東尾久の通り
西日暮里駅から京成本線新三河島駅前をぬけて、都電荒川線東尾久三丁目停留場付近に出た。 ここから、「大門通り」と称する裏道を歩いて、尾久の原公園にぶつかる。 さらに「石門通り」を歩き日暮里舎人ライナー熊野前駅まで、1万2千歩の散歩です。
①西日暮里駅 ・・・・・・・・昭和44年(1969)12月20日、地下鉄千代田線の西日暮里駅が開業し、2年後の昭和46年(1971)4月20日に乗換駅として国鉄の西日暮里駅が開業した。 現在は、近くに日暮里舎人ライナーの西日暮里駅も開業しており、朝は乗換客で混雑する。
②新三河島駅・・・・・・・・JR西日暮里駅の東側を京成本線が走る
・・・・・・・・・・ 京成本線は常盤貨物線 を高架で越え新三河島駅へ向かう。 ちなみに、踏切は貨物線の「日暮里八丁目三号踏切」、、、、こんな名前覚えても、何の役にも立たず、ただただ鉄道オタクであるのみ!
・・・・・・・・・・ 新三河島駅 、、、、、昭和6年(1931)に開業した京成本線の駅。 都内の京成本線の駅では最も乗降客の少ない駅。 スグ、忘れられる駅。
③尾久の原防災通り・・・・・・・・・荒川区東尾久1(明治通り冠新道入口交差点)から北へ東尾久6(都立尾久の原公園前)まで伸びる約1.36kmの道路。
・・・・・・・・・・ 手前の明治通りから北へのびる防災通り
・・・・・・・・・・ 防災通りをチョイト歩くと、スーパーの前に「消防道路」の碑が立っている、、、、、、防災通りは、戦時中に空襲による延焼防止を目的に建物を強制疎開させ造られた疎開道路である。 その跡地を整備し昭和48年(1973)に地元では「消防道路」となった。 平成24年(2012)に荒川区は「尾久の原 防災通り」と命名したそうだ。
・・・・・・・・・・ 防災通りが都電と交差する手前に、天台宗の寺院:満光寺(まんこうじ)がある。 創建は南北朝末か室町時代と伝えられてる、、、、、歴史ある寺院だが、建物は新しい。 現本堂は昭和44年(1969)に建て替えられた。
・・・・・・・・・・ 都電荒川線を横切り、東尾久3丁目に入る
・・・・・・・・・・ 東尾久6丁目の草陰に地蔵尊が寂しげに祀られていた。
・・・・・・・・・・ 町屋4丁目では、荒川区唯一の美術館:「ぬりえ美術館」の前を通る。 館長:金子マサさんは、「きいちのぬりえ」で有名な蔦谷喜一さんの姪である。 館長は、ぬりえを文化として保存するために、平成14年(2002)に美術館を開館した。、、、、、残念であるが、本日は休館日。 一度入館してみたいものだ!
・・・・・・・・・・ 防災通りの北の端は、大門小学校のチョイト先で都立尾久の原公園で終わる。、、、、、公園は、かつて旭電化工業(現:ADEKA)尾久工場があったところ。 昭和52年(1977)に東京都が跡地を買収し、跡地の東半分が公園として整備され平成5年(1993)に開園した。 広々とした明るい公園である。
④都電荒川線・・・・・・・・町屋二丁目停留場、東尾久三丁目停留場付近でパチリ!
⑤大門通り・・・・・・・・・・・・尾久三丁目停留場の北側に「大門通り」があった。 “大門”と聞くと、吉原の大門を思い出し、“大門”=“花街”の連想しかできない私は、早速この町の銭湯のおばあさんに聞いてみた。、、、、、おばあさんの話では、昔から大門町(=大門村)と呼ぶ地名であったそうで、花街とは縁がないらしい、、、、、、南の端(尾久三丁目停留場)から、北の端(ぬりえ美術館から尾久の原公園前までは防災通りと重複)まで歩いてきた。総延長約416m。
・・・・・・・・・・ 写真順に、、、、、、尾久三丁目停留場前、大門通りの南端、、、、、大門湯、、、、、チョイト古い医院の看板、診療科目に「気管食道科」。(奥には、新しい立派な医院がある)、、、、、道中程に祀られている子育地蔵尊、、、、曲がりくねり進むと、ぬりえ美術館の前に出る。
⑥石門通り・・・・・・・・尾久の原公園の西側100m程行くと、「石門通り」の北端(東尾久6-34)で、ここから南へ道は伸び、東尾久6-39が南端となる。 全長345mの道で、かつては商店街であったが、今日訪れてみると、商店街はなくなっていた。 “石門”は、近くの下尾久石尊という石を祀る社があり、その参道であったことに由来するらしい。
・・・・・・・・・・ 写真順に、、、、、、石門通りの北端、、、、、撤去されていた、かつての商工会の門柱(2013年撮影)、、、、、ここにも子育地蔵尊が祀られている、、、、、、地蔵の後ろは北豊島高等学校、、、、、、商店街の店はシャッターが閉じてる、、、、、車歩分離した道路のカラータイルが続く、、、、、、石門通りの南端
⑦熊野前駅・・・・・・・・・平成20年(2008)に開業した、日暮里舎人ライナーの熊野前駅。、、、、、今日の散歩はここまで!