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2017年2月

2017年2月27日 (月)

佃大橋

東銀座駅から、36番目の佃大橋を渡り月島駅まで、1万1千歩の散歩です。



看板建築・・・・・・・・・・・中央区役所の近く銀座1丁目に、1階にはグローリー(喫茶)が営業する3軒長屋の店舗兼住宅がある。 昭和初期の看板建築と思われる。 3階上部にはレリーフもしっかり残っている。 喫茶のグローリーは40年以上前に開店したそうだ。
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鈴木ビル・・・・・・・・・銀座1丁目の中央区役所の北側にある、昭和4年(1929)に竣工した鈴木ビル。 外壁はスクラッチタイル、テラコッタで仕上げ、丸窓・出窓・屋根窓とデザインに変化をつけた、モダンなビル。、、、、設計は山中節治建築事務所、施工は新工務所による、昭和4(1929)12月に竣工した。 鉄筋コンクリート5階/地下1階。
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・・・・・・・・・・・・・6年前に撮影した鈴木ビルの外壁と内部

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岩瀬博美商店・・・・・・・・・・鈴木ビルの右隣に並ぶ昭和初期の建物。 建てた当時は、乳業関連事業を営んでいたそうだ。 軒先やガラス戸には商号が刻まれ、3階には半円の窓、軒先の古そうな照明器具、外壁を覆うスクラッチタイル、どれもこれも重厚感漂う昭和のビルを演出している。

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三吉橋・・・・・・・・・・・中央区役所の前に昭和4年(1929)に架けられた三吉橋(みよしばし)橋。 築地川の川筋が“T字型”になった地点に架けられたため、橋も“三又”となり“Y字型”となっている。、、、、、昭和37年(1962)までは築地川が流れていたが、残念なことに築地川は首都高に変わり、今は橋の下に車が流れている。、、、、、三股型単純鋼鈑桁橋、橋長23.98m×3、幅員15m、昭和4年(1929)12月に竣工した震災復興橋。

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・・・・・・・・・・・・・・空から見ると

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佃大橋・・・・・・・・・・・・佃大橋は隅田川最後の渡船場として320余年続いていた「佃の渡し」の位置に架けられた橋で、中央区の明石と佃を結んでいる。、、、、昭和36年(1961)に着工し、昭和39年(1964)8月27日に竣工した橋は、戦後の“昭和”を象徴するように、無味乾燥とした橋で見た目には面白くない。、、、、、『大ブロック工法』として、桁をかけるとき、大きなブロック(長さ40m、重量150ton)を造っておき、当時の日本最大のクレーン船で組み立てる、最新の施工技術で架橋した。 工法に隠れた面白さのある橋。、、、、、橋長は476.3m、幅員は25.2m、橋桁製作は地元の石川島播磨重工業(現IHI)佃島工場。

・・・・・・・・・・・・・・下流側から見る佃大橋。 後ろは「大川端リバーシティ21

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・・・・・・・・・・・・・・上流側から見る佃大橋。 後ろは「聖路加ガーデン

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・・・・・・・・・・・・・・・佃大橋から見る上流側。 中央大橋、大川端リバーシティ21を見る。

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・・・・・・・・・・・・・・・佃大橋の両端に「佃島渡渡船場跡」の碑が残されている。、、、、、私も中学生の頃、浅草橋の我が家から自転車で、何度か私に乗りに来た。 50年以上前の懐かしい思い出。

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佃島住吉神社周辺・・・・・・・・・・・ブラブラ、、、、、詳細はまたの機会に!

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旧月島警察署西仲通交番・・・・・・・・・・月島の「もんじゃストリート」の中程に現存する、日本最古の交番建築。 現在は「西仲通り地域安全センター」と呼んでいるが、平成19年頃までは「日本最古の交番」であった。 建物は大正15年(1926)に建てられた。

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2017年2月26日 (日)

東京マラソン

東京マラソン、スタート前の準備状況を見ながら、浅草橋の我が家から雷門まで往復してきた。 1万1千歩の散歩。



・・・・・・・・・・・・・朝8時前、我が家の近くでは警備会社の人が既に活動中。、、、、、早朝から、ご苦労様です。
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・・・・・・・・・・・・・同時刻、浅草橋駅前では、お巡りさんの見回りも、入念に行われていた。、、、、テロ対策か?

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・・・・・・・・・・・・・駅前に集合するボランティアの人々、、、、給水所の担当か?
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・・・・・・・・・・・・・・蔵前一丁目交差点の手前に、ズラリ並んだカラーコーン、、、、、風の強い日でなくて、良かった。

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・・・・・・・・・・・・・・玩具メーカ前では、可愛いお応援

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・・・・・・・・・・・・・・駒形橋西詰に待機する医師。 『家庭用常備薬ありません』の貼り紙もあった。、、、、、メンソレータム、正露丸、太田胃散、宇津救命丸、龍角散、そして、赤チンなどは置いてません!

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・・・・・・・・・・・・・・・ちょうど9時、雷門前では交通規制が始まった。、、、、まごまごしていると、道路を横断できなくなる。

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・・・・・・・・・・・・・・・雷門前には消防隊が勢ぞろい。、、、、今日は暇な一日になることを願い出動?

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・・・・・・・・・・・・・・こちらはお巡りさん。、、、、、こちらは、人出が多く忙しくなりそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・・・銀行の応援団?、、、、雷門前はテレビ映りの機会も多い、応援のしがいがあるね! 

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・・・・・・・・・・・・・・交通規制で、とうとう道路を横断できなくなり、外国のお客さんは浅草寺に行けない。 道路を横断するには、地下鉄の地下道を利用するだけとなった。、、、、、浅草線の深い地下に潜り、別の出口から出る。 年寄りには辛い迂回路である。

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・・・・・・・・・・・・・・・駒形橋付近では、車いすマラソンのランナーが、ものすごいスピードで通過する。 ランナーの顔を見る余裕もなく、コリャ、チョイト早すぎるね。、、、、、シャッタースピードを速め、止まっているように撮影してみた。

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・・・・・・・・・・・・・・選手もゾクゾクと通過していく、給水所のボランティアも、消防団も、皆さん一斉に『ガンバレー』

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・・・・・・・・・・・・・蔵前警察署前を通過するアスリート。

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・・・・・・・・・・・・・・浅草橋に戻ると、応援も盛り上がり、人を掻き分け、『チョイト、ごめんよ、見せとくれ!』

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・・・・・・・・・・・・・・この後はTVでゴールの瞬間を見ることにした。 まだ交通規制され車の通らぬ道を我が家へ戻る。

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2017年2月24日 (金)

中央大橋・相生橋

隅田川の最上流から数えて35番目の橋は中央大橋。 上流の永代橋と中央大橋の間で、隅田川は隅田川派川(はせん、=分流)と分岐する。 その派川には相生橋が架かる。、、、、、今日の散歩は、都営浅草線宝町駅から、八丁堀、中央大橋、相生橋と歩き、東西線門前仲町駅まで、1万2千歩です。



江戸湊の碑・・・・・・・・・中央区新川2丁目(旧:霊岸島)の隅田川岸に建てられた江戸港発祥跡の碑、、、、、、慶長年間江戸幕府がこの地に江戸湊を築港し、水運の中心地とした。昭和11年(1936)まで、伊豆七島など諸国への航路の出発点であった。、、、、、当時、東京から伊豆七島へ行くには、ここからボロ船に乗って1泊、2泊の船旅であったと想像すると、船酔いに弱い私には、もうダメだ! 死を覚悟して、ナムアミダブツの旅である。
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霊岸島水位観測所・・・・・・・・江戸湊の碑の前、隅田川に立つ三角に組まれたパイプと斜方12面体と呼ばれる立方体のオブジェ。 これぞ霊岸島水位観測所(無人)、、、、、日本の標高は東京湾の平均海面を基準に測られる。その基準となる平均海面を測定していた場所が霊岸島水位観測所。 明治6年(1873)から観測を開始しているが、近年、この場所は埋め立てにより、隅田川の奥になり、観測には不向きとなった。 現在は油壺験潮所にその役割が移った 、、、、、、ちなみに、現在の日本の水準原点は国会議事堂前にある。

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中央大橋・・・・・・・・・・中央区新川(霊岸島)と中央区佃(佃島)を結び、平成5年(1993)3月に完成した。 橋長215mの鋼斜張ハープ橋。 佃の超高層マンション群を背景にした現代的なデザインだ!、、、、、橋桁製作は、かつて地元であった石川島播磨重工業。

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・・・・・・・・・・・・・上流(写真左側)から右奥に流れ下る隅田川。 中央の佃島の背後に流れて行くのは派川。

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大川端リバーシティ21・・・・・・・・・佃島は、佃神社周辺の旧来からの部分を除く、大半は明治以降石川島造船所に払い下げられ、昭和54年(1979)の操業停止まで造船所の敷地であった。、、、、、その後、造船所の跡地は、「大川端リバーシティ21」として、住宅市街地総合整備事業により、住宅・都市整備公団(現・都市再生機構)、東京都住宅局、東京都住宅供給公社、三井不動産によって超高層住宅を中心とした再開発が進められた。 各事業者は、個々の高さやデザインを少しずつ変えながらも全体として統一された外観で開発を進め、隅田川と調和した景観となった。 ちなみに、一番高いマンションは、高さ180m(地上54階/地下3階)の「センチュリータワー」で、786戸が入居している。、、、、、高所恐怖症の私が54階に住むのは、死を覚悟し、怖さで眠れず、不眠症になるようなものだ。 最後は、寝ぼけて54階から墜落か?

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相生橋・・・・・・・・・・右岸の中央区佃と左岸の江東区越中島を結ぶ橋。、、、、明治36年(1903)、築地・深川地区と佃を結ぶため川の中程にあった中之島を利用し2本の橋で架橋された。 この時、佃寄りの長い橋を「相生大橋」、越中島寄りの短い橋を「相生小橋」と命名した。 「相生」の名は、「相生の松」になぞらえた。、、、、関東大震災後は、大正15年(1926)に鉄鋼ゲルバー橋が再架橋された。、、、、昭和55年(1980)には小橋(越中島側)が埋め立てられ、中之島は地続きとなった。 さらに、平成10年(1998)には、老朽化した相生橋を、現在の橋に架け替えた。 現在の橋は、3径間鋼トラス桁橋で、橋長は149.1m、幅員は22.0m、昭和63年(1988)に着工し平成10年(1998)12月に開通した。

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・・・・・・・・・・・・・・・相生橋を渡り、江東区越中島に入ると、橋の際に東京海洋大学がある。 50歳以上の人には東京商船大学 と言った方が判りやすいね。 今日は正門前を通過

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黒船稲荷神社・・・・・・・・・・・江東区牡丹にある黒船稲荷神社は、応徳3年(1087)浅草黒船町に創建、享保17年(1733)に現在地へ遷座した。、、、、、ここは、江戸戯作界の第一人者、四世鶴屋南北の住居跡である。 住んでいた痕跡は皆無、案内板があるだけ、できたら表札ぐらい残しておいて欲しいね。

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2017年2月21日 (火)

隅田川大橋・永代橋

人形町・水天宮を抜け隅田川大橋を渡り、江東区側の川岸を歩いて永代橋へ、再び隅田川を越えて日本橋まで、1万1千歩の散歩です。



水天宮・・・・・・・・・・チョイと水天宮にお立ち寄り、、、、水天宮は、久留米藩主有馬頼徳公が現:港区赤羽の藩邸内に久留米市水天宮の分霊を文政元年(1818)に勧請して創建した。 その後、藩邸の移動に伴い、青山へ遷座し、さらに明治5年(1872)11月1日、現在の日本橋蛎殻町に遷座した。、、、、、平成28年(2016)4月より、建て替えられた新社殿への参拝が開始しされた。 新社殿は地下1階と1階が駐車場で、2階の人工地盤の上に社殿が建てられている。また、参集殿のある6階建ての下に参道の階段が設けられている。 これらの建物を地震から守るため境内全体を免振構造としている。 設計・施工は竹中工務店。
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日清製粉晴東寮・・・・・・・・・日本橋蛎殻町にある寮。 スクラッチタイル風の貼りものをした、木造3階建ての建物。 建築年代は不詳ですが、『古そうだ!』

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高尾稲荷・・・・・・・・・・中央区日本橋箱崎のIBM箱崎ビルの前に祀られている高尾稲荷、、、、、、万冶2年(1659)江戸の花街新吉原(現:台東区千束)の遊女で二代目高尾太夫(仙台高尾ともいう)、傾城という娼妓の最高位にあり、容姿端麗にして艶名一世に鳴りひびき、和歌俳諧に長じ、書は抜群、諸芸に通じ、比類のない全盛をほこったといわれる、当時19歳の太夫。  その高尾が仙台藩主伊達綱宗候に寵愛され大金をつんで見請けされたが、彼女にはすでに意中の人あり、操を立てて候に従わなかったため、ついに怒りを買って隅田川の楼船上にて吊り斬りにされ、川中に捨てられた。 その遺体が当地に漂着し、引き揚げられた。 そこで、彼女の神霊高尾大明神を祀ったのを起源としている。、、、、若いピチピチのもったいない美女の哀れな話、懇ろに手を合わせ、お賽銭も奮発し20円にした。、、、、、高尾太夫の辞世、「寒風に もろくも朽つる 紅葉かな」 

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隅田川大橋・・・・・・・・・・箱崎JCTから東に向かう首都高9号深川線が隅田川を越える橋が隅田川大橋である。 橋は2層構造で上が首都高、下が一般道の水天宮通り。、、、、、歩行者にとっては、車道と人道が完全に分離され安全で歩きやすいが、頭上に首都高が走り巨大な柱が上に向かって伸び、他の橋のように欄干によりかかり景色を眺める解放された雰囲気にはなりにくい。、、、、、、ついでの話、橋の下(地下)には地下鉄半蔵門線が通っている。、、、、、橋長385.3mの3径間連続鋼床鈑箱桁橋、昭和54年(1979)10月完成。、、、、、清洲橋、永代橋、両国橋などの昭和初期の優美な橋とは異なり、機能主義の武骨な昭和後期の橋である。

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・・・・・・・・・・・・・・箱崎JCTから隅田川大橋に向かう首都高

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・・・・・・・・・・・・・上流側の清洲橋を見る

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・・・・・・・・・・・・・下流側の永代橋、佃島を見る

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・・・・・・・・・・・・・・隅田川大橋を挟む巨大なビル2棟。 手前(左端)はIBM箱崎ビル(地上25階建て、1989年竣工)、中央のビルはリバーゲートビル(地上20階建て、1994年竣工)

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豊海橋・・・・・・・・・・隅田川大橋と下流の永代橋の間で、神田川から分岐した日本橋川が合流する。 その日本橋川が隅田川に合流する直前に豊海橋(とよみばし)が架かる。、、、、、豊海橋は昭和2年(1927)に震災復興橋として架設された。 この橋は、永代橋を意識し、梯子を横にしたような骨太な重量感あるデザインで設計された。、、、、、橋長約46m、設計は福田武雄、施工は横河橋梁製作所。

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永代橋・・・・・・・・・隅田川の上流から34番目の橋は永代橋である。 この橋も震災復興橋の一つで、国の重要文化財。、、、、橋は西岸の中央区新川と東岸の江東区佐賀・永代を結ぶ。 橋長184.7m、幅員25.0m、中央径間はスチールアーチ橋で両側は鋼桁橋。 大正13年(1923)12月に着工し、大正15年(1926)12月20日に竣工した、工期は短く約2年である。 工事費は2,924,000円也。、、、、、優美な清洲橋に対して、「帝都東京の門」と言われた永代橋はドイツのライン川に架かっていたルーデンドルフ鉄道橋をモデルにし、現存する最古のタイドアーチ橋で、かつ日本で最初に径間長100mを超えた橋でもある。

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・・・・・・・・・・・・・・・永代橋の下流で、隅田川は分流の隅田川派川(すみだがわはせん)と分岐する。 写真:右に向かうのは隅田川、左に向かうのは隅田川派川、その間は超高層マンション群のある佃島。、、、、、いつの間にか、超高層ビルも増え、私の知る60年前の漁師の島“佃島”のイメージはこの写真から想像できないね。

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2017年2月19日 (日)

新宿御苑

なんとく春近し、日差しも暖かそうに感じる、昼から夫婦でチョイと新宿御苑で、河津桜、梅、福寿草、水仙など冬の花を楽しんできた。



・・・・・・・・・・・・・「新宿御苑」は、もともとは江戸時代に信濃高遠藩内藤家の下屋敷のあった敷地である。 明治5年(1872)に農事試験場となり、 明治12年(1879)には新宿植物御苑となり宮内省が管理することとなった。 戦後は一般に公開され、現在は環境省管轄の公園である。、、、、、大名屋敷跡の一部といえども、現在の58haの敷地は“広い!”
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・・・・・・・・・・・・・・ゆっくり、のんびり、静かに、季節を感じ、花を愛でる
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・・・・・・・・・・・・・・旧御涼亭(台湾閣)は、皇太子(後の昭和天皇)の御成婚記念として、台湾在住の邦人から、昭和2年(1927)に贈られた中国風建築。 木造平屋、基礎は鉄筋コンクリート造。、、、、設計した森山松之助(1869~1949)は統治時代台湾で活躍した建築家。 日本には、旧久邇宮邸(現:聖心女子大)、片倉館会館(長野県、重文)などが現存する。 取り壊された本所公会堂(両国公会堂 )も作品の一つであった。、、、、、チャイナドレスの美女が手摺にもたれ話しかけてくるような雰囲気の建物。
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・・・・・・・・・・・・・・天皇や皇族の休憩所として明治29年(1896)に建てられた旧洋館御休所。 19世紀アメリカで流行した、下見板と棒(スティック)による模様付けされた「スティックスタイル」の木造建築。 戦後は平成6年(1996)まで管理事務所として利用されてきた。 現在は大正13年(1924)当時の姿に戻され公開されている。、、、、、ちなみに、平成11年度の修復工事では、この建物に2億6千万円の工事費がつぎ込まれたそうだ。
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・・・・・・・・・・・・・・・御苑の守衛などが使用していた旧新宿門衛所旧大木戸門衛所。 いずれも昭和2年(1927)に建てられたもので、御苑の門衛所として周囲の景観とマッチした当時のデザインである。

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・・・・・・・・・・・・・・・平成23年(2011)に完成した新宿御苑の大温室。 設計は日本設計、施工は戸田建設。、、、、、温室のため南国の花が多く、高山植物は皆無だ! あたり前田のクラッカー。

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2017年2月17日 (金)

清洲橋

今日の散歩は、32番目の清洲橋へ行く。 浅草橋の我が家から、明治座前をとおり清洲橋へ、橋を渡り江東区に入ると、清澄通り沿いに北上し、両国からは京葉道路を歩き、両国橋を渡り浅草橋に戻る、1万4千歩の散歩です。



浅草橋から清洲橋へ・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・家を出て、3分後、浅草橋駅を通過。、、、、、、『今日は、歩くぞ!』 
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・・・・・・・・・・・・・・朝8時ジャスト、浅草橋交差点を横断する。、、、、、まだ車も少ない時間帯、通勤する人も余裕の歩き

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・・・・・・・・・・・・・都営浅草線東日本橋駅を通過、、、、、、まだ8時10分だ! あまり早い出社は、若い人に嫌われるよ!

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・・・・・・・・・・・・・・浜町の笠間稲荷神社に立ち寄っていく。、、、、、安政6年(1859)創建の神社は、すでに扉を開き、朝の参拝客受け入れ準備OK! 私も、道中の安全を願い、賽銭箱に100円入れて『よろしく!』

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・・・・・・・・・・・・・・8時25分、明治座前。、、、、、甘酒横丁の店もまだ開いてないので、寄り道せず先へ。 

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・・・・・・・・・・・・・清洲橋通りと新大橋通りが交差する浜町中ノ橋交差点。、、、、、直進すれば清洲橋、左折すれば新大橋。 今日は迷わず直進。、、、、、信号待ちの間、通勤するOLを見て、小さな声で口ずさんでしまった。 ♪♪ 若い娘が~ウッフン お色気ありそで~ウッフン ♪♪ スリー・キャッツの「黄色いさくらんぼ」

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・・・・・・・・・・・・・・清州橋西詰の小さな神社は、昭和29年(1954)に建立された金刀比羅宮。、 、、、、、、近くの人形町は、江戸時代初期の吉原であった。 明暦の大火で吉原は浅草千束に移り、その後、現:人形町は葭町(よしちょう)として、町芸者を生み出し、花街として発展してていった。 現在では、料亭1軒、芸者10名程も規模となったが 、見番:「東京葭町組合」も現存している。、、、神社の玉垣には、その葭町の料亭・芸妓名が標され、華やかなりし時代を思い起させる。

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清洲橋・・・・・・・・・・・・中央区日本橋中洲と江東区清澄を結ぶ橋で、「清洲橋」と命名された。 大正14年(1925)に着工し、昭和3年(1928)に竣工した関東大震災復興橋の一つである。 構造形式は自碇式チェーン吊り橋、橋長は186.3m、幅員は22.0m。 設計:鈴木精一(内務省復興局技師)、施工:東京市復興局、橋桁製作:神戸川崎造船所。 総工費321万円。、、、、、、近代橋梁技術により、洗練された曲線、造形が優美な美しさを表現している。

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・・・・・・・・・・・・・・清洲橋のモデルとなった、当時最高に美しいと評判だったドイツケルンのヒンデンブルグ橋。 ウ~~ン確かに似ている、写真はケルン市のホームページより拝借。

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・・・・・・・・・・・・・・上流(新大橋方向)を望む

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清洲橋から我が家へ・・・・・・・・・・・

 

・・・・・・・・・・・・・・時刻は9時45分、清洲橋通りの北側の裏道を歩き深川稲荷神社の前を通る。 小さな神社だが、布袋尊が祀られ深川七福神の一つである。 深川稲荷神社は、寛永7年(1630)の創立。、、、、、、、以前、七福神めぐりで立ち寄った神社だが、布袋尊の姿を思い出せなかった。 私も老いたか?

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・・・・・・・・・・・・・・・清澄通りを北上し、小名木川を渡り、森下交差点の手前で、深川神明宮にもお立ち寄り。 こちらは七福神の寿老人が祀られている。、、、、神社の門前には、日本画家で朝丘雪路の父である伊東親水の誕生地跡の案内が立っていた。 『江戸っ子だってね。 深川の生まれよ!』

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・・・・・・・・・・・・・・・再び清澄通りに戻り、墨田区に入る。 堅川を二之橋で越えて、京葉道路に出る。、、、、、堅川の上を首都高が覆い、暗い川だ!

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・・・・・・・・・・・・・・両国6丁目、京葉道路に立つ本所松坂町跡の碑。 関東大震災後の区画整理で、本所松坂町の名が消えるのを惜しみ、、『おいらの松坂町の名が消えるぞ』、江戸っ子なら後世に残る石に刻んで町名を残そうと、考えたようだ。 昭和4年(1929)11月1日の日付が彫られていた。

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・・・・・・・・・・・・・両国橋を渡り、柳橋を渡り、我が家のある浅草橋へ。 『ただいま』とドアを開けたのは10時45分。

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2017年2月16日 (木)

両国大橋・新大橋

我が家(浅草橋)から、両国橋を渡り下流の両国大橋へ、さらに下流の新大橋へ、新大橋を渡り浜町河岸付近をぶらつき我が家まで、1万2千歩の散歩です。、、、、隅田川の最上流から数えて、いよいよ30番目の両国大橋と、31番目の新大橋。


両国大橋・・・・・・・・・・「両国大橋」こんな橋あったかな? 「両国橋」の間違いでは? 地元の人でも知らない人もいるが、名は知らねども、大川に架かる両国大橋、知らねばドライバーとは言えまい。、、、、両国大橋は、隅田川に架かる首都高の橋で、橋上は「両国ジャンクション」である。 箱崎から北上し、6号向島線と7号小松川線に分岐する地点である。、、、、西岸は中央区日本橋浜町、東岸は墨田区両国に架かる、巨大で立体的な構造が面白い橋梁である。 昭和44年(1969)12月に完成し、供用開始は首都高の開通に合わせ昭和46年(1971)3月21日。 設計は首都高速道路公団工務部、施工は石川島播磨重工業・日本橋梁・大林組。、、、、、、構造物としては面白いが、景観上は邪魔だね、どかせるものならどかして欲しい!
・・・・・・・・・・・・・・・両国橋から見る両国大橋。 写真:右側は中央区、左側は墨田区。
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・・・・・・・・・・・・・・上流(両国橋側)の隅田川テラスから見る。 対岸は、♪♪ 浮いた浮いたと 浜町河岸に 浮かれ柳の はずかしや 人目しのんで 小舟を出せば すねた夜風が 邪魔をする ♪♪、の浜町河岸。

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・・・・・・・・・・・・・お股から失礼して、お尻を拝見!

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・・・・・・・・・・・・・・墨田区側の岸から下流(新大橋)方向を見る。

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御臨幸記念碑・・・・・・・・・・中央区立日本橋中学校の校庭横に、浜町河岸に向いて「御臨幸記念碑」が建てられている。、、、、、、記念碑は、大正12年(1923)の関東大震災で被災した東京が見事に復興したした様子を、昭和5年(1930)に昭和天皇が日本橋中学校(当時は千代田小学校)の校庭に立ち寄り視察した記念に、昭和8年(1933)に建立された。 羽ばたく鳳凰をデザインし、菊の御紋を彫った、高さ3m程の立派な碑である。、、、、、、当時の天皇の威光を感じる。

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新大橋・・・・・・・・・・・・西岸(右岸)の中央区日本橋浜町と東岸(左岸)の江東区新大橋を結ぶ橋。、、、、、新大橋が最初に架けられたのは、元禄6年12月7日である。 当時、「大橋」と呼ばれていた両国橋は既に架けられており、両国橋に続く大橋として「新大橋」と名付けられたそうだ。、、、、、、江戸時代は木橋であったが、明治45年(1912)にトラス式の鉄橋に架け替えられた。 この鉄橋は震災。・戦災に耐え昭和50年(1975)まで使用されたが、その後は、愛知県の明治村に移築・保存され、老後の余生をのんびり送っている。、、、、、現在の橋は、2径間連続斜張橋、橋長は170.0m、幅員は24.0m、昭和51年(1976)に着工し、昭和52年(1977)3月27日に竣工した。 施工は石川島播磨重工業。、、、、、2本の黄色の塔が印象的で、シンプルな美しい橋である。

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・・・・・・・・・・・・・下流(清洲橋方向)を望む。

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・・・・・・・・・・・・・・旧橋のアールヌーボー調の親柱が東詰に保存されている。

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2017年2月14日 (火)

船橋競馬場駅~船橋駅

稲毛に行った帰り京成本線の船橋競馬場駅で下車し、JR総武本線船橋駅まで歩いた。



船橋競馬場駅・・・・・・・・・・昭和2年(1927)に花輪駅の名で開業した。 昭和25年(1950)、船橋競馬場前駅に改称。 昭和30年(1955)には船橋ヘルスセンターが開業し、昭和38年(1963)にセンター競馬場前に改称。 昭和52年(1977)にヘルスセンターは閉鎖し、昭和62年(1987)4月1日に船橋競馬場駅にまたまた改称。、、、現在は、島式ホーム2面4線の地上駅で、橋上駅舎を有している。 駅前には千葉街道が通り、その南側に競馬場と「ららぽーと」がある。 競馬開催日には賑わいの増す駅。 ちなみに、今日は静かな駅であった。、、、、私が子供の頃、何回か、ヘルスセンターや、隣の谷津遊園に海水浴に来たことを覚えてる。 当時は、埋め立ても進んでおらず、ヘルスセンター、遊園地から海に入ることができた時代である。
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・・・・・・・・・・・・・京成本線の北側(山側)を歩いてみる。、、、、チョイと寂れた道だが、かつて商店であったと思われる建物が並んでいる。 旧街道のようだ?

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東光寺・・・・・・・・・船橋市宮本5、大神宮の近くにある真言宗豊山派の東光寺。 創建年代は不詳ながら、江戸時代末期には存在していた寺である。

・・・・・・・・・・・・・街道に面した山門を入ると、正面に本堂が見える。、、、、本堂は鉄筋コンクリート造の建物だが、山号、寺号も掲げられておらず、正面の鉄の扉は閉ざされ、賽銭箱すらない。 ここ、本当に本堂?? 首をかしげたくなる。

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・・・・・・・・・・・・・誰もいない静かな境内には、庚申塔、石仏が点在し、石仏マニアには嬉しい寺だ。

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・・・・・・・・・・・・・・東光寺の西側に船橋大神宮 がある。 今日は、鳥居前を素通りした。

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今井写真館・・・・・・・・・・・・・京成本線大神宮下駅の前に建つ大正時代の西洋館を思わせるクラシックな建物。 老舗の写真館で、昭和62年(1987)に、現在のスタイルに改築したそうだ! 細部まで洋館風造りこんだ建物、『いい仕事してますね! 一生ものです、大事に使ってください』

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船橋橋・・・・・・・・・船橋市中央部を流れ下る海老川の最下流に架かる橋が船橋橋(ふなばしはし)である。、、、、私のようなよそ者は、船橋橋と“橋”が続くと間違えかと思った。 この橋が“船橋”で、地名の由来となったと思ったのだ! 間違えに気付いた、地名“船橋”の地にあるから“船橋”橋なのである。、、、、では地名「船橋」の由来は?  日本武尊の東征の際、地元民が小舟を並べて橋をつくり、渡したということから、船橋の地名となったそうだ。、、、、、船橋橋は昭和61年(1986)3月の完成である。

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・・・・・・・・・・・・・・船橋橋から見る海老川の上・下流

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市内の三寺・・・・・・・・・・・・・海老川を越え、本町3丁目に入ると寺院が並ぶ寺町である。 今日は、円蔵院覚王寺不動院 と回り、船橋駅に出た。

・・・・・・・・・・・・・円蔵院、、、、、、真言宗豊山派の寺院。 「えんが地蔵尊」が祀られている。

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・・・・・・・・・・・・・覚王寺、、、、、、こちらも真言宗豊山派の寺院。

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・・・・・・・・・・・・・・不動院、、、、、、、これまた真言宗豊山派の海應山不動院がある。、、、、山門前には大仏さまがお出迎え。

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2017年2月13日 (月)

蔵前橋~両国橋

我が家から、蔵前橋、両国橋のどちらにも徒歩15分程で行ける。 JR総武線隅田川橋梁は10分程の位置にある。 つまりは、今日散歩した隅田川に架かる4橋梁は、我が家の庭の池に造られた橋のようなものである。 (おっと、間違えた! 我が家には庭はない。 庭を造るぐらい広い敷地があれば、マンションでも建てて、左団扇の生活だ!)、、、、、、今日の散歩は、我が家から、台東区・墨田区の両岸にある隅田川テラス を歩いて4橋を見てきた。 1万1千歩。、、、、、“4橋”とは、隅田川の最上流から数えて、26番目の蔵前橋、27番目の知る人も少ない地味なNTT蔵前専用橋、28番目のJR総武線隅田川橋梁、29番目の両国橋である。



チョイと、その前に・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・隅田川テラスに出るには、我が家から、江戸通りを横切り柳橋から河岸に下りる。
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・・・・・・・・・・・・・JRの高架沿いにチョッピリ歩くと、隅田川岸近くに石塚稲荷神社 (創建年代は不詳)がある。 かつて、柳橋芸妓組合(見番)がありし頃、その近くにあった祠である。 芸妓は座敷に出る前に手を合わせたであろう稲荷に、私もテラスに出る前に手を合わせた。 粗相なきよう心を込めて、二礼、二拍手、一礼。

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・・・・・・・・・・・・・高架橋の先に総武線隅田川橋梁が見える。 高架橋の左わきから隅田川テラスに下りる。

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蔵前橋・・・・・・・・・台東区蔵前と墨田区横綱を結び、橋上には「蔵前橋通り」(都道315号)を通す橋。 形式は3径間連続上路式ソリッドリブ2ヒンジアーチ/上路式コンクリート固定アーチ、橋長173.2m、石川島造船所の施工で大正13年(1924)9月に着工し、昭和2年(1927)11月26日に竣工した。 工事には東京市復興局が1,751,000円の工事費をかけてそうだ。 当時の物価は白米(10キロ)3円20銭、公務員の初任給75円の時代。 現在に換算すると、『ゴメン、計算できません。』、、、、、、橋名は、西岸(台東区側)架橋地点に幕府の米蔵があったことに由来する。 昭和50年代まで大相撲がおこなわれた蔵前国技館も橋の西詰にあった、今では懐かしい。

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・・・・・・・・・・・・・・橋の高欄には、力士のレリーフが施され、屋形船にのった柳橋芸者の姿もある。

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・・・・・・・・・・・・・東側(墨田区側)は、隅田川テラスの頭上を首都高向島線が走り、景観破壊だ!

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・・・・・・・・・・・・・橋から、下の道に直接下る階段も造られている。、、、、なんとなく“昭和”の景色だ。

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NTT蔵前専用橋・・・・・・・・・・・西岸(台東区蔵前)のNTT東日本蔵前通信ビルと対岸(墨田区横網)を結ぶ専用橋。 橋上には洞道(通信線トンネル)が敷設され、夏の高温対策に洞道内部を冷やす換気用の窓もあるそうだ。(実際には見たことなし!)、、、、、蔵前橋の下流側に並行に架けられ、景観上は邪魔な橋。、、、、、、3径間連続鋼箱桁橋、 橋長は155.4m、昭和42年(1967)3月の竣工である。

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・・・・・・・・・・・・・・対岸(台東区蔵前)にある白いビルがNTT東日本蔵前通信ビル

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・・・・・・・・・・・・・・墨田区側は首都高の下で道路下に潜り込んでしまう

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総武線隅田川橋梁・・・・・・・・・・・JR総武線、浅草橋駅と両国駅の間に架かる橋。 総武線が両国駅から御茶ノ水駅まで延伸するときに架けられた。 昭和7年(1932)の竣工である。 設計は元土木学会会長:東大教授:田中豊(たなかゆたか:1888~1964)で、日本の橋梁設計の大御所。 学会ではその業績を記念し、優れた特色を有する橋梁が毎年選考され、与えられえる土木学会田中賞の名称となっている。 「かつしかハープ橋」、「五色桜大橋 」、「新豊橋」などが受賞している。、、、、、、形式は3径間ゲルバー下路式ランガー桁(ランガー桁とは、桁とアーチの双方で荷重を支える補剛アーチ形式の一つ)、橋長は172m、橋桁製作は横河橋梁製作所。

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両国橋・・・・・・・・・・上流の総武線隅田川橋梁と同様に、このブログでは登場回数の多い橋である。、、、、、、西岸の中央区東日本橋と東岸の墨田区両国を結び、橋上には国道14号(京葉道路)を通す。 橋名の“両国”は、江戸時代、西岸は武蔵国で、東岸は下総国であった、その国境に架けられたことから命名された。、、、、、両国橋は江戸時代から何度も架け替えられたが、鉄橋が架けられたのは明治37年(1904)が最初である。 この橋は震災に耐え、その後南高橋 に転用された。、、、、、、現橋は、震災後に架け替えられたものである。 3径間ゲルバー式鋼鈑桁橋で、橋長は164.5m、昭和5年(1930)2月に着工し、昭和7年(1932)11月に竣工した。 施工は下部:間組、上部:石川島造船所。

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・・・・・・・・・・・・・車道と歩道の柵には、両国のイメージに合わせ、国技館と花火そして軍配がデザインされている。

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・・・・・・・・・・・・・・・東岸(墨田区側)から見る両国橋と柳橋

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・・・・・・・・・・・・・・両国橋の股から覗いた柳橋

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・・・・・・・・・・・・・両国橋から下流の浜町方向を望む。 見えるのは首都高向島線の橋

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2017年2月12日 (日)

駒形橋・厩橋

馬にちなむ二橋、駒形橋と厩橋を見てきた。 浅草橋の我が家から、蔵前をぬけて隅田川テラスを歩き押上駅まで、1万歩の散歩です。



蔵前神社・・・・・・・・・台東区蔵前3丁目に蔵前神社はある。 元禄6年(1693)、徳川五代将軍綱吉が石清水八幡宮を勧請したことをもって創祀とする。 江戸時代には、江戸城鬼門除けの守護神として、また徳川将軍祈願所の一社として篤い崇敬を受け、社領200石を寄進されていた神社。 社殿は戦災で焼失し、現社殿は戦後に再建されたものである。、、、、、、明治維新後に広大な社地を手放すことになったが、八幡神の強力なパワーは衰えず、今も境内の空気はピンとしている。、、、、、江戸時代は回向院、富岡八幡宮とともに勧進相撲を行い、相撲と縁のある神社の一つである。 玉垣には、戦後、近くに蔵前国技館があった頃活躍した力士(横綱:千代の山、鏡里、東富士、吉葉山 大関:栃錦、三根山、など)の名が並んでいる。 私にとっては、メンコ、キャラメルのカードなどで、毎日お会いしていた、懐かしい名だ!
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厩橋・・・・・・・・・・西岸(右岸)の台東区蔵前、駒形と、東岸(左岸)の墨田区本所を結ぶ厩橋(うまやばし)。 橋名は、西岸にあった蔵前の米蔵のための荷駄馬用の厩があった「御厩河岸」にちなむ。、、、、、、もともとこの地には、元禄年間頃から続いていた「御厩の渡し」のあった。 明治7年(1874)10月6日、長さ約150mの木橋が初めて架けられた。 次に、明治26年(1863)5月6日、プラットトラス形式、長さ約154mの鉄橋に架け替えられた。、、、、、その後、関東大震災で被災し、昭和4年9月、現在の橋に架け替えられた。 現橋は、東京市が施工を担当し、工事費は1,138,650円、3径間下路式タイドアーチ橋、橋長は151.4m、幅員22.0m、大正15年(1926)9月に着工し、昭和4年(1929)9月に竣工した。 橋は、馬をデザインしたレリーフなどが用いられている。 親柱には馬を連想させるステンドグラスもはめ込まれている。

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・・・・・・・・・・・・・4か所の親柱際に造られているコンクリート製のベンチ。 昭和初期の心遣いかな?

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・・・・・・・・・・・・・・下流側(蔵前橋方向)を望む

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駒形橋・・・・・・・・・・厩橋の上流約500mの位置に架かる駒形橋も関東大震災の復興橋の一つである。 優美なアーチが印象的な設計で、橋の途中には欄干が半円状に膨らんだところがあり、ゆっくりと川を眺められるように配慮されている。 総工費 1,899,591円で、大正13年(1924)7月に着工し、昭和2年(1927)6月25日に竣工した。 橋長149.6m、幅員 22.0m、中央径間は中路式ソリッドリブタイドアーチ橋、2か所の側径間は上路式ソリッドリブアーチ橋。、、、、、、、橋名は橋の西詰(台東区雷門2)にある、浅草寺本尊聖観音像の示現の地である「駒形堂」にちなみ命名された。

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・・・・・・・・・・・・駒形橋の上流、250m先には吾妻橋が見える

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スカイツリーを目指して歩く・・・・・・・・・・

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2017年2月11日 (土)

言問橋~吾妻橋

東武電車浅草駅から、言問橋、墨田区役所、吾妻橋、そして最初の浅草駅へ、ぐるり一回りしてきた。 1万歩。



東武鉄道浅草駅・・・・・・・・・・ターミナルデパートのはしりとなった駅ビルである。 昭和6年(1931)11月1日、東武鉄道浅草雷門駅(現:浅草駅)開業に際し、テナントとなったデパートは「松屋浅草支店」である。 当初のアール・デコ様式の外観は、一時、アルミカバーで覆われていたが、平成24年(2012)に復元された。、、、、、地上7階/地下1階の建物は、鉄道省の初代建築課長であった建築家:久野節(くの みさお、1882~1962)が設計、清水組の施工により、昭和6年(1931)10月に完成した。 久野節の作品は、千葉県佐倉高等学校記念館、近鉄宇治山田駅、旧蒲郡ホテルなどが、多くが現存している。、、、、券売機、ホームなどのある1・2階を除き、全フロアーを松屋が使用し、私が子供の頃は、7階が食堂、屋上が遊園地であった。 おもちゃ売り場は5階だったか? エレベータの扉上部には時計の針のように現在位置の階数が表示されていた。、、、、地下では地下鉄銀座線の浅草駅 につながり、さらに地下街もある。、、、、、懐かしい昭和の雰囲気が残る駅である。

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・・・・・・・・・・・・・・当初はビルの中から発車していた電車も今は長編成となり、ホームの先端はビルから飛び出し、隅田川の方向に大きくカーブしている。

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言問橋・・・・・・・・・・・隅田川の最上流から数えて21番目の橋は関東大震災復興橋。 大正14年(1925)5月に着工し、昭和3年(1928)2月10日に竣工した。(昨日が竣工89年目の誕生日であった) 構造形式は三径間ゲルバー鈑桁橋、橋長238.7m、幅員22.0m。、、、、「言問」の謂れは、在原業平の詠んだ 「名にし負はば いざ言問はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」 という歌に因むそうだ。 ただし、業平が実際にこの歌を詠んだ場所は白鬚橋の付近であったとされている。

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・・・・・・・・・・・・・・言問橋の東詰(墨田区向島)にある、橋から隅田公園に下る階段。、、、、先っぽが丸く尖ったコンクリート製の柱に、鉄製のパイプで造られた手摺。 これを見て、昭和の時代に懐かしさを感じるのは私だけか?

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・・・・・・・・・・・・・・昭和3年(1928)頃の言問橋。 まだ工事中らしい。 右端に、チョイと写っている階段は上の写真の階段と思われる。

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・・・・・・・・・・・・・・【余談】 今日は浅草駅から、まず東武伊勢崎線隅田川鉄橋の下を歩き始めた。 すると、台湾から一人旅の女性が近付き、スカイツリーをバックに写真を撮ってくれとスマホを持ってきた。 私、『中国語わかりましぇ~~ん』と日本語で応え、ゼスチャーでOKし、パチリ!パチリ! 先方の女性は、『あれがとう・ござれます~~』と礼を言って先へ進んだ。 しばらくすると、先ほどの女性がスマホを持ってきて、私に見せた。 そこには『スカイツリーへの行き方を教えてください』と日本語表示されている。 スマホに翻訳ソフトをインストールして来日したみたいだ。 会話が通じない者どうし、便利なソフトだと一瞬思ったが、なんと、私の言葉は相変わらず通じない。 スマホに入力したくても、私には使えない。 『ええい~~、ここは男、頼られたらしょうがない! 異国の女性の一人旅、日本男児の優しさを見せてやろう! 途中まで連れて行ってやるから、付いてきな!』と、ゼスチャーと片言の英語で伝える。 やっと、通じたか笑顔が見えた。、、、、二人で、言問橋を渡り、牛嶋神社の前をとおり、スカイツリーの近くまでお見送り。、、、、この間、お互いに母国語で喋っていたが通じたのは、双方の名前だけ。 最後は、しっかり握手し『行ってらっしゃ~~い』、、、、、結局、言問橋の写真を撮りに来た道を戻ることとなったが、国際親善に一役かったね!




東武伊勢崎線隅田川鉄橋・・・・・・・・・・22番目の橋は、東武伊勢崎線が浅草駅を出て、スグに隅田川を渡る橋。 伊勢崎線はこの鉄橋上にポイントが設置されているため。 電車はノロノロ運転(制限速度は15km/h)で橋を渡る。、、、、、、形式は中路カンチレバーワーレントラス、橋長は166mの鉄道橋、着工は昭和2年(1927)、竣工は昭和6年(1931)5月25日、橋梁の設計は土木学会の会長であった田中豊(1888~1964)、橋桁製作は横河橋梁製作所。、、、、、設計では、隅田川の景観に配慮するとともに、車窓からの景観を考慮して、高いトラス橋にせず曲線の架線柱が採用され、今や、隅田川の代表的な景観の一つとなっている。

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・・・・・・・・・・・・・車窓から撮った、橋上のポイント

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勝海舟像・・・・・・・・・・・・・ご存じ、勝海舟は、文政6年(1823)1月30日、本所亀沢町(現:墨田区両国4)で生まれ、育ち、明治32年(1899)1月19日に赤坂の氷川邸で逝去した。、、、、、平成15年(2003)に海舟生誕180年を記念し、隅田公園横の墨田区役所に銅像が建てられた。 右手で遠くアメリカを指さし、新しい日本を創るべく旅経つ姿を表現しているらしい。 

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吾妻橋・・・・・・・・・・・23番目の橋は、雷門通りを通し、台東区浅草地区と墨田区吾妻橋地区を結ぶ「吾妻橋」。、、、、、、創架は安永3年(1774)で、それ以前は「竹町の渡し」と呼ばれた渡し舟があった。 当時は、通行料2文の有料橋であったそうだ。、、、、、明治9年(1876)に木橋としては最後になった橋が架けられた。 この時、正式に「吾妻橋」と命名されたそうだ。 明治20年(1887)には、隅田川最初の鉄橋として架け替えられた。、、、、、現在の橋は、関東大震災復興橋として昭和4年(1929)に発注され、銭高組が施工した。 開通は昭和6年(1931)6月である。 形式は鋼橋ヒンジアーチ橋、長さ150.0m。 雷門の色に合わせ、朱に塗られた橋は、“浅草”の橋としてふさわしいデザインで、連日、外人観光客が橋からスカイツリーをバックに記念撮影をする観光スポットである。

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2017年2月10日 (金)

桜橋

都営浅草線の本所吾妻橋駅から、牛嶋神社、三囲神社に詣で、隅田川の上流から20番目の「桜橋」を渡り、今戸神社、待乳山聖天をまわり浅草まで、1万1千歩の散歩です。



牛嶋神社・・・・・・・・・・言問橋東詰、隅田公園(墨田区)に隣接して牛嶋神社がある。 神社は、貞観年間(859~79)の頃に創建したそうだ。 以前は、桜橋近くにあったが、昭和7年(1932)、関東大震災後の隅田公園の建設により、現在地に移転した。 荘厳にして風格のある、総檜権現造りの社殿は、この時に建てられたものである。 昭和20年の東京大空襲では、神楽殿を焼失したが、本殿をはじめその他の建物は一部被害を受けたが、ほぼ無事であった。、、、、祭神は、須佐之男命(すさのおのみこと)、天之穂日命(あめのほひのみこと)、貞辰親王命(さだときしんのうのみこと)の三神。
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・・・・・・・・・・・・・・・拝殿前の鳥居は、一つの神明鳥居の左右に小さな鳥居を控えさせた、珍しい三輪鳥居である。
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・・・・・・・・・・・・・・境内には、自分の身体の悪い部分と同じところを撫でれば治るといわれている「撫で牛」がある。 文政8年(1825)に奉納された。、、、、、『只今、悪いところなし』と言いたいのだが、『最近、寒さのせいかトイレが近く困ったもんだ』と思い出した。 だが、さてさて、どこを撫でたらいいのやら! 私が思う“撫でたい部分”は隠れてるぞ!

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三囲神社・・・・・・・・・向島の花街にある、三井家(越後屋=三越)御用達の三囲神社(みめぐりじんじゃ)。 神社の創建年代は不詳であるが、文和年間(1353~1355)に、近江三井寺の僧源慶が東国遍歴の際に社を改築したと云われている。 その改築をするとき、土を掘ると壺が出土し、白狐にまたがる老翁の像が出てきた。 すると、どこからか白狐が現れ、像の周りを三回回った死んだ、三囲神社の名はこの話に由来するそうだ。、、、、、三井家が江戸に進出して以来、三井家の守護神として崇敬を集めている。 

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・・・・・・・・・・・・・三井邸より移された三角石鳥居、、、、鳥居を3基組み合わせたもので三柱鳥居と言われる。 ここ三囲神社の鳥居は中心に井戸がある。、、、、、夏の寝苦しい夜、井戸の中から夜目にも白い美女がス~~~と出てきそうな井戸である。 

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・・・・・・・・・・・・・こちらは、かつて池袋の「三越」デパートに置かれていたライオン像

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桜橋・・・・・・・・・・・・墨田区向島と台東区今戸を結び、隅田川に架かる歩行者専用橋。 台東区と墨田区が姉妹提携した記念の橋。 連続鋼X形曲線箱桁橋という形式で、橋長は169.45m、昭和55年(1980)11月に着工し、昭和60年(1985)4月11日に完成した。 総工費は28億3000万円。、、、、、両側は、両区の隅田公園があり、河岸は全国的な桜の名所である。 シーズンには桜を楽しむ多くの人がこの橋を渡る。

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・・・・・・・・・・・・・・・上流側(白鬚橋側)を望む

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・・・・・・・・・・・・・・・下流側(言問橋側)を望む

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今戸神社・・・・・・・・・・・桜橋を渡り台東区今戸1丁目には、最近、縁結びで有名な今戸神社がある。 恋愛に悩む迷える子羊ならぬ子猫の為、今日も、数組のカップル、同性どうしが来ていた。、、、、、社殿にはビッグなペアの招き猫もおかれ、恋愛運アップの御利益を授かりたい人から崇敬(?)されている。、、、、、爺の私には縁遠い神社だが、参拝している人は真剣な様子だ。 一人で、タクシーで乗り付ける若い人もいてビックリ、驚き。 

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・・・・・・・・・・・・・・境内の河津桜も咲き、春到来

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待乳山聖天 ・・・・・・・・・・・桜橋の西側に、浅草寺の子院で、創建は推古3年(595)年に遡る待乳山聖天本龍院がある。 関東三聖天の一つ。、、、、“聖天”とは、“商店”にあらず、仏教を守護する天部の善神で大聖歓喜自在天のこと。、、、、境内の各所に、大根、巾着が印され聖天の御利益を表している。 大根は、深い迷いの心、瞋(いかり)の毒を表し、大根をお供えすることで、聖天が心の毒を清めてくれる。 その結果、心身が健康になり、良縁成就、夫婦円満、家族和合のご加護を授かることができる。 巾着は財宝を表し、商売繁盛、事業繁栄のご利益を示している。 つまりは、いろいろなご利益が期待できるということ。、、、、、毎年買っているジャンボ宝くじ、今だに当たらないのだが?????

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2017年2月 6日 (月)

白鬚橋

今日も浅草橋から、南千住行の都バスに乗って「清川二丁目」で下車し、白鬚橋を渡り、京成曳舟駅まで、1万1千歩の散歩です。



清川二丁目・・・・・・・・・台東区の北東に位置する“清川地区”。 その清川の北半分が、商業地であり住宅地でもある、清川2丁目である。 また、ドヤ街:“山谷”の一画でもある。
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・・・・・・・・・・・・・・・バス停の前には、チョイと古そうな建物(戦前の建築?)がある。 現在は、1階がカラオケで、2階が理容室。、、、、、1階は改装し、2階は塗り替えられたが、2階外部のデザイン形状は変化していない。

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・・・・・・・・・・・・・二丁目南側のアサヒ会通りに面した木造モルタル塗りの7軒長屋。、、、、台東区周辺には、このような木造の長屋が随所に残っている。 

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・・・・・・・・・・・・・・大通りからチョイと横に入ると寶珠稲荷神社がある。、、、、、寶珠稲荷神社の創建年代は不詳だが、天正17年(1598)には浅草寺門前町の浅草町の鎮守として祀られていたそうだ。 万治元年(1658)浅草町が御用地となり、町と共に亀戸に移転、天和二年(1682)に当地へ再度移転した、神社の出戻りである。、、、、、現在は町中の小さな一画に鎮座するお稲荷さん。

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・・・・・・・・・・・・・・清川2丁目の町の中央にどっしりと腰を下ろす玉姫稲荷神社 。 神社の周囲には簡易宿泊所が並び、労務者、ホームレスの姿も散見される。、、、、、神社の隣の公園では、10人程のホームレスが集めた空き缶を換金していた。 チョイと慣れないと近寄りがたい雰囲気だ。

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橋場不動尊・・・・・・・・・・清川2丁目の東隣は台東区橋場2丁目、ここに、天平宝字4年(760)の創建の橋場不動尊がある。 当初は法相(ほっそう)宗の寺で、長寛元年(1163)に天台宗に改め、鎌倉時代以降は浅草寺末寺となり、現在は比叡山延暦寺の末寺だ。、、、、、明治末年の大火、関東大震災、そして昭和20年の東京大空襲、いずれも不動院を中心とした橋場の一角だけは災禍をまぬがれたことから、霊験あらたかな橋場不動尊として現在でも広く庶民に崇められている。、、、、、、江戸時代の建築様式を残す小さな堂は簡素な佇まいで、下町の庶民の寺である。

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白鬚橋 ・・・・・・・・・・・隅田川の最上流から数えて19番目の橋。 橋上は明治通りを通し、西岸(右岸)の荒川区南千住および台東区橋場と、東岸(左岸)の墨田区堤通を結ぶ関東大震災の復興橋。、、、、もともとは、「橋場の渡し」と「白鬚の渡し」という渡船場があった場所である。 大正3年(1914)に初めて橋が架けられたが、有料の木橋であった。 震災後は、東京府が買い取り復興事業として現在の橋が架けられた。、、、、、下路式ブレースドリブドタイドアーチ橋という形式で、橋長は168.8m、幅員は22.1m。 昭和3年(1928)7月に着工し、昭和6年(1931)8月に竣工した。 増田淳(ますだじゅん、1883~1947)の設計、大林組の施工、川崎造船所の橋桁制作である。

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・・・・・・・・・・・・・・上流(水神大橋側)を望む。、、、、写真右側が墨田区堤通、左側が荒川区南千住。

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・・・・・・・・・・・・・・下流側(桜橋側)を望む。、、、、写真右側は台東区橋場、左側は墨田区。

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白鬚橋病院・・・・・・・・・白鬚橋を渡ると、忘れることのできない病院である。、、、、、あれは、4年前の厄日の事だった。 鐘ヶ淵駅前で転び、こちらに救急搬送された、その節はお世話になりました。 

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・・・・・・・・・・・・【雑談】 私は生まれてこれまで、6回半救急車にお世話になった。 搬送された病院はどこも一流処で、某警察病院、東京の国立大学附属病院(2件)、東京の私立病院(3件)。 いずれも、異なる病気で脱臼・貧血・大動脈瘤などなど。 そして、大阪では救急車が駆けつけてくれたが、世話にならず回復。 どこの病院でも親切に診ていただき、おかげさまで、今はいたって元気。、、、、、救急隊・救急病院に感謝です。




●・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・この後、京成曳舟駅から帰宅。

2017年2月 4日 (土)

水神大橋

浅草橋の我が家から、都バスで飛ばして15分、南千住の手前に泪橋(なみだばし)停留所がある。 今日の散歩はここから、隅田川最上流から数えて18番目の橋:「水神大橋」を渡り、東武伊勢崎線鐘ヶ淵駅前をとおり、京成押上線の八広駅まで、1万2千歩です。



泪橋・・・・・・・・・・・台東区と荒川区の区境である「明治通り」と、言問橋と千住大橋を結ぶ「吉野通り」が交差する処が「泪橋交差点」である。、、、、、、泪橋は、荒川区南千住にある小塚原刑場跡 近くの思川(おもいがわ)にかかっていた橋。 現在では、思川が暗渠化されたため橋の面影はなく、名前だけが交差点、バス停に残されている。、、、、泪橋の由来は、江戸時代、小塚原刑場では磔・火焙り・獄門が行われ、牢内で斬首された首はここに運ばれて晒された。 小塚原は山谷地区の北側にあり、刑場との間には思川が流れ、橋がかかっていた。 刑場にはこの橋を渡って行った。 橋は、罪人にとってはこの世との別れの場であり、家族や身内には、処刑される者との今生の悲しい別れの場となった。 互いに、この橋の上で泪を流し別れたことから、「泪橋」と呼ばれた。、、、、、橋も川もなくなり、せめて石碑ぐらい建てて名を残して欲しいね。
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・・・・・・・・・・・・・・・泪橋を中心とした台東区・荒川区にまたがる「山谷地区」は、江戸時代は日光街道の宿場であった。 戦後は、安い木賃宿が簡易宿泊所となり、“ドヤ街”を形成した。 現在も泪橋の周辺には、多くの簡易宿泊所がある。 一部では、利用客が労務者から外人観光客に変わり、玄関前に「welcome」の看板を出している。

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咲いた、咲いた、サクラが咲いた・・・・・・・・・今日は立春、南千住では春が来た!

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瑞光橋公園・・・・・・・・・・JR貨物の隅田川駅の東端近く、隅田川沿いに入江を利用した公園がある。 面積は約13,000㎡、平成18年(2006)6月8日に開園した。

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・・・・・・・・・・・・・入江の奥には、「汐入水門」の跡が残されている。、、、、、水門跡の案内番には次のように説明されていた。 「汐入水門は、隅田川貨物駅構内に掘り込まれた運河の水位を調節し、駅構内と周辺地域を水害から守るため、昭和28年に誕生した。隅田川貨物駅は明治30年に石炭の集散地として開設された駅である。 鉄道(常磐線)と隅田川の水運を結びつける構造をもち、そのための運河が造られた。元来この地域は土地が低く、運河の護岸は荷物の揚げ下ろしの関係上、低く造られていたため、満潮時には付近に浸水し、さらに台風などの異常な高潮時には南千住ばかりでなく、浅草方面まで被害をこうむっていた。水門は、この水害を防ぐために建造されたのである。しかし貨物の輸送が船による河川輸送から鉄道 ・トラックによるコンテナ輸送に切り替わると、運河は不用となり昭和45年頃には全て埋め立てられ、水門もその役割を終えた。」

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・・・・・・・・・・・・・・昭和30年頃の汐入水門

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・・・・・・・・・・・・・入江の入り口には、公園内の橋として瑞光橋が架けられている。

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水神大橋・・・・・・・・・・水神大橋は、隅田川に架かり、荒川区南千住と墨田区堤通を結ぶ。 ここには、もともと「水神の渡し」という渡船場があった。、、、、、 3径間連続ニールセンローゼ桁橋、橋長は157.0m、昭和59年(1984)に着工し、平成元年(1989年)3月に竣工した。、、、、、、あいにく、只今、塗装の塗り替え工事中で足場で覆われ全容は見えない。 イスラム女性のブルカだと思って、隠された顔を想像するのも一興か?

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・・・・・・・・・・・・・・ブルカをチョイとはずして、3年前の水神大橋(2014/12/2撮影)

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・・・・・・・・・・・・・橋上から、上流側(千住汐入大橋側)を眺める。

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・・・・・・・・・・・・股下(橋下)から、下流側(白鬚橋側)を眺める。

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円徳寺・・・・・・・・・水神大橋を過ぎ、鐘ヶ淵駅方向に直進すると墨田5丁目に、曹洞宗の醍醐山円徳寺がある。 朱塗りの山門が目立ち、赤門寺とも呼ばれているそうだ。、、、、、慶長18年(1613)に文京区駒込にある吉祥寺の和尚の開山。 本尊は薬師如来。、、、、、、境内には大きな、寛文12年の庚申塔が祀られている。

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墨田聖書教会・・・・・・・・・・・・鐘ヶ淵駅から八広駅に向かう途中、墨田3丁目の裏通りに建つ教会。、、、、、、戦後、アメリカ人宣教師と地元の人たちとの協力により昭和29年(1954)に創立した日本オープンバイブル教団(プロテスタント)の教会。 かまぼこ形兵舎を再生し、使い続けられている、都会にあっては珍しいモダン建築である。

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2017年2月 3日 (金)

千住汐入大橋

南千住駅から、隅田川の上流から17番目の千住汐入大橋を渡り、旧綾瀬川の合流部を見て、東武伊勢崎線堀切駅まで、1万1千歩の散歩です。



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胡録神社・・・・・・・・・・南千住駅の北東、JR貨物の隅田川駅の先は、高層マンションばかりが建ち並ぶ汐入地区(南千住8丁目)。 その中央付近に、今から450年以上前の永禄4年(1561)8月の創立の胡録神社がある。、、、、、汐入地区の再開発は、昭和44年(1969)、東京都が荒川区東部:「汐入地区」の大規模再開発基本構想を発表した時点から始まる。 木造家屋が一軒も残ることなく、高層化されたのは平成22年(2010)の汐入東小学校が完成した時点である。

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・・・・・・・・・・・・・上杉謙信の家臣:高田嘉左衛門なる者は、川中島合戦に敗れ、十余名の同志とともに当地(汐入地区)に厄難を逃れ、永住の地と定めた。 村落生活の安寧を祈願するため、両足尊(おもだるのみこと)・惶根尊(かしこねのみこと)の両祭神を享保4年(1719)に奉斎した。、、、、、歴史ある神社だが、平成15年に汐入地区の再開発計画に従い、境内地を前方に遷座した。、、、、、本殿は嘉永5年(1852)に造営され、拝殿は昭和2年(1927)に竣工された。

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・・・・・・・・・・・・今日は節分、境内では豆まきの準備中。 境内のウメも、明日の立春前に咲き始めた。

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千住汐入大橋・・・・・・・・・・・南岸(右岸)の荒川区南千住8丁目(汐入地区)と北岸(左岸)の足立区千住曙町を結ぶ橋。 隅田川に架かる橋の中では新しく、平成18年(2006))2月19日に開通した。 都が災害時の防災拠点として整備している白鬚西地区(墨田区)の主要連絡路であり、足立区、荒川区、葛飾区を相互に繋ぐ重要拠点として架橋された。、、、、橋長158.6mの2径間連続鋼床鈑箱桁橋。、、、、、橋のあったこの地には、かつて「汐入の渡し」があったそうだ。

・・・・・・・・・・・・・・上流側から見る千住汐入大橋。 左側は足立区千住曙町。
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・・・・・・・・・・・・・・下流側から見る。 対岸は荒川区南千住。

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・・・・・・・・・・・・・・・スマートな印象の橋。 幅員は20.0m。

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・・・・・・・・・・・・・・橋上から見る上流。 写真左側は荒川区南千住(汐入地区)。 右側は足立区千住地区。

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旧綾瀬川・・・・・・・・・・綾瀬川は 埼玉県桶川市に端を発し、伊奈町、さいたま市、越谷、草加を経て都内葛飾区西小岩で中川に合流した後、東京湾に注ぐ、総延長47.6kmの一級河川。 昭和5年(1930)の荒川放水路完成にともない、綾瀬川は墨田区・足立区と葛飾区に分断された。 葛飾区側は荒川放水路(現:荒川)に沿って区の西側を流れ下り、西小岩で中川と合流する。 墨田区・足立区側は荒川の隅田水門から分流し、墨田区堤通2・墨田5と足立区千住曙町の区境として、隅田川に注いでいる450mの部分である。 この450mを旧綾瀬川と呼んでいる。、、、、、今日は隅田川との合流点から、荒川の隅田水門に向かって歩いた


・・・・・・・・・・・・・・次の写真を撮影している荒川区南千住とは、隅田川を挟み対岸の旧綾瀬川合流地点。、、、、、、写真中央が合流地点で、旧綾瀬川の頭上を首都高6号向島線が走る。 また首都高の桁下に綾瀬橋のアーチが見える。、、、、、対岸の右側は墨田区、左側は足立区である。 つまり、ここは3区の境。

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・・・・・・・・・・・・・・おまけの話、、、、、合流点の足立区側に見える、「伊澤造船」という造船所は、明治10年(1877)に創業した古い歴史をもつ会社である。、、、、隅田川には、多くの造船所があったそうだが、現存する造船所はここ一か所だけである。

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・・・・・・・・・・・・・・綾瀬橋、、、、、、 旧綾瀬川が隅田川に合流する墨田区墨堤2丁目と足立区千住曙町を結ぶ。 昭和33年(1958)7月に竣工した、橋長61.5m、幅20.5m、墨堤通りを通す橋。、、、、、荒川にチョン切られ、本家の綾瀬川からは外れ、隅田川沿いに置き忘れられたかわいそうな“綾瀬橋”。 さらに、暗い人生を歩むがごとく、首都高が覆いかぶさり、存在感も薄くなり、心痛める“綾瀬川”

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・・・・・・・・・・・・東武伊勢崎線堀切駅前の人道橋から見る旧綾瀬川。 右側の車道が、水面より低く見えるのは私だけか?、、、、、カミソリ堤防が崩壊したら“東京水没”である。 恐ろしいね!

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・・・・・・・・・・・・隅田水門、、、、、、荒川と隅田川を結ぶ旧綾瀬川の始点にある水門。 この水門は、増水時に荒川の水が隅田川に流入するのを防ぐ目的で造られた。 現水門は昭和43年(1968)に竣工した。、、、、普段、水門は開いており、船が荒川と隅田川を行き来している。、、、、、水門の前を通過するのは東武伊勢崎線(堀切~鐘ヶ淵間)である。

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荒川土手から・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・隅田水門の脇抜け、荒川を越え、対岸の綾瀬川沿いに北上する首都高(向島線と中央環状線が合流する)

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・・・・・・・・・・・・・・・・荒川の上流には堀切橋が見える

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