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2017年1月

2017年1月31日 (火)

チョイと、散歩は休み

我が家の通信・ネットワーク環境が、チョイと複雑で、この度整理することにした。

現在、我が家では、固定電話(デジタル)はNTT、TV(地デジ)とインターネット(プロバイダー)はJ:COM、BSは自前のアンテナで受信、ブログとメールはniftyを利用している。 さらに、年寄りの私にとって、理解を複雑にする、電話の無線子機が4台、インターネットの無線ルーターが1台、電話機を共用するインターホンなど、、、、、、仕組みはどんどん複雑になり、通信費は高く年金暮らしの家計を圧迫し、ア~~~もうイヤ!

なんで、こんな複雑に?、、、、、、、話せば長い話で、手短に説明すると、力道山の頃は自前のアンテナでテレビを視聴していた。 平成14年(2002)頃、日本橋三井タワー(三井本館・千疋屋の超高層ビル)の建設工事による電波障害を防止するため、日本橋から浅草橋地区にかけて影響を受ける地域に、専用の有線設備が設けられた。 さらに、平成25年(2013)地デジの電波が東京タワーから東京スカイツリーに変わり、この時点で三井タワーによる影響はなくなり、J:COMの有線チャンネルを利用することになった。 この間に、BS放送は自前のアンテナで視聴し、インターネットはNTT→J:COMに変わった。
:2月中旬からは、固定電話とインターネット回線はNTTの光回線に移行し、プロバイダーとブログの利用はniftyにし、TVはデジタル、BSとも自前のアンテナで視聴することにした。、、、、すべての工事が完了するとJ:COMとの契約は不要となり、通信費の総額も下がることになる。

工事はNTTと電機屋に相談し、2月8日前後に順次行う予定である。、、、、全ての切り替え工事が、順調にいってくれることを願い、連日関係者と調整中。
 
 

・・・・・・・・・・・・・・川を見つめる背に、北風が吹き、寒いな~~~
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2017年1月29日 (日)

鉄道の隅田川橋梁

隅田川の橋、上流から数え14・15・16番目は、千住大橋の下流に束になって架かる、JR常磐線・つくばエクスプレス・地下鉄日比谷線の各隅田川橋梁である。 今日は、南千住駅からあるきはじめ、千住大橋で隅田川を越えて、東武伊勢崎線の牛田駅まで、1万1千歩の散歩です。



鉄道の隅田川橋梁群・・・・・・・・・JR常磐線、つくばエクスプレス、地下鉄日比谷線の各隅田川橋梁が、右岸:荒川区南千住と左岸:足立区千住関屋町をとおり、平行に架橋されている。、、、、、両岸ともカミソリ堤防と、堤防ギリギリに建てられたマンション・工場で河岸に出ることが難しい。 写真撮影は困難を極め、不法侵入罪を覚悟し、チョイと内緒でパチリ・パチリ!
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・・・・・・・・・・・・・・・南千住駅から、JR貨物の隅田川駅 の脇を抜け、 南千住8丁目の高層集合住宅に向かう。、、、、、“勝手知ったる他人の家”で、なんの躊躇もなく、断りもなく、スタコラ・サッサとお邪魔し、防犯カメラに私の姿を残してきた。
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・・・・・・・・・・・・・・高層ビルからの写真、、、、、地下鉄日比谷線の車両基地と、その後ろ(写真中央)に隅田川橋梁群が見える。

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・・・・・・・・・・・・・・日比谷線南千住駅から引き込み線が出ている、検査と清掃を行う千住検車区(車両基地)は昭和36年(1961)3月28日に発足した。、、、、、この敷地、もともとは国鉄の隅田川貨物駅の一部であった。 当時、常磐線で運ばれてきた石炭を、隅田川に面するこの場所から、船積みし東京の各地に運んだそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・・・3橋梁の揃い踏み。、、、、マンションの間からパチリ!、、、、、左から、常磐線隅田川橋梁(左:上流側)、つくばエキスプレス隅田川橋梁(中央)、日比谷線隅田川橋梁(右:下流側)。、、、、、上流の2橋梁は、JR東日本が発注した橋梁で、鋼下路曲弦ワーレントラス橋、橋長128.4mで、同じデザインで設計されている。 常磐線の橋梁は平成14年(2002)竣工、つくばエキスプレスの橋梁は平成15年(2003)竣工。 日比谷線の橋梁は、下路式ワーレントラス橋で、橋長は約131m、昭和37年(1962)竣工。

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・・・・・・・・・・・・・・橋梁を右岸上流側から順に撮影

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・・・・・・・・・・・・・・上流の千住大橋(新橋)から見る隅田川橋梁群

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・・・・・・・・・・・・・・下流側から見ると、、、、、どちらから見ても、3橋のトラスが重なり見ずらいね!

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日枝神社・・・・・・・・・・荒川区南千住7丁目に、歯神:山王清兵衛を祀った祠がある。 江戸時代は山王社と呼ばれた旧中村町(千住宿)の鎮守であり、正和5年(1316)に創建されたそうだ。、、、、いずれかの藩士清兵衛が虫歯の痛みに耐えかねてこの地で切腹し、遺言によってその霊を祀ったという。 俗に山王清兵衛とよばれ、歯痛に悩む者が祈願して効き目があれば、錨をくわえた女性の絵馬を奉納する慣わしで、千住の歯神として有名であった。、、、、、今は、境内の周囲に策がめぐらされ、中に近寄ることはできない。

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岡田商事引込線跡・・・・・・・・・・荒川区から千住大橋を渡り足立区に入り、墨堤通りを京成本線沿いに京成関屋駅の方に向かうと、千住関屋町で京成本線の下にレールの跡が残されているのを見ることができる。 レールの先は墨堤通りを横断し、東武伊勢崎線に向いている。 間違いなく、伊勢崎線から分岐していた跡だ!、、、、、鉄道省の時代、東武鉄道は自由に北千住駅を使うことができなかったため、大正13年(1924)、鉄道省管理の北千住駅から外れた現在の千住東に「中千住駅」を開業した。 昭和19年(1944)、さらに中千住駅から隅田川まで貨物線を伸ばし、市街の住民のウンコ(糞尿)を積んだオアイ船から、列車にウンコを積み替え、埼玉方面の農家に肥料を運んだ。、、、、現在は、岡田商事という鉄骨解体業者の敷地で、残っているレールはこの時の貨物線の跡である。

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2017年1月27日 (金)

京成本線隅田川橋梁~千住大橋

隅田川上流から10番目の橋は京成本線隅田川橋梁、11番目は東京電力送電橋、12番目は千住水管橋、13番目は千住大橋。 今日の散歩は、10番目から13番目までの4橋を歩いてきた。 地下鉄千代田線町屋駅から京成本線千住大橋駅まで、1万2千歩。



・・・・・・・・・・・・・・・・下の航空写真は平成4年(1992)撮影。 上水千住水管橋が写っている。
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上水千住水管橋跡・・・・・・・・上流の尾竹橋と、下流の京成本線隅田川橋梁の間に、今は無き「上水千住水管橋」があった。 都水道局の上水管が隅田川を越えていたが、老朽化と耐震性問題により平成25年(2013)5月に撤去された。、、、、水管橋のあった位置には、かつて「一本松の渡し」があり、千住と町屋を結ぶ生活路でもあったそうだ。、、、、写真:カミソリ堤防が行く手を阻み河岸には出られない、行き止まりの道の正面に水管橋はあったが、その痕跡は何も残っていない。、、、、、残っていれば、最上流から10番目の橋梁だ!
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・・・・・・・・・・・・・・・こちらは、上水千住水管橋跡と京成本線隅田川橋梁の間で、写真の行き止まりの道路下に地下鉄千代田線が走っている。 道路の先は隅田川のカミソリ堤防。

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京成本線隅田川橋梁・・・・・・・・・・三河島水再生センターの北側で隅田川を渡る京成本線。 この付近の隅田川はカミソリ堤防で河岸が遮られ、隅田川橋梁に近づくことが難しく撮影には苦労した。、、、、、京成本線の上野~青砥間の開業は昭和6年(1931)なので、隅田川橋梁もこの頃の架橋と思われる。 橋長約125mの下路トラス橋。

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・・・・・・・・・・・・・・・撮影の邪魔するカモメに、カラスに、ハトポッポ。 堤防は糞で汚れ、糞を踏んだ私は、糞害に憤慨し、フ~~ン!

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・・・・・・・・・・・・・・右岸(荒川区南千住)から、薄曇りの下流を望む。

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東京電力送電橋・・・・・・・・・・荒川区南千住と足立区千住橋戸町に架かる、東京電力の送電用の専用橋。 細めのアーチリブが華奢に見える鋼タイドアーチ桁橋で、長さ約104m。 昭和38年(1963)の竣工か(?)

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千住水管橋・・・・・・・・千住大橋の上流側に東京都水道局の工業用水道専用橋がある。 この工業用水は隅田川左岸の墨田区、江東区、江戸川区の地盤沈下対策を目的に供給しているもの。、、、、、千住大橋のスグ脇に架けられているため、震災復興橋としての名橋である千住大橋の姿を見るのに邪魔な存在である。 どかして欲しいね!

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千住大橋・・・・・・・・・関東大震災復興橋のひとつ。 親柱や電灯が復元されている。 下流側に昭和48年(1973)竣工の新橋がくっついている。


・・・・・・・・・・・・・旧橋は、昭和2年(1927)12月12日に竣工した鋼タイドアーチ橋。 現在は日光街道の下り線専用となっている。 設計は白鬚橋も手掛けた増田淳(1883~1947、橋梁技術者)である。

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・・・・・・・・・・・・・・・新橋は、南千住交差点から始まる橋長502.5mの3径間連続鋼箱桁橋で、昭和48年(1973)2月に開通した。 車は上り専用である。 旧橋と隣り合わせで架かるが、旧橋より高い位置に架かる。

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2017年1月25日 (水)

尾竹橋

隅田川上流から9番目の橋梁は尾竹橋。 地下鉄千代田線町屋駅から尾竹橋通りを歩き、尾竹橋、西新井橋を渡り、東武伊勢崎線梅島駅まで、1万2千歩の散歩です。




町屋の尾竹橋通り・・・・・・・・・荒川区の町屋駅前を北上し、尾竹橋で隅田川、西新井橋で荒川を越え足立区竹ノ塚方面に伸びる尾竹橋通り。 ここ町屋付近では、両側に店も並ぶ、賑わいのある大通りだ。

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尾竹橋・・・・・・・・荒川区町屋と足立区千住桜木町を結ぶ橋。、、、、橋名は、かつてこの地にあった「尾竹の渡し」にちなむ。 尾竹の渡しとは、渡しの近くにあった茶屋の看板娘の名が「尾竹」であったといわれている。 女性の名が橋名となった橋は、全国にたくさんあるようで、一つも思い出せない。 情けない!、、、、、、昭和9年(1934)3月に震災復興事業の一環として架けられた。 当時の橋は長さ132mのゲルバー桁橋であった。 現在は、橋長130.3m、幅員15.0m、3径間連続ローゼ桁橋。 平成4年(1992)の竣工。 シンプルな橋で、すっきりしている。 【補足】ゲルバー桁橋とは、連続する桁の途中に適当にヒンジを入れて、地盤沈下などの変形による荷重を全体に及ぼさないようにした構造の橋。

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・・・・・・・・・・・・・・橋上から、上流側、下流側を望む。、、、、、寒いが、風はなく、穏やかな川面である。 
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千住桜木・・・・・・・・・・・尾竹橋を渡ると、北千住の町の西端に位置する足立区千住桜木に入る。 ここには、下町育ちのワンパク中高年が知る、「お化け煙突 」があった。 尾竹橋通りはこの町の中を抜け、西新井橋に続く。
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西新井橋・・・・・・・・・・足立区千住桜木と対岸の足立区本木・関原を結ぶ、橋長444.6mのゲルバー箱桁橋。 昭和30年(1955)に着工し、昭和36年(1961)に竣工した。 下部工は大林組の施工。、、、、、、西新井橋が最初に開通したのは大正11年(1922)の木橋である。 当時、左岸の本木・関原地区は「東京府南足立郡西新井村」の一部であった。 右岸の千住桜木地区も、同じ西新井村の一部あった。 つまり、両側とも西新井村の一部で、村内の橋として、橋名「西新井橋」はすんなり決まったようだ。

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・・・・・・・・・・・・・・昭和30年(1955)頃の西新井橋(木橋)。 後方の煙突はお化け煙突。

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・・・・・・・・・・・・・・【余談】 昭和38年(1963)の日活映画:シネマスコープ、総天然色、キャスト:吉永小百合、松原智恵子、橋幸夫、浜田光夫 『いつでも夢を』を、ぜひぜひご覧あれ!、、、、、昭和37年(1962)のレコード大賞受賞曲の映画化作品である。 東京下町の工場地帯を舞台として、看護婦のひかる(小百合)、夜学へ通う工員の勝利(浜田光夫)、新入り運転手の留次(橋幸夫)がおりなす、ひかるをめぐる恋の争奪戦。 日活の得意の青春映画、、、、私の好きなパターンの映画で、観賞後の気持ちは小百合の相手役になりきりって、しばし悦に入る。、、、、、ところで、この映画のロケ地が西新井橋周辺である。 小百合が自転車で渡る木橋の西新井橋、背後に見えるお化け煙突、浜田光夫と手をつないで荒川土手を駆け降りる小百合、随所に当時の懐かしい場所が登場する、必見!

 


・・・・・・・・・・・・・上流側を望む。 今日も富士山が遠望できた!

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梅田稲荷神社・・・・・・・・・・足立区梅田5丁目に、梅田町の鎮守である稲荷神社がある。 創建は平安時代末期らしい???

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2017年1月23日 (月)

尾久橋・日暮里舎人ライナー隅田川橋梁

隅田川の橋梁めぐり、今日は7番目の尾久橋、8番目の日暮里舎人ライナー隅田川橋梁を見て、連続して荒川に架かる扇大橋、日暮里舎人ライナー荒川橋梁も見てきた。 JR田端駅から、日暮里舎人ライナー扇大橋駅まで、1万3千歩の散歩です。



東灌森稲荷神社・・・・・・・・・・田端駅から北東に300m程歩くと、北区東田端1丁目に東灌森稲荷神社 (とうかんもりいなりじんじゃ)がある。、、、、太田道灌が江戸城築城の際、方除け守護神として、江戸周辺に七つの稲荷社を祀ったと伝えられている。 即ち柳森稲荷社烏森稲荷社椙森稲荷社・雀森稲荷社・吾妻森稲荷社・宮戸森稲荷社、そしてここの東灌森稲荷社である。、、、、、神社入口の石鳥居は吉原遊郭の尾張屋彦太郎が安政4年(1857)に奉納したもので、江戸下町に多かった稲荷信仰の一つである。、、、、、今は、地元の有志によって守られている神社のようだ!
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尾久銀座/はっぴーもーる熊野前・・・・・・・・・・荒川区東尾久4丁目の中央を南北に貫く下町の商店街が「尾久銀座」。 東尾久5丁目に入ると「はっぴーもーる熊野前」商店街が続き、二つの商店街が約800mの長さでつながっている。 北端は、都電荒川線の「熊野前停留場」の正面である。

・・・・・・・・・・・・・・・商店街の南端(東尾久4-21)にある「尾久銀座」のアーチ。

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・・・・・・・・・・・・・・店開きの準備中! 昭和34年(1959)に設立し、50年以上経過した元気そうな商店街だ。

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・・・・・・・・・・・・・・商店街の中程のスーパーの2階に、かつて「尾久セントラル劇場」という映画館があった。 30年ほど前にすでに閉館した映画館だが、2階の外壁にはいまだ当時の看板が残されている。 「各社特選映画上映」、「毎週土曜日オールナイト」、「冷暖房完備」、懐かしい単語が並び、嬉しくなる看板である。、、、、チョイと2階へ上がってみると、入場券売り場と思われる窓と入口がある、残念だがシャッターが下りている。 ここで、三本立てのピンク映画、ヤクザ映画を観て育った学生も、今は立派な大人になっていることだろう!?

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・・・・・・・・・・・・・・尾久銀座の北端は、「はっぴーもーる熊野前」の南端である。 二つの商店街のアーチが重なる。

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・・・・・・・・・・・・「はっぴーもーる熊野前」の商店街は、万国旗の飾り付けでお出迎え。 まだ開店前で人通りも少なく寂しいが、昼過ぎには活気ある商店街になるだろう。

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・・・・・・・・・・・・・・商店街の北の端。 アーチの前は都電「熊野前停留場

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尾久橋/日暮里舎人ライナー隅田川橋梁・・・・・・・・・・・隅田川に出ると、上流側に尾久橋通り(=都道58号)を通す尾久橋(おぐばし)が架かる。 下流側に日暮里舎人ライナーの隅田川橋梁が平行して架かる。

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・・・・・・・・・・・・・・尾久橋は荒川区東尾久と北岸の足立区小台を結ぶ、全長176.0 m、幅24.0 mの、3スパン連続鋼床版箱桁橋。 昭和43年(1968)に完成。、、、、、隣の日暮里舎人ライナーの隅田川橋梁は、平成20年(2008)の全線開業に合わせ完成した。

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・・・・・・・・・・・・・・尾久橋から、上流側(小台橋)、下流側(尾竹橋方向)を望む。

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・・・・・・・・・・・・・・・尾久橋を渡った先に、日暮里舎人ライナーの「足立小台駅」が見える。

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扇大橋/日暮里舎人ライナー荒川橋梁・・・・・・・・・・・・・尾久橋に連続して扇大橋が架かる。 また、隣を走る日暮里舎人ライナーも隅田川橋梁に続き荒川橋梁となる。、、、、左岸側(足立区扇側)では、扇大橋の上を首都高中央環状線がクロスし、さらにその上を日暮里舎人ライナーが走る。 それゆえ、日暮里舎人ライナーの荒川橋梁は怖いくらいの高さにある。

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・・・・・・・・・・・・・・扇大橋(おおぎおおはし)は、3径間連続鋼ゲルバー式桁/連続箱桁橋、橋長445.4m、幅員26.0m、昭和49年(1974)の竣工。、、、、、、、日暮里舎人ライナー荒川橋梁は、4径間鋼箱桁、橋長610.8m、幅員12.8m。 平成18年(2006)に竣工した。

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2017年1月21日 (土)

小台橋・江北橋

隅田川最上流から6番目の橋である「小台橋」を目指し、田端駅から歩いた。 駅から北へ向かい、明治通りを越えたら「旧小台通り」を抜けて小台橋を渡る。 橋を渡ると、荒川区西尾久から足立区小台に変わり、先日渡った豊島橋の先にある江北橋で荒川を越えて、日暮里舎人ライナーの扇大橋駅まで、1万3千歩の散歩です。




旧小台通り・・・・・・・・・・・荒川区西尾久の町の中央部を南北に抜ける全長780m程の昔ながらの商店街。

・・・・・・・・・・・・商店街の南端(西尾久1-24先)には、「小台・銀座」のアーチと「旧小台通り」の道標。

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・・・・・・・・・・・・・・・只今、朝の8時40分、まだ店も開いてない。 人通りも少ない。

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・・・・・・・・・・・・・・商店街の中ほどで、ここから街路灯も変わり、別な商店街となるようだ。 道筋の雰囲気は変わらない。

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・・・・・・・・・・・・・・・商店街の中にある病院。 明治42年(1909)に「佐藤医院」として創設し、大正7年(1918)に「佐藤病院」に改称した。、、、一般病棟60床、療養病床38床の地域の中核病院か(?)

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・・・・・・・・・・・・・商店街の地元スーパーは、開店の準備の品揃え中。

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・・・・・・・・・・・・・・商店街の北端は都電小台停留場前。 右側の細い道が旧小台通り、左の広い道は田端駅前から小台橋に通じる都道458号。

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寶蔵院・・・・・・・・・・・小台橋の南詰にある新義真言宗の寶蔵院は金亀山寶蔵院地正寺と号す。 寛永10年(1633)に創建したといわれている。、、、、、本堂前にウメの花がほころんでいた。

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小台橋・・・・・・・・・・・足立区小台は隅田川が大きく蛇行する位置にあり、北側の荒川と南側の隅田川に挟まれた中州状のところである。 その小台地区と荒川区西尾久を結ぶ橋が小台橋(おだいはし)。 小台橋が最初に架けられたのは、昭和8年(1933)で、関東大震災後の復興事業であった。、、、、、現橋は平成4年(1992)に、橋長122.0mの鋼ニールセンローゼ桁橋として架けられた。  【補足】 桁とアーチ部材の両方で、橋を曲げようとする力に対応する構造の橋をローゼ橋と呼ぶ。 桁とアーチの間に、斜めに張ったケーブルを配置した形式をニールセン・ローゼ橋(Nielsen Lohse Bridge)と呼ぶ。

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・・・・・・・・・・・・・・上流側、下流側を望む。 荒川区側は親水堤防、足立区側は切り立ったカミソリ堤防となっている。 いずれ、足立区も親水堤防に改良してくれるだろう?

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江北橋・・・・・・・・・・・江北橋(こうほくはし)は、荒川にかかる橋で、右岸(南岸)は足立区宮城、左岸(北岸)は足立区江北で、都道307号を通す。 大正12年(1923)4月21日に、木桁橋で開通したが、同年9月に関東大震災で破壊し、大正14年(1925)に架け替えられた。 現橋は、昭和47年(1972)に架け替えられたものである。 鋼カンチレバーランガー桁橋で、橋長は449mと長い! 都心部では長い橋の一つで、渡り終えるまでチョイと時間がかかり、頬にあたる北風がやたら冷たく感じ、久しぶりに顔面神経麻痺の再発を恐れたが、どうやら再発は免れたみたいだ。 【蛇足】顔面神経麻痺は、冷たい風が顔の一方にあたることで発症するそうだ。 私は過去3回経験しているので、間違いなし!

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・・・・・・・・・・・・・・江北橋の上流側には、首都高中央環状線の五色桜大橋(ごしきざくらおおはし)が架かっている。 2層構造のダブルデッキニールセンローゼ橋で、純白の二本線が真横に伸び、カッコいいね! 平成14年(2002)12月25日開通。

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・・・・・・・・・・・・・・江北橋を渡り、荒川左岸から見る富士山。、、、、、私は、どうも典型的な日本人で、富士山を見ると嬉しくなり、カメラでパチリ!

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2017年1月18日 (水)

豊島橋・首都高中央環状線隅田川橋梁

隅田川の上流から数えて、4番目の豊島橋、5番目の首都高中央環状線隅田川橋梁を見てきた。 王子駅から首都高中央環状線沿いに歩き、豊島五丁目団地を覗き豊島橋を渡り足立区に入り、川岸をしばらく歩き、王子駅に引き返す、1万4千歩の散歩です。



首都高中央環状線隅田川橋梁・・・・・・・・・・・隅田川右岸の北区堀船と左岸の足立区宮城の間に架かり、平成14年(2002)12月に王子線(板橋JCT~江北JCT間)が開通した。 この開通に合わせ隅田川橋梁も架橋されたと推測される。、、、、、隅田川の上を、上下2層の連続トラス橋で越え、“橋梁”と言うより、“高架橋”と言う感じである。、、、、、今日は、王子駅から豊島橋の先まで首都高沿いに歩いてきた。

・・・・・・・・・・・・・・飛鳥山をトンネルで抜け、石神井川沿いに隅田川へ向かう首都高
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・・・・・・・・・・・・・・・石神井川と隅田川の合流点。 頭上を首都高が走る。

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・・・・・・・・・・・・・・・隅田川を越える首都高中央環状線隅田川橋梁

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・・・・・・・・・・・・・・川を越えると左岸(写真左側)沿いに、足立区宮城を抜ける。

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・・・・・・・・・・・・・・・・豊島橋東詰の頭上を直進し、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・・首都高は写真:奥へ進み、江北橋に並行して荒川を越える。 写真左、隅田川が左奥から大きく蛇行し豊島橋に流れ来る。(この付近に、昔、渡しがあったようだ。)

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下道地蔵尊・・・・・・・・・ずらりと18体の石仏が並ぶ下道地蔵尊。、、、、、 このへんは、明治以前は豊島村・領家集落の北の外れで、川と田んぼが広がる田舎であった、この辺には多くの石仏がたたずんでいたと思われる。 都市化とともに、各処にあった石仏が集められ、今となった。、、、、、“下道(しもみち)”とは、この辺りから下(しも、現:北区志茂)に向かう道があったことから地名として、このように呼ばれていたそうだ。

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豊島五丁目団地・・・・・・・・・・隅田川が大きく曲がる北区豊島5丁目に建つ公団住宅。、、、、鉄筋コンクリート造、14階建て、総戸数4959戸(12棟)、昭和47年(1972)8月~昭和48年(1973)10月の竣工である。、、、、、この団地は、日産化学工業王子工場の跡地に開発された大規模団地である。

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・・・・・・・・・・・・・・団地内のショッピングモールを覗いてみた。、、、、おや! 閉店した店もあるようだ。

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・・・・・・・・・・・・・・チョイと“A”型の平面をした高層棟を見学することに、、、、、奇数階止まりのエレベータで9階でおりた瞬間、エレベータのロープが切れていたらと考え、ぞ~~っとした。 9階の窓のない廊下から外を見ると、もし風で飛ばされたらと考え、また、ぞ~~っとした。 廊下のつなぎ目の鉄板の上を歩き、もし錆びていたらと考え、またまた、ぞ~~っとした。 私の若い頃は、ゼネコンで集合住宅の現場を担当し、足場の上も平気で歩いていたが、歳をとり高所恐怖症になってしまった。 自分の足元が不安な場所、足元が不安になる想像をすると、怖いのだ。、、、、、もう私は、高層住宅に住めそうもないね!

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豊島橋・・・・・・・・・・・・豊島橋(としまはし)は、隅田川を挟む、北区豊島と足立区宮城を結ぶ橋。、、、、、もともと現在の橋の上流300mほどの隅田川が大きく蛇行する処に、鎌倉時代から続くと渡しがあったそうだ。 この場所に、大正14年(1925)、木橋の豊島橋が架けられた。 昭和35年(1960)に下流の現在の位置にゲルバー式鋼製桁橋が改架された。 そして、平成7年(1995)に地盤沈下と老朽化によって再度改架されることとなり、7年の工事期間を経て平成13年(2001)に現在の橋が架けられた。、、、、、、、単純下路式鋼ローゼ桁橋で、橋長は106.7mである。、、、、、、シンプルな桁で瘦せ型の女性のようなデザインの橋だ!

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2017年1月17日 (火)

新田橋・新豊橋

今冬“最強の寒波”も和らいだようだが、今日はチョイと厚着で散歩に出た。 隅田川に架かる橋の続きを歩こうと、東十条で下車し、新田橋・新豊橋を渡り王子駅まで、1万2千歩です。、、、、、厚着して、失敗! 暑い暑い、汗で濡れ、足が止まると、寒い寒い、寒暖の変化が激しく、風邪ひきそうだ。
 



旧北王子駅・・・・・・・・・「北王子駅」と聞いて“ピン”ときた人は鉄道オタクである。、、、、、北区田端信号場駅と北王子駅(貨物駅)を結ぶJR貨物の専用線路(北王子線)がかつて敷かれていた。 平成26年(2014)3月に、日本製紙(旧王子製紙・十條製紙)への引き込み線(北王子支線)は廃線となった。、、、、、日本製紙跡地は、「十条製紙」時代の昭和51年(1976)に、一部か公団住宅へと変わった。 その後、残されていた倉庫(日本製紙となり)も取り壊され、現在は2018年完成予定で、約1000戸(6棟)のマンションが建設中である。、、、、、跡地の西側の一般道は「桜田通り」と命名された桜並木である。 この並木に並行して、構内に敷き込み線があった。 今日来てみると、桜並木は残っているが、残念ながら敷き込み線は撤去されたようだ。
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・・・・・・・・・・・・・・・構内に引き込まれていた貨物線の踏切跡が残っている。

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・・・・・・・・・・・・・・・4年前(2013年)の今日(1月17日)撮影した、桜並木と踏切跡から見た構内。

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王子五丁目団地・・・・・・・・・十条製紙工場跡に建てられた住宅公団の団地。 鉄筋コンクリート造/14階ての団地は、昭和51年(1973)3月から入居が開始された。 全6棟(2,221戸)の大きな団地である。 約40年前の完成当時は、3DKで6万円の家賃が「日本一高い家賃」と報道された。(当時の物価は、岩波文庫100円、うな重1200円、鉛筆20円) ちなみに、現在の家賃は14万円程らしい。、、、、、当時、私の月給も6万円ぐらいだったかな? 

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豊島8丁目・・・・・・・・・・地下鉄南北線王子神谷駅付近から、庚申通り商店街の街路灯が並ぶ道を歩き新田橋に向かう

・・・・・・・・・・・・庚申通り商店街の入り口に祀られている庚申塔。 盗難防止か?厳重に庚申塔は守られ、外からは見えない。

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・・・・・・・・・・・・・・・まだ朝だ! 店はこれから開店だが、チョイと活気がなさそうだ!

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・・・・・・・・・・・・・・裏道に入ると豊島8丁目町会の守り神、豊八稲荷大明神が町会会館前に祀られていた。、、、明治43年(1910)に京都伏見稲荷神社に勧請し、祀った屋敷神。 戦後、町会で維持管理するようになったらしい。、、、、、、“大明神”とは、恐れ入谷の鬼子母神。

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・・・・・・・・・・・・・・大明神裏の路地にはリヤカーが立てかけてあった。、、、、大八車に変わりリヤカーが活躍した時代が懐かしいね!

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新田橋・・・・・・・・・・・隅田川の上流から2つ目の橋で、北区豊島8丁目と足立区新田(しんでん)3丁目に架かる橋。 5径間単純鋼桁橋、橋長は114.0m、昭和36年(1961)3月の竣工から50年以上経過した橋。 もともと「野新田(やしんでん)の渡し」という農業渡船があり、荒川放水路開削に伴って中州状に孤立した新田地区の交通路として利用されていた。 昭和14年(1936)に最初の木橋が架けられ、昭和36年に現橋に架け替えられた。 橋は足立区が管理している。、、、、、木橋時代の橋脚を模した、珍しいA字型の橋脚が、いいね! 

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新豊橋・・・・・・・・・・新田橋を渡り足立に入り、川岸を右手に向かえば、スグに新豊橋となる。 こちらは、足立区新田と北区豊島を結ぶ橋で、平成19年(2007)に架けられた、隅田川では比較的に新しい橋である。、、、、、単純箱桁・アーチ複合橋、橋長は105.0m、施主は新田地区に大規模な団地を造った独立行政法人都市再生機構である。 この橋は、桁橋をアーチで補剛する構造で形を洗練させた新たな橋梁形式のデザインで、周辺環境に調和した橋となっていることが評価され、「平成19年度土木学会田中賞(作品部門)」、「2007年度グッドデザイン賞」、「土木学会デザイン賞2009最優秀賞受賞」を受賞した。、、、、、女性のようなアーチ曲線が色っぽく、いいね!

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紀州神社・・・・・・・・・新豊橋を渡り、再び北区豊島地区に入ると、7丁目に紀州神社がある。 神社は、鎌倉時代後期、紀州熊野から来た鈴木重尚が豊島氏とはかり、 五十太郎神社を王子村に勧請したのがはじまり。

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2017年1月13日 (金)

新神谷橋

一昨日、隅田川が荒川から分岐する処にある岩淵水門を見たので、今日はその下流に架かる新神谷橋に行ってきた。、、、、、東十条駅から環七通りに沿って歩き、新神谷橋を渡り足立区に入り、鹿浜橋で荒川を越え、日暮里舎人ライナーの江北駅まで、1万3千歩の散歩となった。 (今日から、3年ぶりに、隅田川に架かる橋梁を順に歩いてみようと思う。)



神谷3丁目の寺社・・・・・・・・東十条駅の北で、環七通りが北区を東西に横断している。 その環七通り沿いに神谷3丁目の町がある。、、、、、現:神谷の町は明治初期には、ナント、浦和県(現:埼玉県)神谷村であった。 明治5年(1872)に東京府に編入される。 昭和7年(1932)に王子村と合併し王子区となる。 昭和22年(1947)には王子区と滝野川区が合併し北区に所属する。

・・・・・・・・・・・・・柏木神社、、、、、、柏木神社は、元享年間(1321~1324)に荒川(現:隅田川)に面した地にて、伊邪奈美命(女神)を祭神にして神谷村の鎮守として創建した。 「安産の神」として崇め、荒川を上り下る舟の安全を祈る「航行の神」としても有名であった。 その昔は社域は広大で、神楽殿もあり、多くの樹木の聳える荘厳な森に囲まれていたが大東亜戦争が激化するに伴い、境内は軍需工場に接収され、昭和18年(1943)12月現在地に遷宮された。 昭和54年(1979)8月、現社殿が建立された。、、、、、、“安産の神”は70過ぎの爺には、お呼びでないね。 賽銭もケチり50円にした。
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・・・・・・・・・・・・・・自性院、、、、、、、真言宗智山派の自性院は、江戸時代末期には創建されていた古い寺である。 自性院参道の両側には数基の庚申塔が並んでいる。 それぞれが年代物のようだ、石仏の盗難にあわねば良いが!

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新神谷橋・・・・・・・・・・・北区神谷地区と足立区新田地区を結ぶ橋で、岩淵水門の管理橋を別とすれば、隅田川最上流の橋となる。 もともとは、「宮堀の渡し(神谷の渡しとも云う)」があったところである。、、、、、現在の新神谷橋より南へ100mほど行った処に「神谷堀」と呼ばれる堀があった。 ここに昭和25年(1950)、鋼桁橋の神谷橋が架けられたが、昭和52年(1977)に堀は埋め立てられ橋は撤去された。 新神谷橋は、この橋にちなみ命名された。、、、、新神谷橋の開通は昭和40年(1965)2月12日。 全長153.1mの3スパン ゲルバー鋼桁橋。 橋が架けられた昭和40年、隅田川は工場排水などで真っ黒な川であった。 今は川も澄み、魚も住み、当時の川を想像するのも難しいかも。

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・・・・・・・・・・・・・・上流側、下流側を望む、、、、、親水堤防のある方が北区。 切り立った堤防のある方が足立区。

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足立区新田1丁目・・・・・・・・・・隅田川が蛇行し膨らんだ部分が、荒川放水路掘削時に中州のように残された地域が“新田”である。 新神谷橋で隅田川を渡り、鹿浜橋で荒川を越えるまでの間の地域である。、、、、今日は環七通りの北側の新田1丁目を歩いてきた。


・・・・・・・・・・・・・・新田稲荷神社、、、、、、隅田川の岸に近い処にある神社で、創建は元禄10年(1697)と言われている。 社殿は戦災により焼失し、現社殿は昭和22年(1947)に再建された。、、、、、、、境内には「宝暦六年丙子四月」(1756)の彫がある庚申塔もある。

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・・・・・・・・・・・・・新田一丁目アパート、、、、、、鹿浜橋の西詰に建つ都営住宅。 昭和42年(1967)から昭和43年(1968)にかけて建てられた、2DK、3DKの間取りで、568戸(12棟)の団地である。 老朽化、耐震化、バリアフリー化の要求もあり、そろそろ建て替えかな?

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鹿浜橋・・・・・・・・・・・・荒川に架かる橋で、足立区新田地区と鹿浜地区を結ぶ。 昭和40年(1965)に開通し、橋長は451.3m、プレートガーダー橋。 下部工の施工は戸田建設と野口建設。

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・・・・・・・・・・・・・上流の川口方向を望む、、、、、のんびりした光景に、しばし立ち止まる。

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江北駅・・・・・・・・・・・平成20年(2008)3月30日に開業した、日暮里・舎人ライナーの駅である。 線路は尾久橋通りの頭上にあり、駅も頭上だ!、、、、、本日の散歩はここまで。

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2017年1月12日 (木)

両国

先週受診したリンパ節のCT検査の結果を聞きに病院へ行ってきた。  先生から、『心配する必要はありません、異常なしです』  私は心の中で、『あたりきしゃりき車引きだ! 腫れているようだと、勝手に言ったのは、先生だぞ!』、、、、、、、とりあえず、何事もなく一安心。、、、、、帰りに、両国駅周辺をぶらつき、我が家へ戻った。


東京都慰霊堂・・・・・・・・昨年まで、改良工事が行われ、仮囲いの中にあった。 今日は工事も完了し、新たな姿の慰霊堂を見てきた。 約12億円かけた耐震補強工事であるが、見た目には依然と変わらず、白く綺麗になっただけ。、、、、、、大正12年(1923)の関東大震災で身元不明の遺骨を納め霊を祀る施設として、昭和5年(1930)に震災記念堂として建てられた。 昭和23年(1948)からは、東京大空襲の遺骨も合祀し、東京都慰霊堂と称することとなった。、、、、、、設計は伊東忠太(慶応3年(1867)~昭和29年(1954)、建築家、東京帝大名誉教授)、施工は戸田組(現:戸田建設)による、鉄骨鉄筋コンクリート造3階建て。 ちなみに、今回の改良工事も戸田建設JVが担当した。
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・・・・・・・・・・・・正面の大きな位牌に向かい(位牌の後ろの納骨堂に、16万3千体(711甕)の遺骨が収納されている)、線香をあげ合掌。
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東京都震災復興記念館・・・・・・・・・・・関東大震災の復興事業を記念するために、 震災記念堂の付帯施設として、昭和6年(1931)に防災資料展示館として建設された。 こちらは伊東忠太+佐野利器の設計、戸田組(現:戸田建設)の施工である。 鉄骨鉄筋コンクリート造2階建て。 帝冠様式のデザインで、外壁はスクラッチタイル貼りの建物。、、、、、現在は、関東大震災と一連の東京空襲の資料が展示されている。、、、、、資料を見ていると、自然に平和を祈る心になる。 黙祷!

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徳川家康公銅像・・・・・・・・・江戸東京博物館横に、江戸消防記念会より江戸東京博物館に寄贈された徳川家康の銅像がある。、、、、、江戸幕府を開いた徳川家康の遺徳を偲び平成6年(1994)6月に建てられた。 像高3.7m(台座からの高さ7.76m)、重量30tにも及ぶ大きな銅像である。 台座の亀については、水の都としての江戸を表現していると言われている。 さらに、亀の形をした動物を中国では贔屓(ひいき)と言い、元々川の神の名であって、亀の形をとってこの世に現れるそうだ。この幻獣は「不動」の象徴とされているらしい。、、、、いずれにせよ、私は考えすぎるようで、なぜか卑猥なものを想像してしまった。 失礼!

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両国駅・・・・・・・・・・去年末まで改装工事をしていた駅舎である。 前を通って、おや?、ビックリ、ドッキリ、ヒャックリ、お目目クリクリ、ナント! 駅舎が洒落た街になっていた。、、、、、現建物は、昭和4年(1929)12月30日に竣工した、鉄筋コンクリート造2階建てである。  建設では、軟弱地盤のため6mの松杭を2,000本余も打ち込んで建てられたそうだ。 ちなみに、設計は鉄道省建築課、施工は銭高組。、、、、時代は移り両国駅始発の列車は無くなり、今は緩行線が発着する中間駅となった。 それで、貴賓室まであった始発駅としての機能は不要となり、駅舎はこれまで飲食店2店が使用していた。 今回の改良工事では、駅舎をさらに大きく使用し「-両国-江戸NOREN」と称して、中央に土俵を配し、その周りに12の和食店が店を出している街ができていた。 相撲見物、江戸東京博物館見学の客を当て込んだ、美味しそうな町だ。 感動!

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2017年1月11日 (水)

岩淵水門

3年ぶりに、隅田川の最上流にある北区志茂の岩淵水門を見てきた。 京浜東北線赤羽駅から徒歩で往復し、1万1千歩の散歩です。



・・・・・・・・・・・現在の隅田川は北区志茂の新岩淵水門で荒川から分岐し、浅草・向島、浜町・深川、築地・月島を流れ下り、東京湾に注ぐ全長23.5kmの一級河川である。 途中で新河岸川・石神井川・神田川・日本橋川などの支流河川とも合流する。 流域には1か所の水門と39か所の橋梁が架かる。 最上流:岩淵水門の上流側に旧岩淵水門があるが、現在は水門の機能をはたしておらず、産業遺産として保存されている。


・・・・・・・・・・・荒川、、、、、、、江戸時代には、現在の隅田川が「荒川」と呼ばれていた。 この荒川の氾濫から江戸市中を守るため、下流部では、「日本堤」、「隅田堤」などが造られ洪水対策が進んだ。 しかし、千住地区など上流部では対策が進まず、氾濫の頻度は高まった。、、、、、、明治時代に入り、下流部の人口増加、工場立地など、帝都の発展は目覚ましいものであったが、明治43年(1910)の荒川の洪水は帝都に甚大な被害をもたらし、洪水対策として荒川放水路の基本計画が策定された。 計画では、上流部は岩淵から蛇行していた部分をショートカットする線形として、中流部は宿場町として栄えていた千住宿を迂回するルートとし、下流部は中川を横断しやや東にふくらませて中川河口に導くルートとした。、、、、、、荒川放水路は翌明治44年(1911)から開削工事が着手された。 工事規模は、総工事費31,446,000円(当時の大卒者の初任給35円)、延長22㎞(北区岩淵~江東区砂町)、掘削土量2,180万立米(東京ドーム18杯分)、橋梁新設17橋、土地買収1,098町歩(約11k㎡:北区の面積の約半分)であった。 工事は途中、関東大震災などで遅れたが、昭和5年(1930)に完成した。 まさに、20年の歳月を要したビッグプロジェクトであった。、、、、、、「荒川放水路」は昭和40年(1965)に正式に荒川の本流とされ、それに伴い岩淵水門より分かれる旧荒川全体が「隅田川」となった。 それまでは現在の千住大橋付近までが荒川で、それより下流域が隅田川と区別されていた。 ややっこしい話である。 ついでに、さらにややっこしくすると、隅田川の吾妻橋から下流は江戸時代「大川」と呼ばれてもいた。


・・・・・・・・・・・荒川放水路の開削には、人力はもとより、機械による掘削・浚渫も行われ、掘削土量は2,180万m2となり、東京ドーム18杯分になるそうだ。、、、、、また、私に似た優秀なエンジニアも投入された。 計画は原田貞介(1865年3月7日~1937年9月30日、ドイツに留学した後、内務省の技官となり、第8代日本土木学会会長)が行い、 工事は青山士(1878年9月23日~1963年3月21日、東京帝大卒、土木技術者、パナマ運河建設に携わる)が指揮する。



岩淵水門・・・・・・・・・岩淵水門(いわぶちすいもん)は、北区志茂にて現在の荒川と隅田川とを仕切る水門。 新旧2つの水門がある。 旧水門は通称:赤水門、新水門は通称:青水門と呼ばれている。 赤水門は大正13年(1924)に竣工し、現在は運用を終了している。 青水門は昭和57年(1982)に竣工し、現在運用中である。
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旧岩淵水門(赤水門)・・・・・・・・・・大正5年(1916)に着工し、大正13年(1924)に竣工した。 RC造の水門で、9m幅のゲートが5門ある。昭和35年には通船のために5番ゲートのみ改良された。 老朽化のため新水門の完成により役割を終えたが、土木遺産としての価値が認められ産業遺産、東京都選定歴史的建造物などに指定されている。
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・・・・・・・・・・・・・・上流側から見て、赤水門の左手にある島に、「草刈の碑」と標された大きな石碑がある。 これは昭和13年(1938)から昭和19年(1944)にかけて付近の荒川土手で行われた「全日本草刈選手権大会」を記念して作られたもので、「農民魂は先づ草刈から」と、碑文に記されている。 昭和13年は、国家総動員法が制定された年だ。 切実な時代の要請であったのか?、、、、、優勝賞品は草刈鎌と芝刈鎌のセットだったかも?

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岩淵水門(青水門)・・・・・・・・・・・昭和49年(1974)に着工し、昭和57年(1982)に竣工した新らしい水門(もう30年以上前の話で“新しい”水門ではないけどね!)。 約70億円の事業費をかけた、RC造、10.0幅のゲート3門の水門は、1500tの水圧に耐えられるそうだ。 200年に1回の大洪水にもバッチリ!、、、、200年経ったら、ここに来て水門があるか確かめようと思う。

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北区志茂でチョイと寄り道・・・・・・・・・・・・


・・・・・・・・・・・・・・黒田機器株式会社赤羽工場事務所、、、、、、麻布付近にあり、英国人住宅として使用されていた木造2階建ての洋館を、先代の社長が移築したそうだ。 昭和10年(1935)年頃の建築。 正面に出っ張ったサンルームが特徴的な建物である。

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・・・・・・・・・・・・・・八雲神社、、、、、、、、志茂5丁目と隣り合う、岩淵町22に鎮座する八雲神社は、江戸時代:日光御成道の第一の宿場として栄えた岩淵宿の鎮守さま。 祭神には須佐之男尊が祀られている。 創建年代不詳の古社だ。

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2017年1月10日 (火)

千葉縣護國神社

稲毛に行った帰り、稲毛駅から千葉大キャンパス、千葉縣護国神社を抜けて、千葉駅まで散歩してきた。



稲毛駅・・・・・・・・・2015年JR東日本管内の一日平均乗車人員の統計資料によると、稲毛駅は50,535人で管内93位である。 そして、私の住む浅草橋駅は53,954人で89位。 『稲毛に勝った!』と、喜びたいが、チョイと気持ちは複雑である。 稲毛駅には、キオスクがある、コンビニがある、飲食店がある、駅ビルがある。 浅草橋駅には、キオスクはないが自販機がある、コンビニもないが駅の外にある、飲食店については駅構内に立ち食いソバすらない、駅ビルはもちろんない、完敗である。、、、、もうすこし言わせてもらうと、我が浅草橋駅には書店がない。 読書の嫌いな人が多いのか? 本を買いたければ、秋葉原、日本橋、浅草へ行かないと買えないのだ。(愚痴になってきた!)
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千葉大西千葉キャンパス・・・・・・・・・・・戦後、千葉医科大学・千葉師範学校・千葉農業専門学校など7校を包括して、新制の国立大学として発足した。 現在は10学部、10,000人以上の学生を擁する総合大学である。、、、、ここ西千葉キャンパスは、戦前は陸軍の敷地で、戦中・戦後は東京大学の敷地であった。 現在でも、隣接する敷地に東京大学生産技術研究所がある。 現在の西千葉キャンパスには、文学部、教育学部、法政経学部、理学部、工学部の5学部がある。 広いキャンパス内には70棟以上の建物があるが、戦後の建物ばかりだ。

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西千葉稲荷大明神・・・・・・・・・・・西千葉駅の駅前ロータリーに赤い旗がなびき、お稲荷さんがコンコンと手招きしている。 ここらはその昔(江戸時代)、佐倉藩の刑場跡だったそうだ。 大明神の由緒書きによると、『江戸時代に与助と言う20代の若者が、ウナギを卸しているとある年長の女将さんと恋仲になり、それが発覚して西千葉の刑場で処刑をされることが決まった。刑場への道中、歯の強い男が与助の縄を歯で噛み切って、与助は江戸へと逃亡を図り、その後与助は小さな旅館で真面目に働き、その店は良く繁盛した。その後家族にも恵まれていたのであるが、与助の頭には自分が逃亡してきた西千葉で、他の処刑された人々への思いが募り、ある日西千葉へ出向き、小さな石を積み上げて供養した』のがはじまり。、、、、、、それにしても、駅前ロータリーの一等地に鎮座するとは、いい場所を確保したお稲荷さんだ!

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千葉縣護国神社・・・・・・・・・・・戊辰戦争から太平洋戦争に至るまで、国事に殉じた千葉県出身・由縁ある英霊を祀る神社。 合祀祭神は現在五万七千余柱。 (靖国神社の千葉県版と云うことだ!)、、、、、、、明治11年(1878)1月27日に初代県令の発起により、「千葉縣招魂社」として創建され、明治維新で亡くなった佐倉藩士16人の霊が祀られた。 昭和14年(1939)、招魂社の制度がを護国神社に改められ「千葉縣護國神社」と改称した。 元の鎮座地は千葉県庁公園内で、明治22年(1889年)に千葉神社境内に遷座し、さらに、昭和12年(1937)より亥鼻山への遷座がすすめられた。 昭和18年(1943)に新社殿が竣工したが、昭和20年(1945)の戦災で社殿を焼失した。 昭和42年(1967)に現在地(千葉市中央区弁天3)に遷座した。、、、、、、鉄筋コンクリート、切妻造り、妻入りの現社殿は昭和42年の建築。 スケール感ある、直線的なデザインで、出雲大社の現代版のような雰囲気がある。

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・・・・・・・・・・・・・・・社殿では、結婚式のPR用か(?)、写真撮影中。、、、、、私もモデルをやってみたくなった!

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・・・・・・・・・・・・・・神社に隣接する、千葉公園の一画には千葉県忠霊塔が建っている。 千葉県忠霊塔は、日清戦争以降の戦没者を追悼するとともに、恒久平和を祈念して県が建設し、管理しています。 昭和29年(1954)4月8日竣工。、、、、、毎年8月15日には、戦没者を追悼し、平和を祈念するため、知事をはじめ関係者の拝礼が実施されているそうだ。、、、、、忠霊塔の周辺にはいくつかの慰霊碑なども建てられていた。、、、、、邪魔する人もいない静かな場所で、慰霊碑に手を合わせて来た。

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千葉駅・・・・・・・・・千葉駅の勝手口とも云うような北口から駅に入る

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2017年1月 7日 (土)

大森~西馬込

JR大森駅から都営浅草線西馬込駅まで、1万1千歩の散歩です。


 
大森駅 ・・・・・・・・・・・チョイ寒の大森駅で下車し、『男、一匹、どこへ行く?』 『俺の行く先は、前を歩く娘だけが知っている』、、、、てな、ことで、山王口(西口)に出て、駅前の池上通りを南の蒲田方面へ足を進める。
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新井道架道橋・・・・・・・・・・・大森駅から南へ150m程のところに新井道架道橋がある。 上を走るのは、もちろん京浜東北線と東海道本線。、、、、架道橋があるのはすり鉢状に低くなっている処で、かつてここに新井川(現在は暗渠化されている)が流れていた。 架道橋は当初、木造であったが、明治11年(1878)に鉄製の橋に架け替えられ、現在は明治45年(1912)に架けられた3代目のプレートガーター桁橋(高さ2.4m)である。

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大森柳本通り商店街・・・・・・・・・・池上通り沿いに「ウィロード山王」と掲げたアーケードのある長い商店街。 まだ朝、開いてる店は少なく、駅に向かって歩く人ばかり。

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・・・・・・・・・・・・・・商店街の中ほどで、「新井宿義民六人衆霊地参道」の文字が目に入る。、、、、、『いつぞや来たことがある寺だ! 商店街はつまらないので、こっちに行こう!』と、私の足は参道を進むことに、、、、

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善慶寺・熊野神社・・・・・・・・善慶寺(山王3)に向かう“参道”と言っても、ただの裏道。 正面に善慶寺の山門が見える。

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・・・・・・・・・・・・日蓮宗寺院の法光山善慶寺は、天正年間(1573~92)に開創し、正応4年(1291)に善慶寺が創建された。 以来身延山末であったが、昭和16年(1941)に日蓮門下三派合同により顕本法華宗より今日の日蓮宗に包括された。 日蓮宗の古刹ということだ。、、、、、、江戸時代までは、山門奥にある山王熊野神社、及び新井宿春日神社の別当寺。、、、、、現本堂は昭和5年(1930)に建てられた。

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・・・・・・・・・・・・・本堂左手奥に、山王熊野神社の鳥居が見える。 写真の左側は墓地で、ここに新井宿義民六人衆の墓がある。

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・・・・・・・・・・・・・新井宿義民六人衆の墓とは(?)、、、、東京都教育委員会の掲示には以下のように記されている。  『江戸時代の荏原郡新井宿村は、家康の関東入府から幕末にいたるまで、旗本木原氏の知行地であった。四代兵三郎重弘の時代、延宝元年(1673)の旱魃、翌年の多摩川の氾濫による洪水や長雨などの天災で農民の困窮は甚だしく、過酷な年貢収奪に耐えかねた村民は、十九ヶ条の訴状を提出して年貢の減免を願い出た。この訴えは黙殺されたため、重立百姓六人は、将軍家綱に起訴(おっそ)しようとしたが、決行直前の延宝5年(1677)正月2日密告により捕えられ、神田橋門外にあった木原内匠邸(現:千代田区内神田1)で処刑されたといわれている。   新井宿義民六人衆による起訴事件は、村人の中に語り継がれ、延宝8年(1679)義民と縁故筋にあたる間宮藤八郎が、両親の墓を建てると称して六人の法号を刻んで密かに造立したのがこの墓石である。正面に父母の、裏面に六人の法名が刻み込まれており、台石の四方に花立と水入が取りつけられ、その間をくり抜いて連結し、一箇所に水を注げば四方に行き渡るように工夫されている。』、、、、、、簡単にまとめると、“直訴に失敗した6人の墓”ということか。

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・・・・・・・・・・・・・墓の後ろから、鳥居をくぐり急な階段を上り、山王の高台にある熊野神社に詣でる。

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・・・・・・・・・・・・・熊野神社の近くから眺める、、、、、オ~ゥ! 見晴らしがいいね!

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環七通り・・・・・・・・・山王の高台を下り、環七通りを越えると大田区南馬込の町に入る。

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・・・・・・・・・・・・・・暖かな気候のせいか、ウメが咲いている。、、、、、歩きながら口ずさむ、♪♪ 梅は咲いたか 桜はまだかいな 柳なよなよ風次第 山吹きゃ浮気で 色ばっかり ションガイナ ♪♪

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龍子記念館・・・・・・・・・・・・裏道を歩き大田区中央4丁目の出て来た先に、昭和38年(1963)、川端龍子画伯の喜寿を記念し、画伯自身の設計によって設立された記念館がある。 チョイと寄って行こうかと前まで行ったら、残念、只今特別展準備のため休館中であった。、、、、、、建物は昭和37年(1962)に建設。

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黒鶴稲荷神社・・・・・・・・・・・龍子記念館の西200m程に黒鶴稲荷神社がある。 神社の創建年代等は不詳であるが、桐ヶ谷村の鎮守社だった。 三代将軍家光の頃、当地付近の領主が境内で黒鶴を捕え、徳川将軍家に献じたところ、大いにこれを賞されたことから黒鶴稲荷と呼ばれるようになった。、、、、社殿は明治7年(1874)に竣工。

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西馬込駅・・・・・・・・・都営浅草線の駅で、線路はホームの先の車両基地まで伸びている。、、、、昭和43年(1968)11月15日、都営1号線の駅として開業。

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2017年1月 6日 (金)

西日暮里~駒込

西日暮里駅から、裏通りを気ままに歩き駒込駅まで、坂と寺社巡りとなった、1万2千歩の散歩です。



西日暮里駅・・・・・・・・・・・・昭和46年(1971)4月20日に開業した、山手線の駅としては最も新しい駅である。 接続する地下鉄千代田線の西日暮里駅は、昭和44年(1969)12月20日の開業である。 JRは田端~日暮里間に、千代田線との乗換駅として開業したため、隣駅との駅間距離も500m程で短い。 一般の改札口はガード下の小さな出入口のみで、地下には千代田線との連絡用の大きな乗り換え改札がある。 JRと地下鉄の“乗り換え客のための乗換駅”である。 その乗り換え客に、100m程離れた日暮里舎人ライナーからの乗り換え客も合流し、朝の駅は人の流れが絶えることはない。
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ひぐらし坂と向陵稲荷坂・・・・・・・・・・西日暮里駅の西側に名門受験校開成学園がある。 その開成高校のキャンパスを挟むように、東側には「ひぐらし坂」、西側には「向陵稲荷坂」がある。


・・・・・・・・・・・・ひぐらし坂、、、、、駅前歩道橋に続き開成高校の東側を上っていく坂。 坂の名は、平成2年(1990)、「ひぐらしの里」に因み、地元から要望によって、愛称として命名されたそうだ。 ナン~~ダ、ソレダケ!

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・・・・・・・・・・・・・・向陵稲荷坂(こうりょういなりざか)、、、、、、開成高校校舎と開成中学校舎の間を上る坂。 この一帯は古く道灌山であった。 坂の途中には向陵稲荷(佐竹右京大夫の屋敷に祀られていた)があり、坂の由来となる。 

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道灌山・・・・・・・・・・・開成高校の北側(ひぐらし坂を上った処)からは、JRの線路を見下ろすことができる。 日暮里4丁目の道灌山だ。 この山には、かつて秋田藩主佐竹右京大夫の屋敷があった。 屋敷の見晴台からは、筑波山、国府台(市川市)などを望むことができたそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・・道灌山から荒川区西日暮里4と北区田端1の区境を下る道灌山坂がある。 この坂も、地元の要望で平成18年(2006)に名付けられたそうだ。、、、、、地元の要望で命名してくれるなら、我が家の前の通りは「雅万歩横丁」と名付けてもらえないか(?) 区長に会ったら聞いてみよう。

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与楽寺・・・・・・・・・・北区田端1丁目に入り、真言宗豊山派の宝珠山地蔵院与楽寺に寄った。 与楽寺の創建年代は不詳であるが、弘法大師が寺院をこの地に建立したのが始まりだと言われ、慶安元年(1648)には寺領20石の御朱印状を拝領し、京都仁和寺の関東末寺の取締役寺を務めていた。

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・・・・・・・・・・・・・・只今、山門は基礎工事中で無い。 その姿の見えない山門前の坂を与楽寺坂という。 今はアパートとなり、面影は残っていないが、この坂の上に芥川龍之介が住んでいた。

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田端八幡神社~吉祥寺・・・・・・・・・・・・与楽寺から裏道を抜けると、田端八幡神社に出た。 これより、田端八幡神社、隣の東覚寺、不忍通りを越えて文京区本駒込3の天祖神社、吉祥寺までは、平成14年6月に歩いていた。 今日はダイジェスト版で!


・・・・・・・・・・・・・田端八幡神社、、、、、、、平成4年(1992)に再建され、翌年5月に遷座祭が行われた社殿

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・・・・・・・・・・・・・・東覚寺、、、、、、、昔は田端八幡神社の別当寺であった東覚寺。 今は、谷中七福神の福禄寿を祀り、商売繁盛を実践しているのか(?) 今日も七福神巡りの団体さんが参拝してる。

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・・・・・・・・・・・・・・天祖神社、、、、、、本駒込の天祖神社。 空襲により消失した社殿も、昭和29年(1954)新築し現在に至る。

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・・・・・・・・・・・・・・吉祥寺、、、、、、中央線の吉祥寺駅周辺には吉祥寺という寺はない。 ここ本駒込の吉祥寺門前の住人が五日市街道沿いを開発・移住したことにより、かつての地を偲び吉祥寺と命名したそうだ。

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神明都電車庫跡公園・・・・・・・・・・本駒込4の勤労福祉会館と都営住宅に隣接する公園。 かつて、ここには都電の神明町車庫があった、公園はその跡地である。 公園内には、都電6000形一両と、貨物車の乙2号一両が、雨ざらし状態で保存されている。、、、、、、都電6000形は290両が製造され、台数としては一番多い車両である。 保存されている6063号電車は、昭和24年(1949)3月に造られ青山車庫に配属され、その後、大久保車庫、南千住車庫を経て、昭和42年(1967)9月に神明町車庫に配属された。 3年後の、昭和45年(1970)12月に荒川車庫へ転属し、昭和53年(1978)4月に廃車となった。 きっと、私も南千住車庫の時代に乗ったことがある車両だろう。、、、、、、乙2号は、昭和16年(1941)に造られ、荒川車庫で資材運搬などで使われ、昭和46年(1971)3月に廃車となった。、、、、、、どちらの車両とも、チョイと痛々しい姿となっている。 もう少し手入れして欲しいね!

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駒込富士神社・・・・・・・・・・・・吉祥寺から駒込駅へ向かう途中に、駒込富士神社がある。 富士神社は、天正2年(1574)本郷村名主木村万右衛門、同牛久保隼人の二人が、駿河の富士浅間社を勧請して、本郷村(元富士神社地、現:東大本郷キャンパス)に創建した。 寛永6年(1629)、本郷の地が加賀藩前田家の上屋敷に充てられ、前方後円墳のあった当地に移転した。 現社殿は昭和37年(1962)頃の再建である。、、、、、古墳が富士塚に変わったのか(?) 社殿は塚の上だ。、、、、、神社は氏子を持たず、富士講組織で成り立っていたそうだ。

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駒込駅 ・・・・・・・・・・今日は荒川区の西日暮里駅で下車し、北区、文京区を歩き、豊島区の駒込駅から帰宅。

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2017年1月 5日 (木)

年の初めは忙しい

今年の正月は短く、世間様は4日から仕事始めとなった。 “毎日が休日”である私にはどうでもいいことのようだが、チョイと影響があった。 元日はさすが来客もなく、穏やかな一日で、私も初詣に行ってきた。 2日から、来客で散歩する余裕もなく。 今日は、朝からCT検査(昨年末、リンパ節が腫れてる(?)と云われ、念のための検査)で病院へ、その後は年始の挨拶回り。 午後からは、93歳の母をつれ診療所回り。、、、、、アリャ・コリャ、お忙しいこと!



第六天榊神社 ・・・・・・・・・・・・蔵前橋 を渡った先の病院へ行く途中で、蔵前1丁目にある、第六天榊神社に立ち寄ってきた。、、、、、、第六天榊神社は、景行天皇40年(110)、日本武尊が勅命により東国の鎮定に下向した折、武蔵野台地の東端で、東に筑波の嶺、西に霊峰富士を仰ぎ見る、鳥越丘上の当地を斎庭として、国土創成の祖神である皇祖二柱の神を鎮祭し、自ら奉持した白銅の宝鏡を納め国歌鎮護の神宮としたのが始まりのようだ。、、、、元々は、第六天神社と称し、現在地の北側に位置する森田町(現:蔵前3)に鎮座し、享保4年(1719)には浅草不唱小名(現:柳橋1)へ移転し、昭和3年に浅草文庫の跡地(東京工業大学の発祥の地でもある)であった現在地へ移転した。 現在地から約500mの範囲で、北から南へ、また北へ、移転したわけである。、、、、、、話のついでに、我が家も神社から500mの範囲に入るのである。 さらについでに、神社の隣の浅草中学校(浅草橋にあって、浅草中学とは是如何に?)は我が娘の出身校。
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・・・・・・・・・・・・・・・提灯に明かりを灯し、参拝の皆様をお待ちしてます

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・・・・・・・・・・・・・・・近くの企業の御一行、帰りに破魔矢を授かって帰るようだ。、、、、、「巫女の笑顔に 破魔矢を買って 心 射止める したごころ」 

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首尾の松・・・・・・・・・蔵前橋の西詰に、七代目の「首尾の松」が碑とともに植えられている。、、、、、江戸時代、隅田川に面して、蔵前には米蔵が並び、各蔵に向かい堀があった。 現蔵前橋の下流側100m程の位置に、四番堀と五番堀があり、その間に松の木が植えられていた。、、、、、松の由来は、諸説あるようだ、私が信じる(好きな)説では、『吉原に遊びに行く通人たちは、隅田川をさかのぼり山谷堀から入り込んだものだが、上り下りの舟が、途中この松陰によって“首尾”を求め語った。』、、、、、松の陰で、吉原の情報交換が行われていたようだ。(今の世ならLINEで情報交換しできるのに!) 私も知りたいその情報、チョイと聞かせてくれないか!
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●スカイツリー・・・・・・・・・蔵前橋から見るスカイツリー

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2017年1月 1日 (日)

亀戸七福神

穏やかな天気の元日となり、我が家でも、午後から初詣に行こうと話がでた。 夫婦と娘の三人で亀戸七福神を巡ってきた。



延命長寿の寿老人・・・・・・・・・・曹洞宗の常光寺は西帰山と号し、亀戸4丁目にある。 境内の一角の小さなお堂に寿老人は祀られている。 お堂の中、ガラス越しに寿老人が見える。 まだ新しそうな木像で、チョイとありがたみに欠けるが、新年早々のお参りにケチをつけず、素直に延命長寿のお願をしてきた。、、、、、いまさら無理は承知の上で心境は、「酒は飲みとげ 浮気をし遂げ 儘(まま)に長生き し遂げたい」
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芸道富有の弁財天・・・・・・・・・・・真言宗智山派の東覚寺(亀戸4)は、玄覚法印が享禄4年(1531)創建した。 こちらの寺には、弁財天が祀られている。、、、、芸の道は険しいが、色の道はいと易し、「今はサシスセ 昔はいろは すたらぬはずだよ 色の道」  私も、誰に教わることもなく、独学で身につけた色の道、まだ未熟かも?
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愛敬富財の恵比寿神有富蓄財の大国神・・・・・・・・・・香取神社(亀戸3)は、スポーツの神様と言われ、拝殿前の行列は1時間待ちである。

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・・・・・・・・・・・・・神社の境内東側にある境内社:福神社には、恵比寿神大国神の二神が祀られている。、、、、、、もともと亀戸七福神は、ここの二神を中心に、近くの寺社に残り五神を配して成立したものらしい。、、、、、、商売は繁盛し、蓄財できる、ありがたい神様である。

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・・・・・・・・・・・・・拝殿わきには二神の石像があり、悪い処をなでると病気が治ると言われ、私も腰痛の腰と今朝寝違えた首をなでてきた。

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勇気授福の毘沙門天・・・・・・・・・・・・真言宗智山派の普門院(亀戸3)は、大永2年(1522)に豊島郡石浜(現:荒川区)に創建された。 元和年間(1615~1624)に現在地に移転した。 ここの毘沙門堂に毘沙門天は祀られている。、、、、、本堂前には、壊れた家具、植木などが雑然と置かれ、チョイと気になる荒廃ぶりだ。

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・・・・・・・・・・・・・・今日の毘沙門堂の中は暗く、毘沙門天の姿を確認できず。 (昨年撮影した毘沙門天のボケた写真で我慢して。) 

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人望福徳の福禄寿・・・・・・・・・・亀戸天神の北側に位置する天祖神社、創立年代は不詳であるが、推古天皇の時代に創建されたそうだ。 天正年間(1573~1592)に悪病が大流行し、織田信長がこの神社で流鏑馬の行事を行わせたところ、たちまち収まったと伝えられている。

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・・・・・・・・・・・・・・榊に隠れチョイと見えづらいが、気味が悪くなるようなリアルな像である。、、、、、、金持ちに好かれ、美人に慕われる、そんな人徳のある人に私はなりたいと、懇願してきた。

 
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清簾度量の布袋尊・・・・・・・・・・・・さて最後は、亀戸3丁目の天台宗龍眼寺である。 龍眼寺は、応永2年(1396)に創建したと伝えられている。 本堂前の布袋堂に、大きな腹で大儀そうに座り込んでる布袋尊がいる。 『布袋様、メタボ検診を受けることを、おすすめします』

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●・・・・・・・・・・・・・・・七福神めぐりのあとは、亀戸天神に参る。、、、、本日の〆は、くず餅。

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