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2016年7月

2016年7月30日 (土)

隅田川花火大会

今宵は、年に一度の隅田川花火大会 。 地元の私も、夕食の鰻を食べ終えるや、両国橋まで花火見物。、、、、、両国橋は会場の厩橋から離れ、比較的に、見物人も少なく、見るには恰好の穴場である。
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・・・・・・・・・・・・・・・・花火見上げて、江戸時代の流行歌。 つまりは“端唄”で、「縁かいな

夏の涼みは両国の 出船入り船屋形船

上がる流星星下り 玉屋が取り持つ縁かいな

2016年7月29日 (金)

千駄ヶ谷~原宿

梅雨が明け、いよいよ猛暑の季節が到来した。 今朝から気温は上がり32℃。 散歩も、ダラダラと流れる汗との戦いになった。  猛暑との戦いの初戦は、JR中央線千駄ヶ谷駅から、山手線原宿駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。



千駄ヶ谷駅・・・・・・・・・千駄ヶ谷駅は、明治37年(1904)に甲武鉄道の駅として追加開業した。 ホームは盛土上に、島式1面2線の構造であるが、東京オリンピックの時に、新宿方面行きの臨時ホームが設けられた。、、、、、2020年のオリンピックを迎えるため、現在は使用されていない臨時ホームを新宿方面行きの専用ホームにし、改札口/コンコースは拡張し、ゆとりある駅にする改良工事に着手した。

・・・・・・・・・・・・首都高4号線の高架下、たった一カ所の改札口(出入口)は、高速に拘束され、狭い空間のせせこましい駅。
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・・・・・・・・・・・・現在、使われていない臨時ホーム。 昭和39年(1964)に造られたホームは、屋根もなくボロボロ。 このホームが新宿方面行きの専用ホームに改良される。、、、、、、ホームの後ろには並行して首都高4号線が走っている。

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・・・・・・・・・・・・かつて、臨時ホームに出る、2カ所の階段。、、、、もちろん!改良し、新しくなる階段にはエスカレータも併設される。

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・・・・・・・・・・・・現在の島式ホームは、御茶ノ水方面行き専用ホームとして残る。

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・・・・・・・・・・・・ホーム中央の水飲み場は、近くの日本将棋連盟本部に因み、王将の駒がデザインされている。、、、、、余談だが、「餃子の王将」の本社は京都、千駄ヶ谷駅とは無関係。

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・・・・・・・・・・・・次の写真は、信濃町駅から千駄ヶ谷駅に向かう電車の先頭車両から撮った。 写真左(神宮外苑側)に待避線のようなものが見える。 明治27年(1894)、この付近から神宮外苑(かつて青山練兵場という軍事施設)方向にカーブして、新宿と青山軍用停車場を結ぶ甲武鉄道の線路が敷かれた。 大正になり、線路は廃止されたそうだ。、、、、、私が生まれる以前の、チョイと昔の話です。

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国立競技場・・・・・・・・・国立競技場の跡地であり、国立競技場の建設地を見てきた。 綺麗に取り壊したね!、、、、、現在、計画している新国立競技場は、大成建設・梓設計・隈研吾建築都市設計事務所 共同企業体の案で、総工費1,490億円、本年末着工、2019年11月竣工、6万人以上を収容する予定。、、、、、、いろいろあったが、こうなりゃ早く完成した競技場を見てみたいね!

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鳩森八幡神社・・・・・・・・・・・貞観2年(860、=平安時代初期)の創建、1000年以上の歴史を有する古社。 大昔、この地の林の中にはめでたいことが起こる前兆の瑞雲がたびたび現れていた。 ある日、空より白雲が降りてきたので不思議に思った村人が林の中に入っていくと、突然白鳩が数多、西に向かって飛び去った。 この霊なる出来事から、神様が宿る小さな祠を営み「鳩森」と名付けたそうだ。、、、、、社殿は平成5年(1993)に建て替えられた。、、、、、、只今、社殿正面参道の整備工事中につき、正面から参拝・撮影できず、チョイと残念!

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・・・・・・・・・・・・境内の富士塚は寛政元年(1789)築造。 山はかなり高く、足元は石がゴツゴツし、私も貴重な富士登山を体験した。 山頂から御来光を拝めず、残念!

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・・・・・・・・・・・・境内にある将棋堂は、神社前にある日本将棋連盟から、昭和61年(1986)に奉納された大駒を納めた六角堂。

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・・・・・・・・・・・・将棋堂を紹介したついでに、こちらは神社前に建つ「日本将棋連盟」本部。、、、、、おや!女流棋士かと思いきや顔も見られず、残念! 最近は美人棋士も多く、テレビ対局も楽しく観戦でき、大いに結構。

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・・・・・・・・・・・・鳩森八幡神社境内の外側に回ると、朱色の派手な祠に、享保8年(1723、江戸中期)に建立された青面金剛神像庚申塔が祀られている。 祠の中には草鞋がいっぱい掛けられて、コリャなんだ? この祠は平成17年(2005)につくられ、美脚の神様として知られているそうだ。 本当かいな? 美脚フェッチの私は、じっくり手を合わせてきた。、、、、、ちなみに、草鞋はご近所で一足二千円で売っているそうだ。

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千駄ヶ谷2丁目・3丁目・・・・・・・・ファッション・アパレルの企業のオフィスが集まった小洒落た町。 定年退職した私でも聞いたことのある社名の企業もあったが、99%は私の知らない横文字、カタカナの企業名ばかりだ。 建物はプチ・モダンな低層ビルが多く、半分はマンションの中にある。 ヒゲ面で、ヨレヨレシャツの男性と、ダブダブのシャツを着た女性が、忙しそうに働き、暇そうにタバコをふかし、チョイとカッコをつけた町である。

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宮廷ホーム・・・・・・・・・・原宿駅の北側に150m程行くと、皇室専用の宮廷ホーム(原宿駅側部乗降場)がある。 このホームは天皇陛下専用の「お召し列車」が発着する乗降場である。 大正14年(1925)、病弱な大正天皇のため、人目につかず乗降できるよう設置された。 昭和天皇は御用邸への移動、地方訪問などで頻繁に利用されたが、今上天皇は新幹線の利用が多く使用頻度は低い。 、、、、、、一生に一度でいいから、ここからお召し列車に乗って草津温泉でも行ってみたいね!


・・・・・・・・・・・・普段、門は閉じられ内部へ入ることはできない。

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・・・・・・・・・・・・門の中は、大きな屋根の車寄せか?、、、、、最近利用していないからか、雑草が伸びてるね。

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・・・・・・・・・・・・原宿駅ホームから眺める宮廷ホーム

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原宿駅・・・・・・・・・原宿駅の開業は明治39年(1906)、初代の駅舎は大正12年(1923)の震災で取り壊された。 現駅舎は大正13年(1924)に建てられた二代目の駅舎で、東京最古の現存する駅舎。 鉄道省技師の長谷川馨の設計による、尖塔付きの屋根に白い外壁という、イギリス調のデザインの木造駅舎。、、、、、ウシャ~~、駅周辺は若い娘がイッパイ。 

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・・・・・・・・・・・・原宿駅にもある臨時ホーム、、、、、こちらは、正月の明治神宮初詣客向けのもので、昭和15年(1940)から使用されている。 山手線外回り電車の初詣客を明治神宮側から乗降させるための専用ホームとなる。 この間、普段使用している島式ホームはう内回り電車の専用ホームとなる。

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・・・・・・・・・・・・JR東日本によると、2020年の東京オリンピックに向けて、千駄ヶ谷駅と同様に、臨時ホームを有効利用する駅改良工事に着手する。 臨時ホームを新宿・池袋方面行きの外回り専用ホームとして常設化し、現在の島式ホームは渋谷方面行きの内回り専用ホームとなる。 また、駅舎についても渋谷寄りに新駅舎を建設することとなった。、、、、、、現在の木造駅舎はシンボルとして残して欲しいね

2016年7月27日 (水)

根岸・東日暮里

我が家(浅草橋)から、台東区の端「根岸」を抜け、荒川区「東日暮里」をとおり、三河島駅まで、1万2千歩、9kmの散歩です。



① 小野照崎神社 ・・・・・・・・日比谷線入谷駅から西に150m程歩くと、下谷2丁目に小野照崎神社(おのてるさきじんじゃ)がある。 小野篁(おののたかむら)を主祭神とし、相殿に菅原道真を祀る、頭が良くなる神社。、、、、篁(802~853)は平安時代の歌人・学者で、小野妹子の子孫、小野小町と小野道風の祖父。、、、、仁寿2年(852)、住民が上野照崎(現:上野公園)の地に小野篁を奉斎したのが起源である。 寛永年間(1624~43)には、寛永寺の建立のため幕府より移転を命じられ、現在地に遷座した。、、、、、現在の社殿は慶應2年(1866)の建築で、関東大震災、東京大空襲を免れ、運の強い神社。
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・・・・・・・・・・・・【余談】嵯峨天皇が「子子子子子子子子子子子子」を、何と読むか小野篁に問うたクイズ。、、、、篁の答えは、「ねこのここねこ、ししのここじし(猫の子子猫、獅子の子子獅子)」と読む。、、、、解説:「子」という漢字には、「ね」(訓読み、十二支から)、「こ」(訓読み)、「し」(音読み、呉音及び漢音)、「じ」(「し」の変化形)の4通りの読み方がある。 よって、答えのような読み方が可能となるそうだ。 頭いいね!



・・・・・・・・・・・・表通りから参道に入るビルの角に神社の標柱、、、、、昭和3年に建てられたもの。 社名は、陸軍大将:明治神宮宮司:学習院院長であった一戸兵衛の筆。

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鈴木食品工業・・・・・・・・根岸3丁目で、一見、ビルに見える木造モルタル塗りの看板建築。 昭和初期頃の建築か?、、、、、、店は、安政年間(1854~1859)創業の、食品販売の老舗企業。 現在はドレッシング、ソース等を製造販売している。

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根岸の路地・・・・・・・・根岸4丁目の路地をチョイと拝見! 敷石を踏んで、私好みの路地を行く! 忘れ去られたゴミ箱も、ワンポイントになる路地。

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御行の松不動尊・・・・・・・・・根岸4丁目の不動尊の境内に「御行(おぎょう)の松」がある。 「御行の松」とは、江戸時代に松の木の下で、寛永寺門主が行法を行ったことに由来している。 松は江戸時代の錦絵にも描かれる有名な松で、大正時代には、高さ13.63m、幹の周囲4.09m、推定樹齢350年の大木であった。 残念ながら、昭和初期に枯れてしまい、現在は3代目の小さな松が植えられている。、、、、、その松が植えられていた不動尊で、「御行の松不動尊」と呼ばれ、根岸の人々に親しまれた。 玉垣には、「根岸」の花街時代の料亭・置屋・待合・芸子の名が見られる。

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・・・・・・・・・・・・明治の頃の「御行の松」

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・・・・・・・・・・・・松より、玉垣を見て、花街の良き時代を想い慕う人もいるだろう
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為廣商店・・・・・・・・根岸から荒川区東日暮里3丁目に入ると、店先で商売を営む木造住宅があった。 手入れがよいのか、しっかりした建物で、昭和に戻った気分でチョイと眺めさせてもらった。

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日暮里金美館跡・・・・・・・・日暮里駅からは遠く、三河島駅からも近くない、東日暮里3丁目、小竹橋通りから入った裏通りに「日暮里金美館」の名を発見!、、、、、「金美館」は知る人ぞ知る映画館チェーンである。 大正11年金杉(現:東日暮里)に美須鐄(栃木県烏山出身、1887~1972)が個人商店として会社を創業し、以後、千住の映画館を買収したことに始まり、戦後までの間に、日暮里、川崎、蒲田を中心に映画館を40館近く展開した。 戦後、多くの館は閉鎖され、現在は、川崎駅前にあるシネマコンプレックス「チネチッタ」として、創業者の孫が経営している。 都内に「金美館」の名を冠した映画館は、平成3年(1991)までここにあった「日暮里金美館」で終焉した。 映画館跡はスーパーとなっていた。 ちなみに、このスーパーの前の通りは「金美館通り」と呼んでいたらしい。 (注:入谷にあった、入谷金美館の前の通りも「金美館通り」と呼ばれ、「金美館通り商店街」が現存している。)、、、、、テレビのない戦後の時代、映画館は各地に在り、浅草橋の我が家の周辺でも4館あった。 プロレス中継が始まったころは時代劇映画からヤクザ映画に変わり、駅前シリーズ、植木等、赤木圭一郎、吉永小百合と変わり、最後はロマンポルノで閉館した。

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東日暮里のコリアタウン・・・・・・・東日暮里には、韓国系か北朝鮮系か、私にはよく判らないが、ハングルの文字、一字の姓など、コリア系と思われるものが多い。 つまりは、コリア・タウンである。


・・・・・・・・・・・・・“韓国仏教”だって、日本の仏教とどこが違うのか? ごく普通の住宅が、寺!
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・・・・・・・・・・・・こちらも、仏教の寺。 居酒屋風で建物の周りには提灯が下がってる! 提灯にはハングル文字とお釈迦様のイラストがある。、、、、これはこれは、コリアの盆提灯か?

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・・・・・・・・・・・・数年前に建て替えた、東京朝鮮第一初中級学校

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・・・・・・・・・・・・2つの言語で書かれた貼紙。

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・・・・・・・・・・・・こちらの通りの両側には、一文字姓の住宅がズラリと並んでいた。

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⑧ 三河島駅 ・・・・・・・・尾竹橋通りに面して、ガード下に出入口がある三河島駅。 三河島駅は日本鉄道(現:常磐線)の駅として明治38年(1905)に開業したが、乗降客も少なく地味だ。

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2016年7月25日 (月)

四谷の寺町

JR中央線の北西側で、外苑東通りの東側、さらに新宿通りの南側の地域。 町名で言えば、新宿区「若葉」・「須賀町」・「左門町」を歩いてきた。 四ツ谷駅で下車し、適当に歩き、四ツ谷駅まで、1万1千歩、8kmの散歩。


・・・・・・・・・・・・この地域は、将軍:徳川家光の時代、寛永11年(1634)に江戸城外堀を造ることになり、現在の麹町地区にあった多くの寺が立ち退きを余儀なくされ、外堀の外である現在の新宿区須賀町・若葉二丁目を中心とした地域に集団移転したことにより寺町と成った。 現在の地図を広げてみると、たしかに寺の隣に寺、寺の前に寺、寺の裏に寺、寺と寺の隙間に民家がある感じ。



四ツ谷駅・・・・・・・・・・明治27年(1894)10月9日、甲武鉄道の停車場として開業。 ホームは周囲の道路、駅舎よりも低い位置の外堀の中にある。、、、、ところで、町名・小学校名・警察・税務署は「四谷」で“ツ”なし、駅名だけが「四ツ谷」で“ツ”あり。
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東京若葉キリスト教会・・・・・・・・迎賓館前の若葉1丁目、東京若葉キリスト教会は明治34年(1901)、アメリカから来日した宣教師が布教活動を行った教会で、会堂は昭和23年(1948)、建築家ウィリアム・ヴォーリズ事務所により設計された。 木造2階建。、、、、数年前に改修工事が行われ綺麗になった。

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R邸・・・・・・・・・・・若葉の住宅。 中華風建物をイメージさせる、反りのある屋根、窓の格子のデザインなど、、、、、昭和初期の建物か?

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西念寺・・・・・・・・・・若葉2丁目、浄土宗西念寺は、専称山安養院と号し、文禄2年(1593)麹町清水谷に、服部半蔵正成によって開山した。 服部半蔵は徳川家康の重臣で、槍の名人、忍びの達人であった。(忍者ハットリ君の祖先かも?)  寛永11年(1634)に現在地へ移転した。、、、、、、昭和20年(1945)戦災にて被災し、昭和36年(1961)本堂を再建した。 葵の御紋を配した門扉が迎えてくれる寺。

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・・・・・・・・・・・・境内には家康の家臣、「鬼の半蔵」といわれた服部半蔵の墓がある。、、、、半蔵の法名は「専称院殿易安誉西念大禅定門」で、寺の山号寺号はこの法名からとられた。

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観音坂・・・・・・・・西念寺裏に位置し、南西に向けて下る、約85mの急坂。 案内標識には、『西念寺と真成院の間を南に下る坂。 坂名は真成院の潮踏観音に因む。 別名は西念寺坂・潮踏坂・潮干坂。 潮踏観音は,江戸時代以前に四谷周辺が潮踏の里と呼ばれたことに因む。 潮の干満につれ台石が湿ったり乾いたりするので 汐干観音とも呼ばれた。』と標されている。

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・・・・・・・・・・・・坂上には西念寺、坂下には真成院、坂の途中には蓮乗院信壽院と寺が並ぶ。

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・・・・・・・・・・・・坂を下ると谷底に下りたことになる

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戒行寺坂・・・・・・・・・観音坂の反対側、今度は須賀町に向かい、かなり急な上り坂。 長さ120m程、平均斜度6度。 ここでも案内標識には、『須賀町 戒行寺(かいぎょうじ)の南脇を東に下る坂である。坂名はこの戒行寺に因むものである。  別名,油揚坂ともいわれる。これは,昔この坂の途中に豆腐屋があり良質の油揚をつくっていたため こうよばれたという』と標されている。、、、、、こちらも、坂の中程には、一燈寺宗福寺戒行寺、坂上には西應寺勝興寺と左右に並ぶ。、、、、暇人の散歩なので、各お寺に立ち寄り手を合わせてきたが、『雅万歩』では私の好みで紹介する。

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戒行寺・・・・・・・・・・須賀町の日蓮宗寺院、戒行寺は文禄4年(1595)麹町に戒行庵として創建された。 江戸期には身延山末頭5ヶ寺の一つとして繁栄、塔頭数ヶ院を擁していた。、、、、、、どこの寺も戦災で被災したらしく、こちらも比較的新しい本堂である。

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・・・・・・・・・・・・境内には、戒行寺に葬られた「鬼平犯科帳」の主人公長谷川平蔵の供養塔がある。、、、、、小説にあやかり、参拝客を増やすため、建てたようだ! 独断と偏見の考察。

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永心寺・・・・・・・・戒行寺坂を上がり、道なりに直進すると、須賀町に曹洞宗の蟠龍山永心寺がある。 慶長9年(1604)麹町清水谷に起立したが、周辺の寺々と同じく寛永11年(1634)に現在地に移った。、、、、、こちらの本堂は戦災に遭わなかったのか、築300年の本堂が風格をおびて残されている。、、、、今日は施餓鬼で、檀家の人を迎える準備がなされていた。

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須賀神社・・・・・・・・江戸時代初期から四谷の地(新宿区須賀町)に鎮座する総鎮守。 この須賀神社も、もとは今の赤坂、一ツ木村の鎮守で、清水谷に有った。 のちの寛永11年(1634)に外堀普請のため、現在地を替地として拝領し移転した。、、、、、戦災前の社殿は、15年の歳月をついやして文政11年(1828)に竣工したが、昭和20年(1945)5月の東京大空襲で、本殿並びに内陣と境内摂社を残した外一切の建物を失った。 現社殿は、昭和63年(1988)秋に着工、平成元年(1989)に完成した。 都内では数少ない金色燦然と輝き、荘厳華麗を極めた建築物である。

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・・・・・・・・・・・・社殿内部には天保7年(1836)に完成した“三十六歌仙”の絵が、一人一枚に描かれ飾られている。

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・・・・・・・・・・・・境内から眺める新宿区若葉1・2丁目。 手前下に見える屋根は妙行寺、中央奥に見える屋根は真英寺

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本性寺・・・・・・・・・永心寺の門前を西に向かい、外苑東通りに出る直前(須賀町)に、日蓮宗の本性寺がある。 本性寺は、本性庵として創建され、寛文10年(1670)に平等山本性寺と改号した。 境内には、江戸城本丸から移されたという北向毘沙門天堂が安置されています。

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⑪ 陽運寺/四谷於岩稲荷田宮神社 ・・・・・・・・・四谷怪談にまつわる寺社


・・・・・・・・・・・・陽運寺、、、、、、、新宿区左門町に日蓮宗の陽運寺がある。 四谷怪談の主人公「お岩さん」を、「御岩稲荷」として祀った寺。 寺では、お岩さんを、家庭を大事にした貞淑な妻として祀り、「えんむすびの寺」としてPRしている。

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・・・・・・・・・・・・四谷於岩稲荷田宮神社、、、、、、、陽運寺の向かい側に四谷於岩稲荷田宮神社がある。 田宮神社は、江戸幕府の御家人田宮家の屋敷社であった。 “四谷怪談”の主人公田宮伊左衛門の妻:於岩を合祀し於岩稲荷田宮神社と称している。、、、、、両稲荷は「本家」と「元祖」の関係か?

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●・・・・・・・・・・・・今日の散歩は寺社巡りとなったが、私が立ち寄った寺社の4倍ぐらいはこの地域に在りそうだ。 まだまだ散歩する処は残っているね!

2016年7月24日 (日)

青砥~新小岩

京成押上線青砥駅から総武線新小岩駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。



① 青砥駅 ・・・・・・・・・昭和3年(1928)11月1日、日暮里~青砥間の開通時に、押上線(大正元年開通)からの分岐駅として開業した。 昭和50年代には立体交差化工事が始まり、昭和59年には3層構造の駅となった。
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② 本田屋 ・・・・・・・・・・本田屋(ほんでんや)は青砥駅前の酒屋。 青砥駅に下車すると、この建物が壊されず残っていることを願い、確認したくなる不思議な建物。、、、、いつまでも、残して欲しい建物だ!

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福森稲荷神社・・・・・・・・・葛飾区青戸1丁目、中川堤防近くにある神社。 福森稲荷神社は、旧福森村の鎮守で、寛政8年(1796)の創建。 社殿は昭和12年(1937)の改築である。 石製の明神鳥居は文政2年(1819)に造られた。

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・・・・・・・・・・・・稲荷神社の前から眺める中川。 左から右奥に大きく蛇行し流れ下る。

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宝泉寺・・・・・・・・青戸1丁目の真言宗豊山派の宝泉寺は、慶長17年(1612)に創建。 小さな本堂の寺であるが、江戸時代には肥前国平戸藩主松浦家の隠居寺となっていたそうだ。

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熊野神社・・・・・・・・立石8丁目、奥戸橋を渡る手前に熊野神社がある。 平安時代中期の長保年間(999~1003)に、陰陽師阿部晴明により勧請されたと伝えられ、立石村の鎮守社だった。

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・・・・・・・・・・・・安倍晴明は平安時代の最も有名な陰陽師の1人で、鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏の祖と言われている。 神社の神紋は、中央に八咫烏(ヤタガラス)を配し、周囲を陰陽五行説に因み五角形で囲んでる。

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・・・・・・・・・・・・驚くのは、神社の境内である。 境内は、一辺が三十間(54.57m)の五角形にかたどられている。 Googleで上空から見ると、真に五角形。

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・・・・・・・・・・・・平成21年(2009)の新聞記事によると、熊野神社の宮司さんは神田明神の宮司で、菅原道真の末裔である。 同年9月、宮司は神職となって50年の記念に、京都で銅製の五重塔(陰陽五行説に因み“五”)を購入した。、、、、その五重塔は、元三井家江戸屋敷に建てられていたものである。 五重塔は、台座を含み高さ7m程であり、神社では銅製五重塔では高さ日本一と称している。

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・・・・・・・・・・・・チョイと話はそれるが、、、、、神社の辺りは、「本田(ほんでん)ウリ」の産地であったらしい、境内に表示されていた。 本田ウリは熟すと銀白色になり、真桑瓜の金マクワに対して銀マクワと呼ばれていたそうだ。、、、、、江戸時代の早口言葉、『瓜売りが 瓜売りにきて 瓜売り残し 売り売り帰る 瓜売りの声』、、、、悪乗りして、もう一つ、『そうだ村の村長さんが 曹達食って死んだそうだ 葬式まんじゅう でっかいそうだ』、、、、、懐かしい早口言葉だね!




南蔵院・・・・・・・・・熊野神社の南側、中川の岸に真言宗豊山派寺院の南蔵院がある。 南蔵院は熊野神社の別当寺として長保年間(999-1004)に創建された。

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奥戸橋・・・・・・・・・・・立石と奥戸を結び、中川に架かる奥戸橋。 昭和47年(1972)に完成したが、橋上を通る道路が、主要道なみに整備されていないためか、交通量は少ない。

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・・・・・・・・・・・・中川は奥戸橋の下流側でU字型に大きく曲がる

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奥戸天祖神社・・・・・・・・・・奥戸2丁目の奥戸天祖神社は、当地が葛西御厨であった頃に、伊勢皇大神を勧請し、さらに欲張って、下総の香取・鹿島のニ神を勧請して三社明神と称し、奥戸村の鎮守としたそうだ。、、、、、、現在の社殿は昭和49年(1974)の造営。 今日は、盆踊りの準備中で境内は賑やかだ!

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みのり商店街・・・・・・・・・・新小岩駅の北側、蔵前橋通りを越えると“東新小岩”地区がある。 この地区のほぼ中央を南北に伸びる商店街がある。 新小岩駅といえば、南側のルミエール商店街が有名であるが、北側にはそれに対抗できる商店街は無いようだ。 ここ「みのり商店街」が、北側最大規模であるが、地元密着型の昭和の下町商店街で、夕方にならないと活気づかないそうだ。 約100の店舗で構成されているが、商店街の通りは長く(約600m)、店が密集していないので、チョイとみると寂しいね!、、、、、時刻は午前10時、まだ開店前だ!

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西井堀せせらぎパーク・・・・・・・・・・みのり商店街を抜け出ると、蔵前橋通りの巽橋交差点から奥戸の森永乳業の方へ向かうバス通りがある。 通りの中央には、水路を埋め立てた、約500mの「西井堀せせらぎパーク」と称する、親水公園もどきの公園がある。、、、、、公園は、意味不明のドラゴン(竜)をイメージした置物が点在し、水の流れない水路があり、誰も座っていないベンチが点在し、誰のための公園なのか?

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新小岩駅・・・・・・・・・・・・・只今、駅の南北を結ぶ自由通路整備工事を実施中。 平成30年(2018)の完成までは、ここ北口で行き止り。

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2016年7月23日 (土)

不忍池の蓮

今週は、“なんだかんだの大明神”、“あれよあれよと言う間にアバヨ”。 散歩もできず、流す泪に無情の雨が、、、、、今日も今日とて、昼から野暮用。 こうなりゃ、早朝の散歩だ!、、、、と言うことで、朝7時に不忍池に到着、見事に咲いた蓮の花を観賞し、帰りは世界遺産の前から帰宅。


・・・・・・・・・・・・上野公園の案内には、『この公園は明治6年(1873)の太政官布達によって、芝、浅草、深川、飛鳥山と共に日本で初めて公園に指定されました。 ここは江戸時代、東叡山寛永寺の境内地でした。それが明治維新後官有地となり、大正13年(1924)、宮内省を経て東京市に下賜されました。 当初は寛永寺社殿と霊廟、東照宮それに境内のサクラを中心にした公園でしたが、その後、博物館や動物園、美術館などが建てられ、文化の香り高い公園へと衣替しました。』と、記されている。 



不忍池・・・・・・・・・・先史時代の不忍池は、武蔵野台地の東端に位置する入江であったが、海岸線の後退により取り残されて池となったそうだ。 江戸時代以前には、藍染川が不忍池に流れ込み、池から先は忍川となって隅田川に流れ込んでいた。 江戸時代になると、幕府は不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島になぞらえ弁天島を築かせ、そこに弁天堂を作った。 戦後の一時期は水が抜かれて不忍田圃となり跡地に野球場を建設する案なども出されたが、昭和24年(1949)に池のまま保存することで合意がなされ現在に至っている。、、、、不忍池の蓮は江戸時代には、既に植えられていたそうだ。



・・・・・・・・・・・・早朝に開花し、昼には閉じる蓮の花、朝7時前だが、既に、アマチュアカメラマンが並んでる

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・・・・・・・・・・・・池一面、蓮の葉で覆われ、葉を掻き分けて花が開いてる

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・・・・・・・・・・・・・・綺麗なところをパチリ!

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・・・・・・・・・・・・皆さん、蓮の話題で楽しそう!

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・・・・・・・・・・・・・・池を回ってみる

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西郷隆盛像・・・・・・・・・・・・上野公園正面入口の階段上(古い人には上野聚楽の上)に、おなじみの西郷隆盛像が有る。 像は明治31年(1898)に、彫刻家:高村光雲の作により、建立されたもの。 慶応4年(1868)に江戸城を無血開城させ、江戸を戦火から救った功績によって造られたものである。、、、、、「上野の西郷さん」は、東京の観光名所で、待ち合わせスポットでもあった。 今は、観光客も通らず、この像の前で待ち合わせする人もいない。 時代はガラリと変わったね!

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彰義隊の墓・・・・・・・・・・・・・西郷さんの尻を眺める位置に、慶応4年(1868)、大政奉還に際して官軍と戦った彰義隊戦士の墓がある。 高さ約7.5mの大墓標で、碑名「戦士之墓」は山岡鉄舟の筆による。

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国立西洋美術館・・・・・・・・・・・・西洋美術館のある台東区では、世界遺産登録により盛り上がっている。 だが、我が町(台東区浅草橋)では、チョイと盛り上がりに欠けてるね。 今日はとりあえず、『おめでとう』と言いに来た。、、、、、美術館の設計はル・コルビジェによるが、彼の弟子である前川國男、坂倉順三、吉阪隆正らが実施設計に協力した。 施工は清水建設で、昭和34年(1959)に本館が完成する。 その後、昭和54年(1979)に新館も完成。、、、、、今日も朝から開館を待つ人の行列ができた

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2016年7月19日 (火)

隅田川駅

東京の気温は33℃と昨日に続き暑い日となる、今朝の天気予報。 でも30℃を超すのは午後からだろうと、自分に都合よく解釈し、朝から南千住にあるJR貨物の隅田川駅を一周してきた。


・・・・・・・・・・・・隅田川駅は、荒川区南千住4丁目にあり、JR貨物とJR東日本の所管する駅。、、、、、もともとは、東北方面に鉄道を建設していた日本鉄道が、常磐炭鉱から来る石炭を受け入れるために明治30年(1897)に設置した貨物駅。 東京の市街地へは隅田川駅構内に引き込まれた隅田川を利用し、水運により輸送された。 それゆえ、現在は高層マンションが建ち並んでいる隅田川沿いの部分までが、かつては駅構内であった。 今は、ひとまわり小さくなった貨物駅であるが、駅を一周すると約2.5㎞程の距離を歩くことになる。 『やはり、デカいね!』



・・・・・・・・・・・・隅田川駅の最寄り駅、南千住の駅前に立つ。 ロータリーには「奥の細道」矢立初めの地:千住を記した松尾芭蕉像を立て、その“千住”は南千住である強調している。 本当の矢立初めの地は、荒川区の南千住か? 足立区の北千住か? 芭蕉のみぞ知る!
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・・・・・・・・・・・・朝、近くの高層マンションの皆さんは隅田川駅前を急ぎ足で南千住駅に向かう。 カメラを抱えひまな親爺だけが、反対方向に向かうのだ!

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・・・・・・・・・・・・隅田川駅一周は、南千住駅前にあるJR貨物の墨田機関区と隅田川駅の入り口ゲートから

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・・・・・・・・・・・・・・・まずは、機留線に待機中の機関車

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・・・・・・・・・・・・構内の一隅もパチリ!

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・・・・・・・・・・・・駅北側のショッピングセンターから眺めると、こんな景色

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・・・・・・・・・・・・駅東側には、大型トラックが出入りするゲートがある 

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・・・・・・・・・・・・東側のゲートから構内を眺める、、、、、広すぎて、機関車が見えないぞ!

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・・・・・・・・・・・・東側のフェンス越しに、チョイと望遠で撮影

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・・・・・・・・・・・・駅南側は道路に面し関係会社の倉庫・工場などが並び、機関車は見えないので西側(田端側)へ出た。

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・・・・・・・・・・・・跨線橋の上からもパチリ!

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・・・・・・・・・・・・“雲じい”をまねて、空から、、、、、中央チョイ右は隅田川駅、中央左に日比谷線南千住駅、左端に常磐線南千住駅。、、、、、、高所恐怖症の私は、決死の覚悟で撮影に挑んだ。 「怖い怖いと 思えば怖い 怖さ恐れず 死を覚悟」

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・・・・・・・・・・・・EF652138電気機関車、、、、、EF65系電気機関車は日本国有鉄道が昭和40年(1965)に開発した直流用電気機関車である。 開発後34年間に308両製造された。、、、、、その内EF652138電気機関車は、昭和53年(1978)に製造され、当初は1138号として、宮原機関区に配置されデビューした。 その後JR貨物となり、100km/hを超える運転を行う車両に改良され、2012年より2138号に改番した。

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2016年7月16日 (土)

北千住

北千住駅の東側、荒川と東武伊勢崎線(東京スカイツリーライン)に囲まれた、日ノ出町、柳原2丁目を中心に、裏道を散歩してきた。



① 北千住駅東口・・・・・・・・北千住駅西口は、駅ビル:ルミネ、マルコとマルオのマルイがあり、大きく賑やかな商店街もあり、さらに日光街道(国道4号)沿いには大きなビルも建ち並び、足立区の玄関口と言っても過言ではないであろう。、、、、東口は、駅前に4年前東京電機大北千住キャンパスが開設され、チョイとは整備されてきたが、“昭和から平成に乗り遅れた、ただの下町”という雰囲気が残っている。、、、、、一言でいうと、“ショッピングの西口、買い物の東口”

・・・・・・・・・・・・東口を出ると、パチンコ屋、居酒屋、スパー、洋品店など、いろいろ小さな店舗が並ぶ「学園通り」商店街が伸びる。、、、、、“学園”とは、東口から100m程の距離にある、昭和4年(1929)に創立した中・高を教育する足立学園
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・・・・・・・・・・・・東口から50m程歩くと、東京電機大北千住キャンパスが見える

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② 日の出町団地・・・・・・・・駅の北東に、昭和43年(1968)に建てられた住宅公団の団地。 総戸数:764戸(4棟)。、、、、、駅から近く、便利でグゥ~~! ベランダがなく、浴室は窓がなく、トイレは狭く、水まわりはダメ!(入居者の談)

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③ 清亮寺・・・・・・・・・・・・・東武鉄道とJR、つくばエキスプレスの線路に挟まれた荒川土手沿いに、日蓮宗の久栄山清亮寺がある。 元和5年(1619)身延山久遠寺末として、水戸街道入口のこの地に創建された。 本尊は、一塔両尊四士合掌印、宗祖日蓮説法像を中心に、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、不動明王など、全部で15躯の木像で構成されている。 、、、、、、本堂は天保4年(1833)に再建の総欅造りで、随所に江戸期の建築様式を残している。 山門は昭和6年(1931)に再建された。 山門の扁額「久栄山」の書は、名筆:中村不折による。

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・・・・・・・・・・・・かつて門前の水戸街道に面して古松が茂り水戸光圀公ゆかりの「槍掛けの松」が境内にあった。 写真は関東大震災前に撮影されたそうだ。、、、、、千住名物“槍掛けだんご”を食べたくなるね!
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・・・・・・・・・・・・山門前、東武伊勢崎線の荒川放水路橋の下に煉瓦造の橋台跡が残されている。、、、、、東武伊勢崎線の北千住~久喜間の開通は明治32年(1899)である。 この橋台跡は、おそらく、その頃の造られたものと思われる。
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荒川土手・・・・・・・・・清亮寺前の旧水戸街道を東に歩くと荒川土手にぶつかる

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・・・・・・・・・・・・・・土手上に立つと、正面に東京拘置所が見える。 旧水戸街道は、荒川を渡り、拘置所の右側:小菅村に続いていた。

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・・・・・・・・・・・・左手には、東武伊勢崎線荒川放水路橋梁がある

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・・・・・・・・・・・・右手を見れば、荒川が右にカーブし流れ下る

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・・・・・・・・・・・・後ろを振り向けば、千住の町の先に見える東京スカイツリー

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・・・・・・・・・・・・足下には、アカツメクサの花が、、、、、私は、この花をアザミと間違え、ここで有名な都々逸を想い出す。 「君は野に咲くアザミの花よ 見ればやさしや 寄れば刺す」、、、、、私も、「バラやアザミに 刺されてみたい 痛さ知らない やさ男」

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柳原寺・・・・・・・・・・地図を見ると、北千住駅の東側に半円状の町がある、ここが足立区柳原である。 北側の柳原2丁目にある真言宗の理性院は瑠璃山柳原寺という。 この寺は柳原の名がついているように柳原村の唯一の寺であった。 もともとは、村の北のはずれにあったが、荒川放水路開削工事では境内は全て河川敷とされたため、2㎞程南の現在地へ移転した。このときも本堂を始めとして建物全部を曳家で移転したと言われている。

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柳原稲荷神社・・・・・・・・柳原村の鎮守として慶長11年(1606)に創建された古社である。 柳原寺(理性院)と両輪をなし柳原村の崇敬を集めていた。、、、、、寛政6年(1794)に再建された拝殿は民家と間違えるような入母屋造りで、独特の風情をかもし出している。

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・・・・・・・・・・・・境内の富士塚は昭和8年(1933)に築かれたもので、直線的に山頂に通じる参道も珍しい。

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柳原千草通り・・・・・・・・・・柳原2丁目にある、細い寂れた商店街。 商店街全体が“昭和”の遺産のようだ。、、、、、じっくりと下町の風情にふれて、幼き頃を想い出す

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● ・・・・・・・・・・・「千草通り」を抜けると「学園通り」につながり、駅はスグソコ!

2016年7月14日 (木)

船堀~新小岩

都営新宿線船堀駅から、北に向かい総武線新小岩駅までの散歩です。



①船堀駅・・・・・・・・・・昭和58年(1983)12月23日に開業した、都営新宿線の駅。 相対式ホーム2面2線の高架駅。、、、、、船堀は、かつて金魚の養殖が盛んな町であった、現在も、養殖業者が3軒程残っているそうだ。 駅舎の外壁には、大きな金魚の壁画が描かれている。
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②タワーホール船堀・・・・・・・・・船堀駅の真ん前に立つ無料展望台。 江戸川区が平成3年(1991)にオープンした、高さ115mの展望室を備えた、ホールなどもある区民施設。、、、、、過去に数回上ってみたが、平日の午前中は空いており、エレベータに案内してくれるお嬢さんと二人きりで同乗すると、チョイと緊張する。 今日は時間も早かったので、寄らずに素通り。
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③東小松川の社寺・・・・・・・・・・・・東に船堀街道がとおり、西に中川が流れる、その間に東小松川の町がある。 ギャンブル好きには「江戸川競艇場 」のある町と言えば判るだろう。

・・・・・・・・・・・・東小松川の住宅地の道に入っていくと、東小松川4丁目に小さな社の「渡し場水神宮・渡し場観音堂」がある。、、、、、この付近は、昔、低湿地帯であり、たびたび洪水に悩まされていた。 そのため、洪水除けの神として、さらに川の交通での安全を願い水難除けの神として、水神様が祀られていた。
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・・・・・・・・・・・・水神宮の横の道を、道なりに北方に進むと、東小松川白髭神社がある。、、、、、、神社の創建年代は不詳であるが、建治年間(1275-1278、鎌倉時代)の創建と伝えられ、東小松川香取神社や浮洲明神社と共に旧東小松川村の鎮守社であった。 中川放水路の開削に伴い浮洲明神社は、当神社の境内に遷座された。、、、、、、水害から神社を守るためか、神輿庫、狛犬、社殿など、コンクリートで基礎部分を1m程高くしている。

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・・・・・・・・・・・・東小松川2丁目に入ると、真言宗の香取山宝積院松泉寺がある。 参道の左右は墓所となって、正面に鉄筋コンクリート造の本堂がある。 創建年代不詳。

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・・・・・・・・・・・・東小松川2丁目の源法寺は、浄土宗に属し、壽覚山無量院と号します。 天正元年(1573)に開山した。 三代将軍家光からは御朱印地六石を授かった名刹らしい。 この付近では、かなり大きな寺である。

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・・・・・・・・・・・・源法寺の裏(北東側)には中之庭地蔵堂がある。 「中之庭」とは、かつてこの地の集落名。、、、、、、天保9年(1838)に当地の太田家の先祖が霊夢を感じて、現在の境川親水公園辺りの河底捜したところ出現した地蔵さまといわれている。 昭和8年(1933)には、それまで露仏であった石像に堂を建てて鎮め祀った。

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④鈴木工業・・・・・・・・・東小松川2丁目の金属加工の会社。 こちらの会社は昭和2年(1927)頃に創業し、現在は3代目が経営しているそうだ。 会社の社屋は、創業時のまま残っているそうで、昭和初期の木造建築である。 外壁は、最近塗り替えられた。、、、、今日は、工場で最も古い方に話を聞くことができ、話では、戦時中、工場で砲弾などを製作したため、社屋には憲兵が常駐していたそうだ。 また、社屋横のコンクリート造の変電室もその頃の建物だった。 さらに、正門の門柱は、かつて日比谷の帝国ホテルに在ったものだそうだ。 私の推測では、初代の帝国ホテル(明治23年竣工、大正8年焼失)のものか、二代目の帝国ホテル(ライトの設計、明治村に移築保存)の裏門とか通用門などの門柱か?、、、、、、箱根駅伝を映画化した「風が強く吹いている」のロケも、一部ここで行われたそうだ。

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⑤赤稲荷神社・・・・・・首都高7号の高架をくぐり松江1丁目に、赤い、ケバイ、派手で小さな神社がある。 これぞ、赤稲荷神社である。、、、、宇加能魂命を祀り、創建は不詳。 真っ赤な幟がはためいて、町中の町民の信仰を集めているらしい。(ほんとかな?) 境内は、首都高の用地買収で敷地が半減し、現在の社殿は昭和44年(1969)に平井の諏訪神社の拝殿を移築したそうだ。、、、、、ようするに、中古の社殿を真っ赤にペイントした神社。(失礼!)

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⑥東小松川交差点・・・・・・・京葉道路(国道14号)に船堀街道(都道308号)がぶつかる交差点。 船堀街道はここまで、この先は千葉街道(国道14号)として、小岩駅方面に伸びていく。

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⑦東小松川香取神社・・・・・・・・千葉街道、八蔵橋交差点角に鎮座する経津主命を祀る香取神社。 建治3年(1277)の勧請といわれ、東小松川村の鎮守さま。 社殿は昭和12年(1937)に新築された。

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新小岩駅 ・・・・・・・・新小岩駅へ到着

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2016年7月11日 (月)

青物横丁~大森

京浜急行本線の青物横丁駅から、JR大森駅までの散歩です。


青物横丁駅・・・・・・・・・青物横丁駅は京浜急行で品川駅から三駅目、日本で唯一、駅名に“横丁”が付く駅である。 駅近くに、小さな店舗が集まった場末のスーパー“青物横丁”存在するようなイメージの駅名がいいね!、、、、駅名は、江戸時代に農民が、現駅の東隣にある品川寺門前付近で、青物を持ち寄り市場を開いたことに由来する。 当時は「青物横町」と呼ばれていた。 現在は駅の東側に並行する旧東海道を中心に「青物横丁商店街」と命名した広域の商店街があるが、江戸時代の市場とは無関係。、、、、、明治37年(1904)5月8日、「青物横町」駅として開業した。(“横町”が“横丁”となった時期は不明) 昭和53年(1978)から始められた高架化工事は、平成2年(1990)12月までに高架化され、新駅舎は平成3年(1991)12月に完成し使用を開始した。 さらに、平成9年(1997)には、ホームを延長し12両の停車も可能となった。 長~い、相対式ホーム2面2線の高架駅。

・・・・・・・・・・・・短い編成の電車は品川寄りに停車するため、横浜寄りで待っていたら、大慌て!、、、『電車が来たぞ、いそげ!』
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・・・・・・・・・・・・高架下の駅出入口、、、、今日の散歩は、旧東海道とは駅を挟み、反対側(西側)を歩くことにした。

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海晏寺 ・・・・・・・・・・・青物横丁駅を出て、西側に並行する第一京浜国道を横断すると海晏寺(かいあんじ)がある。 曹洞宗の寺院で、建長3年(1251)の開山。、、、、岩倉具視や松平慶永など著名人の墓もある。

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旧仙台坂・・・・・・・海晏寺を挟み、南側に「旧仙台坂」、北側に「仙台坂」がある。、、、、まずは、南の旧仙台坂について、、、、教育委員会の設置した案内標識には、『江戸時代(1603~1867)に、この坂の中程から上にかけて仙台藩伊達陸奥守の下屋敷があったことから、東大井四丁目と南品川五丁目の間のこの坂は仙台坂と呼ばれていました。 しかし、現在は青物横丁に抜ける坂道が拡幅され交通量が増加したために、その坂の方を一般的には仙台坂と呼ぶようになり、こちらは旧仙台坂と言われるようになりました。』と標されている。、、、、、この坂は、別名「くらやみ坂」と呼ばれていた。、、、、、近年、坂の中央に造られた車道用のトンネルは「仙台坂トンネル」と名付けられている。 ややこしいね!

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仙台坂・・・・・・・・・・・次は、海晏寺の北側、池上通りの仙台坂。、、、、、旧仙台坂と仙台坂は、ともに坂上で交差しているため、大井町方面から下ると、どちらも第一京浜に出る。 そうなると、道路幅の広い池上通りの方が交通量が増え、坂名が交通量の多い現:仙台坂に移転してしまった。、、、、、つまりは、旧仙台坂が本家本元で、仙台坂は後の名義借りである。

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八木合名会社仙台味噌醸造所・・・・・・・・・仙台坂と旧仙台坂の上った交差点(品川区東大井4)に、伊達藩の味噌蔵を引き継いだ味噌屋が在る。、、、、この地は、江戸時代、伊達藩の江戸下屋敷であった。 伊達藩では備蓄食料確保の観点から寛永2年以来味噌蔵をもち、醸造を始めた。 当時の江戸の味噌は甘く、東北武士の口に合わなかったため、三千名を超える江戸在勤の士卒に与える味噌は必需品であった。 幕末になると、自給自足のためばかりではなく、余ったものを一般にも販売するようになり、半ば商売となった。 江戸市民は仙台の殿様のお屋敷で出来る味噌というので、仙台味噌と呼ぶようになった。、、、、、味噌蔵は明治時代に八木久兵衛に払い下げ、今日に至っている。

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見晴らし通り・・・・・・・・仙台坂上の交差点から、JR東海道線と京急本線が並行する間に、東大井3丁目と6丁目の境で大森方向に伸びる裏道がある。、、、、、古くからある道のひとつで、人家の少ない時代には品川の海や遠く富士山も見える見晴らしのよい道であったため、いつとはなしに「見晴らし通り」と呼ばれるようになったそうだ。、、、、、今は、人家が軒を連ね、富士山は見えず、さりとて、商店街の賑わいも見えず、見えるは踏んではいけない犬の糞。
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大福生寺・・・・・・・・・・見晴らし通りの南端に、天台宗の大福生寺がある。 海賞山地蔵院と号し、明治14年(1881)に宇賀神寶海和尚が目黒不動瀧泉寺を退き、 隠居の寺として日本橋蛎殻町(水天宮の近所)に一寺を建立し、その後、明治25年(1892)に現在地へ移転した。、、、、、昭和20年(1945)5月太平洋戦争大空襲で寺を全焼し、昭和25年(1950)本堂復興、昭和58年(1983)護摩堂を建立する。、、、、、建物は戦後の建築で面白くないが、さほど広くない庭だが綺麗に掃除され心地よい寺だ!

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大森駅前住宅・・・・・・・・・大森駅の近く、昭和45年(1970)に竣工した東京都住宅供給公社が販売したマンション。 鉄骨鉄筋コンクリート造、地上13階建て、総戸数759戸、、、、、駅に近く、歩く人を圧倒する感じだ。 ちなみに、2LDKで3000万円以上らしい。、、、、私には、買う気はないが、買う金もない、“COWはイギリスの雄牛”

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大森駅歩道橋・・・・・・・・・大森駅北口橋上駅舎に通じる、昭和60年(1985)に完成した跨線歩道橋。 この歩道橋により、駅の北側で、線路を跨いで東西を行き来することが可能となった。、、、、、屋根もあり、エスカレータもある、“やさし・うれし”の歩道橋。

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2016年7月10日 (日)

四万六千日

午前、国民の義務により、夫婦で母をつれ参議院議員選挙の投票を行う。 午後、仏への義理で、炎天下、四万六千日(ほうずき市)に行ってきた。

・・・・・・・・・・四万六千日とは、、、、、、7月10日に観音さまに参拝すれば、四万六千日(約126年分)も日参したほどの大きなご利益にあずかるといわれます。  浅草寺では9日・10日の両日に、雷除の守札と、ご祈禱の黄札を授かることができる。、、、、、、、また、この両日には、「四万六千日」のご縁日にちなみ、「ほおずき市」が開かれている。 ただし、本来は四万六千日とほうずき市は別物であった。、、、、、ほうずき市は、芝の愛宕神社の縁日に始まり、「ほおずきを水で鵜呑(うの)みにすると、大人は癪(しゃく)を切り、子どもは虫の気を去る」といわれるなど薬草として効果が期待されていた。 その愛宕神社の縁日は観音さまの功徳日にならい四万六千日と呼んでいたが、やがて「四万六千日ならば浅草寺が本家本元」とされ、ほおずきの市が浅草寺境内にも立つようになり、かえって愛宕神社をしのぎ盛大になったと言われている。、、、、、“本家本元”が“元祖”四万六千日を乗っ取ったようなもの?


・・・・・・・・・・・・今日も、雷門の人出は凄い!
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・・・・・・・・・・・・自撮り棒の使用は禁止だが、ナイショで、可愛さに免じ大目に見てやろう。
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・・・・・・・・・・・・仲見世では、中国語と日本語がコラボし、韓国語が度々混ざり、何を話しているかサッパリ判らん!
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・・・・・・・・・・・・宝蔵門(仁王門)の横で、ほうずき市が開かれているため、コレ・マタ・もの凄い人の数。
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・・・・・・・・・・・・まずは本堂に向かう
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・・・・・・・・・・・・“線香焚くなよ!”と、叫びたくなる暑さ。、、、、、、ここで一句、『 炎立つ四万六千日の大香炉  水原秋桜子
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・・・・・・・・・・・・初詣を連想する人出、、、、、賽銭も空を飛ぶ!
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・・・・・・・・・・・・手を合わせたら、ほうずき市へ、、、、、ところで、“ほおずき”は漢字で“酸漿”、または“鬼灯”と書く。 今は食用のほうずきがあるが、大昔の平安時代は鎮静剤として使用され、江戸時代には堕胎剤として使用されたそうだ。、、、お盆には、ガクに包まれたほうずきを提灯に見立て、精霊を迎える盆棚に飾る行事が続いている。
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・・・・・・・・・・・・赤いほうずきを見て、チョイと一言、、、、ほうずきは秋の季語、、、、『 鬼灯は実も葉もからも紅葉哉   松尾芭蕉
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・・・・・・・・・・・・・可愛い売り娘はいるかな? 昔の売り娘もいる!
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・・・・・・・・・・・・・終わりに一句、『 鬼灯を地にちかぢかと提げ帰る   山口誓子

2016年7月 8日 (金)

秋山~本八幡

北総線秋山駅で下車したが、何回かここから本八幡まで歩いたことがある。 今日は少し東側を歩き武蔵野線のいずれかの駅に向かうつもりで、駅前をスタートした。 しばらく県道を歩いていたが、途中から裏道・横道・脇道・細道を歩きだした。 のんびりと、田舎道を歩いていたつもりだが、“何だか見たことある景色だな!”とおもった、時すでに遅しで、昨年秋に歩いた曽谷貝塚に出てしまった。 シマッタ~! 後悔しつつも、道を戻る気にもならず、曽谷貝塚の付近からは、同じルートを歩き総武線本八幡駅に着いた。


①秋山駅・・・・・・・・平成3年(1991)3月31日、北総線京成高砂駅~新鎌ヶ谷駅間(12.7km)開業のとき、同時に秋山駅も開業した。 掘割状の底に、半地下式で相対式ホーム2面2線を有する駅。 駅出入口は一ヵ所のみで、駅前ロータリーに面する。 開業してから25年、いまだ駅前にコンビニが無い、不便な駅だ!

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②東へ向かう・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・昨年秋に歩いたときは、正面の住宅地に向かう階段を上った。 今日は、正面を左(東向き)に折れて武蔵野線の方に向かう、、、、、
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・・・・・・・・・・・・“北総台地の畑も収穫が終わっり、次は何を植えるのだ? 枝豆を収穫し、今度は南京豆かな?”などと、勝手気ままに想像して歩く。
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・・・・・・・・・・・・野菜の直売所では、枝豆、大根、トマト、玉葱、どれも安いよ! 
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③高塚八幡神社・・・・・・・・松戸市高塚新田では、歩いていた県道180号線に面して、鳥居が見えた。 参道は両側に緑が茂り、距離も長いため、県道の騒音もスグに消され、静かな境内に繋がる。、、、、高塚八幡神社は源義経が木曽義仲を追討した宇治川の合戦で活躍した名馬「生月(いけずき)」が眠る塚の上に祀(まつ)られており、「高塚」の地名のもとになっている。 境内には、それらしき痕跡を示すものは残されていない。、、、、神社は誉田別命(ほんだわけのみこと)を祭神として祀る。
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④梨香台団・・・・・・・・高塚八幡神社を後にして県道に戻ったが、交通量が多く、歩いても楽しくなさそうだ。 “チョイと横道へ”、これが昨年と同じルートを歩くことになる、失敗の始まりとなった。

・・・・・・・・・・・・県道から横道に入ると、「梨香台」のバス停がある。 チョイとデカそうな団地があるな。 気になり奥へ、、、、、
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・・・・・・・・・・・・ここ「梨香台団地」は、松戸市の南東部(松戸市高塚新田)に位置し、団地周辺には梨園も多く、緑豊かな高台にある。、、、、、昭和50年(1975年)完成の梨香台団地は、総戸数960戸(11棟)のURの団地。、、、、、、この団地と隣の高塚団地ができたことにより、この付近の人口が急増し、団地の周辺部にも住宅地が形成されるようになった。 昭和47年(1972年)には「日本最初の五階建て校舎」を持つ小学校が団地の前に創立された。 この団地は、首都圏の人口を急増させた張本人か?
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⑤松戸市の最南端:高塚新田・・・・・・・・梨香台団地抜け、松戸市高塚新田の中でも、最南端の地区を歩く、、、、、

・・・・・・・・・・・・裏道を歩き高台に立った。 歩いていると、方向は判らず? この辺は、地名も判らず? どうでもイイや!
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・・・・・・・・・・・・道端に、ズラリ並んだ馬頭観音。 明治年号、大正もある、昭和もある、中央舟型の馬頭観音は「文政5年」江戸時代後期の建立だ!
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・・・・・・・・・・・・昔の「精工舎」、今は「セイコーインスツルメンツ(株)」の高塚事業所前を通過。
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・・・・・・・・・・・・工場の近くでさらに裏道を歩くと、台地の上(松戸市高塚新田)から、台地の下(市川市曽谷)に下る、名もない急な坂があった。、、、、、冬、雪が積もればスキーができるゲレンデに近い町か?
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⑤市川市曽谷の町・・・・・・・急な斜面を下りると、そこは市川市「曽谷」の町であった。

・・・・・・・・・・・・谷底の曽谷の町を歩いていると、今度は急な上り坂。 『アレ?この坂、来たことあるぞ!』 ソ~ヤ、去年歩いた坂だ! 市川市曽谷2丁目と4丁目、町の境となる坂である。 歳のせいだ、上りはキツイ! このキツさは記憶に残っている!
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・・・・・・・・・・・・去年歩いた道に出たと、言うことは、私は武蔵野線の駅に向かっておらず、総武線本八幡駅の方向に歩いているのだ。 坂を上がると「曽谷貝塚」の跡で、お年寄りがゲートボールを楽しんでいた。
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●・・・・・・・・・・・これより先、本八幡駅までは、去年(2015/10/15)と同じルートを歩く。

2016年7月 6日 (水)

西馬込~荏原町

都営浅草線に乗り、終点の西馬込駅で下車。 足の向くまま、気の向くまま、駅から北西の「上池台」の町を抜け、池上線長原駅の手前で環七通りを横断し、大井町線荏原町駅までの散歩です。


①西馬込駅・・・・・・・・昭和43年(1968)、都営1号線(現:浅草線)の駅として開業。 ホームは第二京浜(国道1号)の地下にあり、相対式2面2線の終着駅だが、車止めは無い。 線路はこの先の車両基地:「馬込車両検修場」へと続く。

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・・・・・・・・・・・・東へ歩くか、西へ向かうか、それとも南か、北か、西馬込商店会の旗が下がる道を西に向かうことにした。
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②馬込給水塔・・・・・・・・西馬込商店会の先の坂を上ると、西馬込2丁目の高台に二つの給水塔がある。、、、、大田区・品川区の給水状況を改善するため、戦後、多摩川浄水場・長沢浄水場より水を引き、配水できるように馬込の高台に造られた給水塔。 高さは28m、直径32m、容量9,000m3、鉄筋コンクリート造の、白い屋根の第一給水塔は昭和26年(1951)に完成、黒い屋根の第二給水塔は昭和29年(1954)に完成した。、、、、、建設時は、東洋一の規模を誇る給水塔であった。 現在は無人で管理され、立ち入り禁止となっている。 本当に、水が溜まっているか、中を覗いてみたいね!
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③六郎坂・・・・・・・・給水塔の近く:仲池上一丁目にある坂道。 坂の由来が書かれた標識がある、『おや!有名な坂か?』  標識には、『江戸時代後期、池上村のために尽くした海老沢六郎左衛門の屋敷が坂に沿ってあったことに由来します。 仲池上、上池台付近は耕地整理によりできた坂道が多いのですが、これは古くからある坂道です。・・・・・・』と記されていた。  『なんだ、六郎の家の前にあった坂、たったそれだけの話か!』
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④林昌寺・・・・・・・・六郎坂を下ると、池上本門寺の僧:福寿院日迨が、上池上の地に閑居し、草庵を結んだのが寺のはじまりと言われている、日蓮宗の林昌寺がある。 文亀3年(1503)の開創で、500年の歴史をもつ古刹。
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⑤子安八幡神社・・・・・・・・林昌寺の北側:大田区仲池上にある八幡神社。 子安八幡神社は、池上本門寺の開基ともなった当地の領主池上宗仲が、鶴岡八幡宮の分霊を勧請して康元元年(1256)に創建した。 その後、池上本門寺の伽藍造立に際し、天正9年(1581)に現在地へ遷座された。、、、、、天保14年(1843)造の旧社殿は大正14年(1925)に惜しくも焼失し、昭和2年(1927)9月に鉄筋コンクリート造にて現社殿が再建された。 同じ鉄筋コンクリート造の神田明神は昭和9年(1934)に竣工したので、それより古い神社である。 チョイと塗装の劣化が目立ち、痛々しく感じるね。、、、、社殿はかなりの高台にあり、片肺が小さくなった私には、辛い急な階段をである。
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⑥長慶寺・・・・・・・・新幹線のガードを抜けて、東雪谷五丁目交差点に、日蓮宗の長慶寺がある。 開創年代は不詳だが、慶長3年(1598)以前に草創されたらしい。 はじめ荏原郡碑文谷村(目黒区碑文谷)にあったが、後に現在地へ移転した。
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⑦上池台・・・・・・・・・上池台3丁目、4丁目を環七通りの方向(北東)に向かう。 やたら、坂の多い町だ!、、、、、車は少なく歩きやすいが、アップ・ダウンが多すぎる!
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⑧カトリック聖ヨハネ洗足教会・・・・・・・上池台4丁目、環七通りに面し、カトリック教会があった。 教会には幼稚園が併設され、数名の御婦人が聖堂前でウロウロしていた。 何やら変な親爺が聖堂前に現れたと思われたであろう、チョイと怪しまれたかも? 聖堂の内部を見たく、教会の扉を開いた瞬間! ウワ~~、ゴメンゴメン、ユルシテチョー。 100名ぐらいの御婦人が聖堂に集まっていた。 驚きと恥ずかしさのあまり、あわてて扉を閉め、聖堂前の御婦人に向け笑い顔でとりつくろい、無言で立ち去ってきた!、、、、、と言うことで、内部の写真は撮れず、聖堂の正面も撮れず、側面と裏をパチリ!、、、、、調べてみたら、昭和25年(1950)に建てられた、高さ11m、ゴシック様式の木造建築である。、、、、残念であったが、日を改めて、また来ることにしよう。
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⑨階段と斜路が混在する坂・・・・・・・・・北馬込1丁目18と19の界にある坂。 階段と斜路が混在する坂道で、『歩きにくいね!』と、叫びたくなるのは私だけではあるまい。
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・・・・・・・・・・・・この坂を上がり直進すると、東急大井町線荏原町駅の脇に出た!
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⑩荏原町駅・・・・・・・・昭和2年(1927)7月6日、大井町線の開業と同時に駅も開業した。 ちょうど今日は、駅の89歳の誕生日であった。、、、、、相対式2面2線のホームを有する荏原町駅は品川区中延にある。
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2016年7月 4日 (月)

青井~小菅

気温が30℃を超えないうちに、散歩を終わらせる気持ちで、早めに家を出た。 しかし気持ちに反し戸外は暑く、たちまち身体中から汗が吹き出し、ダラダラ、ベトベト、汗を拭き拭き、、、テカテカ、ガンガン、強い日差しを受けて、、、男一匹どこへ行く。、、、、、、つくばエクスプレスの青井駅から、東武伊勢崎線の小菅駅までの散歩です。


①青井駅・・・・・・・・・首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスの地下駅。 平成17年(2005)、つくばエクスプレスの開通と同時に開業した。 秋葉原駅からここまでは5駅14分で、驚異的な速さ!、、、、、駅は、都営住宅の中にあるような感じで、周囲は都営住宅、マンション、アパートが建つ住宅地。

・・・・・・・・・・・・地下ホームに到着する普通電車。 “快速”は全て通過する悲しい駅!

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・・・・・・・・・・・・都営住宅「青井三丁目第3アパート」(12棟、458戸)の前が駅出入口。
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②四ツ家稲荷神社・・・・・・・・駅の東側、狭い裏通りを、右に、左に、折れて、曲がって、道に迷って、たどり着く、青井2丁目にある神社。 この地は安土桃山時代に開かれ、神社の創建もその頃らしい。 社名の「四ツ家」は現:青井2丁目と弘道1丁目をかって「四ツ家町」と呼んでいたことに由来する。、、、、、祭神は、宇迦之御魂命と徳川家康のペア。 江戸時代、四ツ家には、東の宮と西の宮の二つの稲荷社があった。 近代になって、1村1社政策が進められたため、現在地にあった西の宮に東の宮が合祀され、その際、近くの屋敷神だった「権現さま」(徳川家康)も合祀した。
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③四家交差点・・・・・・・弘道1丁目と中央本町2丁目・3丁目と青井1丁目・2丁目が接する四家(よつや)交差点は、6か所の信号が混乱なく点滅する六叉路となっている。、、、、パノラマ写真で撮ってみたが、6本の道路、判るかな。
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④廃墟となった飲み屋街・・・・・・・足立区中央本町2丁目、五反野駅前の通りを500m程北へ向かった処にある飲み屋街。 路の両側に10軒ほどのスナック・呑み屋が並んでいるが、全て店は閉じられ、雑草も生え、空家のようだ。、、、、、地の利は悪くない、駅前のメイン道路から入る、建物は長屋造りだが朽ちてはいない、なぜ廃業したのか? 一軒も残っていない! 地上げされたか?、、、、、、私は飲めないが、“昭和の飲み屋街”が無くなるのは寂しいね。
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五反野駅・・・・・・・大正13年(1924)10月1日に開業した、90年以上の歴史ある駅。、、、、今日は、駅前を通過。
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⑥西之宮稲荷神社・・・・・・・・足立区足立3丁目、五反野駅と小菅駅の中程に、西之宮稲荷神社がある。 創建年代不詳。 かつて、現:五反野駅周辺には、東之宮稲荷、本田之宮稲荷、西之宮稲荷、氷川社があった。 この4社は、大正元年(1912)に一つにまとまり西之宮稲荷神社となった。 社殿は戦災により焼失し、昭和30年(1955)に再建されたが、平成12年(2000)に現社殿が建てられた。、、、、、境内は、駐車場のように広い、サイドビジネスでコインパーキングでもやるか?
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⑦プチテラス・・・・・・・・足立区では、街角の小さな公園・広場を「プチテラス」と呼んで、地域のふれあい施設として整備している。 その一つ、足立3丁目のプチテラスには、リンゴの彫刻がある。、、、、リンゴの丸みが、なぜか安らぎを与えてくれるようだ。 食べないでね!
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⑧小菅駅・・・・・・・・大正13年(1924)10月1日に 開業した、東武伊勢崎線の駅。 駅の所在地は足立区足立であり、「小菅」という地名は駅の南東側:葛飾区の地名である。、、、、、昭和46年(1971)に東京拘置所が池袋から移ってきて以来、「小菅と言えば拘置所」というイメージが根付いてしまった。 ただし、東京拘置所がある場所には、もともと小菅刑務所があった。、、、、駅は南東の拘置所側に出入口が一ヵ所あるのみ。 駅前の商店もなく、寂しい駅である。


・・・・・・・・・・・小菅駅で美人を見ると、私の妄想がはじまる、、、、左肩をいからせ、、、、銀幕のスター:東映映画の高倉健に変身する。

 

・・・・・・・・・・・塀の中の愛する男(私)に、会いに来た恋人は、多くを語らず、目と目で別れを告げ、人気のない駅へ向かう。

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・・・・・・・・・・・・ホームから、愛する男(私)が収監された建物を静かに見つめ、一筋の涙を流し去っていく。
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・・・・・・・・・・・・恋人が去った小菅駅を、特急「りょうもう」が無情にも楽しい思い出を乗せて通過する。、、、、塀の中の男には、想像できない悲しい光景である。
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・・・・・・・・・・・・『THE END』

2016年7月 3日 (日)

浅草橋~押上

いよいよ夏本番か、東京は33℃、猛暑のはじまりである。 まだ、熱中症であの世に行きたくないので、暑い日の散歩は控えることにした。 でも夜なら涼しいだろうと、チョックラ、我が家(浅草橋)からスカイツリーの押上まで歩いてきた。、、、、、家へ帰ったら、肌着までビッチョリの汗、拭いても拭いてもダラダラの汗、、、、、夏を実感した汗だ!


・・・・・・・・・・・・夕暮れの蔵前、、、、、、今日は日曜、商店はシャッターをおろし静かである。

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・・・・・・・・・・・・蔵前橋の際から隅田川テラスにおりてみた。
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・・・・・・・・・・・・夜の厩橋もいいね!
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・・・・・・・・・・・・厩橋から眺めるスカイツリー
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・・・・・・・・・・・・浅草寺の本尊:聖観音像の「示現の地」である駒形橋の際、ライトアップされた駒形堂がある。
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・・・・・・・・・・・・駒形橋を渡り対岸の墨田区へ
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・・・・・・・・・・・・駒形橋東詰(墨田区側)のたもと、高速道路下に駒形橋交番がある。 現在は地域安全センターと称しているが、昭和初期に作られた交番の一つで、現存する当時の交番は少なく、貴重な建物である。
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・・・・・・・・・・・・墨田区吾妻橋から見上げるスカイツリー
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・・・・・・・・・・・・スカイツリータウンに到着
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2016年7月 1日 (金)

北国分~市川

「7月1日」今日は何の日?、、、、、テレビのニュースでは、山開き、海開きの映像が流れ、梅雨明けの予報が行われていた。 高齢者の方には、チョイと懐かしいところで、70年前の昭和21年(1946)7月1日は、ラジオで「尋ね人」の放送が開始された日である。 昭和37年(1962)3月31日まで放送された番組で、アナウンサーにより、引揚船名、到着港、そして、帰国される方の氏名が次々と読み上げられた。 我が家では、特に”誰”といって探していたわけではないが、当時、ラジオをつけっ放しで生活をしていたので、幼い私にはBGMとなり、身体に染みついてしまった懐かしい番組となった。、、、、数年前、その懐かしさのあまり、「尋ね人」を録音したコンテンツを求めて、舞鶴の「引揚記念館」、九段の「昭和館」、川口の「NHKアーカイブス」と捜し歩いてきた。 最後に、愛宕山の「NHK放送博物館」で録音したコンテンツの有無を訊ねたら、対応してくれた可愛い娘が『個人情報に該当しますから質問に応えられません』。 そうか!、録音したものは残っているのだ、しかし御時世が公開を許さず、いくら探しても無かったのだ、納得!、、、、、、、以上、雅万歩の独り言でした。

今日の散歩は、北総線北国分駅から総武線市川駅までです。 今日歩いた経路とほぼ同じ経路で、3月23日に歩いていたので、詳細はこちらを見てね!



①北国分駅
・・・・・・・電車を降りると、曇り空で日差しも和らいでいるようだが、朝からムシムシ、ベトベトの、イヤイヤ嫌な天気。

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②権現原貝塚・・・・・・・・北国分駅から南に300m程の高台に貝塚はある。 昭和60年(1985)に出土した縄文土器には、イノシシの顔とみられる線刻画が描かれていたそうだ。、、、、何やら、貴重な貝塚らしいが、出土品は博物館などに持っていかれ、調査後の貝塚は埋め戻され、現地に残るのは“ここに貝塚があったよ”と示す石碑だけ。 つまらないね!

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・・・・・・・・・・・・貝塚から眺める市川市堀之内地区

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③中国分の町・・・・・・・青々としたネギ、まだ小粒のナシ、収穫が楽しみな畑と共存する町。、、、、、「中国分」は(なかこくぶん)と読む地名。 中国(チャイナ)とは関係ないジャイナ。

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下総国分寺・・・・・・・市川市国分3丁目にある、正真正銘、奈良時代に建てられた国分寺の跡に建つ後継寺院。

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・・・・・・・・・・・・近くには、下総国分寺跡の碑がある。 寺の全容は地中に埋められたままだ。

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郭沫若記念館・・・・・・・市川市真間5丁目、中国の文人・政治家で大正3年(1914)から10年程、日本で亡命生活をおくった郭沫若(かくまつじゃく)(1892~1978)の記念館に立ち寄ってみた。、、、、、郭沫若が家族とともに暮らした旧宅が、平成16年(2004)に移築復元されている。 案内していただいた方の説明では、「移築」といっても、旧宅は真間川沿いにあり、水害などで杉材の柱・梁は利用できず、床柱、ガラス戸などの建具だけが再利用できたとのこと。 しかし、間取りなどは忠実に再現したそうだ。、、、、戦後、中華人民共和国の副総理となった、偉い人の旧宅とは思えない質素な建物。

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⑥須和田公園・・・・・・・・郭沫若記念館の南、市川市須和田に須和田公園がある。、、、、、ここは、弥生時代後期の須和田遺跡を整備し公園としたそうだ。 発掘調査によって、5棟の住居跡がみつかり、布目瓦や文様瓦、文字を墨書きした土器なども出土したそうだ。
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・・・・・・・・・・・・公園内には、郭沫若の「須和田」詩碑がある。、、、、、昭和30年(1955)、中国学術文化視察団の団長として、日本学術会議の招きで訪日した際、旧居を久しぶりに訪れた感慨を、格調高く歌いあげた長詩が「別須和田」(須和田に別る)である。 昭和42年(1967)、旧宅にほど近い須和田公園内に黒御影石の詩碑が建立された。、、、、、全て漢字の長い詩で、私にはもちろん読めないが、先の記念館で対訳した資料を頂戴し、それを見て、『なるほど、なるほど、いい詩を書くね!』

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⑦市川駅・・・・・・・・・真間川を越え、市川駅に到着。

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