石原・本所
4年前に頭部の悪性腫瘍を除去し、その後の経過観察としてCT検査の結果を聞きに、朝一で病院へ行ってきた。 医師から『異常はありません』の一言を聞いて、またまた寿命が延びた!
隅田川を渡り病院に寄った後、蔵前橋通りと春日通りに挟まれた墨田区石原・本所の町を、ブラブラ歩き錦糸町駅まで、1万歩、7kmの散歩です。
①新緑・・・・・・・・・・東京都慰霊堂 のある横網町公園、イチョウの新緑が美しく、しばし見とれ足を止めた!

●蛇足・・・・・・・・・・横網町公園は“網”(あみ)、近くの国技館に居る横綱は“綱”(つな)。 この“網”と“綱”、どっちがどっちだっけ? 書くとき読むとき間違えやすい字で苦労する、痔は苦労するものだ!、、、、“網”(あみ)の字はつくりの中が“亡”、“綱”(つな)はつくりの中が“山”。 網にあがる魚は亡くなるので“亡”、相撲の横綱は佐田の山、吉葉山、千代の山の“山”。、、、、、それにしても、最近、“山”のつく関取が少なくなった。
②徳之山稲荷神社・・・・・・・・・・墨田区石原1丁目の徳之山稲荷神社は、本所築地奉行を務め、後に火付盗賊改となった徳山五兵衛の屋敷跡である。


・・・・・・・・・・徳山五兵衛が、歌舞伎:白波五人男の一人、盗賊:日本左衛門一味を捕らえた話は有名である。 その「日本左衛門首洗い井戸跡之碑」なるものが建っている。


③駆逐艦「初霜」のイカリ・・・・・・・・・・石原2丁目、山田記念病院の玄関わきに、巨大なイカリが出迎えている。 病院創始者:山田正明が昭和15年(1940)に軍医長として乗艦した駆逐艦「初霜」のイカリだそうだ。 初霜は、「天一号作戦」(太平洋戦争末期の1945年3月~4月に日本の大本営が立案・実行した作戦の一部。戦艦大和を始めとした、海軍連合艦隊の生き残りによる、沖縄方面への水上攻撃作戦。)から帰還後、舞鶴で空襲を受け、宮津湾で大破・着底した。 戦後、引上げられ、初代院長が軍医長をしていた縁で、イカリがこの病院にやって来た。、、、、、病院は、地域密着型のこじんまりした総合病院だが、親切で、やさしい対応をしてくれる。(かつて、私の母もお世話になったが、天に昇らず、今も健在である。)


④3層の蔵・・・・・・・・・・石原3丁目にポツリと3層の蔵が建っている。、、、、、「伊勢半」という化粧品メーカーが所有する蔵。 「伊勢半」という会社は、男性の私にはなじみがなかったが、戦中・戦後を知る人には、あの色落ちしにくい口紅のメーカー“キスミー化粧品”といえば判るはずだ。、、、、懐かしくなってきたついでに、私の知る化粧品メーカー、、、、六本木の「ハリウッド化粧品」、浅草橋にあった「八重椿本舗」、白髪染めの「君が代」、男性化粧品:ポマードの「柳屋」、ホルモンクリームの「クラブ化粧品」、などなど、“ロゼット洗顔パスタ”なるクリームもあったね。


⑤若宮公園・・・・・・・・・・・関東大震災後、本所2丁目に隣の外手小学校とともに造られた復興公園。



・・・・・・・・・・・・・・・若宮牛嶋神社の鳥居前の木立に隠れ、「満州事変忠魂碑」がある。、、、、、昭和6年(1931)に始まった満州事変では700余名が戦死し、その霊を祀り昭和10年(1935)に遺族が碑を建てた。、、、、塔頂部は満州らしい七重塔となっている。

⑥天理教東本大教会・・・・・・・・・・本所1丁目にある、天理教の中で格付の高い教会本部直属の教会である。 鉄筋コンクリート造の建物は、昭和20年(1945)の空襲でも残り、教会に避難した人も多かったそうだ。 (昭和初期の建築らしい?)

⑦華厳寺・・・・・・・・・・・古くは堅固院と称し薬師如来をまつる古跡だったが、延宝年間に一誉上人(開山上人)が復興し、元禄5年(1692)に小石川伝通院末となり、翌年(1693)華厳寺に改称した。、、、、、華厳寺のおえんま様は、延宝7年(1679)から境内に安置され、江戸六十六ヶ所えんま詣り第二十番目にあたり、「厄除けえんま堂」として広く庶民に信仰されてきた。 堂には、室町時代中期の作と思われる老婆の鬼「奪衣婆の像」もまつられている。 “怖い”というより、愛嬌を感じ、親しみが沸いた2体の像。、、、、平成5年(1993)にえんま堂の建て替えが行われた。



⑧カトリック本所教会・・・・・・・・・教会の歴史は古く、徳川幕府崩壊後の明治新政府は、キリシタンを解禁し、明治初期の本所地区にはカトリック教徒が増えてきた。明治12年(1879)現在地にて教会開設が行われたが、その後、教会は震災・戦災で、都度、建物を焼失した。 昭和26年(1951)、現在の聖堂が再建された。、、、、、建物は木造であるが、三廊式パルテノン様式、格天井の内部は大理石の聖堂を感じさせる。





⑨妙見山別院・・・・・・・・・・“能勢の妙見さん”と聞くと勝海舟を思い出し、昭和49年(1974)のNHK大河ドラマ「勝海舟」を思い出す。 大河ドラマでは、松方弘樹が海舟(勝麟太郎)で、二代目尾上松緑が父親の勝小吉。 松緑の小吉が素晴らしい“江戸っ子”だった。、、、、、小吉は麟太郎の病(犬にチン玉を喰われた)の時、ここ(本所4丁目)の妙見さんで水垢離をして祈ったと言われている。、、、、、攝津の能勢妙見山の東京別院で、小ぢんまりとした小綺麗な寺で、境内には、四季の野草などが花を咲かせている。海舟の像が花を楽しんでいるようだ!



⑩紅葉橋・・・・・・・・・・・妙見山別院の東側、大横川親水公園に架かる昭和5年(1930)竣工の橋。 親柱はアールデコ風?、、、、、紅葉橋の名は、近くに楓川という小川があったので、それにちなみ付けられたそうだ。


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