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2017年4月

2017年4月30日 (日)

浅草橋~四ツ木

正月終えて花見を済まし、あっと言う間に黄金週間(GW) 『GWの計画は?』と問われ、『連休前に、内科・眼科で薬を貰い、整形でリハビリ、歯も治療し、一安心。 連休中はゴロ寝で過ごし、一休み。 連休終われば、やることもなく、一生続く超大型連休へ再突入。 最後は黄泉の国への旅行で超大型連休を終える予定。』、、、、こんなGWの計画が現実のものとならないように、昨日は夫婦で都内の散歩。 今日は、浅草橋(我が家)から水戸街道(国道6号)を京成四ツ木駅まで、途中で寄り道せずにスタコラ歩いてきた。 


am8:00・・・・・・・バスを待つ人、駅周辺を歩く人もいない、静かな浅草橋を発つ。、、、、、“死の町”か?
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am8:15頃・・・・・・・蔵前・駒形付近、この辺りも歩く人は少ない。、、、、、、『どぜう』の大きな暖簾もまだ出ていない、只今準備中、、、、、「むぎとろ」も準備中

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am8:30・・・・・・・浅草駅前を通過、、、、4月21日から、東武鉄道に新型特急電車「リバティ」が運転された。 浅草から日光・鬼怒川はもちろんだが、会津田島まで直通運転する特急である。 今日は満員のようだ!

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・・・・・・・・・・・・わたくし事だが、私も4月21日に「東武鉄道リバティ記念乗車券」(6枚組)を浅草駅で購入した。 このお宝をコレクションに追加!

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am9:00・・・・・・・スカイツリーを正面に見ながら、言問橋を渡り向島に入る

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am9:30頃・・・・・・・向島の秋葉神社鳩の街商店街地蔵坂通り(通りの奥が玉の井)を通過。、、、、昭和33年(1958)、私は12歳まだ売春防止法も知らないウブな小学生。 この年の4月1日、法律は施行され、鳩の街・玉の井の娼家は廃業する。 廃業するまでに、一度、“永井荷風の世界”を見ておきたかったね!

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am9:45・・・・・・・東向島の東武博物館付近を通過。 国道に架かるガードには、東武鉄道開業時の蒸気機関車(B1形6号蒸気機関車)が保存されている。 また、国道からチョイト引っ込んだ処に、東武日光軌道線200形203号電車とロマンスカーが保存されているのも見える。 機関車・電車を見て元気づく、まだ私も若いね!

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am10:00・・・・・・・四ツ木橋を渡り、荒川を越える。、、、、、四ツ木橋は、戦前から架橋工事が実施されていたが、戦中には工事は中断し、戦後工事が再開し昭和27年(1952)7月30日に現在の橋が開通した。、、、、今日は風もなく気持ちよく渡ることができた

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am10:30・・・・・・・京成押上線四ツ木駅に到着。、、、、今日の散歩はここまで!

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●・・・・・・・・・・・・・今日の散歩のルート総延長は約7.5km。 1万4千歩

2017年4月26日 (水)

後楽園

今日は循環器内科の定期検診日。 庭園「後楽園」の南側にあるクリニック。 検診後は庭園に寄り、さらに地下鉄「後楽園」駅周辺を歩いてきた。


後楽橋・・・・・・・・・・後楽園の場外馬券売り場へ通う人はよくご存じの橋。 競馬新聞を片手に水道橋駅から馬券売り場(黄色いビル)に直結する人道橋「後楽園ブリッジ」の隣に並行して架かる橋。、、、、神田川に架かり、千代田区三崎町2・3丁目と文京区後楽1丁目を結ぶ橋。 関東大震災の復興橋の一つで、昭和2年(1927)11月2日に架設され、長さ21.0m、幅22.56mの鉄製のアーチを描く橋桁が特徴的な橋。 建設時の工事費は13万7千円也。、、、、橋名の由来はズバリ“後楽園”
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トヨタ自動車東京本社ビル・・・・・・・・・私が診察を受けるクリニックが入居する「後楽森ビル」(写真:右端、19階建て)と並ぶ、地上19階/地下5階建て、高さ89mの高層ビル。 設計は日建設計、施工は大林組+竹中工務店+清水建設、昭和57年(1982)の竣工。
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・・・・・・・・・・・・ 小石川後楽園の南側に隣接しているため景観に配慮した設計となっている。 敷地周囲には公開空地があり、緑豊かな散策路となっている。 
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・・・・・・・・・・・・ 後楽園の築地塀に接する北側の空地は、隣の森ビル、住宅金融支援機構のビルへと続く、長い散策路が実現している。、、、、、二人で語らい歩くにはいい処

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・・・・・・・・・・・・ 振り返ると築地塀は後楽園の入口へ延びる。 つつじ(?)が花の散策路を作り誘導してくれる

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小石川後楽園・・・・・・・・・ 寛永6年(1629)に水戸徳川家の中屋敷として造られたもので、水戸黄門(光圀)の代に完成した。 石造りの太鼓橋、杭州の西湖を模した堤、など中国趣味豊かな庭園である。、、、、、現後楽園(庭園)は、明治時代に組織された東京砲兵工廠の敷地の中央に位置していた。 砲兵工廠は、南の外堀通り、東の白山通り、北の春日通り、そして西は春日通の富坂上と外堀通りの飯田橋職安前を結ぶ線、で囲われた広大な敷地である。 そこには、現在の後楽園遊園地、球場、文京区役所、中央大学理工学部、小石川運動場なども含まれる。、、、、実際に当時の地図を見ると、現在の庭園部分は砲兵工廠敷地の中央にそのまま残され、周囲に各種建物が配されていた。 それゆえ、江戸時代の名園は破壊されることなく今日まで残り、見ることができるのである。

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・・・・・・・・・・・・ チョイと余談だが、10年ほど前までは、写真中央の建物の5階に私のデスクがあった。 毎日、名園を眺めながら一生懸命タバコを吸っていたね!

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・・・・・・・・・・・・・ 園内に今日の散歩で見つけたものが二つある、、、、一つは、昭和10年(1935)に建立された「陸軍造兵廠 東京工廠跡 記念碑」である。 特異な形は、砲兵工廠の敷地をかたどっている。 まさに、小石川後楽園が工廠の跡であることを示している。

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・・・・・・・・・・・・ 二つ目は、園内に残る工廠時代の弾丸製造機械の一部。 どうやって、使用しものか、私には判らん。 案内板などは一切なく、静かに置かれている。 知らない人は『石燈籠の傘かな?』

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・・・・・・・・・・・・ 庭園を出て、地下鉄後楽園駅の方に向かう築地塀には、江戸城外堀の石垣を再利用して組まれている。 石には、築いた大名を表す刻印を見ることができる。

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東京都戦没者霊苑・・・・・・・・ 春日通に面し、中央大学理工学部と礫川公園の間に、東京都関係戦没者16万人の霊を祀る戦没者霊苑がある。 この地も砲兵工廠の跡地の一部である。 ここには小石川陸軍工科学校があった。 霊苑の設計は建築家:相田武文による。、、、、、昭和6年(1931)の満州事変から終戦までの戦没者に、手を合わせてきた。

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・・・・・・・・・・・・・・苑内には遺品を展示する施設もある、一見の価値あり!、、、、どうもダメだ、遺品を見ると目が潤む

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・・・・・・・・・・・・・・苑内の片隅に、「諸工伝習所跡記念碑 陸軍砲兵工科 工科学校跡」と刻まれた碑が、訪れる人もなく静かに建ってる。、、、、、明治5年 (1872)に諸工伝習所を創立し、その後陸軍砲兵工科学校陸軍工科学校陸軍兵器学校と名はかわったが、昭和20年(1945)までの73年間陸軍技術の教育が行われていたところ。、、、、諸工伝習所創立100周年にあたる昭和47年(1972)に、卒業生が碑を建立したものである。、、、、私の父は、ここにあった陸軍工科学校の卒業生の一人である。 今日は、亡き父にかわり、母校跡に訪れてみた。

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●・・・・・・・・ 小石川の砲兵工廠跡として、現存する建物はないが、広大な敷地がその後どのように変わっていったか、地図を見ながらチョイト勉強するかな。

2017年4月24日 (月)

南台

地下鉄丸ノ内線の終点方南町駅(杉並区)から、中野区の南端の町「南台」をぶらつき、隣の渋谷区本町5丁目まで、1万歩の散歩です。


方南町駅 ・・・・・・・・・丸ノ内線分岐線の終点は「方南町(ほうなんちょう)駅」。 駅のある杉並区の町名は「方南(ほうなん)」、、、、駅周辺の一帯は和田村と称し、字(あざ)として“方南”、“向方南”などが見られた。 地名“方南”の由来は不明であるが、昭和7年(1932)の杉並区発足時には、字方南と周辺の字を併せて「方南町」となった。 この町名も昭和41年(1966)に実施された住居表示では、“町”をはずして「方南」となる。、、、、“ほうなんですか?” “ほうなんです。”
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・・・・・・・・・・駅前の有名な立ち食いそば屋のある東口から地上に出た。 アーケード下の薄暗い出入口である。

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南台・・・・・・・方南町駅を出て東に100mも歩けば、そこは中野区南台の町。 「南台(みなみだい)」とは、中野区の南の台地の意である。 昭和42年(1967)の住居表示変更以前は、“前原”、“多田”、“雑色”などの、由緒ある地名であったが、古きを捨て、新しき陳腐なネーミングを採用した。

 
・・・・・・・・・・南台5丁目、小高い丘の上に2棟46戸程の集合住宅:東京都住宅供給公社雑色住宅が建っている。 昭和37年(1962)頃(?)の建築、、、、名前の“雑色”はかつての地名
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・・・・・・・・・・・・南台5丁目を流れる神田川 に、昭和34年(1959)に架けられた向田橋、、、、向田橋は中野区に架かる最上流の橋。 “向田”も付近の旧地名

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・・・・・・・・・・・・南台3丁目の多田神社。 神社は、寛治6年(1092)源義家が大宮八幡宮(杉並区大宮2丁目)に参詣のおり、当地に先祖多田満仲(=源満仲。 平安中期の武将。 多田源氏の祖)を奉祀したことに始まるそうだ。、、、、、神社のある地は、かつて“雑色”と呼ばれ、多田神社は雑色の鎮守として現在もあがめられている。 ちなみに、“雑色”とは、皇室の文書や道具類を納める倉を管理したり、皇室行事の実施を担当する役所で働いていた人々のことである。 現在の宮内庁職員に相当する。

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・・・・・・・・・・・・南台3の南台小学校は、旧多田小学校旧新山小学校が、今年4月に統合して誕生した学校である。 校舎は旧多田小学校を使用。、、、、、ここでも、歴史ある“多田”、“新山”の旧地名が消える!

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・・・・・・・・・・・・中野通りを挟み南台3丁目から300m程伸びる南台商店街。 大きな店舗はないが、東京オリンピックの年(1964)からスタートした元気そうな商店街。、、、、そろそろ、店を開ける時間だ!

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・・・・・・・・・・・・中野通りに面し南台2丁目にある、昭和44年(1969)に建てられた都営南台2丁目アパート。 外壁にタイルで書かれたアパート名が時代を思わせる。 管理戸数は1棟56戸。、、、、、今日は、チョイト、中に入れてもらった。 7階から見る新宿。 見晴らしは抜群、新宿の超高層が一望できる!

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・・・・・・・・・・・・・南台1丁目にある国立校:東京大学教育学部附属中等教育学校。 前身は昭和23年(1948)に発足した東大附属学校。 平成12年(2000)から、中・高一貫教育の中等教育学に変わった。、、、、ここには、ソーセージ枠なるものがある。 ソーセージ(双生児)枠とは、中等教育における双生児研究を実践するため、毎年1組~10組程度の双生児が入学している。 1学年定数120名(男子60名、女子60名)のうち男女それぞれ20名以内が双生児枠。、、、、、ぜひ、天才双生児を育成し、ザ・ピーナッツを復活して欲しいね。

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幡ヶ谷氷川神社・・・・・・・・・・南台から隣の渋谷区本町に入り、氷川神社にお立ち寄り。、、、、氷川神社の創建年代は不詳だが、永禄年間(1558~1570)の小田原北条家文書に記載されていることから戦国時代には創建されていたそうだ。 幡ヶ谷村の鎮守社。

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●・・・・・・・・・・・氷川神社の近く「本町五丁目」バス停から、渋谷区のコミュニティバスで笹塚駅に出て帰宅。、、、、バスを待つ人もなく、ゴミ箱と椅子が並ぶ、静かなバス停。

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2017年4月20日 (木)

尾久車両センター

京浜東北線上中里駅で下車し、尾久車両センターの周囲を歩き田端新町まで、8千歩の短い散歩である。、、、、、帰りは、田端新町から都バスで浅草に出て、帰宅。


上中里駅 ・・・・・・・・・昭和8年(1933)7月1日に開業した上中里駅。 23区内のJR駅の中でも、際立って利用客の少ない駅。 出入口・改札口はホームの東端の橋上に一か所あるのみ。 駅での待ち合わせには、間違えることの少ない人にやさしい駅である。
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車坂跨線橋・・・・・・・・・上中里駅から直線距離で約300m田端側に位置し、京浜東北線上に架かり、新幹線下を抜ける跨線橋。 現橋は昭和57年(1982)に架けられたものであるが、昭和初期の写真に先代の跨線橋が写っている。、、、、橋名の「車坂」は、崖上の滝野川女子学園の脇を南へ上る坂である。

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上中里庚申堂・・・・・・・・・駅から跨線橋を渡り崖下の道路沿いに出ると庚申堂がある。 堂内には、石塔が複数あり祀られている。 庚申塔には、寛文5年(1665)の年号が読み取れる。

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上中里2丁目の裏道・・・・・・・・・駅の北側には、昭和の下町の面影を残す細い道がある、、、私、好みの細道

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梶原踏切・・・・・・・・・・上中里駅から北へ150m程の処(尾久車両センターの大宮寄り)にある東北本線(宇都宮線+高崎線)の踏切。 通勤時間帯は、都内にある踏切同様、ここも開かずの踏切となるため、人がわたることのできるエレベーター付き跨線橋が隣に設置されている。 跨線橋は、嵌め殺しのガラス窓があるので、チョイト写真を撮るには邪魔だ!

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・・・・・・・・・・・・・・踏切から撮影

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・・・・・・・・・・・・・・・跨線橋から撮影

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尾久駅・・・・・・・・・・昭和4年(1929)6月20日に開業した東北本線の駅。 上中里と利用客の少なさを競う駅。 駅の所在地は荒川区の尾久ではなく、開業当時から北区昭和町にある。、、、、ところで、荒川区の地名「尾久」(東尾久・西尾久)は『おぐ』と読む。 駅の「尾久」は『おく』と読む。 なぜか・・・・駅名を決めるとき、当時の国鉄(時代からすると鉄道省)が、『おぐ』は訛りだと思い、『おく』にしてしまったそうだ。 単なる間違いが80年以上訂正されずに使用されているようだ。


・・・・・・・・・・・・・・・梶原踏切から尾久車両センターに沿って歩いてきた

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・・・・・・・・・・・・・・・尾久駅

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・・・・・・・・・・・・・・・尾久駅の脇から、尾久車両センターの広い構内を横断する地下道「尾久構内架道橋」がある。 長さ約150m、長い!

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田端信号場駅の脇を歩く・・・・・・・・・

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東田端道標・・・・・・・・・・田端運転所と尾久車両センターの間の道を田端駅方向に歩いてくると、運転所の角(東田端2-19)に道標がぽつんと立っている。、、、、「右 □阿弥陀 西新井弘法大師道」、「左 王子道」と標されていた。 どうやら、私が歩いてきた道が王子街道(王子道)であった。

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●・・・・・・・・・・・・・これより、近くの明治通りにでて、バスで浅草へ行く。 散歩はここまで!

2017年4月19日 (水)

高円寺~鷺ノ宮

JR中央線高円寺駅から道なりに北上し、西武新宿線都立家政駅まで行き、余裕で隣の鷺ノ宮駅まで、1万1千歩の散歩です。


高円寺駅・・・・・・・・・かつて、故・高円宮殿下が住んでいた町で、阿波踊り発祥の地として高円寺 は全国に知られている。 町の中心:高円寺駅北側には、いじらしくいとおしい女子高生が多く、「純情商店街」と言われている。(以上全て、嘘八百!)、、、、大正11年(1922)7月15日、国鉄の駅として開業した。(これホント)
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高円寺純情商店街・・・・・・・・・・戦前から北口で栄えた旧「高円寺銀座商店街」。 駅前に広がる約200店舗で構成される商店街である。 現在はねじめ正一の小説のタイトルから「高円寺純情商店街」の愛称で親しまれている。、、、、、通勤時間帯は駅に向かう人がゾロゾロ・セカセカ。
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高円寺庚申通り商店街・・・・・・・・・純情商店街に続く一本道の商店街。 商店街中程には庚申塔が残っている、歴史のある商店街。

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・・・・・・・・・・・・杉並区と中野区の境となる早稲田通りに商店街の北の端がある。

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・・・・・・・・・・・・商店街中程の庚申塔。 庚申塔は正徳6年(1716)高円寺村の講中10人が、悪病退散、村民安全祈願のため建立した。 庚申塔は、昭和 20年(1945)の東京大空襲で戦火をかぶり一部破損したが、昭和37年(1962)に現状の如く修復された。、、、、なにやら秋の味覚を連想させる立派な庚申塔、負けた!

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荒牧医院・・・・・・・・・・高円寺庚申通り商店街を通り抜けると、早稲田通りの向かいに、薄水色の下見板張り2階建てのかわいらしい建物が見える。、、、、大正末期に現在地で内科・外科・小児科・皮膚科の診療を開始した医院で、現在は子孫が受け継ぎ開業している。 建物は、耳鼻咽喉科と皮膚科の2棟ある。 耳鼻咽喉科の建物は開業時の建物で100年近く経過している。 その脇に早稲田通りに面して、皮膚科の建物が建っている、こちらは戦後の建物。

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天平・・・・・・・・・・中野区大和町3、昭和の匂いプンプンの民生食堂「天平」。 「民生食堂」とは、戦前の「外食券食堂」がルーツで、昭和16年(1941)に米の配給制開始に伴い、食堂が完全登録制となり、「米穀通帳」を役所に提示し「外食券」を発行して貰い、その券で食事する食堂を「外食券食堂」と呼んだ。 戦後になると、闇ゴメなどが出回り食糧事情も変わり、外食券不要で雑炊だけを提供する「雑炊食堂」が現れた。 昭和26年(1951)には外食券制度がついに廃止となり、それまでの「外食券食堂」が、都指定の「民生食堂」へと変わったそうだ。 「民生食堂」は、都の補助もあり安価に食事ができる「大衆食堂」である。、、、、店は11時から営業とのこと。

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川北橋・・・・・・・・・中野区大和町と中野区若宮を結び、妙正寺川に昭和42年(1967)に架けられた橋。

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・・・・・・・・・・・橋の北詰にある更生教会(中野区若宮2)のモミの木は、昭和64年(1989)の暮、「銀座ミキモト」のクリスマスツリーとして店頭を飾ったものである。 大きく立派に育ち、今は教会のツリーとして毎年点灯されているそうだ。

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庚申大神・・・・・・・・・若宮2丁目の庚申塔。 「享保十乙巳年十月吉日」(1725)と彫られている。

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都立鷺宮高等学校・・・・・・・・・・若宮3にある都立鷺宮高等学校の前身は、東京府立高等家政女学校で、最寄り駅である西武新宿線都立家政駅から徒歩3分の距離。 西武新宿線鷺ノ宮駅~野方駅間は1km弱の短い距離であるが、その途中に都立家政駅が設けられた。 校名を冠した駅である。、、、、、学校は明治45年(1912)7月4日に豊多摩郡立農業学校の附設実業女学校として創立。 大正15年(1926)に東京府立中野家政女学校と改称し、昭和4年(1929)に東京府立高等家政女学校と改称した。 昭和13年(1938)4月1日、中野区桃園町から現在地に移転した。 都立家政駅が開業したのは、移転の前年昭和12年(1937)12月25日で、学校の移転を先取りしての開業であった。、、、、、ということで、鷺宮高等学校は駅名の謂れとなった学校。 また、校名が変わっても、古い駅名を存続させている西武鉄道もあっぱれ・かっぽれ! 

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・・・・・・・・・・・・・こちらは、都立家政駅。 念のため、開業時は“府立家政駅”と称した。

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・・・・・・・・・・・漫画家「ちばてつや」が考案した、都立家政のマスコット・キャラクター「かせいチャン」。 そのブロンズが都立家政駅の隣の信用金庫前にある。、、、、かわいいね。

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鷺ノ宮駅・・・・・・・・・・・都立家政駅からチョイト足をのばして、隣の鷺ノ宮駅まで歩いた。、、、、昭和2年(1927)4月16日に開業した、単式ホーム1面1線(上り)と島式ホーム1面2線(下り)を併せ持つ地上駅。

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2017年4月17日 (月)

鹿浜

日暮里・舎人ライナー西新井大師西駅から、ほぼ真西にある芝川水門まで行き、再び西新井大師西駅まで戻る、1万2千歩の散歩です。


西新井大師西駅・・・・・・・・・平成20年(2008)3月30日、日暮里・舎人ライナーの開通と同時に開業した駅。 駅名となっている西新井大師までは、東へ直線距離で約1km、許容範囲を超えた無理な命名だ。 お年寄りが当駅で降りてお参りに行くと、大師の門前で行き倒れるかも(?) 後悔しないように、東武大師線、東武バスを利用し、無理のない参拝をしよう。
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江北六丁目団地・・・・・・・・・西新井大師西駅西口に隣接する、昭和46年(1971)に建てられた総戸数860戸(29棟)の旧住宅公団の団地。 近年、リニューアルしたようで外装はきれいだが、全棟5階建て鉄筋コンクリート造の団地は、団地ファンが喜びそうだ。  “This is 昭和40年代の団地”。

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押部八幡神社・・・・・・・・・鹿浜7丁目にある、誉田別尊(応神天皇)を祭神とする旧鹿浜村小名押部の鎮守社。 神社の創建は徳川時代中期と伝えられている。 大正12年(1923)の関東大震災で社殿が破損したが、直ちに再建し現在に至る。

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阿弥陀院・・・・・・・八幡神社の隣に、天明2年(1782)の創建と言われている真言宗智山派の阿弥陀院がある。 本尊は阿弥陀如来像。 昭和40年(1965)に、鉄筋コンクリート造で本堂および庫裡の改築が行われたそうだ。

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焼き芋・・・・・・・・・おいおい、20℃を超えたこの暑さ、焼き芋屋さんがいる。 ちゃんと、窯に火が入っている。、、、、芋屋さんは運転席で地図を広げ、マーケットを分析中。 売れそうな、寒い場所へ移動するのか?

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・・・・・・・・・・・・・ギョ! 芋屋さんの車の先に、ナント! 機関車が! これは、偶然か? 神の御導きか?



C5075機関車・・・・・・・・・ここは、北鹿浜公園。 公園の中に、一見して、可哀そう、痛々しい、見すぼらしい、重病の機関車が展示されていた。 この蒸気機関車はC5075(中距離用小型テンダ機関車)といい、昭和4年(1929)に川崎重工兵庫工場で製造され、昭和46年(1971)まで、豊岡・奈良・亀山などの機関区に所属し200万kmも走り続けた強者である。、、、、、柵の貼り紙には、今年から2年間かけボランティアの支援を得て、補修と塗装が行われる旨、記されていた。 しっかりと修理されることを期待し、よろしく!

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芝川・・・・・・・・・・C5075機関車から500m程西へ向かうと今日の散歩の目的地「芝川」に出た。 芝川は、桶川市が源流で、上尾を抜け、見沼田圃を抜け、川口市に入り、芝川水門で荒川に注ぐ一級河川。、、、、、写真:右側は足立区鹿浜、左側は川口市領家

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・・・・・・・・・・・・・・振り返り、川下には赤い建物「新芝川排水機場」と左に「芝川水門」が見える。

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・・・・・・・・・・・・・・芝川水門、、、、、、大雨などによる洪水が発生した場合、荒川の水位が高くなると芝川へ逆流が発生してしまう。それを防ぐために作られたのが芝川水門である。 普段はゲートが上がっていて、船は行き来できる。 ゲート2門の水門は、昭和46年(1971)の完成。、、、、現在、耐震補強中。

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・・・・・・・・・・・・・・・新芝川排水機場、、、、、、水門の隣には芝川増水時に水をポンプで荒川に排水するために昭和53年(1978)に設置された新芝川排水機場。 その排水口に新芝川排水機場樋管(樋門)がある。

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都市農業公園・・・・・・・・・芝川水門の近くに、足立区立の都市農業公園がある。 園内の一画に、江戸時代後期の農家(和井田家)、旧浅野家長屋門(俗称「谷久門」)が移築保存されている。、、、、、足立区内にあった、昔の農家で、東京にあるとは思えない農村の風景を楽しむことができる。

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●・・・・・・・・・・・・・・・・この後、西新井大師西駅に戻り、帰宅。

2017年4月16日 (日)

藤まつり

今日の散歩は夫婦で、亀戸天神の「藤まつり」に行ってきた。


●・・・・・・・・・・・・見事に色づいた藤が、人目を引きつけるポスター。 4月15日から5月7日まで、天神さまの「藤まつり」。、、、、、滝のように垂れ下がる紫の花を期待し亀戸の町を歩く。
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●・・・・・・・・・・・・・商店街も、旗を出して歓迎。、、、、、ますます期待に胸が膨らみ、帰りのくず餅休憩も期待して腹が鳴る。

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●・・・・・・・・・・・・鳥居も見え着いた。、、、、、『人出は、チョイと少ないね。 ゆっくり観賞できそうだ! 綺麗な写真撮るぞ!』

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●・・・・・・・・・・・・ありゃこりゃ・どうした、藤棚に花がない! 『天神に騙された、金返せ!』と絶叫したくなる。 

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●・・・・・・・・・・・・どの枝にも、花はない、全てつぼみだ! 開花まであと一週間以上はかかると思う。、、、、花が垂れ下がるより、見事に期待を裏切られ、鼻水が垂れ下がる気分。

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●・・・・・・・・・・・『他責にするでなく 己の未熟さ故 綺麗なポスターに騙された 自分を責め』(怒りを抑え、男はカッコよく!) ここは、天神さまに賽銭118円を授けてきた。

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●・・・・・・・・・・・・期待外れの「藤まつり」、せめて賽銭分は楽しもう! お囃子、猿回しでチョイト挽回。

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●・・・・・・・・・・・藤の花は、一昨年の「藤まつり」。、、、、、古い写真見て我慢する。




●・・・・・・・・・・・“藤”がダメなら、“萩”で勝負!、、、、、天神裏、天台宗の龍眼寺は、応永2年(1396)に創建された。 境内の萩は江戸時代から著名で、萩寺と称されている。、、、、今はまだ“桜”が残っている。 こちらは、私たち夫婦を期待以上の花で迎えてくれた。
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●・・・・・・・・・・・・二人の散歩は、押上に出てスカイツリー・タウンに寄って帰る。

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2017年4月14日 (金)

江戸川~小岩

日ごとに暖かくなり散歩日和が続く。 今日も、家を出たものの行く先定まらず、とりあえず地下鉄浅草橋駅で到着していた電車に飛び乗った。 電車の中、どこで降りるか思案橋。 隣に座った“お姉ちゃん”に気をとられ、気づけば終点青砥。 青砥駅から歩くのは飽きたので、違う駅で下車しようと、後続の普通電車に乗り継ぎ江戸川駅で下車した。 江戸川駅から、江戸川土手沿いに歩いた。、、、、、、この寺、以前来た! この神社も! このコンビニではお茶を買ったぞ! 道を変えよう! あ!ここも前に歩いた!、、、、、ということで、結局一昨年の2月1日に歩いたルートを再び歩いてきた。、、、、、違うのは散歩の終点が、京成小岩駅ではなく、JR小岩駅である。 1万3千歩の歩きです。


●・・・・・・・・・歴史は古く大正元年(1912)に開業した江戸川駅で下車。 ここで下車する、通勤客はいない! 学生もいない! 乗車する人はパラパラ! 
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●・・・・・・・・・・・・昭和54年(1979)に架け替えられた、橋長433.2mの江戸川に架かる京成電鉄江戸川橋梁。 対岸は千葉県市川市。

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●・・・・・・・・・・・・江戸川の河川敷に広がる小岩菖蒲園。 菖蒲の季節には、50,000本の花が咲き誇る。 まだまだ時期は早く、やっと緑に色づいてきた。 まだ訪れる人は、地元の人だけ。

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●・・・・・・・・・・・・一寸八分の観音像を祀る光ヶ嶽観音堂(江戸川区北小岩4)。 観音様は、里見義豊(戦国時代の武将)、義俊(平安末期の武将)の守り本尊だったそうだ。

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●・・・・・・・・・・・・・門前に青面金剛と馬頭観音を祀る真光院(しんこういん、北小岩4)、、、、、ちなみに、私の守り本尊はキャッシュカードである。 現世では、お金がないと生きていけない!

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●・・・・・・・・・・・権現造りの古社は小岩田天祖神社。 現社殿は文政10年(1827)に再建された。

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●・・・・・・・・・・・・再び、江戸川の土手に上がってみた。、、、、、対岸は市川市国府台の里見公園 。 緑の中に薄いピンクの桜が見える。

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・・・・・・・・・・・・・・・チョイと春の日射しを受け上流側に歩くと、松戸市栗山の給水塔 が見える。、、、、、北総線の江戸川橋梁も見える。

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●・・・・・・・・・・・・・チベットとはどのような関係だか知らないが、寺宝としてチベット語の経典が多数ある真言宗豊山派正真寺。(北小岩7)、、、、、寺の駐車場の桜も見事に満開。

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●・・・・・・・・・・・・癌封じを売りとする江戸川不動尊唐泉寺(北小岩7)。、、、、、私には、癌封じだけでは足りず、呆け封じ、虫封じ、口封じ、いろいろ封じて、最後は息封じで極楽浄土。

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●・・・・・・・・・・・江戸川区北小岩に出っ張るように葛飾区鎌倉8丁目が接している。 ここに千代田通り商店街がある。 昔からの商店街ではなく、おそらく昭和の時代に作られた商店街のようだ。、、、、狭い通りだが賑わいがあるね。

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●・・・・・・・・・・・・商店街を横切り西に向かうと柴又街道に出た。 出たところに、寛永3年(1626)の創建と言われている大珠院がある。(葛飾区鎌倉4)、、、、、来てビックリ、見てビックリ、以前は貧乏寺のような造りの寺であったが、『Before/After』を見ているように、近代的な寺に変わっていた。、、、、私の賽銭で建て替えたのか? 失礼!

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●・・・・・・・・・・・・これより柴又街道を、京成小岩駅の踏切超えて、ひたすら歩きJR小岩駅へ向かう。

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2017年4月13日 (木)

土手通り

今日は、散歩の帰りに浅草に寄って買い物をする予定で家を出た。 『何処へ行こうか?』、とりあえず、我が家(浅草橋)から浅草を経由する南千住行のバスに乗り、バスの中で考えることにした。 バスが浅草を過ぎ、山谷堀公園が見え、「土手通り」を歩いてみたくなる、決定である。 泪橋でバスを降り、三ノ輪から待乳山聖天まで「土手通り」を歩いてきた。

土手通りとは・・・・・・・台東区東浅草1丁目(馬道通りとの接続点)から台東区日本堤2丁目(三ノ輪二丁目交差点)までの直線道路(約1km)である。 「日本堤(にほんづつみ)」という土手があったことにちなんで命名された。

日本堤とは・・・・・・・・現在は台東区北部の町名の一つであるが、元々は隅田川の氾濫による洪水を防ぐ目的で、元和6年(1621)に、江戸幕府によって築かれた堤防である。 幕府は、待乳山を崩した土で、今戸橋(現:待乳山聖天近く)から箕輪浄閑寺(現:荒川区三ノ輪)まで堤防:日本堤を築いた。 堤防の北側には、石神井川から分かれた音無川の下流となる山谷堀が流れていた。 また、明暦の大火(1657)以降、堤防の南側には“あの吉原”が人形町から移転してきた。 以後、日本堤は「吉原土手」とも呼ばれ、また、土手上は見晴らしがよく長さも6町余りあり、「土手八丁」とも言われた。、、、、現在の「土手通り」は、この日本堤の取り壊された跡である。


浄閑寺 ・・・・・・・・・日本堤の北の端(荒川区南千住2)に位置する、吉原遊女の投げ込み寺。、、、、“駆け込み寺”なら救われるが、“投げ込み寺”は屍となり葬られるだけ。、、、、花又花酔の川柳に「生れては苦界 死しては浄閑寺」とある

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日本堤の北端・・・・・・・・・・浄閑寺前の三叉路が日本堤の北端である。、、、、なお、王子で石神井川から分かれた音無川は日暮里を経て浄閑寺の西側に流れ、ここから山谷堀となって隅田川に注いでいた。(現在は暗渠となっている)


・・・・・・・・・・・・・浄閑寺前(左端の手前陰に浄閑寺がある)の三叉路。 写真中央の道路が土手の跡。 

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・・・・・・・・・・・・・・土手の跡をイメージする勾配。 駐車している車が傾いている。 写真中央の居酒屋の前面道路と裏側の道路には高低差がある。 

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三ノ輪二丁目交差点・・・・・・・・・道路幅も広くなり、ここから公式には「土手通り」。 交差するのは明治通り
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日本堤・・・・・・・・・・バス停は「日本堤」、バス停の北側一帯の町名は「日本堤」として残ったが、土手の「日本堤」は昭和2年(1927)に取り壊された。
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・・・・・・・・・・・・日本堤の町は、かつては革製品の加工工場が多かった処。 また あのドヤ街として名をはせた「山谷 」の一部も含んだ町である。 日本堤の中心的商店街「いろは会も頑張っている。

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・・・・・・・・・・・“土手通り”と云えば、“土手の中江”と云われる、明治38年(1905)創業の桜鍋の店:「中江(なかえ)」をイメージ。 隣の「伊勢屋」は明治22年(1889)創業の天婦羅屋。 現在の建物は、それぞれ、大正末期から昭和初期に建てられたもの。、、、、、吉原へ出向く粋人は、桜鍋を食して元気倍増!、穴子で精力回復! 行きも帰りも良い良い。

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吉原 ・・・・・・・・・・行ったことのない人でも、行ってみたい“ご存じ吉原”。 その入口大門へ向かう、土手通りから入る参道(?)に“見返り柳”が立っている。 吉原から帰る客が、この柳のあたりで、後ろ髪を引かれる思いで遊郭を振り返ったといわれている。 今の時代、遊郭はなくなり、あるのはソープランド。 遊び方も変わり、後ろ髪を引かれる人はいなくなったかも。

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・・・・・・・・・・昭和21年GHQの命令で公娼制度は廃止され、吉原遊郭は“赤線”となった。 12年後の昭和33年2月28日売春防止法の施行により“赤線”も消えた。 、、、、その“赤線”当時の建物と思われる建物が数棟、「土手通り」裏に残っている。

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旧待乳山小学校(現台東区立東浅草小学校)・・・・・・・・土手通りの吉原大門交差点近くに建つ旧待乳山(まつちやま)小学校は、明治6年の創立の小学校で、現在は近くの田中小学校と合併し東浅草小学校に変わっている。 ここの校舎は関東大震災後に建てられた復興小学校である。、、、、、東京市の設計、芝江初五郎の施工にて、昭和3年(1928)に竣工した鉄筋コンクリート3階建ての校舎である。、、、、山谷堀はこの校舎の近くを流れていたようだ。

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山谷堀公園 ・・・・・・・・旧待乳山小学校の近くから、山谷堀公園は始まり、待乳山聖天の裏まで続き、今戸橋跡で隅田公園にぶつかる。、、、、、あっち、こっちで散ったサクラを掃き寄せる光景が見られた。 この時期は、綺麗だが、散った後の一仕事は大変だ!

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土手通りはここまで・・・・・・・「土手通り」の公式の南端は台東区東浅草1丁目である。 写真手前から歩いてきた「土手通り」はここで終わり、右の「馬道通り」に続く。  直進すると山谷堀の最下流であった今戸橋に出る。

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2017年4月12日 (水)

南馬込

都営浅草線西馬込駅で下車し、南馬込1丁目・5丁目の付近をキョロキョロ、ウロウロ、ブラブラ歩き馬込駅まで、1万歩の散歩です。


西馬込駅・・・・・・・・・・都営浅草線の起点駅で、昭和43年(1968)11月15日に開業した。 下車したホームは地下3階にあり、地上に出るには地下4階の連絡通路に下り、そこから改札口のある地上まで階段・エスカレータを上ることになる。 地上に出るまで、無駄に歩かされているような気分になる駅である。、、、、、駅の先には馬込車両基地 があり鉄道オタクには聖地の一つである。
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夢告観音・・・・・・・・・・西馬込駅東口(上の写真)を出て、第二京浜から横道に入ると観音像が祀られている。 観音さまは、元々この場所にあったわけではなく、付近を転々とした末、現在地に落ち着いたらしい。 いずれにせよ、明治以降、民間の信仰が非常に厚かった観音様らしい。、、、、謎の多い観音さまだ!

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湯殿神社・・・・・・・・・・大田区南馬込5丁目にある湯殿神社は、創建年代不詳であるが、江戸時代には羽黒権現と呼ばれていたらしい。 神社の位置は、旧馬込村領主梶原助五郎(=戦国時代の武将で、後に北条氏の家臣となる)の居城「馬込城」の西端となるそうだ。 別当寺は近くの長遠寺。
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・・・・・・・・・・・神社の参道脇には、どこからか移設したと思われる、宝暦12年(1762)の造立の青面金剛庚申供養塔、寛文6年(1667)造立の如意輪観世音菩薩、造立年不明の地蔵菩薩像が2体並んでいる。

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萬福寺・・・・・・・・・・南馬込1丁目にある、切妻造り茅葺きの山門が印象的な、慈眼山無量院と号す曹洞宗の寺院。 建久年間(1190~99)大井村の地に密教寺院として創建された。 開基は梶原平三景時であったと伝えられている。 元応2年(1320)火災にあい、第六代の梶原掃部助景嗣が居城とともに馬込(現在地:南馬込1)へ移転した。 天文3年(1534)鎌倉の禅僧明堂文竜が曹洞宗に改め中興し、現在の萬福寺へと続いている。、、、、本尊の阿弥陀三尊を清めた湯水は眼病に効くと伝承されて信仰を集めてきた。

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・・・・・・・・・・・・・本堂は平成17年(2005)に新築、、、、桜の花が風に舞っていた

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・・・・・・・・・・・・本堂の後ろには、チョイト、ガンダーラ風の古そうな納骨堂がある。 中を覗いてみたいが、興味半分では罰があたりそうなので、ヤメタ!

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・・・・・・・・・・・・墓地の中央付近には、鎌倉幕府で権勢を振るい頼朝の死後に追放された梶原景時の墓がある。、、、、、また、明治・大正の天才女流奇術師:松旭斎天勝の墓もある。

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河原家住宅・・・・・・・・河原家の住宅は、旧馬込小学校の玄関と教場部分を移築して和風住宅に改造したもの。 その後時計台も移築した住宅。 国の登録有形文化財。、、、、、塀があり、平屋の住宅部分は見えず、時計台が屋根の上に見える。

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長遠寺・・・・・・・・・・馬込小学校前の長遠寺(ちょうおんじ)は、海岳山大乗院長遠寺といい、真言宗智山派の寺院。 烏羽天皇の天仁元年(1108)に創建された。 後柏原天皇の文亀2年(1502)現在の地に移り、元禄年間徳川綱吉の時代に諸堂が復興され壇林寺格となる。

・・・・・・・・・・・・・花が散り始めた枝垂れ桜が出迎えてくれる山門

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・・・・・・・・・・・・・・文久元年(1861)に再建された現本堂、、、、、屋根の青銅が美しい!

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馬込八幡神社・・・・・・・・・長遠寺に隣に、同寺が別当寺であった馬込八幡神社がある。、、、、境内に記された由緒では、『 時は鎌倉時代の建久四年(1193)馬込の松原(現在の北馬込二丁目付近)にいた、源頼朝の家臣の渡辺対馬守正久が、京都石清水八幡宮の分霊を勧請し、翌年の秋に遷宮を行ったといわれています。  そして、その後荒廃したものを江戸時代の文化十三年(1816)馬込村の名主だった高山幸右衛門らが再興して馬込全域の総鎮守となりました。』とある。、、、、、社殿は昭和36年(1961)に建てられた、鉄筋コンクリート造、八幡造りの建物。 また、境内には石造りの御霊社もある。

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四重の立体交差・・・・・・・・・・・第二京浜と東海道新幹線が交差する、馬込橋の地点は四重の立体交差である。、、、、まず、品鶴貨物線(現横須賀線)と第二京浜が交差していた、ここに架かる跨線橋が馬込橋である。 次に、第二京浜の下を都営地下鉄が走ることになり、貨物線の下を地下で抜けた。 そして最後は、貨物線の頭上を東海道新幹線が走ることになった。 下から、都営地下鉄(現:浅草線)、品鶴貨物線(現:横須賀線)、第二京浜、東海道新幹線が四重に交差する地点となった。、、、、昭和39年(1964)3月に行われた、新幹線陸橋の架設工事では、全長86.4m、約580tonのアーチ橋をあらかじめ造っておき、交通量の少なくなった夜間に、引き出す工法が採用された。 当時は物凄い工事で、新聞・テレビで報道されたのを覚えている。

・・・・・・・・・・・・・横須賀線(高架下)、第二京浜、新幹線の交差点である馬込橋。

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・・・・・・・・・・・・・・・引き出し工法で架橋した新幹線陸橋

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・・・・・・・・・・・・・・新幹線高架下を走る横須賀線(品鶴貨物線)
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馬込駅 ・・・・・・・・日本で初めてできた幹線道路の立体交差が、昭和15年(1940)に完成した、環状七号線と第二京浜国道の交差点である松原橋。、、、、、、馬込駅の出入口はこの橋の下にある。

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2017年4月10日 (月)

四ツ木~綾瀬

京成押上線四ツ木駅から、お花茶屋を抜けてJR常磐線綾瀬駅まで、1万歩の散歩です。


四ツ木駅 ・・・・・・・・・・今日の散歩は、京成押上線(四ツ木~青砥間)の高架化工事の進み具合を確認する予定で下車してみた。 工事は、仮囲い設置が行われていたが、まだ特に見るべきものはないようだ。 急遽、予定を変更し、北の方角に歩いてみる。
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四つ木の裏道・・・・・・・・・何か見るべきものはないかと裏道を歩き、コソ泥まねて家々覗き、おばさんと目が合い知らぬ振り。

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・・・・・・・・・・・・・・・四つ木2丁目、西光寺の前に出た! 手だけ合わせて、通り抜け!

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・・・・・・・・・・・・・・・水戸街道に出る手前、 「四つ木めだかの小道」がある。 水戸街道北側の「曳舟川親水公園」の続きだそうだ。 水戸街道の裏道250m程が整備され、小川に沿った小道である。 歩きながら、メダカを探してみたが、一匹も確認できなかった。 今日はメダカの学校の入学式で、全員留守のようだ。

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・・・・・・・・・・・・・・水戸街道(国道6号)を横断する!

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・・・・・・・・・・・・・・・四つ木から亀有へ延びる「曳舟川親水公園」の四つ木側の端。 写真右側が道路中央に整備されている公園。、、、、サクラは満開!

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宝町の裏道・・・・・・・・・・・・南北に伸びる「曳舟川親水公園」の道をはずし、親水公園の西側:宝町(たからちょう)の裏道を歩くことにした。、、、、ちなみに、「宝町」の謂れは、、、、この辺り、昔は宝木塚村(ほうきづかむら)と呼ばれていたが、昭和36年(1961)の住居表示で、他の町と合併し“宝”の一文字を採って宝町としたそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・・・この町もアパートが多いようだ。 学生向けより、社会人向けの方が多そうだ。

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・・・・・・・・・・・・・・・旧地名を残す「宝木塚小学校」。 昭和25年(1950)四ツ木小学校宝木塚分校として開設し、昭和26年(1951)葛飾区立宝木塚小学校として独立開校した。

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・・・・・・・・・・・・・・・昭和40年(1965)に建てられた「葛飾宝町アパート」、2DK(32㎡)が全27戸の都営住宅。 葛飾区内の都営住宅では、5指に入る古さ。

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お花茶屋駅 ・・・・・・・・・昭和6年(1931)に、上野線(日暮里~青砥間)の営業と同時に開業した相対式ホーム2面2線の地上駅。、、、、名の由来は駅前のお茶屋にお花さんが住んでいたと言われている。 嘘か、真実か、お花さんに聞いてみたいものだ!

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入学式・・・・・・・・・・お花茶屋にある共栄学園高等学校。 今日は入学式らしい、お父さん、お母さんと新入生(共学)がゾロゾロ。、、、、、こちらは、女子バレーボールの強豪校で有名。 男子は何が強いのやら? 

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九品寺・・・・・・・・葛飾区堀切6丁目にある、区内有数の古刹である九品寺。 当寺は、建久4年(1192)に創立され、以来、800年に近い法灯を伝えている。 ただし、享和2年(1802)および明治元年(1867)の火災、そして数度の水害により、寺宝・記録は散失し由緒不明。 現本堂は昭和35年(1960)に改築。、、、、境内には、最近建立したと思われる九品仏が春の陽射しを受け、嬉しそうだ。

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・・・・・・・・・・・・・・鈴懸の径、、、、、、、、九品寺には作詞家:佐伯孝夫の墓所があることから、寺の横の細い小道(元はドブ川で暗渠化した)には佐伯孝夫を偲び「鈴懸の径」と名付けられている。 チョイト歌のイメージとは、程遠い小道だ!、、、、、歌のモデルとなった鈴懸の径は立教大学のキャンパスにある。 こちらが本物(?)

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綾瀬駅・・・・・・・・昭和18年(1943)4月1日、国有鉄道(鉄道省)常磐線の駅として開業。 昭和46年(1971)4月20日、営団地下鉄千代田線の駅が開業し、駅管轄権が営団に移管された。 都内にあるJR駅では唯一、他社に営業を委託している駅である。

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2017年4月 6日 (木)

戸田橋

JR埼京線戸田公園駅から、荒川に架かる戸田橋を渡り、埼京線浮間舟渡駅まで、1万歩の散歩です。


戸田公園駅・・・・・・・・・東北新幹線の建設では、埼玉県南部の人口密集地を抜けるため、新幹線高架橋と並行して通勤新線を建設し住民の説得にあたったのが埼京線である。 昭和60年(1985)9月30日、その埼京線と同時開業した駅の一つが戸田公園駅。 島式ホーム1面2線と、両外側に1線づつ通過線がある高架駅。 下り線の外側には新幹線の高架橋が並行する。

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・・・・・・・・・・・・・・このまま電車に乗って終点まで行きたくなった!

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地蔵堂・・・・・・・・・・・荒川の左岸:戸田市川岸1丁目に地蔵堂がある。 堂は江戸時代の絵図にも記載されている、戸田市内最古の木造建造物だそうだ!
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・・・・・・・・・・・・・・地蔵堂の近くにある水神宮(すいじんぐう)。、、、、正面の石碑には寛政8年(1796)の銘がある。 この地の氏神さまらしい。

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・・・・・・・・・・・・・・地蔵堂の近くにもう一つ古そうなものがあった。、、、、今も現役のポスト

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戸田の渡し跡・・・・・・・・・・水神宮向かいの荒川土手に「中山道戸田渡船場跡」の碑がある。 荒川には江戸防衛の意から橋は架けられず、人々はここを越えるには船による渡しに頼らざる得なかった。 これが中山道「戸田の渡し」である。、、、、この渡しは、天正年中(1575~1591)よりあったとされ、その重要性は近世を通じて変わらなかった。 明治8年(1875)には木橋の戸田橋がついに完成し、「戸田の渡し」が廃止となった。

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戸田橋親柱・・・・・・・・・戸田橋の北詰(戸田市川岸3)の戸田橋親水公園に3代目戸田橋の親柱が保存されている。 3代目戸田橋は、昭和4年(1929)に着工し、総工費101万9000円を投じ、昭和7年(1932)12月24日に竣工した、長さ545m、幅11m、当時の橋梁技術の粋を集めた近代的な鉄製トラス橋で、完成当時は日本一斬新でモダンなデザインが話題を呼んだ。 橋の設計は増田淳(千住大橋、白鬚橋などを設計)、橋の施工は横河橋梁(現、横河ブリッジ)、架設は鴻池組である。

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・・・・・・・・・・・親柱の銘板「埼玉縣」には、後に米軍憲兵によって付けられたといわれている弾痕が3箇所ある。 一か所は、「埼玉縣」の“玉”の字の中央に、パチンコ玉程のくぼみを見ることができる。、、、、、“玉”を弾で傷つけ、おっ魂げた!

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・・・・・・・・・・・・・・・3代目戸田橋 (雑誌「工事画報」昭和8年1月号より )

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戸田公園・・・・・・・・駅名ともなっている戸田公園は、荒川の水を引き込んだ戸田オリンピックボートコースをはじめ、荒川の河川敷に広がる野球用のグラウンドなどの総称である。 戸田競艇場もボートコースの西端にある。、、、、、ボートコースは約2.5kmの長さ、長すぎるので、端っこだけ見てきた! 2020年東京オリンピックもここを利用すればいいのにね!

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戸田橋・・・・・・・・・現在の戸田橋は、埼玉県戸田市と東京都板橋区の間で荒川に架かるかかる橋で、国道17号(中山道)を通す。 新幹線・埼京線荒川橋梁が下流側に並行して架かる。、、、、明治8年(1875)に最初の木橋の戸田橋が架けられ、大正元年(1912)に2代目の戸田橋(木橋)が架けられ、3代目は昭和7年(1932)に鋼製のカンチレバートラス橋が架けられた。、、、、現橋(4代目)は、昭和53年(1978)竣工した、長さ519m、幅21mの鋼連続箱桁橋である。

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・・・・・・・・・・・・・・戸田橋から上流側を望む

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浮間公園・・・・・・・・・・・浮間舟渡駅の正面に広がる、東側の北区と西側の板橋区にまたがる約4万m²の公園。、、、、元は荒川が流れていたところで、大正から昭和にかけての河川改修で一部が池になった。 昭和42年(1967)に浮間公園が設けられた。、、、、、只今、満開! 早々と、昼前から桜色に染まった人もいた。

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浮間舟渡駅 ・・・・・・・・・・北区浮間と板橋区舟渡の2区にまたがる駅

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2017年4月 5日 (水)

矢切~市川

本格的に春の陽気でポッカ・ポッカのポッカレモン。 今朝は、北総線矢切駅で下車し、総武本線市川駅まで散歩した。 1万1千歩。


矢切駅 ・・・・・・・駅前に立って顔を右・左、東西南北、歩きつくした駅だ。 さてさて、今日はどっちへ歩くか思案橋。 決めた、『歩いたことがなさそうな裏道をとおり、市川駅方面に向かうことにしよう!』
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・・・・・・・・・・・・・・・駅裏の住宅地を歩くことに、、、、、、

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中原寺 ・・・・・・・・・・・『アレ・アレ、この寺は2、3度来たことがある。 こんな処に出てしまったか!』 今日は素通りして、失礼します!

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じゅん菜池緑地・・・・・・・・・・中原寺の先で左折すると「じゅん菜池緑地」があった。 『ア~~ どっちへ歩いても知った処に出てしまう! モ~~、どうでもイイヤ!』、、、、『春の陽気だ、緑地の中を歩こう!』、、、、国府台と国分の台地間に細長く入り込んだ古くからの沼がある。 この沼は「国分沼」と言われていたが、沼にはじゅん菜がたくさん生えていたことから、いつしか「じゅん菜池」と呼ばれるようになった。 しかし、昭和初期に沼が干上がり、じゅん菜は絶滅した。 昭和54年(1979)に、現在のじゅん菜池緑地へと整備され、市川市の憩いの場となった。

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下総国分尼寺跡・・・・・・・・・国分の台地の住宅地を歩き、和洋国府台女子中の裏に出ると、国分尼寺の跡が公園となって残されている。、、、、、国分尼寺は、国分寺と同じように、聖武天皇が天平13年(741)に発した「国分寺建立の詔」によって、「法華滅罪之寺」として各国々に建立されたものである。 南北の直線上に講堂を北にして金堂が南にある伽藍配置であった。 昭和42年夏に行われた発掘調査では、金堂と講堂の基壇が発見されている。 公園は芝で覆われ、基壇の中央付近に「金堂跡」、「講堂跡」と刻んだ石が置かれているだけ。 芝の上に寝て目をつむり、遠く古のロマンでも想像するのもいいかも!、、、、、この地から東南400m程の処に下総国分寺跡 がある。 『男女は離しておかないと、修行の邪魔。 離れていても、夜な夜なデートした僧と尼もいたかもね?』

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国分の台地・・・・・・・・・・下総国分尼寺跡から、裏道を南へ、国分の台地の端と思われる見晴らしの良い処に出た。、、、、市川駅前のタワーマンションが中央に、和洋女子大の校舎が右端に見える。

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芳澤ガーデンギャラリー・・・・・・・1000坪の敷地と庭園で、四季折々の自然を楽しむことができるガーデンギャラリー。 平成14年(2002)に芳澤月恵氏から寄贈された敷地を活用しオープンした。 ギャラリーは、鉄筋コンクリート造、平屋建ての明るい建物である。、、、、今日は、市民のデッサン展が行われていたので、チョコット拝見!

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真間川の桜を見て、お帰り・・・・・・・・・・

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2017年4月 4日 (火)

江古田~沼袋

江古田の民間企業が保有している千葉鉄道聯隊で活躍していた「E18機関車」が見たくなり、西武池袋線の江古田駅から西武新宿線の沼袋駅まで、1万1千歩の散歩です。



江古田駅 ・・・・・・・・・大正11年(1922)11月1日、“1”並びの日に開業した駅。 旧制武蔵高等学校(現:武蔵大学)の設立に合わせて「武蔵高等学校用仮停留所」として開業し、翌年、駅名を「江古田」に改称し本営業を開始した。 駅名は「えこた」と読む、地名としては「えごた」の読みが正解である。 ただし、駅が所在する練馬区には“江古田”はなく、隣の中野区に地名が残っている。 ついでに、大江戸線の「新江古田」駅(練馬区・中野区の区境にある)では“しんえごた”と称している。
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●・・・・・・・・・『江古田まで来たので武蔵大キャンパスでも覗いてみるか』と思い、武蔵野稲荷神社の境内を抜けて大学前の通りに出たら、『ナンジャ・コリャ!』学生がゾロゾロ、『ソ~~カ、越谷の手前だ! 新入生のオリエンテーションだ!』 今日は立ち寄るのを諦めた。

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鉄道聯隊E18機関車・・・・・・・・・練馬区豊玉北1丁目の「エリエイ」という鉄道関連図書出版社に置かれている。、、、この機関車は、鉄道聯隊で使われた機関車で、大正10年(1921)にドイツ・オーレンシュタイン&コッペル社にて製造された。 軌間600ミリのE型タンク機関車である。 このE型タンク機関車は、小回りの利く機関車として、軽便鉄道・森林鉄道、工場構内などで多く使用された。 大正10年(1921)、陸軍はこのE型機関車を25両発注し、「E1」~「E25」機関車とした。 昭和20年(1945)までは、千葉の鉄道第一聯隊または津田沼の鉄道第二聯隊の演習線で活躍した。 戦後、聯隊はなくなり、E18は砂利運搬用に西武鉄道に引きとられた。 数年間使用された後は、西武鉄道関連の工場・倉庫に放置され、ボロボロの状態となった。 平成5年(1993)こちらの会社に移され、大井川鉄道新金谷工場で外観の修復が行われた。 平成24年(2012)から、現在の状態で保存されている。、、、、ボロボロの身体となったE18の再活躍は難しいと思うが、玄関前に大切に保存してもらい、延命しているようだ。

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江古田の森公園・・・・・・・・・・・中野区江古田にある中野区立の公園である。 樹木や芝生の広場などがある広い公園は、住民の憩いの場であるようだ。 敷地は、大正8年(1911)にできた国立療養所中野病院があったところで、主に結核患者の養生所であった。 その病院も平成4年(1993)に新宿区の国立国際医療センターへ移転した。 跡地は中野区により公園として整備された。 公園に隣接し、「江古田の森」という老人ホーム、東京警察病院看護学校総合東京病院など、医療・介護関連施設が集まっている。

・・・・・・・・・・・・・公園は春、、、、、

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・・・・・・・・・・・・・・・公園の中央に福祉センター:「江古田の森」がある

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・・・・・・・・・・・・・道路を挟み向かいの東京警察病院看護学校は、本日が親子揃っての入学式。、、、、いずれ私が病院で世話になる娘がいるかもね?

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・・・・・・・・・・・・・こちらは総合東京病院、デカい病院だ!、、、、、病院の診察券を蒐集するのが趣味の私も、ここの診察券は持ってないね! 

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カトリック徳田教会・・・・・・・・総合東京病院(中野区)とは江古田川を挟み練馬区側の豊玉中1丁目にカトリック徳田教会(とくでんきょうかい)がある。 こちらの教会は、明治42年(1909)にパリ外国宣教会から日本に派遣されたヨゼフ・フロジャック神父の歩みと共に活動してきた。 神父は、昭和初期、中野区江古田にあった結核療養所の入院患者が、退院を強いられ行き場を失っていたのを見て、一軒の家を借りて収容された。 その後、この家の周りに、患者を支える社会福祉法人慈生会、ベタニア修道女会、徳田教会などがつくられていった。 昭和28年(1953)には、神父の尽力により、現在の聖堂・司祭館が造られた。 その後、神父は昭和34年(1959)に他界した。、、、、「徳田」(とくでん)は豊玉にあった旧地名である。


・・・・・・・・・・・・・・・正面から拝見、中世の教会のような後ろ姿も拝見

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・・・・・・・・・・・・・・・鐘楼に向かい左側が聖堂、右側は司祭館

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・・・・・・・・・・・・聖堂の内部も拝見!

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沼袋駅・・・・・・・・・西武新宿線の沼袋駅(ぬまぶくろえき)から帰宅する。、、、、沼袋駅は隣の新井薬師駅とともに地下化工事が進められている。 工事はまだまだこれから、只今はヤードの整備中、完成まではあと数年はかかる?

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2017年4月 3日 (月)

二葉

JR大井町駅から、西側に広がる品川区二葉の町を1丁目から4丁目まで歩き、都営浅草線中延駅まで、1万1千歩の散歩です。

・・・・・・・・・二葉の町名、、、、、、窪地であった現在の「二葉」・「豊町」のある一帯は、江戸時代以前の戦乱の時代より、この辺りに陣を張るのに適していたので、「兵備窪」と呼ばれていたそうだ。 その「兵備窪」が外部の敵に恐れられる地となるよう「蛇窪」(へびくぼ)と称されるようになった。、、、、明治・大正時代までは、上蛇窪・下蛇窪などと称された。 昭和初期には、『“蛇”も“窪”も、暗いイメージの字』であることから、町にあった上神明天祖神社・下神明天祖神社にあやかり、「上神明町」・「下神明町」に改称された。、、、、、昭和16年(1941)、上・下神明町を、それぞれ南北に分け、北側同士、南側同士の町を合わせ、「二葉町」・「豊町」とした。 この時の新地名「二葉町」・「豊町」は、東京市からの提案で、さして深い意味はなかったそうだ。、、、、そして昭和39年(1964)の新住居表示では、「二葉町」は「二葉」に変わった。


上神明天祖神社・・・・・・・・・今日の散歩では最後に立ち寄った、中延駅に近い神社である。、、、、、品川区二葉4丁目にある天祖神社。 神社は、元享2年(1322)の大干ばつの時、雨乞祈願し神霊の冥助による降雨を感謝し、蛇窪村の鎮守として創建されたそうだ。 江戸時代には、蛇窪村は上蛇窪村と下蛇窪村は分村した。 この時、上神明天祖神社は上蛇窪村の鎮守となり、下蛇窪村には下神明天祖神社が創建された。、、、、、鉄筋コンクリート造の本殿・拝殿は平成の世に改修された。
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・・・・・・・・・・・・・・神社には境内末社として、厳島弁天社があり、白蛇大神が祀られている。 岩の上では、数匹の白蛇が祠を守っている。 もちろん、作り物であるが、爬虫類が大嫌いの私は、写真を撮るのも怖い処だ!、、、、、社務所では、願いを書いて水に浮かべ溶けたら叶うと言われているおまじない的なものや、個性的な蛇の図柄の御守り・ストラップなども売られていた。 縁結びの御利益を期待し、若い女性が三々五々参拝に来ている。 蛇に手を合わせるのは怖いので、若い娘を横目でチラリ・チラ・チラ見ながら足早に立ち去った。

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下神明天祖神社・・・・・・・・東急大井町線の下神明駅の南側:二葉1丁目にある下神明天祖神社。、、、、、、江戸時代から鎮座していた天祖神社が、正保年間(1644~1647)に、下神明天祖神社(二葉1丁目)と上神明天祖神社(二葉4丁目)とに分かれたとされている。 こちらの神社は蛇に縁がなく、ゆっくり参拝できた。、、、、、社殿は昭和47年(1972)の建立。

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・・・・・・・・・・・・・・社殿前の狛犬は、品川区最大で体高1.4mある。 昭和8年(1933)、当時の荏原町の消防団の業績を記念して奉献されたものである。、、、、デカい! “犬”ではなく“獅子”だ!

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東光寺・・・・・・・・下神明天祖神社の南に、天台宗寺院の東光寺がある。 東光寺の創建年代は不詳だが、戦国時代後期から江戸時代初期にかけて創建されたらしい。、、、、現在の本堂は、文化10年(1813)に再建されたものであるが、屋根、本堂前など手を加えられ再建時の姿はよく判らない。

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・・・・・・・・・・・・・・境内には東司という祠がある。 東司は寺院の便所のことで、この祠は不浄よけの神として「烏瑟沙摩大明王」(うすさまだいみょうおう)を祀っている。、、、、、『 「下」の病をせぬ様に 「下」のお世話にならぬ様に 「おまたぎ」をまたいで祈念して下さい 』と記されている。 60歳を超えたら、ぜひ、皆さん「おまたぎ」を!、、、、便所の神様なら、“金”“運”の御利益にすれば良かったかも?

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昭和の路地裏・・・・・・・・・・二葉1丁目の路地裏を歩いてみたら、昭和の下町が残っていた!、、、、木製の引き戸、丸い外灯、砂利道、一人で感動した!

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横山外科・・・・・・・・・下神明天祖神社鳥居の近く(二葉2丁目)、チョイト古そうな洋風の建物の病院。 昭和レトロの雰囲気が出ている建物で、度々、ロケに使われるらしい。 敷地も広そうで、洋瓦で飾った塀が伸びている。、、、、診療科目は内科・外科から産婦人科・性病科まで、『なんでもござれ』の地元に愛される病院のようだ!

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下神明駅付近・・・・・・・・・東急大井町線下神明駅のまわりをブラリ!


・・・・・・・・・・・・・・・下神明駅、、、、、駅は西品川1丁目にあるが、そのの通り下神明天祖神社の北側に位置する。 大井町駅の次の駅だが、乗降客は少ない。

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・・・・・・・・・・・・・・下神明駅の近くを通過する東海道新幹線。 後ろには、大崎駅前の高層ビルが見える。

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・・・・・・・・・・・・・・東急大井町線下神明駅のホーム先の鉄橋のほぼ真下で、東海道本線(品鶴線)と山手貨物線(大崎支線)が合流している。 この位置に、蛇窪信号場(へびくぼしんごうじょう)があった。 信号所は昭和40年(1965)に廃止。、、、、、写真は信号所の南側、住吉踏切から撮影した。

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二葉鬼門除け地蔵・・・・・・・・・・二葉2丁目の交番の隣に、東光寺の鬼門除けとしてここに地蔵尊が置かれている。 東光寺のほぼ真北にあたる。 地蔵尊は、寛政4年(1792)下蛇窪村の男女講が寄進したものらしい。、、、、、交番の隣では、賽銭を盗む者もいないね!

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下蛇窪ガード・・・・・・・・・JR横須賀線西大井駅の隣に下蛇窪ガードがある。 “蛇窪”の名が残るものの一つである。

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●・・・・・・・・・・・・今日は“蛇”の夢を見ないように、早々と熟睡することにしよう!!!!

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