上野~日暮里
上野駅から裏道と墓地を歩き日暮里駅まで、途中で立ち止まり、見るものも多く、8千歩、6㎞のブラブラ散歩です。
①線路わきの細い道・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・「公園口」とは線路を挟み反対側にある「入谷口」から上野駅を出て、北へ(鶯谷方向へ)550m程歩くと上野郵便局(下谷1)がある。

・・・・・・・・・・・・郵便局前は金網越しに線路が見え、常磐線の特急列車も待機中。 ここで、私も金網にしがみついて、じっくり電車を見る。 いい歳して、チョイと恥ずかしいね!

・・・・・・・・・・・・鶯谷方向を見ると、郵便局前の広い通りから、線路沿いに入っていく道がある。

・・・・・・・・・・・・この道を入っていく。 車も入れそうですね、、、、、

・・・・・・・・・・・・ところがどっこい、ギッ・チョン・チョン、人がすれ違うのがやっとの幅になる

・・・・・・・・・・・・道は新坂橋(鶯谷駅南口前を通る跨線橋)にぶつかると右に曲がり、華学園1号館前に出て、道幅も広くなる。、、、、、知る人ぞ知る、鶯谷駅から下谷1丁目方面に向かう近道である。



・・・・・・・・・・・・新坂橋(跨線橋)から線路を見る。 左側のビルの植栽と線路の間に、通ってきた細い道がある。


②寛永寺・・・・・・・・・・・寛永寺は、台東区上野桜木にある天台宗関東総本山の寺院。東叡山寛永寺円頓院と号す。 開基(創立者)は徳川家光、開山(初代住職)は天海、本尊は薬師如来である。 徳川将軍家の祈祷所・菩提寺。 慶応4年(1868)の上野戦争で主要伽藍を焼失した。
・・・・・・・・・・・・南側(写真:左側)は国立博物館、北側(右側)は寛永寺の霊園に挟まれた、博物館裏の静かな通りがある。 人通りは少なく、しかも、観光客などの一見さんが通ることは少ない。

・・・・・・・・・・・・通りの中程に、霊園の塀を切り取ったような形で、国の重要文化財である徳川家綱霊廟勅額門が残されている。 四代将軍家綱は、慶安4年(1651)に父:家光の死に伴って、わずか十歳で将軍の座につき、延宝8年(1680)に39歳で没した。 家綱の勅額門は、もと家光の上野霊廟の勅額門であったものを転用したものと考えられている。 つまり、父の“おさがり”を活用したのだ。


・・・・・・・・・・・・霊園の前の道が、博物館の北端で折れる位置に霊園入口がある。 ここに、もう一つ勅額門が残されている。 こちらは、犬将軍として有名な、五代将軍の徳川綱吉霊廟勅額門である。 国の重要文化財。、、、、話のついでに、この綱吉の霊廟の中に、16代将軍家定の墓所もあり、隣には天璋院篤姫の墓所もあるそうだ。(非公開だ!)

・・・・・・・・・・・・徳川綱吉霊廟勅額門のある寛永寺第一霊園(台東区上野桜木1)は、JRの線路敷に面し、鶯谷駅ホーム南側の台地に在る。

・・・・・・・・・・・・霊園を抜けると、寛永寺の根本中堂がある。 元禄11年(1698)上野公園に建立された根本中堂は、慶応4年(1868)彰義隊の戦争で焼失した。現在の根本中堂は、明治12年(1879)に川越喜多院の本地堂を現在地に移築し再建したものだ。、、、、、チョイと本堂(撮影禁止)に上がらせてもらい、手を合わせてきた。 仏壇前には、三つ葉葵の家紋が30か所ほど刺繍された幕が下がり、寛永寺と徳川家の強い結びつきを実感させられた。





・・・・・・・・・・・・境内の隅にある寛永寺幼稚園。 玄関の庇部分には旧字体で左流れに「寛永寺幼稚園」と記され、庇を支える円柱に時代を感じる園舎は、大正12年(1923)の建築である。 木造平屋建てであるが、数年前に外装を変えたため、当時の姿が確認できるのは玄関部分だけのようだ。

③寛永寺坂駅跡・・・・・・・・・寛永寺をあとにして、言問通りに出ると、上野桜木二丁目交差点がある。 この角に京成本線の寛永寺坂駅(地下駅)があった。 駅は京成が都心進出を果たした上野~日暮里間開通の昭和8年(1933)に開設され、10年後の昭和18年(1943)に閉鎖された。 戦後、昭和21年11月に営業再開するが翌年8月に再び営業休止となり、昭和28年(1953)に廃止となった。 その後、運送会社の倉庫として昨年末まで使用していた。、、、、、今日前を通ったら、駅舎跡が仮囲いで閉鎖されていた。


・・・・・・・・・・・・4年前(2012)、倉庫として使用しているときの内部の写真。、、、、、順に、地下ホームに通じる階段部分、駅務室と思われる一角、事務室の扉。



④谷中霊園・・・・・・・・・・・明治政府が、現:台東区谷中に、明治7年(1874)に開設した公共墓地。 現在は都営霊園となっているが、霊園内に飛地状に天王寺墓地と寛永寺墓地が点在している。 特に寛永寺の墓地には徳川慶喜の墓などもある。、、、、、私も墓巡りする歳となってきたのか、何かいやな雰囲気だ!


⑤御隠殿坂橋・・・・・・・・・・台地上の谷中霊園から、崖下のJR東北本線の線路群を越えて、根岸に下りる跨線橋。 竣工は昭和3年(1928)頃らしい。
・・・・・・・・・・・・谷中霊園内の道を進むと御隠殿坂橋(ごいんでんざかはし)に出会う。

・・・・・・・・・・・・橋の取り付け部のコンクリートと鉄パイプの手摺も味がある。

・・・・・・・・・・・・山手線と京浜東北線4本、新幹線(地下)2本、東北本線(宇都宮線、高崎線)4本、常磐線2本、合計10本の線路を跨ぐ御隠殿坂橋。


⑥京成電鉄跨線橋・・・・・・・・・・・寛永寺坂駅跡の下を通過した直後、地上に顔を出し日暮里駅に向かう京成線が、大きくカーブしながらJRの線路を跨いでいく。 京成が都心に乗り入れるため、昭和8年(1922)に開通させた部分である。 御隠殿坂橋の南側に架かる橋。

