか、残すか、身の振り方が定まっていないらしい。 2000年代に入り、建て替えが検討され始めて、既に15年近く、今だ解決せず! いつまで続く“生殺し”。
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・・・・・・・・・・・・・6年前に撮影。
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④旧菅原電気商会(第一菅原ビル)・・・・・・・・・・・・・昭和9年(1934)に、銀座7丁目に建てられた第一菅原ビル。 1・2階の外壁は改装したようだが、3階~5階まではスクラッチタイル張りで、建設時の姿を残している。(6階は後の増設) 階段室部分は縦連窓と丸窓によるモダンなデザインとなっている。、、、、、、散歩の最後は、2階の昭和モダンの『椿屋珈琲店』でひと休み。
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