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2016年12月

2016年12月31日 (土)

浅草寺でハイ・ポーズ

今年も、年の最後は浅草寺にお礼参り。 例年、夕暮れに年越しそばを食べ、その帰り浅草寺に寄っていたが、今年は、午後から浅草寺に参拝し、帰りに年越しそばを買い、家で食べることにした。、、、、大晦日の午後だからか、参拝客の8割は、東南アジアを主とした外人観光客である。 日本人は初詣に訪れるのであろう。、、、、今日は、外人素人モデル(?)を撮りながら、お礼参りをしてきた。



●・・・・・・・・・・・超満員状態の雷門前で、まずは、『ハイ、ポーズ』
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●・・・・・・・・・・仲見世を歩くと、前から聞こえる韓国語、右を歩くは揚げ饅頭を手にしたイボイボ頭の外人さん、左の店にはお土産を物色中のヘッドスカーフの女性達、後ろからは中国語の大きな笑い声。 そして、すれ違う美人はフランス娘。 その後ろを歩く派手なコートの黒人は何処から来たの?、、、、てな具合で、国際色豊かなり。、、、、、、、「着物美人だ 近くに寄れば 話す言葉は わ・か・ら・な・い」

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●・・・・・・・・・・・・本堂前でも、おみくじを引くときも、『このポーズでどお?』、、、、、? 

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●・・・・・・・・・・・・可愛い美人モデルに見とれて、お礼参りを忘れるところだ、、、、、罰が当たらぬように、賽銭を奮発し、『今年一年、無事過ごせました、有難うございます。 来年もよろしく。 ぜひ、来年こそ10億円当たりますように。』 合掌。

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2016年12月30日 (金)

四ツ木~新小岩

今日も北風の吹き抜ける寒い朝。 8時の東京は、気温5℃、北北西の風、風速4.6m/sである。 今日もとりあえず電車に乗ったが、どこで降りるか思案橋。 車窓から見えた荒川土手の陽射しを見て、四ツ木駅で飛び降りた。 川沿いのホームに立つと、風で飛ばされそうになる。 風速10m/s、体感気温は氷点下、ハンチングが風で飛ばされそう慌てて押さえた、身体が小刻みにブルブル。 高架下のコンコースで、駅周辺の地図を見て、新小岩を目指し歩くことにした。、、、、、、京成押上線四ツ木駅から総武本線新小岩駅まで、1万1千歩の散歩です。



①人影の少ない四ツ木駅・・・・・・・・暮れの30日、通勤・通学客の姿は少なく改札はガラガラ、駅前の道路を歩く人影は見えない。 みなさん、帰省したのかな?
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白髭神社・・・・・・・・・・裏通りを右へ、左へ、出て来た処は、東四つ木の白髭神社前。 これも何かの縁だと手を合わせて行くことにした。、、、、、神社は旧渋江村の鎮守で、江戸時代は「葛西の客人大権現(まろうどだいごんげん)」と呼ばれた。 現拝殿は嘉永5年(1853)の造営、本殿および高欄は大正5年(1916)9月の再建である。、、、、、今日は、一年間お祀りしたお札、お守りなどを納めに来る人もちらほら見られた。

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・・・・・・・・・・・・・・神社の旧称:「客人大権現(まろうどだいごんげん)」について、、、、、、、客人(まろうど)とは、元来は稀に来訪する神さまの意味で、神さまを丁重におもてなしすることが福を授かることに通じるそうだ。 権現とは、仏さまが仮に神さまの御姿で現れたもの、という意味で、江戸時代はたいへん尊い神仏に対して使われていた呼称。、、、、、、、昔の記録では、「客人の神は、もと越の白山より比叡の山に飛びうつられ給うたので『まろうど』大明神と称し、のち大権現にまつられた」とされている。 越の白山(新潟県)から、比叡山(滋賀県)の守護神である日吉山王二十一社のひとつ、客人社(日吉大社白山宮)に勧請された菊理媛神(くくりひめのかみ)が、さらに勧請されて祀られたのが、「客人大権現」と言われている。 かつては子授けと花柳病の霊験で知られ、吉原、深川、千住などの遊郭や水茶屋、花柳界の人々などの信仰が篤かったそうで、境内には「新吉原講中」の石碑も残されている。、、、、、、吉原の遊女も崇敬した権現様、私もしっかり、もう一度手を合わせて来た。

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水道道・・・・・・・・・・・葛飾区内に一直線に伸びる道がある。 江戸川から取水し、都内東部に水道水を供給する金町浄水場。 そこから、柴又・高砂・青戸・立石を通り、荒川まで続くほぼ一直線の水道道(すいどうみち)。 地図を見ると一目瞭然、定規で引いたようにまっすぐな道である。 ここには水道の鉄管が通って、墨田区まで続いていたそうだ。、、、、、白髭神社から南へ50m程行った六差路の交差点に立つと、水道道が真直ぐに伸びている。

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東四つ木1丁目の路地・・・・・・・・・渋江小学校の西側に私好みの路地が!


・・・・・・・・・・・・・この裏道、通り抜けできるかな? ダメもとで行ってみよう、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・おや、行けそうだ! 路地に面して玄関がある、こりゃ間違いなく抜けられそうだ!

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・・・・・・・・・・・・・・抜けたが、こちらも路地だ!

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・・・・・・・・・・・・・おやおや、こっちにも行けそうだ、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・ありゃ? 私有地に入ってしまったかな? でも、玄関らしき入口が数か所見える、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・オ~、路地の奥に街灯が見える、、、、、と云うことは、通れるな!

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・・・・・・・・・・・・・・ありゃ、行き止まりか!? でも、念のため、しっかり確認して、、、、行けそうだ、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・あれれ、最初に入ってきた路地に出た。 

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・・・・・・・・・・・・・・なんだか迷路のような路地を、右に左に折れ曲がり、無事生還。、、、、一刻の小さな探検でした。

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中川・・・・・・・・・・東四つ木2丁目の右岸からみる中川。、、、、、、川の先には、かつしかハープ橋が見える。、、、、、、、護岸の下には「2000年記念 平和橋桜堤」の石碑とともに、桜並木が続いている。、、、、、平和橋を渡り、中川を越える

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三谷稲荷神社・・・・・・・・・・・平和橋を渡り、東新小岩8丁目に入り、再び裏道を歩くと、上品寺 の北側に三谷稲荷神社がある。 三谷稲荷神社は、文明9年(1477)上品寺の僧が、山城伏見稲荷を勧請、創建した。、、、、、、小さな社があるだけだ!

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新小岩陸橋・・・・・・・・・・・・・陸橋は「たつみ橋交差点」で、蔵前橋通り(都道315号御徒町小岩線)が平和橋通りをオーバーパスする片側一車線の自動車専用高架橋。、、、、、総延長818.0mの陸橋で、総工費28億4千万円にて、平成18年(2006)に着工し、平成23年(2011)に工事は完了した。、、、、、設計・施工の一括発注にて、工期短縮、工費削減を達成した工事である。 

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●・・・・・・・・・・・・・・新小岩駅から帰宅

2016年12月28日 (水)

大井町~戸越

今朝、外の寒さを確かめず、TVの天気予報を見て『今日は晴天だ、チョイと散歩してくる。』と、言って家を出た。 一歩外に踏み出すと、その瞬間、ものすごい強風と、ものすごい寒気に襲われ、失敗した、家に居るべきであった。 男は有言実行。 悔いても“あとの祭り”。、、、、、京浜東北線に乗り、どこで降りようか? 寒いので、大井町駅で下車した。(下車した理由はない)、、、、、とにかく、駅から歩きはじめ都営浅草線の戸越駅まで、9千歩の散歩である。



大井町駅・・・・・・・・・駅の東側に出た。 ペデストリアンデッキの上は、デンキ屋と区民会館のビル陰で日は当たらず、北風は吹き抜け、寒い・寒いと言いたくないが、言えば気持ちもチョイと楽。
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・・・・・・・・・・・・・・橋の上からホームを見れば、通勤客で超満員。 「仕事納め」に「忘年会」、今日もサボると嫌われる。 掃除・挨拶適当に、夜は皆で飲み潰れ。

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・・・・・・・・・・・・・・東西南北いずれに歩く?、、、とりあえず、東急大井町線 の高架沿いに歩いてみよう。

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・・・・・・・・・・・・・大井町線高架橋の北側には、空き家となったJRの広町アパートが並ぶ。、、、、、、跡地再開発計画が頓挫し、いつまでも仮囲いの中にアパートが残っている?

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下神明駅 ・・・・・・・・・・・・・昭和2年(1927)に開業した高架下の薄暗い駅。 昭和11年(1936)に、戸越から下新明に駅名を改称した。 現駅名は、近くの下神明天祖神社に由来する。 一日の乗降客は、若干増えて、2015年度は約8,000人となった。 大井町線16駅の乗降客数で、ワースト2を誇る駅。(ちなみに、ワースト1は北千束駅の約7000人)

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品川区総合庁舎・・・・・・・・・・・・言いたくないが、「寒い・寒いで、トイレがちかい」、しかも「歳をとると、お呼びが早い」。 下神明駅近くで呼び出しにあい近くの公園を尋ねたら、ナント、来た方向に戻り品川区役所前の中央公園を教えてくれた。 足早にトイレに飛び込み、一件落着。、、、、、公園前には、昭和40年代に建てられた庁舎(品川区広町2)が建っている。 他区の庁舎に比べると低層で、小振りだ。 建物の大小が区政の良し悪しを決めるわけでないから、仕事をしっかり続けてね。

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苗木原踏切・・・・・・・・・・・・・湘南新宿ライン(大崎~西大井駅間)の踏切。 奥には新幹線の高架橋が見える。

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年末の大掃除・・・・・・・・・・どこの町でも、日本全国大掃除、、、、、、終戦直後の年末は、どこの家でも31日まで仕事をして、大掃除も年末ぎりぎりに行っていた。 町の角々にごみの山ができ、当時はごみ収集車などはなく、大八車に大きな箱を乗せてごみを集めていた、懐かしき光景を思い出す。、、、、、今では、家庭から出るごみは、ビニール袋に入れられ収集される。 資源ごみは別途に集められ、町会ごとに売られていく。 小さな子供のいる家庭では、家の前に絵本・おもちゃが出され、「ご自由にどうぞ」と貼り紙がある。

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旧三井文庫第二倉庫・・・・・・・・・・・・戸越公園(豊町2)の斜め前、旧国文学研究資料館跡地に「文庫の森公園」がある。 この公園の敷地は、大正7年(1918)に三井家編纂室(=三井文庫:三井財閥の修史事業を行う)が日本橋から移転し、ここに膨大・貴重な資料が集められ戦前まで整理していた。 戦中は、資料の多くを疎開させ戦禍を免れ。 戦後、GHQにより三井本社は解散し、三井文庫も活動の停止し、敷地と建物は文部省に売却した。 三井文庫の所蔵史料は文部省史料館に寄託された。、、、、、、その三井文庫の倉庫が2棟あったが、現在は1棟が残され、外観をそのままに防災備蓄倉庫として活用されることになった。、、、、、倉庫は鉄筋コンクリート3階建て、大正7年(1918)竣工の第一倉庫(取り壊し)と、大正11年(1922)竣工の第二倉庫(現存)があった。 設計は東京帝国大学営繕課長の山口孝吉(1873~1937)である。 震災後、窓の数を減らし、開口部には人造石研ぎ出しの防火戸を増設し、防火対策を施した。

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戸越八幡神社・・・・・・・・・・・・戸越2丁目、町の中央に戸越八幡神社がある。 大永6年(1526=戦国時代:千利休が生れた年)、諸国を行脚していた行永法師が村内の籔清水水源地で八幡様の御神体を見つけ草庵に祀り、その後、京都の石清水八幡宮の分霊を勧請して、共に祀ったのが創立の起源とされている。、、、、、、さほど広くはない境内であるが、鳥居から社殿まで石畳の参道は長く、両側には緑を植え込み綺麗に手入れがされている。、、、、、、現在の欅造りの社殿は、安政2年(1855=江戸時代)に入母屋造りで再建された。 震災・戦災を免れ、都内では古い建築の一つである。

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戸越駅・・・・・・・・・・・・昭和43年(1968)11月15日、都営1号線(現浅草線)の駅として開業。 島式ホーム1面2線の地下駅である。 今日は歩かなかったが、駅北側には全国の「〇〇銀座」の草分けである戸越銀座商店街がある。

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2016年12月25日 (日)

浅草橋~水道橋

我が家(浅草橋)から蔵前橋通り沿いに歩いて水道橋駅まで、1万2千歩の散歩です。
 


甚内神社・・・・・・・・・・我が家から1分半の至近距離にある、浅草橋3丁目、裏通りの小さな社の甚内神社(じんないじんじゃ)。 神社の由緒は、、、「甚内霊神」の名で江戸時代初期に創建された。 「甚内」は武田家の家臣高坂弾正の子で、主家滅亡後、祖父に伴われ諸国を行脚するうち宮本武蔵に見出されて剣を学び奥義を極めた。 武田家再興をはかり、開府早々の江戸市中の治安を乱したため、瘧(おこり、=マラリア)に苦しんでいたところを幕府に捕えられた。 鳥越の刑場で処刑されるとき「我瘧病にあらずば何を召し捕れん。我ながく魂魄を留、瘧に悩む人もし我を念ぜば平癒なさしめん」といったことから、病の治癒を祈る人々の信仰を集めたという。、、、、、、今でも、8月の甚内の命日には、有志の方から子供に菓子が配られている。 地域にピッタリと密着した神社である。
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鳥越神社・・・・・・・・・・こちらは浅草橋の町とは蔵前橋通りを挟み向かい合わせる鳥越2丁目にある、「鳥越の夜祭」で全国的に有名な神社。、、、、白雉2年(651)、日本武尊を祀って白鳥明神と称したのに始まる。 前九年の役征圧のため源頼義、義家父子がこの地を通った際、白い鳥が飛ぶのを見て浅瀬を知り大川(隅田川)を渡ることができた。 それを白鳥明神の加護とたたえ、鳥越大明神の社号を奉った。 江戸時代までは2万坪の広大な敷地を有していたが、徳川幕府にほとんどの土地を取り上げられたそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・・神社前の蔵前橋通り。 この通りは、関東大震災後に造られ、文京区湯島から江戸川区小岩に伸びる通りである。

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・・・・・・・・・・・・・・・道筋の植え込みには、早くもスイセンが咲いてる

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櫻稲荷神社・・・・・・・・・台東区台東2丁目、蔵前橋通りから入る細い参道に朱塗りの鳥居がある。 これぞ、知る人は知る、知らん人は知らん、「櫻稲荷神社」だ! 神社は大名の藤堂家邸内に鎮座していた稲荷神社で、関東大震災後に地元の岡本悟一氏が奉受して桜稲荷神社としたといいます。 昭和27年(1952)には京都伏見稲荷神社より分霊を勧請、鎮座した。、、、、、この細い路地に、“よくぞ祀ったお稲荷さん”と云うわけだ!

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神田キリスト教会・・・・・・・・・・・・ 蔵前橋通りと中央通りが交差する末広町交差点。 その南東側(旧:松富町)で私は育ち、南西側に教会はある。、、、、、、私の知る戦後の教会の姿はなく、現教会は平成3年(1991)に建て替えられた。、、、、、秋葉原、電気街の裏通りにある神田キリスト教会は、日本聖公会の教会で、明治10年(1877)に献堂された。 その後、震災、戦災を経て現在に行っている。、、、、、今日は、教会の方に昔の教会を撮った写真がないか聞いてみたが、残念ながら見ることはできなかった。


・・・・・・・・・・・・・玄関にはクリスマスリースが飾られ、今日はクリスマス礼拝の日

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・・・・・・・・・・・・・・チョイと、聖堂を拝見。 三角の天井が奥行の深さをを演出し、心落ち着く空間である。

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・・・・・・・・・・・・・・平成9年(1997)に設置されたオランダライル社製のパイプオルガン(2段鍵盤+ペダル、20ストップ)を演奏してくれた。 このオルガンは、北ドイツ・バロック様式で作られた楽器らしい。 (私には、チンプンカンプン?)

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明神下 神田川・・・・・・・・・・・江戸末期の文化2年(1805)創業の、うなぎ蒲焼の老舗。 太い丸太の門柱と長く伸びる黒板塀。 純和風の二階建ての建物は、昭和27年(1952)の再建と言われている。、、、、、、本日は休業日だが、約200年続いた味がしみ込んでいるのか、前を通ったら鰻を焼く匂いがする。 ご飯を持ってきたら店の前で食事ができるかもね。

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神田明神・・・・・・・・・・例年、企業の初詣で賑わう神社。 今年も迎える準備は着々と進んでいるようだ、巫女さんも忙しそうで写真を撮るのに応えてくれそうもない。 今日は建物だけで、我慢・ガマン。

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霊雲寺・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・清水坂を上り、妻恋神社に手を合わせ、霊雲寺に向かう。

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・・・・・・・・・・・・・・文京区湯島2丁目、霊雲寺(れいうんじ)は真言宗霊雲寺派総本山の寺。 本尊は胎蔵界・金剛界大日如来。 元禄4年(1691)徳川幕府の永代祈願所として、江戸城から見て鬼門にあたる北東の当地に創建された。、、、、、、、震災・戦災で堂宇を焼失し、現本堂は昭和51年(1976)に建てられた。 湯島にあっては広い境内で、いずれ鐘楼なども再建されるようだ。

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水道橋のガード・・・・・・・・・・・水道橋駅東口、白山通りに架かる二つの架道橋。


・・・・・・・・・・・・・まずは、緩行線が走る新水道橋架道橋。  明治37年(1904)に開通した、甲武鉄道発注のHarkort製(ドイツの橋梁メーカ)プレートガーダーの橋。 

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・・・・・・・・・・・・・・新水道橋架道橋(緩行用、左側)に並行する、水道橋架道橋(急行用、右側)

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・・・・・・・・・・・・・・水道橋架道橋は水道橋駅南側の快速が走る鉄橋で、東京歯科大の横、ガード下にはおにぎり屋さんなどの店舗もある。 形式は、複線下路カンチレバープレートガーダーラーメン脚一体高架橋。 8径間で橋長151.18m。

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水道橋駅・・・・・・・・・・・駅名の由来は神田上水の掛樋(すなわち、水道の通る橋)が近くにあったことによる。 明治39年(1906)9月24日、甲武鉄道の駅として開業した。、、、、、古い駅でホーム上屋には古レールを再利用した架構を見ることができる。、、、、、、55年程前の私は、ここから都電に乗り換え白山の学校に通った。 それから35年後には勤務する会社が水道橋駅の近くとなった。 今は、世話になる内科クリニックが水道橋にある、いつもでも縁の切れない駅である。

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2016年12月23日 (金)

矢切~市川

北総線矢切駅から総武本線市川駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。



矢切駅・・・・・・・・・今日も電車に乗ってから、『どこで降りようか?』と迷ってしまった。 浅草橋からは地下鉄浅草線のに乗ったので気づかなかったが、押上を過ぎ地上に出るや、『オウ~、まぶしい、晴天だ!』 『ヨシ、緑多い江戸川あたりを歩いてみよう』と、云うことで矢切駅で降りた。
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・・・・・・・・・・・・・・駅前で北の松戸方面に歩くか、南の市川方面に歩くか、また迷う。 どちらも、今年歩いた道なので、裏道を通って市川方面に歩くこととした。
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中原寺・・・・・・・・・・矢切駅横の道を歩くと中原寺(ちゅうげんじ)に出た。 アッ!この寺も来たことあるぞ、去年歩いた道でした。 、、、、、国府台5丁目にある、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺で、江戸時代末には無住の寺となったそうだ。 戦後、現在地にて再興した寺である。

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国立国際医療研究センター・国府台病院・・・・・・・・・明治時代に創設された「国府台衛戍病院」、昭和になると「国府台陸軍病院」と改称し、戦後は「国立国府台病院」となり、平成20年からは国立国際医療研究センター・国府台病院となった。 さすが、国立の病院だけに敷地は広く、裏から入り、正面玄関前に出るまで、数多くの建物の外周をなめるように歩き、15分程要してしまった。


・・・・・・・・・・・・・国府台の台地の上の裏道を歩きを国府台病院の裏に出た。

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・・・・・・・・・・・・・・病院の広大な敷地の裏手(北側)には職員住宅のような建物が数棟並んでいる。 なんだか拝見したくなり、構内にお邪魔する。

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・・・・・・・・・・・・・・木立の影に旧建物の診療棟か?

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・・・・・・・・・・・・・今度は「肝炎・免疫研究センター」なる建物が、、、、こりゃ!近代的な建物だが、何の研究してるのやら、さっぱり判らん!

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・・・・・・・・・・・・・・こちらは、新しい病棟のようだ。

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・・・・・・・・・・・・・・東側の奥、広い空き地の向こうにも職員住宅のような建物が数棟並んでいる。 昭和40年代頃の建物か?

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・・・・・・・・・・・・・・南側には寮のような建物がある。

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・・・・・・・・・・・・・やっと、正面玄関のある新しい建物の前に出た。 広い敷地にビックリ。 ちなみに、写真を撮った地点もまだ病院の敷地内。

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千葉商科大学・・・・・・・・・・・国府台病院から松戸街道を南へ400m程の所に千葉商科大学のキャンパスがある。 昭和25年(1950)に設置された単科大学であるが、現在は商経学部、政策情報学部、サービス創造学部、人間社会学部、国際教養学部などがある。、、、、、 こちらも構内をチョイと拝見! 古い建物はないが、キャンパスらしい造りである。

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国府台県営住宅・・・・・・・・・・・千葉商科大学のキャンパスの隣に建つ千葉県の県営住宅。 団地には1号棟から7号棟まであり、7号棟だけは3棟で構成されている。 その7号棟は、2階建て準耐火構造で昭和35年(1960)に建てられた。 残る棟は中層耐火構造である。、、、、、7号棟だけがチョイと変わった構造であるのはなぜか不明(?) 千葉県では団地内の建物をすべて解体し、建て替えることになった。

・・・・・・・・・・・・・写真右側は中層耐火構造の建物、左側は7号棟で準耐火構造。

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・・・・・・・・・・・・・・7号棟は2階建てで、間取りは4.5+4.5+3、家賃は19,400円程。 既に、大部分は立ち退いたようだである。、、、、こちらも、昭和モダンの建物だったのかも?

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・・・・・・・・・・・・・・7号棟南側を見ると、浴室と3帖の部屋が増築されている。

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弘法寺・・・・・・・市川市真間にある日蓮宗の本山で真間山弘法寺(ぐほうじ)。 行基が真間の手児奈(=てこな。 山部赤人などの万葉歌人に詠まれた伝説の美女の名。美人ゆえ手児奈をめぐり争いがたえず入水自殺する。)の霊を供養するために建立した求法寺がはじまりだ。平安時代には、空海が伽藍を構えて弘法寺と改称し、その後、天台宗に改宗した。鎌倉時代には、日蓮の布教を受けて、時の住職が問答にやぶれ、日蓮宗に改宗する。、、、、、ころころと改称・改宗した寺だ! 


・・・・・・・・・・・・・・本殿は平成の建築

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・・・・・・・・・・・・・・祖師堂、、、、、平成22年の建築

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・・・・・・・・・・・・・・大黒堂

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・・・・・・・・・・・・・・仁王門、、、、、寺は明治時代に大火により焼失したが、その際、残ったのが仁王門である。

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・・・・・・・・・・・・・・・仁王門前に立つと、正面にJR市川駅に向かう参道(大門通り)と、駅前の二つの超高層住宅を見ることができる。

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・・・・・・・・・・・・仁王門前の石段を下ると、左側に手児奈霊神堂が見える。 伝説の美女を祀る霊堂。、、、、、“美女”を祀っているのに、お姿は見えずガッカリである。 できることなら、生き仏として見てみたいね。

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市川駅へ・・・・・・・・・・・・真間川を渡り、京成本線の踏切を越えると、JR市川駅に到着。

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2016年12月20日 (火)

御徒町

いよいよ我が家も年末モードに突入したようだ。 私は、朝一で皮膚科の検診を受けに川向こうの同愛記念病院(墨田区)へ行く。 出がけに、『病院の帰り、浅草へ行ってきて!』と、妻から年末の買い物を頼まれる。 午後は、昼寝でもするかとウトウト・・・・・ 『アッ!御年賀まだ買ってなかった』と、ベッドから飛び起き、『ちょっくら、松坂屋へ行ってくる』と、家を飛び出す。 デパートは歳末商戦で忙しそうだ、店員に品揃えを頼み、出来上がるまでの、一時間半程チョイとアメ横あたりをぶらついてきた。



●・・・・・・・・・・歳末の風物詩、救世軍の社会鍋。 今年も、少々だが協力させてもらった。、、、、しばし見つめていたら、傷痍軍人を思い出し、チョイと目が潤んだね。 戦後の一時期、上野界隈には多くの傷痍軍人がいて、年末の寒い日、街角の冷たい路上に座り、頭を下げる姿を見るのは子供の私にも辛いものであった。
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●・・・・・・・・・・お笑いの老舗、漬物の老舗、、、、、いつまでも変わらぬ人気の笑いと味だ。

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●・・・・・・・・・広小路と湯島と池之端の中間に位置する「仲町通り」  新宿歌舞伎町に負けない、日本有数の繁華街、、、、、居酒屋、キャバクラ、パブ、バー、ホテル、韓国料理屋、ラーメン屋、焼肉屋、タバコ屋、酒屋、ブティック、コンビニなどなどが並ぶ、もちろん風俗店もある街。 ぼったくりバーの客引きに騙されないように、注意喚起の放送も流れている街。 でも、“チョイと入ってみようか”と、心も、財布もゆるむ街。 最後は交番に泣きつく街。

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●・・・・・・・・・仲町通りにある、昭和モダンな黒沢ビル(国の登録有形文化財)。 昭和5年(1930)の建物には、現在、眼科と歯科が入居している。、、、、、玄関上部のステンドグラスは、戦前のステンドグラス作家:小川三知(1867~1928)の作品。必見!

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●・・・・・・・・・戦後、闇市となり様々な物品が売られ、特に飴を売り捌く店が当時200軒以上あった事から「アメヤ横丁」と呼ばれた。 「アメヤ横丁」がつまり、「アメ横」と呼ばれている。、、、、私が知る戦後のアメ横では、駄菓子類、駐留軍横流しのガム・チョコレート・ビスケットなど、“その道の女性”が好んだ化粧品・ストッキングなども、さらには腕時計、舶来タバコなども、アメ横はアメリカに最も近い店でもあった。、、、、、今は、東南アジアの屋台も並び、客も東南アジアの観光客だ。

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・・・・・・・・・・・・今日の最後は、摩利支天に手を合わせて帰宅することに。、、、、おっと忘れてた! 松坂屋に寄って、品物を受け取って帰らないと、、、、、

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●・・・・・・・・・・ クリスマスセールの松坂屋に寄って、品物(正月の御年賀)を受け取って帰える。

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2016年12月19日 (月)

亀島川

浅草線日本橋駅で下車し、亀島川沿いを歩き、鉄砲洲稲荷神社から浅草線宝町駅まで、1万1千歩、8kmの散歩です。



東京に住む人でも「亀島川」と言われて、ピンとくる人は少ないと思う。 亀島川は中央区新川(通称:霊岸島)の2辺を流れる総延長1.1km程度の短い川である。 亀島川は日本橋川から分流し、隅田川に注ぐ川で、川筋には、霊岸橋、 新亀島橋、 亀島橋、 高橋、 南高橋の5橋が架かり、最上流には日本橋水門、最下流側には亀島川水門が設置されている。、、、、、、昔、亀島川の西側(現:茅場町)は、亀島河岸と呼ばれていたそうだ。
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日本橋水門・・・・・・・・・・日本橋川から分流する亀島川、そのゲートが日本橋水門である。 日本橋水門は、河口の亀島川水門とともに、高潮発生時に亀島川を完全に締め切り、隅田川の逆流による洪水を防ぐ役割を担っている。 長さ:30.00m、高さ:8.1m、鋼製単葉ローラーゲート形式。 昭和46年(1971)に清水建設の施工で完成した。

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霊岸橋・・・・・・・・江戸初期の寛永年間(1624~1643)に霊巌上人がその法力により、当時海であった八丁堀を陸地にし、そこに霊巌寺を建て、この地(現:中央区新川地区)を霊巌島と呼ぶようになった。 なお、霊巌寺は明暦の大火後に深川に移転した。、、、、霊岸橋は日本橋茅場町地区と新川地区(霊岸島)を結ぶ橋。 創架の年代は不明だが、江戸時代後期には霊岸橋の名称が記録に残っているそうだ。、、、、霊岸橋の東側(新川1・2丁目)は、江戸湊(現:亀島川水門の近くに碑が建てられている)における千石船の停泊地として栄え、樽廻船で運ばれる「下りの酒」を一手に引き受ける場で、「新川の下り酒問屋」として栄えた地である。、、、、現在の橋は昭和60年(1985)に竣工した。

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・・・・・・・・・・・・霊岸橋から下流(新亀島橋)を望む

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・・・・・・・・・・・・霊岸橋北詰に建つ第2井上ビル、昭和2年(1927)竣工の古いビル。 映画のワンシーンとなるような昭和レトロのビル。 

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新亀島橋・・・・・・・・・・霊岸橋の下流に架かる新亀島橋、この橋は明治15年(1882)に架けられた当時は木橋であった。 下流には元禄時代からの亀島橋が既にあり、“新”を冠して新亀島橋と命名したらしい。 なお、橋の北岸:現:茅場町側は、「亀島町」と呼ばれていた。、、、、2代目は大正15年(1926)に、震災復興事業により鋼製の桁橋に架け替えられた。、、、、現在の橋は、平成7年(1995)に架けられた、橋長:30.5mの鋼床版ラーメン橋。

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・・・・・・・・・・・・・・下流側(亀島橋)を望む

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・・・・・・・・・・・・・・・橋の北詰には、「大震火災遭難者追悼碑」(大正13年建立)と、「戦災遭難死者慰霊碑」が建てられ、供養されていた。 合掌。

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・・・・・・・・・・・・・お隣には、純子稲荷(じゅんこいなり)の赤い旗がなびいている。 “純子”って、なんだ!誰だ! まさか、小林旭の「純子」ではないだろうと思いながら境内の由緒書きを読んでみた、“純子”については御祭神:純子大神と書いてあるのみ。 このブログを書くにあたり、一生懸命、調べてみたが不明。 なお、稲荷の創建は元和2年(1616)、町奉行所内の千代田稲荷の分霊を勧請したことに始まるそうだ。、、、、、ちなみに、「純子」(遠藤実作詞・作曲)の歌詞は、♪♪遊び上手なやつに だまされていると聞いた 噂だけだね 純子 純子 僕は淋しい ・・・・・♪♪(歌の純子は可愛い女である)

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亀島橋・・・・・・・・・亀島川が霊岸島に沿って“く”の字に折れる位置に亀島橋はある。 この橋は元禄12年(1699)頃に架橋されたそうだ。 それゆえ、赤穂浪士が討ち入り凱旋時に通った橋のひとつといわれている。、、、、、現在の橋は、平成14年(2002)6月に完成した、橋長:32.4m、鋼上路アーチ橋。

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・・・・・・・・・・・・・・・亀島橋から上流側(新亀島橋)を遠望すると、真正面にスカイツリーが見える。

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・・・・・・・・・・・・下流側(高橋)をみる

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・・・・・・・・・・・・亀島橋西詰(中央区八丁堀)に、赤穂義士の堀部安兵衛武庸(1671~1703)が居住していたことにちなみ、堀部安兵衛武庸之碑が建てられている。 昭和44年(1969)、八丁堀一丁目町会によって建立された。、、、、私が住む浅草橋の脇に、「雅万歩之碑」がいずれ建つことを願って、私もこのブログを書き続けるか?

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・・・・・・・・・・・亀島橋から、右岸(八丁堀)を川沿いに歩くと、小さな社の日比谷稲荷神社がある。 神社のある辺りは、江戸時代、町名を「日比谷町」と称し、川岸は「日比谷河岸」と呼ばれていた。 これは江戸時代初期に、現:日比谷公園あたりの住民が徳川幕府による江戸城本格築城のあおりうけて当地に移転したためである。 この小さな神社に、当時の地名が残されているわけだ。

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高橋・・・・・・・・JR京葉線の八丁堀駅の東端の出入口は、この高橋(たかばし)の西詰になる。 亀島川の入り口付近に架けられた橋で、船の出入りを妨げないように、太鼓橋のような背の高い橋にしたため高橋と名付けられたそうだ。(昔の話である) その後、明治15年(1882)10月に、吊橋式の鉄橋が竣工した。、、、、、、現在の橋は昭和59年(1984)3月に架けられた。

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・・・・・・・・・・・・・東詰めには、旧橋の親柱が残されてる

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・・・・・・・・・・・・・上流側(亀島橋)を眺める
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南高橋・・・・・・・・・明治37年(1904)に架けられた両国橋の中央径間が転用されて、昭和7年(1932)に架けられた震災復興橋。 橋長:63.1mの下路式単純プラットトラス橋。、、、、、全国でも6番目に古い鋼鉄トラス橋で、学術的にも貴重な橋として、今年度の土木学会選奨土木遺産に指定された。

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・・・・・・・・・・・・・・関東大震災以前の両国橋。 この、中央径間が南高橋に転用されている。

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亀島川水門・・・・・・・亀島川の最下流に位置し、高潮・津波に備えた防潮水門である。 鋼製単葉ローラーゲート形式の水門で、15m×2連、高さ:8mの門扉である。 昭和43年度(1968年度)の竣工。 この水門の外側は隅田川である。
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2016年12月18日 (日)

銀座

いよいよ今週末はクリスマス、来週末は大晦日である。 我が家も、新年を迎える準備が始まった。 掃除・片づけ、年賀状発送、年賀の用意、、、、どれもこれも、毎年変わらずにやることだ。 その合間に、孫のクリスマス・プレゼントを用意、うれしい新しい仕事が増えたね。、、、、、、今日は、夫婦で銀座に買い物に出かけてきた。 



西銀座チャンスセンター・・・・・・・・・ジャンボ宝くじが発売になると、必ずテレビに映る「西銀座デパート」の宝くじ売り場である。 今日も長い行列ができ売り場は混雑していた。 昭和56年(1981)頃までは、チャンスセンターは「日劇」前にあったっが、劇場の取り壊しとともに、現在地に移転した。 日劇が取り壊されて35年、時の経つのは早いものである。、、、、、、「夢を買うのだ 言ってはみたが 当たれ当たれよ 神頼み」
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・・・・・・・・・・・・・・【おせっかいな話】 私の住む浅草橋でも、駅前の売り場でよく一等がでるので、行列ができているが、西銀座ほどの混雑は見られない。 30分も待つつもりなら間違いなく買えるので、お急ぎの方は浅草橋でお買い求めをお願いします。




ソニービル・・・・・・・・・来年3月で閉館し取り壊されるソニービル。 只今、最後の展示会として「It’s a Sony展」が開かれていた。 スキップフロア形式になっている建物の各階に、トランジスタラジオ、トリニトロンTV、ロボット犬アイボ、ウォークマンなど、歴代のソニー製品が展示されていた。、、、、、、懐かしい機器を見ては、妻と当時を思い出し一時を過ごした。 昭和41年(1966)に竣工し50年間、西銀座のシンボルであったソニービルとは、たぶんこれが最後の別れとなるであろう。 Good-bye!

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豊岩稲荷神社・・・・・・・・・・・・・銀座7丁目、すずらん通りのビルの隙間にある稲荷神社。 創建年代は不明だが、明智光秀の家臣が創建したといわれている。 歌舞伎役者市村羽左衛門からの崇敬が篤かった稲荷で、縁結びにも御利益が期待できるそうだ。、、、、きょうも夫婦で手を合わせて来た。 互いに何を祈願したのやら?

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表通りはクリスマス・・・・・・・・・・・最近、爆買いツアーの観光客が少なくなったせいか、銀座通りも落ち着きを取り戻してきたようだ。 今日は人出は多いが、なんとなくのんびり歩ける銀座に戻ってきた。 ヨシ!ヨシ!

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●・・・・・・・・・・・自分へのクリスマスプレゼントとして、「Cinema Songs 薬師丸ひろ子」を買った。 また、コレクションが増えた! チョイと早い、Merry Christmas!

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2016年12月16日 (金)

高砂~小岩

今朝の天気予報では、『日本付近は冬型の気圧配置で、全国的に真冬の寒さ』と解説。 私が散歩に出た朝8時は5℃、風も吹き体感気温は氷点下。 行先のあてもないまま家を出たとたん、『寒い、寒い! 散歩は止めとけばよかった』と、後悔先に立たず。 どこへ散歩に行くか、北風吹く中、とりあえず駅に向かう。 JRに乗るか、地下鉄に乗るか、地下鉄の駅の方が暖かそうだ。 浅草橋の地下鉄ホームは島式1面2線、京成方面行きに乗るか、京急方面行に乗るか、京成方面は座れるのでこっちにしよう。 車内で下車する駅を考えるが、決まらない、そうこうするうち終点の高砂に着き、強制的に下車することになった。 ホームに立つと、再び北風が吹き付け、『ホームで凍死は嫌だ!』と、とりあえず橋上のコンコースへ避難する。 駅周辺の地図を眺め、東西南北いずれに向かうか(?)悩む。 北風吹く北に向かうのは愚の骨頂、東は江戸川、西は中川で川筋は“寒い”、残るは南に向かうだけ。 『よし決めた! 今日は南に向かって歩こう。 男だ、寒くない。』と、駅を飛び出し散歩を始めた。、、、、、、、京成線高砂駅から総武本線小岩駅まで、9千歩、7kmの散歩です。、、、、、、(今年、6月にほぼ同じルートを散歩した



1911年製のレール・・・・・・・・・京成高砂駅コンコースにある鉄道レールのモニュメント。 このレールは明治44年(1911)に、アメリカのカーネギー社で製造され、大正元年(1912)に押上~金町間の開業時に使用された由緒あるレールである。 44年間のレールの役目が終わり、昭和33年(1958)からは高砂駅のホーム屋根を支える支柱として使用されてきた。 平成8年(1996)に、駅コンコースの拡張工事に伴い引退し、モニュメントとして余生を送ることとなった。
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・・・・・・・・・・・・・・駅コンコースを行きかう人は皆、寒そうに無言でモニュメント前を通り過ぎて行く

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都営高砂アパート・・・・・・・・都営高砂団地は、昭和36年(1961)から昭和44年(1969)までに建設された、総戸数1263戸の大規模団地であった。


・・・・・・・・・・・・・・今日来てみたら、古い団地の最後の住人も全て立ち退き、現在ある当初の建物も順次取り壊しが始まっている。。、、、、建物の取り壊しを見ていると、そこに住んでいた人の物語を想像し、チョッピリ涙がにじむね。 今日はとくに寒さも手伝い、目に涙、鼻に鼻水、珍に小水で全身水漏れ状態だ。

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・・・・・・・・・・・・・・団地中央の商店街、シャッターを下ろした店もある。 郵便局、診療所、薬局、クリーニングは開いてたが、店舗の上の住居部分は閉鎖されていた。

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・・・・・・・・・・・・・・すでに更地となっている区画もある

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・・・・・・・・・・・・・団地の南側は平成20年(2008)~平成23年(2011)にかけ建て替えられ、新たに総戸数1011戸の団地となっている。 これから北側も、順次建て替えられる予定。

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・・・・・・・・・・・・・団地内に残っていた棟の案内板。、、、、、南側の建て替えられた棟には棟番号が表示され、取り壊される棟は棟番号が白いテープで隠されていた。

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北風が吹き抜ける鎌倉の町・・・・・・・・・・葛飾区にもある鎌倉の町。 高砂~京成小岩間の京成本線の南北両側に広がる町。 「鎌倉」の由来は、、、、、、相模国鎌倉郡から来た源左衛門という者が、寛永年間(1624-45)に村の鎮守として鎌倉の鶴岡八幡を勧請したことによる。 その鎌倉八幡神社 は4丁目にある。 つまり、鎌倉は、江戸時代の、相模国鎌倉のパクリである。、、、、、、空は澄み、鉄塔の多い町だが、風は吹き抜け、寒い、寒い! 

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小岩駅・・・・・・・・・・今日は寒いので速足で歩き、10時過ぎに駅に着いた。 もうこれ以上、歩くのはヤダ! 駅のスタバでコーヒータイム。、、、、、「熱い珈琲 身体はホット 前の二人は 熱い仲」

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2016年12月15日 (木)

荻窪~新高円寺

3日前、西巣鴨の善養寺で拝見した江戸三閻魔の続きとして、杉並区松ノ木の華徳院に行くことにした。 荻窪駅から丸ノ内線沿いに歩いて新高円寺駅まで1万1千歩、8kmの散歩です。



JR荻窪駅南口・・・・・・・・・・荻窪駅は明治24年(1891)12月21日に、甲武鉄道の駅として開業。 この時の出入口は現在の南口付近にあった一か所のみである。 現在は、新宿寄りホーム下の東口改札と、三鷹寄りの橋上に西口改札がある。 東口は地下改札を抜けると南北の出入口に分かれる。、、、、、今日は丸ノ内線新高円寺駅方向に歩くことを決めていたため、出口の選択に躊躇することはなかった。
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旧荻窪郵便局電話事務室・・・・・・・・・荻窪駅南口近く、昭和7年(1932)に建てられた旧逓信省の建築です。(15年程前に改装した。) 現在はスーパーが入居している。 丸みあるコーナー部分の入口、縦長の窓が並ぶ壁面などは、設計した逓信省技師:山田守の作品の特徴が残っている。 山田守(1894/4/19~1966/6/13)は逓信省の建築を多く手掛け残した、モダニズム建築の大家。 手がけた作品の代表的なものとして、旧千住郵便局電話事務室、東海大学代々木校舎、日本武道館、京都タワーなど。 さらに永代橋、聖橋などの橋梁のデザインも担当した。、、、、、、できることなら、建築当初のオリジナルな姿に戻してほしいね。

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西郊ロッジング・・・・・・・・・西郊(せいこう)ロッジングは、ドーム屋根を持つ洋室の新館(昭和13年築)と、和室の本館(昭和6年築)がつながった造りの建物である。 表現主義風のこの時代らしい建物 現在、新館はアパートとして人気があるそうだ。本館は旅館として営業している。、、、、建物は国の登録有形文化財。

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成宗須賀神社・・・・・・・・・・・・杉並区成田東5丁目に鎮座する、旧成宗村本村の鎮守さまで、祭神は素盞嗚尊。 神社は、天慶4年(941)に創建され、慶長4年(1599)に再建されたと伝えられている。 しかし、安政年間に記録を焼失したため詳かではないらしい。 どっちにしても、古くからの神社である。 現社殿は昭和33年(1958)に新築した。、、、、、すでに、神社には大祓いの茅の輪が用意され、年末だ! 早速、茅の輪くぐりをし、一等7億円のご利益期待!

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プラウドシティ阿佐ヶ谷・・・・・・・・・成田東にあった元公団の阿佐ヶ谷住宅 の跡地に建ったマンション。、、、、、『首都圏における第一種低層住居専用地域の新築分譲マンションで 最大級の規模を誇ります。  〈5街区・全575邸〉を設け、中低層の9棟とテラスハウスをレイアウト。  そして、全体を包み込むように樹々が連なる風景は陽光と開放感に満ちた新しい気品を漂わせることでしょう。  この杜の暮らしは界隈の自然と人をつなぎ、さらに人と人のつながりを育む人・自然・地域の美しい関係の理想へ導きます。』との売り言葉で、今月から分譲するようだ。、、、、、、旧阿佐ヶ谷住宅のような、開放的な雰囲気が創られるといいね。

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成田東の二寺・・・・・・・・・・・・五日市街道へ向かう道の途中の二寺


・・・・・・・・・・・・・・まずは天桂寺、、、、、月光山天桂寺は曹洞宗の寺で、聖観音像を本尊とする。 開創は慶長年間(1596~1614)と言われている。 天桂寺は安政3年(1856)に暴風雨にあい、建物はすべて倒壊した。 それから約60年後、大正12年(1923)に現在の本堂が建てられた。

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・・・・・・・・・・・・・・つぎは海雲寺、、、、、、天桂寺と道路を挟み向かい合わせにある海運寺。 海運寺は、江月山と号する曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦如来坐像。 慶長16年(1611)に江戸八丁堀(現:中央区八丁堀)の地を拝領して開創された。 その後、寛永12年(1635)に浅草八軒寺町(現:台東区寿町)に移転し、明治43年(1910)に区画整理により現在地に移転した。 現本堂は明治20年(1887)に建立され、山門は江戸城内の紅葉山から移転した。

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華徳院・・・・・・・・丸ノ内線新高円寺駅の近く、五日市街道に面して天台宗の華徳院(けとくいん)がある。 華徳院は、下野国佐野に創建され、天正年間に武蔵国霞ヶ関に移転、慶長年間に浅草蔵前に再転し、寛永寺末となる。 江戸時代には、新宿太宗寺、巣鴨善養寺とともに江戸三閻魔として有名であった。、、、、その閻魔は、運慶蘇生の作といわれた丈六仏の本尊・閻魔王像を中に、右には本尊と同木でやはり運慶の作といわれた奪衣婆像、左には聖徳太子作といわれた本地化馬地蔵尊が祀られ、「蔵前の閻魔堂」と呼ばれていた。 『ナニ! 蔵前の閻魔堂、マサカ?』 そのマサカが、やっぱし!であった。  つまり、「蔵前の閻魔堂」とは、我が家の近く、私の住む台東区浅草橋2丁目にあったのだ。 我が家から直線距離で200m程の処である。 関東大震災で堂、仏像の全てを焼失し、焼け跡には新たに閻魔王を迎え堂を建てたが、それも昭和20年の戦火により焼失してしまった。  華徳院は、昭和3年、杉並区の現在地に移転した。、、、、、つまりは、華徳院の江戸三閻魔は姿形もなく、実在していたのは、我が家の近く浅草橋であったとさ。、、、、“灯台下暗し”とか、“提灯持ち足下暗し”とか、“秘事は睫(まつげ)”という話である。


・・・・・・・・・・・・・・杉並区松ノ木にある華徳院

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・・・・・・・・・・・・・・・台東区浅草橋2丁目、玩具会館の植え込みにある閻魔堂跡の碑

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新高円寺駅・・・・・・・・・・・・閻魔さま見に来て、閻魔さまに騙されて帰る、今日の散歩である。、、、、、、新高円寺駅は、昭和36年(1961)11月1日に帝都高速度交通営団(営団地下鉄)荻窪線の駅として開業した。 相対式ホーム2面2線の地下駅。

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2016年12月12日 (月)

王子~西巣鴨

京浜東北線王子駅から、都電沿いに都営三田線西巣鴨駅まで、1万歩、7kmの散歩です。



王子駅前停留場 ・・・・・・・・・新幹線の高架下に都電荒川線の王子駅前停留場がある。 JRの王子駅は、日本鉄道の駅として明治16年(1883)に開業した。 都電の王子駅前停留場は大正4年(1915)に王子電気軌道(現:都電荒川線)によって設置され、今年で101年経ったことになる。、、、、、、、“昭和の光景”が残る荒川線を、ぜひとも、文化財として登録したいね。
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・・・・・・・・・・・JRのガードを抜け、明治通り(大坂)を上り、飛鳥山交差点から専用軌道となる。

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飛鳥山停留場・・・・・・・・・・・・飛鳥山交差点から専用軌道に入ったところに、明治44年(1911)に開業した飛鳥山停留場がある。

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酒類総合研究所・・・・・・・・・・・・・飛鳥山停留場近くの酒類総合研究所東京事務所に寄ってみた。 なんと貼り紙では、研究所の東京事務所は広島に移転し、広島事務所と統合された。 つまり、只今は空き家状態である。 日本橋を手掛けた妻木頼黄(つまきよりなか)の設計で、明治35年(1902)に竣工した、貴重な煉瓦造の酒造工場ははどうなるのだ? 急に心配になり、隣地に事務所を構える日本醸造協会の方に聞いてみたら、『煉瓦造の建物は当協会が管理を委託され、今後、内部を整備し一般公開します』と云うことで、一安心。

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滝野川一丁目停留場・・・・・・・・・・・明治44年(1911)年8月20日に開業

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西ヶ原四丁目停留場・・・・・・・・・・・明治44年(1911)年8月20日に開業。 開業当初は滝野川停留場と呼ばれた

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善養寺・・・・・・・・・・・・西ヶ原四丁目停留場から裏道を歩き豊島区西巣鴨4丁目に入ると、天台宗の善養寺がある。 天長年間(824~833)に上野山内に創立したと伝えられ、上野東叡山寛永寺末。 本堂には高さ約3mの江戸三閻魔の一つ木造閻魔王坐像(豊島区登録有形文化財)が鎮座し、手を合わせる信者の心の内を見つめている。 チョイと見、怖いが、じ~~いと見、ユーモラスな顔である。、、、、、ちなみに三大閻魔のあと二つは、杉並区松ノ木の華徳院、新宿区新宿の太宗寺 の閻魔である。

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・・・・・・・・・・・・境内には、江戸時代中期に陶工・絵師として活躍した尾形乾山の墓もある。、、、、、京都生まれの乾山だが、晩年は江戸下谷の入谷村に移り住んだ。 そのころ善養寺は、下谷坂本にあり、死後善養寺に葬られたそうだ。

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妙行寺・・・・・・・・・・善養寺の隣に法華宗陣門流の妙行寺がある。 妙行寺は寛永元年(1624)に赤坂で起立し、四谷へ移転し、明治40年(1907)に現在地へ移転した。

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・・・・・・・・・・・・・・境内に浅野家遥泉院供養塔がある。 妙行寺は赤穂浅野家の菩提寺で、浅野長直の室高光院(写真:中央)、浅野長広の室蓮光院の墓(右)があり、そして左端に 浅野長矩の室瑤泉院の供養塔がある。、、、、、一週間前には瑤泉院の墓に参り、今日は供養塔に参る。 私と瑤泉院は、不思議な赤い糸で結ばれていたのか?

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・・・・・・・・・・・・・・浅野家の墓の後ろには、四谷怪談のお岩さんの墓がある。 こちらは、田宮家の墓で、お岩様が夫伊右衛門との折合い悪く病身となり、その後亡くなったのが寛永13年2月22日である。 爾来、田宮家ではいろいろと「わざわい」が続き、菩提寺妙行寺四代目日遵上人の法華経の功徳により一切の因縁が取り除かれたそうだ。、、、、一段高い処にお岩さんの墓があり、その手前に田宮家の墓がある。、、、、お岩さんの墓は、瑤泉院の供養塔より立派に見える。、、、、、(こちらは、四谷のお岩さん霊岸島のお岩さん

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新庚申塚停留場・・・・・・・・隣の庚申塚停留場は明治44年(1911)に開業したが、新庚申塚停留場は昭和4年(1929)4月19日に開業した。

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●・・・・・・・・・・・・・西巣鴨駅より帰宅

2016年12月 9日 (金)

品川区八潮

京急立会川駅で下車し、東京モノレール大井競馬場前をとおり、東京貨物ターミナルの手前でドクターイエローをチラリと遠望し、八潮パークタウンの中をウロウロし、東京モノレールで帰る散歩。 9千歩、6km


・・・・・・・・品川区八潮(やしお)とは?、、、、、戦前に、東品川の沖で埋め立てが開始され、昭和54年(1979)に隣接する大田区と境界が確定した埋め立て地である。 面積は品川区の5分の1を占め、1丁目は東電の大井火力発電所と都の清掃工場、2丁目は海運各社のコンテナターミナル、3丁目は新幹線車両基地、4丁目は大井ふ頭中央海浜公園、5丁目はかつての八潮団地で現在は洒落て「八潮パークタウン」と称してる。 地名の「八潮」は、歴史的な曰く因縁、地理的な命名でもなく、単に公募で決めたそうだ。 埼玉県の八潮市とは無関係の町。



立会川駅から大井競馬場前駅まで・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・優等列車の止まらない立会川駅 で下車する。、、、、、私の住む浅草橋駅より綺麗な駅だ、負けてる!
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・・・・・・・・・・・・・・立会川の頭上を走る京浜急行本線

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・・・・・・・・・・・・・・・昭和6年(1631)に架けられた弁天橋を渡ると、天祖神社の境内に出る。、、、、、、本日の武運長久を願い、ついでに年末ジャンボ『一生に一回でいいから』一等が当たるよう願い、拍手も三回にした。

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・・・・・・・・・・・・・・立会川が注ぐ勝島運河にでた。 船溜まりのようになった運河は波もなく、鏡のような水面である。

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・・・・・・・・・・・・・・・八潮のコンテナターミナルに向かう道を歩く。 今日はレースがないのか、それとも時間が早いのか、大井競馬場のゲートは閉まっている。、、、、、、競馬・パチンコを止めて40年、勝負心はなくなったが、まだまだ賭場の雰囲気は好きだね。

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大井競馬場前駅・・・・・・・・・昭和39年(1964)9月17日、東京オリンピック開催直前に、浜松町駅~羽田駅間にモノレールが開通した。 この時点では、モノレールは東京湾に沿い海面を走るようなもので、途中駅はなく、両端の2駅だけであった。 しかし、昭和40年(1965)5月27日からは、大井競馬場前駅がレース開催日に合わせ臨時開業し営業を始めた。 昭和42年(1967)からは、通年営業の常設駅となった。 そしていつのまにか、東京湾の沖も埋め立てが進み、モノレールは都会の中を走る交通機関となり、途中駅は9駅となった。、、、、、小さな、可愛い駅だ!

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・・・・・・・・・・・・・・京浜運河沿いに走るモノレール

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東海道新幹線車両基地・・・・・・・・車両基地の中央にコンテナターミナルに向かう陸橋が架かる。 陸橋の下には、ズラリ新幹線が見えるはずだが、まだ早朝のお勤めから戻っておらず、線路だけが見える。、、、、ドクターイエローが車両基地の留守番

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八潮パークタウン・・・・・・・・・・昭和56年(1981)に八潮団地の計画が決定し、昭和58年(1983)から入居が開始された。 すでに30年以上経過し、名前も「八潮パークタウン」である。 広さ40.8ha(東京ドーム8.7個分)で、東京ディズニーランドの5分の4、ミッキーマウスの方が広い。 練馬区の光が丘団地と比べると、186haで練馬の勝ち! 住んでる人は、約5,700世帯、約13,000人。 高齢化率も高いそうだ。 人が住む建物は、69号棟までと、数棟の寮などがある。 外見は綺麗に見える団地だが、外に出て語らう人、健康のため運動する人などは皆無。 チョイと、年寄りには寂しい終の棲家となるのかな?

 
・・・・・・・・・・・・タウン内の案内板を見ると、バス停が12か所もある。 それに比べると、公衆電話が13か所とは、チョイと少ないのでは、、、、、、皆さんスマホを持っているから少なくてもいいのかな?
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・・・・・・・・・・・・・・・遠望すると、高層住宅が並びカッコいい!

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・・・・・・・・・・・・・タウン内は緑が多く、綺麗だ!

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・・・・・・・・・・・・・お年寄りにはバスが便利そうだけど、バス停まで歩くのが大変そうだ!

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・・・・・・・・・・・・・・タウン中央にある区立八潮学園は小中一貫校。、、、、9学年で、全校児童数は約800名。 一学年の平均は90名弱、少子化で廃校となる心配は、まだ無用かな!

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・・・・・・・・・・・・・・タウンは周囲を公園・緑道によって囲まれている。 サギ、カモなどの水鳥の遊ぶ姿が見られる。

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2016年12月 8日 (木)

南千住~新三河島

南千住駅から京成本線新三河島駅まで、1万歩、7kmの路地裏散歩です。



小塚原刑場跡・・・・・・・・・地下鉄日比谷線の南千住駅南口前に、小塚原刑場(こづかっぱらけいじょう)跡がある。 江戸時代から明治初期にかけ荒川区南千住2丁目に存在した刑場で、大和田刑場(八王子)、鈴ヶ森刑場(大森)とともに三大刑場といわれた、その内の一か所。 小塚原刑場は寛文7年(1667)以前に浅草から移転したといわれている。 間口60間(約108m)、奥行30間(約54m)程の敷地で、周囲は草茫々の処であった。、、、、現在跡地には延命寺があり、境内に首切地蔵が祀られている。 刑死者の菩提を弔うため、寛保元年(1741)に刑場敷地内に造立された地蔵さん。 日光街道沿いで多くの人が往来し地蔵を目にし、いつしか、「首切地蔵」と呼ばれるようになった。 27個の花崗岩を組み合わせた高さが4m程の座像である。 明治28年(1895)、土浦線(現:常磐貨物線 )敷設工事の敷地から、現在地に移転した。
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回向院・・・・・・・・延命寺と常磐線のガードを挟み北側にある回向院。 小塚原刑場では、死体は丁寧に埋葬せず申し訳程度に土を被せるくらいだったため、夏は周囲に臭気が充満し、野犬やイタチの類が食い散らかして地獄のような有様だったらしい。 寛文7年(1667)に両国回向院 の住職が刑死者を弔うため、刑場に隣接し常行堂を創建した。これが後に回向院となり、現在も橋本左内、吉田松陰、鼠小僧、高橋お伝などの刑死者の墓がある。、、、、、鼠小僧の墓は、両国、南千住の両回向院にある。 分骨したのか?

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・・・・・・・・・・・明和8年(1771)にターヘル・アナトミアを手に入れた蘭学者杉田玄白・前野良沢らが解剖図の正確性を確認するため、小塚原刑場において刑死者の腑分けに立ち合い、図の正確さにビックリした有名な出来事を記念した碑がある。 碑は昭和34年(1959)建立。

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南千住5丁目・1丁目の路地・・・・・・・・・・・都電荒川線の北側、南千住5丁目と1丁目の路地を歩いた


・・・・・・・・・・・・南千住には多くの簡易旅館があるが、その旅館を外人観光客のために改装したと思われる宿が回向院裏にあった。 客が労務者から外人観光客に変わり、宿の雰囲気はもちろんだが、町の雰囲気も変わってきた。

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・・・・・・・・・・・・回向院裏の道は、小さな小さな社の金福稲荷神社の脇に出た。 貞和3年(1347)足利時代に創建され由緒あり、霊験あらたか、パワースポットのようなお稲荷さんだ。

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・・・・・・・・・・・・・・南千住5丁目、彰義隊士の墓がある円通寺 裏の路地を歩く。、、、、、長い折れ曲がった路地は、懐かしい“昭和の下町”が残っているようだ!

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都電荒川線 ・・・・・・・・・・・・・7000形を改良し、今年5月30日より運用を開始した7700形。

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宮地陸橋・・・・・・・・・荒川2丁目と4丁目の境に伸びる荒川中央通りを抜けて、明治通り、尾竹橋通り、道灌山通りが交差する宮地交差点に出た。 現在明治通りと呼んでいる通りは、昭和7年(1932)に拡幅工事が完成するまで荷馬車がすれ違うのも容易でない狭い道だったそうだ。 現在は、交通量の増大で、明治通りは宮地陸橋で交差点を越える。、、、、、宮地陸橋は昭和49年(1974)に完成した。 橋脚部分に人道を通すことができるように穴が開いている。 おそらく、ここに歩道橋を造り、交差点の横断歩道を廃止する計画でもあったのか?

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新三河島駅・・・・・・・・・・・昭和6年(1931)12月19日に開業した京成本線の駅。 島式ホーム1面2線の高架駅である。 ホームの成田寄りは明治通りの上にかかっている。

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2016年12月 6日 (火)

平和橋通り

総武本線新小岩駅で下車し、『さて、どっちに歩こうか?』、行くあてのないぶらり散歩。 駅前交番で、『私、どこへ行ったらいいですか?』と、聞くこともできず、しばし考え、『よし、駅前の平和橋通りを歩こう!』、、、、、と云うことで、新小岩駅から平和橋通り沿いに歩き、京成本線堀切菖蒲園駅まで、1万3千歩、10kmの散歩です。



新小岩駅・・・・・・・・・・・・・乗客は快速も緩行も都心方面に向かう電車待ち。 千葉方面に向かうホームはスカスカ。
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巽橋・・・・・・・・・新小岩駅北口前の小さな商店街を抜け、蔵前橋通りと平和橋通りがクロスする処が巽橋(たつみばし)交差点。 この交差点は2本の主要道路が交差し、さらに水元公園の小合溜から発する灌漑用水「西井堀」を暗渠化した上にできた道路が交差する、6方向の交差点となっている。、、、、巽橋は西井堀に架かっていた橋で、現在は下流側の欄干が交差点に残されている。

・・・・・・・・・・・・・・暗渠化された西井堀の川筋正面に欄干が残っている。 蔵前橋通りは陸橋で、交差点を横断する。
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・・・・・・・・・・・・・・チョイと、痛々しい姿の巽橋。 欄干は鉄筋コンクリートで造られ古そう。 昭和の初期か?

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・・・・・・・・・・・・・・交差点には平和橋通りの標識がある。

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上品寺 ・・・・・・・・・平和橋通りに面し、東新小岩7丁目に上品寺(じょうぼんじ)がある。 寺の創建年代不詳であるが、享保元年(1716)に新義真言宗の寺となり、八幡山来迎院という。、、、、、、本堂は安政2年(1855)の地震で倒壊し、再建された。 大正11年(1922)と昭和11年(1936)に修築された。 屋根の勾配が優美な本堂である。

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・・・・・・・・・・・・・・境内の「ゑんま堂」には高さ2mの木造の閻魔大王が安置されている。 昭和に大修復されたが、室町時代初期の作らしい。、、、、、閻魔大王は地獄に住み十八の将良と八万の獄卒を従え、死して地獄に落ちてくる人間の生前の善悪を正し、罪ある者には苦しみを与える鬼神である。 閻魔の脇にはペンチも用意され、舌を抜かれたら痛そうだ。

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天祖神社・・・・・・・・・・上品寺の北側には天祖神社がある。平和橋の南東側に鎮座する神社。 神社の創建年代は不詳だが、葛西三郎清重が葛西御厨の関係から勧請したものと言われている。、、、、、社殿は昭和46年(1971)に改修・造営された。

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平和橋・・・・・・・・・・昭和35年(1960)に完成した現在の平和橋は、「平和橋通り」の名の元である。 しかし、親柱に鳩の飾りもある「平和橋」の“平和”の由来は? 私は判らない。 なぜ、この橋が“平和”なのだ!、、、、、都庁や、区役所の職員が命名したのか?

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・・・・・・・・・・・・・・橋から眺める、のどかな中川の流れ。 この景色が“平和”かな?

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都営東四つ木四丁目アパート・・・・・・・四つ木地区に超高層アパートがある。   1号棟は、20階建、114戸。 2号棟は、24階建、136戸。 総戸数250戸の都営住宅。(一部、都民住宅) 平成8年(1996)に完成。、、、、、私が住む、浅草橋には超高層住宅はまだない。 負けた!

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四ツ木2号踏切・・・・・・・・・・京成押上線四ツ木~立石間で、平和橋通りを横切る踏切。、、、、、都・京成が四ツ木~青砥間の高架化工事に着手したので、この踏切も、あと数年経つと高架橋に変わり、いずれ無くなる運命だ。 線路わきの工事用地は、買収も済み、工事の発注も済み、仮囲いの設置が始まっている。

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本田広小路交差点・・・・・・・・・・・・・国道6号(水戸街道)と平和橋通りが交差する。 水戸街道は四つ木陸橋で越えて行く。

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堀切菖蒲園駅近くの歩道橋から・・・・・・・・・京成本線に並行して、平和橋通りに架かる歩道橋から撮影。、、、、、スカイライナーが撮れた!、、、、、平和橋通りはこの先足立区まで続くが、私の散歩はココまでとする。

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堀切菖蒲園駅 ・・・・・・・・・・・“昭和”が残る堀切の町だが、今日はブラブラせずに帰ることとした

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●おまけ・・・・・・・・・・・途中、住宅の庭先に咲いていたサザンカ。、、、、「つぼみピンクで 開けば真っ赤 冬の寒さに 燃える花」

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2016年12月 5日 (月)

泉岳寺~三田

とうとう今年も師走となった。 この時期になると、必ず思い出すのが忠臣蔵。 急に、本を読んでみたくなり大佛次郎の「赤穂浪士」を取り出し、映画を見たくなり東映:昭和31年(1956)制作:「赤穂浪士 天の巻 地の巻」のDVDを取り出し、歌謡浪曲を聴きたく三波春夫:「忠臣蔵全集」のCDを取り出し、私が大好きな話:『忠臣蔵』で暮れの一時をつぶすのである。、、、、討ち入りは元禄15年12月14日の出来事である。 以来、300年以上、日本人が愛してきた話だ。、、、、今日は、チョイと早いが泉岳寺へ行ってきた。 1万歩、7km。



泉岳寺駅・・・・・・・・・・・・・昭和43年(1968)6月21日、都営地下鉄1号線の駅として開業。 同時に京浜急行線の品川~泉岳寺間も開業し、京急と相互乗り入れを開始。 同年11月15日、泉岳寺~西馬込駅間が開業し中間駅となる。、、、、、、島式ホーム2面4線の地下駅である。、、、、、現在、JR東日本が田町車両センター跡地を含む泉岳寺駅東側の再開発を行っており、田町~品川間に山手線の新駅が計画されている。 新駅と泉岳寺駅は近く、乗降客も増加することが予想され、駅の改良の話もあるそうだ。
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泉岳寺・・・・・・・・・・・・忠臣蔵の話が好きな私は、今年の春にも参拝しており、このブログにも度々登場する寺の一つである。

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・・・・・・・・・・・・・・山門の横に大石内蔵助の像がある。 この像は、浪曲の宗家:桃中軒雲右衛門の発願により鋳造されたものであるが、所有が転々としていたそうで、最終的に泉岳寺に寄進され、大正10年(1921)12月14日に除幕した。 内蔵助が当時の風俗である元禄羽織を身につけ、連番状を手にして東の空(江戸方向)をじっとにらんでいる姿を表したものです。、、、、、私の内蔵助のイメージは、片岡千恵蔵か、長谷川一夫がぴったし。

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・・・・・・・・・・・まずは、浅野内匠頭と正室・瑤泉院の墓に参る。、、、、、、この二人は、大川橋蔵と大川恵子(東映の大川コンビ、私の好みでもある)のイメージがぴったし。

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・・・・・・・・・・・・・内匠頭の墓の隣に四十七士の墓がある。 チョイと立派な内蔵助の墓を中心に、46名の同型の墓並ぶ。、、、、、さすがに、全員を映画俳優に重ね合わせるには無理がある。 堀部安兵衛には三船敏郎をイメージしたが、血圧130超えたら胡麻麦茶の方が適役かも? (念のため、あのコマーシャルの赤ひげ先生は三船敏郎ではなく増田雄一です)

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・・・・・・・・・・・・・・境内に残る首洗いの井戸。 吉良上野介の首級を、内匠頭の墓前に供える前に、この井戸で洗ったといわれている。、、、、首を備えた後、寺社奉行の指図に従い、本所吉良邸に首は返された。

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泉岳寺横の裏道 ・・・・・・・・・・・・泉岳寺山門の北側に高輪学園の校舎があり、その校舎沿いに自転車がやっと通れる幅の裏道がある。 まさに、私好みの裏道で、途中には墓地もある、井戸もある、石畳もある、全長約300m。 きょうも、通り抜けてきた。

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赤穂義士切腹の地・・・・・・・・・高輪1丁目都営住宅の裏に、細川邸にあずけられた大石内蔵助、吉田忠左衛門、片岡源五右衛門、原惣右衛門ら、16名の赤穂義士が切腹した庭の一部が残されている。 切腹は、元禄16年2月4日に実施された。、、、、施錠された中に、数個の庭石が残され、異様な空気が漂っている不思議な場所である。

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旧細川邸のシイ・・・・・・・・・・高輪図書館の南側に、旧細川邸のシイの木が残されている。 樹高10.8m、幹周り8.13m、枝張りは東に6.7m、西に2.7m、南に5.56m、北に5.8mあるそうだ。、、、、、昭和56年に大規模な外科手術をしたので、チョイと痛々しい姿になっている。、、、、、内蔵助もこのシイを見たのか?

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三田4丁目 ・・・・・・・・・魚籃坂、魚籃寺、フレンズセンター(宣教師館)、クウェート大使館、聖坂と抜けて、三田三丁目交差点に出た。

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慶應仲通り商店街・・・・・・・・・・・商店街は、桜田通り(三田通り)とJR田町駅前を結ぶ裏通りの商店街。 かつては、近くの慶応大学の関係者を顧客としていた商店街で、飲食店はもとより、本屋、学生服屋、コピー屋などもある。 今は、近隣のオフィスに通うサラリーマンが重要顧客であり、飲食店が多い。

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・・・・・・・・・・・・・・三田通りから入ってスグ、「茶の木稲荷」が祭ってある。 祭神は稲荷大神で、家内安全、商売の繁昌の御利益があるそうだ。 社殿を見ると、なんとなく神社自身が繁昌していないようだ、御利益は疑わしいね?

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・・・・・・・・・・・・田町駅に近い商店街の一画には、「水野監物邸跡」がある。、、、、、家康誕生の地である岡崎藩の水野家下屋敷跡。  この屋敷には、奥田貞右衛門、神崎与五郎ら9名の赤穂義士が預けられた。、、、、仲通りの商店街で、切腹させられたのかも?

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三田駅・・・・・・・・・・・・・・昭和43年(1968)6月21日、都営地下鉄1号線(現:浅草線)の三田駅が開業した。 昭和48年(1973)11月27日には、都営地下鉄6号線(現:三田線)の三田駅も開業し、相互に連絡通路でつながっている。、、、、、浅草線は島式ホーム1面2線の地下駅で、地下2階にある。

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2016年12月 2日 (金)

赤羽

赤羽駅で下車し、西に向かって歩いたが、途中で脇道に入り赤羽駅に戻ってしまった。 9千歩、7km。



赤羽駅・・・・・・・・既に開通していた日本鉄道(上野~熊谷間)の途中駅として、明治18年(1885)3月1日に開業した。 いまから130年以上前のことである。、、、、、今は、一日9万人以上が乗車する、JR東日本管内では47番目の駅。 ちなみに、私が住む浅草橋駅の乗車人員は5万3千人で89番目、負けた!、、、、、大きな団地のある西口の朝は、乗車するサラリーマン、学生が多い。 近郊から来るバスも多い。
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静勝寺・・・・・・・・赤羽駅から西へ150m程の高台の上に静勝寺がある。 高台下の岩槻街道に面し、急な石段が待ち受けている。 ここは、江戸城を造った室町中期の武将:太田道灌が、砦として使用した稲付(いなつけ)城跡である。、、、、、静勝寺は、永正元年(1504)太田道灌の禅の師匠雲綱が、彼の菩提を弔うため、太田道灌が築城した稲付城跡に道灌寺として創建した。 明暦元年(1655)に道灌の子孫:太田資宗が堂舎を建立し、道灌(香月院殿春宛静勝大居士)とその父資清の法号に因んで寺号を自得山静勝寺と改めた。、、、、、“全山紅葉”と言いたいところだが、あいにく広葉樹も少なく、数本か色づいていた。 しかし、それでも画になるような綺麗な紅葉を見ることができた。

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・・・・・・・・・・・静勝寺の裏手(西側)にまわると、赤羽台団地の方を見通すことができる。

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亀ヶ池弁財天・・・・・・・・・・・・静勝寺から、赤羽台団地のある台地の下(赤羽西1丁目)に出ると、小さな池に真っ赤な鳥居の亀ヶ池弁財天がある。 『おや? この手の祠は、よく三業地の一角にあるのだが、ひょっとすると、ここいらは陸軍のお休み処でもあったのか?』と、勘繰ってみたのだが、、、、、元々は、地元商店街の弁天講が始まりであったそうだ。 昭和55年(1980)木彫の弁天像を創り、近くにある静勝寺の弁天堂の弁財天を勧請して祀り弁天堂とした。 また、昭和58年(1983)には池の中に亀子宝安産多弁天(石像)を安置した。、、、、な~~んだ、戦後の話か!

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赤羽西4丁目のバス通り・・・・・・・・さほど幅広くもなく、そうかといって裏通りでもなく、バス通りを西へ向かう。



・・・・・・・・・・・・ここは赤羽西四丁目交差点。 昭和40年~50年代頃、流行のように、団地の近くに建てられた木造の長屋形式の店舗。 いまは、シャッターを下ろした店舗が多い。

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・・・・・・・・・・・こちらは、歯科診療所→内科医院と変わり、いまは空き家。

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・・・・・・・・・・・・・道は上り坂となる。 バスが来たから脇に寄って注意、注意。 

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・・・・・・・・・・・・・・坂を上り、後ろを振り向くと、赤羽台の台地にURの住宅(赤羽台団地)が見える。 その台地に沿って、下に道がある。 何だか道が誘っているようだ、よし、歩いてみよう。 急遽、歩く方向を変えた。 

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旧松澤家住宅・・・・・・・・・・・赤羽西5丁目、赤羽自然観察公園があり、その中に「北区ふるさと農家体験館」なる施設がある。 そこに、浮間地区から移築復元した松澤家住宅があった。、、、、、団地の近くに、こんな公園があるとは知らなかった。 ラッキー!


・・・・・・・・・・・・・・住宅は江戸時代後期、弘化元年(1844)の建物と言われている。 うまや付きの、桁行9間、梁間5.5間、寄棟造り、茅葺き屋根。

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・・・・・・・・・・・・まだ、私以外には見学者はおらず、管理人が2名居るだけ。 家の中では、かまどで火を焚き、建物を煙でいぶす、文化財保存のために「燻製」をしていた。 杉の枯れ枝を燃やす、香ばしく甘い、田舎を思い出す匂いがたちこめてくる。 感動し、感激し、感喜し、感無量。 しばし、かまどの前で立ち止まる。、、、、、煙の匂いに包まれ管理人の方と、二人で戦後の思い出話に盛り上がり、時の経つのを忘れてしまった。、、、、、『アッ、時間だ、帰らねば!』

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・・・・・・・・・・・・・管理人の方に礼を述べ、公園を後にする

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●・・・・・・・・・・・・旧松澤家住宅から、URの赤羽台団地を抜けて赤羽駅へ戻った。

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