浅草橋~神田
①雅万歩出生地・・・・・・・・・・今は浅草橋1丁目と2丁目の一部となったが、昭和39年(1964)の住居表示変更までは、新福井町と呼ばれていた。 “新”のない“福井町”は元和4年(1618)からあった越前福井藩邸跡にできた町にちなんで享保15年(1730)に名付けられた。 “新福井町”は、明治5年(1872)、出羽秋田城主佐竹家らの邸地跡に誕生したが、福井町に隣接してできた新しい町という意味で名付けられたそうだ。、、、、、今だに、「雅万歩出生之地」の碑を建てる話は出てない。 銅像でもいいのだが。

・・・・・・・・・・・・・・その新福井町にあり、かつては「福井ビル」と呼ばれた建物。 昭和初期頃に建てられたと思われる。、、、、、戦後のまだ焼け跡が残る頃は、このビルと我が母校「柳北小学校 」(3階建て)、それと浅草橋駅前の「福井中学校」(現存せず)が、近隣の道案内の目印となっていた。
・・・・・・・・・・・・・福井中学は越前福井藩の江戸藩邸跡地に、昭和22年(1947)に建設された学校。 平成3年(1991)、少子化により廃校。 建物は現存せず。 (2010年撮影)
②第一佐ェ門橋架道橋・・・・・・・JR総武線浅草橋駅の西側(秋葉原寄り)に架かる架道橋。 昭和7年(1932)、両国~お茶の水間の開通時に架橋。
・・・・・・・・・・・・・・架道橋の東側に、高架上に浅草橋駅のホームがせり出している。
・・・・・・・・・・・・・・架道橋の西側は、秋葉原駅まで高架橋が一直線で伸びる。
・・・・・・・・・・・・・・架道橋は下の道路中央から、東側半分が台東区浅草橋に、西側半分が千代田区東神田に属す。、、、、“浅草橋”と“神田”の界地点。
③旧豊島町・・・・・・・・・・浅草橋駅から神田川に架かる左衛門橋 を渡り靖国通りに出る。 靖国通りを150m程西に進むと、東神田2丁目交差点(旧豊島町交差点)で、かつては都電の豊島町停留所があった。 いまは、角に“ゴホンと言えば”龍角散ビルがある。 ベネチアン・ゴールドの花崗岩を外装に使用した贅沢なビルで、大成建設の設計・施工により平成3年(1991)に竣工した。、、、、、元禄16年(1703)、湯島(現:文京区湯島一丁目周辺)の北側にあった町屋が地震による火事で類焼し、翌17年、被災した湯島の人々の新たな居住地が、もともと武家屋敷であったこのあたりに定められた。そのときに誕生したのが、名の由来は不詳だが「豊島町」である。 龍角散の「藤井薬種店」も、江戸時代から当地で商いをしていたそうだ。
・・・・・・・・・・・・・・龍角散ビルとは靖国通りを挟み対称的な位置に「東京都立一橋高等学校」がある。、、、、、戦後の昭和25年(1950)、都立今川高等学校と都立神田高等学校を統合し、現在地に開校した。 校名の“一橋”とは、かなり距離も離れており、なぜ“一橋”の名を冠したか謎だ!、、、、、かつて三遊亭歌奴(三代目)も中退した名門の進学校。
④お玉ヶ池・・・・・・・・・・・・・お玉ヶ池は、現在の千代田区岩本町2丁目にあった池。、、、、、江戸期にあった池の近隣の茶屋にいた看板娘の名前「お玉」に由来するらしい。 あるとき「人柄も、品形もおなじさまなる男二人」が彼女に心を通わせ、悩んだお玉は池に身を投じ、なきがらは池の畔に葬むられた。 人々は、彼女の死を哀れに思い、それまで桜ヶ池と呼ばれていたこの池を「お玉ヶ池」と呼ぶようになった。、、、、池のほとりには、お玉稲荷を祀った。 また、北辰一刀流の道場「玄武館」があり、千葉周作は「お玉ヶ池の先生」と呼ばれた。
・・・・・・・・・・・・・お玉ヶ池種痘所跡、、、、、、東京大学医学部の前身で、安政5年5月7日(1858/6/17)、お玉ヶ池にあった勘定奉行の邸内に、蘭学者:伊東玄朴らが共同出資して創設したもので、半年で焼失、種痘所は神田和泉町に移った。、、、、東大医学部発祥の地である。、、、、、岩本町2-7の排水溝の前に碑が立っている。
・・・・・・・・・・・・・看板娘のお玉にあやかったのか銭湯:「お玉湯」がある。 古くから営業している銭湯だが、今はビルの中に入りモダンな銭湯となっている。、、、、まだ、シャッターが下り営業前。 お玉と一緒に入れるなら、風呂が沸くまで待つのだがね!
・・・・・・・・・・・・・・・お玉湯の向かいに、昭和の初めに東京金物同業組合が総本宮南宮大社(岐阜県)の分霊(祭神:金山彦命、金山姫命)を組合事務所に奉斎し創建した金山神社がある。 先の大戦の災禍にあったものの、昭和29年(1954)11月8日に再建された。
⑤神田北乗物町・・・・・・・・・・・現在の千代田区は、戦前の麹町区と神田区が合併して形成された。 その旧神田区に属した町は、「神田」の名が消えることを避けるため、住居表示実施の際、「神田○○町、○神田」と称している。、、、、、、神田地区の一部では住居表示でも旧地名が残された町が神田駅西側に残されている。 神田北乗物町、神田紺屋町、神田富山町、神田東紺屋町、神田美倉町などである。 地図を見ると、いずれも小さな町で、丁番もたない単独の地名である。、、、、、古い名を遺す、いいね、さすが江戸っ子、神田っ子!
⑥神田の建物・・・・・・・・・・・まだまだ多くの大正・昭和の建築が残っている。 今日はその一部を紹介
・・・・・・・・・・・・・・・昭和22年(1947)創業の老舗の江戸前うなぎ屋「神田きくかわ」。 外観・店内ともに赴きある雰囲気の建物は年代物か?、、、、、注文してから、蒸す、焼く、そして食べる鰻は絶品。
・・・・・・・・・・・・・・・神田多町に市場があった時代の風情を残す「松本家」の建物。 国登録有形文化財。 昭和6年(1931)に建築された、神田多町問屋街に残る震災復興町家で、神田に残る元青果物問屋の店舗兼住宅。、、、、木造3階建て切妻造り、正面は出桁造の構えで和風町屋の様式を残す建物。、、、、、どっしりした造りで、安定感があるね。
・・・・・・・・・・・・・・・銅板建築も残ってる。
・・・・・・・・・・・・・・木造モルタル塗りの5階建て(?)建物。 裏から見ると4階建て?(神田鍛冶町3)
・・・・・・・・・・・・・・こちらも、木造モルタル塗りの3階建て建物。 (神田鍛冶町3)
⑦神田駅・・・・・・・・・・・中央通りに架かる駅前のガード。 年代が異なる橋脚が綺麗に並び、チョイと眺めていたら、駅を撮るのを忘れたしまった。 失敗、失敗、おっぱい、酸っぱい!
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