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2017年3月

2017年3月31日 (金)

小石川植物園

チョイト一雨降りそうな空模様であったが、今日はお友達と小石川植物園へ花見に行ってきました。、、、、、散歩はお休みです。


●・・・・・・・・・・・・一目、三分咲きかな?
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●・・・・・・・・・・・・本館、、、、、昭和14年(1939)に竣工した、女性的でモダンな本館。 研究施設らしい女性的で、モダンな建物。  設計は、元東京帝国大学総長で、文化勲章を受章した内田祥三(うちだよしかず、1885~1972)。
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●・・・・・・・・・・・・旧東京医学校本館、、、、、、明治9年(1876)に竣工した旧東京医学校本館、つまりは東大医学部の前身である。 建物は、西郷元善(工部省営繕局)の設計で建てられた。 昭和44年(1969)本郷から小石川植物園に移築された。 木造2階建て、塔屋付、桟瓦葺の擬洋風建築物。 現在は、国の重要文化財で、東京大学総合研究博物館の分館として使用されている。

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2017年3月29日 (水)

一之江~葛西

都営新宿線の一之江駅から、新中川と旧江戸川の合流点を見て、地下鉄東西線の葛西駅まで、1万1千歩の散歩です。


一之江駅 ・・・・・・・・・・都営新宿線の一之江(いちのえ)駅は昭和61年(1986)9月14日に開業した島式ホーム1面2線の地下駅。 駅は東京都が出資する第三セクター:㈱東京交通会館が所有する4階建ての駅ビルの地下にある。、、、、、駅前のバス停は、10番乗り場まであり、都バスを主体に江戸川区内四方八方に路線がひかれている。 地理的に見ると江戸川区の中心だ。
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新今井橋・・・・・・・・・・・新今井橋は、新中川 に架かる橋のひとつで、東西両岸とも江戸川区西瑞江四丁目である。 橋上には都道50号東京市川線(新大橋通り)を通す。 東岸の先にて、都道は今井橋で旧江戸川を越え千葉県市川市に入る。、、、、橋は、3径間連続鋼鈑桁橋、橋長121.5m、開通は平成9年(1997)11月23日である。
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今井水門・・・・・・・・・水門は新中川が旧江戸川に合流する地点に、昭和37年(1962)に設置された防潮水門である。 江戸川区・葛飾区・足立区の低地帯を高潮や津波の侵入から守るため、有効幅員14.5m、高さ9.46mのゲートを7連備えている。 都内では最大級の水門である。
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・・・・・・・・・・・・只今、総工事費13億3千万円投入し耐震補強工事を進めている。 これで、想定する最大級の地震が発生しても津波・浸水を防ぐことができるそうだ。 ホントかいな?
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瑞穂大橋・・・・・・・・・平成18年(2006)に着工し、平成23年(2011)1月29日に完成した、長さ163.3mの3径間連続鋼床版桁橋。 両岸の道路線形に合わせ、橋上中央で緩やかな「くの字」にカーブした形の橋である。
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新中川と旧江戸川の合流点・・・・・・・・・・・写真右から流れ下る旧江戸川、左から新中川が合流する。 右側(対岸)は千葉県市川市。 (江戸川区江戸川5丁目付近から撮影)
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江戸川区江戸川の演出?・・・・・・・・・・・江戸川で見た洗濯物。 住宅の表通り側に干された洗濯物。、、、、、、ヨーロッパの裏通りでは向かい側の建物との間にロープを張り洗濯物を干している写真を時たま見ることがある。 江戸川では、壁にぶら下げるようだ! よく見ると、1階にも物干し竿がある、こちらの御宅は前を歩く人に“見て楽しい洗濯物”を演出しているのかも? 女性物はどのように干すのか、知りたいね!
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古川親水公園・・・・・・・・・・・・江戸川6丁目の町中を清流が流れる親水公園。 古川は江戸時代からの水運に使用された水路であったがその役目は終わり、昭和45年(1970)頃までには悪臭が漂ういわゆるドブ川となっていた。 江戸川区は、周辺の下水道の整備を進めると共に、川を埋め立てる予定であったが、川を残してほしいという地元の要望を受け、水の流れる公園として再生させることとなった。 昭和48年(1973)7月にはその一部が完成し、日本初の親水公園となった。 昭和49年(1974)には、全日本建設技術協会が与える全建賞を受賞した。、、、、、綺麗に手入れされ、散策に気持ち良い親水公園が、1,200m程続いている。
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妙勝寺・・・・・・・・・・・日蓮宗寺院の妙勝寺は、本覚山成就院と号し、徳治2年(1307)に開山した。 もとは、中山法華経寺の末で、末寺14ヶ寺を擁していた中本寺格の寺院であった。 大木に囲まれた広い境内に、伽藍は配置されている。 数本の桜の古木が花をつけ、これからが楽しみである。
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二之江神社・・・・・・・・・妙勝寺の門前にある二之江神社は、昭和42年(1967)11月3日、氏子によって、これまでの香取神社と八幡神社とを合せて新たに二之江神社とした。 香取神社の創建は不詳であるが、経津主命をまつり現在地にあって旧二之江村の鎮守であった。 八幡神社は寛文年間(1661~1673)の創建で誉田別神を祀り、妙勝寺の境内社であった。

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新川・・・・・・・・・・旧江戸川と中川を結び江戸川区を東西に流れる運河が新川 である。 新川も川筋の整備が進み、これから咲く「新川千本桜」も楽しみである。、、、、、、、今日は新川を越えて、葛西駅に向かう。

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葛西駅 ・・・・・・・・・地下鉄東西線の葛西駅。 地下鉄博物館のある駅だが、快速は通過する悲しい駅。

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2017年3月28日 (火)

千葉都市モノレール

パソコン同好会の帰り、総武本線稲毛駅から千葉都市モノレールの作草部駅まで歩き、モノレールで千葉駅へ出て帰宅。・・・・・・・・・この散歩ルートは昨年も歩いた。 今日は、千葉都市モノレールの穴川駅と作草部駅をチョピット紹介!


千葉都市モノレール・・・・・・・・昭和63年(1988)3月28日に最初の区間として、スポーツセンター~千城台間が開業し、平成3年(1991)6月12日に千葉~スポーツセンター間が開業した懸垂式モノレール。、、、、、今日はチョウド、29年目の誕生日だ、おめでとう!


穴川駅 、、、、、大股を広げ道路に覆いかぶさる駅は、都市の美観を損ね、いつ見ても好きになれない!、、、、、道路の頭上にある改札口は、広々とし、誰もいない!

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・・・・・・・・・・・・・・・穴川駅に向かう1000形車両 、、、、、開業時から活躍してきた車両である。 車体には交通安全標語、企業名のラッピングが施されている。 標語・企業名にはケチをつけないが、コテコテにラッピングした車体が道路の頭上を走る“千葉のセンス”には首をかしげる!

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・・・・・・・・・・・・・・穴川駅から出てくる新型車両0形「URBAN FLYER 0-type」、、、、、こちらは車体に標語もなく、すっきりしたデザインの車両である。 ウン、これなら納得!

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・・・・・・・・・・・・・・穴川駅からスポーツセンター駅方向を望む、、、、、見るたびに、都市の美観を考えてしまう光景。
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・・・・・・・・・・・・・・穴川駅の横(道路際)にあった立札と石碑、、、、、駅の前でも痴漢が出没する処(?) 隣には、広い森の中に直径120m程の貝塚がある、「園生貝塚」の入口を示す碑がある。 森の中は危ないよ!

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●作草部駅・・・・・・・・・・・・作草部駅(さくさべえき)も、道路上に大股を広げる!

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・・・・・・・・・・・・・・『オウ! さっき穴川駅で見た1000形だ!』

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千葉駅・・・・・・・・・・・モノレールの千葉駅で下車

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・・・・・・・・・・・・・・『アンレ・マー なんと、モノレールの駅からJR千葉駅の3階改札に直結している! オッたまげたことだ!』

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・・・・・・・・・・・・・・垢抜けた千葉駅、これで対埼玉戦に勝つかも(?) とりあえず駅正面を見てみよう!、、、、、今までの1階改札口は無くなり、エスカレーターで3階へ直行だ!

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●・・・・・・・・・・・地方の駅がリニューアルし、超明るく、便利で、楽しそうな駅に変わる、今日この頃、我が「浅草橋駅」だけは80年以上大きな変化なし。 いまだエスカレーターのない駅、駅売店もない駅、もちろんショッピングセンターなどありゃしない。 地元住人としては、泣くに泣けない悲しい駅だ!




●・・・・・・・・・・・付録:千葉の春

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2017年3月24日 (金)

三河島事故

昨夜、寝ながら読んだ本に「三河島事故」の話があり、事故現場には何も残されていないとの記述があった。 今朝、起きると気になり、チョイト事故現場に行ってみることにした。 常磐線南千住駅から、事故の跡を求めウロウロ。 結局、隣の三河島駅まで9千歩の散歩となった。

・・・・・・・・三河島事故、、、、、昭和37年(1962)5月3日(憲法記念日)の21時37分頃、田端発水戸行のD51牽引の貨物列車が三河島駅を過ぎたところにある、貨物線が本線に合流するポイントで、安全側線に衝突し脱線した。 そこに上野発取手行の下り電車が衝突。 さらに数分後、取手発上野行の上り電車が衝突した。 二重衝突である。 死者160人、重軽傷者383名を出した、日本の鉄道史上に残る大惨事となった。


南千住から三河島方面を遠望・・・・・・・・事故後50年以上経過し、事故を語る人も少なく、町も変わっているが、現場には何か残っていないか? 行ってみよう!
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盛土を走る常磐線・・・・・・・・・三河島~南千住間は盛土で、線路際まで建物が迫っているところもある。

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・・・・・・・・・・・・・・煉瓦造りの第3三の輪ガード

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・・・・・・・・・・・・この付近が事故現場と思われるところ。 線路際まで建物が迫まり、三河島事故の現場を標すものは何もない。、、、、線路は4本あり両外側の2本が貨物線、内側の2本が常盤線本線となっている。 貨物線は田端方面から三河島駅の先(南千住側)で本線に合流している。

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●・・・・・・・・事故の原因は、貨物列車の機関士の信号無視であった。、、、、その日は、早朝から地震の影響でダイヤが乱れていた。 定刻通り運行していた45両編成の貨物列車は貨物線から常磐線本線に合流するポイントに向かっていた。 そのころ、貨物列車より先にポイントを通過している予定の下り電車は、ダイヤの乱れで遅れていた。 下り電車を通すためポイントが切り替わっていなかったが、貨物列車の機関士は本線との合流地点手前の勾配上で停止すると再起動が難しいことから見切りで列車を進めてしまい、脱線を引き起こした。 そこに、遅れていた下り電車が突入しこちらも脱線した。 不幸なことに、約6分後、早いスピードで走ってきた上り電車が脱線した下り電車に激突し、大惨事となった。




浄正寺 ・・・・・・・・ 三河島事故を記憶にとどめ慰霊する聖観音像が、事故当時、遺体収容所となった三河島駅の北東(荒川3丁目)にある浄土宗の清国山快楽院浄正寺に建立され、現在も献花が絶えない。

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●・・・・・・・・・・・事故の起きた昭和37年(1962)、私は16歳だった。 当時、新聞、TVのニュースで惨事が報道されていたことは記憶しているが、事の重大さ、悲惨さを痛感することはなかった。、、、、現場を見ず、報道の表面を読んだにすぎず、他人事として受け止めていたのかも。、、、、碑の側面に刻まれた詩:「三河島事故に捧ぐ   安らかに眠れとは 如何に悲しき言の葉か つま待つ家の帰り路を 知るよしもなき此の惨事 あゝ たれぞ知る此の惨事」、、、、、未だに身元が判明しない犠牲者が一人いるそうだ。




三河島駅・・・・・・・島式ホーム1面2線の高架駅であるが、本線の両外側に一本づつ線路がある。 これが貨物線である。 

・・・・・・・・・・・事故現場からは、尾竹橋通りを挟み向かい側に駅がある。

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・・・・・・・・・・・・本線の外側(写真右側)にもう一本線路がある、これが貨物線。 貨物線は勾配がついている。 三河島駅の先(南千住側)で本線に合流する。 その合流点が事故現場。

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●・・・・・・・・事故後、再発防止策として、自動列車停止装置(ATS)の設置を急ぎ、昭和41年(1966)までに国鉄全線に設置された。



●・・・・・・・・「三河島」の地名は太田道灌の時代からある歴史ある地名だが、この事故が原因か(?)、昭和43年(1968)の住居表示にて消えた!、、、、現在は、駅名(JR、京成)として残るのみ。 これ、また、悲し!

2017年3月23日 (木)

靖国通り

気象庁は21日、東京で桜が開花したと発表した。 平年より5日早い開花宣言である。 気象庁は間違えることはないと思うが、念のため私が自分の目で確かめるべく、今日の散歩では、靖国神社の標本木開花状況を確認に行くこととした。、、、、、浅草橋の我が家から、靖国通りを歩き靖国神社へ、帰りは市ヶ谷駅から帰宅。 1万2千歩の散歩です。


浅草橋交差点・・・・・・・・「浅草橋」の町と駅は台東区側に、神田川に架かる「浅草橋」の両岸は台東区と中央区、「浅草橋交差点」は中央区側にある。 毎度のややっこしい説明である。、、、、浅草橋交差点には、都電12系統(新宿駅~両国駅)、29系統(葛西橋~須田町)の浅草橋停留所があった。 中学生の私は、ここから都電通学をしていた。、、、、交差点角の旗店(写真左端)は、私が高校生の頃、夏・冬休みの間、数年間バイトで世話になった店である。 写真右端には、昭和初期に建てられたイーグルビル がある。

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東神田交差点・・・・・・・・・・・50年ほど前、ここには都電の豊島町停留所があった。 角に建つのは、平成3年(1991)に竣工した龍角散ビル。、、、、、交差点角に植えられた桜は散り始めていた。

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岩本町交差点・・・・・・・12系統、29系統の都電は、浅草橋、豊島町と停まり、次は岩本町停留所である。 今は、都営新宿線の岩本町駅が地下にある。、、、、、私の勤務先のオフィスが交差点の角のビルにあり、短い期間であったが徒歩通勤できた時期もあった。

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須田町交差点・・・・・・・・29系統はここ須田町停留所が終点。 通学する私は、ここで10系統(渋谷駅~須田町)、12系統に乗り換える。、、、、、、写真左端のビルが建つ前は、フルーツパーラーも営業していた高級果物屋「万惣」があった。 戦前からモダンなビルで営業し、ホットケーキ、フルーツパフェは絶品であった。 その万惣は東日本大震災によって変わったビルの耐震基準を満たせず建て替えが検討されたが、経営が難しく廃業することとなった。 私は6歳ぐらいまで、祖母とよく万惣にきた思いでの店だった、残念!

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・・・・・・・・・・・万惣とは180度反対側の交差点角に、鷹岡東京支店のビルがある。 こちらは、昭和10年(1935)に建てられた建物で、千代田区景観まちづくり重要物件に指定されている。

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淡路町交差点・・・・・・・・10系統、12系統とも須田町の次は淡路町停留所、、、、、淡路町交差点を北へ向かうと「神田志乃多寿司 」がある。 明治35年(1902)創業の稲荷ずしの老舗である。 我が家では、月に1回程は食する食事メニューの定番。

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・・・・・・・・・・・もう一つ、味の老舗、蕎麦の「神田まつや」(創業明治17年)。 こちらは、自分で行って、食べれば判る! 現在の建物は大正14年(1925)築

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小川町交差点・・・・・・・・ここには、小川町停留所があった。、、、、かつて、近くの美土代町にYMCAの本部ビル(写真:中央左側の大きなビルの付近)があり、そこの地下にプールがあった。 中学生の私が利用しに行って驚き、恥ずかしく、胸ドキドキしたことを忘れることはできない。 昭和37年頃の話だが、当時はまだ衛生状態が悪く病気に注意している時代。 YMCAのプールは男性専用で、主にアメリカ人が利用し泳ぐ人は皆“ふるチン”だった。 私も用意してきた海パンを着用せずに利用したが、泳ぎの練習にはならず、恥ずかしさのみ残った。(あそこも、ちいさかったからね) 2度と行くことはなかったね!

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駿河台下交差点・・・・・・・ここも、その名と同じ駿河台下停留所があった。、、、、“三省堂前”と命名しても違和感のない停留所。 神保町から駿河台下までは本屋が並び、昭和30年代は学習参考書を買いに、昭和40年代は建築関連の図書を求め、昭和60年代はエロ本を求め裏通りの書店に、平成になると本も読まず本屋巡りは遠退いた!

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・・・・・・・・・・・駿河台下から見る我が母校明治大学リバティータワー。 平成10年(1998)に完成した、地上23階/地下3階、高さ約120mの校舎。 私が学んだ頃は、こんな建物はなくドーム屋根の古びた記念館であった。

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神保町交差点・・・・・・・・神保町停留所があった。 ここで、通学時の私は、18系統(志村坂上~神田橋)か35系統(巣鴨車庫~田村町一)に乗り換え、指ヶ谷町(現:地下鉄三田線白山の近く)に向かった。、、、、、交差点角の廣文館書店は戦前からある書店だが、置いてある書籍は学習書ではなく、旅行・グルメ・雑誌が主であった。 今時の学生は『傾向と対策』、『赤尾の豆単』など買わないのか? 売ってないのか?

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専大前交差点・・・・・・・・・・都電10系統、12系統は専修大前停留所と呼んでいた。、、、、、ここの交差点角にみずほ銀行のビルがある。 このビルは、私が勤務していたゼネコンが建て、東京支店が入居していたビルで、仕事の関係でしばしば訪れ勝手知ったるビルだった。 今はよそ者である。、、、、、その向かいに、知る人ぞ良く知るアダルト向けのH書店がある。 今はDVDの時代だが、私が足しげく通った頃は、ビニールのかかった“ビニ本”の時代。 雨の日、店先で傘をなくし、店内で会社の人に会い、互いに秘密を知った良き時代であった。

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九段下交差点・・・・・・・交差点名と同じ、九段下停留所があった。 軍人会館九段会館はこちらで下車、ただし東日本大震災以降は閉館中。、、、、今日は、武道館で東洋大学の学位授与式・卒業式。 袴姿の卒業生がゾロゾロ、後ろからPTAもゾロゾロ。

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・・・・・・・・・・・・ご存じ九段坂。 歌うは三橋美智也。 「雨の九段坂」(作詩:矢野亮  作曲:佐伯としを 昭和36年)  ♪♪ あえぐ洋傘(こうもり)かしげて仰ぐ 雨に煙った大鳥居 母は来ましたやっと来ました 可愛いお前が住むお社へ  一目なりとも逢いたさに ♪♪

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九段上交差点・・・・・・・・九段下からキツイ勾配の九段坂を上がりきると、九段上停留所があった。、、、、、私が学卒で入社したゼネコンの本社はここ九段上で、私の勤務地として20年以上かよった処である。 私が勤めていた頃、写真右角にあった、寿司屋、喫茶店、タバコ屋みんな無くなった。、、、、、写真、左右に向かうのが靖国通り、正面は内堀通りで、須田町から来た10系統(須田町~渋谷駅)の都電は交差点を曲がり、写真中央へ向かった。

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靖国神社南門交差点・・・・・・・・靖国神社中門鳥居脇の南門前、ここには九段三丁目停留所があった。 本殿に最も近い停留所である。、、、、、交差点角に、地元の方が植えた枝垂れ桜も開花した。

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・・・・・・・・・・・・・私の今日のミッションは“桜の開花宣言した標本木”を確認することである、、、、さっそく確認、、、、能楽堂の隣の標本木には、5輪などとケチなこと言わず、50輪ぐらいは咲いていた。 気象庁の発表は間違いなし!

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・・・・・・・・・・・・・・本殿に御挨拶

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一口坂交差点・・・・・・・・・靖国神社の西の端に近い、ここの交差点に一口坂停留所があった。、、、、かつて、飯田橋駅近くで小学一年生ぐらいの迷子の子を見つけ、『家はどこ?』と聞いたら、『一口坂』と返事され、人の良い私はタクシーで一口坂交差点まで送った。 タクシーを降り親に連絡させようとしたら、『自分で帰れるから』と一人でスタコラサッサと行ってしまった。 無事帰り着いたか、タクシー代を損したか、後味の悪い善意の経験を思い出すね!

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市ヶ谷・・・・・・・現在のJR市ヶ谷駅の正面ではなく、外堀通りとぶつかった地点に、市谷見附停留所があった。 堀を挟んでJR駅の反対側になるので、チョイ不便!、、、、、今日の私の散歩も市ヶ谷駅までとする。

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2017年3月22日 (水)

椎名町~下落合

西武池袋線の池袋駅の隣「椎名町駅」から、西武新宿線の高田馬場駅の隣「下落合駅」まで、直線距離で1.3km程のところを2時間かけ歩いてきた。 1万歩。


椎名町駅・・・・・・・・・大正4年(1915)4月15日、武蔵野鉄道(西武鉄道の前身)の池袋~飯能間が開通。 9年後の大正13年(1924)6月11日に、椎名町駅は開業した。 現在の駅は、相対式ホーム2面2線を有し、駅舎は橋上である。、、、、、今は消えた「椎名町(しいなまち)」とは、北側の西武池袋線、南側の目白通りに挟まれた、現在の豊島区目白4丁目・南長崎1丁目~6丁目のほぼ全域が該当する、かなり広い町域の町であった。 池袋線の椎名町駅・東長崎駅、大江戸線の落合南長崎駅は、かつての椎名町の境界線沿いにある。

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・・・・・・・・・・・・駅に掲示されてた「昭和40年頃の椎名町駅
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長崎神社・・・・・・・・・駅の北側に長崎神社はある。 神社の創建年代は不詳だが、長崎村の鎮守として信仰を集め、江戸時代の中期には十羅刹女社(じゅうらせつにょしゃ)と呼ばれていた。 明治7年(1874)、神仏分離令により十羅刹女神に代わり須佐之男命を合祀し、氷川神社、そして長崎神社と改称し、現在に至る。、、、、つまりは、女神に男神を娶らせ、夫婦で稼げと言うことか!、、、、精緻な彫刻物を有する本殿は嘉永2年(1849)に、拝殿は明治32年(1999)に建立された。

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・・・・・・・・・・・・・・「椎名町」と聞くと、「帝銀事件」を思い出す人もいるのでは、、、、、私はまだ2歳で、新聞も読めなかった頃の事件。、、、、昭和23年(1948)1月26日4時頃に、椎名町駅前の「帝国銀行椎名町支店」で起こった強盗殺人事件。 東京都のマークの付いた腕章を腕に付けた中年の男が現れ、集団赤痢が発生したから予防薬を飲まなければならないと言って、全員に青酸カリを飲ませ、12人を毒殺、現金16万円余りと1万7千円程の小切手を強奪した。 犯人は逮捕されたが、最後まで犯行を否認し、最高裁で死刑が確定した。 その後、刑は執行されず昭和62年八王子医療刑務所で死去した。 95歳であった。、、、、、当時の銀行の支店は質屋を改造した木造平屋の建物だったそうだ。 その支店があった場所は、長崎神社の横で、現在はマンションが建っているが、事件を思い出させるものは一切残ってない。、、、、過去の暗いイメージを消し去るのか、町名も、事件の跡も無くなった。 

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道歯科医院・・・・・・・・椎名町仲通り、ツタの枝が外壁を覆う廃屋となった歯科医院。 昭和初期の建築か?

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●・・・・・・西武池袋線の踏切を越え、山手通りを南に向かう。

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佐伯祐三アトリエ記念館・・・・・・・・目白通りを越え、中落合2丁目に入ると、聖母病院北側の細い路地の奥に、画家佐伯祐三(1898~1928)のアトリエが整備・保存されている。 記念館は、佐伯が創作活動をしていた地に、住居の一部とアトリエ部分が残され、敷地全体が公園として整備されている。 アトリエは大正10年(1921)の建築で、洋風下見板張り、北側の大きな窓が特徴的である。、、、、、大正7年(1918)に東京美術学校(現:芸大)に入学し、大正10年(1921)にはアトリエ付きの自宅が完成する。 大正13年(1924)にはフランスに留学。 昭和3年(1928)8月、30歳の若さで死去。 その後、妻の佐伯米子が昭和47年(1972)没するまで、アトリエで創作活動を続けた。

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聖母病院・・・・・・・・・・カトリック神田教会上智大学1号館などを手がけたスイス人マックス・ヒンデルの設計で、昭和4年(1929)に建てられた病院。 鉄筋コンクリート3階建て、うす茶色のタイル張りの外壁と建物の屋上中央の二つの塔が特徴敵な建物で、玄関前のヒマラヤ杉とも調和している。 病院は「マリアの宣教者フランシスコ修道会」が、キリスト教の愛の精神に基づき運営している。、、、、、病院の中を、勝手に歩くこともできず、内部の見学は入院する機会があれば、その時にする!

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聖母病院聖堂・・・・・・・・聖母病院の裏側に、平成22年(2010)に竣工した聖堂。 竹中工務店の設計・施工、鉄筋コンクリート造の建物で、“2011年グッドデザイン賞”を受賞した作品である。 片流れの屋根、屏風折れの外壁、縦長のスリット状のステンドグラス(既存のものを再利用)、梁・柱のない内部など、印象的な祈りの空間を演出している。 内部は飾り気の少ない、シンプルなデザインで、落ち着いた祈りの場を創っている。

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薬王院・・・・・・・・・聖母病院の南、下落合4丁目に、奈良の長谷寺(ボタン寺)の末寺で、真言宗豊山派瑠璃山薬王院がある。 鎌倉時代の創建といわれる。、、、、、ここの寺も、総本山長谷寺のように、ボタンが有名で見物にくる人も多いようだ。 まだ、ボタンは蕾ができたばかりで、チョイト早すぎる。 裏山の枝垂桜もチョイト早すぎた!

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●・・・・・・・・西武新宿線下落合駅から帰宅。

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2017年3月19日 (日)

彼岸

陽射しが眩しくなってきた“春の彼岸”。 夫婦、両家の先祖と半年ぶりの御対面。 70歳を超えた私には、先祖に報告することも少なくなった。 墓前で手を合わせ、墓の中に引っ張り込まれることのないように、要注意! 夫婦二人揃って、もう少しこの世に居たいのだ!、、、、、、二人揃って 今日は東に 明日は西 煩悩かかえ 墓めぐり

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・・・・・・・・・・・・・・我が夫婦、年齢の合計は133歳。 でも、気持ちは、、、、、、、主は二十一 わしゃ十九 始終(=21+19=40)仲良く 暮らしたい

2017年3月17日 (金)

亀戸~南砂町

総武本線亀戸駅から、ほぼ南に向かい地下鉄東西線南砂町駅まで、1万2千歩の散歩です。


亀戸駅東口・・・・・・・・・・・亀戸駅の表玄関となる改札は北口である。 駅ビルでのショッピング、東武亀戸線への乗り換え、亀戸天神への参拝、“くず餅”の購入、何でもかんでも北口が便利。 ただし、会社帰りのチョイト一杯は東口が安くて便利。

・・・・・・・・・・・・東口は、ホームの千葉寄りから線路下の地下道を通り、京葉道路とはビル一つ隔てた裏道に出る、“裏口”である。 東口の頭上には越中島貨物線の高架橋が架かる。 改札の前は駐輪場! 

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亀戸緑道公園/大島緑道公園・・・・・・・・・都電29系統:葛西橋~錦糸堀~須田町と38系統:錦糸堀~境川~日本橋が運行していた、京葉道路水神森交差点から明治通り大島一丁目までは専用軌道であった。 昭和47年(1972)11月都電が廃止され、この専用軌道跡が昭和50年(1975)に亀戸緑道公園と大島緑道公園として整備された。


・・・・・・・・・・・京葉道路水神森交差点では、かつての第二精工舎跡に建てられたショッピングモール「サンストリート亀戸」(平成9年オープン)が平成28年(2016)に閉鎖し、60階建てのタワーマンションの建設が始まった。、、、、その脇から亀戸緑道公園が始まる。

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・・・・・・・・・・・・・・途中に竪川の運河跡があり、頭上には首都高7号小松川線が走る。 ここまでが亀戸緑道公園で、これより南側が大島緑道公園となる。、、、、、橋のあった北詰には、レールと車輪がモニュメントとして置かれている。

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・・・・・・・・・・・・・・竪川に架かっていた「竪川人道橋」の写真。 (平成25年(2013)現地、工事現場にあった説明板に掲示されてた)、、、、昭和30年頃の人道橋を渡る都電、平成23年撤去前の人道橋。

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・・・・・・・・・・・・・・大島緑道公園は、大島3丁目を縦断し、新大橋通りを横断し、大島四丁目団地の西側で明治通りにぶつかる。

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大島四丁目団地・・・・・・・・名のごとく江東区大島4丁目の旧住宅公団の団地。 地上8階~14階建ての建物が7棟、総戸数2,514戸の団地である。、、、、、私が社会人となった昭和44年(1969)3月から11月にかけ竣工した。 と、言うことは、築後48年が経過した。 間取りは2DK、2LDKが中心であるが狭そうだ! もうそろそろ建て替えの時期かな?

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・・・・・・・・・・・・・・団地内の緊急用電源。 遊園地の機関車ではありません!

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・・・・・・・・・・・・・・団地内の理髪店、、、、店名の「丹頂」を見て、『丹頂ヘアトニック』を思い出した! 『丹頂ヘアトニック』は、戦後、金鶴香水(株)が発売した商品で、昭和38年に資生堂が「MG5」を発売するまではシェアはトップてあった。 シェア争いに負けた丹頂(株)(金鶴が社名変更した)は、「マンダム」シリーズを発売しヒットする。 社名も丹頂(株)からマンダム(株)に変更した。、、、、柳屋のポマードと共に、忘れた懐かしい名前だ。

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進開橋・・・・・・・・進開橋(しんかいばし)は、小名木川に架かり、江東区大島1と北砂3を結ぶ。 橋上には明治通り(都道306号線)が走る。 形式はゲルバー鈑桁で、昭和42年(1967)11月に完成した。、、、、、川岸も整備され、景観になじむ橋である。

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稲荷通り・・・・・・・・砂町銀座の北側200m程の位置(北砂3)に並行する商店街が「稲荷通り商交会」、、、、商店街の横綱「砂町銀座」には負けるが、序二段ぐらいの力はありそうだ。 まだ10時前でオープンしていない店も多い。

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・・・・・・・・・・・・商店街の東端に、名の由来となった「治兵衛稲荷」がある。 治兵衛稲荷神社は、当地一帯の治兵衛新田を開拓した治兵衛が村の鎮守として山城国伏見稲荷大社の分霊を慶安年間(1648-1652)勧請、創建したことに始まる。

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砂町銀座・・・・・・・・北砂3丁目と4丁目の境にある、下町の元気な商店街、あまりにも有名。 砂町銀座の成立は、戦前、30軒位の普通の商店街として始まった。 戦争中は商店も強制疎開し、戦後焼け野原の場所へ戻り、昭和25年~30年にかけ飛躍的に店舗が増えて昭和38年頃にはほぼ現在の形(長さ700m弱、店舗数約180店)になったそうだ。、、、、こちらも、時刻は10時前、オープンしていない店が多く。 お買い物は午後からがいいかもね!

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南砂町駅 ・・・・・・・・・・昭和44年(1969)3月29日、東西線全線開業時に開業した、島式ホーム1面2線を有する地下駅。

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2017年3月16日 (木)

信濃町~渋谷

信濃町駅から神宮前を抜けて渋谷駅まで、1万2千歩の散歩です。


信濃町駅・・・・・・・・・・明治27年(1894)10月9日の甲武鉄道新宿~牛込(現:飯田橋駅の西側)間開通と同時に開業した。 島式ホーム1面2線の地上駅で、ホーム上部に駅ビルがある。 改札口は駅ビル1階にあり、外苑東通りに面している。 駅ビルは平成5年(1993)に竣工した地上6階・地下2階建て、設計は岡田新一(岡田新一設計事務所)、、、、、写真:駅ビルの裏側に某宗教団体の本部があり、駅ビルと向かい合って慶應大学附属病院があり、乗降客の多い駅である。 ついでに、写真を撮った位置には、かつて滝沢馬琴(1767~1848、南総里見八犬伝の著者)が住んでいた、四谷組同心屋敷があった。 馬琴はここで、最後の12年間を暮らした。
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聖徳記念絵画館・・・・・・・・・・神宮外苑のシンボル的な建物で、幕末から明治時代までの明治天皇の生涯の事績を描いた歴史的・文化的にも貴重な80点の絵画を展示している。、、、、大正8年(1919)に着工し、大正15年(1926)10月22日に竣工した、鉄筋コンクリート2階建て、ドームの頂上までの高さは約32m、幅約112m、奥行約34mの建物である。 設計は公募にて大蔵省臨時建築部技手・小林正紹(まさつぐ)の案が採用され、施工は大倉土木(現:大成建設)が請けた。 外観は花崗岩貼りで、中央にドームを戴く左右対称のデザインでまとめられている。 左右対称のデザインは国会議事堂などと同じように大正時代の流行であった。

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・・・・・・・・・・・・・・内部には、大理石、モザイクタイル、石膏彫刻が多用され荘厳な雰囲気が漂っている。 (展示室内部は撮影禁止のため、古い写真を借用)

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・・・・・・・・・・・・・絵画館の真後ろには、中央に楠の大木が植えられた、葬場殿趾の円壇がある。 これは、明治天皇の葬儀がこの場所(当時の青山練兵場)で行われた際、棺が置かれた葬場殿の址である。、、、、なんと、ここは重要文化財であった。 なんで、ここが? 答えは簡単! 重要文化財の本体は絵画館であって、この円壇はその付属として位置づけられているそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・・絵画館前の植え込みの中に「樺太国境画定標石」のレプリカが残されている。、、、、、日露戦争に勝利した日本は、その後の明治38年(1905)、ポーツマス条約により樺太の北緯50度以南を日本が領有することとなった。 翌明治39年から明治41年にかけて国境に17基敷設された標石のレプリカで、当時の樺太庁が作成し外苑に寄贈したものである。、、、、菊の紋が標された本物の標石は、今、どうなっているのか?

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明治神宮野球場・・・・・・・・・・大正15年(1926)に開場した、六大学野球の聖地。 私も母校の応援に行ったのを思い出すが、優勝して飲み会をしたという記憶はない! この頃(学生時代)は、野球より、女の子に興味があったから、応援にかこつけた、ナンパだった。

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高徳寺・・・・・・・・・・・都立青山高校に近い港区北青山(熊野通り)にある浄土宗の寺院。 若い人が多いアパレル関連の会社が並ぶ通りから少し入ると、正面に本堂が、右に河内山宗俊の碑(墓もある)が、左に積み重なった石仏の山が見える、まさに都会の癒しスポットと云うような寺である。 高徳寺は、晃誉上人居的和尚(元和9年(1623)寂)が開山となり、天正7年(1579)に創建した。、、、、今流のおしゃれな通りに、歴史の香りが、チョイト、ミス・マッチ。

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熊野神社・・・・・・・・・渋谷区神宮前、キラー通りに近い処に、青山の鎮守さま熊野神社がある。 元和5年(1619)に徳川頼宣によって勧請。 徳川頼宣の邸内(現:赤坂御所)に奉斎されていた御宮を、正保元年(1644)に現在地に移した。、、、、境内には、5階建ての賃貸ビルを所有しており、商売繁盛の御利益を自ら享受しているようだ。

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東郷神社・・・・・・・・・神社が続く、原宿の竹下通り裏に鎮座する東郷神社。 日露戦争で連合艦隊を率いてバルチック艦隊を破った、東郷平八郎を祀り、昭和15年(1940)に御鎮座祭がおこなわれた神社。 社殿は昭和39年(1964)に再建された、鉄筋コンクリート造。、、、、ここは、“勝利の神様”。 勝負の前に手を合わせ、必勝パターンで! ただし、賽銭はチョイト奮発すること。

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長泉寺・・・・・・・・明治通り沿いにある、曹洞宗の長泉寺。 寺は、かつて隠田に古刹寺院があり、観音堂のみ残っていたところ、上渋谷村の名主田左膳義直が、観音堂の本尊を自宅に遷し草庵として天文15年に僧春的を招聘、文禄元年には青松寺七世瑞翁(慶長9年寂)がこの草庵を譲受、慈雲山長泉寺と号し開山したといいます。

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・・・・・・・・・・・・長泉寺には、なんと! 山手線の盛土を背にして2百体以上の石仏が並んでいる。 お寺近くに祀られていた地蔵尊、観音様が、土地の造成などで、ここに集められたらしい。、、、、、玄関先にでも飾るインテリアとして石仏一体欲しいね! こんだけあれば、一体ぐらい無くなっても、、、、『コラ! 罰当たりが!』

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2017年3月12日 (日)

青砥~亀有

京成青砥駅から、環七通り沿いの裏通りを歩き常磐線亀有駅まで、1万1千歩の散歩です。


青砥駅・・・・・・・・京成押上線は、大正元年(1912)11月3日に押上~高砂(開業時は曲金)が開業した。 この時点では、立石~高砂間には青砥駅は設置されておらず、昭和3年11月1日、京成本線(日暮里~青砥)の開通に合わせ分岐駅として青砥駅が同時開業した。、、、、もちろん開業時は地上駅であったが、昭和48年(1973)から青砥駅周辺の立体交差化工事が始まり、昭和61年(1986)に工事は竣工した。 立体交差化により、駅は重層構造の高架駅に変わった。 1階、中2階はショッピングセンタと改札口、2階は浅草・上野方面に向かう上りホーム、3階は千葉・成田方面に向かう下りホームとなっている。


・・・・・・・・・・・・・・3階の下りホームに立つと、周囲のビルより高く、眺望は抜群!
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・・・・・・・・・・・・・・2階上りホームの上野より、右へ折れて行く本線、左は押上線

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・・・・・・・・・・・・・・中2階にある1か所のみの改札口

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・・・・・・・・・・・・・・駅前の広場・ロータリーを設置する余裕はなく、バスの乗り換えはチョイト近くの広い通りまで歩いてね!

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楽しそう・・・・・・・・・・駅近くのダンススクール(?) 文字が踊る、楽しそうな看板?貼り紙? なんとなく、下町のおばちゃんが集まる趣味のクラブのようだ!  歌手の朱里エイコさんのお母さん(故人、振付師)が開いたスクールで、子供から大人まで大歓迎ですって。

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環七通りを避けて・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・いつの間にか、環七通りに出てしまった。 江戸川区から、新中川・中川の右岸(西側)沿いに亀有を抜け足立区方面に向かう環七通り。

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・・・・・・・・・・・・・・広い通りは面白くない! 落ち着いて、のんびり歩ける、青戸の裏通りを歩くことにする。 

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葛西城址・・・・・・・・・青戸7丁目、環七通りを挟み「西城址公園」と「御殿山公園」と称する区立公園がある。 この2つの公園を中心とした一帯が葛西城の跡だ。、、、、葛西城は中川の蛇行部を天然の堀とした平城で、地表には城跡を確認できる遺構は残されていない。 つまり、遺構は環七通りの下に埋められているそうだ。 築城者、築城年代は不明だが、天文7年(1538)に北条氏綱によって葛西城が落城した記録が残っているそうだ。、、、、、都内23区には江戸城だけでなく、北区の稲附城、板橋区の志村城、世田谷区の世田谷城など、50以上の城跡がある。 一度全ての城址を歩いてみたいね!

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宝持院・・・・・・・・・水戸街道(国道6号)を横切り、青戸8丁目に入ると、真言宗豊山派の宝持院がある。 宝持院は、平安末期天養2年(1145)僧弁証が創建したと言われ、往時には西青戸の大部分が境内だったそうだ。 “西青戸の大部分”と云われても、私には判らないが、何となく広そうだ!、、、、宝持院の末寺は江戸時代に30ヶ寺あり、葛飾区には12ヵ寺が現存しているそうだ。、、、、墓地には長崎奉行松浦河内守信正の墓がある。

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亀有食品市場・・・・・・・・・亀有駅南口の商店街「ゆうろーど」の中程に、戦後のドサクサにできたと思われる市場がある。 三方から入れるY字型の通路に、八百屋、魚屋、惣菜屋など、一部店舗は閉ざされているが8軒ある。 折れ曲がった狭い通路には、空いたダンボールなども散乱し、通路の上部は塩ビの屋根と吊るされた裸の蛍光灯が特別の空間を創りだしている。 大型スーパーに見慣れた私には、懐かしい、面白い、嬉しい、“昭和”の市場だ。

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●・・・・・・・・・・・亀有駅前の“両津勘吉”の像をチラリと見て、改札に入る。

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2017年3月10日 (金)

旧東京水産大学

JR品川駅で下車し、駅港南口の前に建つ超高層ビル群をチョイト眺めて、旧東京水産大学のキャンパスに寄ってきた。 1万1千歩の散歩



品川駅港南口・・・・・・・・・・・今は港南口、昔は東口である。 かつての東口は、海側の工場・倉庫に勤める人だけが利用する出入口で、まさに品川駅の裏口であった。 ホームから東口に出るには、延々と長い地下通路を歩き、駅構内を横断しないと出ることができなかった。 しかもこの地下通路は台風・大雨の時は冠水しドブ川を歩くようだった。 私も、50年程前、台風後の冠水状態が見たく、野次馬根性まる出しで駅に行ったことを覚えている。、、、、、平成10年(1998) 11月1日に、品川駅の高輪口 と港南口(旧東口)を結ぶ、東西連絡通路(レインボーロード)が完成し、駅も橋上駅舎となった。 以後、港南口周辺にはタワーマンションと超高層ビルの建設が始まり、巨大な副都心となった。 今では、朝の通勤時間帯には高輪口に出る人よりも、港南口に出る人の方が多いようだ。


・・・・・・・・・・・・・中央改札から出てくる人の多くは港南口(写真左側)へ向かう
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・・・・・・・・・・・・・・途切れることなく港南口から出てくる人
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品川駅東口再開発地区・・・・・・・・・・品川駅港南口の南側一帯の再開発地区で、現在は「品川グランドコモンズ」と「品川インターシティ」のビル群である。


・・・・・・・・・・・・・・港南口のペデストリアンデッキから見る再開発地区、、、、写真右側のビル群が「品川グランドコモンズ」、左側は「品川インターシティ

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・・・・・・・・・・・・・この地は旧国鉄の操車場跡で、昭和59年(1984)に民間に売却された。 平成2年(1990)頃、関係機関により再開発計画が作られ、ビル群の建設は平成10年(1998)頃までにほぼ完成した。、、、、各ビルは地上2階の位置で、駅から続く遊歩道により結ばれている。

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楽水橋・・・・・・・・・・北品川駅方面から東京海洋大学品川キャンパスの裏門に向かうと、鶯色の楽水橋(らくすいばし)が架かる。 昭和44年(1969)に架け替えられた、「東京水産大学」の建造した橋。(現:管理は港区)、、、、、橋名は、東京水産大学同窓会名「楽水会」に由来したといわれている。 OBが寄付したのかな?

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・・・・・・・・・・・・・・橋を渡ると正面に大学キャンパスがある。、、、、流れる川は高浜運河

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旧東京水産大学・・・・・・・・・平成15年(2003)、越中島の東京商船大学 と統合し、現在は東京海洋大学の品川キャンパスとして海洋科学部が設置されている。、、、、今を遡る52年前、一人の受験生が願書を提出した大学である。 当時は、遠洋航海を学ぶ学部と缶詰など食品加工を学ぶ学部があり、船に乗る学生は眼鏡使用不可であった。 受験生はメガネを着用しており、『船に乗れず、缶詰工場で働くのはイヤだ!』と受験をあきらめた。 その受験生が私である。 今日は懐かしのキャンパスを拝見したが、当時の建物は何も残っていないのが、チョイト寂しい。
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・・・・・・・・・・・・・・雲鷹丸(うんようまる)、、、、、旧水産大学の前身、農商務省水産講習所の練習船。 水産事業の研究開発のため、明治42年(1909)に建造された、3本マストバーク型補助機関付き帆船。 長さ41.2m、幅8.7m、総トン数444トン、最大速力12.5ノットである。、、、、、、昭和37年(1962)に旧水産大学構内に復元・保存された。 国の登録有形文化財であるが、“陸の河童”状態で保存され、痛々しい状態だ。

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・・・・・・・・・・・・・構内にある東京海洋大学マリンサイエンスミュージアム。 長い名だが、簡潔に言えば資料館である。 明治35年(1902)に大学の前身として農商務省水産講習所として発足して以来、水産大学、海洋大学に至るまでの、資料・標本などが展示されている。 建物は昭和46年(1971)に完成した。

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・・・・・・・・・・・・・・隣の「鯨ギャラリー」には、体長17.1mのセミクジラの全身骨格が展示されている。、、、、でかすぎて、上手に撮れない!

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2017年3月 8日 (水)

元麻布一丁目

大江戸線麻布十番駅から、元麻布一丁目を一周するようなルートで歩き、麻布十番駅まで、1万歩の散歩です。


麻布十番駅・・・・・・・・・・東京メトロ南北線と都営大江戸線が乗り入れる接続駅。 平成12年(2000)9月26日に南北線の目黒~溜池山王間が開通し、同時に駅も開業する。 同じ年の12月12日には大江戸線も全線開業し、麻布十番駅は接続駅となる。、、、、、大江戸線のホーム(島式1面2線)は、地下6階の深い位置にあり、年寄りは地上に出るまでがチョイト辛い。
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十番稲荷神社・・・・・・・・・・麻布十番駅の出入口に隣り合わせる神社。 慶長年間(1597~1616)に創建の末広神社と、弘仁13年(822)に創建の竹長稲荷神社が、戦後、合併して十番稲荷神社となった。

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・・・・・・・・・・・・・・階段を上がるのが面倒くさいので、地下鉄の出入口脇に、神社のカエルが置かれている。、、、、、文政4年(1821)の大火でこの付近がほとんど焼失したとき、ある屋敷のみが焼け残った。 これは邸内の池に住む大ガエルが水を拭きかけて猛火を退けたためだという評判が立った。 その故事に因んだ「カエル」のお守は、火防・やけどのお守、無事かえる・若がえる・何でもかえるお守として貴ばれているそうだ。、、、、地下鉄に乗る人、おりてきた人、結構、手を合わせる人が多い。 神社は賽銭でもうカエル(儲かる)

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タヌキもいた・・・・・・・・タヌキ:「他抜き」にかけて商売に励む、昭和3年(1928)創業の煎餅屋さん。

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赤い靴の女の子・・・・・・・・・野口雨情:作詞の♪♪赤い靴 はいてた 女の子 異人さんに つれられて 行っちゃった♪♪の実在のモデル「きみちゃん」の像が、商店街の中央にある。、、、、、「きみちゃん」は、未婚の母の子として明治35年(1902)に生まれた。 3歳の時、母と共に北海道に入植したが、子供には厳しい環境であったため、母はきみちゃんを米国人宣教師に託した。 宣教師が帰国するとき、きみちゃんは結核を患い、船旅ができず麻布十番の鳥居坂教会の孤児院に預けられた。 その後、3年間の闘病生活の末、9歳という短い生涯を終えた。 北海道の母はきみちゃんが異国に行き、幸せな生活をしてると思い、知り合いの野口雨情に娘の話をした。 話に感動した雨情は、詩に綴り、童謡とした。 また、きみちゃんの死を知らず、母は昭和23年(1948)に他界した。 きみちゃんの真相が明らかになったのは、昭和48年(1973)、北海道テレビの記者であった菊池寛によるものだ。、、、、、きみちゃんのいた孤児院は、現在の十番稲荷神社がある場所にあった。 また、きみちゃんの墓は青山霊園にあるそうだ。

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善福寺・・・・・・・・・元麻布にある古刹は、天長元年(824)に空海によって開山した、浄土真宗本願寺派の麻布山善福寺。、、、、、、江戸時代の本堂は昭和20年(1945)の戦災で罹災し、昭和36年(1961)に東本願寺八尾別院大信寺の本堂を移築し、再建した。 移築した本堂は明和4年(1767)の建築である。 正面幅約28m、奥行約34m、入母屋屋根、桟瓦葺の、大きな建物である。

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・・・・・・・・・・・・善福寺の後ろに建つタワーマンション「元麻布ヒルズ」の敷地は、昭和58年(1983)までは善福寺の境内であった。 一部土地を売っても、今でも広い境内が残っている。、、、、善福寺は元麻布の大地主? また、タワーマンションは森ビルが開発。

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・・・・・・・・・・・・・安政5年(1859)には日米修好通商条約に基づき、善福寺境内にアメリカ合衆国公使館が設置され、タウンゼント・ハリスらが在留した。 境内には、記念碑が建てられている。

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・・・・・・・・・・・・・墓地には、「愛の賛歌」の歌詞が刻まれた越路吹雪の碑、福沢諭吉の墓などもある。

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仙台坂・・・・・・・・・・港区南麻布1丁目と元麻布1丁目の境界を東から西に上る坂。、、、坂の南側(南麻布)一体に仙台藩伊達の下屋敷があったことに由来する。、、、、、道幅は広くなく、途中に韓国大使館などがありいつも警視庁が警戒し、車がつながっている坂。

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・・・・・・・・・・・・・仙台坂に面し南麻布にたつ韓国大使館。、、、、平成25年(2013)に建て替えられた7階建ての大使館。 工事費は約800億ウオン(71億2000万円ぐらい)らしい。 施工は、「お口の恋人」ロッテ建設。

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・・・・・・・・・・・・・大使館前から見上げる元麻布ヒルズ、、、、仙台坂に面した空き地は、森ビルが取得しているようだ。 またまた再開発が始まるか?

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・・・・・・・・・・・・・・仙台坂を上ると、大正6年(1917)に竣工した日本基督教団安藤記念教会が、関東大震災前の姿をとどめ残されている。、、、、、、ツタに覆われ、石積みの教会がわかりにくいが、しぶい味のある教会だ。 (内部の写真は2013年撮影)

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・・・・・・・・・・・・・・・教会の前には、元麻布氷川神社の鳥居が立っている。 天慶5年(942年)の創建と伝えられる古社であるが、東京大空襲で、本殿・社務所等が焼失、戦後に再建されている。

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元麻布ヒルズ・・・・・・・・・・・・善福寺の裏の高台(元麻布1)に建つレジデンス。 地上29階建てのフォレストタワーを中心とした施設。総住戸数222戸。

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旧松方正熊邸・・・・・・・・・・元麻布2丁目の「西町インターナショナルスクール」である。、、、、、明治期の政治家である松方正義の六男、松方正熊の邸宅として建てられた西洋館。 戦時中に松方家が疎開したことから、スウェーデン公使館に貸し出され、その後にルーマニア大使館やベネズエラ大使館としても一時期利用されていた。 昭和40年(1965)には松方家へと返還され、西町インターナショナルスクールの校舎として使われるようになった。 現在は教室として使用されておらず、「松方ハウス」として、事務室や校長室、図書館などで利用している。、、、、、大正10年(1921)に建てられた木造2階建て、設計は宣教師として来日したヴォーリズ。 施工は竹中工務店。

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元麻布から六本木ヒルズを眺める・・・・・・・・・・・・・

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2017年3月 7日 (火)

本八幡

総武本線本八幡駅から、市川駅方向(西側)に歩くつもりが、気づいたときには北に向かい天神様の境内である。 ならば、東に向かい下総中山駅(東側)まで歩くことにした。 「東菅野」の町の裏道は直線ではなくグニャグニャ曲がり、こちらでも気づけば八幡様の境内。 ということは、本八幡駅の周辺から離れることなく、駅の北をさまよい歩いていただけだ。、、、、、本八幡駅から本八幡駅まで、1万歩の散歩。


本八幡駅・・・・・・・・・・・駅の北にある葛飾八幡宮に由来する駅名であることは察しがつく。 葛飾八幡宮、本八幡駅のある一帯の地名は「八幡」で、「本八幡」(もとやわた)の地名はない。 “本”はどこから持ってきたのか?、、、、答えは、、、、昭和10年(1935)に総武本線の駅として、市川~下総中山間に本八幡駅が開業した。 この時、近くを走る京成本線には既に「八幡」駅があり、重複を避けるために“本”を冠し「本八幡」駅となった。 なお、京成の「八幡」駅は大正4年(1915)に葛飾八幡宮の前に開業したが、昭和17年に廃止され、現「京成八幡」駅に統合された。、、、、、今の世であれば、“新”とか、“南”とかを冠し、“新八幡”、“南八幡”となっていたであろう。 
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カトリック市川教会・・・・・・・・・・・・・本八幡駅から千葉街道に出て、裏道を歩くとチョイト歴史のありそうな協会が目に入った。、、、、終戦直後の昭和20年(1945)9月、小教区として独立し、設立された。 現聖堂は昭和24年(1949)(?)に献堂されたようだ。、、、、さほど大きな教会ではないが、終戦直後の物資・食料が不足する中、多くの信者が力を併せ聖堂を建てたようだ。、、、、最近、外壁などを改修したようだが、全体的には質素な造りで、目を見張るものはない。 カトリック本所教会 とは、建設時期、規模、内外装ともに似ている。

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白幡天神社・・・・・・・・・市川市菅野の地に鎮座する天神様。 境内は2,000坪あり、今の時期は梅が咲き競っている。 桜、椿、ツツジ、萩など、四季の花が咲くそうだ。 広い境内は竹箒の跡も美しく丁寧に掃き清められ、足跡をつけて歩くのが申し訳ない気持ちであった。、、、、私の好きな馬酔木も咲いていた。
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・・・・・・・・・・・・・今よりおよそ800年前の治承4年(1180)に、源頼朝が下総に入った際、当地に源氏の御印である白旗を掲げたことが社名の由来である。 その後、天正12年(1584)に、本殿が再建されたが、現在の本殿は明治13年(1880)の造営で、拝殿・幣殿は、昭和36年(1961)に造営された。
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・・・・・・・・・・・・境内に永井荷風と幸田露伴の文学碑がある。 両氏はともに晩年に白幡天神社近くに移り住み、作品の中でも白幡天神社が登場してくる。、、、幸田露伴文学之碑には娘の幸田文の著作「菅野の記」に白幡天神社の描写があることが示されている。 また、幸田露伴の葬儀は白幡天神社で執り行われたそうだ。

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不動院・・・・・・・・・・・白幡天神社の東、250m程離れたところ(市川市東菅野1)に真言宗豊山派の山王山不動院がある。 『この寺以前きたことがある』ので、本堂に手を合わせ境内を横切る。、、、、、本堂は平成19年(2007)の完成。

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東菅野・八幡の裏道・・・・・・・・・・不動院を過ぎ、裏道は曲がりくねり、方向感覚に強い私も、『アレ? さっき通った道だ!』、『アレ? いつか来た道だ!』、、、、黒松の似合う住宅の間をウロウロ。 そして、『アレ! 葛飾八幡宮 の裏だ!』、、、、、『ヤレヤレ! 本八幡駅に戻るか!』、お帰りです。

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2017年3月 4日 (土)

中野新橋~新宿

地下鉄丸ノ内線中野新橋駅からJR新宿駅まで、1万歩の散歩です。

 

 
 
①中野新橋駅・・・・・・・・・・・昭和36年(1961)2月8日に、営団地下鉄荻窪線の開通に伴い、途中駅として開業。 相対式ホーム2面2線を有する地下駅。、、、、駅名は近くを流れる神田川に架かる橋の旧名称「新橋」に由来する。 駅名として、そのまま採用すると、銀座線・JRの新橋駅(港区)と同じになり混乱するため、“中野”を冠して「中野新橋」とした。、、、、、一日の平均乗降人員は2万人弱で、東京メトロ全130駅中124位とワーストテンにランクインする駅。 その駅が、新しく建て替えられモダンな駅舎に生まれ変わった。 綺麗な駅舎となり、町のイメージアップにつながるといいね!

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・・・・・・・・・・・・・・・工事中の頃(平成26年2月)の駅舎

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②中野新橋・・・・・・・・・花街の風情を今に伝える赤く塗られた欄干の橋。 この橋はかつて「新橋」と称し、この付近は関東大震災後に発展した花街であった。 しかし、昭和50年代の賑わいをピークに、小唄・三味線の音は聞こえなくなり、花街は消えた。、、、、、平成23年(2011)の神田川改修工事により橋も新しくなり、橋名は駅名と同じ「中野新橋」に改名した。 橋の際には、昭和36年(1961)に架け替えられた「新橋」の擬宝珠が残されている。 どうせなら、若い芸者を残して欲しかったね!

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③本郷氷川神社・・・・・・・・・中野区本町4丁目にある、素盞鳴尊命を祭神とする氷川神社。  ここの氷川神社は、文明元年(1469)、太田道潅が江戸城築城の際に鎮護のため大宮氷川神社より勸請し創建したそうだ。 旧本郷村の鎮守さま。、、、、、昭和20年(1945)戦災により社殿が焼失、現在の社殿は昭和30年(1955)の再建である。、、、、、境内に「東京五輪記念碑」があった、なぜここに? 意味不明? どうでもいいか!

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④福寿院・・・・・・・・・・・・中野区本町3丁目、眺めの良い台地に新義真言宗の寺、福寿院がある。 本尊は弘法大師の作と伝えられている薬師如来坐像。 大師が諸国巡錫中久しく当院に泊り、自作の薬師如来像を当院に置いて行ったそうだ。、、、、元応元年(1319)の創建。、、、、本堂は昭和51年(1976)に建てられた。 広く明るい境内であるが、華やかさに欠け、もう少し庭木を増やすなどして彩を添えたらいいね、チョイト残念だ。

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⑤象小屋の跡・・・・・・・・・中野区本町2丁目の中央を東西に横切る裏通りの朝日が丘公園に、「象小屋(象廐=きさや)の跡」と記した案内板があった。、、、、江戸時代、象はまだ珍しい動物であった頃の出来事。 ここ中野に来た象は、享保13年(1728)中国人貿易商鄭大威が将軍吉宗に献上するためベトナムから連れて来たもので、将軍吉宗が上覧したあと、暫らくは浜御殿で飼われていた。 その後、中野村の源助に下げ渡され、源助は成願寺に近いこの辺りに象小屋を建てて飼育を続けたが、寛保2年(1742)病死した。 皮と象牙は将軍家に献上されたが、象牙は源助に、皮は成願寺に下げ渡されました。 この牙は宝仙寺(現:中野区中央2)に保存され、戦災に遭ったが一部は今も残っている。、、、、と、言うことで、ここに小屋があったとサ!

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⑥成願寺・・・・・・・・・・本町2丁目、山手通りに面し竜宮城のような大きな山門がある。 ここが、曹洞宗の成願寺である。 永享10年(1438)小田原最乗寺で教えを受けた中野長者の鈴木九郎が出家して、西新宿の十二社(現:西新宿熊野神社)の敷地内に創建した。 中世には正観寺と称していたが、江戸時代初期に長者屋敷跡(当地)へ移転し、成願寺と改称した。、、、、、山門をくぐると、菜々緒の乙姫が出迎えてくれると嬉しいのだが! 期待過剰!

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・・・・・・・・・・・・本堂横に、百体観音堂がある。、、、、百体観音とは西国33ヶ所、坂東33ヶ所、秩父34ヶ所を合わせた100霊場の本尊をいうそうだ。 百観音の信仰は江戸初期より盛んになったが、一般庶民が諸国の霊場を自由に旅することは極めて難しく、殆ど不可能であった。 そこで百体の観音像を一か所に安置し、そこへ参ると100霊場を巡礼するのと同じ功徳が得られるとされた。、、、、、観音と縁の深いこの寺には、江戸中期より百体観音があったが、先の大戦で空爆により焼き尽くされてしまった。 現在の百体観音は昭和50年(1975)に再建された。 堂内には、正面中央大きな観世音菩薩をに配し、左右に小さな諸国の観音を祀っている。

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・・・・・・・・・・・・墓地の中ほどに、蓮池藩52,600石の鍋島家墓所がある。 蓮池藩(佐賀市東部)は鍋島勝茂の4男直澄が、蓮池に分封されたのを藩祖とする。2世直之の子千熊を寛文9年(1669)に葬ったことに始まる。、、、、鍋島の歴史を知らず、墓石の文字は読めず、どの墓が、誰の墓か、判らん! 不勉強で失礼!

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⑦西新宿を抜け新宿駅へ・・・・・・・・・・


・・・・・・・・・・・・・・遠く新宿の超高層ビルが見える

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・・・・・・・・・・・・・このあたりは、かつての十二社。 以前は料亭かな?

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・・・・・・・・・・・・・ビルの谷間から都庁が見えた。 駅は近いぞ!

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・・・・・・・・・・・・・10年前までは仕事で通ったビルも見える。

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・・・・・・・・・・・・・新宿駅到着

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2017年3月 3日 (金)

松原団地

東武鉄道伊勢崎線『松原団地駅』の駅名が今月末までで、4月1日からは『獨協大学前』となる。 それに伴い、記念乗車券が3月1日から発売されている。 欲しくなり、『買いに行こう!』、散歩を兼ね松原団地駅まで行ってきた。 松原団地、獨協大学にもお立ち寄り。 1万1千歩の散歩です。



松原団地駅・・・・・・・・・・・戦後、昭和30年代から昭和40年代は、高度成長期とも重なり、首都圏の住宅不足を解消するため、大規模団地の建設が各所で行われた。 その一つで、東洋最大規模のマンモス団地と呼ばれたのが、住宅公団が手掛けた「松原団地」である。 団地の入居に合わせて、松原団地駅は昭和37年(1962)12月1日に、新田~草加間に開業した。 昭和39年(1964)には、団地の南側に隣接して獨協大学が開校し、学生も乗降する駅となる。 さらに昭和63年(1988)からは、それまでの地上駅から高架駅に変わる。、、、島式ホーム1面2線の高架駅で、停車するのは緩行線である。 優等列車は両外側を通過する。、、、、本日は「松原団地」と表示された駅名の見納めである。 こんど来たときは駅名は改称され「獨協大学前」だ!


・・・・・・・・・・・・・・・松原団地側の西口
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・・・・・・・・・・・・・・旧日光街道側の東口
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・・・・・・・・・・・・・・緩行線しか止まらぬホーム
 
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●駅名変更・・・・・・・・・・・駅名となった「松原団地」は、現在、都市再生機構(UR)による全面的な建て替えが進められている。 また、市街地の整備も進められ、平成2年(2014)3月に旧日光街道の「草加松原」が国指定の名勝地“おくのほそ道の風景地”となったことを受け、草加商工会議所を中心に駅名変更の声が高まっていた。 そこで駅名変更により地域のイメージアップとともに、観光地としてのPRにもつなげる狙いで、「獨協大学前〈草加松原〉」駅に改称される。、、、、名称変更に要する費用(約3億円)は獨協大学が全額負担する予定らしい。(大学のPRになるからね!) 駅名変更を記念し、3000セット限定で価格は500円也の記念乗車券が発売された。 松原団地駅で記念乗車券を入手し、顔もほころび、ニコニコ!

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・・・・・・・・・・・・・・・駅に貼られたポスター
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●松原団地と獨協大学の位置・・・・・・・・・・昭和54年(1979)の空中写真

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②松原団地・・・・・・・・・・松原団地は東側(駅側)から、A・B・C・Dの4地区に区分され、A地区は建て替え済み、B地区は建築中、C地区は今年取り壊し予定、国道4号側のD地区はおそらく来年取り壊されるであろう。 第1期の入居募集は昭和37年(1962)から翌年に架け実施され、780戸の募集に対して、約1万件の応募があったそうだ。、、、、これまで、団地内の全住戸は約6000戸あったそうで、1DKが約1400戸、2DKが約2200戸、3DKが約1700戸、テラスハウスが約660戸の内訳である。 各戸とも狭い、当時の造りであったようだ。、、、、、新しい建て替えは、民間のデベロッパも参加して進められている。 すでにA地区は約1,500戸の分譲・賃貸住宅で事業は完了しており、住友不動産が分譲するマンションはB地区。 残りのC・D地区は未定で、戸建ても含め約3,000戸が建設される予定。、、、、、新しい住居は広いく、便利で使い勝手がよさそうだ、若い人が多く、保育園はママどうしのおしゃべりの場。 D地区にまだ住んでいるお年寄りは、チョイト淋しそうだった。


・・・・・・・・・・・・・・建て替えの済んだ地区。 まだ汚れの無い、綺麗な建物だが、なんとなく薄っぺらな感じがするね!

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・・・・・・・・・・・・・・B地区は工事中

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・・・・・・・・・・・・・・C地区は取り壊しが始まっている、、、、建てた人、住んだ人、生まれた人、皆、思いである建物だ。 

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・・・・・・・・・・・・・・通る人影もない道、遊ぶ子供もいない公園、いったい何人がいるのか? ゴーストタウンのような静けさのD地区、、、、テラスハウスを含む、D地区の一画を“昭和の遺産”として保存できないものか?

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③獨協大学・・・・・・・・・・・明治16年(1883)、西周、品川弥二郎、加藤弘之らによって東京の麴町区に設置された獨逸學協會學校を起源とする。 獨逸學協會學校では、現在の法科大学院と同等の教育を実施していた専攻科を明治28年(1895)まで設置していた。 昭和39年(1964)、第2次吉田内閣で文部大臣を務めた天野貞祐を初代学長に迎え大学を設立した。、、、、大学は現在、草加市に所在し、語学・経済学・法学などの4学部4研究科を置く、人文科学・社会科学系総合大学である。、、、、チョイト、構内を拝見!
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・・・・・・・・・・・・・・キャンパス中央にある天野貞祐記念館を拝見。、、、、地上5階建て、高さ33m、延床面積約29,500㎡の建物は、「日本建築家協会優秀建築選2008」、「2013年度草加市まちなみ景観賞」などを受賞した、学内最大の複合施設であり、外観はドイツの国会議事堂をモデルとしている。 私は、ドイツに行ったこともなく、国会議事堂とは? プラネタリウムかと思った!

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・・・・・・・・・・・・・エントランス部分、、、、、明るく、広い、学生はどこに?

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・・・・・・・・・・・・・・図書室、、、、、ここも空いてるね!

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・・・・・・・・・・・・・・・「獨協歴史ギャラリー」には、大学の歩みを知る資料がズラリ! その一画には、天野貞祐の書斎が復元されれていた。
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2017年3月 1日 (水)

勝鬨橋・築地大橋

隅田川最上流の新神谷橋(岩淵水門は橋梁ではないので数に入れず)から始めた隅田川の橋めぐりも、いよいよ今日が最後である。 今日は、37番目の勝鬨橋と、いずれ38番目:最下流の橋となる築地大橋の二橋を見てきた。、、、、、都営浅草線東銀座駅から2橋を見て、東銀座駅に戻る、1万3千歩の散歩。



歌舞伎座 ・・・・・・・・・まだ朝の8時になったばかり、どこの店もビルも閉まっている。  歌舞伎座の地下の店も開店前の準備中、立ち止まることもなく築地に向かう。、、、、、現在の歌舞伎座は平成25年(2013)3月1日にオープンしたので、今日は4年目の誕生日。
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築地市場・・・・・・・・・・・最近いろいろ話題となる築地市場の場内を、ブラブラ歩いてみることにした。 8時過ぎの市場は、商売のピークも過ぎたようだ。、、、、市場のある地は、江戸時代後期、松平定信(1758~1829)の下屋敷に作られた汐入回遊式庭園「浴恩園」(よくおんえん)があった処である。 明治維新以降は海軍関係の用地となり、海軍発祥の地である。 関東大震災で、日本橋にあった魚市場が被災したため、その後、魚市場が海軍省から敷地を借り受け移転した。 これが、築地市場の始まりである。、、、、今後の移転先は迷走状態、さて、どうなることやら?


・・・・・・・・・・・・・まずは、市場の屋上からパチリ!パチリ!

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・・・・・・・・・・・・・・商売の邪魔をしないように、静かに、おとなしく、市場の中に潜入、、、、、建物は古く、汚れ、狭く、アレレどっちに行ったらいいのかな? これでは、豊洲移転を早めないとダメか?

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・・・・・・・・・・・・・・トランプさんの国から取材に来たようだ!

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・・・・・・・・・・・・・・場内の飲食店は観光客で行列

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・・・・・・・・・・・・・・築地市場に隣接する波除稲荷神社。 「築地」とは埋立地の別称で、築地市場付近は、万治元年(1658、=江戸時代)頃から埋め立てが始まったが、工事は波に洗われて難航した。 そのころ、海中から見つかった稲荷神の像を祀ったところ、風波が和らぎ工事が完了したとされ、これが「波除」の由来となった。 厄除けや航海安全の神として信仰されている。

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勝鬨橋・・・・・・・・・・・昭和15年(1940)に竣工した跳開橋であるが、昭和45年(1970)以降、一度も開いていない残念な橋。 私が学生の頃までは橋の上を都電が走り、橋が開くとき都電は、赤信号の点灯で開閉する部分の直前で止まり、船の通過を見送っていた。  のんびりした時代には、もう、戻りそうもないね!、、、、、中央径間:シカゴ型二葉式跳開橋、側径間:下路式タイドアーチ橋、橋長:246m、幅員22m。 昭和8年(1933)に着工し、昭和15年(1940)6月14日竣工。

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・・・・・・・・・・・・・・橋の際(中央区築地側)には、勝鬨橋が完成するまで運航していた「勝鬨の渡し」の碑がある。 碑は明治38年(1905)、日露戦争の旅順陥落を記念して建てられた。

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築地大橋・・・・・・・・・・勝鬨橋の下流に建設中の築地大橋。 橋は平成23年度より下部工事に着手し、平成26年度に鋼けた架設工事が完了した、現在、橋はほぼ完成状態であるが、御存じの通り、築地市場の豊洲移転に急ブレーキがかかり、築地側の道路が未完の為、開通は???、、、、、橋長:245m、幅員:32.3m~48.0m、形式:鋼3径間連続中路式アーチ橋。、、、、、まだ、橋に近寄れないため、遠くから撮影。

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●・・・・・・・・・・・・以上、約2か月かけ、隅田川に架かる38橋梁と相生橋、そして岩淵水門を制覇した。 自分に一言、『ご苦労様』

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