大森~西馬込

②新井道架道橋・・・・・・・・・・・大森駅から南へ150m程のところに新井道架道橋がある。 上を走るのは、もちろん京浜東北線と東海道本線。、、、、架道橋があるのはすり鉢状に低くなっている処で、かつてここに新井川(現在は暗渠化されている)が流れていた。 架道橋は当初、木造であったが、明治11年(1878)に鉄製の橋に架け替えられ、現在は明治45年(1912)に架けられた3代目のプレートガーター桁橋(高さ2.4m)である。
③大森柳本通り商店街・・・・・・・・・・池上通り沿いに「ウィロード山王」と掲げたアーケードのある長い商店街。 まだ朝、開いてる店は少なく、駅に向かって歩く人ばかり。
・・・・・・・・・・・・・・商店街の中ほどで、「新井宿義民六人衆霊地参道」の文字が目に入る。、、、、、『いつぞや来たことがある寺だ! 商店街はつまらないので、こっちに行こう!』と、私の足は参道を進むことに、、、、
④善慶寺・熊野神社・・・・・・・・善慶寺(山王3)に向かう“参道”と言っても、ただの裏道。 正面に善慶寺の山門が見える。
・・・・・・・・・・・・日蓮宗寺院の法光山善慶寺は、天正年間(1573~92)に開創し、正応4年(1291)に善慶寺が創建された。 以来身延山末であったが、昭和16年(1941)に日蓮門下三派合同により顕本法華宗より今日の日蓮宗に包括された。 日蓮宗の古刹ということだ。、、、、、、江戸時代までは、山門奥にある山王熊野神社、及び新井宿春日神社の別当寺。、、、、、現本堂は昭和5年(1930)に建てられた。
・・・・・・・・・・・・・本堂左手奥に、山王熊野神社の鳥居が見える。 写真の左側は墓地で、ここに新井宿義民六人衆の墓がある。
・・・・・・・・・・・・・新井宿義民六人衆の墓とは(?)、、、、東京都教育委員会の掲示には以下のように記されている。 『江戸時代の荏原郡新井宿村は、家康の関東入府から幕末にいたるまで、旗本木原氏の知行地であった。四代兵三郎重弘の時代、延宝元年(1673)の旱魃、翌年の多摩川の氾濫による洪水や長雨などの天災で農民の困窮は甚だしく、過酷な年貢収奪に耐えかねた村民は、十九ヶ条の訴状を提出して年貢の減免を願い出た。この訴えは黙殺されたため、重立百姓六人は、将軍家綱に起訴(おっそ)しようとしたが、決行直前の延宝5年(1677)正月2日密告により捕えられ、神田橋門外にあった木原内匠邸(現:千代田区内神田1)で処刑されたといわれている。 新井宿義民六人衆による起訴事件は、村人の中に語り継がれ、延宝8年(1679)義民と縁故筋にあたる間宮藤八郎が、両親の墓を建てると称して六人の法号を刻んで密かに造立したのがこの墓石である。正面に父母の、裏面に六人の法名が刻み込まれており、台石の四方に花立と水入が取りつけられ、その間をくり抜いて連結し、一箇所に水を注げば四方に行き渡るように工夫されている。』、、、、、、簡単にまとめると、“直訴に失敗した6人の墓”ということか。
・・・・・・・・・・・・・墓の後ろから、鳥居をくぐり急な階段を上り、山王の高台にある熊野神社に詣でる。
・・・・・・・・・・・・・熊野神社の近くから眺める、、、、、オ~ゥ! 見晴らしがいいね!
⑤環七通り・・・・・・・・・山王の高台を下り、環七通りを越えると大田区南馬込の町に入る。
・・・・・・・・・・・・・・暖かな気候のせいか、ウメが咲いている。、、、、、歩きながら口ずさむ、♪♪ 梅は咲いたか 桜はまだかいな 柳なよなよ風次第 山吹きゃ浮気で 色ばっかり ションガイナ ♪♪
⑥龍子記念館・・・・・・・・・・・・裏道を歩き大田区中央4丁目の出て来た先に、昭和38年(1963)、川端龍子画伯の喜寿を記念し、画伯自身の設計によって設立された記念館がある。 チョイと寄って行こうかと前まで行ったら、残念、只今特別展準備のため休館中であった。、、、、、、建物は昭和37年(1962)に建設。
⑦黒鶴稲荷神社・・・・・・・・・・・龍子記念館の西200m程に黒鶴稲荷神社がある。 神社の創建年代等は不詳であるが、桐ヶ谷村の鎮守社だった。 三代将軍家光の頃、当地付近の領主が境内で黒鶴を捕え、徳川将軍家に献じたところ、大いにこれを賞されたことから黒鶴稲荷と呼ばれるようになった。、、、、社殿は明治7年(1874)に竣工。
⑧西馬込駅・・・・・・・・・都営浅草線の駅で、線路はホームの先の車両基地まで伸びている。、、、、昭和43年(1968)11月15日、都営1号線の駅として開業。
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