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2017年3月24日 (金)

三河島事故

昨夜、寝ながら読んだ本に「三河島事故」の話があり、事故現場には何も残されていないとの記述があった。 今朝、起きると気になり、チョイト事故現場に行ってみることにした。 常磐線南千住駅から、事故の跡を求めウロウロ。 結局、隣の三河島駅まで9千歩の散歩となった。

・・・・・・・・三河島事故、、、、、昭和37年(1962)5月3日(憲法記念日)の21時37分頃、田端発水戸行のD51牽引の貨物列車が三河島駅を過ぎたところにある、貨物線が本線に合流するポイントで、安全側線に衝突し脱線した。 そこに上野発取手行の下り電車が衝突。 さらに数分後、取手発上野行の上り電車が衝突した。 二重衝突である。 死者160人、重軽傷者383名を出した、日本の鉄道史上に残る大惨事となった。


南千住から三河島方面を遠望・・・・・・・・事故後50年以上経過し、事故を語る人も少なく、町も変わっているが、現場には何か残っていないか? 行ってみよう!
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盛土を走る常磐線・・・・・・・・・三河島~南千住間は盛土で、線路際まで建物が迫っているところもある。

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・・・・・・・・・・・・・・煉瓦造りの第3三の輪ガード

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・・・・・・・・・・・・この付近が事故現場と思われるところ。 線路際まで建物が迫まり、三河島事故の現場を標すものは何もない。、、、、線路は4本あり両外側の2本が貨物線、内側の2本が常盤線本線となっている。 貨物線は田端方面から三河島駅の先(南千住側)で本線に合流している。

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●・・・・・・・・事故の原因は、貨物列車の機関士の信号無視であった。、、、、その日は、早朝から地震の影響でダイヤが乱れていた。 定刻通り運行していた45両編成の貨物列車は貨物線から常磐線本線に合流するポイントに向かっていた。 そのころ、貨物列車より先にポイントを通過している予定の下り電車は、ダイヤの乱れで遅れていた。 下り電車を通すためポイントが切り替わっていなかったが、貨物列車の機関士は本線との合流地点手前の勾配上で停止すると再起動が難しいことから見切りで列車を進めてしまい、脱線を引き起こした。 そこに、遅れていた下り電車が突入しこちらも脱線した。 不幸なことに、約6分後、早いスピードで走ってきた上り電車が脱線した下り電車に激突し、大惨事となった。




浄正寺 ・・・・・・・・ 三河島事故を記憶にとどめ慰霊する聖観音像が、事故当時、遺体収容所となった三河島駅の北東(荒川3丁目)にある浄土宗の清国山快楽院浄正寺に建立され、現在も献花が絶えない。

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●・・・・・・・・・・・事故の起きた昭和37年(1962)、私は16歳だった。 当時、新聞、TVのニュースで惨事が報道されていたことは記憶しているが、事の重大さ、悲惨さを痛感することはなかった。、、、、現場を見ず、報道の表面を読んだにすぎず、他人事として受け止めていたのかも。、、、、碑の側面に刻まれた詩:「三河島事故に捧ぐ   安らかに眠れとは 如何に悲しき言の葉か つま待つ家の帰り路を 知るよしもなき此の惨事 あゝ たれぞ知る此の惨事」、、、、、未だに身元が判明しない犠牲者が一人いるそうだ。




三河島駅・・・・・・・島式ホーム1面2線の高架駅であるが、本線の両外側に一本づつ線路がある。 これが貨物線である。 

・・・・・・・・・・・事故現場からは、尾竹橋通りを挟み向かい側に駅がある。

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・・・・・・・・・・・・本線の外側(写真右側)にもう一本線路がある、これが貨物線。 貨物線は勾配がついている。 三河島駅の先(南千住側)で本線に合流する。 その合流点が事故現場。

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●・・・・・・・・事故後、再発防止策として、自動列車停止装置(ATS)の設置を急ぎ、昭和41年(1966)までに国鉄全線に設置された。



●・・・・・・・・「三河島」の地名は太田道灌の時代からある歴史ある地名だが、この事故が原因か(?)、昭和43年(1968)の住居表示にて消えた!、、、、現在は、駅名(JR、京成)として残るのみ。 これ、また、悲し!

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