大井町~戸越

・・・・・・・・・・・・・・橋の上からホームを見れば、通勤客で超満員。 「仕事納め」に「忘年会」、今日もサボると嫌われる。 掃除・挨拶適当に、夜は皆で飲み潰れ。
・・・・・・・・・・・・・・東西南北いずれに歩く?、、、とりあえず、東急大井町線 の高架沿いに歩いてみよう。
・・・・・・・・・・・・・大井町線高架橋の北側には、空き家となったJRの広町アパートが並ぶ。、、、、、、跡地再開発計画が頓挫し、いつまでも仮囲いの中にアパートが残っている?
②下神明駅 ・・・・・・・・・・・・・昭和2年(1927)に開業した高架下の薄暗い駅。 昭和11年(1936)に、戸越から下新明に駅名を改称した。 現駅名は、近くの下神明天祖神社に由来する。 一日の乗降客は、若干増えて、2015年度は約8,000人となった。 大井町線16駅の乗降客数で、ワースト2を誇る駅。(ちなみに、ワースト1は北千束駅の約7000人)
③品川区総合庁舎・・・・・・・・・・・・言いたくないが、「寒い・寒いで、トイレがちかい」、しかも「歳をとると、お呼びが早い」。 下神明駅近くで呼び出しにあい近くの公園を尋ねたら、ナント、来た方向に戻り品川区役所前の中央公園を教えてくれた。 足早にトイレに飛び込み、一件落着。、、、、、公園前には、昭和40年代に建てられた庁舎(品川区広町2)が建っている。 他区の庁舎に比べると低層で、小振りだ。 建物の大小が区政の良し悪しを決めるわけでないから、仕事をしっかり続けてね。
④苗木原踏切・・・・・・・・・・・・・湘南新宿ライン(大崎~西大井駅間)の踏切。 奥には新幹線の高架橋が見える。
⑤年末の大掃除・・・・・・・・・・どこの町でも、日本全国大掃除、、、、、、終戦直後の年末は、どこの家でも31日まで仕事をして、大掃除も年末ぎりぎりに行っていた。 町の角々にごみの山ができ、当時はごみ収集車などはなく、大八車に大きな箱を乗せてごみを集めていた、懐かしき光景を思い出す。、、、、、今では、家庭から出るごみは、ビニール袋に入れられ収集される。 資源ごみは別途に集められ、町会ごとに売られていく。 小さな子供のいる家庭では、家の前に絵本・おもちゃが出され、「ご自由にどうぞ」と貼り紙がある。
⑥旧三井文庫第二倉庫・・・・・・・・・・・・戸越公園(豊町2)の斜め前、旧国文学研究資料館跡地に「文庫の森公園」がある。 この公園の敷地は、大正7年(1918)に三井家編纂室(=三井文庫:三井財閥の修史事業を行う)が日本橋から移転し、ここに膨大・貴重な資料が集められ戦前まで整理していた。 戦中は、資料の多くを疎開させ戦禍を免れ。 戦後、GHQにより三井本社は解散し、三井文庫も活動の停止し、敷地と建物は文部省に売却した。 三井文庫の所蔵史料は文部省史料館に寄託された。、、、、、、その三井文庫の倉庫が2棟あったが、現在は1棟が残され、外観をそのままに防災備蓄倉庫として活用されることになった。、、、、、倉庫は鉄筋コンクリート3階建て、大正7年(1918)竣工の第一倉庫(取り壊し)と、大正11年(1922)竣工の第二倉庫(現存)があった。 設計は東京帝国大学営繕課長の山口孝吉(1873~1937)である。 震災後、窓の数を減らし、開口部には人造石研ぎ出しの防火戸を増設し、防火対策を施した。
⑦戸越八幡神社・・・・・・・・・・・・戸越2丁目、町の中央に戸越八幡神社がある。 大永6年(1526=戦国時代:千利休が生れた年)、諸国を行脚していた行永法師が村内の籔清水水源地で八幡様の御神体を見つけ草庵に祀り、その後、京都の石清水八幡宮の分霊を勧請して、共に祀ったのが創立の起源とされている。、、、、、、さほど広くはない境内であるが、鳥居から社殿まで石畳の参道は長く、両側には緑を植え込み綺麗に手入れがされている。、、、、、、現在の欅造りの社殿は、安政2年(1855=江戸時代)に入母屋造りで再建された。 震災・戦災を免れ、都内では古い建築の一つである。
⑧戸越駅・・・・・・・・・・・・昭和43年(1968)11月15日、都営1号線(現浅草線)の駅として開業。 島式ホーム1面2線の地下駅である。 今日は歩かなかったが、駅北側には全国の「〇〇銀座」の草分けである戸越銀座商店街がある。
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