谷中の墓地
梅雨の晴れ間とは言えず、曇り空である。 ひょっとすると降るかもしれず、散歩は近場にしておこうと、谷中の墓地を歩いてきた。 墓地の中を1万歩。
谷中の墓地・・・・・・・・・台東区谷中(上野公園の北側)にある都立谷中霊園と、寛永寺墓地・天王寺墓地などを含む10万㎡を超える区域。 下の谷中霊園案内図には、黄色・緑色で色分けされた墓地の中に、寛永寺の墓地、天王寺の墓地が白色で抜かれている。 “谷中の墓地”は、元々は寛永寺・天王寺などの寺院が所有していた墓地であったが、明治政府は神仏分離政策を推し進めるため、寺院以外の神社などが管理する墓地の必要性に迫られた。 そこで、寺院が所有する墓地の一部を没収して「谷中霊園」とした。 それゆえ現在は、都立谷中霊園・寛永寺の墓地・天王寺の墓地などが混在し、整理のつかない墓地となった。、、、、、徳川慶喜の墓は、谷中霊園の中にある寛永寺の墓地の中の徳川慶喜公墓所にある。 ややこしい、わかりにくい、墓が無秩序に並んでいる谷中の墓地だ。
・・・・・・・・・・ 墓地は無防備で、墓地の周囲に特別に柵があるわけでもない。 入口はあっちこっちにある。 ここは日暮里駅西口脇の入口。
・・・・・・・・・・ 墓地のほぼ中央を抜ける、花見の名所「さくら通り」 日暮里駅と谷中の町を結ぶ、通勤通学の主要道路となっている。 夜も人通りが多く、怖い道ではない。 五重塔跡には駐在所もある。
・・・・・・・・・・ その「さくら通り」の中程に、谷中の五重塔跡がある。 焼けた五重塔は日蓮宗の寺院:天王寺の五重塔である。 約34mの関東では最も高い塔であった。 昭和32年(1957)に放火により焼失してしまった。 現在は礎石が残るのみとなった。
・・・・・・・・・・ 駅とは反対側の「さくら通り」の端部には、谷中墓地開設とほぼ同時期に開業した生花問屋の「花重」(国登録有形文化財)がある。 明治10年(1877)に前身建物を背面側に曳屋し,木造2階建の店舗兼居室を建てた。 1階は店舗で、現在は花屋を営み、2階は3室に区切って畳敷の居室としている。 江戸・明治期の谷中の風致を今に伝える建築である。、、、、、花重の前にも風情ある「ふじむらや」の建物がたっている。
・・・・・・・・・・ なんだ、かんだ、言っても、古い谷中の墓地だから、著名人の墓は、♪♪ワンサカ・ワンサ・ワンサカ・ワンサ・イェーイ・イェーイ・イェイ・イェーイ♪♪と並び立っている。
都立谷中霊園の案内図に載っている著名人の墓は約60基。 寛永寺・天王寺の墓地も含めると、120基を超える。、、、、、私の好みで、選んでみると、朝倉文夫(彫刻家)、天津乙女(宝塚)、稲垣浩(映画監督)、円地文子(作家)、柏戸(横綱)、河内桃子(女優)、獅子文六(作家)、ニコライ・カサートキン(宣教師)、鳩山一郎(政治家)、花柳寿輔(日舞)、森繁久彌(役者)、横山大観(日本画)などがある、いくつかの墓を紹介する
・・・・・・・・・・ 19代横綱:常陸山の墓 引退後は出羽海谷右衛門を名乗る
・・・・・・・・・・ 歌舞伎役者:市川圓蔵の墓 写真右から六代目、七代目、八代目。 六代目市川圓蔵(1800~1871)は五代目圓蔵の未亡人の養子。 七代目圓蔵(1836~1911)は六代目の養子。 八代目圓蔵(1882~1966)は七代目の次男坊。 当代:九代目は八代目の子である、まだ墓はない。
・・・・・・・・・・ 初代三遊亭圓遊(嘉永3年(1850)~明治40年(1907))は明治時代に活躍した落語家。 江戸小石川の出身。 実子は落語家を継いだが、芸未熟にして花柳流の師匠となる。
・・・・・・・・・・ 『牧野日本植物図鑑』の著者:牧野富太郎博士(文久2年(1862)~昭和32年(1957))の墓。 草花を愛し、植物学に貢献した学者。 『雑草という名の植物は無い』と言った人。 うまいこと言う人だ!
・・・・・・・・・・ 戦前から戦後にかけての二枚目スターの代表格、長谷川一夫(明治41年(1908)~昭和59年(1984))の墓。 小さな石塔が並ぶ、中央が長谷川一夫(林長二郎)の墓石。 あの大スターの墓にしては小さすぎるね。
・・・・・・・・・・ こちらは、墓ではないが、「オッペケペー節」の川上音二郎(文久4年(1864)~明治44年(1911))の顕彰碑の台座。 台座の上の、音二郎の像は戦中に金属供出で無くなった。 ちなみに墓は博多の承天寺にある。
・・・・・・・・・・ 川上音二郎の顕彰碑の近くには、毒婦高橋お伝(嘉永3年(1850)~明治12年(1879))の墓がある。 高橋お伝は、日本で最後に斬首刑に処せられた女囚と言われている。 ここ谷中の墓地には骨は無く、本当の墓は小塚原回向院 にある。
・・・・・・・・・・ さて、谷中の墓地と言えば徳川慶喜(1837~1913)の墓。 谷中の墓地の中程、寛永寺の墓地の中に柵で囲われ、夫人と共に葬られている。 歴代の将軍とは異なり、円墳状の質素な墓である。
・・・・・・・・・・ そして渋沢栄一の墓。 渋沢栄一(天保11年(1840)~昭和6年(1931))は徳川慶喜の家臣として仕え。 大政奉還後は官僚、実業家として、第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、「日本資本主義の父」ともいわれる。 その墓が慶喜の墓の近く、広い区画の中に巨大な大きさの墓石が建っている。(中央が渋沢栄一の墓)
・・・・・・・・・・ 谷中の墓地は鶯谷~日暮里間のJR線路際まで広がっている。 その線路沿いには、キリスト教の教会墓地が並んでいる。 墓石に十字架を刻み込んだ墓が崖に沿って並ぶ様子は、なんとなく私に、キリスト教徒の迫害を思い出させてしまった。
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