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2016年6月20日 (月)

飯田橋~曙橋

JR飯田橋駅から、神楽坂、牛込柳町をとおり、都営新宿線の曙橋駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。


①神楽坂・・・・・・・・朝の忙しない時間帯、店舗はあいておらず、客もおらず、チョイとつまらない神楽坂!

・・・・・・・・・・・・神楽坂下交差点(外堀通り)、勤務先へ、学校へ向かう人が速足で通る。

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・・・・・・・・・・・・メインストリートの坂道には、まだ客の姿はない。

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・・・・・・・・・・・・チョイと横道に入ると、伏見火防稲荷神社がある。 玉垣には、芸妓組合、料亭の名が彫られ、華やかなりし頃が偲ばれる。
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・・・・・・・・・・・稲荷神社の並びに、見番「東京神楽坂組合」の建物がある。 現在は、4軒の料亭と22名の芸妓により構成されてらしい。、、、、、建物は、あの宰相:田中角栄が建てたそうだ。、、、、まだ、稽古の時間には早く、三味線の音も聞こえない。
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・・・・・・・・・・・・路地を抜けて善國寺に向かう。
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②善國寺・・・・・・・・神楽坂の中程に腰を据え、毘沙門天を祀る善國寺。 善國寺は、桃山時代末の文禄4年(1595)に麹町(千代田区)にて創建された。 寛政4年(1792)の類焼に際しては、火除地として召しあげられ、替地として現在地を拝領し、翌年移転した。 毘沙門天の信仰は江戸時代末期には、ますます盛んになり、江戸の三毘沙門の随一として『神楽坂毘沙門』の威光は大きなものとなった。 当初は、ほとんど武家屋敷だけであった神楽坂界隈も、善國寺の移転に伴い、周辺には除々に民家も増え、明治初期に花街も形成され、華やかな街になっていった。、、、、、明治・大正期には、泉鏡花、尾崎紅葉、北原白秋など多くの文人・墨客達がこの辺りを闊歩し、大いに賑わった。 しかし、昭和20年(1945)の東京大空襲で被災し、堂宇は灰燼に帰した。 昭和46年(1971)に、現在の威容を誇る本堂・毘沙門堂が完成した。、、、、、朱塗りの堂が花街に似合う寺だ。
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・・・・・・・・・・・・堂の前に安山岩に彫られた虎の石像がある。 毘沙門天信仰から「虎」にちなみ、嘉永元年(1848)に奉納された。 堂に向かって、右側(阿形の像)の台石正面に“不”の字に似た刻印があり、これが、明治初年のイギリス式測量で使用されたの几号水準である。
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③横寺町の裏道・・・・・・・都営大江戸線の牛込神楽坂駅の北側に横寺町がある。 この町の裏道を歩いてみた。

・・・・・・・・・・・・町の東側に、創建年代不詳の曹洞宗の龍門寺がある。、、、、、門の横で、身代わり地蔵尊が門衛さんの身代わりをしている小さな寺院。
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・・・・・・・・・・・・龍門寺の斜め前の裏道を入っていく。 なにやら、工房風の住宅を過ぎ、オヤ!行き止りか?
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・・・・・・・・・・・・裏道は鉤の手に曲がり、車は無理だ!
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・・・・・・・・・・・・出た処は矢来町である。
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④新潮社・・・・・・・・大手出版社の一社。 私にはとっては、“週刊新潮の新潮社”。、、、、牛込中央通りを挟み、向かい合わせに、「本館」と「別館」が建っている。

・・・・・・・・・・・・本館は昭和41年(1966)8月に竣工した。
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・・・・・・・・・・・・別館は昭和49年(1974)6月に竣工した。
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・・・・・・・・・・・・玄関前には、週刊新潮でおなじみであった谷内六郎の原画による、ガラスモザイクの壁画がある。、、、、 姉弟が水飲み場に止まっている虫を遠くから見つめる画で、題名は「なかなかどかない」。、、、谷内六郎は、週刊新潮の創刊時から26年の間に1,300枚もの原画を描いてきたそうだ。 昭和の時代の抒情詩である。
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⑤矢来能楽堂・・・・・・・・新潮社別館の裏(矢来町60)に、国登録の有形文化財の矢来能楽堂がある。 昭和27年(1952)9月17日に再建された観世九皐会所有の、木造モルタル造りの建物。、、、、内部には入れず、案内の写真で我慢して!
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⑥矢来公園・・・・・・・・能楽堂から西に100m程行くと、矢来公園がある。、、、、、特に変わった公園ではなく、極、普通の公園である。、、、、、しかし、この公園は、若狭国小浜藩主の酒井忠勝が、寛永5年(1628)徳川家光からこの地を拝領して下屋敷とした場所である。 屋敷の周囲に竹矢来をめぐらせたことから、矢来町の名が付けられた、地名の出どこでもある。 さらに、蘭学者:杉田玄白はこの屋敷内で生まれた。
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⑦矢来町の裏道・・・・・・・・知る人ぞ知る、知らない人は知る必要のない裏道があった。

・・・・・・・・・・・・矢来町の西の端の裏道、、、、写真中央を奥へ進む!
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・・・・・・・・・・・・アリャ!行き止り?、、、、チョイと右側を見ると「駐車禁止 ここは私有地です」と表示されている。 何だか住宅の駐車場のようだ???
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・・・・・・・・・・・・すると、親子連れが帰ってきたのか駐車場の中へ、、、、、家に入らず、前を左折して消えた!、、、、、ナンダ???
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・・・・・・・・・・・・私も、恐る恐る進んで行ったら、急に視界は開け、細い階段が現れた、、、、階段の下は墓地の裏
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・・・・・・・・・・・・墓地をぐるり一周するように、車が侵入する余地のない細い裏道が続く、、、、、道は折れ、また折れて、またまた折れて、、、、何じゃ、この道は???
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・・・・・・・・・・・・やっと出てきた、新宿区榎町の宗柏寺横に出た。、、、、この寺の墓地を、ぐるりと回ったのだ!、、、、、日蓮宗寺院の宗柏寺は、下総国中山法華経寺36世を勤めた大僧都興正院日意(元禄2年(1689)寂)が開山となり寛永8年(1631)当地に創建された。
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⑧外苑東通り・・・・・・・早稲田通り弁天町交差点から曙橋の手前まで、外苑東通りは、只今、幅員18mから25mに拡張工事中である。、、、、、私は、この道を歩き、曙橋から帰宅。
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