浅草橋~浅草橋
我が家(浅草橋)から、浜町の裏通りを歩き、清洲橋を渡り、清澄庭園を見て、清洲通りを両国方面に歩き、両国橋・柳橋を渡り、家に戻る。 1万4千歩、10km。



②薬研堀不動尊 ・・・・・・・・・・神田川を越えると、中央区東日本橋のお不動さん。 正式には、真言宗智山派薬研堀不動院(現:川崎大師東京別院)。 現在地に堂宇が建立されたのは天正13年(1585)である。、、、、、薬研堀、七味唐辛子の発祥地としても有名である。 今でも、近所に唐辛子屋さんが、店を開いている。
③新田新作・・・・・・・・今日の散歩では、この名を3回見ることとなった、、、、、ネットの「コトバンク」には、以下のように書かれている。、、、、、『 生年:明治37(1904)年4月1日 没年:昭和31(1956)年6月25日 出生地福井県 学歴:小学校卒 経歴:17歳で上京し、終戦直後裸一貫から日本橋浪花町に新田建設を興して成功した。昭和22年戦災で焼失した日本橋浜町の劇場・明治座の復興期成会を組織し、三田政吉の協力を得て、25年明治座を再建して社長に就任。またスポーツ復興にも尽力し、25年元関脇の力道山を引きとってアメリカで1年間修業をさせ、28年新田建設の敷地内に日本初のプロレス道場リキジムを開設。力道山を中心としたプロレスブームの立役者となった。 』、、、、、国粋会の侠客であり、明治座・新田建設の社長として実業家であり、相撲・プロレスを興すスポーツ好きであり、馬を持つほど競馬も好きだったそうだ。
・・・・・・・・・・・明治座前の公園に、昭和20年(1945)の空襲で命を奪われた人々を慰める明治観音堂がある。 この堂は、昭和25年(1950)12月に新田新作が建立したものである。
・・・・・・・・・・・・明治座の裏には、新田新作の家族が営業する純和風のカウンターバー「新田」がある
・・・・・・・・・・3つ目は清洲橋の西詰(中央区日本橋中洲)に、昭和29年(1954)に建立された金刀比羅宮がある。、、、、、神社の鳥居には、「昭和二九年 新田新作」と刻まれている。 また、玉垣にも、料亭など名とともに新田新作の名が刻まれている。(写真中央の鳥居に刻まれた名の右奥にある玉垣)
④荒汐部屋・・・・・・・・日本橋浜町2丁目、前頭の蒼国来を頭に12名の力士が在籍する相撲部屋、 早朝から稽古が始まっている、、、、窓も大きくあけられ、熱心なファンや、金髪女性も覗いてる。、、、、「デブは嫌いよ 力士は好きよ もっと好きなの太っ腹 」
⑤清洲橋 ・・・・・・・・・清洲橋を渡り、江東区に入る

⑥清澄公園/清澄庭園・・・・・・・・・・地続きに隣り合う“公園”に“庭園”、元は一つで、明治11年(1878)に岩崎弥太郎が一帯の約3万坪を取得して、社員の慰安・貴賓の招待に、明治13年(1880)に「深川親睦園」を開園した。 池泉回遊式の広大な庭園には、西洋館、日本館などの立派な建物も造られた。 しかし、関東大震災では被害を受けた。 震災の翌年、比較的被害の少なかった東側半分が東京市に寄付された。 昭和7年(1932)、東京市は公園として開園した。 これが「清澄庭園」である。 昭和52年(1977)、西側半分を東京都は開放公園とした、こちらが「清澄公園」である。、、、、、、ちなみに、“公園”はただ、“庭園”は150円也。
・・・・・・・・・・・・・清澄公園
・・・・・・・・・・・・・・清澄庭園
・・・・・・・・・・・・・園内では、ほとんどの人が、スマホを片手に、ポケモンGO(?)
⑦清洲通り・・・・・・・・・清洲庭園から、清洲通りを北上し、小名木川に架かる高橋 を渡り、首都高7号線の下で堅川を越え、両国に入る。
・・・・・・・・・・・・勝海舟の誕生地の前に建つ学校、芥川龍之介の母校である両国小学校、そして回向院を通過。、、、、、今日は小学校の運動会、正門前では怪しき人物が入らぬように、先生が立っていた。 私は、こういう場面に弱く、何も悪いことしていないのだが、みょうに落ち着かない。 「三十六計逃げるに如かず」
⑧両国橋・・・・・・・・・・・・両国橋を渡れば、我が家まで10分、、、、、『ただいま!』
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