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2016年10月

2016年10月31日 (月)

浅草橋~鶯谷

浅草橋の我が家から、下谷神社、両大師橋、寛永寺をとおり鶯谷駅まで、1万2千歩、8kmの散歩です。



台東区の建築・・・・・・・・・私の住む台東区には、関東大震災後、戦前から戦後にかけて建てられた看板建築の店舗兼住宅や、出桁造りの商家が、まだ多く残っている。、、、、、我が家から上野にかけ、 道すがら、数軒撮ってきた。


・・・・・・・・・・・・・・・まずは、随所に残る、古くからの木造出桁造り(だしげたづくり)の商家

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・・・・・・・・・・・・・関東大震災(大正12年)後、神田、上野、人形町などの下町に流行した看板建築(かんばんけんちく)は、木造建築の前面にモルタルで自由な造形を施し、看板を兼ねた外壁の建物である。 鉄筋コンクリート造で建てる資金のない、下町の中小の商店では、商人の粋と見栄の張り合いで、看板建築が多く建てられた。

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・・・・・・・・・・・・・・・関東大震災で被災し、防火意識も高揚し、外壁に高価な銅板を張った銅板建築も流行する。、、、、、長い間風雨にさらされ、黒く変わった銅板は、100年前のものか?

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・・・・・・・・・・・・戦中戦後は銅板の代わりにトタン板が登場し、トタン張りの商家・住宅も見られる。

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・・・・・・・・・・・・・・表通りに、裏道に、そして路地に、まだまだあります昭和の建築

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下谷神社・・・・・・・・・・・・・台東区東上野3、鎮座するのは大年神と、日本武尊。 二神をまつる下谷神社は、天平2年(730)に上野忍ケ岡の地に創建した。 寛永4年(1627)上野山下へ、延宝8年(1680)には下谷の広徳寺門前へ遷座した。 明治5年(1872)には下谷神社と改称し、昭和3年(1928)には、またまた区画整理により現在地へ“お引越し”。、、、、関東大震災では、社殿がすべて焼け落ち、昭和6年(1931)再建のための工事を開始し、昭和9年(1934)に完成した。 現建物はこの当時のものである。、、、、、一の鳥居(浅草通りに面する朱塗りの鳥居)は昭和8年(1933)の建立で、扁額の字は東郷元帥(翌年、87歳で没す)の書である。

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・・・・・・・・・・・・・神社には、寛政10年(1798)に初代・三笑亭可楽によって、境内で初めて寄席が開かれた「寄席発祥の地」の石碑がある。、、、、碑の前には子規の句、「寄席はねて 上野の鐘の 夜長哉

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両大師橋 ・・・・・・・・・・・・・上野駅ホームの北端付近に架かり、上野公園と昭和通りを結ぶ跨線橋。 山手線、京浜東北線、東北本線、常磐線、引上げ線も含めて、計20本以上の線路を跨ぐ。、、、、、昭和8年(1933)2月に完成した「両大師橋」は、昭和45~46年に架け替えられた。、、、、上野公園側にある輪王寺が、別名「両大師」と言われることから、この名がついたそうだ。 因みに、両大師とは慈恵、慈眼の二人の僧侶のこと。、、、、子供連れで散歩の途中、電車を見るには、お手頃な場所である。、、、新幹線以前の頃は、ここから、東北本線、上越線、信越本線、常磐線の優等列車を、たっぷり見ることができた。

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輪王寺両大師堂・・・・・・・・・両大師橋を渡ると、スグ右側、国立博物館の手前の寺。 正保元年(1644)、寛永寺を開山した天海僧正像を安置する堂として建立された。 天海僧正の号は慈眼(じげん)大師で、その後、天海僧正が尊敬した高僧慈恵(じえ)大師の像も安置したため、「両大師」と呼ばれるようになった。 輪王寺はもと寛永寺の伽藍の一部で、開山堂または慈眼堂と称されていた。、、、、、開山堂は平成元年(1989)に火災で焼失し、現在の本堂は平成5年(1993)に再建された新しい堂である。 厄除けには御利益がありそうなので、賽銭も奮発してきた! 火除けの御利益は期待できないかもね。

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・・・・・・・・・・・・・境内の横には、国指定の重要文化財「寛永寺旧本坊表門」がある。、、、、、切妻造り本瓦葺きの薬医門であるが、黒く塗られており、通称「黒門」と呼ばれている。 現在の東京国立博物館の敷地はもと寛永寺本坊であり、その正面にあった門である。 明治15年(1882)東京国立博物館の前身である博物館が上野公園に移転・開館した際にその正門として使用された。、、、、黒一色、シルエットを見ているようだ!

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●・・・・・・・・・・・この後、徳川家綱霊廟勅額門、徳川綱吉霊廟勅額門、寛永寺根本中堂 を見て、寛永寺坂橋を渡り鶯谷駅から帰宅

2016年10月30日 (日)

銀座の新しいビル

チョイと降りそうだが降らない天気、買い物がてら、午後から銀座まで夫婦で散歩。



GINZA PLACE・・・・・・・・・・・・銀座4丁目交差点の一角に、先月オープンした「銀 座プレイス(GINZA PLACE)」 地上11階地下2階の規模で、ショールーム、ショップ、レストランなどが入居している。、、、、、まずは、チョイと冷やかしに覗いてきた
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・・・・・・・・・・・・・1階・2階は、以前の「NISSAN銀座ギャラリー」の引き続きか、「NISSAN CROSSING」という展示場。、、、、免許返上する歳となり車には興味も薄れたが、綺麗な車は見てイイネ!

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・・・・・・・・・・・・・・2階から、向かいの和光ビル(旧服部時計店)を撮ってみた。

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・・・・・・・・・・・・・・3階はカフェ。 爆買いツアー客はいないようだ、ゆっくり召し上がれ

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・・・・・・・・・・・・・・4階・5階・6階はSONYのショールーム&ギャラリー。 SONYビルの取り壊しも近づき、こちらに引っ越してきたようだ。

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・・・・・・・・・・・・・・ハイレゾのウォークマンを見て「ラジオかな?」、「綺麗な筆箱ね!」。 もう新製品についていけない夫婦。

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・・・・・・・・・・・・・・7階・11階はレストラン、8階は準備中、9階・10階はショップ。、、、、、冷やかしの人はここまで! 

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銀座松坂屋跡地の再開発・・・・・・・・・・・・大丸松坂屋百貨店を運営するJフロントリテイリングと森ビルなどが、銀座松坂屋の跡地(銀座6丁目)に建設している、最大級の商業施設「銀座ガーデン」。 外観が見えてきた、内部はまだまだ、来年竣工を予定しているらしい。、、、、、敷地面積約9000㎡、地上13階・地下6階の複合ビル。 地下2階から地上6階までは商業施設、7階から上はオフィスになるらしい。 地下3階には「観世能楽堂」もできる。、、、、、当初心配していた、銀座の景観を破壊しないようだ、新しい銀座の拠点となるかも。

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2016年10月29日 (土)

祐天寺~目黒

東急東横線祐天寺駅からJR山手線目黒駅まで、1万2千歩、8kmの散歩です。



祐天寺駅・・・・・・・・・大正15年(1926)、東京横浜電鉄が丸子多摩川駅~神奈川駅間を開業する。 昭和2年(1927)8月28日、渋谷駅~丸子多摩川駅が開通し、東横線として渋谷駅~神奈川駅間の直通運転が始まる。 祐天寺駅はその東横線開通時に同時開業した。、、、、開業時は木造駅舎の地上駅であったが、昭和45年(1970)に相対式ホーム2面2線で高架化された。
 
・・・・・・・・・・・・・現在、ホーム幅を狭め、中央に通過線1線を増設し、2面3線に改良中。
 
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・・・・・・・・・・・・・・高架下の西口。 まだ、東西に行き来はできない。 

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・・・・・・・・・・・・・・今月から解体工事が始まる祐天寺駅ビル。 解体後、東口が整備され東西に行き来ができるようになる。

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C57117号動輪・・・・・・・・・・・・祐天寺駅から東へ150m程歩くと、幼稚園に曲がる角に、蒸気機関車の動輪と腕木式信号機などが残されている。、、、、C57117号は、昭和14年(1939)10月23日、三菱重工業神戸造船所で造られた。 戦前は広島県の糸崎に配置され山陽路で活躍し、戦後は熊本・宮崎などに配置された。 昭和48年(1973)の宮崎植樹祭時では、日本最後の国鉄蒸気機関車が牽引するお召し列車を仕立てた名機である。、、、、、その機関車の動輪が保存されている。 保存は、近くでカレーショップ「ナイアガラ」を営業する、大の鉄道ファンであるマスターが個人として、初めて動輪の払い下げを受けたそうだ。

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祐天寺 ・・・・・・・・・寺の住所は、祐天寺駅前の目黒区祐天寺にあるかと思いきや、門前の駒沢通りを越えたため、目黒区中目黒5丁目となっている。、、、、祐天寺(寺)あっての祐天寺(町)、寺の敷地を目黒区祐天寺1丁目の飛地としてでも、祐天寺に入れたくなるね。、、、、、祐天寺は、祐天上人の高弟祐海上人が、祐天上人を開山と仰いで享保3年(1718)に創建、享保8年(1723)明顕山祐天寺と号した、阿弥陀如来を本尊とする浄土宗の寺院である。

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・・・・・・・・・・・・・寺は、数年前から大林組の施工で、諸堂の大修理が行われている。 まだ、工事中。 仕事を邪魔しないように、手だけ合わせて、散歩を続けることにした。

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中目黒5丁目・・・・・・・・・・・


・・・・・・・・・・・・・・祐天寺裏交差点の「谷戸前地域安全センター」。 平成19年(2007)以前までは“谷戸前交番”と呼ばれていた。、、、、、戦後の建物か? 古そうだ! 写真では判らないが、裏側のドア、窓枠は木製。

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・・・・・・・・・・・・・・富士山を模した看板建築。 店の名は「フジミ

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・・・・・・・・・・・・・・「なべころ坂緑地公園」の角に、 「藤の庚申」 と称する古い庚申塔がある。 昔はここに藤の大木があったそうで、「藤の庚申」と名付けられたそうだ。、、、、、左側の駒型の碑は1m以上もあり、 合掌六臂の青面金剛と日月、二鶏、三猿の図柄が彫られている。 貞亨元年(1684)の銘が刻まれている。 右側の小さな板碑型のものは元禄元年(1688)の造立。 この前の道は古くから庚申道と呼ばれているそうだ。 この付近には庚申塔が多く残されている。、、、、新しい提灯、供養の花、誰だか守る人がいるようだ。

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油面地蔵通り・・・・・・・・・・・目黒区目黒4丁目と中町1の境界に、「油面(あぶらめん)地蔵通り」という約600mぐらいの商店街がある。 商店街の中ほどには、油面子育地蔵尊が鎮座している。、、、、、油面(あぶらめん)の由来は、江戸時代この付近では菜種が栽培され、菜種から作られた油を燈明用に増上寺・祐天寺などに納めていた。 その見返りに租税が免除された。 よって、「油免」転じ「油面」となったそうだ。、、、、、元気がなくなってきた商店街のようだ、チョイと脂っこい料理でスタミナつけて頑張って欲しいね。

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・・・・・・・・・・・・・地蔵さんは、元は目黒通りの油面交番の近くにあったそうだ。 今は、商店街の中ほど、ベーカリーの隣にある。 地蔵さんは「高地蔵」と呼ばれ、土手の上に高く祀られていたので、このような名がつけられたそうだ。 地蔵尊を載せる台石には「是より右ゆうてん寺」、「是より左九ほんぶつ」の文字が彫られ、道標でもあった。 子育て・眼病にも霊験あらたかとして、お参りする人もいるそうだ。

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長泉院現代彫刻美術館・・・・・・・・・・・・浄土宗長泉院の13代住職であった故・渡辺泰裕初代館長が、少しでも多くの人に彫刻の素晴らしさにふれ、楽しんでもらいたいと寺院の敷地内に開館した現代彫刻の美術館。 入館無料で、誰でも気軽に自由に展示を見ることができる。、、、、広い空間に、丁寧に展示され、寺の境内とは思えない。、、、、、美術館の建物は昭和57年(1982)に堀響一の設計で完成した。

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庚申塔・・・・・・・・・・美術館から目黒駅に向かう途中、3件の庚申塔がある


・・・・・・・・・・・・・現代彫刻美術館を出て、南へ50m程歩くと「馬喰坂上の庚申塔群」がある。 擁壁の上に4基の庚申塔が建てられている。 案内板には、向かって右から 宝永7年(1710)駒型碑   延宝8年(1680)板碑型碑   宝永3年(1706)駒型碑   寛保2年(1742)駒型碑で、彫りの説明も書かれていた。、、、、、、目線より高く、そんなとこまで見えないよ!

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・・・・・・・・・・・・・・次は、目黒2丁目、目黒区民センター前、町会事務所の隣にズラリと並ぶ「田道庚申塔群」。、、、、造立年代は延宝5年(1677)から正徳3年(1713)にかけてのもので、田道庚申講中の名もはっきりと刻まれている。 「田道」は「でんどう」と読み、明治22年以前の中目黒村の小字の一つ。

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・・・・・・・・・・・・・・次は、目黒川に架かる田道橋の南詰にある「ひいらぎ庚申」。 橋を渡った正面に赤い小さな堂がある。 中に、道標を兼ねた庚申塔が祀られている。

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富士見坂・・・・・・・・・・あちらこちらにある「富士見坂」。 ここも、そのうちの一つだが、国土交通省が設置した「関東の富士見100景(東京富士見坂)」の標識がある。 つまりは、国交省認定の富士見坂である。、、、、、場所は、目黒1丁目2番と3番の境を東に上る坂。 長さ150m、平均斜度7度、積雪時は自己責任でスキーも可能。、、、、、下から上る、肺活量の少ない私には、きつい、つらい坂である。

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●・・・・・・・・・・・・・・・・・・坂で疲れた! 目黒駅から帰宅。

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2016年10月26日 (水)

上板橋~志村坂上

東武東上線上板橋駅から、北東の方向に都営三田線志村坂上駅まで、1万歩、7kmの散歩です。



上板橋駅・・・・・・・・池袋から東上線で6駅め、島式ホーム2面4線の地上駅である。 大正3年(1914)6月17日に開業した。 上板橋駅は、かつて駐留軍のいたグラントハイツ(現:光が丘)内まで伸びていた啓志線(けいしせん)の起点駅でもある。 啓志線は昭和34年(1959)に廃止されたが、それまで駐留軍の人員輸送、物資輸送を担っていたそうだ。
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駅からクネクネ・・・・・・・・・駅前から、行先も定まらず、知らぬ通りをクネクネ曲がり、何か面白い発見はないか目はキョロキョロ。、、、、、この辺の住所は「板橋区中台1丁目」。 中台小学校を半周したら、緩やかな坂道。 アップ、ダウンが続き、チョイと高台に出た。

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前野台団地・・・・・・・・・・・・目の前に「前野台団地」が出現。、、、、周辺より高い位置に建つ住宅都市整備公団の団地である。 昭和44年(1969、=私が大学を卒業した年)に建てられた、総戸数241戸(5棟)の団地。 小ぶりの団地だが、緑が多く、高台に建ち、環境はグ~~。、、、、、改修工事したようだが、綺麗な団地で、築50年経過したとは思えない。

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・・・・・・・・・・・・・・団地近くの公園から撮影

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志村城址・・・・・・・・・・板橋区志村2丁目、高台にあった志村城


・・・・・・・・・・・・・首都高5号線の下を抜け、志村坂上へ向かう道路に出た。

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・・・・・・・・・・・・・・道の反対側を見ると、何か気になる階段があった。 最近、路地・階段などから出る霊気をキャッチする能力が身についてきたようだ。 階段が、『上がっておいで、おいで』と誘っている。、、、、、女の子が『おいで、おいで』と手招きしているのは危ないが、階段なら落ちるぐらいで危なくなかろう!

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・・・・・・・・・・・・・階段の上には熊野神社があった。 神社は、長久3年(1042)志村将監が勧請したと伝えられており、古墳上に社殿が鎮座している。 康正2年(1456)に千葉自胤が赤塚城に、千葉信胤が当地の志村城に入城し、当社を志村城の守護神とした。、、、、神社は志村城の二の丸あたりに該当するそうだ。、、、、、境内には「志村城址」の碑もある。、、、、、階段の霊が志村城址まで導いてくれたようだ。

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・・・・・・・・・・・・・・・社殿は昭和32年(1957)に改築された。

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・・・・・・・・・・・・・・・社殿横に控える絵馬堂は、江戸時代後期頃の建築らしい。 入母屋造りの旧拝殿を移築したそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・・熊野神社の西、500m程離れて、真言宗豊山派の延命寺がある。 延命寺は、見次山松寿院と号す。 寺は大永4年(1524)に志村城が落城した際、見次権兵衛が庭先でわが子の討たれる姿を見て、戦国の無情を感じ、居宅を寺として創建したと伝えられている。 江戸時代には熊野神社の別当であり、享保年間には将軍家御膳所となっていた。 明治21年(1888)には志村村役場が寺内に置かれていた。

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・・・・・・・・・・・・・・・延命寺の南に200m程行くと、延命寺に関連した名の見次公園(みつぎこうえん)がある。、、、、、、湧き水による大きな池があり、釣り人も多い。

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志村一里塚 ・・・・・・・・・・・・徳川家康が街道整備のため、慶長9年(1604)に諸国の街道に一里塚の整備を命じた。 志村坂上には、中山道(国道17号)の両側に、当時のまま一対の一里塚が残されている。

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・・・・・・・・・・・・・一里塚の隣には、竹細工・竹ぼうき・ヨシズなどを扱う都内唯一の竹屋さん「斉藤商店」の建物がある。 創業明治22年(1889)の老舗であるが、建物は昭和8年(1933)に中山道拡張工事にあわせて建て替えられた。、、、、一里塚とともに、町のランドマークとなっている。

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志村坂上駅・・・・・・・・昭和43年(1968)12月27日に開業した、都営地下鉄三田線の駅、、、、、一里塚の脇から地下へ。

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2016年10月24日 (月)

阿佐谷北・天沼

JR中央線阿佐ヶ谷駅の北側の町「阿佐谷北2丁目」から、隣の「天沼1丁目」、「天沼2丁目」、「天沼3丁目」をクネクネ歩き荻窪駅まで、9千歩、6kmの散歩です。



阿佐ヶ谷駅から北へ・・・・・・・・・阿佐ヶ谷駅 から、通勤客に逆行し、北に向かい歩き始める

・・・・・・・・・・・・・・私の住む浅草橋駅と比べると、改札は広く、明るい駅。 駅に向かう皆さんは、紳士・淑女に見える。 特に女性は美人に見える。、、、、、目の錯覚か?
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・・・・・・・・・・・・・・駅前のビルの1階は通り抜けできる。 雨の日はうれしいね!

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・・・・・・・・・・・・・・朝の商店街は通勤する人の一方通行?

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法仙庵・・・・・・・・・・・商店街の先にある、釈迦如来を本尊とする曹洞宗の寺。 寺の初めは、文久年間(1861~1863)、阿佐谷村名主らが発起人となり、散在していた家墓を集め、村共有の地に地割を平等にして作った共同墓地である。 そして、墓地管理のため慶應年間(1865~1868)に実山見道尼を初代庵主として請じて、開創した。、、、、、本堂は戦災で焼失したため昭和31年(1956)に再建された。、、、、寺の成り立ちを知ると、確かに墓地の管理事務所のようにも見える。

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天徳泉・・・・・・・・・・・・阿佐谷北2、チョイと古そうなビルの銭湯があった。 窓枠にスチールサッシを使用しているなど、どうやら昭和40年前後の建物のようだ。 チョイと、パチリ撮影したが、『おや?なんじゃ?』、、、、、3階部分に住居と思われる部屋がある。 中央には玄関ドアがある。 訪問客は、庇の上から玄関に向かうのか? 

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FJ邸・・・・・・・・・・・・・阿佐谷北2の個人住宅。 裏通りからチョイと奥に入ると、かわいらしい下見板張りの洋風の建物があった。、、、、、アプローチもいい雰囲気だ!

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天沼一丁目の石塔・・・・・・・・・・ 天沼1-37の十字路角に、宝永元年(1704)銘・元文5年(1740)銘の庚申塔、享保15年(1730)銘の地蔵塔、宝暦9年(1759年)銘・享和3年(1803)銘の百番観音供養塔がある。 いずれも天沼村の村民が、現世での幸運と来世での往生安楽を願って造立したもの。

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天沼二丁目の2社・・・・・・・・・・・・天沼2丁目にある、熊野神社、八幡神社に寄ってきた。


・・・・・・・・・・・・・天沼熊野神社は、伊邪那美命を祭神とする神社。 神社の創建年代は不詳であるが、神護景雲2年(768)の創建とも元寇3年(1333)の創建ともいわれている。 かつて、十二所権現と呼ばれていたが、明治維新後熊野神社に改称した。、、、、、社殿は、平成7年(1994)に、木曽檜による木造、流造りで建て替えられた。

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・・・・・・・・・・・・・・天沼八幡神社は、応神天皇を祭神とする神社。 神社は、旧天沼村字中谷戸の鎮守社として天正年間(1573~1591)に創建した。、、、、、現在の社殿は、昭和52年(1977)に改築されました。

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教会通り・・・・・・・・荻窪駅から天沼教会に続く教会通り


・・・・・・・・・・・・・教会通りで60年以上続く、クリーニング店の老舗:東京社

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・・・・・・・・・・・・・教会通りを荻窪駅に向かい、帰宅する。

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2016年10月23日 (日)

おばけ煙突

北千住駅から、千住の町を横切り、尾竹橋を渡り町屋駅まで、1万2千歩、8kmの散歩です。



北千住を横切る・・・・・・・・・・北千住駅から西に向かい、相変わらず私好みの裏道を歩く。

・・・・・・・・・・・・・・商店街と商店街を結ぶ裏道を抜けて行く。 お稲荷さんにも、ご挨拶忘れずに!
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・・・・・・・・・・・・・・・♪♪ この道はいつか来た道 ああ そうだよ 去年の暮来た道  ♪♪、、、、、千住本氷川神社ニコニコ商店街タカラ湯を通り過ぎて行く。

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・・・・・・・・・・・・・・・足立区千住元町に鎮座する倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)。 ここは元宿神社(もとじゅくじんじゃ)。 天正2年(1574)の創建。 この地には鎌倉街道が通り、千住宿成立以前から集落ができていたので、千住宿に対して元宿と称した。

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・・・・・・・・・・・・・・ミルクホール・モカ、、、、、千住元町、帝京科学大学入口交差点角に暖簾を下げるは、知る人ぞ知る、昭和36年(1961)開業の元祖喫茶店!、、、、味は? 昭和の味らしい。

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お化け煙突・・・・・・・・・下町で育った高齢の方は、見ているはず、記憶しているはず、懐かしい「お化け煙突」に会ってきた。、、、、、現在の足立区千住桜木に東京電力千住火力発電所があった。 隅田川沿いに位置し、大正15年(1926)から昭和38年(1963)まで稼働した火力発電所である。 昭和39年(1964)11月、発電所は解体された。 ここには4本の煙突があり、薄い菱形の各頂点に煙突を配した平面配置であった。 それゆえ、見る角度により、4本、3本、2本、1本と見える不思議な「お化け煙突」であった。、、、、、浅草橋の我が家からは見ることはできなかったが、常磐線に乗ると北千住駅付近で見え、車窓から本数が変化する姿を興味深く見つめていたのを思い出す。


・・・・・・・・・・・・・・尾竹橋北詰に帝京科学大学千住キャンパスがある。 写真中央が校舎。 その右、低くなった処が発電所跡地。

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・・・・・・・・・・・・・・大学キャンパスに残されている「お化け煙突」のモニュメント。 モニュメントの上半分(鋼製の部分)が煙突の実物。 モニュメントの後ろには、本数の異なる写真も展示されている。、、、、、煙突の構造設計は、東京タワーを設計した内藤多仲(文化功労者)。 煙突は鋼板・リベット止め製で、内部は耐火煉瓦が張られていた。 高さ:83.82m、外径は頂部:4.81m  底部:6.40m。

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・・・・・・・・・・・・・・「お化け煙突」モニュメントの解説にあった航空写真。 中央に解体中の煙突4本が見え、その上部の点線は現在の帝京科学大学のキャンパス位置、左に隅田川、尾竹橋が写っている。

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・・・・・・・・・・・・・・Wikimediaに載せられていた、昭和20年代の「お化け煙突」

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・・・・・・・・・・・・・・千住桜木1丁目、墨堤通りに面して元宿堰稲荷神社がある。、、、、神社は、宝暦4年(1755、=9代徳川家重将軍の時代)に創建された。、、、、、昭和20年(1945)元宿神社に合祀され、昭和23年には千住桜木町の鎮守として再度独立した。、、、、神社は千住火力発電所の北隅に位置していた関係で、「お化け煙突」(四本煙突)建設に関する神事はこの神社の扱いであった。 境内には「旧千住四本煙突守護社」の碑も立っている。

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尾竹橋 ・・・・・・・・・・・尾竹橋(おたけばし)は、隅田川に架かる橋で尾竹橋通り(都道313号線)を通す。 南岸は荒川区町屋、北岸は足立区千住桜木町。 橋名はこの場所にあった「尾竹の渡し」の名に因む。 尾竹の渡しは別名お茶屋の渡しとも呼ばれ、茶屋の看板娘の名が「尾竹」であったそうだ。、、、、ここに橋など架けずに、渡しを残し、茶屋の尾竹さんを残しておいて欲しかったね。 もちろん、尾竹婆さんではなく、娘の尾竹さんを!

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町屋の町や! ・・・・・・・・・・尾竹橋を渡ると、右手に町屋6丁目、左手に町屋7丁目の町が広がる。


・・・・・・・・・・・・・尾竹橋通りを歩いていると、一見、衝突防止の柱と思える、橋の親柱が残されていた。 さらによく見ると、通りの反対側にもあった。、、、、荒木田新橋の跡で、今は暗渠化された江川堀という堀があったそうだ。、、、、橋は昭和6年(1931)に架けられた。 暗渠化された時期は不明(?)、、、、広い東京、東西南北、川だ、堀だ、用水だ、戦後まで多くの水路が存在していた、その一つかも?
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・・・・・・・・・・・・・・家具屋さんの看板、「御婚礼家具調度品」の文字が目に入った。、、、、、昭和40年代頃までは、トラックに婚礼家具を積み、家紋を染め抜いた幕を掛け運ぶ光景がまだ見られたが、今は完全になくなったようだ。 箪笥の中には着物も入れて嫁いだが、世の中は団地住まいとなり、嫁入りの風習も大きく変わったことを歩きながら考えてしまった。、、、、家具屋さんも、呉服屋さんも、商売が難しくなってきたね。

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・・・・・・・・・・・・・・6丁目、7丁目付近を歩いていると、中華料理、韓国料理、韓国物産店が結構あるね。、、、、、この付近は韓国人が多く住む町で、韓国系の教会・寺院も多数ある。

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2016年10月20日 (木)

八潮~谷塚

つくばエクスプレス八潮駅から、東武スカイツリーライン(伊勢崎線)谷塚駅まで、1万3千歩、8kmの散歩です。



八潮駅 ・・・・・・・・・つくばエキスプレスに乗ると、浅草から八潮までは12分で着く。 浅草橋の我が家からだと約30分である、早い! 今日も特段の思いがあるわけではないが、八潮駅で下車してみた。、、、下車はしたけど、『どちらへ向かう?』、駅でしばし作戦タイム。 持参のタブレットで、地図をにらみ、近そうな東武伊勢崎線の谷塚駅まで歩くことにした。
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西へ向かう・・・・・・・・・・・・「西はどっちと ききたいけれど 来る人 婆さん ばかりなり」


・・・・・・・・・・・・・・首都高6号三郷線の下を抜け、新興住宅街の八潮の町へ

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・・・・・・・・・・・・・・境橋付近の「葛西用水」に出た。、、、、雑草が茂り、川面は見えず、やぶ蚊の多そうな水路である。、、、、、江戸時代初頭の万治3年(1660)に江戸幕府が天領開発の一環として、灌漑用水路の開発を始めた。 利根川から引いた水で埼玉県東部を潤す農業用水として、埼玉県羽生市から東京都足立区東和まで伸びている。 完成までに100年を要したそうだ。、、、、、橋や堰を見ていると、農業用水として活用されていた時代が偲ばれる。

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大曽根八幡神社・・・・・・・・境橋の西(八潮市大曽根)に八幡神社はある。 八幡神社の創建は文亀2年(1502)と言われている。 譽田別命を祭神として境内に稲荷神社・天神社・古峯神社を祀る。、、、、、 現社殿は明治28年(1895)の再建で、本殿は総欅一間社流れ造り、向拝正面を唐破風、上部を千鳥破風、桂間の壁面は神話を題材とした浮彫りをはめこむ手の込んだ造りである。

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都営花畑第4アパート・・・・・・・・大曽根八幡神社から西へ歩くと足立区花畑8丁目になった。 『アレ? 足立区?』 八潮市と草加市の境に、強引に割り込んだような形で足立区の土地がある。 地図を見ると東京23区の北の端:足立区、その足立区の北の端が花畑8丁目、さらに8丁目の北の端を含み8丁目の半分ほどを花畑第4アパートが占めている。、、、、、この“端”に気付いた私は、都営アパートの北の端が見たくなり、花畑第4アパートの北の端の棟を探してみた。



・・・・・・・・・・・・・八潮市の方から歩いてくると、綾瀬川の対岸に花畑第4アパートが見える。

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・・・・・・・・・・・・・・綾瀬川は桑袋大橋(くわぶくろおおはし)で越える。 平成2年(1989)3月の竣工。

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・・・・・・・・・・・・・花畑第4アパートは、昭和46年(1971)の建設、総戸数1004戸(22棟)の綾瀬川沿いにある大きな団地。 団地内には数件の商店があるが、周辺には大規模なスーパーなどはない。 最寄りの駅は東武伊勢崎線の谷塚駅、バスで10分、歩くと1時間。、、、、大袈裟に言うと、年寄りには、駅まで遠く、活気がない、陸の孤島である。

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・・・・・・・・・・・・・・さてさて、私の求めていた、都営住宅の北の端はどれだ!、、、、まず、案内図で確認すると、22号棟が北の端である。

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・・・・・・・・・・・・・・22号棟に到着。、、、、、来てみれば、なんの変りもない、ごく普通の建物である。 『あたり前田のクラッカー!』、、、、公式には確認できないが、この建物が最北端の都営住宅かも(?) 探した私も感動した(?)

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⑤草加市瀬崎・・・・・・・・・・花畑第4アパートを後にして、我が足は西に向かう。 アパートの敷地を抜けると、そこは草加市瀬崎である。 1丁目から7丁目まである広い町だが、我が足を止めるようなものもなく、谷塚駅に向けスタコラ・サッサ・ホイ・サッサ。、、、、、写真は順に、草加市記念体育館、追手風部屋、西往寺、富士浅間神社

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谷塚駅・・・・・・・・・・・・・・谷塚に到着、やー疲れた!

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2016年10月19日 (水)

飯田橋~江戸川橋

飯田橋駅から、神田川の北側の町:文京区後楽・春日・小日向をぶらついて江戸川橋駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。



飯田橋駅前・・・・・・・・・・飯田橋駅前の歩道橋から駅を眺め、振り返ると首都高の下を流れる神田川が見える。 今日の散歩は神田川の北側(写真では右側)の町を歩いてきた。
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小石川諏訪神社・・・・・・・・・・文京区後楽2、裏道に入りさらに裏道に入る、素人さんには判りにくい処にある神社。 私はサラリーマン時代、この近くに勤務しており、神社のあることは知っていた。、、、、、小石川諏訪神社は、牛天神北野神社の別当を勤めていた梅本坊乗観が明徳元年(1390)に創建したといわれている。、、、、判りにくい奥にある神社だが、境内は結構広いものだ。

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牛天神北野神社・・・・・・・・・・・・源頼朝が戦で、当地(春日1)にあった岩に腰掛け居眠りをした。そのとき夢で、牛に乗った菅原道真公が現れ「二つの喜びがある」と告げられた。 その年の秋に長男頼家が誕生し、翌年(1184)には平家を西海に追はらうことができたことから、頼朝はこの岩を祀り牛天神を創建した。 以来、境内にある牛の形をした岩(拝殿前の石)を撫でると願いが叶うといわれてる。、、、、、小石川の高台にあり、参道の階段はチョイときついね。 上がりきったら、肺活量が小さくなった私は呼吸が苦しく、ゼイゼイ・ハアハア!

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文京区立第三中学校・・・・・・・・・・・後楽園方面から伝通院へ向かう坂の途中に、メタセコイアの木が正門前に並ぶ区立第三中学校がある。 チョイと見には、学校と思えない趣のある入口の学校だ、昭和22年(1967)に開校し、昭和24年(1969)に旧三井邸跡に校舎が建てられた、現在も三井邸の馬屋が校内に残っているそうだ。、、、校名の第三中の「三」は三井家の「三」にちなんだそうだ。、、、、正門前の坂は「安藤坂」といい、坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったそうだ。

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永井荷風生育地・・・・・・・・・『あめりか物語』、『墨東綺譚』、『断腸亭日乗』などを執筆した小説家:永井荷風(1879~1959)が生まれた旧居跡。 今はマンション、住宅の建つ、文京区春日2-20(旧金富町45)。 明治12年(1879)に荷風は内務衛生局の官僚である父:永井久一郎の長男としてこの地に生まれ、この地から現在のお茶の水女子大付属幼稚園、学芸大附属竹早小学校などに通った、子供の時からのエリートであった。 いつの頃からか、銀座のカフェー、浅草のストリップ劇場、玉ノ井の私娼街に通い、文化勲章を受章する大小説家となった。、、、、、、まことに羨ましく、まねてみたい一生!

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丸ノ内線・・・・・・・・・・・昭和29年(1954)1月20日に開通した、丸ノ内線池袋~お茶の水間では、茗荷谷駅、後楽園駅の前後で地上を走る。 茗荷谷付近では、住宅地の中の切通しを走る姿を、春日2丁目の数か所の跨線橋から見ることができる。


・・・・・・・・・・・・・まずは、後楽園側のトンネルから顔をだす丸ノ内線

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・・・・・・・・・・・・・・つぎは、跨線橋前後のアプローチが面白いポイント。、、、、まずは、住宅の間にある車は通れない細い道を奥に進むと、跨線橋に上がる坂に続く。 坂を上れば、丸ノ内線の頭上に出る。 その先、10m程平坦な道となり、ここから階段坂となる。 細い山道のような階段坂を上る。 上りきると、一車線程の細い道となる。 車は春日通り(国道)から遠回りして進入できるが、歩行者は直進して春日通りに出る、しかし最後に止めの小さな階段がある。、、、、、日々、各戸にまわる宅配業者・清掃業者にとっては、ここの集配は大変そうだ!

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・・・・・・・・・・・・・次の跨線橋は国際仏教学大学院大の脇にある。、、、、、直線的に進んでくる電車が良く見える。 写真奥の跨線橋は、先ほど渡った車の通らない跨線橋。

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国際仏教学大学院大学・・・・・・・・・・春日2丁目、丸ノ内線の脇に、平成8年(1996)に霊友会の国際仏教学研究所を基礎として設立された、日本で一番小さい大学。 定員は20名で、5年一貫制の博士課程のみである。、、、、、校舎は、槇総合計画事務所の設計、竹中工務店の施工で建てられた。、、、、モダンすぎて、仏教を研究する施設とは思えないね。

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・・・・・・・・・・・・・・この地は、徳川幕府最後の将軍:徳川慶喜(1837~1913)終焉の地である。 慶応2年(1866)第15代将軍に就任し、翌年、大政を奉還したが、鳥羽伏見の戦とそれに続く江戸城開城の後、恭順の意を表し、水戸・駿府に隠棲した。 明治30年(1897)東京に戻り、同34年(1901)この地に移り住んだ。 大正2年(1913)11月22日、急性肺炎のためこの地で没した。 享年76歳。、、、、、構内には慶喜邸時代からの大銀杏が残っている

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小日向神社・・・・・・・・・・文京区小日向1丁目と2丁目の境に、服部坂(はっとりさか)がある。 坂の名は、江戸時代、坂上に、徳川家康幕下の旗本、三河の出で、千葉県夷隅郡岩熊村の領主(300石):服部権太夫が住んでいたことから名付けられた。、、、、その跡地に、現在は小日向神社が鎮座する。、、、、小日向神社は、当社付近にあった氷川神社と八幡神社とが合祀して明治2年に小日向神社となった。

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鷺坂・・・・・・・・・・江戸川橋の北東にある鷺坂(さぎさか)。 坂の上は住宅地で堀口大学(詩人・仏文学者)などが住んでいた。この堀口大学や、近くに住んでいた詩人の三好達治、佐藤春夫らによって「鷺坂」という坂名がつけられた。 S字型に曲がり、勾配は急であるが、江戸の香がする情緒ある坂だ。

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今宮神社・・・・・・・・・・・鷺坂を下り、小日向と音羽の境となる道を北に向かうと、音羽1丁目に今宮神社がある。 元禄10年(1697)に五代将軍徳川綱吉の生母:桂昌院の発願により、護国寺建立に際して京都紫野の今宮神社から分霊を勧請したことを創祀とする。 背後には崖上の住宅が迫り、覆いかぶさるように見える。、、、、、鳩山邸のある音羽の町の鎮守で、ひょっとすると、鳩山由紀夫、故鳩山邦夫の兄弟もこの神社で遊んだかも?

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●・・・・・・・・・・・江戸川橋駅から帰宅

2016年10月18日 (火)

京成高砂~亀有

京成高砂駅から、なんとなく北に向かい、中川橋を渡りJR常磐線亀有駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。



京成高砂駅 ・・・・・・・・・・我が家のある浅草橋からは、都営浅草線に乗ると、京成高砂までは乗り換えなしで所要時間19分。 さほど遠くないところにあるのだが、隅田川を地下で渡って、荒川の長い鉄橋を渡り、中川の鉄橋も渡り、着いた駅が京成高砂である。 気分的には“千葉県高砂市”に来たようだ。 朝の上りホームは通勤客がズラリ、東京のベットタウンかな(?) ここは、“東京都葛飾区高砂”である。
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・・・・・・・・・・・・・・下りホームは、京成本線で“市川市国府台”付近に通う大学生、北総線沿線の大学生、成田スカイアクセス線で空港へ向かう旅行客、それぞれが乗り換える程度。
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・・・・・・・・・・・・・・駅北側は、商店街はない、スーパーもない、団地もない、しかし住宅は密集する下町である。、、、、、住民は、じっと静かに再開発を待っているのか?

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高砂の三寺・・・・・・・・・・駅の北(高砂7)に関東大震災で被災し当地に移転した三つの寺が並んでいる。、、、、震災当時、高砂駅周辺の地は一帯が農地であったそうだ。


・・・・・・・・・・・・・浄土宗寺院の源照寺は、寛永3年(1626)に浅草蔵前鳥越付近に創建し、明暦の大火に類焼後、山谷(台東区)に移転した。 関東大震災で焼失し、昭和3年(1928)に現在地に移転した。、、、、、山田流琴曲の祖山田検校、義太夫の竹本綾太郎の墓もある。

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・・・・・・・・・・・・・曹洞宗寺院の祟福寺は、慶長5年(1600)、日本橋浜町で祟福庵を結んでいた、慶長18年(1613)前橋城主酒井雅楽守忠世の帰依により堂舎を建立し祟福寺として創建した。 関東大震災でで罹災し、昭和3年(1928)に現在地に移転した。、、、、、画家長谷川等伯の墓碑がある。、、、、今朝は、なにやらドラマのロケでもあるようだ。

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・・・・・・・・・・・・・祟福寺の隣には、浄土宗寺院の大秀寺がある。 寛永5年(1628)、本郷湯島に創建、明暦の大火後に浅草山谷へ移転した。 関東大震災で罹災、大正15年(1926)に当地へ移転した。、、、、、江戸の侠客で、幡随院長兵衛の死後、町奴の頭目として重きをなした唐犬権兵衛の墓がある。

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高砂踏切・・・・・・・・・・高砂6丁目と7丁目の境にある、総武線新小岩駅と常磐線金町駅を結ぶ新金貨物線 の踏切。 どこにでもある普通の踏切である、ここを一日数本の貨物列車が通過する。 なかなか散歩中に出合わせることはなく、たまには通過する姿を見たいものだ。、、、、、踏切を越えると中川の堤防までは、200mもない。

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角柱三猿浮彫道標・・・・・・・・・踏切の近くに、元禄6年(1693)に建てられた、葛飾区内に現存する最古の道標がある。 石仏などと並んでいる、写真左端の角柱である。 私には、判読不可能なため、説明には、『道標上部の正面、左右側面にかなり磨滅している仏形坐像又は三猿と思われる浮彫があります。碑文は、正面に「これより右ハ 下川原村 さくら海道」、右面は「これより左 下の割への道」と書かれ、左面には年号が記されています。 千住宿から分かれる水戸佐倉街道は、新宿町の南で常陸国水戸と下総国佐倉へ向かう道に分かれます。「下川原村」は新宿町の小字名、「下の割」は東葛西領の南の地域(現在の江戸川区)をさします。』と記されていた。、、、、“元禄”は回転ずしにあらず、松尾芭蕉『奥の細道』へ旅立ち、赤穂浪士の討ち入り、の時代である。

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中川・・・・・・・・・・

 
・・・・・・・・・・・・新宿1丁目で、中川の堤防にのぼってみると、雲は多いが、秋の爽やかな風も流れていた。、、、、「新宿」は葛飾区の地名、「にいじゅく」と読む。
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・・・・・・・・・・・・・・中川橋、、、、、、かつて、水戸街道の千住宿と松戸宿の間のこの地(新宿2丁目)には、新宿の渡しがあった。 明治17年(1884)には、明治天皇の行幸に合わせて橋が架けられ、渡しは廃止された。 その後、昭和8年(1933)に2代目の中川橋が完成した。 そして、平成20年(2008)には事業費28億円にて現在の中川橋が架けられた。、、、、橋を渡ると亀有の町だ。

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亀有香取神社・・・・・・・・・・亀有駅に近い香取神社は、建治2年(1276)本宮の分霊を勧請して創建した。 江戸時代には亀有村の鎮守さまであった。、、、、、神社は、今、マンガの主人公:両さんにご利益をいただいているようだ。 主人公を描いた絵馬・おみくじ・お守り、売れ行きも上々。 境内には像もある。、、、、、鉄筋コンクリート造の現社殿は昭和42年(1967)に建てられた。

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亀有駅 ・・・・・・・・・・ここでも、マンガの主人公:両さんが、北口、南口に立っていた。

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2016年10月16日 (日)

浅草橋~浅草橋

我が家(浅草橋)から、浜町の裏通りを歩き、清洲橋を渡り、清澄庭園を見て、清洲通りを両国方面に歩き、両国橋・柳橋を渡り、家に戻る。 1万4千歩、10km。




浅草橋 ・・・・・・・・・・・日曜の朝8時、駅に近い我が家だが、街中に人影はない。 高架の浅草橋駅ホーム下を歩く人も少ない。、、、、、静かないい町だ! 
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薬研堀不動尊 ・・・・・・・・・・神田川を越えると、中央区東日本橋のお不動さん。 正式には、真言宗智山派薬研堀不動院(現:川崎大師東京別院)。 現在地に堂宇が建立されたのは天正13年(1585)である。、、、、、薬研堀、七味唐辛子の発祥地としても有名である。 今でも、近所に唐辛子屋さんが、店を開いている。

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新田新作・・・・・・・・今日の散歩では、この名を3回見ることとなった、、、、、ネットの「コトバンク」には、以下のように書かれている。、、、、、『 生年:明治37(1904)年4月1日  没年:昭和31(1956)年6月25日  出生地福井県  学歴:小学校卒  経歴:17歳で上京し、終戦直後裸一貫から日本橋浪花町に新田建設を興して成功した。昭和22年戦災で焼失した日本橋浜町の劇場・明治座の復興期成会を組織し、三田政吉の協力を得て、25年明治座を再建して社長に就任。またスポーツ復興にも尽力し、25年元関脇の力道山を引きとってアメリカで1年間修業をさせ、28年新田建設の敷地内に日本初のプロレス道場リキジムを開設。力道山を中心としたプロレスブームの立役者となった。 』、、、、、国粋会の侠客であり、明治座・新田建設の社長として実業家であり、相撲・プロレスを興すスポーツ好きであり、馬を持つほど競馬も好きだったそうだ。



・・・・・・・・・・・明治座前の公園に、昭和20年(1945)の空襲で命を奪われた人々を慰める明治観音堂がある。 この堂は、昭和25年(1950)12月に新田新作が建立したものである。

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・・・・・・・・・・・・明治座の裏には、新田新作の家族が営業する純和風のカウンターバー「新田」がある

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・・・・・・・・・・3つ目は清洲橋の西詰(中央区日本橋中洲)に、昭和29年(1954)に建立された金刀比羅宮がある。、、、、、神社の鳥居には、「昭和二九年 新田新作」と刻まれている。 また、玉垣にも、料亭など名とともに新田新作の名が刻まれている。(写真中央の鳥居に刻まれた名の右奥にある玉垣)

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荒汐部屋・・・・・・・・日本橋浜町2丁目、前頭の蒼国来を頭に12名の力士が在籍する相撲部屋、 早朝から稽古が始まっている、、、、窓も大きくあけられ、熱心なファンや、金髪女性も覗いてる。、、、、「デブは嫌いよ 力士は好きよ もっと好きなの太っ腹 」

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清洲橋 ・・・・・・・・・清洲橋を渡り、江東区に入る

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清澄公園/清澄庭園・・・・・・・・・・地続きに隣り合う“公園”に“庭園”、元は一つで、明治11年(1878)に岩崎弥太郎が一帯の約3万坪を取得して、社員の慰安・貴賓の招待に、明治13年(1880)に「深川親睦園」を開園した。 池泉回遊式の広大な庭園には、西洋館、日本館などの立派な建物も造られた。 しかし、関東大震災では被害を受けた。 震災の翌年、比較的被害の少なかった東側半分が東京市に寄付された。 昭和7年(1932)、東京市は公園として開園した。 これが「清澄庭園」である。 昭和52年(1977)、西側半分を東京都は開放公園とした、こちらが「清澄公園」である。、、、、、、ちなみに、“公園”はただ、“庭園”は150円也。



・・・・・・・・・・・・・清澄公園

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・・・・・・・・・・・・・・清澄庭園

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・・・・・・・・・・・・・園内では、ほとんどの人が、スマホを片手に、ポケモンGO(?)

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清洲通り・・・・・・・・・清洲庭園から、清洲通りを北上し、小名木川に架かる高橋 を渡り、首都高7号線の下で堅川を越え、両国に入る。

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・・・・・・・・・・・・勝海舟の誕生地の前に建つ学校、芥川龍之介の母校である両国小学校、そして回向院を通過。、、、、、今日は小学校の運動会、正門前では怪しき人物が入らぬように、先生が立っていた。 私は、こういう場面に弱く、何も悪いことしていないのだが、みょうに落ち着かない。 「三十六計逃げるに如かず」

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両国橋・・・・・・・・・・・・両国橋を渡れば、我が家まで10分、、、、、『ただいま!』

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2016年10月14日 (金)

谷在家~高野

日暮里駅から直線的に北上し足立区の北端舎人まで走る日暮里・舎人ライナーで、谷在家駅から高野駅まで歩いてきた。 1万2千歩、8km。



日暮里・舎人ライナー・・・・・・・・・・平成20年(2008)3月30日に開業した新交通システム。 区間は、日暮里~見沼代親水公園間の9.7km、駅数は起終点駅を含め13駅である。 (建設キロ9.8km)、、、、、開業時の輸送人員は約49,000人/日であったが、昨年の実績では約76,000人/日となり、着実に増加している。 通勤時のラッシュは、日暮里方面行の一方のみ、激しいものである。


・・・・・・・・・・・・・・日暮里駅、起点です
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・・・・・・・・・・・・・・軌道はかなり高いところにあり、視界はよく気持ち良い。

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・・・・・・・・・・・・・・日暮里から9駅目の谷在家(やざいけ)駅で、生まれて初めての下車。、、、、駅名の「谷在家」とは、この地を流れていた沼田川の谷に農地を開いたことから、“谷”と湿地の集落を表す“在家”が結びつき名付けられたようだ。

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・・・・・・・・・・・・・下車はしたけど、東西南北いづれに歩くか(?)。 迷ったときは、可愛い娘について歩くのが常である。 キョロキョロ探せど、困った“可愛い娘”がいない!、、、、、しかたない、今日は自分で行先を決めた。 日暮里・舎人ライナーの西側地区を歩きながら、日暮里方向へ南下することにした。

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都営谷在家アパート・・・・・・・駅西側のマンションの裏へ行くと、12棟が並ぶ都営住宅「谷在家アパート」がある。 昭和43年(1968)に建てられた、578戸の団地である。、、、、、団地内の保育園へ子供を送るママがチャリンコで横を通り過ぎる、どうやら若い人の多い団地らしい。

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清徳寺・・・・・・・・・関東大震災で壊滅的に被災し、両国(現:中央区東日本橋)から谷在家3丁目に移転した浄土宗の清徳寺。 慶長16年(1611)の創立。、、、、現在の本堂は昭和10年(1935)に建てられた。

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十月桜・・・・・・・・・谷在家3丁目、江北緑道公園では、鉄塔下に十月桜がズラリと並んで、花を咲かせていた。、、、、、葉の落ちた桜の木に薄いピンクの花が、チラリチラリと咲き、『なんじゃ、狂い咲きか!』と思ったが、木に「ジュウガツザクラ」と書かれていた。、、、、、、一粒で二度おいしいアーモンドグリコ」のように、4月と10月の年2回開花する桜。

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谷在家赤城神社・・・・・・・・・・谷在家2丁目、赤城神社は盤筒男命、赤城姫命の二柱を主祭神とする。、、、、かって、上州の武将:浅香藤九郎源政家が戦に敗れ居城を放棄し、一族郎党数十名と共に武蔵国南足立郡谷在家村に落ちのび、土着し、屋敷内に上州大洞赤城大社の神体の一部を祀り、社殿を新設し一族の守護神としたそうだ。、、、、現社殿は、平成元年(1988)に建て替えられた。

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江北六丁目団地・・・・・・・・・・・・日暮里・舎人ライナー「西新井大師西駅」の西側に広がる、昭和46(1971)に建てられた総戸数860戸(29棟)の旧住宅公団の団地。、、、、、近年、リホームしたようで、外装がきれいだ。

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・・・・・・・・・・・・・・日暮里・舎人ライナーの車窓からから江北六丁目団地を撮った一枚

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上沼田アパート跡・・・・・・・・・・・ライナー「江北駅」の西側。 昭和35年頃に建てられた約50棟からなる、これまた広大な都営上沼田アパートが取り壊され、建て替え工事が進められていた。、、、、、当時の団地の面影は何もなく、仮囲いの中の跡地は雑草が茂るのみ。 一部では建設工事も進んでいる。 完成後は、日暮里・舎人ライナー沿線の人口もさらに増加するだろう。

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高野駅・・・・・・・・・・・日暮里舎人ライナー高野(こうや)駅に出て、帰宅する。

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2016年10月13日 (木)

立会川~大森

朝方は、雨粒がポツリポツリと落ちてきそうな空模様。 昼までには、スカッと爽やかコカ・コーラのような、秋晴れを期待して家を出た。 歩けど、歩けど、青空は期待できず。 

京浜急行立会川(たちあいがわ)駅から、JR大森駅まで、9千歩、7kmの散歩です。 




立会川駅・・・・・・・・・・・明治37年(1904)5月8日に開業。 現在は、相対式ホーム2面2線の高架駅である。、、、、、駅名の立会川は、目黒区・品川区を流れる二級河川で、立会川駅前を流れて東京湾の勝島運河に注いでいる。 昭和後期には、汚れて、臭い川となったが、JR東日本が総武快速線馬喰町駅付近のトンネルの湧き水を立会川まで引き、放水したことで水質は大幅に改善しボラが生息する川となった。

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立会川 ・・・・・・・・駅から下流の勝島運河まで、晴天になることを期待しながら歩いてみた

 
・・・・・・・・・・・駅前から旧東海道まで伸び、30店舗程で構成する商店街「立会川繁栄会
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・・・・・・・・・・・・・・・商店街の店舗裏を流れる立会川。 ボラも住み、水はきれいだ。

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・・・・・・・・・・勝島運河の手前に架かり、旧東海道が通る濱川橋、、、、、この橋は別名「涙橋」と呼ばれたそうだ。 慶長4年(1651)に鈴ケ森刑場が設けられ、処刑される罪人は市中引き回しの後、刑場に護送されてきた。 この時、親族らがひそかに見送りに来てこの橋でともに涙を流しながら、別れたという事から涙橋と呼ばれるようになった。、、、、、現在の橋は、昭和9年(1934)12月に竣工したコンクリート桁橋。

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・・・・・・・・・・・・・濱川橋の南詰に、江戸時代初期の創建といわれる、この地の鎮守:天祖神社がある。、、、、綺麗に均整のとれた社殿は、昭和40年(1965)に改築されたもの。

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・・・・・・・・・・・・・・立会川が注ぐ勝島運河。 運河ほ端は立会川で、船はこれより先に進めないため、船溜まりとなっている。 約2kmの護岸には季節の花が咲き新名所となっている。、、、、、いまは、コスモスが咲き迎えてくれた。

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・・・・・・・・・・・・・・運河の際にある新浜川公園(品川区東大井2)に、昨年、浜川砲台が復元された。、、、、、現在の立会川駅近くには、かつて土佐高知藩の下屋敷があり、立会川河口左岸には、ペリー再来航後の安政初年に砲台が設置された。 こんかい復元されたのは、「30ポンド6貫目ホーイッスル砲」と呼ばれる、全長 3メートル、車輪の直径 1.8メートルの大砲である。、、、、、盗まれないようにか、発砲されないようにか、コンクリートの台座にチェーンで固定され、南京錠が取り付けられている。

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品川歴史館・・・・・・・・・


・・・・・・・・・・・・・・曇天の勝島運河に別れを告げ、再び立会川駅前を通り、第一京浜国道、東海道線を横切り、裏道を西へ向かったら池上通りに出た。

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・・・・・・・・・・・・・・大井6丁目、池上通りに面して、品川歴史館がある。 天気も悪そうだから、チョイと館内を散歩することにした。、、、、、ただいま特別展「品川産業事始」が開催され、グッドタイミング! 300円の入館料を払い中へ、、、、品川区の主要企業:第一三共、ニコン、明電舎、JR、日本ペイントなどが誕生・発展した産業史を多くの資料で紹介している。 (撮影禁止のため、写真なし)、、、、、おもしろい特別展で、時間を忘れた! 帰りには、アート紙、150頁程の重たい図録を2冊購入してしまった。

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大森駅 ・・・・・・・・・・品川歴史館から大森駅北口までは徒歩10分

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2016年10月12日 (水)

浅草

午後の東京は秋晴れ。 夫婦で浅草へ買い物に行ってきた。


・・・・・・・西端の国際通りから、スカイツリー方向に向かって伸びる「新仲見世」通り。 観光土産を売る「仲見世」とはチョイと違い、こちらは衣料品、宝飾品、日用品の店が並んでいる。 東の端は、今は「EKIMISE」となった、かつて浅草松屋デパート(東武浅草駅)、、、、我が家の買い物も、この道筋がメインとなる。



・・・・・・・・・・・・・・こちらが国際通りから入る新仲見世
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・・・・・・・・・・・・・可愛い娘に可愛いフクロウ。 もちろん生きてます。、、、、、綺麗な羽が闘争心を隠しているようだ
 
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・・・・・・・・・・・・・・♪♪ 店舗はつづくよ どこまでも ・・・・・♪♪

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・・・・・・・・・・・・・・仲見世を歩く我が目はキョロキョロ。 観音様に夫婦仲良く祈願に参る。

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・・・・・・・・・・・・・・こまどり姉妹が歌う「浅草姉妹」に合わせて、、、、、♪♪ ~~~ 二人(夫婦)そろって 観音さまに 祈る願いは エー祈る願いは ただ一つ ♪♪、『宝くじが当たりますように、合掌』

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・・・・・・・・・・・・・・この後、買い物を済ませ帰宅、、、、プチ散歩でした。

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2016年10月10日 (月)

堀切菖蒲園~亀有

京成本線堀切菖蒲園駅から、北東方向に歩き、常磐線亀有駅まで、9千歩、7kmの散歩です。



堀切菖蒲園駅 ・・・・・・・・・・昭和6年(1931)12月19日に開業、薄暗い小さな高架下の改札口に下町の雰囲気が漂う駅である。 どうみても、山の手を走る小田急線、田園都市線の駅とは違う。、、、、、私好みの駅だ!
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・・・・・・・・・・・・・・『おや、おや、下から覗ける。 目と目が合った、やばい!』、、、、、歩きながら見上げると、なぜか悪いことをしているようで気の咎めるホーム下の道路

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・・・・・・・・・・・・・駅前の通りには飲食店を中心として、昭和の店舗が並ぶ。 祝日の早朝だが、開いている店もあった。

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正王寺/堀切氷川神社・・・・・・・・・・駅から300m程にある、堀切6丁目の寺社


・・・・・・・・・・・・・真言宗豊山派の正王寺は、治承2年(1178)八王子社(現:堀切氷川神社)別当として法印俊義が創建した。 朱塗りの山門と、庭園風の境内が印象的である。

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・・・・・・・・・・・・正王寺の東側100m程に堀切氷川神社がある。 堀切氷川神社は、天正年間(1573~91)旧下千葉村(現在地)の鎮守として創建した。 祭神は素盞鳴尊。、、、、、明治45年(1912)に合祀した境内社の八王子神社は、治承2年(1178)に創建した古社で、正王寺が別当寺であった。

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九品寺・・・・・・・九品寺(くほんじ)は、建久4年(1192)、宥真法印によって創立されて以来、800年を超えて法灯を伝える、堀切5丁目の古刹である。 寺は一時荒廃し、享和2年(1802)および明治元年には火災にあい、さらに水害にもあい、幾たびかダメージを受けたようだ。 しかし、その都度再建され、現本堂は昭和35年(1960)の改築である。、、、、、歴史ある寺だが、歴史の記録は散失したそうだ。

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堀切の秋・・・・・・・・・・・・・・

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アパート/団地の葛飾区・・・・・・・・堀切、亀有と歩いて感じるのは、都営住宅がやたらめったら多い。 ちんたら、ぐうたら、べったら食べて、調べてみたら、“都営〇〇アパート”と称するアパートの数は、葛飾区、足立区は130件程、広い世田谷区でも60件弱、私の住む台東区では8件。 さらに、URの団地、区営住宅などもあり、“散歩をすれば公営住宅にぶつかる葛飾区”。、、、、都は、古い低層住宅を高層住宅に建て替え推進中!

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蓮光寺・・・・・・・・亀有1丁目に真宗大谷派の蓮光寺がある。 山号は本多山で、徳川の家臣:本多平八郎に縁ある寺である。 徳川幕府とともに三河から江戸に移り、江戸では明暦の大火(明暦3年=1657)、関東大震災(大正12年=1923)などの火災にあい、昭和3年(1928)現在地亀有1丁目に移った。現本堂は昭和11年(1936)に落慶した。、、、、、広く緑多い境内、本堂からは読経の声、癒される寺だ。

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亀有駅 ・・・・・・・・・・・明治30年(1897)5月17日、日本鉄道の駅として開業した。 現在は常磐線の駅だが、JRの常磐線列車は全て通過し、停まるのは地下鉄千代田線の列車のみ。、、、、浅草橋へ帰る私には、北千住で乗り換え、上野で乗り換え、秋葉原で乗り換えねばならず、不便この上ない駅である。(親爺の愚痴だ!)

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2016年10月 7日 (金)

矢切~国府台

北総鉄道矢切駅から、千葉県道1号市川松戸線沿いに歩いて京成本線国府台駅まで、9千歩、7kmの散歩です。



矢切駅・・・・・・・・・平成3年(1991)3月31日に、江戸川を挟み、柴又の対岸に開業した、2面4線の地下駅。、、、、、駅は“やぎりえき”、歌は「矢切(やぎり)の渡し」、だが、地名の「矢切」は“やきり”で濁らない。 戦国時代、国府台の合戦で、里見方の矢が切れ負けたことから、「矢きれ」→「矢きり」→「矢ぎり」と変化したと言われる説がある。 また、『戦はもうこりごり』、戦(矢)と縁を切ろうと、「矢切」にしたと言われる説もある。、、、、矢の切れ目は戦の切れ目、金の切れ目は縁の切れ目。、、、、「財布なくした お主の袖を 切って切れない 裁ちバサミ」
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・・・・・・・・・・・・・・・駅前の千葉県道1号線(市川松戸線)を歩き始めた直後、右手奥に、昭和12年(1937)3月31日に完成した栗山浄水場の配水塔 が見える。、、、、、今日は、浄水場を横目でチラリ、足は県道を進む

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・・・・・・・・・・・・・配水塔を過ぎると、松戸市と市川市の市界となる。 界を示すものは、道路上の案内板以外は何もない。

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泉養寺・・・・・・・・・・市界を越えた処(市川市国府台5)に、阿弥陀如来を本尊とする天台宗寺院の泉養寺がある。 泉養寺は、深川(江東区)を開拓した深川八郎右衛門が開基となり、慶長元年(1596)深川元町に創建、元禄6年(1693)に猿江(江東区)へ移転した。 寺は江戸時代を通して深川神明宮の別当寺を勤めていた。、、、、、大正12年(1923)の震災で被災し、昭和2年(1927)に現在地へ移転した。 浅草、浅草寺の末寺でもある。、、、、、本堂と庫裡は昭和4年(1929)に完成し古刹とはいいがたいが、その雰囲気を漂わせる寺である。

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源光寺・・・・・・・・国府台5丁目にある、阿弥陀如来像を本尊とする浄土宗寺院の源光寺は、鼠小僧で有名な両国回向院の別院である。 昭和4年(1929)に開創した。、、、、朱の山門を入ると、緑豊かで静かな参道が続き、奥にはモダンな本堂がある。、、、、本堂は平成21年(2009)に建て替えられた。 新しい本堂は、建築家:河原泰の設計で、「千葉県建築文化賞」を受賞した作品である。、、、、境内には、本堂のほか、観音堂、動物の納骨堂もあり、また、周囲には竹林などもある。 参拝者を楽しませてくれる寺だった。

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・・・・・・・・・・・・・・・山門出たとたん、、、、、かいかい、痒い~~~ィ、やぶ蚊に刺された!、、、両腕を、手の甲も、、、、、両腕を両手で同時に掻く、高難度の技が要求された!、、、、そうこうしていると、蚊に刺されていないズボン下の脛や股間が痒くなり、さらに身体じゅうが痒くなる現象となった。、、、、泣きたい!叫びたい!怒りたい!、、、、、痒みが引くまで、約30分間、男の痩せ我慢は辛かったね。




飛地天満宮・・・・・・・・・国府台4丁目に、正式には「国府台道明寺天満宮」と称する小さな神社がある。、、、、この神社の由来、、、、かつて、この地は国府台村の飛地であった。 この地の村人は、本来は「国府台天満宮」を信仰するのであるが、国府台天満宮から離れているため、近くの栗山(松戸市)にある天満宮を信仰していた。 ところが、栗山の天満宮が祭神を変えたため、天神様を信仰したい村人と争議が起こった。 村人は向島(墨田区)の三囲神社に相談し、河内(大阪府)の道明寺天満宮から分祀を受け国府台道明寺天満宮とした。 こうして、一件落着したそうだ。 以来、今もここは三囲神社の神主さん兼務している。、、、、、まさに、信仰もここまですると、頭(こうべ)も下がる、天神様々!

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国府台3丁目・・・・・・・・・・国府台の大地に残る土の匂い

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国府台天満宮・・・・・・・・・・国府台の里見公園の北側に鎮座する国府台天満宮は、文明11年(1479)、国府台の鎮守として太田道灌が建立した。 建立当時は付近の他の地に祀られたが、明治8年(1875)に、大学校設立の用地として周辺地域が買い上げられた時、農家と共に現在地に移された。、、、、村の鎮守さまとして、田舎の空気が漂う神社だ

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里見公園・・・・・・・・下総台地の西端、江戸川に面し国府台台地にある。 ここは、かつて下総国府が置かれ、下総国の政治や文化の中心地であった。 室町時代になり、天文7年(1538)、足利義明は里見義堯等を率いて国府台に陣をとり、北条氏綱軍と戦ったが敗れ、義明は戦死し、房総軍は敗退した。 引き続き永禄7年(1564)、里見義堯の子義弘は再度国府台城で北条軍と対戦し、大敗をきした。 以降この土地は北条氏の支配するところとなり、江戸時代になると国府台城は江戸俯瞰の地であることから廃城となった。、、、、明治から終戦まで国府台は兵舎の立ち並ぶ軍隊の街となる。、、、、昭和34年(1959)、市川市はこの由緒ある古戦場を記念し、憩いの場として里見公園を開設した。、、、、、今日は北側(裏側)から入園し、正門からサヨナラした。


・・・・・・・・・・・・・・台地の上からは、木々の間に江戸川と対岸の東京が見える
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・・・・・・・・・・・・熟年夫婦が、バードウォチング。 仲いいね、我が家みたいだ! ここで、喧嘩したら鳥は飛んで行っちまうよ!

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・・・・・・・・・・・・・・・石垣のようだ、国府台城の跡か?

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・・・・・・・・・・・・・・・北原白秋(1885~1942)が小岩で暮らしていた大正5年(1916)頃の草舎。 移築した。

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・・・・・・・・・・・・・・バラ園は今が最高!

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国府台駅へ・・・・・・・・・県道1号線(市川松戸線)に再び出て、国府台駅に向かう。


・・・・・・・・・・・・・・県道沿いには病院と大学が多い。 写真は、国府台病院と和洋女子大

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・・・・・・・・・・・・・切り通しのような下り坂。 逆から来れば上り坂。 当たり前だ!

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・・・・・・・・・・・・・・国府台駅から大学へ向かう学生。 写真、道路の右側を歩くのは和洋女子大、左側を歩くのは千葉商科大学の学生か(?)

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・・・・・・・・・・・・・・・国府台駅 へ到着、私はここから帰宅。

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2016年10月 5日 (水)

南千住~町屋

南千住駅から、隅田川沿いの裏道を歩き町屋駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。



南千住駅・・・・・・・・・浅草橋(我が家)からは南千住駅行バスで20分ほど。 バスを降り、『さて、今日はどっちへ歩こうか?』、、、、、駅前の松尾芭蕉 に聞いてみた! 応えは『奥の細道』、、、、『そうだ!、南千住の奥の裏道を歩いてみよう。』
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南千住7丁目・・・・・・・・・・・南千住駅の西側は7丁目。
 
・・・・・・・・・・・・・道の先は隅田川、右側は中学校にマンション。 『路地があったら左に曲がろう!』
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・・・・・・・・・・・・・・いよいよ、『奥の細道』へ踏み込んだ!
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・・・・・・・・・・・・・おや? こんな奥に簡易旅館がある!、、、、簡易旅館とは、かっては日雇い労務者の多くが寝泊まりする“ドヤ”であった。 いまは、行先の無い高齢者が長期に渡り寝泊まりしている所もあるそうだ。 こちらも、15名程の高齢者が泊まっているとか。、、、、これから、ますます増加する高齢者、私も含め終の棲家は何処になるのか?

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隅田川堤防・・・・・・・・・日光街道(国道4号線)を横断し、南千住6丁目 に入る


・・・・・・・・・・・・・・素盞雄神社(すさのおじんじゃ)の境内を抜ける。 もちろん、手は合わせ、お賽銭も100円奮発。

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・・・・・・・・・・・・・・神社の裏手の方向に歩くと東京電力荒川専用橋がある、、、、、、隅田川に架かり、荒川専用橋とは是いかに?、、、、、人も車も渡れず、電気が渡る、全長約104m、鋼タイドアーチ桁の専用橋はスリムな姿をしている。

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・・・・・・・・・・・・・この付近の護岸は高く造られている、、、、、20年程前、某国の警視庁長官が、インコに似た鳥(オ〇ム)の捜査を阻止するため、狙撃されたマンション(写真:左端)の前に出た。 ここから、隅田川を見ることができる。、、、、、「事は時効で 犯人不明 鳥の姿はいずこにぞ?」

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・・・・・・・・・・・・・・橋脚が護岸で隠れた、京成本線隅田川橋梁、、、、、、高い護岸は、ここでも撮影の邪魔をする

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町屋の町や!・・・・・・・・・・隅田川は上流の小台橋から尾竹橋にかけ、東の方角に流れているが、尾竹橋からは大きく蛇行し南に流れ下る。 この蛇行する部分に荒川区町屋の町がある。 中央、南北にを尾竹橋通りが貫き、今日は尾竹橋通りの東側の8丁目・1丁目、西側の3丁目・2丁目あたりを散歩してきた。


・・・・・・・・・・・・・・まずは、1丁目の路地、、、、、1枚目の写真:裏道の正面を見ると行き止まり(?) 2枚目の写真:よく見ると、家と家の間に人が通れる隙間がある。 3枚目の写真:勇気を出して入っていくと、路地の奥に出た。 4枚目の写真:通ってきた路地を振り返る。、、、、ちゃんと外路灯も設置されている生活道路であった。

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・・・・・・・・・・・・・下町は、どこの家も園芸が好きだ。 家の前は自慢の花で飾り付け!

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・・・・・・・・・・・・・裏道から尾竹橋通りに出るところにあった元不動産屋の建物。 鋭角の敷地に2間程の幅の建物が建っている。 建築面積はどのくらい(?)計算してみたくなるね。、、、、、2階窓下に記された電話番号・市内局番は、ナント2桁。 東京の市内局番が2桁だったのは、昭和35年(1960)まで。 その後は3桁で、平成3年(1991)以降は4桁となる。

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・・・・・・・・・・・・・尾竹橋通りを横切り、町屋3丁目に入る

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・・・・・・・・・・・・・尾竹橋通りから横に入った裏通りに人が集まっている。 下町らしい活気あるスーパーだ、、、、近くの八百屋も元気なようだ。

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・・・・・・・・・・・・・・・町屋2丁目に鎮座する原稲荷神社。 天正18年(1590)、徳川家康の江戸入府にともなって、三河国の百姓が町屋に移住してきたときに創建された。

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・・・・・・・・・・・・・・・神社を通り、飲食店が並ぶ裏通りを抜ける。 この付近は、韓国の人が多いせいか、焼肉屋が多いようだ。

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・・・・・・・・・・・・・町屋駅 に出た。、、、、下町の散歩はここまで。

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2016年10月 4日 (火)

八潮~水元公園

台風襲来前の真夏日、熱中症に要注意、予想最高気温33℃、いろいろ言われたが暑い一日であった。、、、、暑い 暑いと 叫べば 暑い 彼岸 過ぎたよ 馬鹿陽気

つくばエクスプレス八潮駅から、葛飾区の水元公園まで、1万歩、8kmの散歩です。



八潮駅 ・・・・・・・・埼玉県の東南、草加市と三郷市に挟まれた知名度の低い「八潮市」。 市内唯一の鉄道駅が八潮駅。、、、、、平成17年(2005)8月24日、つくばエクスプレスの開通と同時に開業した、島式ホーム2面4線の高架駅である。
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・・・・・・・・・・・・・・【由来】 「八潮」の地名は昭和31年(1956)、八条村と八幡村と潮止村が合併し八潮村が誕生した。 市に昇格したのは昭和47年(1972)の昭和の大合併の時である。、、、、駅前に鉄塔があるのは気になるが、村も50年過ぎると立派な市に変身したようだ。

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潮止橋 ・・・・・・・・・・中川に架かり、八潮市と三郷市を結ぶ県道が通る潮止橋(しおどめはし)。 橋名は上流にかつて潮止村があったことによる。、、、、、交通量の多い県道で、よそ見してると自転車に轢かれるかも

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・・・・・・・・・・・・・・・・橋から中川の上流を眺める

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大瀬氷川神社・・・・・・・・・潮止橋を渡ると、大瀬氷川神社が県道横に見える。 創建年代は不詳。 「大瀬」の地は、葛飾区水元・三郷市戸ケ崎などとの水運拠点として古くから栄えたらしい。 神社は大瀬の鎮守として祀られ、明治42年(1909)に浅間神社を合祀し、大正9年(1920)には中川河川改修のため現在地へ遷座した。 祭神は櫛稲田姫命、須佐之男命。、、、、、大正12年(1923)の関東大震災では、移築して間もない社殿が右に傾き、鳥居や石灯籠が倒壊し、数年がかりで氏子一同力を合わせて復興したそうだ。

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二郷半領用水逃樋/二郷半領不動堀樋・・・・・・・・・・大瀬氷川神社を過ぎると、県道は三郷市の戸ケ崎交差点に出る。 ここから、交差する県道54号線(草加~千葉県:松戸)を南に向かうと、葛飾区水元公園の手前で第二大場川を越える。 ここに、煉瓦造の樋管が2か所にある。 二郷半領(にごうはんりょう)は地名。


・・・・・・・・・・・二郷半領用水逃樋 (にごうはんりょうようすいにげひ)、、、、、この樋管は明治43年(1910)の大洪水で大破した木製樋管を、煉瓦造りで復旧したものである。、、、、逃樋の建設工事は、明治45年(1912)1月12日に起工し、同年3月31日に竣工した。 県の直轄工事であったが、担当は北葛飾郡技手の金子峯吉。 建設費は7,818円。   樋管長は19.1m。、、、、、現在、上部には県道が通り、樋管の周囲は雑草が茂り、チョイと見えにくい位置にある

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・・・・・・・・・・・・二郷半領不動堀樋 (にごうはんりょうようふどうほりひ)、、、、、逆流防止用として建設された樋管である。、、、、こちらも、県直轄工事だが、逃樋と同じ金子峯吉が担当し、建設費約11,014円で、大正3年(1914)4月1日に着工し、同年5月30日に竣工している。 樋管の長さ22.4m。

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閘門橋・・・・・・葛飾区水元公園の北の端、大場川に架かる閘門橋(こうもんばし)は、明治43年(1910)に完成した、煉瓦造りのアーチ橋(上流側:4連、下流側:6連)である。 長さ30m、高さ5.5mで、上流側と下流側ではアーチの連数が異なる珍しい形式の煉瓦水門。 都内唯一の煉瓦アーチ橋で、土木遺産に選定されている。

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・・・・・・・・・・・・閘門橋を上流から見る、、、、、一文字ずつ竣工年を刻んだ石の銘板が、壁面に埋め込まれている。(写真では読みづらいかも)

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・・・・・・・・・・・・・・閘門橋を下流から見る、、、、、、、中央アーチ部には、堰板を落とし込む二人の男のブロンズ像が設置されている。

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水元公園・・・・・・・・・葛飾区の北に位置する都立水元公園。 一部は埼玉県三郷市にもまたがっている。 93万m2以上ある、広い公園。 もともとは古利根川の河川敷であったものを公園とした。、、、、、平日の午前中だから(?)、子連れも、犬も、アベックも少ない、多いのは釣り人だけだ。 都内の公園とは思えない静けさ。癒されるね。

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●・・・・・・・・水元公園の近くにバス停を見つけた! 時刻表では、20分おきに1時間3本ある。 次のバスまで3分。 ちょうどよい、これで金町駅へ出よう。、、、、待つこと15分、まだ来ない、イライラ。 ♪♪田舎のバスは おんぼろ車 ・・・・♪♪、歌えど歌えどまだ来ない、イライラが溜まり、オシッコも溜まる。、、、、、地元のおじさんが、私の背後から、『そこで待っててもバスは来ないよ! 土日だけだ!』  なに! 時刻表の端に、『土曜、日曜、祝日 運転』の文字が見えた、ビックリ、ガックリ、ポックリ!、、、、、礼を述べ、運行しているバス停を教えてもらい、さらに10分待って帰宅の途に!!!

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2016年10月 2日 (日)

浅草橋~新小岩

我が家(浅草橋)から、ひたすら蔵前橋通りを歩いて新小岩駅まで、1万3千歩、10km、2時間30分、都内5区にまたがる散歩です。
 
 
 
●am7:50・・・・・・・・・浅草橋の我が家を出る。 駅前の江戸通りも交通量は少ない。、、、、『そうか! 今は日曜の早朝、人も車も少ないはずだ』 『そうだよ! 勤めを辞めて、毎日が日曜、曜日の意識もなくなった』
 
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●am7:55
・・・・・・・・隅田川テラスに出る。 チョイと朝靄(もや)の残る中、房総特急が総武線隅田川橋梁 を通過する。、、、、テラスを歩き蔵前橋に向かう。
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●am8:06
・・・・・・・・只今、耐震補強工事中の蔵前橋の上から見るスカイツリー。 ここから、蔵前橋通り を歩く。、、、、、蔵前橋から墨田区に入る。

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●am8:17・・・・・・・・墨田区石原1丁目にて、『氷』の旗がさがった、カフェの前を通過。、、、、、“氷あずき”が大好物の私には、この刺激が忘れられず、気温も上がった昼から夫婦で湯島の甘味処へ行ってみた。 ナント、『“氷”は9月で終わりました』 しかたなく、クリームあんみつで我慢。 その後、“おはぎ”を一つ。、、、、これで、胸やけ。 『胃腸薬、チョーだい!』

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●am8:38・・・・・・・・法恩寺橋を渡り、am8:41に法恩寺参道前を通過。

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●am8:43・・・・・・・・錦糸町駅とスカイツリーを直線的に結ぶタワービュー通り 。 スカイツリーの景観を良くするため、電線を隠し無電柱化した通り。、、、、オリンピックに向け、都内から電柱が無くなることを、小池知事に期待しよう!

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●am8:58
・・・・・・・・天神橋を渡り江東区に入り、亀戸天神前を通過。 くず餅屋も、まだ営業しておらず、くず餅と氷あずきを食べた気持ちで、唾を飲み込み、先へ歩く。

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●am9:28
・・・・・・・・亀戸天神を過ぎると見るべきものも少なくなり、足も止まることなく、スタコラサッサ、ホイサッサ。、、、、東武亀戸線 を跨線橋で越える。

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●am9:33・・・・・・・・江東新橋を渡り、旧中川を越える。、、、、橋の袂で振り返るとスカイツリーに見つめられているようだ。、、、、、橋の上からは、旧中川の緑が目に飛び込んでくる。、、、、、この橋より先は江戸川区となる

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●am10:02
・・・・・・・・昭和42年(1967)に完成した全長484mの、平井大橋を渡り荒川を越える。 橋の下の河岸にはコスモスが咲き秋の始まりを感じる。、、、、振り返ると、スカイツリーも小さくなった。、、、、橋を渡ると、対岸は葛飾区となる。

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●am10:02・・・・・・・・平井大橋を過ぎ葛飾区に入ると、昭和52年(1977)に竣工した都営住宅「西新小岩一丁目アパート」が見える。 蔵前橋通り沿いにある14階建て2棟(871戸)の大きなアパートである。 新小岩駅からも近く、便利が良く、人気もありそうだ。、、、、、アパートでは、甘い香りを強く放ちキンモクセイが迎えてくれた。

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●am10:30・・・・・・・・新小岩駅到着、、、、我が家から、約2時間半の散歩となった

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