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2017年4月13日 (木)

土手通り

今日は、散歩の帰りに浅草に寄って買い物をする予定で家を出た。 『何処へ行こうか?』、とりあえず、我が家(浅草橋)から浅草を経由する南千住行のバスに乗り、バスの中で考えることにした。 バスが浅草を過ぎ、山谷堀公園が見え、「土手通り」を歩いてみたくなる、決定である。 泪橋でバスを降り、三ノ輪から待乳山聖天まで「土手通り」を歩いてきた。

土手通りとは・・・・・・・台東区東浅草1丁目(馬道通りとの接続点)から台東区日本堤2丁目(三ノ輪二丁目交差点)までの直線道路(約1km)である。 「日本堤(にほんづつみ)」という土手があったことにちなんで命名された。

日本堤とは・・・・・・・・現在は台東区北部の町名の一つであるが、元々は隅田川の氾濫による洪水を防ぐ目的で、元和6年(1621)に、江戸幕府によって築かれた堤防である。 幕府は、待乳山を崩した土で、今戸橋(現:待乳山聖天近く)から箕輪浄閑寺(現:荒川区三ノ輪)まで堤防:日本堤を築いた。 堤防の北側には、石神井川から分かれた音無川の下流となる山谷堀が流れていた。 また、明暦の大火(1657)以降、堤防の南側には“あの吉原”が人形町から移転してきた。 以後、日本堤は「吉原土手」とも呼ばれ、また、土手上は見晴らしがよく長さも6町余りあり、「土手八丁」とも言われた。、、、、現在の「土手通り」は、この日本堤の取り壊された跡である。


浄閑寺 ・・・・・・・・・日本堤の北の端(荒川区南千住2)に位置する、吉原遊女の投げ込み寺。、、、、“駆け込み寺”なら救われるが、“投げ込み寺”は屍となり葬られるだけ。、、、、花又花酔の川柳に「生れては苦界 死しては浄閑寺」とある

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日本堤の北端・・・・・・・・・・浄閑寺前の三叉路が日本堤の北端である。、、、、なお、王子で石神井川から分かれた音無川は日暮里を経て浄閑寺の西側に流れ、ここから山谷堀となって隅田川に注いでいた。(現在は暗渠となっている)


・・・・・・・・・・・・・浄閑寺前(左端の手前陰に浄閑寺がある)の三叉路。 写真中央の道路が土手の跡。 

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・・・・・・・・・・・・・・土手の跡をイメージする勾配。 駐車している車が傾いている。 写真中央の居酒屋の前面道路と裏側の道路には高低差がある。 

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三ノ輪二丁目交差点・・・・・・・・・道路幅も広くなり、ここから公式には「土手通り」。 交差するのは明治通り
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日本堤・・・・・・・・・・バス停は「日本堤」、バス停の北側一帯の町名は「日本堤」として残ったが、土手の「日本堤」は昭和2年(1927)に取り壊された。
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・・・・・・・・・・・・日本堤の町は、かつては革製品の加工工場が多かった処。 また あのドヤ街として名をはせた「山谷 」の一部も含んだ町である。 日本堤の中心的商店街「いろは会も頑張っている。

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・・・・・・・・・・・“土手通り”と云えば、“土手の中江”と云われる、明治38年(1905)創業の桜鍋の店:「中江(なかえ)」をイメージ。 隣の「伊勢屋」は明治22年(1889)創業の天婦羅屋。 現在の建物は、それぞれ、大正末期から昭和初期に建てられたもの。、、、、、吉原へ出向く粋人は、桜鍋を食して元気倍増!、穴子で精力回復! 行きも帰りも良い良い。

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吉原 ・・・・・・・・・・行ったことのない人でも、行ってみたい“ご存じ吉原”。 その入口大門へ向かう、土手通りから入る参道(?)に“見返り柳”が立っている。 吉原から帰る客が、この柳のあたりで、後ろ髪を引かれる思いで遊郭を振り返ったといわれている。 今の時代、遊郭はなくなり、あるのはソープランド。 遊び方も変わり、後ろ髪を引かれる人はいなくなったかも。

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・・・・・・・・・・昭和21年GHQの命令で公娼制度は廃止され、吉原遊郭は“赤線”となった。 12年後の昭和33年2月28日売春防止法の施行により“赤線”も消えた。 、、、、その“赤線”当時の建物と思われる建物が数棟、「土手通り」裏に残っている。

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旧待乳山小学校(現台東区立東浅草小学校)・・・・・・・・土手通りの吉原大門交差点近くに建つ旧待乳山(まつちやま)小学校は、明治6年の創立の小学校で、現在は近くの田中小学校と合併し東浅草小学校に変わっている。 ここの校舎は関東大震災後に建てられた復興小学校である。、、、、、東京市の設計、芝江初五郎の施工にて、昭和3年(1928)に竣工した鉄筋コンクリート3階建ての校舎である。、、、、山谷堀はこの校舎の近くを流れていたようだ。

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山谷堀公園 ・・・・・・・・旧待乳山小学校の近くから、山谷堀公園は始まり、待乳山聖天の裏まで続き、今戸橋跡で隅田公園にぶつかる。、、、、、あっち、こっちで散ったサクラを掃き寄せる光景が見られた。 この時期は、綺麗だが、散った後の一仕事は大変だ!

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土手通りはここまで・・・・・・・「土手通り」の公式の南端は台東区東浅草1丁目である。 写真手前から歩いてきた「土手通り」はここで終わり、右の「馬道通り」に続く。  直進すると山谷堀の最下流であった今戸橋に出る。

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