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2016年11月

2016年11月29日 (火)

東大島~南砂町

都営新宿線東大島駅から東西線南砂町駅まで、1万歩、7kmの散歩です。




東大島駅 ・・・・・・・・江東区と江戸川区の区境を流れる旧中川。 その旧中川の真上が東大島駅のホーム。 駅の出入口(改札)は川の両岸、江東区・江戸川区にそれぞれある。 降りるとき出口を間違えると、『さあ~、たいへん』、川を渡る橋まで遠回りすることになる。、、、、、相対式2面2線の川の上の駅、昭和53年(1978)12月21日、に開業。 只今、駅の改良工事中。、、、、、今日は江戸川区側の小松川口から出てみた。

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大島・小松川公園・・・・・・・・・・・旧中川の両岸:江東区と江戸川区にまたがる都立公園。 江東区側の公園の地下には、都営地下鉄新宿線の車両基地が造られているが、公園の地下であり見ることはできない。 江戸川区側(東大島駅の北側)には大きな芝生広場があり防災拠点となっている。、、、、今日は東大島駅の南側の公園に行った。 ちょうど紅葉の見頃だった、『Oh!Beautiful!Wonderful!』

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・・・・・・・・・・・・・・南側の公園は東に荒川、西に旧中川が流れ、公園ある場所で、かつては合流していた。 その合流地点には小松川閘門が設置され、荒川と旧中川の水位の違いを調節し船を通行させていた。 この閘門は公園の中央の丘に頭部だけ出し、下は埋められた状態で残されている。、、、、、約101万円の工費により、昭和5年(1930)3月の竣工。 閘門の上部には60馬力電動機が装備され、8m/分の速度で重さ80tのゲートを昇降したそうだ。 閘門は昭和51年(1976)に役目を終えた。、、、、、上部の小屋の中には大きな歯車などが残されているのが見える。

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・・・・・・・・・・・・・・閘門前から旧中川(右から左へ下る)を望む。 中央、奥からは小名木川が旧中川に合流する。

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・・・・・・・・・・・・・・・閘門の東側には荒川が流れる

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荒川ロックゲート・・・・・・・・・・名前はカッコいいが、平成の新しい閘門。 旧小名木川閘門の南(下流)に、平成17年(2005)に竣工した閘門。 この位置で、旧中川と荒川が合流する。、、、、、閘門の概要は、前扉室(荒川側):高さ29.5m、幅28.2m  後扉室(旧中川側):高さ22.5m、幅30.0m 閘門:高さ9.4m、幅18.5m、延長65.0m  施工は戸田建設。、、、、、前扉室の屋上(最も高い処)に上がれるときき、誰もおらず、吹きさらしの階段を一人で上ってみた。 一歩一歩上りながら、『今地震が発生したら、このゲートが破壊して、、、、』てなことを思い、悲しいかな、高所恐怖所の私は、あと少しで屋上という位置で、怖くなり降りてきた。(残念!)


・・・・・・・・・・・・・・前扉室を荒川から見上げる。

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・・・・・・・・・・・・・・前扉室から後扉室と閘門を眺める。 振り返ると、荒川への注ぎ口見える。

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・・・・・・・・・・・・・・・後扉室

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・・・・・・・・・・・・・後扉室に流れ込む旧中川

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・・・・・・・・・・・・・・・旧中川と閘門内を、仕切るゲート

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・・・・・・・・・・・・・・・後扉室から、前扉室を眺める。

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仙台堀川公園・・・・・・・・・・・江東区北砂6丁目と東砂1丁目の境で小名木川から分流し、千石1丁目付近で大横川に合流する仙台堀川に沿った全長約3.7kmの都内最大の親水公園。、、、、砂町が農村から工業の町へ変わる中、船による輸送力の向上を見越し、昭和8年(1933)に運河が開削された。 昭和30年(1955)頃までは、周辺の製材所の材木が運河に浮かぶ光景も見られたが、その後、運河の役目も終わることになった。 昭和55年(1980)には運河は埋め立てられた。、、、、、運河を公園とする工事は、昭和53年(1978)に始まり、昭和61年(1986)に完成した。、、、、、、桜の木が多く、花見の名所の一つである

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・・・・・・・・・・・公園の一画に保存されている旧大石家住宅。 江戸時代後期の半農半漁の住宅である。

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南砂町駅・・・・・・・・・昭和44年(1969)3月29日、私が社会人となった日の3日前に開業した駅。 もう50年近く前のことだ。、、、、、島式ホーム1面2線を有する地下駅東西線の駅である。、、、、駅周辺には大型集合住宅が建ち、また周辺の再開発も予定されている。 それを見越してか、2020年を目標に駅の大規模改修工事が進められている。 具体的には島式ホーム2面3線の構造とし、コンコース広げ、改札は中央部に1か所とするらしい。

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2016年11月28日 (月)

北千住~堀切

いよいよ、私も老いを感じる年齢となり、ここ数日、ベッドで寝ていると腰が痛い。 今日は、母が通う整形外科へ同行し、診てもらった。 『たいしたことはない、しばらくリハビリしましょう。』と、云うことで、ベッドの上で腕を固定し腰を引っ張る器具で、背筋を伸ばすリハビリを受けた。 20年くらい前に、「ぶらさがり健康器」という、家庭用の鉄棒みたいなものが流行ったことがあった。 リハビリで使用した機械は、「ぶらさがり健康器」を横にしたような、なんだか似ているようで、非なる器具である。 効くのかな?、、、、、とにかく、医者を信じよう! お土産に、痛み止めと、湿布薬をもらう。

昼過ぎには、痛み止めが効いたのか、調子いい。 15時頃、『ちょいと、散歩してくる』と、北千住駅で下車し、東武スカイツリーライン沿いに堀切駅まで歩いてきた。 8千歩、6km      (本日の散歩ルートは、昨年7月15日とほぼ同じ。



北千住駅・・・・・・・・・・東武電車で北千住へ GO!
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・・・・・・・・・・・・・・・北千住駅東口を出て、線路沿いに歩き始める。 時刻は15時半、陽は短く、薄暗くなってきた。 

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北千住大踏切・・・・・・・JRと東武、それぞれの踏切が平行し、閉じたり、開いたり。、、、、、踏切には両側に警備員が配置され、安全確保に努めている。

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旧中千住駅跡・・・・・・・・・・・「中千住駅」、そんな駅どこにあった。 知る人も少なくなった駅だ。、、、、、中千住駅は大踏切から、浅草寄りに30m程いったあたりに昭和28年(1953)まで存在していた駅である。 廃止後は貨物支線(千住線)の分岐点として、昭和62年(1987)まで存続していた。、、、、現在は、その遺構が存在しておらず、適当に『この辺り』と云うこと。、、、、写真は大踏切から撮影したもので、写真中央の車の辺りが駅の跡。

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煉瓦の架道橋・・・・・・・・・北千住から牛田に向かう中間地点(愛里病院正面付近)に、高さ1.6mのガードがある。 身長165cmの私は頭がかする。 チョイと前かがみで歩くとちょうどよい。、、、、明治大正期に造られたものと思われる。

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旧千住線跡・・・・・・・・・かつて、北千住駅は鉄道省が管理し、貨物を扱う東武鉄道は自由に使える貨物駅が欲しかった。 そこで、大正13年(1924)10月に開業した中千住駅から分岐し、隅田川左岸にまで0.6kmの貨物線を昭和10年(1935)11月1日に開通させた。 これが千住線である。、、、、都心で発生(製造?)したウンチ(糞尿)を、隅田川利用しオアイ船で千住まで運び、千住からは東武鉄道で埼玉県の大沢、杉戸方面に農業用肥料として運んでいた。 千住線は糞尿列車の線であったが、昭和62年(1987)5月1日に廃止となった。、、、、、線路は中千住駅から浅草方へ400m程進み、墨堤通りを横切って、京成本線の下をぬけ隅田川岸に出ていた。 レールの一部が京成本線の下に残されている。

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牛田駅・・・・・・・・・・・「牛田」の地名は無くなり、駅名だけが残る。、、、、駅周辺には大きな店舗はなく静かな駅だ!

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・・・・・・・・・・・・・・牛田駅下りホーム下ある煉瓦造の架道橋。 こちらも、明治大正期の架道橋。

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・・・・・・・・・・・・・・架道橋の近くには、金八先生(ドラマ)も愛した食堂が、暖かい灯りをともしている。

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東武・京成の交差点・・・・・・・・・・・・下をとおるは東武鉄道、上をとおるは京成電鉄。

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堀切駅・・・・・・・・・・東武スカイツリーラインで、23区内で最も乗降客の少ない駅。 客の大半は近くの私立大学の学生。 ちなみに、乗降客数は一日当たり4,000名程である。、、、、、映画のワンシーンとなる駅、私好みの駅である。

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2016年11月27日 (日)

京橋明治屋ビル

妻と日本橋へ行ってきた。 買い物を済ませた後は、二人で散歩。



お江戸育ちの年寄りには、京橋の「明治屋」と言えば、日本橋の「三越」、銀座の「服部時計店」などと共に、ピンとくる店である。、、、、戦後の“昭和”の時代は、横文字のラベルが貼られた缶詰・瓶詰、ご贈答用の洋酒・ワイン、世界のチーズ・ハム・サラミ、、、、なんだか知らぬが、カッコいい食品を売る店だった。、、、、我が家の朝は味噌汁・納豆・海苔・玉子。 昼は蕎麦・うどん、たまにはコッペパンにジャム塗って、目玉焼きに薄いハムをチョイと添えて、スープ代わりに朝の残りの味噌汁を。 夜は、“明日に備え活力を”、鍋だ、鰻だ、コロッケだ!、酒に、刺身だ、とんかつだ。、、、、いずれにしても、「明治屋」の食品が食卓にのることはなく、我が家では縁遠い店の一つであった。


・・・・・・・・・・・・・イタリア・ルネサンス様式の明治屋ビルは昭和8年(1933)の竣工。 設計は曾禰中條建築事務所、施工は竹中工務店。 京橋のランドマーク的な建物である。 写真は平成24年(2012)撮影。
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・・・・・・・・・・・・・この明治屋ビルを含む、京橋2丁目の二つの区画が一つになり、一昨日(11月5日)から「京橋エドグラン」としてオープンした。、、、、建物は平成28年(2016)10月31日に竣工、地上32階/地下3階の超高層ビルで、高層部分は7階に中間層免震構造を採用している。 日建設計の設計・監理、清水建設の施工。 延べ床面積は約11万m2の複合ビルで、高層部はオフィス、低層部は飲食・物販店舗と、保存再生した明治屋京橋ビル、中央には通り抜けできるオープンスペースが造られている。
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・・・・・・・・・・・・・まずは、明治屋ビルに入ってみた。、、、、、我が家の食卓にも、明治屋の品がのるようになり妻は買い物。 その間、私は“Give me!チョコレート!”を見つめ、チョコレートを欲しがる、可愛い利口な子であった、あの頃を思い出した。

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・・・・・・・・・・・・・・地下から6階までの低層部は、飲食店を中心とした店舗が入居している。、、、、、どの店もオフィスで働くサラリーマンをターゲットにした店であった。

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・・・・・・・・・・・・・・風が吹き込む地下では、コンサートが行われ、観客は階段に座り聴いている。、、、、、冷えるぞ、カイロ貼って座りな!

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2016年11月25日 (金)

東大の黄葉

東大の黄葉を見に本郷キャンパスに行ってきた。 JRお茶の水駅から千代田線千駄木駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。



・・・・・・・・・・・・・東大構内に入る門は多いが、赤門の南側(本郷通りからは、赤門の右手の裏通り)にある懐徳門を入ると、両側に煉瓦の塊が置かれている。 一つは医学部薬局の基礎、もう一つは前田侯爵邸懐徳館の基礎で、共に建物は現存せず、構内整備の中で基礎部分が発掘されたものである。 前田侯爵邸に使われた煉瓦(次の1枚目の写真)は日本煉瓦製造会社製の機械で整形された煉瓦である。 医学部薬局に使われた煉瓦(2枚目の写真)は、小菅収監製の手作りで整形した煉瓦である。 比べてみると、侯爵邸の煉瓦は形が整っているようだ。 小菅収監(刑務所)のは、チョイと不揃いだが“味”のある煉瓦。、、、、小菅収監製の煉瓦には桜の刻印がある。 作った人には桜の刺青があったかも。
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・・・・・・・・・・・・・・ご存じ、旧加賀藩主前田家上屋敷の御守殿門(通称:赤門)。 文政10年(1827)に前田家が第11代将軍徳川家斉の第21女:溶姫を迎える際に造られた切妻造りの薬医門である。 左右の番所は唐破風造り。 国の重要文化財なり。、、、、東大では有名な門なので、正門と間違える人もいる。

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・・・・・・・・・・・・・・懐徳館(かいとくかん)、、、、、旧前田家の邸宅で、明治天皇の行幸に際し、和館と洋館が建設されたが、東京大空襲で焼失した。 現在の建物は、昭和26年(1951)に再建した和館である。、、、、、一般には非公開の建物、私は東大卒ではないので、知らずに入ってしまった。 ゴメン!

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・・・・・・・・・・・・史料編纂所・社会科学研究所・・・・・・総合図書館(昭和3年(1928)の建築、設計:内田祥三)の増築部として建てられた。 図書館の正面は北側で、現在改修中。 史料編纂所の出入口は西側に造られている。、、、、チョイと内部も拝見。

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・・・・・・・・・・・・・・史料編纂所の半地下に「明治新聞雑誌文庫」と標した入口がある。、、、、、明治期の日本で刊行された新聞雑誌最大のコレクションを有する、明治初期から戦前期にかけての新聞・雑誌、資料を中心とした資料収集、調査、整理を進めているそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・本日の散歩の目的地、正門前の黄葉。 正門から安田講堂に向かいイエローロードは、お見事!

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・・・・・・・・・・・・・農学部のある弥生キャンパスも黄葉の盛り。 落ち葉を踏みしめ校舎へ向かう学生、イチョウは滑るから要注意!

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・・・・・・・・・・・・・・黄葉の中、忠犬ハチ公とじゃれあい喜ぶ上野英三郎博士。、、、、ハチ公没後80年にあたる平成27年(2015)3月8日に、除幕式が行われた、農学部正門横の「上野英三郎博士とハチ公」像

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・黄葉を堪能し、千駄木駅から帰る

2016年11月23日 (水)

お酉さま

雪が降りそうな肌寒い今日は“二の酉”。 一の酉には行けなかったので、妻と二人で行ってきた。



・・・・・・・・・・・・・・・浅草橋から台東区のコミニュティバスで、鷲神社 (おおとりじんじゃ)のある千束まで100円。 バスは15分間隔で運行。、、、、、安くて、便利だ、そろそろ運転免許証を返納しようかな。
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・・・・・・・・・・・・・・千束の交差点にチン座する公衆トイレ。 本日は行列のできる「満員御礼」日である。、、、、、「漏れる漏れると 足踏みしても こころ通じぬ 使用中」

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・・・・・・・・・・・・・・気持ち早めに家を出たが、ナント、参拝待ちの行列は、表通りから裏通りに続いている。 神社の境内に入るまで1時間待ちである。、、、、『列の最後尾はここだ!』

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・・・・・・・・・・・・・・DJポリスも、列に割り込まないよう、マイクで注意

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・・・・・・・・・・・・・熊手を持って神社から帰る人、いらいらしながらジッと並ぶ人、歩道は人でいっぱい!
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・・・・・・・・・・・・・1時間ならび、やっと神社の前に到着。 やれやれ!

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・・・・・・・・・・・・・神社入口ではお祓いしてくれる。、、、、「参る鷲 清めた心 おなご見る目も 清めたか」

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・・・・・・・・・・・・・・参道も亀の歩みで拝殿へ、、、、、、賽銭をはずみ、来る年の開運、授福、除災を祈り、ついでに年末ジャンボの当選も祈る。 7億円当たれば、200円の賽銭は安いものだ!

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・・・・・・・・・・・・・妻は「熊手のお守り」を購入、清い心で可愛い娘を拝見。

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・・・・・・・・・・・・・鷲神社の隣、長國寺にも手を合わせなくては、罰が当たる!

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・・・・・・・・・・・・・・一通り、社寺に義理を果たし、あとは熊手の露店を眺めながら、境内を後にする。

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・・・・・・・・・・・・・・・境内を出ても、裏通りは露店がぎっしり! お兄さん、熊手片手にブラブラ、この後何処へ?、、、、、、、その昔は、スグ東隣の吉原へ、、、、、川柳に「お多福に 熊手の客が ひっかかり」とある。

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・・・・・・・・・・・・・我が夫婦は、浅草へ出て帰ることにした。 『また、来年!』

2016年11月22日 (火)

船橋大神宮(意富比神社)

JR総武本線東船橋駅から船橋大神宮経由で船橋駅までプチ散歩。



東船橋駅・・・・・・・・島式ホーム1面2線の地上駅で、橋上駅舎となっている。 半地下式に線路の両側の道路面の方が高い。 駅は昭和56年(1981)に開業した。 総武本線の中では比較的新しい駅である。 駅前にはゆったりとしたロータリーがあるが、大きな商業施設はなく、賑わいはない。
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船橋大神宮・・・・・・・・・・・船橋大神宮は通称で、正式には意富比神社(おおひじんじゃ)と呼ばれ、船橋市最大の神社。 景行天皇40年に日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国平定の折に、船橋に立ち寄って天照皇大神を奉祀して創建したらしい。 延喜式に記載されている古社である。 天照皇大神を主祭神とし、万幡豊秋津姫命・天手力雄命を配祀する。 さらに、徳川家康、秀忠も合祀している。、、、、、、今日は、まだ七五三詣でが続いていたため、拝殿前にはテントが張られ建物は見ることができなかった。 残念!

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意富比神社の摂社・・・・・・・・・大神宮拝殿は七五三のお客様を相手に商売中なので、隣に建てられた摂社の常磐神社を見てきた。 元和8年(1622)、徳川秀忠が常磐神社を造営する。 当時は、意富比神社と常磐神社は、「関東一宮」として並び称されていた。 しかし常磐神社は戊辰の戦火にて焼失し、とりあえず九尺四方の小さな社が建てられていた。、、、、、昨年11月、東照宮もどきの新しい社殿が建てられた。 今日は公開されていたのでチョイと拝見してきた。

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灯明台・・・・・・・・・明治13年(1880)、船橋大神宮の境内に建てられた灯台。 この灯台は、高台に建てられた木造3階建てである。 ここに灯台があるのは、神社が海に近かった証である。 地図を見ると、今は埋め立て地の先まで3km以上ある。、、、、、私が子供頃の昭和30年代までは“ららぽーと”の位置に“船橋ヘルスセンター”があり、海水浴場もあった。 私も、ヘルスセンターで遊んだ記憶が残っている。

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船橋大神宮の飛地境内社・・・・・・・・・・大神宮の境内には6社ほどの境内社がある。 この他に、管理神社として船橋市、市川市などに45社ほどあり。 さらに、飛地境内社として、船橋市内に20社以上の神社が点在している。 今日は、飛地境内社の一部も見て来たのでチョイと紹介する。


・・・・・・・・・・・・・・東船橋駅近くの道祖神社。 由緒などは?

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・・・・・・・・・・・・・・東船橋1丁目の日枝神社。、、、、毎年恒例の祭例では、屋台も出て、園芸大会もあり、昔ながらの祭りの雰囲気を残しているそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・・日枝神社裏側の裏道に残る道祖神

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・・・・・・・・・・・・・・船橋市宮本6丁目の裏道に、石の鳥居が立ち、その後ろに町内の自治会館がある。 会館の軒下を抜けると、奥に小さな社がある。 これぞ熊野神社である。

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・・・・・・・・・・・・・・船橋市本町4丁目、裏道の行き止まりの正面に、ナント! 船橋東照宮がある。 現在は小さな祠が残るのみであり、「日本一小さい東照宮」の異名を持つ。 この東照宮は、慶長17年(1612)に家康の命を受け、伊奈忠政が建てたとされる船橋御殿の跡地に船橋大神宮の富氏が貞享年間(1684~1687)に建立したものであると言われている。 現在の建物は安政4年(1857)に再建されたものである。

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・・・・・・・・・・・・・・もう一つ、飛地境内社に寄ってきた。 こちらも船橋市本町4丁目にある御蔵稲荷神社。 神社は、当地にあった御蔵の鎮守であった稲荷祠を、地元民が維持管理してきた社。

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旧兼坂医院・・・・・・・・・・大神宮の裏手(北側)に、大正5年(1916)に建てられた医院がある。 下見板に玄関の朱色の三角破風が印象的な建物である。

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JR船橋駅 ・・・・・・・・・・・・明治27年(1894)、私鉄:総武鉄道の駅として開業した。 大正12年(1923)、現:東武鉄道野田線も開業する。、、、、、昭和45年(1970)に高架駅となり、現在は快速線・緩行線の島式ホーム2面4線を有する駅。

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2016年11月18日 (金)

明治神宮

明治神宮と周辺をブラブラ、代々木駅からお隣の原宿駅まで、1万2千歩、8kmの散歩です。



代々木駅・・・・・・・・・・明治27年(1894)10月9日、甲武鉄道新宿~牛込間が開業した、この時にはまだ代々木駅はなく、明治39年(1906)9月23日に甲武鉄道(現:中央線)の駅として開業した。 しかし直後の同年10月1日には国有化された。 この時点では、山手線は通過していた。 山手線が代々木駅に停車するのは明治42年(1909)12月16日からである。、、、、、2面2線の相対式ホームに挟まれて1面2線の島式ホームがあり、全3面4線の高架駅。 ホームの北端から、隣新宿駅の成田エクスプレスと東武線直通特急が発着する5・6番線ホームまでは150m程しか離れていない。 いずれ、両駅はくっついて「代々宿」駅となるかも?
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青山街道・・・・・・・・・・代々木駅西口の駅前交番の横を千駄ヶ谷駅方向に向かうと、山手線が走る煉瓦造りの「青山街道架道橋」(大正10年(1921)頃の竣工)がある、その先に山手貨物線の「青山街道踏切」がある。 山手“貨物線”と言っても実態は、埼京線、湘南新宿ライン、成田エクスプレスなどが頻繁に走る線である。 カン・カン・カン・カンと警報がよく鳴る、チョイとうるさい線。、、、、ところで「青山街道」とは、青山学院大の通学路? 調べてみた、、、、、大山詣でに利用する、大山街道の一部。 赤坂御門を起点とし、青山、渋谷、三軒茶屋を経て、大山に向かう街道。 西に向かっては厚木街道、東に向かっては青山街道とも呼ばれていたそうだ。

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裏参道架道橋・・・・・・・・・・・その名のとおり、明治神宮裏参道の手前に位置する架道橋。 山手線と山手貨物線の4本を通す架道橋。 大正10年(1921)頃の竣工と思われる。

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神社本庁・・・・・・・・・・・明治神宮裏参道前に黄色く染まったイチョウが並ぶ、その木立の後ろに神社本庁がある。 神社本庁は、伊勢神宮を本宗とし、日本各地の神社を包括する日本で最大の宗教法人。 日本全国約8万社の神社をメンバーとする宗教法人で、都道府県ごとに神社庁を置いている。 神社本庁では、包括下の神社の管理・指導、神社神道の宣揚・神社祭祀の執行・信者の教化育成・本宗である伊勢神宮の奉賛・神職の養成・冊子の発行頒布を通じた広報活動などを行っている。 ちなみに、全国の神社で得られる神宮大麻(天照大御神の札)の初穂料については、収入の半分が神社本庁、残り半分が伊勢神宮の収入となり、神社本庁だけで年間35億円ぐらいあるそうだ。(スゲェ~!)

 
・・・・・・・・・・・・・・・神社本庁前のイチョウ。 黄葉が美しい!
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・・・・・・・・・・・・・・神社本庁は静かに初穂料の勘定でもしているのかな?

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明治神宮・・・・・・・・・・明治神宮は、明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする神宮である。 大正9年(1920)11月1日に鎮座祭が行われた。 この地にはかつて近江彦根藩井伊家の下屋敷があった場所で、明治維新後に井伊家から政府に対して献上されたものである。、、、、秋の彩を求め森の中を歩いてきた。

・・・・・・・・・・・・・・北参道
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・・・・・・・・・・・・・・大正10年(1921年)に竣工した、鉄筋コンクリート造の宝物殿(国の重要文化財)は工事中

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・・・・・・・・・・・・・・秋の境内

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・・・・・・・・・・・・・・社殿、、、、、本殿は大東亜戦争末期の昭和20年(1945)、空襲によって焼失した。 その後全国から復興資金が寄せられ、仮殿が翌昭和21年(1946)に建設された。 現在の本殿はその後、国内外からの寄付などによって造営が進められたもので、昭和33年(1958)に還座祭が行われた。(本殿は撮影禁止)、、、、、自撮り棒を持つ観光客を避けて撮影する難しさを体験!

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・・・・・・・・・・・・・・木造の明神鳥居では日本一を誇る大鳥居、、、、高さ12m、柱の径1.2m、昭和50年(1975)竣工。

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・・・・・・・・・・・・・・南参道を歩き、山手線を跨ぐ神宮橋に出た。、、、、、、神宮橋は、大正9年(1920)に鉄骨を使用したコンクリート桁の陸橋として完成した。 その後、劣化により、昭和57年(1982)に、現在の橋に架け替えられた。

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国立代々木競技場・・・・・・・・・・ご存じ、“世界の丹下健三”の設計による東京オリンピックの競技会場。 昭和39年(1964)9月、オリンピック開催の39日前に竣工した。 オリンピックでは、第一体育館(当時:本館)が水泳競技、第二体育館(当時:別館)はバスケットボールが実施された。、、、、、、、今日は、両体育館を一回りしてきた。 まだまだ使える、素晴らしい建築である!


・・・・・・・・・・・・・・第一体育館、、、、、、、13,291名を収容できる巨大空間を2本の主柱と2本のワイヤーで創っている。 吊り屋根式構造で、曲線のシルエットが美しい体育館。 清水建設の施工。 地上7階/地下1階建て。

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・・・・・・・・・・・・・・第二体育館、、、、、、、こちらは、3,202名収容の空間を、円形の外周に建つ1本の主柱から、円形にワイヤーが張られ屋根を造っている。 大林組の施工。 地上1階/地下1階建て。、、、、、観客が少なく、チョイと寂しいバスケットの試合が行われていた。

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岸記念体育館・・・・・・・・・第二代大日本体育協会会長岸清一の遺言により100万円が寄付されて昭和15年(1940)にお茶の水に建設された。 その後、オリンピック開催に合わせ、昭和39年(1964)に代々木競技場の隣に移転した。 日本スポーツ界の総本山みたいなところだ! 2020年オリンピックを機に、再び大きなビルに移転するそうだ。 なんだか、オリンピックごとに、大きくなるような気がするね。、、、、、、その昔、お茶の水にあったころは木造2階建ての会館で通学時には総武線の車窓から見えた。私は、“岸首相はこんなところにも影響力があるんだ”と思い込んでいた。(はずかしながら!) 体育協会の“岸”さんは、岸首相とは無関係で、島根県出身の弁護士、法学博士、貴族院議員、昭和8年(1933)に没した。

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五輪橋・・・・・・・・・神宮橋の隣に架かる跨線橋。 昭和39年(1964)の東京オリンピック の水泳競技メイン会場である、国立代々木競技場と表参道を、神宮橋を迂回せずに直線的に結ぶため造られた。、、、、オリンピックの7か月前、昭和39年(1964)3月に竣工。

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原宿駅 ・・・・・・・・・・・・原宿駅の改良工事が予定されているが、現駅舎はどうなることか?

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2016年11月16日 (水)

下総中山~西船橋

JR総武本線下総中山駅から、真間川沿いに歩き原木の妙行寺に参り、西船橋駅まで、1万歩、7kmの散歩です。




下総中山駅 ・・・・・・・・・・駅前から北へ法華経寺まで参道が続く門前の駅である。 駅は明治28年(1895)4月12日、私鉄:総武鉄道の中山駅として開業したが、明治40年(1907)に国営化された。 昭和47年(1972)に高架化され改札口は高架下になった。、、、、、駅の南口は裏口のようで、ロータリーもなく、高架橋に並行して裏道があるだけ、商店街もないようだ。 チョイと寂しいね!
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意地に負けた由緒ある小栗原・・・・・・・・・中山法華経寺は市川市中山にある。 「中山」の名がつく、京成中山(京成本線)、下総中山(総武本線)、原木中山(東西線)の各駅は、ナント船橋市にある。 しかも、そろって住所は、船橋市本中山でる。、、、、地図を見ると、市川市に細長い馬の首が突っ込んだような形で船橋市がある。 馬の耳に「京成中山」が、目に「下総中山」、口に「原木中山」の駅があるようだ。、、、、この一帯の中央ある小栗原小学校前に地名を解説した案内があった。 そこには、現在の「本中山」は「小栗原」と呼ばれ、平安時代からの由緒ある地名であった。 しかし、中山法華経寺の門前町に由来する市川市の「中山」が一般に通用しており、昭和49年(1974)に小栗原を船橋市「本中山」としたそうだ。、、、、つまりは、由緒ある「小栗原」の地名を捨てて、市川市に対抗し意地で「本中山」と命名したそうだ。 昔の名の方が良かったね。
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・・・・・・・・・・・・・・小栗原橋、、、、、、国府台付近で江戸川から分岐し、原木で東京湾に注ぐ一級河川の真間川に架かり、本中山3丁目と4丁目を結ぶ橋。 昭和55年(1980)竣工。、、、、由緒ある「小栗原」の名を遺す橋。

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・・・・・・・・・・・・・小栗原の名を冠した小栗原住宅、、、、昭和47年(1972)に建てられたマンション。 11階建、総戸数:374戸(3棟)の団地で、大成建設、熊谷組の施工、日本勤労者住宅協会の分譲。、、、、けなげに小栗原の名を遺す市営住宅かと思った。

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原木日枝神社・・・・・・・・・・・・京葉道路を南に横切り、市川市原木(ばらき)に入った。 住宅の間に畑が点在する町に素朴な神社があった。 原木日枝神社は、安永2年(1773)に創建し、祭神は大山咋命である。、、、、狛犬は歴史がありそうだ。 江戸時代の作?

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妙行寺・・・・・・・・・・・・市川市原木に、境内の広い大きな寺院があった。 天文7年(1538)に開創した、日蓮宗系の寺で原木山妙行寺である。 寺の案内には、『日本一の祈祷霊場、日本一のお題目修行道場の原木山で唱題行を始めてみませんか? 唱題行はお題目(南無妙法蓮華経)を太鼓に合せて唱え、身体健全、家内安全他を祈願する修行です。』と、書かれていた。、、、、、山門、本堂、祖師堂、荒行堂など、たくさんの建物が境内に建っているが、すべて明治以降の建物と思われる。


・・・・・・・・・・・・・・シンプルな総門と見事な彫刻で重厚な山門

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・・・・・・・・・・・・・・堂々とした大きな屋根の本堂

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・・・・・・・・・・・・・本堂の裏手奥には、コンクリート造の荒行堂多宝塔

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・・・・・・・・・・・・・・・御祈祷場の後ろには庭園が広がる。
 
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京葉道路・・・・・・・・・・・原木ICで、京葉道路を横断し、西船橋駅に向かう。、、、、歩く人には横断する場所が限定される、この高速道は邪魔だね!
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西船橋駅 ・・・・・・・・・・・総武本線緩行線、武蔵野線、京葉線、東京メトロ東西線、東葉高速鉄道と5線が乗り入れる大ターミナルである。 でも、総武快速線は止まらない、もちろん特急も止まらない駅。 西船橋を利用する乗降客は一日65万人程で、日本国内でも屈指の乗降客数である。、、、、、駅前には、デパートがない、大型商業施設がない、映画館がない、あるのはラブホテルばかり、チョイと昔はストリップがあった。、、、、、交通の要所だが、生活の要所になれない、不思議な駅だ!

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2016年11月14日 (月)

小竹向原~落合南長崎

地下鉄有楽町線に乗り、『さて、どこで降りようか?』 下車したことがない「小竹向原(こたけむかいはら)」で降りた。 いつものように、裏道を気ままに歩き、江古田をとおり、都営大江戸線「落合南長崎」駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。



小竹向原駅・・・・・・・・・都心から、和光市、森林公園方面に向かう有楽町線と、小手指、飯能方面に向かう西武・有楽町線の分岐駅である。 池袋駅からは3駅目で練馬区の中では、最も都心寄りの駅である。 昭和58年(1983)6月24日、有楽町線営団成増駅~池袋駅間の開通時に同時営業した。 同年10月1日には、西武有楽町線の小竹向原駅~新桜台駅間も開通した。 島式ホーム2面4線の地下駅である。 駅舎は練馬区立小竹小学校敷地の直下にあり、出入り口はせせこましい裏通りにある。 そのため、商店街、バス停などは何もない。 駅からタクシーに乗りたければ、近くの環七通りまで歩かないと乗れないね!、、、、、駅名「小竹向原」は、駅が所在する練馬区小竹町と板橋区向原を合成して命名された。
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練馬区小竹町・・・・・・・・・町の北側は有楽町線の小竹向原駅がある、南側は西武池袋線の江古田駅がある。 両駅に挟まれ、武蔵野音大、日大芸術学部に隣接する、静かな中級住宅街。、、、、コンビニ、商店、スーパーなどはなさそうで、チョイと不便かも?

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江古田駅 ・・・・・・・・・・小竹町をさまよい歩き、出てきたところは日大芸術学部の前、『なんだ、ここに出るのか。 何度か来て、見て、知ってるぞ!』


・・・・・・・・・・・・まずは、日大芸術学部に御挨拶。、、、、どこぞの新興の高等学校のような校舎。 もう少し芸術的な校舎にして欲しいね!

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・・・・・・・・・・・・・・・続いて、江古田駅に御挨拶。

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・・・・・・・・・・・・・・江古田駅北口前の浅間神社、、、、、拝殿前のケヤキは樹高:27m、幹の太さ:3.1mの大木である。 拝殿後ろには、「江古田の富士」と言われる富士塚もある。

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寛政の地蔵尊・・・・・・・・・・・・中野区江原町3丁目、マンションの角にひっそりと佇むお地蔵様。 寛政年間にこの地で疫病がはやり、その祈願のために建立された。、、、、、疫病魔払いの御利益があるそうだ。 私のボケ防止は期待できないかな?

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江原屋敷森緑地・・・・・・・・・・大江戸線新江古田駅近にある、屋敷一軒分ほどの小さな緑地。 ちょうどモミジが色づき始め綺麗だったのでパチリ!

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末日聖徒イエス・キリスト教会・・・・・・・・・・・・目白通りを江古田から目白方面に向かうと、中野区と新宿区の区境近くで、右手奥に教会が見えた。 教会が『チョイと、兄さん見ていきな。』と呼んでいるようで、私の足は教会に向かった。、、、、、、建物を眺めていたら、二人の若くてカッコいい米国人宣教師がちょうど教会に入るところで、私にも『どうぞ』と入れてくれ、教会の説明をしてもらった。


・・・・・・・・・・・・・建物の外観からは、カトリック教会のような、荘厳さ、威厳、重厚感、芸術性などは感じられない、いたってシンプルで質素な建物である。

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・・・・・・・・・・・・・・・内部は、これまた質素な造りである。 カトリック教会のように、正面の十字架、周囲のステンドグラス、壁に飾られた聖徒の画/像など、何もない。

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・・・・・・・・・・・・・・宣教師の話で、印象的だったのは『イエス・キリストは現世に生きている』ということだった。 私は、末日聖徒イエス・キリスト教(=モルモン教)では、宣教師・信者は、互いに経験・体験を語り・聞き、キリストの教えを学び、実践することで『幸せ』を得ることだと勝手に理解した。




●・・・・・・・・・・・・・・・・・教会を出て、近くの大江戸線「落合南長崎駅」から帰宅。

2016年11月12日 (土)

女三人引き連れ紅葉狩り

雅万歩は母・妻・娘を引き連れて、鬼怒川・日光と紅葉狩りをしてきた。 よって、散歩はお休みですが、鬼怒川の上流に位置する3ダムを見て来たので、チョイと紹介する。



五十里ダム・・・・・・・・・・江戸からちょうど五十里(200km)の距離にある地点「五十里(いかり)」に造られたダムで五十里ダムと命名された。、、、、、利根川(上流は鬼怒川)の上流:男鹿川に造られた、国交省が管理する堤高:112.0m、提頂長:261.8mの重力式コンクリートダム。 利根川の治水と栃木県営の水力発電を目的としたダムである。 鹿島建設の施工で、昭和16年(1941)に着工し、昭和31年(1956)に完成した。
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・・・・・・・・・・・・・・ダム湖に架かる野岩鉄道会津鬼怒川線の鉄橋。、、、、、私は、鉄橋を渡る列車を撮影したかったが、チャンスを逃し残念! 60代の妻は山の紅葉の美しさに満足し、そろそろお腹の空いてきたころだ。

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湯西川ダム・・・・・・・・・・・五十里ダムの上流で、落人の里:湯西川温泉の手前に造られた、国交省が管理する多目的ダムである。 堤高:119.0m、提頂長:320.0mの重力式コンクリートダム。 鹿島建設+清水建設の施工で、昭和57年(1982)に着工し、平成24年(2012)に完成した。、、、、、、建設時の現場事務所所在地は綺麗に整地され、建物の跡も残っていない。 ダムを造った技術者は、今はいずこに。

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・・・・・・・・・・・・・・以前、この地に度々足をはこんだ、30代の山歩きの好きな娘の案内で、地元の美味しい手打ち蕎麦を賞味することができ、家族は満足。 歩き疲れた足も、蕎麦屋で休息。




川治ダム・・・・・・・・・・・・・・川治ダム(かわじダム)は、鬼怒川の上流部に建設されたアーチ式コンクリートダムである。 このダムも、国交省の管理する多目的ダム。 堤高:140.0m、提頂長:320.0m。 鹿島建設の施工で、昭和43年(1968)に着工し、昭和58年(1983)に完成した。

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・・・・・・・・・・・・・・小雨降る寒いダムサイド、90代の母は、ダムに興味はなく、疲れてギブアップ! 早く宿に行って、腰の痛みを癒したい様子だった!




●・・・・・・・・・鬼怒川の湯で、足、腰のばし、今日は朝から小春日和。 日光でも紅葉狩りを堪能し帰宅する。

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2016年11月 9日 (水)

木枯らし吹く墨田4丁目

マフラーを巻いて散歩に出たが、京成押上線八広駅で下車すると、荒川から木枯らし1号が吹きつけ、寒い~~、寒い~~。 “男は我慢”と自分に言い聞かせ、荒川土手をチョイと歩いてみた。 “やっぱり寒い、我慢できない”と、土手の下「墨田4丁目」を歩くことにした。 東武伊勢崎線鐘ヶ淵駅前を通り、東向島駅までの散歩となった。 1万1千歩、8km。



①木枯らしの吹き付ける荒川土手・・・・・・・・・・
 
・・・・・・・・・・・・・・八広駅 ホームの端からは、50m程先の京成押上線荒川橋梁がスグ近くに見える。 吹きさらしの寒いホームだ、せめてホームを覆うぐらいの処置はしてほしいね。
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・・・・・・・・・・・・・八広駅から100m程歩き、京成押上線荒川橋梁の上流側の土手に出た。 平成14年(2002)に竣工した、長さ473mの7径間下路ワーレントラス橋。、、、、帽子は風で吹っ飛びそう、我が身も飛びそう、橋をじっくり見る余裕なし。

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・・・・・・・・・・・・・・京成押上線荒川橋梁の上流側には新四つ木橋が架かる。、、、、、昭和48年(1973)の竣工、長さ472m、鋼ゲルバー箱桁、鋼鈑桁、鋼箱桁橋。、、、、、誰もいない河川敷、石焼き芋屋の姿も見えず、寒い~~。 『人肌の温もりが恋しい!』と、とぼけた思いもよぎり、『今日は散歩に出なければよかった。』と後悔する。

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・・・・・・・・・・・・・・さらに上流側には、国道6号(水戸街道)に架かる四つ木橋。、、、、、昭和14年(1939)2月に着工、戦時中は工事を中断し、昭和27年(1952)7月30日に開通した。 橋長:507.4m、アーチ部材にて支持したランガー橋と鋼I桁橋にて構成される。、、、、、身体が冷えてくると、ジィ~として居れなくなる生理現象が発生、急いで土手を下り、コンビニに駆け込み一仕事終える。 気分はホットしコンビニに感謝、ホットのお茶を購入、三口飲んだら身体もホット。 『よし、歩くぞ!』、再び空元気。

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墨田4丁目・・・・・・・・・・・京成押上線八広駅と東武伊勢崎線鐘ヶ淵駅の間で、荒川右岸と都道449号線に挟まれた地区。 墨田区内では、京島地域と同様に、木造住宅密集地域(=木蜜地域)である。 道は狭く、ゴチャゴチャ、クネクネ、家は木造で燃えやすい、緊急車両が入れない、チョイと危険な町。


・・・・・・・・・・・・・・我が足は早速、狭い裏道に入り込んでいく。、、、、、寒さもしのげるね!

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・・・・・・・・・・・・・・子育地蔵が守る、『危険 この先幅員狭し』の立て看板

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・・・・・・・・・・・・・・今も残る、『戦後の下町』。、、、、私も、メンコ、ビー玉、ベーゴマで遊んだ裏道、路地裏の景色だ!、、、、、冬は遊びながら鼻水たらし、セーターの袖で拭いて、袖はいつもゴワゴワしてたっけ。

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・・・・・・・・・・・・・・・空き地はまとまて再開発。 耐火住宅をまとめて建設中。Dsc06874

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・・・・・・・・・・・・・・隅田稲荷神社、、、、、、、、墨田4丁目、町の中央、裏道を右に左に方向感覚の無くなった頃鳥居の前に出る。 判りにくい処にある神社。、、、、、天文年間(1532~1553)に伏見稲荷を勧請し祀った隅田稲荷神社がある。 現社殿は昭和18年(1943)に改築。

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一生忘れられない交番・・・・・・・・・・・雅万歩脱臼騒動 の舞台となった鐘ヶ淵駅前の交番。 あれから3年半、雅万歩も成長し、今は踏切には細心の注意をはらい、日々を過ごしている。、、、、、、この辺りに来ると、いつのまにか、木枯らしの寒さは忘れた。

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●・・・・・・・・・・・・・この後、墨田2丁目を抜けて東向島駅 から帰宅、、、、、、「寒い寒いと 思えば寒い 急ぎ帰って 抱く行火(あんか)」

2016年11月 8日 (火)

ハチブドウ酒の別荘

稲毛駅近くで行われているパソコン同好会の帰り、久しぶりに稲毛浅間神社、旧神谷伝兵衛稲毛別荘に行ってみた。



JR稲毛駅・・・・・・・・・私が知る、戦後の稲毛駅は、田畑の広がる田舎町にあり、ここからも稲毛海水浴場に行くことができた。 それが、昭和56年(1981)から、総武快速線が停車する駅となり、今では千葉市内では3番目に乗車人員の多い駅となった。(ちなみに、1番は千葉駅、2番は海浜幕張駅)、、、、、駅前のバス停からは四方八方の団地に向かうバスが頻繁に出ている。 私が住む浅草橋駅では見られない光景である。
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・・・・・・・・・・・・・・・【念のため】 眉毛に鼻毛に胸毛、みんな“げ”、純毛に羽毛に陰毛、みんな“もう”。 では「稲毛」は、“いなげ”と読みます、まちがっても“いなもう”と読まないで。



京成稲毛駅・・・・・・・・・・・JR稲毛駅から徒歩10分、かつては、稲毛海岸に近い駅で、駅前の道路は浅間神社前を海水浴場へ向かう通りであった。 ちなみに、当駅から千葉寄りに、「浜海岸」、「千葉海岸」と名付けられた駅が続いていた。 今は、海岸も無くなり駅名は「みどり台」、「西登戸」と改名された。
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稲毛浅間神社 ・・・・・・・・・稲毛浅間神社に手を合わせ、地続きの松林の綺麗な稲毛公園を抜け、 旧神谷伝兵衛稲毛別荘に向かう。


・・・・・・・・・・・・・おや、誰もいない、チョイと寂しいね。、、、、、若い巫女さん10人程ズラリ並べて、参拝客が来たら一斉に、『いらっしゃいませ!』と声をかけてくれたら、チョコチョコ寄らせてもらうのだがね。

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・・・・・・・・・・・・・・・参拝終えて、松林を抜ける

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旧神谷伝兵衛稲毛別荘・・・・・・・・・大正7年(1918)に建てられた、“デンキブラン”、“浅草神谷バー”、“牛久シャトー”でお馴染みの実業家神谷尾伝兵衛の別荘。 現在は千葉市で保存されている国の登録有形文化財。、、、、、外観は庭に面し5連のアーチのベランダがあり、伝兵衛はデンキブランを右手に、ハチブドウ酒を左手に、眼前に広がる海を眺めていたかもね。、、、、鉄筋コンクリート造、地上2階/地下1階、設計者:不明

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・・・・・・・・・・・・・・1階はピカピカに光る寄木の床の洋室

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・・・・・・・・・・・・・・・階段はケヤキの一枚板が25段。、、、、妖艶なる女性が、降りてきそうな期待をもたせる階段である。

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・・・・・・・・・・・・・・2階は、本格的な書院造の主室と、和室、控えの間などがある。 天井、欄間、床柱など、随所にブドウに関連したデザインを取り入れている。

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千葉市民ギャラリー・いなげ・・・・・・・・・旧神谷伝兵衛稲毛別荘の敷地内に、市民ギャラリーが隣接している。 ここでは、企画展、市民の作品展が、常時開かれている。

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・・・・・・・・・・・・・1階では、個人の作品展をチョイと拝見。 画家:矢崎武夫さんは、65歳でリタイヤし、海外を歩き作品を描いているそうだ。、、、、、うらやましい、雅万歩もそろそろ海外に足をのばすかな。

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・・・・・・・・・・・・・2階でも、市民の作品展が開かれていた。 こちらも、チョックラ拝見。

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2016年11月 7日 (月)

秋到来

今年から年に一回となった眼科の定期検診日。 中野の東京警察病院へ行ってきた。 眼底三次元画像解析、精密眼底検査、精密眼圧測定、精密視野検査など、6種の検査を受け、結果は異状なし、良好です。 帰りには、若い女医さんから、『また、一年後にいらしてください。お大事に』の言葉を頂戴し、嬉しくもあり、寂しくもあり、もうちょっと先生のそばに居たかった。、、、、、、、「眼診る先生 胸見る私 診察室の五分間」



病院のある中野警察学校跡地の樹々も、秋色に衣替え

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・・・・・・・・・・・・・・帰りに散歩する予定で行ったが、検診に時間をとられ、散歩は止めた!

2016年11月 6日 (日)

浅草橋~神田

浅草橋の我が家の玄関から神田駅東口まで、直線距離でチョウド1.5km。 この間を約2時間かけて裏通りの裏まで歩いてきた。 1万歩、7km。



雅万歩出生地・・・・・・・・・・今は浅草橋1丁目と2丁目の一部となったが、昭和39年(1964)の住居表示変更までは、新福井町と呼ばれていた。 “新”のない“福井町”は元和4年(1618)からあった越前福井藩邸跡にできた町にちなんで享保15年(1730)に名付けられた。 “新福井町”は、明治5年(1872)、出羽秋田城主佐竹家らの邸地跡に誕生したが、福井町に隣接してできた新しい町という意味で名付けられたそうだ。、、、、、今だに、「雅万歩出生之地」の碑を建てる話は出てない。 銅像でもいいのだが。
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・・・・・・・・・・・・・・その新福井町にあり、かつては「福井ビル」と呼ばれた建物。 昭和初期頃に建てられたと思われる。、、、、、戦後のまだ焼け跡が残る頃は、このビルと我が母校「柳北小学校 」(3階建て)、それと浅草橋駅前の「福井中学校」(現存せず)が、近隣の道案内の目印となっていた。

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・・・・・・・・・・・・・福井中学は越前福井藩の江戸藩邸跡地に、昭和22年(1947)に建設された学校。 平成3年(1991)、少子化により廃校。 建物は現存せず。 (2010年撮影)

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第一佐ェ門橋架道橋・・・・・・・JR総武線浅草橋駅の西側(秋葉原寄り)に架かる架道橋。 昭和7年(1932)、両国~お茶の水間の開通時に架橋。


・・・・・・・・・・・・・・架道橋の東側に、高架上に浅草橋駅のホームがせり出している。

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・・・・・・・・・・・・・・架道橋の西側は、秋葉原駅まで高架橋が一直線で伸びる。

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・・・・・・・・・・・・・・架道橋は下の道路中央から、東側半分が台東区浅草橋に、西側半分が千代田区東神田に属す。、、、、“浅草橋”と“神田”の界地点。

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旧豊島町・・・・・・・・・・浅草橋駅から神田川に架かる左衛門橋 を渡り靖国通りに出る。 靖国通りを150m程西に進むと、東神田2丁目交差点(旧豊島町交差点)で、かつては都電の豊島町停留所があった。 いまは、角に“ゴホンと言えば”龍角散ビルがある。 ベネチアン・ゴールドの花崗岩を外装に使用した贅沢なビルで、大成建設の設計・施工により平成3年(1991)に竣工した。、、、、、元禄16年(1703)、湯島(現:文京区湯島一丁目周辺)の北側にあった町屋が地震による火事で類焼し、翌17年、被災した湯島の人々の新たな居住地が、もともと武家屋敷であったこのあたりに定められた。そのときに誕生したのが、名の由来は不詳だが「豊島町」である。 龍角散の「藤井薬種店」も、江戸時代から当地で商いをしていたそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・・龍角散ビルとは靖国通りを挟み対称的な位置に「東京都立一橋高等学校」がある。、、、、、戦後の昭和25年(1950)、都立今川高等学校と都立神田高等学校を統合し、現在地に開校した。 校名の“一橋”とは、かなり距離も離れており、なぜ“一橋”の名を冠したか謎だ!、、、、、かつて三遊亭歌奴(三代目)も中退した名門の進学校。

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お玉ヶ池・・・・・・・・・・・・・お玉ヶ池は、現在の千代田区岩本町2丁目にあった池。、、、、、江戸期にあった池の近隣の茶屋にいた看板娘の名前「お玉」に由来するらしい。 あるとき「人柄も、品形もおなじさまなる男二人」が彼女に心を通わせ、悩んだお玉は池に身を投じ、なきがらは池の畔に葬むられた。 人々は、彼女の死を哀れに思い、それまで桜ヶ池と呼ばれていたこの池を「お玉ヶ池」と呼ぶようになった。、、、、池のほとりには、お玉稲荷を祀った。 また、北辰一刀流の道場「玄武館」があり、千葉周作は「お玉ヶ池の先生」と呼ばれた。


・・・・・・・・・・・・・お玉ヶ池種痘所跡、、、、、、東京大学医学部の前身で、安政5年5月7日(1858/6/17)、お玉ヶ池にあった勘定奉行の邸内に、蘭学者:伊東玄朴らが共同出資して創設したもので、半年で焼失、種痘所は神田和泉町に移った。、、、、東大医学部発祥の地である。、、、、、岩本町2-7の排水溝の前に碑が立っている。

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・・・・・・・・・・・・・看板娘のお玉にあやかったのか銭湯:「お玉湯」がある。 古くから営業している銭湯だが、今はビルの中に入りモダンな銭湯となっている。、、、、まだ、シャッターが下り営業前。 お玉と一緒に入れるなら、風呂が沸くまで待つのだがね!

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・・・・・・・・・・・・・・・お玉湯の向かいに、昭和の初めに東京金物同業組合が総本宮南宮大社(岐阜県)の分霊(祭神:金山彦命、金山姫命)を組合事務所に奉斎し創建した金山神社がある。 先の大戦の災禍にあったものの、昭和29年(1954)11月8日に再建された。

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神田北乗物町・・・・・・・・・・・現在の千代田区は、戦前の麹町区と神田区が合併して形成された。 その旧神田区に属した町は、「神田」の名が消えることを避けるため、住居表示実施の際、「神田○○町、○神田」と称している。、、、、、、神田地区の一部では住居表示でも旧地名が残された町が神田駅西側に残されている。 神田北乗物町、神田紺屋町、神田富山町、神田東紺屋町、神田美倉町などである。 地図を見ると、いずれも小さな町で、丁番もたない単独の地名である。、、、、、古い名を遺す、いいね、さすが江戸っ子、神田っ子!

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神田の建物・・・・・・・・・・・まだまだ多くの大正・昭和の建築が残っている。 今日はその一部を紹介


・・・・・・・・・・・・・・・昭和22年(1947)創業の老舗の江戸前うなぎ屋「神田きくかわ」。 外観・店内ともに赴きある雰囲気の建物は年代物か?、、、、、注文してから、蒸す、焼く、そして食べる鰻は絶品。

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・・・・・・・・・・・・・・・神田多町に市場があった時代の風情を残す「松本家」の建物。 国登録有形文化財。 昭和6年(1931)に建築された、神田多町問屋街に残る震災復興町家で、神田に残る元青果物問屋の店舗兼住宅。、、、、木造3階建て切妻造り、正面は出桁造の構えで和風町屋の様式を残す建物。、、、、、どっしりした造りで、安定感があるね。

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・・・・・・・・・・・・・・・銅板建築も残ってる。

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・・・・・・・・・・・・・・木造モルタル塗りの5階建て(?)建物。 裏から見ると4階建て?(神田鍛冶町3)

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・・・・・・・・・・・・・・こちらも、木造モルタル塗りの3階建て建物。 (神田鍛冶町3)

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神田駅・・・・・・・・・・・中央通りに架かる駅前のガード。 年代が異なる橋脚が綺麗に並び、チョイと眺めていたら、駅を撮るのを忘れたしまった。 失敗、失敗、おっぱい、酸っぱい!

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2016年11月 4日 (金)

浅草橋~錦糸町

我が家(浅草橋)から両国橋を渡り、京葉道路沿いに街道の南側の裏道をウロウロ・クネクネ・イッタリキタリ錦糸町駅まで、1万1千歩、7kmの散歩です。



浅草橋 ・・・・・・・・・・浅草橋から柳橋を見ながら、屋形船の並ぶ神田川を越える。
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・・・・・・・・・・・・・・・『柳橋ぶらぶらマップ』なるパンフレットに載っていた昭和36年(1961)の柳橋。 浅草橋の上空から撮影したと思われる写真。、、、、、、当時は料亭が並び、夜になると人力車・黒塗りの車が料亭前にズラリ並んでいた時代だ! 屋形船のサイズも、今より小さく、お二人でちょうどよい大きさだ!、、、、、この頃、私は15歳。

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両国広小路 ・・・・・・・・・・・両国橋西詰(中央区東日本橋)に、両国広小路の碑がある。、、、、、碑の裏面には、建立の経緯が記され、その一部に次のように書かれていた。 『・・・・・明治維新のころここには新柳町元柳町横山町吉川町米沢町薬研堀町若松町があったが 昭和7年合併して日本橋両国となり現在に及んだ・・・・・・』 つまりは、現在の地名:中央区「東日本橋」の前は「日本橋両国」であった。 さらにそれ以前の江戸時代は、「両国」であった。 対岸の墨田区側は、江戸時代は「向両国」であり、「本所東両国」に変わり、現在は「両国」となった。、、、、昔、中央区にあった地名「両国」は、今、墨田区に移った、ということである。

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「日の恩や」句碑・・・・・・・・・両国橋を渡ると南際に、昭和3年に建立された、赤穂浪士:大高源吾の句 「日の恩やたちまちくだく厚氷」の碑がある。、、、、、この句は、討ち入りの夜、俳句の師匠:宝井其角に両国橋で出会い詠んだものといわれている。 意味は『太陽のおかげで、積年の厚く張った氷が、たちまち融けた。』ということ。 “恩”とは、吉良邸の隣屋敷が、討ち入りの際、吉良家の助太刀をせず、通報もせず、見守っていてくれた事を指しそうだ。、、、、、当時、携帯、スマホがあったら、討ち入りは失敗したかも?

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岡田商事・・・・・・・・・・・・両国橋際に建つ旧岡田菊治郎商会。 建築年代不詳だが、木製ドア、半円の窓、照明が作る雰囲気は、大正ロマンか、昭和モダンか?、、、、マントをはおり、山高帽に、ステッキ姿の、会長が出てきそうな建物だ!

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回向院・・・・・・・・・・・両国橋の先には回向院がある。 浄土宗の回向院は、振袖火事(1657年)の死者を埋葬し供養したのが起源となる。 出開帳や勧進相撲が行われ、江戸庶民の信仰の場ともなった。

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・・・・・・・・・・・・・・・ご存じ、鼠小僧次郎吉の墓はこちら。、、、、墓石を削り、財布に入れておくと金回りが良くなるそうだ。 でも、墓石を削らずに、「お前立ち」を削ってと高札に書いてある。 “お前立ち”を削ったら、インポになるかも、心配だ! (考えすぎか?)

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・・・・・・・・・・・・・・境内の「力塚」は、昭和11年(1936)に、相撲協会が建立したもの。 碑の玉垣には当時横綱:玉錦、武蔵山をはじめとして、力士の名が刻まれている。、、、、、大きな一枚石の碑は力強い印象を受けるね!

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・・・・・・・・・・・・・・石造海難供養碑、、、、、、回向院には、明暦の大火を契機に、様々な災害による犠牲者を弔う供養碑が多く建立されている。 その中に大きな六基の海難供養碑もある。、、、、海がないのに海難供養碑、しかも半分は伊勢白子の海難供養、なぜだ? (私には判らない!)

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本所松坂町跡・・・・・・・・・・・・両国6丁目、京葉道路に建つ碑。 碑文には、『碑ヲ中心トスル一帶ハ松坂町トテ近世史上著名ノ地ナリ然ルニ大正大震災後ニ區劃整理ノタメ昭和四年十一月一日町名ヲ變更ス仍ッテ文献上江東ニ於ケル不可失ノ地名ノ永ク後世ニ傳ハラムコトヲ希ミ之レヲ勒ス   昭和七年六月當町會建立』と記されている。、、、、昭和4年(1929)11月1日で、おいらの「松坂町」の名が消えるぞ、江戸っ子なら後世に残る石に刻んで町名を残そうと、考えたようだ。、、、、、近くの吉良邸跡が観光資源になることを意識してのことか?

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本所松坂町公園・・・・・・・・・・・『時は元禄15年12月の14日、江戸の夜風を震わせて、響くは山鹿流儀の陣太鼓・・・・・』ご存知、忠臣蔵! その吉良邸跡が公園となっている。、、、、まずは、公園の全景を! 写真に写っている範囲が、現在の公園で、29.5坪あまり。 討ち入り時の吉良邸は2550坪あり、公園の86倍の広さがあった。、、、、“公園”としているが、“史跡”とした方がいいかも。

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・・・・・・・・・・・・・なまこ壁の中は、「吉良公 御首級(みしるし)洗い井戸」を中心に、解説のパネル、吉良公座像などがある。、、、、来月は、いよいよ師走、ここと、泉岳寺は忙しくなるね。、、、、、私は、昭和36年(1961)東映映画、片岡千恵蔵主演の『赤穂浪士』をDVDで見ることにする。 

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両国小学校・・・・・・・・・・・明治5年(1872)8月に、戸枝一氏が回向院の民家を借り、幼育舎を起こし、付近の子供50名を教育したのが、両国小学校の始まり。 明治8年(1875)10月18日に回向院境内に学校が創立した。、、、、老舗中の老舗の名門小学校。
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・・・・・・・・・・・・・・校内に、芥川龍之介文学碑がある。、、、、文豪:芥川龍之介は、明治25年(1892)3月1日に現:中央区明石町で誕生した。 生後7ヶ月の頃、現在の墨田区両国にある母の実家の芥川家に預けられた。 両国小学校は、その芥川が通った学校である。

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・・・・・・・・・・・・・・芥川龍之介文学碑の脇に、駆逐艦「不知火」の碇が残されている。、、、、、この錨は日露戦争(1904~1905)で活躍した駆逐艦「不知火」(明治31年製造)のもので、両国の鉄鋼業:岡田商事(旧岡田菊治郎商会)が軍艦の解体作業で得たのを昭和の初年に江東(現両国)小学校に寄贈したものだ。

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勝海舟誕生地・・・・・・・・・・両国小学校の隣は両国公園。 ここは、勝海舟誕生地である。、、、、無血開城した勝海舟は、墨田区の本所亀沢町に誕生しました。 文政6年(1823)1月30日に、父方の実家男谷精一郎家に産まれた。 青年期まで墨田の地で学問や剣術の修行に励みました。 その男谷家の跡地は両国公園となっている。 公園内には、「勝海舟生誕の地」の碑が立っている。

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●・・・・・・・・・・・・この後、玉の肌石鹸、両国高校、などを巡り錦糸町駅へ、、、、、これ以上書いていると、今夜は眠れなくなりそうなので、ここまでとする。 あしからず。、、、、、あ~~、あ~~、歳のせいか疲れた!



●・・・・・・・・・・・・・・・・・鼠小僧の「お前立ち」を削り持ち帰ったが、今夜はご利益がなさそうだ!

2016年11月 3日 (木)

立石~四ツ木

文化の日、『勲章、一つ余ったから、取りに来て。』と、内閣府から呼び出しがかかることを期待して、朝から家で待機。 3時過ぎても呼び出しはなく、今年も受章はあきらめた。

あきらめたら散歩したくなり、京成立石駅から四ツ木駅まで、夕暮れの下町を歩いてきた。 1万歩、7km。



立石駅付近 ・・・・・・・・・・・・・・雅万歩ではおなじみの駅
 
・・・・・・・・・・・・・・・・駅を出て行く 電車を見つめ 乗って行きたい 成田まで 
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・・・・・・・・・・・・・・・・この光景も あと数年 いずれ無くなる 愛しの踏切
 
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・・・・・・・・・・・・・・・駅前の肉屋のコロッケ 美味そうだ
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・・・・・・・・・・・・・・明るい駅前商店街と、チョイと寂しい仲見世商店街
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・・・・・・・・・・・・・・路地裏で 静かに揺れる 質屋の暖簾

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・・・・・・・・・・・・・・車も少ない奥戸街道

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渋江公園・・・・・・・・・・・・京成立石駅から南西へ500m程歩くと、奥戸街道に面して渋江公園がある。 1.6ヘクタール以上の面積を有し、6面のテニスコート、バラ園などがある、この地区の中心的な公園。 昭和27年(1952)に開園した。、、、、、、公園の芝生広場には、「キャプテン翼」の登場人物:岬太郎の銅像もある。

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・・・・・・・・・・・・・・公園の入り口正面に、「葛飾区セルロイド工業発祥記念碑」が建てられている。、、、、区の説明文では、『わが国におけるセルロイド工業は、明治41年(1908)に 日本セルロイド人造絹糸と堺セルロイドが設立されると共に本格的生産が始まりました。葛飾区のセルロイド工業は、これらを追って大正3年(1914)に創業されました。 その中心となったのは、故千種稔氏がこの地に設立した「千種セルロイド工場」です。 のちに、この地域はセルロイド工業の街として繁栄しますが、それはここから 始まったと言ってよいでしょう。このモニュメントは 渋江公園の開発に伴い、昭和27年(1952)に建てられました。 この地域が葛飾区の近代工業の発展をになったことの証しとして貴重な記念碑です。』、、、、、「セルロイド」なんとなく懐かしい素材だ! 万年筆、メガネ、下敷き、筆箱、おもちゃ、学生服のカラー、ピンポン玉、、、、石鹸箱もあったね!

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白髭神社 ・・・・・・・・延徳3年(1491)に創建され、その昔、渋江村(現:四ツ木駅周辺)の鎮守さまであった白髭神社が東四つ木4丁目にある。、、、、、11月3日は、昭和22年(1947)までは、明治天皇の誕生日として“明治節”であった。 今は、文化の日となったが神社では国旗を出し、祝日を迎えていた。、、、、夕暮れの静かな境内は癒しの空間

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東四つ木の夕暮れ・・・・・・・・・・・四ツ木駅周辺は、木造家屋が密集し、細い道路は迷路のようにつながる、いわゆる“木蜜地区”である。、、、、錆色の昭和の町だ!

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荒川土手・・・・・・・・・・・四ツ木駅付近の荒川左岸の夕景



・・・・・・・・・・・・・・スカイツリーのシルエット、、、、写真:中央右に富士山も見えるのだが、判るかな?

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・・・・・・・・・・・・・・木根川橋 、、、、、、昭和42年(1967)10月に着工、昭和44年(1969)2月に完成した、橋長466mの美しいトラス橋。 墨田区八広と葛飾区東四つ木を結んでいる。

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・・・・・・・・・・・・・・京成押上線荒川橋梁、、、、、、平成11年(1999)に現在の橋に架け替えられた。 木根川橋の上流側に架かるトラス橋。

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四ツ木駅・・・・・・・・・時刻は午後6時前、駅前は暗く、電車から降りた客は家路に急ぐ。 電車に乗る客は人影の少ないホームで寂しく待つ。

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2016年11月 1日 (火)

散歩は休み

二人で雨のしょぼふる柴又へ、、、、、、、てな、情緒とは縁遠く

 

・・・・・・・今日は、大勢で傘を持参し柴又へ、、、、、と、いうことで散歩は休み。

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