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2016年6月

2016年6月30日 (木)

石神井公園~荻窪

今日も降りそうな天気。 “近場の散歩にしよう!”と思い家を出て、山手線に乗ったら池袋に着いた。 “池袋まできたから、チョイと足を延して江古田あたりを歩いてみるか!” 西武線の池袋駅で、5番線の普通電車に乗るのを、発車まぎわの3番線の急行に飛び乗ってしまった。 気づいた時は、すでに遅し、急行は石神井公園まで止まらない。、、、、と言うことで、今日の散歩は、西武線石神井公園駅から中央線荻窪駅まで歩いてきた。


①石神井公園駅・・・・・・・・大正4年(1915)4月15日に、石神井駅として開業し、昭和8年(1933)に石神井公園駅と改称した。 開業時は島式ホーム1面2線の地上駅であったが、その後、島式ホーム2面3線に変更し、平成20年(2008)頃から高架化工事が始まり、平成24年(2012)には島式ホーム2面4線の高架駅が完成した。、、、、、ホームを覆う屋根は大きく、明るい。 また屋根を支える支柱も少なく、広さを感じる。 コンコースは天井も高く、大きな空間がつくられている。

・・・・・・・・・・・・あまり立派過ぎて、田んぼの中の新幹線駅のようだ!

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・・・・・・・・・・・・上り(池袋方面)ホームは通勤通学客が電車待ち、下り(所沢方面)はガラガラ。

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・・・・・・・・・・・・大きなコンコースを見ると、この空間に我が家が何軒分か考えてしまう。
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・・・・・・・・・・・・駅前広場に建つ、高さ約3mの「石神井火車站之碑」(しゃくじいかしゃたんのひ)、、、、、大正4年(1915)の武蔵野鉄道石神井駅(現:石神井公園駅)の開業を記念し、大正9年に造立された石碑。 碑文は漢文・漢詩でつづられ、駅周辺の石神井城・三宝寺池・長命寺などの歴史や見所が記されてる。
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②和田稲荷神社・・・・・・・・石神井公園駅の南150m程の処に鎮座するお稲荷さん。 創立年代不詳。、、、、、かなり昔は伝五郎稲荷として知られ、旧字和田地区の鎮守であったそうだ。 渡辺伝五郎が伏見から遷し、祀ったそうだ。、、、、、“渡辺”姓は多く、良い奴もいるが、悪い奴もいて、私はあんまり好きになれない苗字だ!
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③石神井公園・・・・・・・・園内には、石神井池、三宝寺池がある。 三宝寺池は古くからある池で、武蔵野台地からの地下水が湧き出ていたらしい。 昭和34年(1959)に市民が散策できる公園として整備されたそうだ。 ボートに乗れる石神井池は、三宝寺池一帯が風致地区に指定された際、三宝寺池とともに武蔵野の景観を保護する目的で、昭和8年(1933)に人工的に作られたそうだ。、、、、私の70年の歴史の中では、数回しか訪れたことがないマイナーな公園。 でも、ここ数年、ワニ出没事件、矢ガモ事件、露出狂女性徘徊事件などで、知名度は高くなっている。、、、、、今日は、公園の東側をチラット拝見。
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④禅定院・・・・・・・・石神井公園の南隣に、真言宗智山派の禅定院がある。 今から約600年前、願行上人によって開かれた寺と伝えられているそうだ。、、、、、現在、寺の近くにある石神井小学校の前身:豊島小学校は、明治7年(1874)区内初の公立小学校としてこの寺に創立された。、、、、現在の本堂は昭和53年(1978)に建てられた。
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⑤下石神井天祖神社・・・・・・・禅定院の前で石神井川を渡り、下石神井6丁目に入ると下石神井小の前に天祖神社がある。、、、、創建年代は不詳であるが、江戸時代の風土記には、存在が記されている。、、、、古い神社かも?

・・・・・・・・・・・・
石神井川
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・・・・・・・・・・・・下石神井天祖神社、、、、、、現社殿は明治18年(1885)の建築
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・・・・・・・・・・・・境内には安政年間(1854~1860)の燈籠や享保二年(1717)の延命地蔵などの石像物がある。
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⑥下石神井の町・・・・・・・田畑が都市化によって新興住宅地に変わったと思われる。
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⑦井草四丁目交差点・・・・・・・・新青梅街道と千川通り、さらに1本の区道が交わる6差路。、、、、、、私の散歩は、この交差点を横断し、練馬区から杉並区に入る。
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⑧西武新宿線・・・・・・・上井草では、西武新宿線の踏切を越える。、、、、、細い道路だが、交通量も多く、“開かずの踏切”となっている。、、、、私の気持ちは踏切を残して欲しいのだが、住民の安全対策を考えると、そろそろ高架化/地下化に着手する時期かも?
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⑨今川・桃井の町・・・・・・・・杉並区今川と桃井の町を抜け、荻窪駅方面に向かう。
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・・・・・・・・・・・・環八通りの四面道交差点を越えると、天沼教会のある天沼の町。
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⑩荻窪駅北口・・・・・・・・荻窪駅は、明治24年(1891)12月21日、甲武鉄道の駅として開業した、開業時は北口はまだなく、南口のみであった。 その後、明治39年(1906)に甲武鉄道は国有化されたが、まだ北口は設置されていない。 昭和2年(1927)に北口が新設された。、、、、、北口は青梅街道に面しているが、出入口部分は小さいため目立つことのない地味な出入口である。
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2016年6月29日 (水)

隅田川テラス

雨は降らぬが、陽は射さず、散歩には不向きな空模様。 雨が降ったら、スグに帰れるように、柳橋から隅田川テラスを浅草まで歩いてきた。


●隅田川テラス・・・・・・・・隅田川両岸のほぼ全域、総延長46.9kmの堤防を、人が水辺に近づけるよう、舗装、植栽などの修景工事により遊歩道としての機能を備えた親水テラス「隅田川テラス」として整備された。 東京都が昭和60年(1985)から進めていた事業で、既に大部分は整備され、隅田川の景観としても定着している。

・・・・・・・・・・・・柳橋地区の中央を抜ける総武線の高架橋、その脇からテラスに出ることができる。

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・・・・・・・・・・・・堤防から見るスカイツリーは雲の中に頭を突っ込んでる。 コリャ、ひと雨降りそうだ!
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・・・・・・・・・・・・総武線隅田川橋梁も薄暗く見える
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・・・・・・・・・・・・なまこ壁風に整備された堤防が蔵前橋方向に伸びる。、、、、、テラスを歩きながら、思い出した。 今朝、毎日服用する降圧剤と間違えて、下剤を飲んでしまった。しかも、2錠!! 急に下腹部が痛くなり排便を催したら、どうしよう!? 困ったぞ、テラスには厠がない、尻をまくって川に流すのは、チョイと恥ずかしい。 悩みは、恐怖に変わり、下腹部が痛くならないように、ゆっくり歩くことにした。
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・・・・・・・・・・・・蔵前橋の橋下は薄暗い、、、、ふと、頭に過ぎる、“やるならココで!”。 でも、まだ催さず。、、、、、上流から東京都建設局が保有する、河川の川面を清掃する作業船が来た。 “やらなくて、良かった!”、、、、、川に尻を出して、叱られては、末代までの恥さらしとなる。
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・・・・・・・・・・・・蔵前橋と厩橋の間に、東電の蔵前変電所がある。 変電所は隅田川に背を向けて建っている(写真:堤防の後ろ、中央の建物)が、その前の堤防には、何やら怪しいプレートが見えた。
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・・・・・・・・・・・・プレートの下、水深約5.7mの処に、6万ボルトの送電線が埋められているらしい。、、、、、隅田川で泳ぐ人は感電に注意を!、、、、、ちなみに、この付近は江戸時代に幕府の米蔵が並んでいた処だ。(蔵前の地名の由来)
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・・・・・・・・・・・・堤防の上から見る、厩橋付近の隅田川テラス
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・・・・・・・・・・・・厩橋の下をくぐる
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・・・・・・・・・・・・『東京で一番美しく隅田川・スカイツリー・屋形船がみえる処』、、、、看板に偽りなし(?)
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・・・・・・・・・・・・駒形橋付近の隅田川テラス、、、、、この付近では、堤防は煉瓦造のようなデザインで古さを演出。 花壇のアジサイも七変化で、“古さ”に合わせ枯れた色に変わってた。
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・・・・・・・・・・・・駒形橋、、、、、、この辺りでは、既に下剤を服用したことは忘れ、快調な散歩をしていたが、天から雨粒が霧のように舞い降りてきた。 こうなると、運(ウン)を天に任せて先へ歩く!
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・・・・・・・・・・・・“ウン”と言えば、次は“ウンコビル”、、、、、吾妻橋際で、ビールジョッキをイメージしたアサヒビール本社ビルと、隣の黒い外壁の建物の上に黄金の“ウンコ”をのせたスーパードライホール。  本来は燃え盛る炎を形象したものだが、我が家では娘が幼い頃から「ウンコ・ビル」と呼んでいた。 両建物は、平成元年(1989)10月竣工。
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・・・・・・・・・・・・浅草橋と両国の間に架かる総武線隅田川橋梁と同じ田中豊(1888~1964)の設計による東武伊勢崎線隅田川橋梁
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・・・・・・・・・・・・言問橋が見えた! 隅田川テラスの散歩はここまで。
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・・・・・・・・・・・・テラスから階段を上がり堤防を越える。 おいおい、爆買いツアーの御一行様、邪魔だ!
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・・・・・・・・・・・・隅田公園を横切り、浅草寺に向かう。
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・・・・・・・・・・・・カワイイ~~、浅草寺でパチリ!
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2016年6月27日 (月)

品川~高輪台

JR品川駅から、都営浅草線高輪台駅までの散歩です。 この間はストレートに歩くと、1km程の距離ですが、品川・高輪の両プリンスホテルを避けるように、港区の南端:高輪4丁目付近を抜けて大きく迂回して歩いてきた。


①JR品川駅・・・・・・・・JR東日本のホームだけでも8面(線路は15本)ある巨大な駅。 この他に、JR東海の新幹線ホーム、京急のホームもある。、、、、、品川駅は初代新橋駅(後に汐留駅)が開業する明治5年(1872)10月15日より約4か月前の明治5年6月12日(旧暦5月7日)に開業していた。 ただしこの時は、品川~新橋間の工事の遅れに伴う仮開業であり、鉄道の正式開業日:10月15日の新橋~横浜間の営業開始が歴史上、“鉄道の始まり”となっている。 この頃の新橋駅は、、、、、ホームの東側に東京湾の波が打ち寄せる、相対式ホーム2面2線の小さな駅であった。(この頃、私はまだ生まれておらず、写真を見ての話である。)

・・・・・・・・・・・・通勤時間帯の改札口付近

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・・・・・・・・・・・・東口に建ち並ぶ超高層ビル群を背景に、品川駅西口(高輪口)の低層の駅舎が可哀想に見える。
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・・・・・・・・・・・・西口正面の駐車場の陰に、品川駅創業記念碑がある。 石碑には、『明治五年五月七日 品川駅創業記念碑 品川横濱間鉄道開業 伴睦 書』と標されている。
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高山稲荷神社・・・・・・・・第一京浜に面し、品川プリンスホテル前に鎮座する“お稲荷さん”。 創建年代不詳であるが、おおよそ500年前に現在地の西側:旧毛利公爵邸(現:品川プリンスホテル)に創建されたらしい。 明治初期に現在地に移転し、現社殿は昭和6年(1931)に建て替えられた。 確かに古そうな神社だ!
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③つばめグリル・・・・・・・・・高山稲荷神社の並びに営業する、ハンブルグステーキの「つばめグリル」品川店。 昭和5年(1930)に銀座で営業を始めた「つばめグリル」は、ハンブルグステーキ一筋に85年の歴史を持つ。、、、、、昭和40年頃の建築と思われる品川店は、クラシカルな雰囲気を漂わせている。
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④旧ホテル品川別館・・・・・・・・・高輪4丁目、品川プリンス脇の坂道を上っていくと、昭和2年(1927)頃に建てられた、旧ホテル品川の建物がある。、、、、、昭和62年(1987)に休館するまではホテルとして営業していたが、現在は会社の寮か? 個人の所有か?
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・・・・・・・・・・・石の門柱に負けない、木のポールの外灯が渋い!
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⑤高輪の建物・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・一見すると花魁屋敷(?)、、、、米国証券法を専門とし、クロスボーダーM&A及び資本市場取引を中心に豊かな経験を有する米国の学者の住宅。
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・・・・・・・・・・・・チョイとモダンな住宅風の建物は、ワイン・ハウス。
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・・・・・・・・・・・・モダンな住宅の横には、蔵があるオシャレな建築。
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⑥カトリック高輪教会・・・・・・・・グランドプリンスホテル新高輪の前のカトリック教会。、、、、戦後、バチカンの要請でカナダの教会が日本で布教活動を始めた。昭和34年(1959)に建てられた木造の聖堂は老朽化し、平成元年(1989)に現在の聖堂に建て替えられた。、、、、設計は「船越徹+ARCOM」、施工は鹿島建設により、鉄筋コンクリート造一部鉄骨造で、地上3階/地下1階建て。、、、、聖堂の屋根はアーチ状の鉄骨で組み立てられ、軽やかな印象の内部空間が造られている。 また、地下には、クリプト(納骨堂)が設けられているそうだ。、、、、クラシカルな教会とは異なり、明るくモダンな教会である。
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⑦高輪台駅・・・・・・・昭和43年(1968)11月15日に、都営地下鉄1号線(現:浅草線)の駅として開業した。 品川駅からは1km足らずの場所に位置するが、間にプリンスホテルのある高輪の高台があり、チョイと丘を越えてきたような雰囲気だ。、、、、駅のホーム部は単線による上下2本のシールドトンネルで設計され、ホームに立つとシールド特有の円形の壁面が見える。
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2016年6月24日 (金)

東葛西

今日の散歩は、東西線葛西駅からスタートし北の方向(都営新宿線の船堀駅方面)に歩くつもりが、すれ違った美女に惑わされ、北東方向の東葛西1丁目、2丁目をうろつくことになった。 来てビッククリ、見てビックリ、ナント寺社の多いこと、ついでついでに立ち寄っていたら時の過ぎるのも速いこと。、、、、、帰りは今井からバスに乗車。  1万2千歩、9km。


①葛西駅・・・・・・・・昭和44年(1969)3月29日に開業した東西線葛西駅。 高架線の中央に2線は通過線となっており、その外側に各駅停車用の相対式ホームの2線がある。、、、、、現在は“葛西”と称する町はなく、町名は東葛西、西葛西、南葛西、北葛西、中葛西として、“東西南北中”を冠している。 “白”と“発”を冠したら、麻雀なら“四喜和”から“大三元”、最後は“字一色”で役満である。
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②中葛西稲荷神社・・・・・・・駅の南側「清砂通り」に近い処に鎮座するお稲荷さん。 創立年代不詳。 鳥居の掲額には明治28年(1895)の銘がある。 現:神社は大正2年(1913)の建物である、また、玉垣には大正3年(1914)の年号が見られる。 震災・戦災では被災しなかったのか?

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③正應寺・・・・・・・・・駅に近い、新義真言宗の正應寺は、江戸時代初期に創建されたらしい。、、、、、見るべきものなし! 手を合わせ、先を急ぐ。

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④葛西親水四季の道・・・・・・・葛西駅の北側:東葛西2丁目に、江戸川と中川を結ぶ水上交通路として栄えた「長島川」の跡(約2km)を、親水公園にした“四季の道”が整備されている。、、、、この長島川跡周辺には、神社、寺院が、ヤタラ・メッタラ・ホンダラ・ドシタラ、多いのにはビックリ・シャックリ・ブギウギ。 調べてみたら、東葛西1丁目・2丁目のあたりは、“葛西村”が陸の孤島であった時代から、大規模な集落があり“葛西”の中でも、歴史ある地域だったそうだ。

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⑤長島川跡付近の寺社・・・・・・・・・東葛西1丁目と2丁目の境を流れていた長島川。 川の跡、500m程の距離の周辺にある寺社について、『本邦初、堂々、一挙公開!』

・・・・・・・・・・・・
梵音寺、、、、、、曹洞宗の古刹で、慈覚大師が唐から帰朝の際、大時化にあい難破しそうになったが、観世音菩薩の救いで、この地に無事上陸できた。 そこで、この地に一宇を建て菩薩を祀ったのが、寺の始まりらしい。 承和14年(847)の創建。、、、、境内には古い建物は無く、ピッカピカの本堂。
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・・・・・・・・・・・・長島稲荷神社、、、、、、梵音寺入口脇の小社。、、、、ハイ! 次に行こう。
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・・・・・・・・・・・・桑川神社、、、、、、、旧桑川村の鎮守でもと第六天と称した。 創建年代不詳。 境内には昭和4年(1929)に築造した、「桑川の富士塚」がある。

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・・・・・・・・・・・・東善寺、、、、、、真言宗豊山派の東善寺は、医王山応心院と号する。 本尊の木造薬師如来坐像は、眼病に御利益があり、「薬師様」として有名らしい。(私は知らなかったけど) 仁平2年(1152、=平安時代)の開山。、、、、薬師如来の御真言:「おん ころころ せんだり まとうぎ そわか」である。 けして、“ちん ころころ せんずり ×××× ×××”とよんではならぬぞ!

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・・・・・・・・・・・・香取神社、、、、、、東善寺の隣には、香取神社がある。 香取神社の創建年代は不詳だが、もと別当寺の自性院を、興した良範法印が文亀元年(1501)に没していることから、戦国時代に創建したものといわれている。、、、、、、昭和26年(1951)には旧長島村にあった八雲神社を境内に遷座した。 また、八雲神社は、昨年、ピッカピッカに建て替えられた。

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・・・・・・・・・・・・清光寺、、、、、、浄土宗の清光寺は、文亀2年(1502)に開山した。 当地は、小田原衆所領役帳に記載されている長島高城の城跡であった。 また、中世には豪族の館があったといわれている。、、、、葛飾に城があったとは、ビックリ、仰天!

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・・・・・・・・・・・・正円寺、、、、、清光寺の北30m程に、新義真言宗の正円寺がある。 創建年代不詳であるが、文亀元年(1501)に中興されたいわれている。、、、、本堂は新しくなった、只今、本堂前の境内は整備中である。

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・・・・・・・・・・・・称専寺、、、、、、、永禄5年(1562)に創建された旧桑川村の古刹で、浄土宗の寺。 また、境内の参道には、万冶3年(1660)の銘をもつ地蔵菩薩像庚申塔と、同年銘の阿弥陀如来像庚申塔がある。、、、、、地さな、静かな寺。

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・・・・・・・・・・・・下今井香取神社、、、、、この神社も創建年代不詳。 旧長島村・旧桑川村との村境に位置していることから、「境の宮」と呼ばれていった。

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・・・・・・・・・・・・庚申塔もあった、、、、、今日歩いた範囲に3基。 “葛西”は沼地にできた新しい町ではなく、古い歴史ある町で、認識を改めることにした。

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⑥新川東水門・・・・・・・・新川は旧江戸川と中川を結ぶ運河で、家康によって造られた。 小名木川とともに、江戸時代の重要な物資輸送ルートの一つである。 その新川が旧江戸川とぶつかる地点に新川東水門がある。 昭和40年(1965)に設置された径間11m×2連のローラーゲート式水門です。
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●・・・・・・・・・今日歩いた、新川の北側(江戸川区江戸川)にも、神社、寺院がある。 ここまで書いて、私も疲れたので、今日はここまで。

2016年6月20日 (月)

飯田橋~曙橋

JR飯田橋駅から、神楽坂、牛込柳町をとおり、都営新宿線の曙橋駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。


①神楽坂・・・・・・・・朝の忙しない時間帯、店舗はあいておらず、客もおらず、チョイとつまらない神楽坂!

・・・・・・・・・・・・神楽坂下交差点(外堀通り)、勤務先へ、学校へ向かう人が速足で通る。

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・・・・・・・・・・・・メインストリートの坂道には、まだ客の姿はない。

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・・・・・・・・・・・・チョイと横道に入ると、伏見火防稲荷神社がある。 玉垣には、芸妓組合、料亭の名が彫られ、華やかなりし頃が偲ばれる。
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・・・・・・・・・・・稲荷神社の並びに、見番「東京神楽坂組合」の建物がある。 現在は、4軒の料亭と22名の芸妓により構成されてらしい。、、、、、建物は、あの宰相:田中角栄が建てたそうだ。、、、、まだ、稽古の時間には早く、三味線の音も聞こえない。
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・・・・・・・・・・・・路地を抜けて善國寺に向かう。
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②善國寺・・・・・・・・神楽坂の中程に腰を据え、毘沙門天を祀る善國寺。 善國寺は、桃山時代末の文禄4年(1595)に麹町(千代田区)にて創建された。 寛政4年(1792)の類焼に際しては、火除地として召しあげられ、替地として現在地を拝領し、翌年移転した。 毘沙門天の信仰は江戸時代末期には、ますます盛んになり、江戸の三毘沙門の随一として『神楽坂毘沙門』の威光は大きなものとなった。 当初は、ほとんど武家屋敷だけであった神楽坂界隈も、善國寺の移転に伴い、周辺には除々に民家も増え、明治初期に花街も形成され、華やかな街になっていった。、、、、、明治・大正期には、泉鏡花、尾崎紅葉、北原白秋など多くの文人・墨客達がこの辺りを闊歩し、大いに賑わった。 しかし、昭和20年(1945)の東京大空襲で被災し、堂宇は灰燼に帰した。 昭和46年(1971)に、現在の威容を誇る本堂・毘沙門堂が完成した。、、、、、朱塗りの堂が花街に似合う寺だ。
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・・・・・・・・・・・・堂の前に安山岩に彫られた虎の石像がある。 毘沙門天信仰から「虎」にちなみ、嘉永元年(1848)に奉納された。 堂に向かって、右側(阿形の像)の台石正面に“不”の字に似た刻印があり、これが、明治初年のイギリス式測量で使用されたの几号水準である。
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③横寺町の裏道・・・・・・・都営大江戸線の牛込神楽坂駅の北側に横寺町がある。 この町の裏道を歩いてみた。

・・・・・・・・・・・・町の東側に、創建年代不詳の曹洞宗の龍門寺がある。、、、、、門の横で、身代わり地蔵尊が門衛さんの身代わりをしている小さな寺院。
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・・・・・・・・・・・・龍門寺の斜め前の裏道を入っていく。 なにやら、工房風の住宅を過ぎ、オヤ!行き止りか?
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・・・・・・・・・・・・裏道は鉤の手に曲がり、車は無理だ!
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・・・・・・・・・・・・出た処は矢来町である。
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④新潮社・・・・・・・・大手出版社の一社。 私にはとっては、“週刊新潮の新潮社”。、、、、牛込中央通りを挟み、向かい合わせに、「本館」と「別館」が建っている。

・・・・・・・・・・・・本館は昭和41年(1966)8月に竣工した。
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・・・・・・・・・・・・別館は昭和49年(1974)6月に竣工した。
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・・・・・・・・・・・・玄関前には、週刊新潮でおなじみであった谷内六郎の原画による、ガラスモザイクの壁画がある。、、、、 姉弟が水飲み場に止まっている虫を遠くから見つめる画で、題名は「なかなかどかない」。、、、谷内六郎は、週刊新潮の創刊時から26年の間に1,300枚もの原画を描いてきたそうだ。 昭和の時代の抒情詩である。
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⑤矢来能楽堂・・・・・・・・新潮社別館の裏(矢来町60)に、国登録の有形文化財の矢来能楽堂がある。 昭和27年(1952)9月17日に再建された観世九皐会所有の、木造モルタル造りの建物。、、、、内部には入れず、案内の写真で我慢して!
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⑥矢来公園・・・・・・・・能楽堂から西に100m程行くと、矢来公園がある。、、、、、特に変わった公園ではなく、極、普通の公園である。、、、、、しかし、この公園は、若狭国小浜藩主の酒井忠勝が、寛永5年(1628)徳川家光からこの地を拝領して下屋敷とした場所である。 屋敷の周囲に竹矢来をめぐらせたことから、矢来町の名が付けられた、地名の出どこでもある。 さらに、蘭学者:杉田玄白はこの屋敷内で生まれた。
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⑦矢来町の裏道・・・・・・・・知る人ぞ知る、知らない人は知る必要のない裏道があった。

・・・・・・・・・・・・矢来町の西の端の裏道、、、、写真中央を奥へ進む!
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・・・・・・・・・・・・アリャ!行き止り?、、、、チョイと右側を見ると「駐車禁止 ここは私有地です」と表示されている。 何だか住宅の駐車場のようだ???
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・・・・・・・・・・・・すると、親子連れが帰ってきたのか駐車場の中へ、、、、、家に入らず、前を左折して消えた!、、、、、ナンダ???
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・・・・・・・・・・・・私も、恐る恐る進んで行ったら、急に視界は開け、細い階段が現れた、、、、階段の下は墓地の裏
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・・・・・・・・・・・・墓地をぐるり一周するように、車が侵入する余地のない細い裏道が続く、、、、、道は折れ、また折れて、またまた折れて、、、、何じゃ、この道は???
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・・・・・・・・・・・・やっと出てきた、新宿区榎町の宗柏寺横に出た。、、、、この寺の墓地を、ぐるりと回ったのだ!、、、、、日蓮宗寺院の宗柏寺は、下総国中山法華経寺36世を勤めた大僧都興正院日意(元禄2年(1689)寂)が開山となり寛永8年(1631)当地に創建された。
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⑧外苑東通り・・・・・・・早稲田通り弁天町交差点から曙橋の手前まで、外苑東通りは、只今、幅員18mから25mに拡張工事中である。、、、、、私は、この道を歩き、曙橋から帰宅。
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2016年6月18日 (土)

浜町川

東京は33℃の真夏日。 熱中症を避け、15時過ぎから、昨日歩いた竜閑川が流れ込んでいた浜町川の跡を歩いてきた。 浅草橋の我が家から箱崎まで、1万2千歩、9kmの散歩です。


①竜閑児童公園・・・・・・・・中央区日本橋小伝馬町の公園。 日本橋川から分岐した竜閑川が浜町川に合流する地点で、ここからは浜町川の跡が人形町を抜けて箱崎まで続く。 そして、浜町川は隅田川に合流していた。、、、、、浜町川は、元禄4年(1691)に竜閑川とつながり、さらに明治16年(1883)には神田川まで延長された。 戦後は、戦災の瓦礫・残土により、昭和25年(1950)に小川橋以北の神田川寄りが埋め立てられ、昭和49年(1974)には小川橋から隅田川までの残りの部分も埋め立てられ消滅した。

・・・・・・・・・・・・竜閑児童公園の裏に、浜町川の跡が千代田区岩本町3丁目(神田川)と中央区日本橋箱崎町(隅田川)を直線で結ぶように伸びている。

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・・・・・・・・・・・・神田川から分岐した浜町川は、公園の裏を抜け人形町方面に伸びていく。

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・・・・・・・・・・・・埋め立てるにあたり、中央に下水管を埋設したのか(?)、随所に下水道局の注意書きが設置されている。
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②鞍掛橋交差点・・・・・・・・・・浜町川跡と江戸通りが交差する鞍掛橋交差点。 ここにはその名のごとく、鞍掛橋(くらかけばし)が架かっていた。
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・・・・・・・・・・・・写真をよく見ると、中央の道路面が微妙に膨れている。 川を埋め立てた上に建てられた中央の2棟のビルは、1階部分が道路面より下にある。
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・・・・・・・・・・・・上の写真の中央2棟のビルの間には細い道がある。 右側は中央区小伝馬町、左のビルは中央区馬喰町、細い道は町の界となっている。
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旧古河銀行元浜町支店・・・・・・・・浜町川跡に近い日本橋富沢町に残る、大正15年(1926)に竣工した旧古河銀行元浜町支店。 現在は結婚式場として使用されている。 設計は中村與資平。、、、、、、結婚式には縁のない歳となり、内部には入って写真は撮りにくいね!
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④東日本橋と富沢町の町界・・・・・・・この辺りは浜町堀と呼ばれたところで、木造3階建ての家も残っている昭和の街並み。
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・・・・・・・・・・・・川筋と並行する道路側を見ると、、、、、
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⑤久松警察署前・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・浜町川の跡は、久松(ひさまつ)小学校の脇を行く。
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・・・・・・・・・・・・久松警察署の脇に出る。、、、、、ここには小川橋が架かっていた。 この辺りは川幅も広かったようだ。 これより先、箱崎方面に向けては、中央に浜町川緑道があり、緑道を挟み両側に車道が配されている。
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・・・・・・・・・・・・久松警察署前に鎮座するは狐の笠間稲荷神社
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⑥甘酒横丁と交差する緑道・・・・・・・・久松警察署前から伸びる緑道は、日本橋人形町2丁目で、明治座と人形町のメインストリートを結ぶ甘酒横丁と交差する。

・・・・・・・・・・・・明治座公演が跳ねると賑わう甘酒横丁
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・・・・・・・・・・・・交差する地点には、かつて、蠣浜橋(かきはまばし)があった。 緑道には、弁慶像が建てられている。、、、、江戸時代、人形町界隈には、市村座、中村座などの芝居小屋があり、人気を集めていた。近くにはまた、人形の製作・修理をする人形師たちも住んでいた。 弁慶像は、“弁慶”に意味があるのではなく、芝居小屋と人形に関係する歌舞伎を象徴したものである。、、、、なんだか、無理やりこじつけた像だ!
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⑦Carpet Musse・・・・・・・・日本橋浜町2丁目に、ペルシャ絨毯専門店「カーペットミュゼ」はある。 カーペットミュゼとは、絨毯の博物館という意味で、どなたのリクエストにも応えられる品揃え店らしい。、、、、、鉄筋コンクリート造3階建て(4階は後の増築と思われる?)の建物は、私の推定で昭和10年代の建物と思う。
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⑧有馬小学校付近の浜町川の跡・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・新大橋通りが浜町川を渡っていた地点は、首都高速の浜町ランプの出路になっている。 この地点には、かって中之橋があった。
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・・・・・・・・・・・・ランプの脇に、明治7年(1874)に設立した老舗の小学校:中央区立有馬小学校がある。 浜町川の追跡はここまで、この先は箱崎のエアーターミナルが邪魔してる。、、、、、校舎は昭和62年(1987)に、現校舎に建て替えられた。
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⑨隅田川との合流点・・・・・・・浜町川は有馬小学校のあたりで箱崎川に合流し、実際には隅田川まで流れていない。 しかし、箱崎川は隅田川に流れ込んでいた。 よって、千代田区大手町付近で竜閑川として、日本橋川から分岐した水は、竜閑川、浜町川、箱崎川と、流れ、流れて、隅田川に到達していた。、、、、その到達点まで行ってみたが、只今工事中で近寄れず、残念なり。 写真、左側の建物の陰に合流点がある。
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2016年6月17日 (金)

竜閑川

浅草橋の我が家から小伝馬町に出て、竜閑川の跡を歩き大手町へ、ここでUターンして神田駅まで、1万歩、8kmの散歩です。

・・・・・・・・・・竜閑川(りゅうかんがわ)は、“龍閑”とも書き、中央区および千代田区にかつて存在した河川である。 竜閑川は、千代田区大手町付近の日本橋川より始まり、千代田区と中央区の区界に沿って北東に向かい、小伝馬町付近(龍閑児童公園)で浜町川に合流する。 ここで、竜閑川の流れは直角に折れ、浜町川として、浜町、人形町、箱崎を経て、隅田川へ流れ込む人工の堀であった。




①浅草橋・・・・・・・・駅は台東区、橋は台東区と中央区を結び、交差点は中央区

・・・・・・・・・・・・通勤時間の浅草橋駅、、、、、、高架下(ホーム下)は歩く人もまばらだが、江戸通りに面した東口からは、通勤客が吐き出されてくる。

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・・・・・・・・・・・・浅草橋の橋から、久しぶりに青空が見えた

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・・・・・・・・・・・・浅草橋交差点、、、、、、、雲も綺麗だ!

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②龍閑児童公園・・・・・・・・中央区は小伝馬町の「龍閑児童遊園」、千代田区は岩本町1丁目の「龍閑児童公園」。 どちらも同じ一つの公園である。 ここには、かつて竜閑川(りゅうかんがわ)があり、両区の界であった。 川は埋め立てられ、区界の上にできたのが龍閑児童公園であり、龍閑児童遊園である。

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・・・・・・・・・・・・中央区側(写真:右側)は庭園風に造り、千代田区側(写真:左側)は砂を敷いただけ。

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・・・・・・・・・・・・公園の裏手には人形町方面に伸びる裏道がある。 この道が、浜町川を埋め立てた道である。

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・・・・・・・・・・・・こちらは公園から大手町方向に伸びる道。 この道路の中央が中央区と千代田区の区界である。、、、、、、今日の散歩は、竜閑川を遡るように、この公園から上流側の龍閑橋までを歩いてみることにした。 この区間が「神田八丁堀」と言われている処である。

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・・・・・・・・・・・・公園の隣には、“江戸七森”と言われてる神社内の一社:「竹森神社」がある。

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③千代田区岩本町・中央区小伝馬町付近の竜閑川跡・・・・・・・・

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・・・・・・・・・・・・竜閑川の跡は昭和通りと交差する、、、、、、竜閑川は戦後になって埋め立てられ、それまで、昭和通りには、地蔵橋が架かっていた。

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旧十思小学校・・・・・・・日本橋小伝馬町に建つ旧十思小学校は、正面玄関の曲面、半円の柱型、アーチ状の窓などで構成され、表現主義建築の特徴を表している貴重な学校建築である。、、、、、少子化により、小学校は平成2年(1990)4月に人形町にあった東華小学校と統合し、東華小学校の校舎に日本橋小学校として新設された。 現在は、中央区の保育園、老人介護施設などが入居している。

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⑤地蔵橋公園・・・・・・・・・昭和通りを横断して、千代田区神田美倉町と中央区日本橋本町4丁目に来ると、またまた似た名前の公園が竜閑川跡の両側にある。 千代田区側は「地蔵橋西児童遊園」、中央区側は「地蔵橋公園」である。

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・・・・・・・・・・・・ここには、「竜閑川埋立記念」碑がある。、、、、、、埋立は、総延長600間(約1km)、幅7間(約13m)で、昭和23年(1948)4月1日に着手し、昭和25年(1950)3月7日に竣工した。 総工事費7000万円也。 埋立は、戦災の瓦礫・残土で行われ、都が実施した。 当時、安井誠一郎知事の時代である。 舛添要一でなくて良かった!

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⑥中央通りと交差する竜閑川跡・・・・・・・・・・ここには今川橋が架かっていた

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・・・・・・・・・・・・ビルの角に「今川橋跡」の碑がある。

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⑦丸石ビルディング・・・・・・・・霞が関ビルを設計した山下寿郎が手掛け、竹中工務店が施工し、昭和6年(1931)に竣工した、竜閑川に背を向けて建つオフィスビル。 鉄骨鉄筋コンクリート造6階建て、1階は石材を多用し、2階以上はスクラッチタイル貼り、随所にレリーフの装飾が施された、ロマネスク様式の、女性的で華麗なビル。 国登録有形文化財。、、、、、オーナーは懐かしの“石丸自転車”の会社。
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⑧山梨中央銀行東京支店・・・・・・・・・・中央通りを挟み石丸ビルディングの斜め前に建つ銀行建築。 関東大震災の当時は、前身の第十銀行東京支店であったが、震災後の昭和4年(1929)に現建物が竣工した。

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⑨竹中ビルディング・・・・・・・・・・山梨中央銀行の横を入ると、ネットに覆われた古いビルがある。 そろそろ、建て替えか? おそらく、戦前の建物と思われるが、年代は不詳。

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⑩日銀通りと交差する竜閑川跡・・・・・・・・・・・中央通りからJR線寄りに一本入った通りが、日銀本店前に出る「日銀通り」です。 竜閑川跡の道が、日銀通りと交差る地点では、千代田区、中央区がそれぞれ道路の案内板を設置している。

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・・・・・・・・・・・・中央区側の案内板

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・・・・・・・・・・・・千代田区側の案内板、、、、、、わざわざ“”を付けて、“ここからこっちが千代田区の日銀通り”と言っている、チョイとセコイね。 ちなみに、「日銀本店」は矢印の反対側にある。

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⑪今川小路・・・・・・・・・・・・竜閑川跡はJR神田駅と東京駅の間を大手町方向に向かう。 JR中央線・山手線のガード下に、昭和レトロの面影残る居酒屋横丁“今川小路”がある。昭和26年頃から営業が始まり、最盛期には30軒程の店が軒を連ねていたが、今は数件残るのみ。

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⑫龍閑橋跡・・・・・・・・・竜閑川と外堀通りが交差する地点(中央区日本橋本石町4丁目と千代田区内神田3丁目)に、外堀通りに架けられていた龍閑橋の一部が残されている。、、、、大正14年(1925)7月に着工し、大正15年(1926)2月に竣工した龍閑橋は、日本で最初の鉄筋コンクリートのトラス橋であった。 橋長:10.4m、幅員:27.0mで、橋上には市電の軌道が敷かれていた。、、、、なお、「龍閑」という名については、竜閑川の西端に、旧幕府坊主の「井上龍閑」の家があったことに由来する。

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⑬鎌倉橋・・・・・・・・日本橋川に架かる復興橋のひとつで、大手町と内神田を結び、昭和4年(1929)に架橋された。長さ30m、幅22mのコンクリート橋。、、、、、、頭上には川幅と同じくらいの道路幅で首都高が走り、うっとおしく、邪魔だ!

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・・・・・・・・・・・・鎌倉橋から見る竜閑川の始点。、、、、、小さな水門が見えるあたり。

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2016年6月14日 (火)

稲毛~西千葉

JR総武線稲毛駅から隣の西千葉駅まで、総武線の東側を大きく回って、1万2千歩、9kmの散歩です。


稲毛駅 ・・・・・・・・明治32年(1899)に総武鉄道(私鉄)の駅として開業。 明治40年(1907)9月1日、鉄道国有法により買収され国有鉄道の駅となる。、、、、、私は数年前から、月2回、稲毛駅近くで開く「パソコン同好会」に参加して、楽しんでます。 今日も、その帰りの散歩となりました。

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②千葉陸軍高射学校跡地・・・・・・・・・稲毛駅の東に位置する稲毛区小仲台5丁目の一帯(園生小、小中台中、県立千葉女子高、なかよし公園など)は、千葉陸軍高射学校の跡地である。 「なかよし公園」の隅に「開拓の町小仲台」の碑がある。 その碑文によると、この地には終戦まで防空学校、後に高射学校と呼ばれた陸軍の施設があった、戦後、千葉県に関係する引き揚げ者用に公営住宅を450戸整備し・入居させた、この人達が現在の小中台町の発展の礎となったそうだ。、、、、、終戦まで、市川、習志野、千葉と軍の施設がズラリと並んでいた総武線沿線、戦後生まれの私には想像の世界だが、知れば知るほど、強大な軍の力を感じるね。

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・・・・・・・・・・・・公園には、大きなプラタナスの木が、涼しそうな木陰を作っていた。

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③小園公園・・・・・・・・小仲台4丁目の住宅街に沿って、東西に細長い小園(こぞの)公園がある。 昔からあった自然木を残し整備された緑豊かな公園で、今、園内は散策路沿いに多くのアジサイが咲き誇っていた。 いずれ、アジサイの名所になるかも?
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④穴川中央公園・・・・・・・・稲毛区役所の隣にあった土木研究所の跡地につくられた面積約3.3haの緑豊かな公園です。、、、、、昭和35年(1960)に道路関係の研究を行うため土木研究所千葉支所が設置され、昭和54年(1979)に筑波に移転した。、、、、土木研究所の前(戦前)は、この地にも軍の施設があったかも?
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⑤穴川神社・・・・・・・・一つ屋根の下に、2つの神社(道祖神社と石尊神社)がある、めずらしい神社。 この地には、元々道祖神社があり、後に石尊神社が合祀され、神社名も穴川神社と変わった。 向かって、右側が石尊神社、左側が道祖神社、中央は客殿である。、、、、参拝は、道路から中央の鳥居をくぐり、左右お好きな方からどうぞ。 ただし、両方に参拝し、両方に賽銭を入れること!、、、、、現社殿は平成元年(1989)に建て替えられた。
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⑥千葉都市モノレール・・・・・・・・昭和63年(1988)に最初の区間として、スポーツセンター~千城台間が開業し、平成3年(1991)千葉~スポーツセンター間が開業した。、、、、、ぶら下がって動く懸垂式モノレールとしては世界最長の営業距離(15.2㎞)である。

・・・・・・・・・・・・穴川駅、、、、、道路に覆いかぶさる『目障りな駅だ!』。 このモノレールを見るたびに、つい口から出る愚痴。
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・・・・・・・・・・・・穴川3丁目付近
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・・・・・・・・・・・・作草部駅、、、、、作草部駅(さくさべえき)は、平成3年(1991)6月12日に開業した。
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作草部神社・・・・・・・作草部(さくさべ)駅近く、大雷神、大山祇神、など12柱を祀る神社。、、、、社殿は文久元年(1861)の建築。
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●・・・・・・・・・作草部神社から千葉大の脇を通り西千葉駅へ、、、、

2016年6月12日 (日)

飯田橋~早稲田

中央線飯田橋駅の改良工事をじっくり見て、目白通りと早稲田通りに挟まれた、五軒町、中里町、天神町を抜けて地下鉄東西線早稲田駅まで、1万歩、7kmの散歩です。


①飯田橋駅・・・・・・・明治27年(1894)10月9日に甲武鉄道の牛込駅が現在の飯田橋駅よりも新宿寄りに開業した。 翌明治28年(1895)4月3日には、現飯田橋駅より東京寄りに飯田町駅が開業した。 そして、昭和3年(1928)11月15日、牛込と飯田町の両駅を統合して、現在地に飯田橋駅が誕生した。

・・・・・・・・・・・・現駅は、島式ホーム1面2線の高架駅で、駅舎は東西に出入口がある。 傾斜している地形上にあるため、目白通りに面する東口は高架下に出入口がある。

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・・・・・・・・・・・・早稲田通りの牛込橋に面する西口は、橋上駅舎となっている。、、、、、私が、昭和40年代から通勤で利用した駅だが、いよいよ建て替えられることになった。
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・・・・・・・・・・・・西口改札からホームまでは長い斜路が続く。
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・・・・・・・・・・・・ホームは半径300mの急カーブに造られており、ホームと電車の間には約30㎝程の広い隙間ができ、乗降の際には要注意。、、、、、ちなみに、高齢の私の母も数年前に電車から降りる際、転んだホームである。、、、、、JRはこの急カーブを解消するため、ホームを牛込橋(現:西口)の橋下よりもさらに市ヶ谷寄りの地点まで、約200m移動する予定だ。 完成時期は?
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・・・・・・・・・・・・現在は準備工事で、線路脇に西口の仮駅舎を建設中。、、、、、工事は、前田建設工業と鉄建建設のJV。
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②飯田橋・・・・・・・・飯田橋駅東口を出ると北側に、目白通りと外堀通りが交差しさらに大久保通りが伸びる「飯田橋交差点」がある。 その直前に、目白通りが外堀を渡る「飯田橋」が架かっている。、、、、飯田橋が初めて架けられたのは明治元年(1868)で、簡単な 木橋であった。 その後、明治23年(1890)には鋼製の橋に架け替えられた。、、、、現在の飯田橋は関東大震災の復興橋梁として昭和4年(1929)に架けられた。、、、、外堀は橋の際まで暗渠化され、交差点は拡張され、橋の上には歩道橋が造られ、橋の全容を見るのは難しい。、、、、、蛇足:飯田橋は神田川に架かってない。 神田川は飯田橋の直前で直角に折れている。 神田川に架かるのは外堀通りで橋名は「船河原橋」。
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③熊谷組・・・・・・・・・大久保通り、築土八幡町交差点角に建つ、ゼネコン:熊谷組の本社。、、、、、私が大学を出てゼネコンに入社した昭和44年(1969)頃の熊谷組本社は、いかにも土建屋らしい、石造りの塀に囲まれ、前庭の広い洋風住宅のような事務所であったように記憶している。、、、、、現本社の建物は、オリンピックも終わり、ゼネコンが近代化に向け取り組み始めた、昭和49年(1974)に竣工した。
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・・・・・・・・・・・・「熊谷組」と聞くと、映画『黒部の太陽』を思い出す。 三船敏郎、石原裕次郎が共演し、“世紀の難工事”と言われた黒部ダムとそこに通じるトンネル工事の苦闘を描いている。 昭和43年(1968)に公開された。、、、、、大学生時代に私が見た、“男の中の男”、男が惚れるカッコイイ男、熊谷組石岡班の班長を裕次郎が演じている。 建築科の学生だった私が、土木に憧れた瞬間。
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④築土八幡神社・・・・・・・・・熊谷組の斜向かい、新宿区筑土八幡町にあり、応神天皇、神功皇后、仲哀天皇を祭神とする八幡神社。 創建年代は不詳であるが、嵯峨天皇の代(今から約1200年前)武蔵国豊島郡牛込の里に住んでいた翁がご神託により松の樹を祀ったことにはじまるらしい。 その後、伝教大師が筑紫の宇佐の宮土をもとめて礎とし神像を彫刻して祠に祀ったことから筑土八幡と名づけられたそうだ。、、、、境内は約2200㎡の広さであるが、社殿は昭和20年(1945)の戦災で焼失した。 現本殿は昭和38年(1963)に熊谷組より寄進されたそうだ。
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・・・・・・・・・・・・社殿前に控える狛犬は、文化7年(1810)に奉納された。
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⑤相生坂・・・・・・・・築土八幡神社の北側:東五軒町は地盤が低くなっており、坂がいくつかある。 相生坂は、北から南に上り、東西2本の坂が並行している。、、、、同名の坂が至近の位置にある珍しい坂

・・・・・・・・・・・・東側の相生坂、、、、、東側の相生坂は 新宿区白銀町と東五軒町の境界にある。
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・・・・・・・・・・・・西側の相生坂、、、、、、、西側の相生坂は 新宿区赤城元町と東五軒町の境界にある。 東側の坂とは、50m程の距離で並行する。
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⑥赤城神社・・・・・・・・神社は正安2年(1300、=鎌倉時代)の創祀、群馬県赤城山麓大胡の豪族大胡氏が牛込に移住のさい、本国の鎮守であった赤城神社の分霊を祀ったもの。 最初は牛込早稲田村田島(現:早稲田鶴巻町)に鎮祭したが、弘治元年(1555、=戦国時代)に現在地に遷座した。 昭和20年4月の大空襲により、社殿などは一宇を残さず焼失した。、、、、、終戦後、昭和26年(1951)に本殿を復興し、最終的に拝殿、幣殿ができあがったのは、昭和34年(1959)であった。、、、、、さらに神社では、赤城神社再生プロジェクトを立ち上げ、平成22年(2010)の「本殿竣工例大祭」にて全ての工事を完了し、新しい姿となった。 境内の一部に分譲マンションを建て、その売却益で社殿を建設した。 このプロジェクトは新国立競技場を設計した建築家:隈研吾の設計による、杜と坂をイメージしたデザインと言われている。 施工は熊谷組である。
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・・・・・・・・・・・・境内社も新しく建てられた。 こちらも隈研吾のデザインか。
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・・・・・・・・・・・・狛犬も新しいデザイン、チョイとマンガチックだ!
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⑦赤城下町・・・・・・・・チョイと小高い位置にある赤城神社境内横の階段を下ると、新宿区赤城下町を東西に横切って、早稲田方面に伸びる道がある。 この道は、魚の骨のように、一本伸びており、そこから枝状に複数の道が分かれているが、ほとんどは行き止りである。 地図を見ると一目瞭然、面白い道だ!
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・・・・・・・・・・・・枝分かれした路地の奥にある「あかぎ児童遊園」。 コンクリート造の象が二匹重なったすべり台、おもしろいデザインで気に入った!
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⑧渡邊坂・・・・・・・・・山吹町交差点から 早稲田通りまで、比較的なだらかな坂道。 これと言った特徴もない、ごくありふれた坂。 なぜか、同姓だから、親しみを感じたようだ。、、、、、、江戸時代、坂の東側に旗本渡邊源蔵の屋敷があったのでこう呼ばれた。源蔵は五百石取りの御書院番で、寛文7年(1667)に市谷鷹匠町の屋敷と引換えにこの屋敷を拝領し、渡邊家は幕末までこの地にあった。
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2016年6月10日 (金)

木下街道 (鎌ヶ谷大仏~白井)

木下街道(きおろしかいどう)の散歩。 今日は新京成線鎌ヶ谷大仏駅から北総線白井駅まで、1万2千歩、9kmです。

 

①鎌ヶ谷大仏駅・・・・・・・・今日の散歩はここからスタート

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・・・・・・・・・・・・駅前の日本一小さい大仏を横目でチラリ

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・・・・・・・・・・・・駅前の木下街道、車で混んでるが、歩道には人の姿はない。

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②オヤ?こんなところに旅館が!・・・・・・・・鎌ヶ谷大仏駅近くだが、駅前とは言えず、さりとて遠くないが、街道から横道に入った処に、旅館があった。 都心なら、人目を忍ぶ逢瀬の旅館という感じだが、こちらは鎌ヶ谷の歴とした旅館である。 ホームページを拝見すると、昭和43年創業、家族・ビジネス・慶事などに利用されているようだ。、、、、、街道に面せず、派手な看板もなく、営業を続けられるのは、地元に愛されている旅館かも。
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③魚文の句碑・・・・・・・印西市木下と市川市行徳を結ぶ木下街道は、古くからの物資の輸送路であり、江戸から鹿島方面への参詣の道でもあった、鎌ケ谷宿にも松尾芭蕉、渡辺崋山など多くの文人墨客が往来していた。、、、、、鎌ヶ谷駅から北に400m程歩いた処に、松尾芭蕉の流れをくむ俳人:三級亭魚文(ぎょぶん)が、旅の途中で鎌ケ谷宿を通った時に詠んだ句碑がある。 句碑には、正面に「ひとつ家へ 人を吹き込む 枯野かな 魚文」と刻まれている。 そして、街道の道標を兼ね、両側面に「右 木をろし道」、「左 中木戸道」と標されている。
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④白井市富士・・・・・・・・・・・富士は白井市の大字。 昔、富士山を望むことができた地か?

・・・・・・・・・・・・鎌ヶ谷大仏駅から1.5km程来ると、鎌ヶ谷市から白井市に入る。、、、、、気のせいか、道路幅が広がったように感じる。
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・・・・・・・・・・・・富士地区の中程に、「富士アーケード商店街」があった。 50mぐらいのアーケードの下に、シャッターの下りた店舗を含め、両側合わせて15店舗程が並んでいる。、、、、、何年か前は、チンドン屋がチンドン太鼓とクラリネットで「野崎小唄」を奏で、人を集めたであろうと思われるような商店街。 いまは数店舗が細々と営業中。
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・・・・・・・・・・・・なぜ(?)ここに「富士」の地名、私にはシックリこないね! 静岡県を散歩しているようだ。
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⑤白井市根・・・・・・・・・「富士」の次は「根(ね)」、一文字の地名、こちらも大字。 こりゃ、また珍しい!、、、、地図を見ると、「根」の東隣に「復」という大字もある。 さらによく見ると、「木」、「中」の大字名もみつかった。 チョイと、マニアックな地名だ!
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・・・・・・・・・・・・農家の匂いが残る「根」。 いい根!
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・・・・・・・・・・・・天神社、、、、、神社の由緒は不明。 社殿は昭和5年(1930)に改築されたそうだ。 境内には、横たわる狛犬、歴代の将軍と村の有力者名を標した石碑などもある。
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・・・・・・・・・・・・競馬学校、、、、、神社の隣には、木下街道から入る横道があり、その入り口には「競馬学校」と書かれた看板が出ている。 横道を入ると、奥に、昭和58年(1983)に開校した、JRA日本中央競馬会の競馬学校正門があった。 校舎や馬場は正門の奥の奥にあるようだ。 立ち入り禁止につき、門の前で引き返す、残念!、、、、ちなみに、学校では騎手、厩務員を養成している。 全寮制、3年制で騎手は10名程/年、厩務員は25名程/年が学んでいる。
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⑥白井大橋・・・・・・・・北総線上に架かり、木下街道を通す。 昭和52年(1977)12月竣工。
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⑦白井駅・・・・・・・・白井駅(しろいえき)は、白井市復にある北総鉄道北総線の駅。 昭和54年(1979)3月9日に開業した、島式ホーム1面2線の地上駅で、橋上駅舎を有する。、、、、、昼間の時間帯、電車は3本/時間しかなく、約20分の待ち時間は、かなり長く感じるものだ。 もう少し、運転本数を増やしてほしいね。
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2016年6月 8日 (水)

木下街道 (馬込沢~鎌ヶ谷大仏)

市川市鬼越を起点とする木下街道(きおろしかいどう)の続きを歩いてきた。 今日は、東武野田線馬込沢駅から新京成線鎌ヶ谷大仏駅までです。 1万1千歩、8km。

 



①馬込沢駅
・・・・・・・・船橋駅まではここから3駅目で、都心までは約1時間。 通勤には問題ないベッドタウンである。 船橋へ向かう電車は混んでいる。

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②馬込天満宮・・・・・・木下街道と野田線が交差する踏切の脇に鎮座する天神さま。 天満宮は、江戸時代に、この辺りを開墾した一族の氏神様として祀られたのが始まりといわれている。 社殿は大正9年に改築された。、、、、、境内には、この付近にあったと思われる庚申塔が集められ、並んでいる。
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③馬込町付近・・・・・・・・船橋市と鎌ヶ谷市の市境の近くをとおる木下街道。 馬込沢駅の東側を街道が抜ける町が「船橋市馬込町」。、、、、この付近は、船橋市であるが、総武線沿線の都会的雰囲気はなく、ダンプが飛ばして通る田舎町である。 私は、「狭い歩道を よたよた親爺 怖いダンプが すり抜ける」
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・・・・・・・・・・・・街道の脇には、墓石を集めてコンクリートで積み上げた塔もある。 事故防止のおまじない?
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④道標地蔵・・・・・・・・・木下街道が鎌ヶ谷市に入ったところに「清長庵」という寺院がある。 清長庵は特定の宗派には所属していないようだ。 明治5年(1872)、明治政府は、国民皆学を目指して学制を発布し、その2年後の明治7年(1874)、この清長庵を仮校舎として鎌ヶ谷小学校が創立されたらしい。、、、、、清長庵の境内に市内最古(正徳5年(1715))の道標である「道標地蔵」がある。 その名のごとく、道標を兼ねたお地蔵さまで、正面の両脇に「ゐんざい見ち」(印西道)、「加志ま道奈里」(鹿島道なり)と標されている。 右側面には、「志゛ん本うみち」(神保道)、左側面には、「可ま加゛い道」(釜ケ谷道)と彫られている。
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・・・・・・・・・・・・境内には、この他に、庚申塔や戦没者の古い墓石などが、ズラリ並んでいる。
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⑤ナニ?コレ!・・・・・・・南鎌ヶ谷1丁目にあった看板?
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・・・・・・・・・・・・店の名前は「カワカミ理容室」。 「十九八」は“とこや”と読むのだろう。、、、、、物好きな私は、横道に入り、店を見てきた。 『なんだ、ただの床屋か!』
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⑥延命寺・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・鎌ヶ谷大仏駅周辺は鎌ヶ谷宿と呼ばれたそうだ。 今は、“知らずば素通りする”宿場の面影が薄れた街道。
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・・・・・・・・・・・・延命寺は木下街道沿いに、寛永年間(1624~1644:江戸時代)に市川中山法華経寺の末寺として建てられた日蓮宗の寺。 鎌ヶ谷大仏駅前の飛地墓地に鎌ヶ谷大仏が安置されています。
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⑦旧旅籠「丸屋」・・・・・・・・鎌ヶ谷宿には、明治初年には旅籠屋が4軒あった、その内、唯一現存するのが丸屋である。、、、、明治20年代に新築された丸屋であるが、火事で焼失したそうだ。 その後、明治30年頃、新たに建てられたのが、現存する建物である。、、、、当時は、表に上げ戸の入り口があり、客は正面から入った。 1階は賄場、風呂、自宅部分などがあり、2階には床の間付きの客室あったらしい。 しかし、鉄道開通すると旅人の通行がなくなり、宿はアパートに改装された。 戦時中は軍人の宿泊に使われたが、昭和32年にアパートに改装した。 平成に入り、アパートも閉じた。 文化財として、ぜひ、旅籠を復元して欲しいね!
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⑧鎌ヶ谷八幡神社・・・・・・・鎌ヶ谷駅の隣りに鎌ヶ谷八幡神社がある。、、、、誉田別尊(応神天皇)を祭神とし、寛永6年(1629)に創建された。 鳥居の奥には立派な本殿と拝殿があり、境内はよく掃除が行届き、駅の隣にあるとは思えない神社である。
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・・・・・・・・・・・・参道に沿って、天保年間(1840頃)の庚申塔が、ズラリ100基並んでいる。 壮観だ!
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・・・・・・・・・・・・社殿は、小粒であるが、安定感がある。
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・・・・・・・・・・・境内には、庚申道標がある。 正面に「青面金剛王」と書かれ、台座部分に、「東さくら道」、「西こがね道」と書かれ、庚申塔と道標を兼ねたものである。
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⑨鎌ヶ谷大仏・・・・・・・・鎌ヶ谷八幡神社の前に延命寺の墓地があり、そこに大仏は座り続けている。 安永5年(1776)に鋳造された、青銅製で高さ1.80m、台座含めて2.30mの大仏。 大仏は墓地の入り口近くにあり、檀家の個人が先祖の霊の冥福を祈るために作らせ、墓地の近くに祀ったらしい。 現在も、個人の所有・管理で祀られている。、、、、「大仏」と言う、中くらいの仏さま。
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鎌ケ谷大仏駅・・・・・・・・・昭和24年(1949)1月8日に開業した、新京成電鉄の駅。 島式ホーム1面2線の地上駅で、橋上駅舎を有する。
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2016年6月 6日 (月)

月島~辰巳

東京メトロ有楽町線月島駅から辰巳駅まで、1万3千歩、9kmの散歩です。


①佃水門・・・・・・・・月島駅の南東、中央区の佃・月島・勝どき・晴海の町の間を流れる朝潮運河が隅田川派川から分岐する地点に、昭和38年(1963)に設置された水門。 複葉ローラーゲート式で、幅は11.4m×2連の水門、昭和39年(1964)竣工。 下流側の朝潮水門とともに、周辺地域を高潮や津波の被害から守っている。、、、、、昭和34年の伊勢湾台風では、伊勢湾に干潮面上約5mの高潮が襲来したといわれている。 もし、当時の東京湾に伊勢湾台風が襲来したら、東京23区の約41%が冠水していたそうだ。 都では、昭和35年から、東京港全体を対象区域とした高潮・津波対策を実施している。 佃水門もその一環である。 50年前から取り組んでいる対策である、ご苦労さんです、感謝!

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②晴海橋梁・・・・・・・・中央区晴海と江東区豊洲の境に架かる東京都港湾局晴海線橋梁。、、、、、国鉄越中島支線の越中島駅から豊洲石炭埠頭まで、東京都港湾局専用線(深川線)があった。 その深川線から分岐し、晴海埠頭までは東京都港湾局専用線(晴海線)として建設され、晴海運河に架かる橋梁として昭和32年(1957)11月26日に晴海橋梁が完成した。 その後、貨物輸送の主体が鉄道からトラックに変わり、晴海線は平成元年(1989)2月10日に廃止となった。、、、、、線路が撤去される中、晴海橋梁は、当時の姿のままの鉄道遺構として残されているが、錆が浮き出て橋梁の老朽化がチョイと心配だね。
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③豊洲駅前・・・・・・・・ゆりかもめの豊洲駅前付近

・・・・・・・・・・・「東京臨海新交通臨海線」が正式名称の「ゆりかもめ」。 豊洲は終着駅。 軌道の末端部分が空中に突き出て、勝どき方面への延伸工事を待っている。
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・・・・・・・・・・・・豊洲付近の晴海通りは広く造られている。 豊洲新市場のオープンに伴う交通量の増加を見越しいるそうだ。 けして、オリンピックを見越したわけではない。
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・・・・・・・・・・・・東京メトロの豊洲駅は、地下鉄だから地下にある。
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・・・・・・・・・・・・若い人の多い町だ。 歩いてる人に、爺さん、婆さんがいない!
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④辰巳団地・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・江東区東雲(しののめ)と辰巳(たつみ)を結ぶ辰巳橋。  橋の手前:東雲地区は超高層マンションがズラリと並ぶ町。
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・・・・・・・・・・・・辰巳橋を渡り、東雲のショッピングセンターへ買い物に行くお年寄りとすれ違う。 人の流れが一方通行?
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・・・・・・・・・・・・橋を渡ると辰巳団地
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・・・・・・・・・・・・全90棟が建ち並ぶ、すごい規模にビックリ! 12階建て2棟以外は、全て5階建てでエレベータなしの団地は、お年寄りにはキツイ団地である。
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・・・・・・・・・・・・都の資料では、間取りは2DK・3DK、面積は33㎡~38㎡、竣工は昭和42年(1967)~昭和44年(1969)、総戸数:3176戸。、、、、、築50年以上経過し、建物の老朽化が激しい。 新築時に入居した人も、既に老朽化し、故障し、あの世に旅立った人もいる。
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・・・・・・・・・・・・1号棟と、89号棟。(現在の最大棟番号は90号棟。以前は104号棟(教職員住宅)もあったが壊された)
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・・・・・・・・・・・・シャッターの下りた店もある商店街。
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・・・・・・・・・・・・団地内は、お年寄りが目立つ。 人も、建物も、昭和40年代のまま老朽化したようだ。
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・・・・・・・・・・・・この団地でも、数年前から建て替えに着手した。 計画では既存住宅棟60棟の用地に14階建て程度の建物を12棟(約2950戸)建設する予定だ。 現在は着手した段階で、2027年度までの約15年間を5期に分けて建て替える、のんびりした計画である。、、、、、昭和の団地も、まだすぐ壊されず、再び訪れる機会もありそうだ。
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2016年6月 3日 (金)

南千住6丁目

かつて大毎オリオンズの本拠地:東京スタジアムがあった、南千住6丁目付近をブラブラ散歩した。


南千住駅 ・・・・・・JR常磐線、東京メトロ日比谷線、つくばエクスプレスの3線の駅である。 明治29年(1896)12月25日、日本鉄道の駅として開業し、その後、国有化され常磐線の駅となり、昭和62年(1987)には国鉄からJRの駅となる。 昭和36年(1961)3月28日には、営団地下鉄(東京メトロ)日比谷線の駅が開業。 平成17年(2005)8月24日、首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスの駅も開業する。

・・・・・・・・・・・・写真中央のJR出入口の右側につくばエクスプレスの出入口がある。 東京メトロの駅は、写真中央の裏側にある。

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・・・・・・・・・・・・3線の出入口

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②天王祭・・・・・・・・南千住6、日光街道に面して鎮座する盞雄神社(すさのおじんじゃ)では、昨日から、夏に流行する疫病を振り祓う天王祭が始まった。 2日は宵宮祭、3日は例大祭で六十一ヶ町総代と氏子崇敬者が参列し厳粛な祭儀が斎行される。 4日、5日は氏子町内を神輿がくり出していく。、、、ハイライトは5日、激しく神輿を振り合う、本社神輿の渡御。 一度は見てみたいね。
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・・・・・・・・・・・・祭りの提灯が軒下に下げられている。 フジの花が彩を添える。
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千住大橋・・・・・・・隅田川に架かる震災復興橋のひとつで、昭和2年(1927)に開通した現存する日本最古のブレースドリブ・タイドアーチ橋。 設計は白鬚橋などを手掛けた増田淳、施工は石川島造船所。 昭和48年(1973)、下流側に新橋が増設されたため、上下線は分離して使用されている。
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④熊野神社・・・・・・・千住大橋の際(南千住6)にある熊野神社は、源義家の勧請により、永承5年(1050)に創建された。 千住大橋を架けた奉行の伊奈備前守は、架橋に際し当社に成就を祈願し、文禄3年(1594)に完成した時、残りの材木で社殿修理を行なったことから、橋の架け替えに際しては祈願と社殿修理が慣例となったそうだ。、、、、、神社は個人住宅の敷地内にあり、中には入れず、遠くからパチリ!
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⑤橋本佐内の墓の旧套堂・・・・・・・・回向院(南千住5丁目)にあった橋本佐内の墓の套堂(さやどう)を、境内の整備に伴い南千住6丁目の南千住図書館前に復元・移築した。 関東大震災を機に鉄筋コンクリートで造った套堂であるが、平成18年(2006)に荒川区に寄贈され、平成21年(2009)に現在地に復元された。 当初の建造では、原田正が設計し、建築家伊東忠太(東京帝国大学教授)が監修し、正面の家紋は陶彫家沼田一雅(東京美術学校教授)の作。 当時の、第一人者が関わった套堂てある。
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⑥千住製絨所跡の煉瓦塀・・・・・・・・軍服用絨(毛織物)の国産化に向け、明治12年(1879)に創業を開始した官営の千住製絨所(せんじゅせいじゅうしょ)。 その跡地に残る煉瓦塀は、製絨所に当初から造られていたものではなく、明治末期から大正にかけ造られたそうだ。、、、、製絨所は3万2000坪強の広さを有し、昭和24年(1949)に大和毛織に払い下げられた。その後、敷地の一部は“東京スタジアム”と称し、大毎オリオンズ(現千葉ロッテ)の本拠地として10年程使用されたが、昭和52年(1977)には壊された。、、、、、製絨所跡地は荒川工高、荒川総合スポーツセンター、南千住警察署、大型スーパーなどに変わったが、煉瓦塀だけは一部が部分的に残されている。
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・・・・・・・・・・・・千住製絨所跡地に建つ、都立荒川工業高校、、、、、グランドも含め高校の敷地は、製絨所の6分の1ほどである。 製絨所の敷地の広さが想像できるね!
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⑦南千住6丁目界隈・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・行き止まりのような裏道、、、、、“裏道”好きの私は奥へ行く!
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・・・・・・・・・・・・昭和の下町、、、、、、どこの家も、仕事場と住宅を兼ねていたね。
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・・・・・・・・・・・・四代目が営業する「甲州屋」、、、、、看板の電話番号、市外局番は今だ3桁?
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・・・・・・・・・・・・スクラッチタイル張りのチョイと古そうな住宅
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・・・・・・・・・・・・こちらは2軒長屋
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・・・・・・・・・・・・商店街は昼からが勝負の商店街!
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・・・・・・・・・・・・梅雨を忘れた、連日の空模様
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2016年6月 2日 (木)

高砂~小岩

京成高砂駅から総武線小岩駅まで、1万歩、7kmの散歩です。

 

①京成高砂駅・・・・・・・・・大正元年(1912)11月3日に、曲金(まがりかね)駅として、立石(現:京成立石)駅と市川(現:江戸川)駅間に開業した。 その後、駅名は「曲金」から「高砂」となり、昭和6年(1931)に「京成高砂」と改称した。 現在は、京成本線、京成金町線、北総線の分岐駅で、電車の発着本数もかなり多い。

・・・・・・・・・・・・隣の青砥駅と高砂間は複々線で、1時間に最大36本の列車が運転される、高密度区間である。

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・・・・・・・・・・・・地上に島式ホーム2面4線を持ち京成本線、北総線で使用している。(金町線は高架上に専用の単式ホーム1面1線を有している。)

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・・・・・・・・・・・・金町線からの乗り換え客が改札を通って来る、来る!
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・・・・・・・・・・・・駅出入口は、信用金庫の奥、踏切の脇などに数カ所あるが、いずれも小さい。、、、、駅構内は手狭で大きなスペースが確保できないようだ。 さらに、「開かずの踏切」があるため利便性を考えて、踏切を渡らなくても駅に入れるようにしたようだ。
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②開かずの踏切・・・・・・・・高砂駅ホームの成田寄りのスグ横に、踏切遮断時間が40分以上にもなる「開かずの踏切」として有名な「高砂第1号踏切」がある。 高砂は京成本線、金町線、北総線の分かれる一大ジャンクションである。 さらに、踏切を挟みホーム(駅)の反対側には高砂検車区があるため、入出庫する電車も多い。、、、、葛飾区と江戸川区では、京成高砂駅から江戸川駅付近まで約3.4kmの区間にある13か所の踏切を解消すべく、連続立体交差化に取り組んでいるそうだ。 実現までは、まだ10年以上かかりそうだ?

 

・・・・・・・・・・・・ここが超有名な愛称:「開かずの踏切」、本名「高砂第1号踏切」。 踏切の頭上には金町線のホームがある。

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・・・・・・・・・・・・『チョイと、40分ほど、お待ちを!』 踏切は都道307号を“通す”のだが、その実態は“遮断する”のだ。

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・・・・・・・・・・・・こちらは、1号踏切のスグ隣にある「高砂第2号踏切
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・・・・・・・・・・・・踏切から、高砂駅側と高砂検車区側を望む
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都営高砂アパート・・・・・・・都営高砂団地は、昭和44年(1969)までに建設された、総戸数1263戸の大規模団地であった。、、、、、団地の南側は平成20年(2008)~平成23年(2011)にかけ建て替えられ、新たに総戸数1011戸の団地となっている。 北側も、順次建て替えられる予定。
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④宗念寺・・・・・・・・葛飾区細田4丁目、真宗大谷派の知光山宗念寺(そうねんじ)は、寛永5年(1628)に創建された。 数年前、本堂は改修された。
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⑤西小岩商和会・・・・・・・・江戸川区西小岩3丁目で、20数件の店舗で構成する商店街。 規模の小さな商店街だが、蔵前橋通りを挟んで、小岩駅前の商店街を延長したような位置にある。
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・・・・・・・・・・・・商店街の途中にある都営「西小岩三丁目アパート」、平成9年(1997)築
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・・・・・・・・・・・・西小岩商和会を直進し蔵前橋通りを渡ると、小岩駅へ出る「西小岩通り会」商店街に続く。、、、、約60店舗で構成する、古い商店街。
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・・・・・・・・・・・・最後は総武線小岩駅北口に出た!
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2016年6月 1日 (水)

西新橋

新橋駅の西側のチョイと古い建物を見ながらブラブラ歩いてきた。 1万2千歩、9km。



①新橋駅・・・・・・・・明治5年(1872)10月14日、“汽笛一声 新橋を”蒸気機関車がでていった。 この時の新橋駅(初代)は、元の汐留の地に復元されている。 現在の新橋駅は、明治42年(1909)、烏森駅(からすもりえき)として開業した。 大正3年(1914)には煉瓦造りの本屋が竣工し、同年12月20日の東京駅開業とともに、2代目の新橋駅と改称した。(初代新橋駅は汐留駅と称した)

・・・・・・・・・・・・東口、、、、、東口は「ゆりかもめ」に乗り換え、頻繁に東京ビックサイトに行ったこと思い出すね。

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・・・・・・・・・・・・烏森口、、、、、、忘年会・歓送迎会、何かと理由をつけて開く飲み会、思い出多い夜の出入口
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・・・・・・・・・・・・日比谷口、、、、、SL広場前の出入口。 朝は顧客訪問前の待ち合わせ、昼は出張前の格安チケットの購入、夜は飲み会前の待ち合わせ、何かとサラリーマンが頻繁に利用する出入口
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②新橋駅前のビル・・・・・・・駅の東西、二つの駅前ビル

・・・・・・・・・・・・東口前の「新橋駅前ビル1号館・2号館」、、、、、、1号館と2号館の2棟からなる新橋駅前ビル。 戦後の闇市が並ぶ駅前を、東京都が主体となり建てたビルで、駅前再開発の走りである。 昭和41年(1966)竣工、設計:佐藤武夫設計事務所、施工:戸田建設。、、、、、地上9階建てのビルは、地下は呑み屋がズラリ、1階・2階は飲食・雑貨・診療所などが並ぶ、私がサラリーマンの頃は屋上がビアガーデンでどこぞの国のダンサーが踊っていた。 フラダンス? ベリーダンス? どうでもイイダンス。
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・・・・・・・・・・・・西側には「ニユー新橋ビル」、、、、、、こちらのビルは、戦後最大規模の闇市があったエリアの再開発事業として建設された。 低層階の商業フロアには食堂、居酒屋や雀荘、パチンコ、マッサージ店まで非常に多くのテナントが入居して、サラリーマンにはネクタイ、Yシャツも買える、格安チケットもある、レンタルビデオもある、便利なビルであった(過去形)。、、、、、昭和46年(1971)竣工、11階建て、延床面積:58,675.34㎡、松田平田坂本設計事務所の設計、竹中工務店の施工。、、、、、SL広場、ニュー新橋ビル、隣の桜田公園などを含む約3万㎡の再開発が計画されており、只今準備中のようだ。、、、なお、SL広場のC11 292」蒸気機関車は残す方向で計画されているようです。ご安心を!
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③烏森神社・・・・・・・・・・主祭神として倉稲魂命:天鈿女命:瓊々杵尊を祀る烏森神社は、天慶3年(940年)に創建された。、、、、現社殿は昭和46年(1971)に建立したが、築40年以上経過したいまでも、斬新な姿で都心の中にある。 このデザインが、不思議と夜景に合っているのだ。
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④堀商店・・・・・・・・明治23年(1890年)に創業し今年(2016年)で126年目という、老舗の錠前屋さん。、、、、、鉄筋コンクリート造4階建ての建物は昭和7年(1932)に建てられた。 設計は公保敏夫、施工は安藤組(現:安藤ハザマ)。 スクラッチタイル張りの重厚なビルは、国登録の有形文化財。
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⑤内幸町橋高架橋・・・・・・・新橋1丁目の第一ホテル東京前から千代田区内幸町

1丁目の新幸橋交差点まで続く、明治43年(1910)に完成した煉瓦造の高架橋。 高架橋は、竣工時に電車線と東海道本線の4線分であったが、現在は山手線・京浜東北線の4線で使用している。、、、、大きなアーチが特徴的である。 このアーチの基礎が深いため、店舗の床レベルは半地下として下がっている。

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・・・・・・・・・・・・高架橋の南端には幸橋架道橋が架かる。、、、、高架橋部分と同じく4線分ある、明治43年(1910)に竣工した。 しかし、両外側の2線分は、昭和31年(1956)に架け替えられたため、橋脚を見ると、チョイとデザインが異なっている。

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⑥崩壊寸前の丸万六号館・・・・・・・・・西新橋1丁目、裏通りに丸万六号館という3階建てのビルがある。 2階から上にはネットが張られ、外壁は大きな亀裂が入り、どう見ても危険な状態である。 1階玄関部分を見ると、ドアも施錠されておらず使用されているようだ。 何事も無いことを祈る!
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⑦西新橋2森ビル・・・・・・・六本木ヒルズ、表参道ヒルズを手掛ける、大手デベロッパーの「森ビル」。 虎ノ門・新橋界隈には森ビルがいっぱい。 『そう、その森ビルの第2森ビルです』、、、、、、森ビル発祥の森家は、芝の田村町(現:港区西新橋)で米穀店を営み、副業として借家の経営も行っていた。 森家は昭和30年(1955)に森不動産(現:森ビルの前身)を設立し、翌年(1956)4月に「西新橋2森ビル」を竣工した。 「西新橋1森ビル」(現存せず)は、翌年の昭和32年(1957)11月に完成した。 これ以降、不動産オーナーとして、ビルの竣工順にナンバリングしたそうだ。、、、、つまりは、西新橋2森ビルこそ、デベロッパー「森ビル」が建てた最古の貸ビルである。 現在は空き家となっているが、ここに森ビルの記念館でも整備したらどうだろう。
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⑧大坂屋砂場・・・・・・・虎ノ門1丁目に、堂々たる風格で店を構える蕎麦屋:大坂屋砂場。 “砂場”の由来は、大坂城築城に際しての資材置き場のひとつ「砂場」にて店を開いたことに始まる。 大阪が発祥のはずだが江戸に進出して江戸で発展していった。 砂場のうち、巴町砂場と南千住砂場が現存している。 ここ大坂屋砂場は明治5年(1872)に現在地で店を構えた。 昔の家屋を残した砂場としてはここが一番古い。
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日本基督教団芝教会・・・・・・・都会のビルに埋もれた教会、昭和11年(1936)に竣工した当時は、周囲に高いビルはなく虎ノ門駅の辺りからも見えたそうだ。 正面のステンドグラスが特徴的なシンプルな感じの教会。、、、、教会の左右と後ろには、西松建設の本社があったが、どうやらこの地域の再開発が始まったようだ。 20年前までは、西松建設に度々訪問したことがあるが、当時の私は仕事に夢中で、仕事以外のものを見る余裕もなく、教会をじっくり眺めたことはなかった。
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⑩金刀比羅宮・・・・・・・・虎ノ門の文科省近くに、金刀比羅宮はある。 讃岐丸亀藩主の京極高和が自領である讃岐の金刀比羅大神を、万治3年(1660)に三田の江戸藩邸に勧請、その後延宝7年(1679)に現在地の虎ノ門へ遷座した。、、、、、、社殿は権現造りで、第二次世界大戦により焼失したが、拝殿、幣殿の部分は昭和26年(1951)に再建された。ともに総尾州檜造り、銅板葺きである。日本最初の建築史家伊東忠太の設計校閲による建物で、我が国古来の建築技法が随所に用いられている。 なお、幣殿奥の本殿は、昭和58年(1983)に鉄筋コンクリート造にて復興された。
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・・・・・・・・・・・・銅の鳥居は、京極家江戸屋敷にあったもので、文政4年(1821)に造られた。
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