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・・・・・・・・・・・・現在、使われていない臨時ホーム。 昭和39年(1964)に造られたホームは、屋根もなくボロボロ。 このホームが新宿方面行きの専用ホームに改良される。、、、、、、ホームの後ろには並行して首都高4号線が走っている。
・・・・・・・・・・・・かつて、臨時ホームに出る、2カ所の階段。、、、、もちろん!改良し、新しくなる階段にはエスカレータも併設される。
・・・・・・・・・・・・現在の島式ホームは、御茶ノ水方面行き専用ホームとして残る。
・・・・・・・・・・・・ホーム中央の水飲み場は、近くの日本将棋連盟本部に因み、王将の駒がデザインされている。、、、、、余談だが、「餃子の王将」の本社は京都、千駄ヶ谷駅とは無関係。
・・・・・・・・・・・・次の写真は、信濃町駅から千駄ヶ谷駅に向かう電車の先頭車両から撮った。 写真左(神宮外苑側)に待避線のようなものが見える。 明治27年(1894)、この付近から神宮外苑(かつて青山練兵場という軍事施設)方向にカーブして、新宿と青山軍用停車場を結ぶ甲武鉄道の線路が敷かれた。 大正になり、線路は廃止されたそうだ。、、、、、私が生まれる以前の、チョイと昔の話です。
② 国立競技場・・・・・・・・・国立競技場の跡地であり、国立競技場の建設地を見てきた。 綺麗に取り壊したね!、、、、、現在、計画している新国立競技場は、大成建設・梓設計・隈研吾建築都市設計事務所 共同企業体の案で、総工費1,490億円、本年末着工、2019年11月竣工、6万人以上を収容する予定。、、、、、、いろいろあったが、こうなりゃ早く完成した競技場を見てみたいね!
③ 鳩森八幡神社・・・・・・・・・・・貞観2年(860、=平安時代初期)の創建、1000年以上の歴史を有する古社。 大昔、この地の林の中にはめでたいことが起こる前兆の瑞雲がたびたび現れていた。 ある日、空より白雲が降りてきたので不思議に思った村人が林の中に入っていくと、突然白鳩が数多、西に向かって飛び去った。 この霊なる出来事から、神様が宿る小さな祠を営み「鳩森」と名付けたそうだ。、、、、、社殿は平成5年(1993)に建て替えられた。、、、、、、只今、社殿正面参道の整備工事中につき、正面から参拝・撮影できず、チョイと残念!
・・・・・・・・・・・・境内の富士塚は寛政元年(1789)築造。 山はかなり高く、足元は石がゴツゴツし、私も貴重な富士登山を体験した。 山頂から御来光を拝めず、残念!
・・・・・・・・・・・・境内にある将棋堂は、神社前にある日本将棋連盟から、昭和61年(1986)に奉納された大駒を納めた六角堂。
・・・・・・・・・・・・将棋堂を紹介したついでに、こちらは神社前に建つ「日本将棋連盟」本部。、、、、、おや!女流棋士かと思いきや顔も見られず、残念! 最近は美人棋士も多く、テレビ対局も楽しく観戦でき、大いに結構。
・・・・・・・・・・・・鳩森八幡神社境内の外側に回ると、朱色の派手な祠に、享保8年(1723、江戸中期)に建立された青面金剛神像庚申塔が祀られている。 祠の中には草鞋がいっぱい掛けられて、コリャなんだ? この祠は平成17年(2005)につくられ、美脚の神様として知られているそうだ。 本当かいな? 美脚フェッチの私は、じっくり手を合わせてきた。、、、、、ちなみに、草鞋はご近所で一足二千円で売っているそうだ。
④ 千駄ヶ谷2丁目・3丁目・・・・・・・・ファッション・アパレルの企業のオフィスが集まった小洒落た町。 定年退職した私でも聞いたことのある社名の企業もあったが、99%は私の知らない横文字、カタカナの企業名ばかりだ。 建物はプチ・モダンな低層ビルが多く、半分はマンションの中にある。 ヒゲ面で、ヨレヨレシャツの男性と、ダブダブのシャツを着た女性が、忙しそうに働き、暇そうにタバコをふかし、チョイとカッコをつけた町である。
⑤ 宮廷ホーム・・・・・・・・・・原宿駅の北側に150m程行くと、皇室専用の宮廷ホーム(原宿駅側部乗降場)がある。 このホームは天皇陛下専用の「お召し列車」が発着する乗降場である。 大正14年(1925)、病弱な大正天皇のため、人目につかず乗降できるよう設置された。 昭和天皇は御用邸への移動、地方訪問などで頻繁に利用されたが、今上天皇は新幹線の利用が多く使用頻度は低い。 、、、、、、一生に一度でいいから、ここからお召し列車に乗って草津温泉でも行ってみたいね!
・・・・・・・・・・・・普段、門は閉じられ内部へ入ることはできない。
・・・・・・・・・・・・門の中は、大きな屋根の車寄せか?、、、、、最近利用していないからか、雑草が伸びてるね。
・・・・・・・・・・・・原宿駅ホームから眺める宮廷ホーム
⑥ 原宿駅・・・・・・・・・原宿駅の開業は明治39年(1906)、初代の駅舎は大正12年(1923)の震災で取り壊された。 現駅舎は大正13年(1924)に建てられた二代目の駅舎で、東京最古の現存する駅舎。 鉄道省技師の長谷川馨の設計による、尖塔付きの屋根に白い外壁という、イギリス調のデザインの木造駅舎。、、、、、ウシャ~~、駅周辺は若い娘がイッパイ。
・・・・・・・・・・・・原宿駅にもある臨時ホーム、、、、、こちらは、正月の明治神宮初詣客向けのもので、昭和15年(1940)から使用されている。 山手線外回り電車の初詣客を明治神宮側から乗降させるための専用ホームとなる。 この間、普段使用している島式ホームはう内回り電車の専用ホームとなる。
・・・・・・・・・・・・JR東日本によると、2020年の東京オリンピックに向けて、千駄ヶ谷駅と同様に、臨時ホームを有効利用する駅改良工事に着手する。 臨時ホームを新宿・池袋方面行きの外回り専用ホームとして常設化し、現在の島式ホームは渋谷方面行きの内回り専用ホームとなる。 また、駅舎についても渋谷寄りに新駅舎を建設することとなった。、、、、、、現在の木造駅舎はシンボルとして残して欲しいね
・・・・・・・・・・・・【余談】嵯峨天皇が「子子子子子子子子子子子子」を、何と読むか小野篁に問うたクイズ。、、、、篁の答えは、「ねこのここねこ、ししのここじし(猫の子子猫、獅子の子子獅子)」と読む。、、、、解説:「子」という漢字には、「ね」(訓読み、十二支から)、「こ」(訓読み)、「し」(音読み、呉音及び漢音)、「じ」(「し」の変化形)の4通りの読み方がある。 よって、答えのような読み方が可能となるそうだ。 頭いいね!
・・・・・・・・・・・・表通りから参道に入るビルの角に神社の標柱、、、、、昭和3年に建てられたもの。 社名は、陸軍大将:明治神宮宮司:学習院院長であった一戸兵衛の筆。
② 鈴木食品工業・・・・・・・・根岸3丁目で、一見、ビルに見える木造モルタル塗りの看板建築。 昭和初期頃の建築か?、、、、、、店は、安政年間(1854~1859)創業の、食品販売の老舗企業。 現在はドレッシング、ソース等を製造販売している。
③ 根岸の路地・・・・・・・・根岸4丁目の路地をチョイと拝見! 敷石を踏んで、私好みの路地を行く! 忘れ去られたゴミ箱も、ワンポイントになる路地。
④ 御行の松不動尊・・・・・・・・・根岸4丁目の不動尊の境内に「御行(おぎょう)の松」がある。 「御行の松」とは、江戸時代に松の木の下で、寛永寺門主が行法を行ったことに由来している。 松は江戸時代の錦絵にも描かれる有名な松で、大正時代には、高さ13.63m、幹の周囲4.09m、推定樹齢350年の大木であった。 残念ながら、昭和初期に枯れてしまい、現在は3代目の小さな松が植えられている。、、、、、その松が植えられていた不動尊で、「御行の松不動尊」と呼ばれ、根岸の人々に親しまれた。 玉垣には、「根岸」の花街時代の料亭・置屋・待合・芸子の名が見られる。
・・・・・・・・・・・・明治の頃の「御行の松」
⑤ 為廣商店・・・・・・・・根岸から荒川区東日暮里3丁目に入ると、店先で商売を営む木造住宅があった。 手入れがよいのか、しっかりした建物で、昭和に戻った気分でチョイと眺めさせてもらった。
⑥ 日暮里金美館跡・・・・・・・・日暮里駅からは遠く、三河島駅からも近くない、東日暮里3丁目、小竹橋通りから入った裏通りに「日暮里金美館」の名を発見!、、、、、「金美館」は知る人ぞ知る映画館チェーンである。 大正11年金杉(現:東日暮里)に美須鐄(栃木県烏山出身、1887~1972)が個人商店として会社を創業し、以後、千住の映画館を買収したことに始まり、戦後までの間に、日暮里、川崎、蒲田を中心に映画館を40館近く展開した。 戦後、多くの館は閉鎖され、現在は、川崎駅前にあるシネマコンプレックス「チネチッタ」として、創業者の孫が経営している。 都内に「金美館」の名を冠した映画館は、平成3年(1991)までここにあった「日暮里金美館」で終焉した。 映画館跡はスーパーとなっていた。 ちなみに、このスーパーの前の通りは「金美館通り」と呼んでいたらしい。 (注:入谷にあった、入谷金美館の前の通りも「金美館通り」と呼ばれ、「金美館通り商店街」が現存している。)、、、、、テレビのない戦後の時代、映画館は各地に在り、浅草橋の我が家の周辺でも4館あった。 プロレス中継が始まったころは時代劇映画からヤクザ映画に変わり、駅前シリーズ、植木等、赤木圭一郎、吉永小百合と変わり、最後はロマンポルノで閉館した。
⑦ 東日暮里のコリアタウン・・・・・・・東日暮里には、韓国系か北朝鮮系か、私にはよく判らないが、ハングルの文字、一字の姓など、コリア系と思われるものが多い。 つまりは、コリア・タウンである。
・・・・・・・・・・・・こちらも、仏教の寺。 居酒屋風で建物の周りには提灯が下がってる! 提灯にはハングル文字とお釈迦様のイラストがある。、、、、これはこれは、コリアの盆提灯か?
・・・・・・・・・・・・数年前に建て替えた、東京朝鮮第一初中級学校。
・・・・・・・・・・・・2つの言語で書かれた貼紙。
・・・・・・・・・・・・こちらの通りの両側には、一文字姓の住宅がズラリと並んでいた。
⑧ 三河島駅 ・・・・・・・・尾竹橋通りに面して、ガード下に出入口がある三河島駅。 三河島駅は日本鉄道(現:常磐線)の駅として明治38年(1905)に開業したが、乗降客も少なく地味だ。
② 東京若葉キリスト教会・・・・・・・・迎賓館前の若葉1丁目、東京若葉キリスト教会は明治34年(1901)、アメリカから来日した宣教師が布教活動を行った教会で、会堂は昭和23年(1948)、建築家ウィリアム・ヴォーリズ事務所により設計された。 木造2階建。、、、、数年前に改修工事が行われ綺麗になった。
③ R邸・・・・・・・・・・・若葉の住宅。 中華風建物をイメージさせる、反りのある屋根、窓の格子のデザインなど、、、、、昭和初期の建物か?
④ 西念寺・・・・・・・・・・若葉2丁目、浄土宗西念寺は、専称山安養院と号し、文禄2年(1593)麹町清水谷に、服部半蔵正成によって開山した。 服部半蔵は徳川家康の重臣で、槍の名人、忍びの達人であった。(忍者ハットリ君の祖先かも?) 寛永11年(1634)に現在地へ移転した。、、、、、、昭和20年(1945)戦災にて被災し、昭和36年(1961)本堂を再建した。 葵の御紋を配した門扉が迎えてくれる寺。
・・・・・・・・・・・・境内には家康の家臣、「鬼の半蔵」といわれた服部半蔵の墓がある。、、、、半蔵の法名は「専称院殿易安誉西念大禅定門」で、寺の山号寺号はこの法名からとられた。
⑤ 観音坂・・・・・・・・西念寺裏に位置し、南西に向けて下る、約85mの急坂。 案内標識には、『西念寺と真成院の間を南に下る坂。 坂名は真成院の潮踏観音に因む。 別名は西念寺坂・潮踏坂・潮干坂。 潮踏観音は,江戸時代以前に四谷周辺が潮踏の里と呼ばれたことに因む。 潮の干満につれ台石が湿ったり乾いたりするので 汐干観音とも呼ばれた。』と標されている。
・・・・・・・・・・・・坂上には西念寺、坂下には真成院、坂の途中には蓮乗院、信壽院と寺が並ぶ。
・・・・・・・・・・・・坂を下ると谷底に下りたことになる
⑥ 戒行寺坂・・・・・・・・・観音坂の反対側、今度は須賀町に向かい、かなり急な上り坂。 長さ120m程、平均斜度6度。 ここでも案内標識には、『須賀町 戒行寺(かいぎょうじ)の南脇を東に下る坂である。坂名はこの戒行寺に因むものである。 別名,油揚坂ともいわれる。これは,昔この坂の途中に豆腐屋があり良質の油揚をつくっていたため こうよばれたという』と標されている。、、、、、こちらも、坂の中程には、一燈寺、宗福寺、戒行寺、坂上には西應寺、勝興寺と左右に並ぶ。、、、、暇人の散歩なので、各お寺に立ち寄り手を合わせてきたが、『雅万歩』では私の好みで紹介する。
⑦ 戒行寺・・・・・・・・・・須賀町の日蓮宗寺院、戒行寺は文禄4年(1595)麹町に戒行庵として創建された。 江戸期には身延山末頭5ヶ寺の一つとして繁栄、塔頭数ヶ院を擁していた。、、、、、、どこの寺も戦災で被災したらしく、こちらも比較的新しい本堂である。
・・・・・・・・・・・・境内には、戒行寺に葬られた「鬼平犯科帳」の主人公長谷川平蔵の供養塔がある。、、、、、小説にあやかり、参拝客を増やすため、建てたようだ! 独断と偏見の考察。
⑧ 永心寺・・・・・・・・戒行寺坂を上がり、道なりに直進すると、須賀町に曹洞宗の蟠龍山永心寺がある。 慶長9年(1604)麹町清水谷に起立したが、周辺の寺々と同じく寛永11年(1634)に現在地に移った。、、、、、こちらの本堂は戦災に遭わなかったのか、築300年の本堂が風格をおびて残されている。、、、、今日は施餓鬼で、檀家の人を迎える準備がなされていた。
⑨ 須賀神社・・・・・・・・江戸時代初期から四谷の地(新宿区須賀町)に鎮座する総鎮守。 この須賀神社も、もとは今の赤坂、一ツ木村の鎮守で、清水谷に有った。 のちの寛永11年(1634)に外堀普請のため、現在地を替地として拝領し移転した。、、、、、戦災前の社殿は、15年の歳月をついやして文政11年(1828)に竣工したが、昭和20年(1945)5月の東京大空襲で、本殿並びに内陣と境内摂社を残した外一切の建物を失った。 現社殿は、昭和63年(1988)秋に着工、平成元年(1989)に完成した。 都内では数少ない金色燦然と輝き、荘厳華麗を極めた建築物である。
・・・・・・・・・・・・社殿内部には天保7年(1836)に完成した“三十六歌仙”の絵が、一人一枚に描かれ飾られている。
・・・・・・・・・・・・境内から眺める新宿区若葉1・2丁目。 手前下に見える屋根は妙行寺、中央奥に見える屋根は真英寺。
⑩ 本性寺・・・・・・・・・永心寺の門前を西に向かい、外苑東通りに出る直前(須賀町)に、日蓮宗の本性寺がある。 本性寺は、本性庵として創建され、寛文10年(1670)に平等山本性寺と改号した。 境内には、江戸城本丸から移されたという北向毘沙門天堂が安置されています。
⑪ 陽運寺/四谷於岩稲荷田宮神社 ・・・・・・・・・四谷怪談にまつわる寺社
・・・・・・・・・・・・陽運寺、、、、、、、新宿区左門町に日蓮宗の陽運寺がある。 四谷怪談の主人公「お岩さん」を、「御岩稲荷」として祀った寺。 寺では、お岩さんを、家庭を大事にした貞淑な妻として祀り、「えんむすびの寺」としてPRしている。
・・・・・・・・・・・・四谷於岩稲荷田宮神社、、、、、、、陽運寺の向かい側に四谷於岩稲荷田宮神社がある。 田宮神社は、江戸幕府の御家人田宮家の屋敷社であった。 “四谷怪談”の主人公田宮伊左衛門の妻:於岩を合祀し於岩稲荷田宮神社と称している。、、、、、両稲荷は「本家」と「元祖」の関係か?
●・・・・・・・・・・・・今日の散歩は寺社巡りとなったが、私が立ち寄った寺社の4倍ぐらいはこの地域に在りそうだ。 まだまだ散歩する処は残っているね!
② 本田屋 ・・・・・・・・・・本田屋(ほんでんや)は青砥駅前の酒屋。 青砥駅に下車すると、この建物が壊されず残っていることを願い、確認したくなる不思議な建物。、、、、いつまでも、残して欲しい建物だ!
③ 福森稲荷神社・・・・・・・・・葛飾区青戸1丁目、中川堤防近くにある神社。 福森稲荷神社は、旧福森村の鎮守で、寛政8年(1796)の創建。 社殿は昭和12年(1937)の改築である。 石製の明神鳥居は文政2年(1819)に造られた。
・・・・・・・・・・・・稲荷神社の前から眺める中川。 左から右奥に大きく蛇行し流れ下る。
④ 宝泉寺・・・・・・・・青戸1丁目の真言宗豊山派の宝泉寺は、慶長17年(1612)に創建。 小さな本堂の寺であるが、江戸時代には肥前国平戸藩主松浦家の隠居寺となっていたそうだ。
⑤ 熊野神社・・・・・・・・立石8丁目、奥戸橋を渡る手前に熊野神社がある。 平安時代中期の長保年間(999~1003)に、陰陽師阿部晴明により勧請されたと伝えられ、立石村の鎮守社だった。
・・・・・・・・・・・・安倍晴明は平安時代の最も有名な陰陽師の1人で、鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏の祖と言われている。 神社の神紋は、中央に八咫烏(ヤタガラス)を配し、周囲を陰陽五行説に因み五角形で囲んでる。
・・・・・・・・・・・・驚くのは、神社の境内である。 境内は、一辺が三十間(54.57m)の五角形にかたどられている。 Googleで上空から見ると、真に五角形。
・・・・・・・・・・・・平成21年(2009)の新聞記事によると、熊野神社の宮司さんは神田明神の宮司で、菅原道真の末裔である。 同年9月、宮司は神職となって50年の記念に、京都で銅製の五重塔(陰陽五行説に因み“五”)を購入した。、、、、その五重塔は、元三井家江戸屋敷に建てられていたものである。 五重塔は、台座を含み高さ7m程であり、神社では銅製五重塔では高さ日本一と称している。
・・・・・・・・・・・・チョイと話はそれるが、、、、、神社の辺りは、「本田(ほんでん)ウリ」の産地であったらしい、境内に表示されていた。 本田ウリは熟すと銀白色になり、真桑瓜の金マクワに対して銀マクワと呼ばれていたそうだ。、、、、、江戸時代の早口言葉、『瓜売りが 瓜売りにきて 瓜売り残し 売り売り帰る 瓜売りの声』、、、、悪乗りして、もう一つ、『そうだ村の村長さんが 曹達食って死んだそうだ 葬式まんじゅう でっかいそうだ』、、、、、懐かしい早口言葉だね!
⑥ 南蔵院・・・・・・・・・熊野神社の南側、中川の岸に真言宗豊山派寺院の南蔵院がある。 南蔵院は熊野神社の別当寺として長保年間(999-1004)に創建された。
⑦ 奥戸橋・・・・・・・・・・・立石と奥戸を結び、中川に架かる奥戸橋。 昭和47年(1972)に完成したが、橋上を通る道路が、主要道なみに整備されていないためか、交通量は少ない。
・・・・・・・・・・・・中川は奥戸橋の下流側でU字型に大きく曲がる
⑧ 奥戸天祖神社・・・・・・・・・・奥戸2丁目の奥戸天祖神社は、当地が葛西御厨であった頃に、伊勢皇大神を勧請し、さらに欲張って、下総の香取・鹿島のニ神を勧請して三社明神と称し、奥戸村の鎮守としたそうだ。、、、、、、現在の社殿は昭和49年(1974)の造営。 今日は、盆踊りの準備中で境内は賑やかだ!
⑨ みのり商店街・・・・・・・・・・新小岩駅の北側、蔵前橋通りを越えると“東新小岩”地区がある。 この地区のほぼ中央を南北に伸びる商店街がある。 新小岩駅といえば、南側のルミエール商店街が有名であるが、北側にはそれに対抗できる商店街は無いようだ。 ここ「みのり商店街」が、北側最大規模であるが、地元密着型の昭和の下町商店街で、夕方にならないと活気づかないそうだ。 約100の店舗で構成されているが、商店街の通りは長く(約600m)、店が密集していないので、チョイとみると寂しいね!、、、、、時刻は午前10時、まだ開店前だ!
⑩ 西井堀せせらぎパーク・・・・・・・・・・みのり商店街を抜け出ると、蔵前橋通りの巽橋交差点から奥戸の森永乳業の方へ向かうバス通りがある。 通りの中央には、水路を埋め立てた、約500mの「西井堀せせらぎパーク」と称する、親水公園もどきの公園がある。、、、、、公園は、意味不明のドラゴン(竜)をイメージした置物が点在し、水の流れない水路があり、誰も座っていないベンチが点在し、誰のための公園なのか?
⑪ 新小岩駅・・・・・・・・・・・・・只今、駅の南北を結ぶ自由通路整備工事を実施中。 平成30年(2018)の完成までは、ここ北口で行き止り。
今週は、“なんだかんだの大明神”、“あれよあれよと言う間にアバヨ”。 散歩もできず、流す泪に無情の雨が、、、、、今日も今日とて、昼から野暮用。 こうなりゃ、早朝の散歩だ!、、、、と言うことで、朝7時に不忍池に到着、見事に咲いた蓮の花を観賞し、帰りは世界遺産の前から帰宅。
・・・・・・・・・・・・上野公園の案内には、『この公園は明治6年(1873)の太政官布達によって、芝、浅草、深川、飛鳥山と共に日本で初めて公園に指定されました。 ここは江戸時代、東叡山寛永寺の境内地でした。それが明治維新後官有地となり、大正13年(1924)、宮内省を経て東京市に下賜されました。 当初は寛永寺社殿と霊廟、東照宮それに境内のサクラを中心にした公園でしたが、その後、博物館や動物園、美術館などが建てられ、文化の香り高い公園へと衣替しました。』と、記されている。
① 不忍池・・・・・・・・・・先史時代の不忍池は、武蔵野台地の東端に位置する入江であったが、海岸線の後退により取り残されて池となったそうだ。 江戸時代以前には、藍染川が不忍池に流れ込み、池から先は忍川となって隅田川に流れ込んでいた。 江戸時代になると、幕府は不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島になぞらえ弁天島を築かせ、そこに弁天堂を作った。 戦後の一時期は水が抜かれて不忍田圃となり跡地に野球場を建設する案なども出されたが、昭和24年(1949)に池のまま保存することで合意がなされ現在に至っている。、、、、不忍池の蓮は江戸時代には、既に植えられていたそうだ。
・・・・・・・・・・・・早朝に開花し、昼には閉じる蓮の花、朝7時前だが、既に、アマチュアカメラマンが並んでる
・・・・・・・・・・・・池一面、蓮の葉で覆われ、葉を掻き分けて花が開いてる
・・・・・・・・・・・・・・綺麗なところをパチリ!
・・・・・・・・・・・・皆さん、蓮の話題で楽しそう!
・・・・・・・・・・・・・・池を回ってみる
② 西郷隆盛像・・・・・・・・・・・・上野公園正面入口の階段上(古い人には上野聚楽の上)に、おなじみの西郷隆盛像が有る。 像は明治31年(1898)に、彫刻家:高村光雲の作により、建立されたもの。 慶応4年(1868)に江戸城を無血開城させ、江戸を戦火から救った功績によって造られたものである。、、、、、「上野の西郷さん」は、東京の観光名所で、待ち合わせスポットでもあった。 今は、観光客も通らず、この像の前で待ち合わせする人もいない。 時代はガラリと変わったね!
③ 彰義隊の墓・・・・・・・・・・・・・西郷さんの尻を眺める位置に、慶応4年(1868)、大政奉還に際して官軍と戦った彰義隊戦士の墓がある。 高さ約7.5mの大墓標で、碑名「戦士之墓」は山岡鉄舟の筆による。
④ 国立西洋美術館・・・・・・・・・・・・西洋美術館のある台東区では、世界遺産登録により盛り上がっている。 だが、我が町(台東区浅草橋)では、チョイと盛り上がりに欠けてるね。 今日はとりあえず、『おめでとう』と言いに来た。、、、、、美術館の設計はル・コルビジェによるが、彼の弟子である前川國男、坂倉順三、吉阪隆正らが実施設計に協力した。 施工は清水建設で、昭和34年(1959)に本館が完成する。 その後、昭和54年(1979)に新館も完成。、、、、、今日も朝から開館を待つ人の行列ができた
・・・・・・・・・・・・朝、近くの高層マンションの皆さんは隅田川駅前を急ぎ足で南千住駅に向かう。 カメラを抱えひまな親爺だけが、反対方向に向かうのだ!
・・・・・・・・・・・・隅田川駅一周は、南千住駅前にあるJR貨物の墨田機関区と隅田川駅の入り口ゲートから
・・・・・・・・・・・・・・・まずは、機留線に待機中の機関車
・・・・・・・・・・・・構内の一隅もパチリ!
・・・・・・・・・・・・駅北側のショッピングセンターから眺めると、こんな景色
・・・・・・・・・・・・駅東側には、大型トラックが出入りするゲートがある
・・・・・・・・・・・・東側のゲートから構内を眺める、、、、、広すぎて、機関車が見えないぞ!
・・・・・・・・・・・・東側のフェンス越しに、チョイと望遠で撮影
・・・・・・・・・・・・駅南側は道路に面し関係会社の倉庫・工場などが並び、機関車は見えないので西側(田端側)へ出た。
・・・・・・・・・・・・跨線橋の上からもパチリ!
・・・・・・・・・・・・“雲じい”をまねて、空から、、、、、中央チョイ右は隅田川駅、中央左に日比谷線南千住駅、左端に常磐線南千住駅。、、、、、、高所恐怖症の私は、決死の覚悟で撮影に挑んだ。 「怖い怖いと 思えば怖い 怖さ恐れず 死を覚悟」
・・・・・・・・・・・・EF652138電気機関車、、、、、EF65系電気機関車は日本国有鉄道が昭和40年(1965)に開発した直流用電気機関車である。 開発後34年間に308両製造された。、、、、、その内EF652138電気機関車は、昭和53年(1978)に製造され、当初は1138号として、宮原機関区に配置されデビューした。 その後JR貨物となり、100km/hを超える運転を行う車両に改良され、2012年より2138号に改番した。
・・・・・・・・・・・・東口から50m程歩くと、東京電機大北千住キャンパスが見える
② 日の出町団地・・・・・・・・駅の北東に、昭和43年(1968)に建てられた住宅公団の団地。 総戸数:764戸(4棟)。、、、、、駅から近く、便利でグゥ~~! ベランダがなく、浴室は窓がなく、トイレは狭く、水まわりはダメ!(入居者の談)
③ 清亮寺・・・・・・・・・・・・・東武鉄道とJR、つくばエキスプレスの線路に挟まれた荒川土手沿いに、日蓮宗の久栄山清亮寺がある。 元和5年(1619)身延山久遠寺末として、水戸街道入口のこの地に創建された。 本尊は、一塔両尊四士合掌印、宗祖日蓮説法像を中心に、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、不動明王など、全部で15躯の木像で構成されている。 、、、、、、本堂は天保4年(1833)に再建の総欅造りで、随所に江戸期の建築様式を残している。 山門は昭和6年(1931)に再建された。 山門の扁額「久栄山」の書は、名筆:中村不折による。
④ 荒川土手・・・・・・・・・清亮寺前の旧水戸街道を東に歩くと荒川土手にぶつかる
・・・・・・・・・・・・・・土手上に立つと、正面に東京拘置所が見える。 旧水戸街道は、荒川を渡り、拘置所の右側:小菅村に続いていた。
・・・・・・・・・・・・左手には、東武伊勢崎線荒川放水路橋梁がある
・・・・・・・・・・・・右手を見れば、荒川が右にカーブし流れ下る
・・・・・・・・・・・・後ろを振り向けば、千住の町の先に見える東京スカイツリー
・・・・・・・・・・・・足下には、アカツメクサの花が、、、、、私は、この花をアザミと間違え、ここで有名な都々逸を想い出す。 「君は野に咲くアザミの花よ 見ればやさしや 寄れば刺す」、、、、、私も、「バラやアザミに 刺されてみたい 痛さ知らない やさ男」
⑤ 柳原寺・・・・・・・・・・地図を見ると、北千住駅の東側に半円状の町がある、ここが足立区柳原である。 北側の柳原2丁目にある真言宗の理性院は瑠璃山柳原寺という。 この寺は柳原の名がついているように柳原村の唯一の寺であった。 もともとは、村の北のはずれにあったが、荒川放水路開削工事では境内は全て河川敷とされたため、2㎞程南の現在地へ移転した。このときも本堂を始めとして建物全部を曳家で移転したと言われている。
⑥ 柳原稲荷神社・・・・・・・・柳原村の鎮守として慶長11年(1606)に創建された古社である。 柳原寺(理性院)と両輪をなし柳原村の崇敬を集めていた。、、、、、寛政6年(1794)に再建された拝殿は民家と間違えるような入母屋造りで、独特の風情をかもし出している。
・・・・・・・・・・・・境内の富士塚は昭和8年(1933)に築かれたもので、直線的に山頂に通じる参道も珍しい。
⑦ 柳原千草通り・・・・・・・・・・柳原2丁目にある、細い寂れた商店街。 商店街全体が“昭和”の遺産のようだ。、、、、、じっくりと下町の風情にふれて、幼き頃を想い出す
● ・・・・・・・・・・・「千草通り」を抜けると「学園通り」につながり、駅はスグソコ!
・・・・・・・・・・・・水神宮の横の道を、道なりに北方に進むと、東小松川白髭神社がある。、、、、、、神社の創建年代は不詳であるが、建治年間(1275-1278、鎌倉時代)の創建と伝えられ、東小松川香取神社や浮洲明神社と共に旧東小松川村の鎮守社であった。 中川放水路の開削に伴い浮洲明神社は、当神社の境内に遷座された。、、、、、、水害から神社を守るためか、神輿庫、狛犬、社殿など、コンクリートで基礎部分を1m程高くしている。
・・・・・・・・・・・・東小松川2丁目に入ると、真言宗の香取山宝積院松泉寺がある。 参道の左右は墓所となって、正面に鉄筋コンクリート造の本堂がある。 創建年代不詳。
・・・・・・・・・・・・東小松川2丁目の源法寺は、浄土宗に属し、壽覚山無量院と号します。 天正元年(1573)に開山した。 三代将軍家光からは御朱印地六石を授かった名刹らしい。 この付近では、かなり大きな寺である。
・・・・・・・・・・・・源法寺の裏(北東側)には中之庭地蔵堂がある。 「中之庭」とは、かつてこの地の集落名。、、、、、、天保9年(1838)に当地の太田家の先祖が霊夢を感じて、現在の境川親水公園辺りの河底捜したところ出現した地蔵さまといわれている。 昭和8年(1933)には、それまで露仏であった石像に堂を建てて鎮め祀った。
④鈴木工業・・・・・・・・・東小松川2丁目の金属加工の会社。 こちらの会社は昭和2年(1927)頃に創業し、現在は3代目が経営しているそうだ。 会社の社屋は、創業時のまま残っているそうで、昭和初期の木造建築である。 外壁は、最近塗り替えられた。、、、、今日は、工場で最も古い方に話を聞くことができ、話では、戦時中、工場で砲弾などを製作したため、社屋には憲兵が常駐していたそうだ。 また、社屋横のコンクリート造の変電室もその頃の建物だった。 さらに、正門の門柱は、かつて日比谷の帝国ホテルに在ったものだそうだ。 私の推測では、初代の帝国ホテル(明治23年竣工、大正8年焼失)のものか、二代目の帝国ホテル(ライトの設計、明治村に移築保存)の裏門とか通用門などの門柱か?、、、、、、箱根駅伝を映画化した「風が強く吹いている」のロケも、一部ここで行われたそうだ。
⑤赤稲荷神社・・・・・・首都高7号の高架をくぐり松江1丁目に、赤い、ケバイ、派手で小さな神社がある。 これぞ、赤稲荷神社である。、、、、宇加能魂命を祀り、創建は不詳。 真っ赤な幟がはためいて、町中の町民の信仰を集めているらしい。(ほんとかな?) 境内は、首都高の用地買収で敷地が半減し、現在の社殿は昭和44年(1969)に平井の諏訪神社の拝殿を移築したそうだ。、、、、、ようするに、中古の社殿を真っ赤にペイントした神社。(失礼!)
⑥東小松川交差点・・・・・・・京葉道路(国道14号)に船堀街道(都道308号)がぶつかる交差点。 船堀街道はここまで、この先は千葉街道(国道14号)として、小岩駅方面に伸びていく。
⑦東小松川香取神社・・・・・・・・千葉街道、八蔵橋交差点角に鎮座する経津主命を祀る香取神社。 建治3年(1277)の勧請といわれ、東小松川村の鎮守さま。 社殿は昭和12年(1937)に新築された。
⑧新小岩駅 ・・・・・・・・新小岩駅へ到着
京浜急行本線の青物横丁駅から、JR大森駅までの散歩です。
①青物横丁駅・・・・・・・・・青物横丁駅は京浜急行で品川駅から三駅目、日本で唯一、駅名に“横丁”が付く駅である。 駅近くに、小さな店舗が集まった場末のスーパー“青物横丁”存在するようなイメージの駅名がいいね!、、、、駅名は、江戸時代に農民が、現駅の東隣にある品川寺門前付近で、青物を持ち寄り市場を開いたことに由来する。 当時は「青物横町」と呼ばれていた。 現在は駅の東側に並行する旧東海道を中心に「青物横丁商店街」と命名した広域の商店街があるが、江戸時代の市場とは無関係。、、、、、明治37年(1904)5月8日、「青物横町」駅として開業した。(“横町”が“横丁”となった時期は不明) 昭和53年(1978)から始められた高架化工事は、平成2年(1990)12月までに高架化され、新駅舎は平成3年(1991)12月に完成し使用を開始した。 さらに、平成9年(1997)には、ホームを延長し12両の停車も可能となった。 長~い、相対式ホーム2面2線の高架駅。
・・・・・・・・・・・・短い編成の電車は品川寄りに停車するため、横浜寄りで待っていたら、大慌て!、、、『電車が来たぞ、いそげ!』
・・・・・・・・・・・・高架下の駅出入口、、、、今日の散歩は、旧東海道とは駅を挟み、反対側(西側)を歩くことにした。
②海晏寺 ・・・・・・・・・・・青物横丁駅を出て、西側に並行する第一京浜国道を横断すると海晏寺(かいあんじ)がある。 曹洞宗の寺院で、建長3年(1251)の開山。、、、、岩倉具視や松平慶永など著名人の墓もある。
③旧仙台坂・・・・・・・海晏寺を挟み、南側に「旧仙台坂」、北側に「仙台坂」がある。、、、、まずは、南の旧仙台坂について、、、、教育委員会の設置した案内標識には、『江戸時代(1603~1867)に、この坂の中程から上にかけて仙台藩伊達陸奥守の下屋敷があったことから、東大井四丁目と南品川五丁目の間のこの坂は仙台坂と呼ばれていました。 しかし、現在は青物横丁に抜ける坂道が拡幅され交通量が増加したために、その坂の方を一般的には仙台坂と呼ぶようになり、こちらは旧仙台坂と言われるようになりました。』と標されている。、、、、、この坂は、別名「くらやみ坂」と呼ばれていた。、、、、、近年、坂の中央に造られた車道用のトンネルは「仙台坂トンネル」と名付けられている。 ややこしいね!
④仙台坂・・・・・・・・・・・次は、海晏寺の北側、池上通りの仙台坂。、、、、、旧仙台坂と仙台坂は、ともに坂上で交差しているため、大井町方面から下ると、どちらも第一京浜に出る。 そうなると、道路幅の広い池上通りの方が交通量が増え、坂名が交通量の多い現:仙台坂に移転してしまった。、、、、、つまりは、旧仙台坂が本家本元で、仙台坂は後の名義借りである。
⑤八木合名会社仙台味噌醸造所・・・・・・・・・仙台坂と旧仙台坂の上った交差点(品川区東大井4)に、伊達藩の味噌蔵を引き継いだ味噌屋が在る。、、、、この地は、江戸時代、伊達藩の江戸下屋敷であった。 伊達藩では備蓄食料確保の観点から寛永2年以来味噌蔵をもち、醸造を始めた。 当時の江戸の味噌は甘く、東北武士の口に合わなかったため、三千名を超える江戸在勤の士卒に与える味噌は必需品であった。 幕末になると、自給自足のためばかりではなく、余ったものを一般にも販売するようになり、半ば商売となった。 江戸市民は仙台の殿様のお屋敷で出来る味噌というので、仙台味噌と呼ぶようになった。、、、、、味噌蔵は明治時代に八木久兵衛に払い下げ、今日に至っている。
⑥見晴らし通り・・・・・・・・仙台坂上の交差点から、JR東海道線と京急本線が並行する間に、東大井3丁目と6丁目の境で大森方向に伸びる裏道がある。、、、、、古くからある道のひとつで、人家の少ない時代には品川の海や遠く富士山も見える見晴らしのよい道であったため、いつとはなしに「見晴らし通り」と呼ばれるようになったそうだ。、、、、、今は、人家が軒を連ね、富士山は見えず、さりとて、商店街の賑わいも見えず、見えるは踏んではいけない犬の糞。
⑦大福生寺・・・・・・・・・・見晴らし通りの南端に、天台宗の大福生寺がある。 海賞山地蔵院と号し、明治14年(1881)に宇賀神寶海和尚が目黒不動瀧泉寺を退き、 隠居の寺として日本橋蛎殻町(水天宮の近所)に一寺を建立し、その後、明治25年(1892)に現在地へ移転した。、、、、、昭和20年(1945)5月太平洋戦争大空襲で寺を全焼し、昭和25年(1950)本堂復興、昭和58年(1983)護摩堂を建立する。、、、、、建物は戦後の建築で面白くないが、さほど広くない庭だが綺麗に掃除され心地よい寺だ!
⑧大森駅前住宅・・・・・・・・・大森駅の近く、昭和45年(1970)に竣工した東京都住宅供給公社が販売したマンション。 鉄骨鉄筋コンクリート造、地上13階建て、総戸数759戸、、、、、駅に近く、歩く人を圧倒する感じだ。 ちなみに、2LDKで3000万円以上らしい。、、、、私には、買う気はないが、買う金もない、“COWはイギリスの雄牛”
⑨大森駅歩道橋・・・・・・・・・大森駅北口橋上駅舎に通じる、昭和60年(1985)に完成した跨線歩道橋。 この歩道橋により、駅の北側で、線路を跨いで東西を行き来することが可能となった。、、、、、屋根もあり、エスカレータもある、“やさし・うれし”の歩道橋。
北総線秋山駅で下車したが、何回かここから本八幡まで歩いたことがある。 今日は少し東側を歩き武蔵野線のいずれかの駅に向かうつもりで、駅前をスタートした。 しばらく県道を歩いていたが、途中から裏道・横道・脇道・細道を歩きだした。 のんびりと、田舎道を歩いていたつもりだが、“何だか見たことある景色だな!”とおもった、時すでに遅しで、昨年秋に歩いた曽谷貝塚に出てしまった。 シマッタ~! 後悔しつつも、道を戻る気にもならず、曽谷貝塚の付近からは、同じルートを歩き総武線本八幡駅に着いた。
①秋山駅・・・・・・・・平成3年(1991)3月31日、北総線京成高砂駅~新鎌ヶ谷駅間(12.7km)開業のとき、同時に秋山駅も開業した。 掘割状の底に、半地下式で相対式ホーム2面2線を有する駅。 駅出入口は一ヵ所のみで、駅前ロータリーに面する。 開業してから25年、いまだ駅前にコンビニが無い、不便な駅だ!
都営浅草線に乗り、終点の西馬込駅で下車。 足の向くまま、気の向くまま、駅から北西の「上池台」の町を抜け、池上線長原駅の手前で環七通りを横断し、大井町線荏原町駅までの散歩です。
①西馬込駅・・・・・・・・昭和43年(1968)、都営1号線(現:浅草線)の駅として開業。 ホームは第二京浜(国道1号)の地下にあり、相対式2面2線の終着駅だが、車止めは無い。 線路はこの先の車両基地:「馬込車両検修場」へと続く。
気温が30℃を超えないうちに、散歩を終わらせる気持ちで、早めに家を出た。 しかし気持ちに反し戸外は暑く、たちまち身体中から汗が吹き出し、ダラダラ、ベトベト、汗を拭き拭き、、、テカテカ、ガンガン、強い日差しを受けて、、、男一匹どこへ行く。、、、、、、つくばエクスプレスの青井駅から、東武伊勢崎線の小菅駅までの散歩です。
①青井駅・・・・・・・・・首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスの地下駅。 平成17年(2005)、つくばエクスプレスの開通と同時に開業した。 秋葉原駅からここまでは5駅14分で、驚異的な速さ!、、、、、駅は、都営住宅の中にあるような感じで、周囲は都営住宅、マンション、アパートが建つ住宅地。
・・・・・・・・・・・・地下ホームに到着する普通電車。 “快速”は全て通過する悲しい駅!
・・・・・・・・・・・塀の中の愛する男(私)に、会いに来た恋人は、多くを語らず、目と目で別れを告げ、人気のない駅へ向かう。
いよいよ夏本番か、東京は33℃、猛暑のはじまりである。 まだ、熱中症であの世に行きたくないので、暑い日の散歩は控えることにした。 でも夜なら涼しいだろうと、チョックラ、我が家(浅草橋)からスカイツリーの押上まで歩いてきた。、、、、、家へ帰ったら、肌着までビッチョリの汗、拭いても拭いてもダラダラの汗、、、、、夏を実感した汗だ!
・・・・・・・・・・・・夕暮れの蔵前、、、、、、今日は日曜、商店はシャッターをおろし静かである。
「7月1日」今日は何の日?、、、、、テレビのニュースでは、山開き、海開きの映像が流れ、梅雨明けの予報が行われていた。 高齢者の方には、チョイと懐かしいところで、70年前の昭和21年(1946)7月1日は、ラジオで「尋ね人」の放送が開始された日である。 昭和37年(1962)3月31日まで放送された番組で、アナウンサーにより、引揚船名、到着港、そして、帰国される方の氏名が次々と読み上げられた。 我が家では、特に”誰”といって探していたわけではないが、当時、ラジオをつけっ放しで生活をしていたので、幼い私にはBGMとなり、身体に染みついてしまった懐かしい番組となった。、、、、数年前、その懐かしさのあまり、「尋ね人」を録音したコンテンツを求めて、舞鶴の「引揚記念館」、九段の「昭和館」、川口の「NHKアーカイブス」と捜し歩いてきた。 最後に、愛宕山の「NHK放送博物館」で録音したコンテンツの有無を訊ねたら、対応してくれた可愛い娘が『個人情報に該当しますから質問に応えられません』。 そうか!、録音したものは残っているのだ、しかし御時世が公開を許さず、いくら探しても無かったのだ、納得!、、、、、、、以上、雅万歩の独り言でした。
今日の散歩は、北総線北国分駅から総武線市川駅までです。 今日歩いた経路とほぼ同じ経路で、3月23日に歩いていたので、詳細はこちらを見てね!
①北国分駅・・・・・・・電車を降りると、曇り空で日差しも和らいでいるようだが、朝からムシムシ、ベトベトの、イヤイヤ嫌な天気。