浜離宮
『明日は天気が悪そうだ、桜が散る前に花見に行こう。』と言うことで、夫婦で浜離宮に行ってきた。 1万歩、7kmの散歩です。
①浜離宮恩賜庭園・・・・・・・・・・・・江戸時代は徳川将軍家の庭園で、潮入の池と二つの鴨場をもつ大名庭園。 この地は寛永年間(1624~1644)までは、将軍家の鷹狩場で、一面の芦原であった。 そして、ここに初めて屋敷を建てたのは、四代将軍家綱の弟で甲府宰相の松平綱重。 承応3年(1654)、綱重は将軍から海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てる許しを得ました。 その後、綱重の子供の綱豊(家宣) が六代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となり、名称も浜御殿と改められた。、、、、明治時代になると、皇室の離宮となり、名前も浜離宮に変わった。 その後は、関東大震災や戦災によって、貴重な建造物が焼失し、庭園は荒れたが、昭和20年(1945)には東京都に下賜され、整備し、昭和21年(1946)から一般公開されることになった。
・・・・・・・・・・・・・大手門橋 、、、、、築地川に架かる大手門橋を渡って、庭園内に入る。 橋は関東大震災後に復興の一つとして、大正15年(1926)に架け直された。

・・・・・・・・・・・・・・花が飾るシオサイトの超高層ビル。


・・・・・・・・・・・・・・池も緑も、都心のオアシスに風情を添える。



・・・・・・・・・・・・・桜が鮮やかに咲き、訪れた外人さんは、『 ビューティフル! ワンダフル! ハラガヘル!』と感動する。 そして私が応える、♪日本よいとこ 一度はおいで~ 酒はうまいし 姉ちゃんはきれいだ~ ~ ~♪





②銀座の踏切・・・・・・・・・・・・・・・銀座8丁目、銀座郵便局横に残されている踏切。 踏切の台座には、以下のように記されている。、、、、、『保存理由:::元この高速道路の下には汐留川が流れ、鉄橋も架っていました。汐留駅は、わが国の鉄道開業当時における始発駅の新橋駅でしたが、大正3年(1914)東京駅が中央駅になると、ここは貨物駅になりました。大震災後、築地に東京市中央卸売市場が完成すると、汐留駅と市場間に荷物運搬のための線路がしかれ、大きな働きをしたのです。都民の暮らしの台所を支えて来たこの信号機を、国鉄廃止に当り捨て去られるのにしのびず、東京都中央卸売市場築地市場、東京都第一建設事務所並びに中央区教育委員会、地元各位の多大な御協力に依り、ここに永久保存されることになりました。 昭和62年(1987)12月 銀座御門通り会: 銀座金春通り会』、、、、、、踏切横の道路が線路跡だ、ここにレールを残しておいて欲しかったね!


③中銀カプセルタワービル・・・・・・・・・・故黒川紀章(国立新美術館などを設計)が設計し、昭和47年(1972)に竣工したカプセル型の集合住宅。 2本の尖塔の周りに、鳥の巣箱のようなカプセル(幅2.3m×奥行き3.8m×高さ2.1m)を取り付けた13階建てのマンション。 奇怪な構造と姿を見せるこのビルは、メタポリズム建築(成長する建築)の代表作。、、、、、竣工後40年以上経過し、痛々しいほど設備の老朽化が目立ち、一旦は取り壊すことになったが、現在は、取り壊すか、残すか、身の振り方が定まっていないらしい。 2000年代に入り、建て替えが検討され始めて、既に15年近く、今だ解決せず! いつまで続く“生殺し”。

・・・・・・・・・・・・・6年前に撮影。


④旧菅原電気商会(第一菅原ビル)・・・・・・・・・・・・・昭和9年(1934)に、銀座7丁目に建てられた第一菅原ビル。 1・2階の外壁は改装したようだが、3階~5階まではスクラッチタイル張りで、建設時の姿を残している。(6階は後の増設) 階段室部分は縦連窓と丸窓によるモダンなデザインとなっている。、、、、、、散歩の最後は、2階の昭和モダンの『椿屋珈琲店』でひと休み。



« 北千束~学芸大学 | トップページ | 曳舟~亀戸 »