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2017年7月

2017年7月31日 (月)

草加 甚右衛門堰

『何処を散歩するか?』と今朝は考えることなく、草加の「甚左衛門堰」を見に行くことにした。 理由は簡単! 今朝、布団の中で朝のニュースを見るつもりで、タブレット端末のスイッチを入れたら、地図アプリが起動し、指先が地図上の「甚左衛門堰」に触れたようだ。 自動的に「甚左衛門堰」の写真が表示された。 雨上がりに撮影した写真のようで、煉瓦造りの堰が綺麗な色で表示された。 見た瞬間、『今日の散歩は此処に決定!』、、、、、、草加駅で下車し、「札場河岸公園」辺りまでの往復、1万歩の散歩です。



草加駅 ・・・・・・・・ 草加駅の開業は古く、明治32年(1899)である。 現駅は昭和63年(1988)に完成した、両外側の通過線2線が島式ホーム2面4線を挟む構造の高架駅である。

・・・・・・・・・・ 急行、も、準急も、普通も停車する。 東武伊勢崎線の駅としては、北千住、とうきょうスカイツリー、越谷に次いで4番目に乗降客(平均一日8万5千人)の多い駅である。、、、、、私の住む浅草橋は、JR(5万4千人)+都営(5万9千人)もの乗降客がいるのに、駅前には大型商業施設もなく、マック、スタバもなく、完全に負けている!
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・・・・・・・・・・ そろそろ通勤客も減ると思われる時刻だが、まだまだ都心に向かうホームは人が多い。
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旧草加小学校西校舎・・・・・・・ 駅から北へ500m程歩くと、大正15年(1926)に建てられた、県内で最初の鉄筋コンクリート造校舎がある。 現在は草加市立歴史民俗資料館として再利用されている。(資料館は本日定休日、残念!)、、、、、正面中央上部が山型にとんがった屋根が印象的な建物である。 国登録有形文化財
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東福寺・・・・・・・・・ 歴史民俗資料館から北へ100m、真言宗智山派の松寿山不動院東福寺がある。 草加宿を開宿した大川図書が開基し、僧賢宥が慶長11年(1606)に創建した。 大きな寺だ!、、、、、、本堂・山門・鐘楼は江戸時代後期の建物

・・・・・・・・・・ 山門、、、、、日光街道旧道から参道を進み正面に、本柱2本と4本の控柱を有する四脚門形式の山門がある。
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・・・・・・・・・・ 本堂、、、、、本堂は草加市内最大で、文政7年(1824)に改築された。 屋根の勾配は優美な曲線を画描いている。
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・・・・・・・・・・ 本堂横には、文久2年(1862)に建てられた鐘楼がある
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・・・・・・・・・・ 墓地には、天明・寛政(1781~1801)の頃に活躍した江戸の落語家:石井宗叔(いしいそうしゅく)の墓がある。 宗叔は、“落ち”がなく、連続する「長ばなし」と「座敷仕型話」を得意とした。 今まで小咄型の落とし噺だった落語を、人情噺のように長いものにして現在の落語に近い形を作った。 江戸落語の元祖である。、、、、、なぜ、東福寺に宗叔の墓があるか? 深く追求しておらず、判りません、ゴメン!
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神明宮・・・・・・・・ 旧道の宿場のはずれに、草加宿の総鎮守とされていた神社:神明宮がある。 このブログ『雅万歩』に度々登場する几号水準点 の一つがここにも残っている。、、、、、今日は、近くまで来たのでチョイと立ち寄ってきた。
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芭蕉・曽良の像・・・・・・・・・ 草加宿の北の端を流れる伝右川(でんうかわ)に架かる橋の両岸に、俳人:芭蕉と弟子:曽良の像がある。 どちらも草加出身の彫刻家・麦倉忠彦氏の作品だが、芭蕉像が平成元年(1989)、曽良の像が平成20年(2008)の作品である。 両像とも、草加市民から浄財を募って建設したそうだ。、、、、、では、草加と芭蕉・曽良の関係は? 元禄2年弥生27日(1689年5月16日)に、『奥の細道』の工程として、ここ草加に歩みを印した記念と言うことらしい、チョイと無理があるかも?。 吾輩がケチをつけると、芭蕉は『奥の細道』で千住を旅立ち当日は草加に宿泊した。 草加では、荷物が重たく疲れたことと、旅には雨具が欠かせないことを、記述しているだけだ。 “草加せんべい”のことも書いていない。 よほど印象が薄かったようで、埼玉県内では一句も残さず素通りしたようだ。 ちなみに、千住の次に句を詠んだのは日光である。、、、、、像の設置は、『奥の細道』にあやかった、新たな観光名所の創造か(?)

・・・・・・・・・・ 「札場河岸公園」にある芭蕉像
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・・・・・・・・・・ 対岸の草加宿入り口に立つ曽良の像
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札場河岸公園・・・・・・・・ 綾瀬川と、伝右川に挟まれた中洲状の細長い地に「札場河岸公園」(ふだばかしこうえん)がある。 草加松原の南端に位置し、かつて舟運で栄えた、河岸場を復元した公園だ。 ここはよく整備された綺麗な公園で、「望楼」「芭蕉像」などと休憩施設がある。 さらに公園の南端側に「甚左衛門堰」もある。、、、、、、今日の散歩の目的地に到着!
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・・・・・・・・・・ 公園の一画(日光街道際)に望楼はある。 望楼は、石垣の上に埼玉県産のスギ、ヒノキを使った木造の五角形の建築物で、高さは11.1m、内部は螺旋階段になっている。、、、、、最近建てた建物で、内部は自由拝見できる。 吾輩もチョイト拝見!
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・・・・・・・・・・ 甚左衛門堰、、、、、、、甚左衛門堰は明治27年(1894)から昭和58年(1983)まで使用していた2連アーチ型の煉瓦造水門。 洪水時に綾瀬川から伝右川に水が逆流し田畑を侵すのを防ぐための堰で、かつては木造の堰でしたが、明治27年に煉瓦造りに改築された。 約90年使われ、造られてからは120年以上経過しているが、保存状態も素晴らしい。 煉瓦も美しく積まれ、デザインもGood! 見に来た価値があった!
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・・・・・・・・・・ 綾瀬川に面し札場河岸と称した船着場があった。 奥(綾瀬川上流側)には、木目模様の和風太鼓橋の「矢立橋」(平成6年5月竣工)がある。
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埼玉県神明排水機場・・・・・・・・ 甚左衛門堰の南隣に、堰に変わる埼玉県神明排水機場がある。 綾瀬川(本流)と伝右川(支流)との間に位置する排水機場で、洪水のとき伝右川の過剰な水を大きい綾瀬川へ強制的に吐き出す装置だ。

・・・・・・・・・・ 手前の伝右川の水を綾瀬川に流す
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・・・・・・・・・・ 綾瀬川に伝右川の水を吐き出す
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古綾瀬川排水機場・・・・・・・・・ 神明排水機場がある地点では、綾瀬川が北から南へ流れ下り、伝右川が西から神明排水機場に流れ下ってくる。 同じように、神明排水機場水門に向かい合わせて、古綾瀬川が東から流れ綾瀬川に合流する。 ここにも排水機場と水門が設置され水害を防ぐ役割を担っている。
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●・・・・・・・・・・ 帰りは、「草加せんべい」をみやげに買って帰ることにした。、、、、、店のお姉ちゃんが、冷たいお茶を出してくれたので、チョイと気を良くして、2袋買うところを、3袋に増やしてしまった。 すると、今度は久助をサービスしてくれた。 そして、お茶ももう一杯!、、、、、今度来る時まで、お姉ちゃんは吾輩の顔を覚えておいてくれるかな?
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2017年7月28日 (金)

台東区台東

歳をとるとアッチャコッチャが故障し、私の耳は数年前から音波の受診状況がチョイト悪く、音波受信機を耳の穴に入れて音量を拡大している、世間では“補聴器”と呼んでいる機械である。  私が愛用する受信機はコンピュータ内蔵のデジタル式で、自分で音量調整ができないため、今日は散歩を兼ね、調整に東上野まで行ってきた。 我が家(浅草橋)から「台東区台東」の町を抜け、東上野までの8千歩です。


台東区の由来・・・・・・・・昭和22年(1947)3月15日、旧東京市の下谷区と浅草区が合併するとき、両区ともに下町文化の根付く由緒ある土地のため、合併後の名称決めは紛糾した。 様々な案が考え出され、最終的に下谷区側の案は「上野区」、浅草区側の案は「東区」に収束したが、結局まとまらず、都知事の案により下谷区台東小学校にて既に採用されていた「台東」の語を用い「台東区」とした。 『康煕字典』では「台東(たいとう)」という熟語に「日出るところ衆人が集まって栄える場所」の語義があり、また「台」に“悦ぶ”の意があるので上野山つまり下谷区に当て、「東」には“春”の義があって浅草区を指すと解釈。 双方の区に、こじつけ、まさに理に適うところから、これを区名に選定したそうだ。、、、、私は浅草区の時代に生まれた住人だが、これほどの立派な(屁)理屈を踏まえた名誉ある区名とは知らなんだ! 昨今多い、新〇〇、東〇〇のように、新・中・元・東・西・南・北を冠した区名より素晴らしいね!


台東区台東とは・・・・・・・ 台東区“台東”と聞いて、どの辺りかピンとくる人は、地元の住人か、地元に勤めている人か、“台東”で交通事故を起こした人ぐらいだろう。、、、、、“台東”にある大手企業は、台東1の印刷会社である凸版印刷、台東4に紫色のビルで店舗を展開するディスカウントストアの多慶屋が有名。 地理的には、秋葉原と御徒町の間で、昭和通りの東側である。、、、、、現在の“台東”の町は、対馬厳原藩宗家上屋敷・伊勢久居藩藤堂家上屋敷・旗本士宅などのあった下谷二長町。 秋田藩佐竹家上屋敷・津藩藤堂家中屋敷・大洲藩加藤家中屋敷・出羽矢島生駒家上屋敷など武家地であった下谷竹町。大洲藩加藤家上屋敷・御徒組大繩地・旗本士宅であった御徒町。 以上の、下谷二長町、下谷竹町、御徒町を中心として、昭和39年(1964)の新住居表示にて、区名から取って名付けられたもので、“台東”の由来とは関係ない。、、、、、区名は真剣に考えたが、町名はめんどくさいので区名のパクリ。 いい加減なものだ!



旧柳北小学校・・・・・・・・ このブログをよく見る人は、ご存じ、吾輩の母校。、、、明治9年(1876)、第五中学区第十四番公立小学柳北女学校として設立され、明治20年(1887)に柳北女子尋常高等小学校、明治41年(1908)に柳北尋常小学校と改称した。 大正15年(1926)には、現在の鉄筋コンクリート3階建校舎が竣工し、昭和36年(1961)には東京都台東区立柳北小学校として、吾輩が卒業した。 平成13年(2001)には涙を流し閉校となる。、、、、、現在は、廃校の再活用で、蔵前小学校の建て替えの為、仮校舎として使用中。、、、、、この学校の西側に台東区台東1丁目と千代田区和泉町が広がる。
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三井記念病院・・・・・・・・・ 千代田区和泉町にある、三井財閥系の企業により支援されている総合病院。 現建物は平成23年(2011)9月に竣工した地上19階建ての病院。、、、、、三井記念病院は、安政5年(1858)に江戸お玉が池に開設された種痘所を前身として、東京帝国大学附属病院の跡地(現在地)に、明治39年(1906)に三井家総代三井八郎右衞門により、「三井慈善病院」として設立された。 以後、昔も今も、東京大学医学部の協力の下に診療している。、、、、、我が家では、家族全員がこの病院に昔から世話になっており、吾輩が幼き頃の小児科、我妻の娘の出産、我がオヤジのガン治療、我が母の白内障手術など、いつも、いつも、お世話になります。 極め付きは、3年前、吾輩が大動脈解離で大動脈置換手術を受けたのも、この病院である。 その節は、ありがとうございます。
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・・・・・・・・・・ 三井記念病院は千代田区和泉町、道路を挟み斜め前に凸版印刷の本社がある。 こちらは台東区台東1丁目。、、、、ここは、かつての芝居小屋:市村座の跡地。 (写真は4年前に撮影)
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櫻稲荷神社・・・・・・・・ 台東区台東2丁目、蔵前橋通りに、朱塗りの鳥居が立つ細い参道の入り口がある。 こちらは「櫻稲荷神社」と称し、大名の藤堂家邸内に鎮座していた稲荷神社。 関東大震災後に地元の岡本悟一氏が奉受して桜稲荷神社とした。 昭和27年(1952)には京都伏見稲荷神社より分霊を勧請、鎮座した。、、、、、この細い路地に、“よくぞ祀ったお稲荷さん”と云うわけだ!
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竹町金刀比羅神社・・・・・・・・ 当神社は、当地(台東2丁目)周辺にあった生駒讃岐守一正の邸内鎮守として創建したといわれている。 江戸には金刀比羅神社が多く分祠されているが、当神社は江戸最古の分祠と言われている。
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台東区台東の建築・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・ 5軒長屋、、、、、、昭和15年(1940)頃の建物。 右端は森永牛乳の店であった。 2階には錆びたエンゼルマークと、懐かしい森永マミーの球形の看板が残されている!
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・・・・・・・・・・ 台東製作所、、、、3階部分は増築された鉄筋コンクリート造り(?)の建物。 戦前の建築らしい(?)
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・・・・・・・・・・ 6軒長屋、、、、、、1件だけ銅板建築の名残が残る長屋だが、そろそろマンションに生まれ変わかも?
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・・・・・・・・・ 9軒長屋+9軒長屋、、、、、、凄い! 車はもちろん入れない狭い路地に、9軒長屋が向かい合わせに立ち並ぶ。 路地からは2階までしか見えないが、3階に部屋を増築した部分も見える。
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佐竹商店街・・・・・・・・ 台東3丁目・4丁目の東側に、「佐竹商店街」のアーケードがある。 明治31年(1898)に商店街組合を結成し、金沢の片町商店街に続き、日本で2番に古い商店街である。 商店街名の“佐竹”は、江戸時代に当地に出羽国久保田(秋田)藩の上屋敷(藩主:佐竹氏)があったことに由来する。 商店街の北端は、春日通りで御徒町駅までは、目と鼻の先。、、、、、私の若き頃は、地元の客で終日にぎわっていた地元密着型の商店街だが、日ごとに寂しくなるようだ。
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●・・・・・・・・・・ 春日通を横断し東上野の町に入る。 暦の神宮館の前をとおり、下谷神社 で手を合わせ。 用事が済めば、今日はコミュニティーバスで我が家まで帰宅。
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2017年7月24日 (月)

小菅~綾瀬

東武伊勢崎線の小菅駅で下車し、裏通りをブラブラ、常磐線綾瀬駅まで、9千歩の散歩です。



小菅駅・・・・・・・・・ かつての刑務所の時代は遠い昔に終わり、近代的な拘置所の時代に変わった“小菅”である。、、、、、、小菅駅にホーム立った私は、目の前の東京拘置所を見ると、やくざ映画の影響か? 小菅駅で降りる若い男性は“親分に差し入れに来たチンピラか?”、若い女性は“刑があける日を待つ愛する男に会いに来たのか?”、カバンを下げたサラリーマン風の男は“正義の味方の弁護士か?”、和服の女性は“背中に登り竜が彫られた姉御か?”、小太りのおばさんは“差し入れ屋のやりてババアか?”、ハゲの親爺は“私腹を肥やした悪徳元刑務官か?”、、、、、人を見る目が狂ってしまう! 
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・・・・・・・・・・ 小菅駅で下車したものの、『さて、どっちへ歩こうか?』 『今後の為に、より深く拘置所を知っておくべきか?、拘置所とは反対側を歩いてみるか?』 迷っていると、金髪の外人さんが駅に向かって来た。 『これで決まった!外人さんがやって来た、拘置所とは反対の方向へ行こう!』


・・・・・・・・・・ 東武伊勢崎線の高架下を抜け、常磐線・千代田線の高架下を抜け、足立区足立2丁目の裏道を歩く。
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庚申塔・・・・・・・・ 住宅が立ち並ぶ東武伊勢崎線の線路沿い(足立2-31)に、庚申塔が二基、他に出羽三山巡礼供養塔、 「庚申塚修復記念」の石塔がある。 祠の中に建つ庚申塔には、「安永九年庚子十二月吉日五反野村講中拾二人」と刻まれている。 安永9年(1780)、この近くの五反野村の12名の人々が庚申講を結成し、主に長寿を願う行事が満願に達したのを記念してこの庚申塔を建立したそうだ。、、、、、庚申塔に札束のレプリカが供えられていたが、どういう意味かな? 本物ならありがたく頂戴するのだが?
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下山国鉄総裁追憶碑・・・・・・・・・・ 西綾瀬1丁目の常磐線ガード脇に、初代国鉄総裁を偲ぶ碑がある。 戦前生まれの人であれば、御存じ、下山事件の下山貞則総裁を偲ぶものである。、、、、、事件のあらましは、昭和24年(1949)7月5日、下山初代国鉄総裁は朝8時過ぎに大田区上池上の自宅を公用車で出勤した。 途中、銀行等に寄り、9時半頃、日本橋三越で車を降り、入店しそのまま消息が途絶えた。 翌日の午前0時半頃、常磐線:北千住~綾瀬間の東武伊勢崎線が頭上を交差する地点において汽車に轢かれた下山総裁の遺体が発見された。 検視の結果は、遺体から生活反応が見られなかった事から、列車に轢かれた時に総裁が生きていたか、死んでいたかが問題となった。 自殺か、他殺か?。 警察からは公式の捜査結果が発表されないままに捜査は打ち切られ、迷宮入りとなった。 当時は高インフレにあえぐ経済の立て直しのために緊縮財政がとられ、6月には行政機関職員定員法が施行され、これにより国鉄に対し10万人近い人員削減が求められていた。 また、同年7月15日には三鷹事件、8月17日には松川事件が発生している。、、、、、、私は、当時3歳、まだ世の中の情勢に疎く、事件には無関心であった。 ゴメン!

・・・・・・・・・・ 碑は、昭和26年(1951)、事件現場付近に建立されたが、平成3年(1991)常磐線荒川橋梁改良工事に伴い、現在地に移設された。
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・・・・・・・・・・ 事件現場、、、、、写真奥は北千住側、手前が綾瀬側。 左側に常磐線が走る。 中央の電車は千代田線。 奥に常磐線・千代田線の上を交差して東武伊勢崎線が走る。 事件現場(総裁の遺体発見現場)はこの交差部分らしい。 追憶碑は手前のガードの左手奥にある。
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西綾瀬の町から綾瀬の町へ・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・ 農家の匂いが残る、西綾瀬3丁目を抜けて行く
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・・・・・・・・・・ どこかの里山に佇む寺の雰囲気が残る、新義真言宗の長性寺(西綾瀬3)は、寛永元年(1624)の創建。 荒川辺八十八ヶ所霊場50番札所
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・・・・・・・・・・ 弘道小学校(西綾瀬4)は、明治11年(1878)創立の歴史のある小学校。当初は現在の綾瀬川左岸(綾瀬4)の常磐線線路際にあった。 大正15年(1926)に現在地に移転した。 校名は論語衛需公篇の「子日人能弘道非道弘人」からとされているが、近くを水戸街道が通っており、水戸藩の藩校「弘道館」を意識したのかも?
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・・・・・・・・・・ 弘道小学校前の通り
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・・・・・・・・・・ この通りに「綾瀬村役場跡」の碑がある。、、、、綾瀬村は明治22年(1889)から昭和7年(1932)まで存在した自治体で、その後東京市足立区に吸収された。
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・・・・・・・・・・ 綾瀬川に架かる五兵衛橋を渡り、西綾瀬から綾瀬に入る。、、、、、五兵衛橋は、この辺を開拓した金子五兵衛に由来している。江戸時代の初め、金子五兵衛は他の者と一緒に武蔵国入間郡金子村(現埼玉県入間市)から転入して開拓し、一帯はその名をとって五兵衛新田村となった。、、、、この橋の初代は、寛永年間(1624~1644)に綾瀬川が内匠橋から伊藤谷橋あたりまで新川として開削されたため村が東西に分断されるため、代償として長さ12間、幅9尺の土橋が幕府によって設置されました。 これが五兵衛橋の初代です。 その後、橋は何度か架け替えら、現橋は平成10年(1998)に架けられた歩道橋である。、、、、、この橋の先代の橋は、「男はつらいよ」第26作「寅次郎かもめ歌」に登場している。 マドンナ役の伊藤蘭が入学する学校が葛飾高校(架空)で、通学途中で渡る橋が五兵衛橋。、、、、一見、たいしたことない歩道橋だが、歴史あり、エピソードありで、驚きだ!
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・・・・・・・・・・ 五兵衛橋を渡り綾瀬4丁目に入ると、大地主のような門構えの住宅がある。 門の前には足立区教育委員会の名で、「金子家文書」と標記した案内板が立てられていた。、、、この金子家は金子五兵衛の家である。、、、、そして、金子文書とは、新撰組近藤勇が流山で捉えられる前、慶応4年(1868)3月14日から4月1日までの19日間、あの新撰組が、金子家や近くの観音寺に分宿していた。 総勢227人もの大集団で、世情柄精神的な負担や、その世話(経費)などで大層迷惑を蒙った上に、後日明治政府から、強い叱責があったという。 近藤勇らが五兵衛新田の金子家に滞在した事は、その賄方の記録として金子家文書に残っている。 現在近藤勇として一般に知られている袖内に腕組みした写真も、金子家が所蔵しているらしい。
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・・・・・・・・・・ 綾瀬駅の北側(綾瀬4)に、綾瀬稲荷神社がある。 この神社は、創建年代は不詳であるが、五兵衛新田の鎮守社であったといい、明治7年(1874)に五兵衛神社と、昭和42年(1967)年に綾瀬稲荷神社と改称した。
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綾瀬駅・・・・・・・・ 綾瀬駅に停まる電車は千代田線だけ。 千代田線は地下鉄の路線。 その線を走るのはJRの電車(常磐緩行線)。 窓から横を見ればJRの電車(常磐快速線)が通過する。 次の北千住で常磐快速線に乗り換えると、浅草橋まではJR料金。 西日暮里で山手線に乗り換えると、浅草橋までは地下鉄+JR料金。、、、、、ややっこしい!勝手にしろ!
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2017年7月23日 (日)

深川

江戸六地蔵巡りも、いよいよ最後、今日の散歩は第五番の霊巌寺である。 都営新宿線の森下駅で下車し門前仲町まで、1万1千歩の散歩です。



森下駅・・・・・・・・・ 都営新宿線の島式ホーム1面2線を有する地下駅。 昭和53年(1978)12月21日に都営新宿線の駅として開業し、平成12年(2000)12月12日に大江戸線が開業し乗換駅となる。、、、、、今日は日曜日、通勤客も少なく、駅は閑散としていた。
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深川神明宮・・・・・・・・ 慶長年間(1596~1615)、摂津の人・深川八郎右衛門が一族を引き連れて当地を開拓するにあたり、屋敷内に小祠を設けて伊勢神宮の御分霊を奉斎したことに始まる。 慶長元年江戸に入った徳川家康がこの地を訪れ、八郎右衛門に地名を尋ねたところ、未だ人も少なく“地名はない”と答えたので、八郎右衛門の姓をとって「深川」とするよう命じたという。 これが「深川」の始まり。 その後、江戸の繁栄に伴って深川も発展し、神明宮は深川の総鎮守として崇敬を集めた。、、、、、現在は、寿老神を祀り、正月の七福神巡りで参拝客を増やしている。 ガッポリ!
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・・・・・・・・・・ 大正・昭和の日本画家:伊東深水は、明治31年(1898)2月4日、ここ深川神明宮の門前で生まれたそうだ。 小学一年生まで深川で過ごし、二年生の時深川を離れた。 深水の雅号は深川の水にちなんでいる。 昭和47年5月8日没。、、、、ちなみに、深水の娘:朝丘雪路は昭和10年(1935)7月23日に東京市京橋区築地で生まれた。



新小名木川水門・・・・・・・・・・ 小名木川は徳川家康が造った人工の運河で中川(今の旧中川)と隅田川を結んでいる。 最も隅田川寄り(清澄2・常盤1)には萬年橋が架かっている。 その東隣りに新小名木川水門がある。、、、、、、これまで、鋼製単葉ローラーゲート形式、高さ11mのゲートが3連の水門(昭和36年(1961)に完成)であったが、耐震化工事で、1ゲートを撤去し、2連のゲートに改修中。
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・・・・・・・・・・ 完成予想図
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清洲寮・・・・・・・・・・ 江東区白河に建つ、“寮”とは言っても、民間のアパート。 大林組の設計・施工で、昭和8年(1933)に竣工した、鉄筋コンクリート造4階建ての建物。 総戸数66戸、長さ70m程の建物は大きい!、、、、、、最近、改装したようだが、むき出しの水道管、木製の引き戸、玄関床のカラータイル・壁のスクラッチタイルなど、昭和レトロの匂いがプンプン。 現在もアパートとして人気のある建物で、昭和のハイカラを求め空室待ちの人もいるようだ。
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霊巌寺・・・・・・・・ 清洲寮とは背中合わせの霊巌寺は、寛永元年(1624)、霊巌島(現:中央区新川)にて創建したが、明暦3年(1657)の大火で被災し、万治元年(1658)に現在地(江東区白河1)に移転した。
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・・・・・・・・・・ 江戸六地蔵の第五番が、ここ霊巌寺にある。 水戸街道を見守る像の高さは、2.73m。 深川の地蔵坊正元が発願し、享保2年(1717)に造立された。 製作者は神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀。、、、、、ここの像は低い位置に置かれ、顔立ち、姿も細部までよく見ることができる。 風雨にさらされ、チョイと傷みが見られる。 早い治療が必要かも?
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・・・・・・・・・・ 八代将軍徳川吉宗の孫にあたる松平定信(1758~1829)は、天明7年(1787)に老中となり、寛政の改革を行った。 その定信の墓所も、ここ霊巌寺にある。、、、、、突然ですがここで問題、松平定信が命名した超有名な菓子屋の名が現在も残っている、その菓子屋の名は?、、、、、答えは、全国に展開した「風月堂」である。 江戸時代、風月堂の本家となる、江戸・京橋鈴木町の「大坂屋」は定信に重用され、松平家の御用菓子商に指定され屋号も「凮月堂清白」(“風”の字は、“几”中が“百”)の5文字を頂戴した。 現在は、本家筋が上野凮月堂、暖簾分けされたのは神戸凮月堂、東京(銀座)凮月堂、長野凮月堂、甲府凮月堂などなど。 ちなみに、私も好きな銘菓「ゴーフル」は全国の凮月堂で売られている。
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永代寺・・・・・・・・・・霊巌寺から南へ約1.2km、深川不動尊の参道脇に永代寺がある。 永代寺は寛永元年(1624)に、永代島に創建された。 江戸時代には富岡八幡宮の別当寺で、江戸六地蔵の第六番として栄えたが、明治元年(1868)の神仏分離により廃寺となった。 享保5年(1720)に造立した六地蔵はこの時取り壊された。 現在の永代寺は、明治29年(1996)に旧永代寺の塔頭の吉祥院が名称を引き継ぎ、再興したものである。

・・・・・・・・・・ 現在の永代寺は、お不動様の参道に面した一画にある。本堂の上に塔がのる珍しい寺だ。
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・・・・・・・・・・ 境内の隅に、取り壊された六地蔵に代わる地蔵様として、子育地蔵+取持地蔵の二体ペアにて仕込み中!
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・・・・・・・・・・ 今日はついでに、旧永代寺の寺域を歩いてみた。 旧永代寺は広く(約2万2千坪)、まず富岡八幡宮は永代寺が別当寺であった。 境内では骨董市が開かれていた。
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・・・・・・・・・・ 旧永代寺が廃寺となった後、その一画に、明治11年(1878)に成田不動の分霊が引っ越してきたのが現在の深川不動尊である。 旧永代寺には11の塔頭があり、その一つ吉祥院が現在の永代寺である。、、、、、地蔵さんは、どうやら不動さんに母屋を取られたようだ。
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・・・・・・・・・・ 富岡八幡宮と深川不動尊、永代寺などの周辺に、深川公園が点在する。 この公園も旧永代寺の跡地である。、、、、、公園の中に立つ「富岡八幡宮別当永代寺跡」の碑。、、、、、燈明塔も旧永代寺跡に立っている。
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・・・・・・・・・・ ここでまた問題です。 「門前仲町」の“門前”とは?、、、、もう、お判りですね、豆助!  そう、門前は永代寺の門前のことだったのです。



●・・・・・・・・・・ これにて、江戸六地蔵を全て巡ったことにする。 門前仲町から都バスで浅草橋へ帰ることにした。、、、、「東京都シルバーパス」を持っていると、都内の主要バス、都営地下鉄は、年2万円ほどで乗り放題。 ありがたいね!

2017年7月21日 (金)

巣鴨

江戸六地蔵の四番目は、巣鴨の「地蔵通り商店街」入口脇の眞性寺にある。 今日は巣鴨駅から、都営三田線の西巣鴨駅まで、1万歩の散歩です。



巣鴨駅・・・・・・・・ 明治36年(1903)4月1日に日本鉄道の駅として開業。 島式ホーム1面2線の地上駅で、駅舎は大塚駅寄りの白山通りに面しあり、改札はここ1か所のみである。、、、、、、“おばあちゃんの原宿”駅も、朝は若い人ばかりだ。
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眞性寺(江戸六地蔵)・・・・・・・・ 「巣鴨地蔵通商店街」入口(出口かも?)手前に、江戸六地蔵尊の四番目が安置されている真言宗豊山派醫王山東光院眞性寺がある。 眞性寺は、聖武天皇の勅願により行基菩薩が創建したと伝えられる古刹。、、、、、、寺は昔から中山道の出入口にあたるこの地にあり、大きな傘をかぶり杖を持つ地蔵尊が、江戸の旅人の安全を見守ってくれている。 今は“巣鴨”と云えば「とげぬき地蔵」だが、昔は“巣鴨”と云えば「六地蔵」であった。 像は正徳4年(1714)に造立された。、、、、、、地蔵さんは、300年間、この地に座りぱなしで、足もしびれているかも? 右手中指で、おでこの真ん中に、3回つばをつけると治ることを、教えてあげたいね。
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高岩寺 ・・・・・・・・ 来たついでに、「とげぬき地蔵」にお立ち寄り。 曹洞宗萬頂山高岩寺は、慶長元年(1596)に江戸湯島に開かれ、その後下谷に移転し、明治24年(1891)に現在地の巣鴨に移転してきた。 本尊は「とげぬき地蔵」(秘仏)として病気の治癒改善に御利益が期待されている延命地蔵菩薩。 お年寄りには、うれしい御利益だね。、、、、「とげぬき地蔵」の由来は、江戸時代、毛利家の女中が針を誤って飲み込んだ際、地蔵菩薩の御影を飲み込んだら、針が御影に刺さって吐き出されたという伝承がある。 マジックのような話だ!、、、、、本堂は昭和32年(1957)、鉄筋コンクリート造にて完成。
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中央卸売市場豊島市場・・・・・・・ 国道17号(白山通り)を挟み、高岩寺の北側に中央卸売市場豊島市場がある。 この地は、もともと伊勢国津藩主藤堂和泉守家の抱屋敷の一部であったが、明和6年(1769)に伊奈半左衛門預りの幕府御用林となった後、寛政10年(1898)頃に幕府に仕えた渋江長伯が管理する巣鴨薬園となった。 薬園というのは、薬用植物を栽培し、疾病治療の用に供する施設のことであり、日本にはすでに8世紀前半期には存在していた。 昔の製薬工場だ!、、、、、明治維新後、巣鴨御薬園は廃止され、昭和12年(1937)東京市中央卸市場豊島分場が開設された。 その後は、現在の東京都中央卸売市場豊島市場となった。、、、、、築地のイメージで市場内を歩いてみたが、扱うのは“野菜”と“果物”。 “魚”はなし。 セリも終わったようで、そろそろ店仕舞いの時刻のようだ!
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本妙寺・・・・・・・・ 中央卸売市場裏に法華宗陣門流の東京別院:本妙寺がある。、、、、、元亀2年(1571)駿府に創建し、天正18年(1590)江戸清水御門内に移転、その後幾度か移転を繰り返し本郷へ移った。 本郷では江戸市中を焼いた明暦3年(1657)の大火の火元として名をはせた。 明治44年(1911)、本郷から現在地(豊島区巣鴨5)へ移転した。 戦災で被災し古い建物は残っていない、本堂も戦後の再建である。、、、、、寺の古さを物語るは、著名人の墓所がズラリ!
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・・・・・・・・・・ 明暦の大火(振袖火事) 供養塔、、、、、明暦3年(1657)1月18日未刻(午後2時頃)に出火し、折からの強風に煽られて、江戸城本丸・二の丸をはじめ江戸市中の6割余りを焼きつくし、死者約十万人に達した大火が「明暦の大火」。 そして火元となったのが本郷にあった本妙寺で、原因は本妙寺の檀家の娘の供養のために燎火に投じた振り袖が舞い上がって本堂の屋根に飛火したことによるものとされ、俗に「振袖火事」といわれています。、、、、供養塔が本堂脇にある。
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・・・・・・・・・・ 関宿藩主 久世大和守歴代の墓、、、、、、千葉県の北のはずれ、関東の交通の要衝、下総関宿城主の歴代の墓がある。 初代、四代、七代は老中職をつとめた。
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・・・・・・・・・・ 名奉行 遠山左衛門尉景元の墓、、、、、、御存じ、江戸後期の北町奉行、他に大目付、南町奉行等をつとめた、“遠山の金さん”の墓。、、、、では、ここで問題。 テレビで金さんを演じた役者の名を五人あげろ?、、、、答え(古い順)、市川新之助、中村梅之助、市川段四郎、橋幸夫、杉良太郎、高橋英樹、松方弘樹、松平健。
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・・・・・・・・・・ 剣豪 千葉周作の墓、、、、、江戸後期の剣豪、北辰一刀流開祖、神田お玉ヶ池、千葉道場(玄武館)主。 漫画:赤胴鈴之助は千葉周作の門下生。
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・・・・・・・・・・ 天野宗歩の墓、、、、、、江戸末期の将棋の名人で棋聖位に着く。 将棋の駒の形をした墓石。、、、、近頃の将棋ブームにあやかり、墓参する人も増えたかな?
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・・・・・・・・・・ 囲碁 本因坊歴代の墓、、、、、、徳川家康が碁を好み、京都にいた初代の本因坊算砂日海を江戸へ呼び寄せた。 三世の道悦までは没後京都の寂光寺に葬ったが四世の道策から二十一世の秀哉までの歴代本因坊が本妙寺に葬られている。、、、、こちらは囲碁ファンの聖地。
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・・・・・・・・・・ 清水建設慰霊塔、、、、、、、創業文化元年(1804)に創業し、200年以上の歴史を有するスーパーゼネコン清水建設の慰霊碑があった。 永い会社の歴史の中で清水建設に係った縁者を供養するため建てた慰霊塔である。、、、、、私も同業の世界に居た一人として、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、合掌。
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妙行寺・善養寺 ・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・ 本妙寺門前の道:「朝日通り商店街」は、名ばかりで商店が無くなった。 朝日通り商店街を北へ進み、都電荒川線を越える。
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・・・・・・・・・・ 都電の踏切を渡ると、昨年歩いた妙行寺と善養寺などのお寺が並ぶ。、、、、、妙行寺には、四谷怪談のお岩の墓、浅野家遥泉院の供養塔がある。 善養寺では閻魔大王がお出迎えしてくれる。
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A邸・・・・・・・・ ・こちらは西巣鴨にある、3階建ての元医院。 戦前の建物か? 残念であるが、建物の詳細は不明。
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●・・・・・・・・・・ お盆も近づてきたせいか、今日の散歩は墓巡りとなった。 誰か、私を墓の中から呼んでいるのかも? まだ、この世に未練があるので、あと20年は生かして欲しいね!

2017年7月18日 (火)

新宿御苑前~若松河田

「江戸六地蔵」の一番、二番を見たら次は三番。 三番は新宿の太宗寺。 今日の散歩は、丸ノ内線新宿御苑前駅から大江戸線若松河田駅まで、1万歩。



新宿御苑前駅・・・・・・・・ 都会のデートスポット「新宿御苑」の最寄り駅。 昭和34年(1959)3月15日丸ノ内線霞ヶ関~新宿間延伸時に開業した。 ホームは相対式2面2線だが、完全な向かい合わせにはなっておらず、1番線(荻窪方面行)ホームは2番線(池袋方面行)ホームよりも新宿方に車両1両分ほどずれている。
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太宗寺・・・・・・・・ 新宿御苑前駅の近く(新宿2)に、浄土宗の太宗寺(たいそうじ)がある。 慶長年間、甲州街道の道筋に「太宗」と称する僧の庵として造られた太宗庵を開創とし、徳川譜代内藤家6代の重頼が5代正勝を葬り、現在の倍ほどの寺領を寄進し霞関山本覚院太宗寺とし菩提寺に定めた。 山号は四谷大木戸を霞ヶ関といったという故事により、院号は正勝の法号、寺号は開山による。

・・・・・・・・・・ 昭和20年(1945)の東京大空襲で被災し、現本堂は昭和37年(1962)に鉄筋コンクリート造で再建された。 設計は清水建築設計事務所(清水哲夫)、施工は清水建設。 HPシェルの屋根が特徴的な建物である。、、、、、、ラッパ型のシェルを組み合わせたようなモダンなデザインだ。
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・・・・・・・・・・ 今日の散歩の目的である、江戸の出入口6箇所に地蔵菩薩像を祀った、江戸六地蔵の三番目が、甲州街道の入り口にあたるここ太宗寺に祀られている。、、、、太宗寺の地蔵は正徳2年(1712)に造立され、六地蔵の中では最も小さい、2.67mである。、、、、、サッパリした顔立ちで、イケメンだ!
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・・・・・・・・・・ 境内の閻魔堂には、高さ5.5mの閻魔大王(1814年頃製作)と、閻魔に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服をはぎ取り、罪の軽重を計った奪衣婆(だつえば)の像(1870年製作、高さ2.4m)が安置されている。 閻魔堂はお盆の7月15日・16日に御開扉される。、、、、、、、、2体の像とも、恐ろしいくらい迫力あるね!
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・・・・・・・・・・ 閻魔堂と向かい合わせに、境内には不動堂がある。 不動堂には三日月不動尊像が安置されているが、残念見ることができない。、、、、、、不動堂の左隣には、塩かけ地蔵の小祠もある。
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・・・・・・・・・・ 墓地には、内藤正勝の墓がある。 江戸時代に信州高遠の藩主をつとめた譜代大名内藤家の墓所。 墓塔は3基とも法篋院塔で、中央が5代内藤正勝(寛永6年造立)、右側が13代内藤頼直、左側が内藤家累代の墓塔(ともに明治時代の造立)である。
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西向天神社・・・・・・・・・・ 新宿6丁目、抜け弁天通り南側、椎、楠、銀杏などの樹木が多く森をなしている高台に、西向天神社(にしむきてんじんじゃ)がある。 当社は、古来より東大久保村の鎮守社であった。 菅原道真を祀った京都の北野天満宮を勧請した神社。、、、、、菅原道真を祀る西を向いた天神さまが鎮座している。 天神は南に向けて建てるのが普通で、西向きに建てるのは非常に珍しい。 これは、道真が死んだ大宰府の方を見ているのだという。 、、、、、明治5年11月に村社となり、社地は1516坪であった。境内には現在でも石造物などの文化財が多く、境内の西隅には富士塚もある。 神社の別当寺は隣接する大聖院である。

・・・・・・・・・・ 社殿正面の参道上から見下ろす新宿
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・・・・・・・・・・ 西を向く社殿、、、、、天神さまは、どうやら、歌舞伎町の方に興味があるのでは?
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・・・・・・・・・・ 地続きで、隣には別当寺であった、天台寺門宗の古い小寺:梅松山大聖院がある。
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・・・・・・・・・・ 私がチョイと気になった、「新宿の女」の石碑がある。、、、、、宇多田ヒカルの母であり、平成25年(2013)に自殺した藤圭子が歌う「新宿の女」は、東京・新宿の盛り場を舞台とした、ご当地ソングのひとつ。、、、、、、「新宿の女」を作詞作曲した石坂まさをの作詞作曲家生活30周年を記念して平成11年(1999)に建てられた。 歌碑のある西向天神社は、デビュー時に「新宿の女」発売キャンペーンの出陣式(昭和44年9月25日)を行った場所とされる。 出陣式の神主代行を噺家の林家三平(先代)が務めた。 発売キャンペーンは、飲屋街を25時間ぶっ続けで流して回るという「新宿25時間キャンペーン」もので、藤圭子と石坂まさをの二人で行った。 また、当神社は石坂まさをの当時の住居から近かったことで選ばれたそうだ。、、、、ちなみに「圭子の夢は夜ひらく」の歌碑は新宿花園神社に建てられている。
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抜弁天交差点に向かう・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・ 新宿6丁目の裏道に入ったら、グルリ回って元の場所に出た。、、、、、地図を見ずに、自分の好みで歩くと大失敗だ!
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・・・・・・・・・・ 出てきた先に「法善寺」!、、、、、ここは新宿6丁目、大阪千日前とは違うが、ひょっとすると水掛不動があるかも? 「こいさん」が願掛けしているかも? 期待を膨らませ境内へ、普通の寺だった。 手を合わせ、先を急ぐ!
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・・・・・・・・・・ 抜弁天交差点角には、真宗大谷派寺院の専福寺がある。寛永8年(1631)、市ヶ谷に創建し、正保2年(1645)現在地(新宿6)へ移転した。 本堂は戦後(昭和34年)の建築でガンダーラ風。
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・・・・・・・・・・ 門前の通りは「抜弁天通り」、交差点は「抜弁天交差点」、、、、『抜弁天とはキット大きな社の神社』と思われてる人は多いはず。 残念・無念・チンねんゴメン、、、、抜弁天は、その昔八幡太郎源義家がこの辺りに宿陣、夢に厳島神社の祭神である市杵島比売神が現れて、白羽の矢と軍扇を与えた。 勝利して帰国の途次、神に感謝して社を奉ったのが神社の起こりだとか。、、、、、それにしても、小さな社で、ガッカリ。 
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若松河田駅・・・・・・・・ 平成12年(2000)12月12日に開業した、大江戸線の地下駅。 島式ホーム1面2線
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2017年7月15日 (土)

青物横丁~大井町

前回の散歩で、「江戸六地蔵」の二番目である東禅寺(台東区)の地蔵菩薩を見たので、今日は久しぶりに、一番目の品川寺(品川区)の地蔵菩薩を見に行った。 京急青物横丁駅で下車し、品川寺に参拝し、ゼームス坂周辺の裏道を歩き大井町駅から帰宅。、、、、、熱中症を避け日陰を歩いて、9千歩の散歩です。



青物横丁駅・・・・・・・・ 明治37年(1904)5月8日に、駅名:青物横町として開業したが、いつの間にか青物横丁と変わってしまった。 駅名の青物横丁は、江戸時代に農民がこの地に青物(野菜・山菜)を持ち寄って市場を開いたことに由来する。、、、、ホームは高架相対式2面2線で、3階部分にある。 2階は改札口。、、、、かつて、駅名の“横丁”に“昭和”を感じ、駅周辺で“横丁”を探し歩いたことを覚えている。 残念ながら、見つけることはできなかった。
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竹内医院・・・・・・・・ 青物横丁駅近くに明治40年(1907)に建てられた、ノスタルジックな医院。 現在は3代目の院長で、祖父の代から続く医院の老舗。 平成21年(2009)に外科医院から耳鼻咽喉科へチェンジした。 診察室には最新設備が整っているそうです。、、、、、私はチョイト難聴なので、一度診察を受けてみたいが、我が家から遠すぎるね!
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品川寺・・・・・・・・ 青物横丁駅の東隣に真言宗醍醐派の品川寺(ほんせんじ)がある。 大同年間(806~810=平安時代初期)に創建された古刹。 江戸時代、寛文元年(1652)、4代将軍家綱より4,800坪の寺領を賜り、大伽藍を建立した。 その後、松平讃岐守・阿波守,太田備中守三家の外護のもと大名の祈願所として隆盛を極めた。 明治維新以降は、一時荒廃したものの、大正・昭和には諸堂、山門等の建立が続き復興がなされたという。、、、、、、山門の先は境内が広がり、右手奥に本堂(大正12年(1923)築)が建っている。 中華様式の影響があったのか、斬新なデザインの本堂である。
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・・・・・・・・・・ 山門前で江戸六地蔵、第一番の地蔵菩薩が出迎えてくれる。、、、、江戸六地蔵とは、深川の地蔵坊正元が、宝永3年(1706)に発願し、江戸の出入口6箇所に地蔵菩薩像を造立した。 病気平癒を地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したため、京都の六地蔵に倣って造立したものである。 像高はいずれも2.7m前後である。 第一番から第五番までの5体は現存し、第六番(江東区永代寺、千葉街道沿い)は明治元年(1868)に廃仏毀釈により取り壊された。 第一番は品川寺(旧東海道沿い)、第二番は東禅寺(浅草、奥州街道沿い)、第三番は太宗寺(新宿、甲州街道沿い)、第四番は眞性寺(巣鴨、旧中山道沿い)、第五番は霊巌寺(深川、水戸街道沿い)である。、、、、、六地蔵の中で傘を被ってないのはここ品川寺の地蔵菩薩だけだ。 その為か、顔は雨だれのようなシミが出て、チョイと可哀そうだ。 誰ぞ、エステに連れていって欲しいね!
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・・・・・・・・・・ 境内には、幹周り5.35m、樹高25m、樹齢600年の大イチョウが、堂々と枝を伸ばしている。
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海雲寺・・・・・・・・ 品川寺の南側に、曹洞宗の龍吟山海雲寺がある。 この寺は、建長3年(1251=鎌倉時代)に近くの海晏寺内に建てた「庵瑞林」に始まるそうだ。 慶長元年(1596)に海晏寺の和尚により開山し、曹洞宗に改められ、寛文元年(1661=江戸時代)海雲寺になった。

・・・・・・・・・・ 山門の右側、正面に本堂があり、山門を通し左側奥が荒神堂で千躰荒神を祀っている。江戸時代から「品川の荒神さん」として知られている。
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・・・・・・・千躰荒神王は火と水の神で、台所の神である。 3月と11月の27日、28日は「千躰荒神大祭」で御開帳があり、参拝してお札を授かると火除けとなるそうだ。 その荒神様が祀られている千躰荒神堂
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・・・・・・・・・・ 荒神堂の中には多くの扁額が奉納され、格天井には纏が描かれている
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⑤第一京浜を越え、ゼームス坂へ・・・・・・・

・・・・・・・・・・ 青物横丁交差点で第一京浜を横断し、大井町方向に歩く
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・・・・・・・・・・ 青物横丁交差点から上り坂で仙台坂上に向かう池上通り。 私は、写真右側、南品川5丁目の裏道を歩いてきた。
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・・・・・・・・・・・・・行きつ戻りつ、裏道を歩き、出てきたところはゼームス坂、、、、、JR大井町駅から京急新馬場駅までむすぶゼームス坂は、もともと非常に急な坂だった。 明治時代、この坂下付近に住んでいたJ.M.ゼームスという英国人が私財を投じて緩やかな坂に改修した。 以来この坂はゼームス坂と呼ばれるようになる。 J.M.ゼームス(1839~1908)は、幕末にジャーデン=マディソン商会の長崎支社の社員として来日し、明治5年(1872)に海軍省に入り、測量調査や航海術の指導を行った。 生前から仏教に帰依し、その墓は山梨県身延町の久遠寺にあるそうだ。
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品川電車区ボイラー室(旧大井町変電所)・・・・・・・・ JR東日本山手電車区の中にある赤煉瓦の建物は、近づくことが難しく、南品川6丁目の浅間台小学校横の小路から撮影。 この建物は、大正11年(1922)に竣工した旧大井町変電所。、、、、京浜東北線や湘南電車に乗っていれば必ず目に入ってくる建物で、存在は多くの人が知っているようだ。
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JR大井町駅・・・・・・・・ 京浜東北線大井町駅は東急の大井町線、東京臨海高速鉄道のりんかい線が乗り入れ、相互間の接続駅となっている。 明治34年(1901)3月15日に、国有鉄道東海道本線に大井聯絡所が開設された。 大正3年(1914)12月20日に、京浜線(京浜東北線の前身)の運行開始に伴い、大井聯絡所を駅に格上げし大井町駅誕生。
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2017年7月12日 (水)

橋場・千束

今日も30℃超え、連日の猛暑である。 遠くに出て行くのはひかえ、地元台東区内を散歩しよう。 今日は台東区の北の端:橋場(はしば)から、吉原遊郭のあった千束(せんぞく)付近まで歩いてきた。



橋場不動尊・・・・・・・・・ 隅田川に架かる白鬚橋の西詰に通称:橋場不動尊はある。 正式には砂尾山橋場寺不動院と称する天台宗の寺院。 不動院は、天平宝字4年(760)に創建された。、、、、、江戸時代の建築様式を残す、弘化2年(1845)に建てた小さな堂は簡素な佇まいで、不動尊は下町の庶民に崇められている。
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・・・・・・・・・・ 橋場不動尊参道前の道路(都道314号)の向かい側、歩道上に几号水準点が残されている。、、、、、几号水準点は、明治時代初期に内務省が実施した高低測量(水準測量)に用いた標石である。 現在では、東京から塩釜にかけ、全国約340か所に設置されたことが明らかとなっている。 内現存するのは150か所程で、その内都心に残っているのは40か所程である。  「几」は「几帳面」の「几」で「き」と読み、“机”の意味がある。 この標石に彫られた記号(漢字の“不”に似た記号)が三脚のついた机に似ていることから「几号水準点」と呼ばれる。、、、、、今から100年以上前の水準点で、しかも現在は使われていないものである。 道路を舗装管理する人も、なんだか訳わからず、埋めたり移設してはいけないものと思い込み、そのままにして現在に至ったものと思われる。
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橋場の長屋・・・・・・・・・ 台東区橋場には古い家も多く残っている。 写真は木造の7軒長屋と奥に5軒長屋が見える。
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お化け地蔵・・・・・・・・・ 橋場2丁目、松吟寺の境内に享保6年(1721)に建立された、高さ3m程の地蔵尊がある。 この辺りは、室町時代以来、禅宗の名刺総泉寺の境内地であった。 門前一帯を浅茅ケ原といい、その松並木の道の傍らにこの石地蔵が祀られていた。 地蔵はかつて大きな笠をかぶり、その笠が人知れず向きをかえたから「お化け地蔵」と呼ばれたといわれている。  総泉寺は昭和4年(1929)板橋区へ移転し、「お化け地蔵」だけが、ここに取り残されたのである。、、、、、脇の常夜灯は、寛政2年(1790)に建てられた。 地蔵も常夜灯も劣化が激しいね。
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出山寺・・・・・・・ 台東区清川1丁目、曹洞宗の明星山出山寺(しゅっさんじ)は、総泉寺の和尚が延宝4年(1676、江戸時代前期)以前に開山・創建した。、、、、、朱塗りの小さな本堂が印象的な寺
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・・・・・・・・・・ 境内には、江戸時代初期、寛文の頃(1661~1673)、新吉原雁金屋の遊女「釆女」に心を寄せた若い僧侶が師から固く制され、悩んだ末、雁金屋の前で自害してしまった。 時に十七才の采女は悲しみ、浅茅ヶ原の鏡が池に身を投じた。 翌朝、草刈りの人たちが、 『名をそれとしらずともしれさる沢の あとをかがみが池にしずめば』 としるした短冊を見つけ、采女とわかり、塚に葬った。 境内には、文化元年(1804)大田南畝ら文人たちによって建立された采女塚の碑がある。、、、、、昔は遊女に惚れて己の身を滅ぼす者ばかり、今は惚れたらストーカーとなり相手の身を滅ぼす者ばかり。
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東禅寺・・・・・・・・・ 東浅草の曹洞宗洞雲山東禅寺は、寛永元年(1624)に創建された。 寺は本堂前で、江戸六地蔵の一つ銅造地蔵菩薩坐像が出迎えてくれる。 高さは、2.71mある。、、、、、“江戸六地蔵”とは、江戸深川の地蔵坊正元が、病気平癒に感謝して、多くの人々の浄財を集め、宝永3年(1706)に江戸の出入口となる街道の6箇所に地蔵菩薩像を造立した。第一番は東海道の品川寺、第二番は奥州街道の東禅寺、第三番は甲州街道の太宗寺、第四番は中山道眞性寺、第五番は水戸街道の霊巌寺、第六番は千葉街道の永代寺である。(第六番は現存しない)
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・・・・・・・・・・ 東禅寺には、もう一つ像がある。 こちらは、六地蔵の左わきで、座して地蔵菩薩の説教を聞いている二人の老夫婦の像。、、、、、“あんパン”の「銀座木村屋總本店創業者夫婦(木村安兵衛、ブン)の像だ、夫婦が埋葬されている寺に、大正7年(1918)に建てられた。、、、、、お供えは、もちろんアンパンだろう?
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吉原・・・・・・・・・・ かつての遊郭、今はソープランド街

・・・・・・・・・・ 吉原大門の前に建った復興小学校:旧待乳山小学校 。 現在は東浅草小学校。、、、、いい場所にあったね! 放課後、スグに行けた?
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・・・・・・・・・・・・・「よし原大門」と記した柱が両側に立つ「仲之町通り」  モダン(?)な外装のソープランドが並ぶ、交差する脇の通りもズラリと並ぶ。、、、、、私には、目の毒、気の毒、懐の毒。 いそいそと通り抜けて行く。
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・・・・・・・・・・ 通り抜けた処に、廓の守り神:吉原神社 がある、、、、チョイと賽銭もはずみ、家内安全、身体健康を祈願する
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・・・・・・・・・・・・・神社の隣には、20年ほど前まで台東産院があり、今は台東区立の「台東病院」となっている。 我が家でも今年になって、94歳の母が内科の診察を受け、私も数回付き添いで通った。、、、、遊郭が現存していれば、入院してもいいかもね!

2017年7月10日 (月)

新川

江戸川区の中程、中川と旧江戸川を結ぶ運河であった新川(しんかわ)の東端から西端まで、全長約3kmを歩いてきた。、、、、、都営新宿線の一之江で下車し、東端の「新川東水門」へ行き、川沿いに歩き、西端の「新川排水機場」を見て、船堀駅から帰宅。 1万3千歩の散歩


・・・・・・・・・・ 新川とは、、、、、、新宿線一之江駅と東西線葛西駅の中間地点辺りで、旧江戸川から分岐し、江戸川区を東西に横断し、新宿線船堀駅の西側で中川に注ぐ、江戸時代からの運河である。、、、、、最初は行徳塩田の塩を江戸に運ぶ水路として始まったが、寛永9年(1632)からは貨客船の「行徳船」が就航し、近郊の農村の野菜や成田参詣の客なども運ぶようになった。 その後、利根川を経由する航路が整備され、利根川流域の農作物、味噌・醤油などの加工品を、新川・小名木川を通って江戸に運ぶ、主要ルートとなった。 新川の水運は戦後まで続いたが、昭和50年代には、その役目も終え(1979)に新川は運河としては使用されなくなった。、、、、今では、川筋には1000本の桜並木を整備し、江戸時代の木橋や石積み護岸も再現し、両岸は遊歩道となっている。



新川東水門・・・・・・・・新川東水門は旧江戸川と新川の接続点に昭和40年(1965)に設置された径間11m×2連のローラーゲート式水門。 旧江戸川の水位が大潮の満潮位を超えると閉鎖し、浸水を防ぐ役割を担っている。

・・・・・・・・・・ 旧江戸川が流れ下る、その右岸に新川東水門がある
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・・・・・・・・・・ 新川東水門内は船溜まりになっていて、わずか数十メートルで水路は行き止まり。
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・・・・・・・・・・ 船溜まりの奥には新川東樋門が設けられ、旧江戸川から取水して新川に放流する。
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新川口橋・・・・・・・・・ 水門の隣に架かる新川口橋。 昭和45年(1970)に架けられ、橋の下は埋め戻され導水管が設置されている。、、、、、“橋”である必要性は無くなり、江戸川区の計画では、平成35年頃に撤去されようだ!(インターネットで知った極秘情報)
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・・・・・・・・・・ 旧江戸川の水は橋の下と隣の公園の下を導水管で抜け新川に放流されている。、、、、、、今日も暑い一日が始まり、公園には誰もいない! いるのは、暇で散歩をしている親爺だけ!
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・・・・・・・・・・ 新川の東端、奥の小島の後ろに放流口がある。 川の中に島を配し、親しみやすい川を演出している。
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・・・・・・・・・・ 新川口橋付近から新川を見ると、水鳥も遊んでいる。
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新川に架かる人道橋・・・・・・・・・ 新川には14本の橋が架けられているが、内7本は江戸情緒を感じさせるデザインの人道橋である。 東側から順に、人道橋全7本を“堂々一挙公開!”

・・・・・・・・・・ 宝橋、、、、、平成26年(2014)架設
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・・・・・・・・・・ 花見橋、、、、、、平成23年(2011)架設。 一見すると橋に見えない、川の上に大きな広場が造られたようだ! その名が示すように、花見のシーズンは両側に咲く「新川千本桜」を見ながらの桟敷席となるのかも?
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・・・・・・・・・・ 桜橋、、、、、、、新川のほぼ中間地点に架かる橋。 平成24年(2012)架設。 こちらも広場型の橋で、ゴザを敷いて100名の宴会も可能だ!
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・・・・・・・・・・ 小江戸橋、、、、、、平成19年(2007)架設。 この付近では、川にヨシを植え、川の浄化と小魚の生育を意図しているのか?
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・・・・・・・・・・ 忍者橋、、、、、、、唯一、黒塗りの橋。 平成11年(2009)架設。、、、、、ナント、ビックリ、ヒャックリ、この橋の川底には巨大な駐車場があるのだ!(後述)
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・・・・・・・・・・ 擬宝珠橋、、、、、、、平成11年(2009)架設
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・・・・・・・・・・ 櫓橋、、、、、、、こちらも平成11年(2009)架設
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新川大橋・・・・・・・・・・ 花見橋の隣に架かり、都道318号環状七号線がとおる。 橋の下は直射日光を遮り、釣りの良き穴場のようだ。 多くの人が釣りを楽しんでいた。
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新川橋・・・・・・・・・・ 新川に架かる橋の中では、最も古く大正5年(1916)に開通した
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三角橋・・・・・・・・・ 平成12年(2000)に開通した三角橋。 「三角」は、昔からの地名らしい。 現:新川橋のあたりには「三角渡し」もあったそうだ。
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新川さくら館・・・・・・・・ 桜橋の北側に、新川の歴史を後世に伝えるとともに、お休み処や広場などを活用し交流を図る、地域の活動拠点が用意されている。、、、、、うだるようなこの暑さ、“かき氷”を求めてチョイと立ち寄った。 ありゃ、誰もいない、ダメだコリャ!
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新渡橋・・・・・・・・・ 小江戸橋と忍者橋の間に、平成12年(2000)に開通した新渡橋がある。
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新川地下駐車場・・・・・・・・・・ 新川は東西の両端を水門で閉鎖し、東水門から導水して西水門から排水することで水位を低下させ一定に保つようになった。 新川に船の通行も無くなり、川は親水河川として整備されてきた。 そして、その整備の極めつけは、80億円をかけ川底に造った地下駐車場である。 川筋に合わせチョイト曲がっているが、約200台収容可能な都の駐車場である。 豊洲市場とは比べ物にならないが、こちらは、ずさんな計画によるガラガラの駐車場。

・・・・・・・・・・ 川沿いの宇喜田町に出入口がある
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・・・・・・・・・・ 全長484mの駐車場に、出入口近く、数台が駐車している程度。 あとは???
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・・・・・・・・・・・・・・この川底に巨大な駐車場があることを知る人は少ないであろう。 ナイショにしておくか!
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宇喜田橋・・・・・・・・ 擬宝珠橋の東側に、昭和32年(1957)に開通した宇喜田橋がある。 橋上には船堀街道が通る。
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西水門橋・・・・・・・・・・ 新川の西端、新川排水機場前に、西水門橋がある。 平成18年(2006)に完成した橋。 デザインは水門に合わせたのか、明治調の雰囲気を出しトラスを強調したデザインである。、、、、、橋の後ろの櫓は、新川整備の一環として、公園にモニュメントとして建てられた、高さ15m程の火の見やぐら。、、、、、橋名の「西水門」は、かつて、ここにも水門があったが、現在は排水機場に変わった。
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新川排水機場・・・・・・・・ 新川の最後は、中川との合流点に建つ新川排水機場。 昭和43年度(1968)に竣工した、ポンプ口径:1600mmを1台、1200mmを2台で、毎秒12トンの排水能力を有する。
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2017年7月 9日 (日)

四万六千日

私が住み、観音様が住む台東区では、気象庁の発表で35度を超え、『猛暑日』となった。 70歳を超えて熱中症で倒れ、救急車で運ばれ、若い看護婦さんに“下”の世話になるは、チョイと恥ずかしいので、家で自重することにした。 『散歩は休み!』のはずだった。

昼食時に、『今日はほおずき市ね!』、『昼から行ってみようか!』で即決。 夫婦で、ガンガン照りの浅草寺へお参りに行ってきた。、、、、、(昨年のほおずき市は、こちら



・・・・・・・・・・ 汗を拭き拭き、大勢の参拝客で、暑い暑い浅草寺

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・・・・・・・・・・ 大勢の人に見られて恥ずかしいのか、赤く色づいたほおずき

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・・・・・・・・・・ 笑顔がかわいい、今年の“ほおずき娘”

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2017年7月 6日 (木)

瑞江~一之江

都営新宿線瑞江駅から隣の一之江駅まで、寺社を巡り、1万歩の散歩です ・・・・・・・・ 帰宅後調べてみたら、ほぼ同じルートを、2015/12/4に逆向きに歩いていた。 



瑞江駅 ・・・・・・・・昭和61年(1986)9月14日、船堀~篠崎間開業に伴い開業。 島式ホーム1面2線の地下駅であるが、上下線の両外側、壁の向こうに通過線がそれぞれ1本ずつあるそうだ。、、、、、都民には火葬場のある駅として有名だ!
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豊田神社・・・・・・・・・『豊田佐吉を祭神として祀り、レクサスを供える神社』と言いたいが、「トヨタ」とは縁もゆかりもない江戸川区東瑞江の神社。 創建年代不詳。 現在の豊田神社がある一円の地は下鎌田村と称していた。 下鎌田村には香取社、神明社、山王社があり、香取山神明寺長寿院が別当寺となっていた。 明治初年廃仏毀釈により香取山神明寺長寿院が廃寺となり、その跡地に神明社の社殿を遷座し、天照大御神・経津主命の2神を祭神とした。
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・・・・・・・・・・ 境内には「下鎌田の富士塚」として、大正5年(1916)に築造された標高3mの富士塚がある。、、、、、今の時代なら、シンデレラ城でも造れば氏子は増えるかもね。
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泉福寺・・・・・・・・・豊田神社から南東方向に300m程歩くと、東瑞江2丁目、曲がりくねった道の奥に浄土宗の泉福寺がある。 創建年代不詳。 京都の知恩院を総本山とし、東京芝の増上寺を大本山とする寺。(なんじゃ!総本山と大本山?)、、、、、、明治15年(1882)、落雷により本堂・庫裡とも一瞬にして灰となり、同17年、茅葺きの本堂を再建し、平成16年(2004)に現在の本堂が竣工した。、、、、、静かな場所に、緑豊かに佇む、癒される寺。
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・・・・・・・・・・ 境内に、かわいらしいスイレンが咲いていた。、、、、、今年、我が家では5千円はたいてスイレン鉢を購入し、花は日本橋三越から買い、メダカも入れて、屋上で育てているが、今だ咲かない、頼むから咲いてくれ!
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山王神社・・・・・・・・江戸川3丁目にある中社。 鳥居、狛犬、社殿、水盤などすべて新築。 鳥居の扁額には「日枝神社・三峯神社」と併記している。
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・・・・・・・・・・ 神社は鎌田川親水緑道の脇、住宅地の奥に鎮座する。 この付近は、緑道が整備されているからか、緑豊かで鎌倉の住宅街の裏道を思い出させるようだ。 (チョイと大袈裟に言ってしまった)
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明福寺・・・・・・・・篠崎街道に面する浄土宗の明福寺。 嘉禄2年(1226)親鸞聖人が常陸国から上洛の途中、この地の人々が昇天に苦しんでいたので、雨乞いをにより雨を降らせて村人を救った。 その時の草庵が寺の始まりらしい。、、、、、前回来た時と同様に、今日も附属幼稚園の見送りに、境内には若いママがウヨウヨ。 恐怖を感じた私は、“長居は無用!”  そそくさと境内をあとにする。
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上今井八雲神社・・・・・・・・・ 江戸川3丁目、篠崎街道に面し鎮座するのは上今井八雲神社。 神社の創建年代は不詳であるが、永禄7年(1564)に創建した香取神社(上今井香取神社)と並んで当地周辺で尊崇された。 昭和41年(1966)、上今井香取神社に合併された。、、、、、、神社の前は、対岸に行徳を見る旧江戸川が流れている。 昔は水路の神として、江戸川を航行する舟が安全を祈願した。
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金蔵寺・・・・・・・・・ 浄土宗寺院の寶徳山寿松院金蔵寺。 金蔵寺は、応永22年(1415)頃が創建され、享徳3年(1455)頃に中興した。 現在の本堂は昭和11年(1936)に上棟した。 江戸時代は末寺として、数ヶ寺を擁するチョイト大きな寺であった。
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・・・・・・・・・・ 金蔵寺から200m程離れた処に、名のない地蔵さんが祀られている。、、、、、お祀りしている近所の方に聞いたら、、、『お地蔵さんの立つこの場所に、昔、金蔵寺の本堂があり、住職の墓もあったそうだ。 そして、お地蔵さんの前の通りは現在の金蔵寺へつながり、ここに霊が通っていたそうだ。』 近所の方は、『古くからの人も減り、私が守らなければ・・・・』と言っていた。 (何か、判るような判らない話だ。 もうチョイと説明してもらわないと???)
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一之江駅 ・・・・・・・・ 瑞江の方から来ると、駅手前で新中川に出る。 ここに架かる瑞江大橋を渡り駅に向かう、、、、、、駅は昭和61年(1986)9月14日に開業した島式ホーム1面2線の地下駅
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2017年7月 4日 (火)

堀切

今年は早々と今日から、台風3号が九州に上陸し、今夜は東京に最接近する予定。 既に全国では台風による猛烈な雨に襲われ、土砂崩れ、浸水の情報も流れている。
荒川の決壊が気にかかり、『もし決壊するとしたら京成本線荒川橋梁の付近が一番危ない処だ!』と、自分で決めたので、台風が直撃する前に確認しておくことにした。、、、、、と、言うことで、今日の散歩は、京成本線堀切菖蒲園駅で下車し、京成本線荒川橋梁を見て、対岸の東武伊勢崎線堀切駅まで、1万歩の散歩です。



堀切菖蒲園駅・・・・・・・・・・ 今日は堀切菖蒲園駅から西の荒川・綾瀬川に向かうことにした
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・・・・・・・・・・ 線路沿いに歩き、首都高の下、綾瀬川に架かる橋梁が見えてきた。
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・・・・・・・・・・ 京成本線と並行する都道314号線の堀切橋に上る階段下で、ガードを抜けて、北に折れる。
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小谷野神社・・・・・・・・・ 京成本線の北側(堀切4)に、元禄10年(1697)にはすでに鎮座していた小谷野神社がある。 現在の社殿は昭和47年(1972)9月に造営された。、、、、桃の実を開いて厄を免れる病気平癒、災厄解除の「桃祭り」という神事が残る神社。 なんだか勝手に想像すると、私には妙にエロっぽく感じ、見てみたくなる神事だ!
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首都高の下・・・・・・・・・・ 小谷野神社の脇から綾瀬川左岸の護岸上に出た。 首都高中央環状線の真下である。 綾瀬川に架かる堀切橋(荒川と綾瀬川に、連続して架かる)が見える。、、、、次の2枚の写真から、綾瀬川の水位が堀切の町より高いのを推測できると思う。
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・・・・・・・・・・ 頭上の首都高は何やら大掛かり工事をしている?、、、、何の工事?、、、、、堀切・小菅間の路線拡幅工事である。 この間、綾瀬川の上に車線を増設し、3車線を4車線にするのだ。
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正覚寺・・・・・・・・・・ 綾瀬川と荒川が接近し並行して流れる処(葛飾区小菅1)に、真言宗豊山派の常照山阿弥陀院正覚寺がある。 創立年代は不詳であるが、文禄元年(1592、室町時代末期)に創建されたようだ。 現在の諸堂は、高速道路と隣の下水道処理施設工事のために建て替えられた。、、、、大正の荒川放水路開削工事の開始以前には、この地に小菅村県庁舎があり、正覚寺にはわが国最初の公立学校といわれる「小菅県立学校」が開かれ、県庁職員をはじめ一般村民の教育にあたった。
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小菅水再生センター・・・・・・・・・・ 正覚寺の西側、荒川と綾瀬川が近接する地点に、葛飾区と足立区の一部の汚水を処理する小菅水再生センターがある。 処理した水は荒川及び綾瀬川に放流され、発生した汚泥は葛西水再生センターへ圧送し処理される。 センターは、昭和48年(1973)にまず雨水ポンプ設備の運転を開始し、昭和52年(1977)から下水処理施設として本格稼働しました。、、、、、屋上は四季折々に咲く花々や樹木の美しい葛飾区の公園になっている。
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・・・・・・・・・・ 水再生センター屋上から眺めた荒川
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綾瀬排水機場・・・・・・・・・・ 小菅水再生センターの下流側に綾瀬排水機場がある。 ここは、大雨などで綾瀬川の水位が上昇し、綾瀬川が氾濫することのないように、綾瀬川の水を荒川に排水する施設。 昭和58年(1983)に1号機が完成した。

・・・・・・・・・・・・・・案内板にあった写真
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・・・・・・・・・・ 綾瀬川左岸から撮った取水口
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・・・・・・・・・・・・・・荒川左岸からもパチリ
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・・・・・・・・・・ 荒川への排水口
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綾瀬水門・・・・・・・・・・ 増水時に、荒川の水が綾瀬川に逆流することを防ぐために設けられた。また、荒川と綾瀬川の舟運を確保するための通路でもある。 大正11年(1922)に完成し、昭和48年(1973)に改築。

・・・・・・・・・・ 綾瀬川左岸から撮影
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・・・・・・・・・・ 荒川側
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京成本線荒川橋梁 ・・・・・・・・・・ 京成本線荒川橋梁/綾瀬川橋梁は昭和6年(1931)に完成した。 その後80年以上経過し、両岸(葛飾区・足立区)の地盤は沈下し、堤防のかさ上げが計画されているが、足立区側の用地取得が進まず、橋梁の付け替えもできず、治水上の弱点となっている。、、、、、私の独断的予測では、もし荒川・綾瀬川が氾濫するとしたら、ここの堤防の決壊から始まるのかも????、、、、今日も、よわい70を超えた年寄りが堤防に立ち、荒川・綾瀬川の水面を一人静かに眺め、憂いていた。(正直に言うと、電車を見たかっただけかもね!)

・・・・・・・・・・ 右:荒川と左:綾瀬川を仕切る土手上の道。 土手のチョイ下側に京成本線の橋梁がある。 その先の都道314号の堀切橋と比べると、橋の高さがに差がある。 京成本線のレール面は約2m低い。、、、、、、チョイと怖いね!
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・・・・・・・・・・ 川岸から、右:都道314号の堀切橋、左:京成本線荒川橋梁を見ると、京成の橋梁は低い位置にある。 ここから、都内に水が漏れるかも? “東京水没!”
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・・・・・・・・・・ 怖そうな話を忘れ、スカイライナーをパチリ!
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●・・・・・・・・・・ この後、堀切橋を渡り、東武伊勢崎線堀切駅 から帰宅。


●・・・・・・・・・・ どうやら、今晩は堤防決壊のおそれはないだろう。 安心して熟睡することにした。

2017年7月 3日 (月)

かっぱ橋本通り

朝の天気予報で、『本日は猛暑日、熱中症に注意を!』と呼び掛けている。 こんな日に散歩に出て、道路上で泡噴いて、意識を失い、ぐったりし。 見ず知らずの親切な御仁が救急車を呼んでくれ、救急隊は受け入れ先の病院を手配し、警察は家族に連絡し、通りすがりの人は「行き倒れらしいよ、飲まず食わずで、可哀そうに!」と同情し、心あるお年寄りが「食事の足しにでもしなさい」と千円札を私のふところに入れ、それを見ていた周りの人も競って財布から札束を私のふところに、、、、、、いつの間にか、私のふところには数十万円の札束が、ニヤニヤ・シメシメ、と、よろこんだ瞬間、救急病院で意識が戻り、恥をかくのがオチだ!

暑い日の散歩はひかえよう!、、、、今日は朝から家にこもっていた。 でも、外出の口実はいくらでもある。、、、、3時過ぎ、『チョイと、整形外科に行ってくるよ!(万年腰痛の為、時々、腰を伸ばしてもらう)』、『その足で、浅草へ行って真夏用の帽子を買ってくるよ!』と、家を出た。、、、、と言うことで浅草へ行き、帰りは「かっぱ橋本通り」を上野まで、夕刻の散歩をしてきた。



・・・・・・・・・・ 「新仲見世」をウロウロ、可愛い娘にキョロキョロ、帽子屋さん・扇子屋さん・レコード屋さんに寄りブラブラ。
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・・・・・・・・・・ 「国際通り」に出た! 道の向こうに「かっぱ橋本通り」が見える。 このまま帰るのは脳がない、味噌もない、つまらない!、、、、、ヨシ、今日は「かっぱ橋本通り」を制覇しよう! 
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・・・・・・・・・・ 「かっぱ橋本通り」は、有名な「かっぱ橋道具街」と道の中程で交差する商店街。 東の端は「国際通り」の「公園六区入口交差点」、西の端は「昭和通り」の「北上野一丁目交差点」である。、、、、、その昔、寛永寺の高僧が浅草寺に詣でる「御成道」として整備された。 浅草は江戸時代から庶民の娯楽の中心であった街。 その浅草と上野をつなぐ幹線路として、明治・大正時代は、終日賑わいをみせていた。 明治時代には、線路の上に馬車が走る「馬車鉄道」も運行したそうだ。、、、、、かっぱ橋本通りには、3つの商店街が直線状に連なっており、総延長約1.2km。 只今、『下町七夕まつり』と称し、七夕飾りを楽しむことができる。 
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・・・・・・・・・・ 一直線のかっぱ橋本通りは、どこからでも東側(浅草側)の正面にスカイツリーを望むことができる、、、、、まるでスカイツリーを予測してつくられた道のようでもある。
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・・・・・・・・・・ かっぱ橋本通りの創業:明治36年の老舗:「どぜう飯田屋」   「駒形どぜう」と下町の味を二分する“どぜう屋”、、、、チョイと余談だが、私は大学生時代飯田屋の前辺りの家で、家庭教師のバイトを4年間やっていた。 夜10時頃のこの付近は、七色のネオン輝く、魅惑的な街であった。 今も面影は残るが、チョイと暗くなったかな?
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・・・・・・・・・・ かっぱ橋本通りのイメージキャラクターは、ズバリ『かっぱ』  通りのアッチ・コッチに!、、、、、365日立ちんぼで疲れたのか、傷ついた“かっぱ”もいる。
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・・・・・・・・・・ 「かっぱ橋本通り」と直交する「かっぱ橋道具街」、、、、交差点付近には、平成15年(2003)に「合羽橋道具街」が誕生してから90年を迎えるにあたり、これを記念してシンボル像「かっぱ河太郎」が建立された。 像は彫刻家:西村祐一氏と工芸作家:北村真一氏の制作。 現在は暗渠となった道具街通りの下を流れる新堀川などの堀割工事を手伝ったとされる河童伝説に基づいて、台東区の支援協力のもと、道具街中央ポケットパークに建立した。
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・・・・・・・・・・ かっぱ橋(合羽橋)の由来について、、、、、「合羽」の由来は2つの説がある。 ①ひとつは、今はない新堀川の整備を行った雨合羽の商人、合羽屋喜八の話である。 今から200年ほど前の文化年間の時代。この辺りは水はけが悪い低地で、雨が降るたびに洪水となり、人々は困り果てていた。 そこで、合羽屋喜八が私財を投じて、水路をつくる工事に着手。 しかし工事はことのほか難航し、これをみた隅田川の河童たちが同情し、喜八の良心にも心を打たれて、夜な夜な工事を手伝い、工事は無事に完成した。 通称かっぱ寺とよばれる曹源寺には、合羽屋喜八の墓がある。 ②もうひとつの説は、橋の近くにあった、伊予新谷加藤家下屋敷にまつわる話。 屋敷に住んでいた下級武士たちは、内職に雨合羽を作っていた。 その雨合羽をこの橋にかけて乾かしていたことから「合羽橋」と呼ばれるようになった。、、、、合羽橋はなくなり、合羽(かっぱ)伝説が残る。、、、、どちらの説にしても、“かっぱ橋”は“河童橋”ではなく、“合羽橋”である。



・・・・・・・・・・ かっぱ橋本通りのほぼ中間地点(台東区松が谷3)に、曹洞宗の曹源寺がある。 曹源寺は、慶長3年(1598)頃、現在の丸の内に開山した、その後湯島を経て現在地へ移転した。 ここには、文化11年(1814)、私財を投じて水路を造った合羽屋喜八が祀られているのだが、今日は17時を過ぎ閉門された。 残念!!!
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・・・・・・・・・・ かっぱ橋本通り曹源寺近くに、可愛い色気のある河童の像があり、『ここが台東区の真ん中 つまり「へそ」と言われている 台東区』と標されている。
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・・・・・・・・・・ かっぱ橋本通りの上野側の端、昭和通りとの交差点に到着。、、、、、汗びっしょり、でも元気だ。 熱中症にならず、よかった!
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2017年7月 2日 (日)

増上寺

午前中に家族で選挙を済ませ、午後はチョックラ“芝の増上寺”に行ってきた。 増上寺・浜松町周辺を歩き、1万歩の散歩。



増上寺
・・・・・・・・・・徳川家の菩提寺である、浄土宗寺院の三縁山広度院増上寺。 増上寺の創建年代等は不詳であるが、空海の弟子が麹町(千代田区)あたりに真言宗光明寺と称して建立したのが始まりらしい。 その後、明徳4年(1393、室町時代)に、浄土宗に改め、三縁山増上寺と改号した。、、、、天正18年(1590、豊臣秀吉の小田原征伐の年)に、家康が増上寺の前を通りかかったことが縁で、源誉存応上人と親しくなり、菩提寺となるきっかけとなった。、、、、その後、増上寺は麹町から日比谷に移転し、秀吉が死去した慶長3年(1598)に現在の芝へ移転した。 江戸時代には寛永寺と共に徳川将軍家の菩提所となり、寺領10745石の御朱印状を拝領、関東十八檀林(学問所)の筆頭となる。、、、、、、明治時代に移ると、新政府は明治6年(1873)の太政官布達により全国に公園を整備することとなった。 東京では、芝増上寺、上野寛永寺、浅草、深川、飛鳥山が、東京で最初の公園として指定された。(徳川の菩提寺が狙われたようだ?) 公園化が進み、さらに戦災で大きく被災し、戦後の混乱期には国土計画(プリンスホテル)と土地登記のトラブルも生じた。 現在は、地名は「芝公園」だが、かつての増上寺の広大な境内には、東京タワーがあり、プリンスホテルがあり、公園らしき緑地が点在し、もちろん増上寺自体も残り、まとまりのない“公園”となっている。



大門・・・・・・・・・・ 増上寺の総門・表門にあたり、地名の由来になっている門。 現在のものは国道の通行整備のため、昭和12年(1937)に原型より大きく、コンクリート製に作り直されたものだ。 旧大門は慶長3年(1598)に、増上寺が芝に移転した際、それまで江戸城の大手門だった高麗門を、徳川家康より寺の表門として譲られたものである。 その旧大門は大正12年(1923)の関東大震災により倒壊の恐れが生じ、両国・回向院に移築されたが、昭和20年(1945)の空襲により焼失した。、、、、、戦後、このコンクリート製の大門の所有者が不明となり、増上寺では昭和49年(1974)頃から東京都に対し境内整備の一環として大門の譲与を求めていたが、都の所有物か、否か、結論が出なかった。 その後東京都が調査を行い、都の所有物であり都の財産台帳から誤って抹消されたものであると認めると同時に、大門の建物としての鑑定を行い資産的価値はないものとして増上寺に無償で譲与することを決定。 昨年(2016年)3月25日に東京都と増上寺の間で契約書を取り交わし、東京都から増上寺に返還された。、、、、戦後の混乱が70年経った今でも続いているようだ。
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・・・・・・・・・・ 大門の交差点横に、昭和7年(1932)に区が設置した鉄筋コンクリート造の半地下式の「大門際公衆便所」がある。 かれこれ10年程前に、和風のデザインに改修され清潔な公衆となっている。、、、、、、ちなみに、半地下式の公衆便所は、九段会館際、東京国立博物館などにもあったが、今はいくつ残っているのか? 大変珍しい半地下式の便所、歩道からは見えないので安心して利用できる!
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三解脱門・・・・・・・・・ 増上寺の表の顔として、日比谷通りに面して建っている中門。 都内有数の古い建造物で、東日本最大級のこの門は只今、耐震工事中である。、、、、、、元和8年(1622)に再建された。 増上寺が江戸初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物で、国の重要文化財に指定されている。 三解脱門とは三つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱する門を言う。、、、、、私が高校生の頃、この前を走る都電に乗って、毎週塾に通った思い出の門。 当時の私は、頭はおろかで、勉強をむさぼっていた割には、出来の悪さに自分にいかり、解脱していなかったようだ。
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・・・・・・・・・・ 3年前に撮影した三解脱門
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旧方丈門(黒門)・・・・・・・・・・ 慶安年間(1648~1652)、三代将軍家光の寄進で建立された。 この門は、御成門交差点付近にあった増上寺方丈の表門で、黒漆塗りの門である。 方丈は明治時代に北海道開拓使の仮学校や海軍施設が置かれ、その後芝公園となった。 それゆえ門は、鐘楼の脇に移築し、さらに昭和55年(1980)に増上寺の通用門として日比谷通りに面する、三解脱門の左隣に移築された。 点々と移築され、黒く薄汚れたような姿は、何となく可哀そうだ。
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大殿(本堂)・・・・・・・・・・ 旧本堂は戦災で焼失したため、昭和49年(1974)、浄土宗大本山の念仏の根本道場として、あらゆる儀式法要が行えるように設計され、再建された本堂。 本尊は阿弥陀如来(室町期製作)。、、、、首都圏では最大級の御堂で、間口48m、奥行45m、高さ23m。 石段を登りつめた2階に本堂、3階に道場、1階に檀信徒控室、地下に増上寺宝物展示室がある。
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安国殿・・・・・・・・・・ 戦災で焼失した大殿の代わりに仮本堂として使用していた建物を、昭和49年(1974)、再建された新大殿の北側に移転し、「安国殿」とした。 その安国殿は老朽化のため、平成23年(2011)に新しい安国殿が再建されました。、、、、まだ、新しい匂いも残っているようだ、堂内にはお守り・お札・羊羹・写真集などグッズが並んでいる。 売店かな???
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鐘楼堂・・・・・・・・・・ 最初の鐘楼堂は寛永10年(1633)に建立されたが焼失した。 現在の鐘楼堂は戦後の再建によるものであります。 鐘楼堂の大梵鐘は、延宝元年(1673)に鋳造したものである。 江戸三大名鐘の一つに数えられている。、、、、、現在も、朝と夕べ、二回撞くその鐘の音は、時を告げるだけではなく、人を惑わす百八の煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと導く六度の誘いでもある。 浅草橋の我が家までは、音も聞こえなず煩悩は浄化されないので、今だ、よからぬことを考えては日々を過ごし、迷い多く安らぐことがないね。
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経蔵・・・・・・・・・・ 徳川幕府の助成により、慶長10年(1605)に建立された経蔵は内部中央に八角形の輪蔵を配する、八間四面、土蔵造りの典型的な経蔵である。 こちらも、寺社建築を得意とする松井建設の手により、只今、耐震工事中。
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・・・・・・・・・・ 3年前に撮影した経蔵
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徳川将軍家墓所・・・・・・・・・・ 増上寺は上野寛永寺と共に徳川将軍家の菩提寺。 増上寺には、二代秀忠・六代家宣・七代家継・九代家重・十二代家慶・十四代家茂の6人の将軍のほか、崇源院(二代秀忠夫人)、皇女和宮さま(十四代家茂夫人)ら5人の正室、三代家光側室桂昌院(五代綱吉実母)はじめ5人の側室、及び、三代家光第三子甲府宰相綱重ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されている。、、、、、旧徳川将軍家霊廟は御霊屋(おたまや)と呼ばれ、増上寺大殿を中央にして、その左右に並んでいた。 御霊屋はいずれも、日光東照宮のように荘重美麗な外観で観る人を圧倒していたようだ。 残念であるが、昭和20年(1945)の空襲で、ほぼ全ての建物が焼失した。 さらに、御霊屋跡はプリンスホテル、公園となり、墓所宝塔も一か所に集められてしまった。、、、、今日は宝塔が集められて改葬された現在の将軍家墓所の中を見てきた。

・・・・・・・・・・ 現在の墓所の門。 元は六代家宣の宝塔前の中門であった。、、、、6人の将軍の墓(宝塔)が、この門の後ろに納められている。
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・・・・・・・・・・ 門の後ろには、正面右に二代秀忠夫婦、左に六代家宣夫婦の宝塔を配し、両サイドには家継・家重・家慶・家茂・静寛院和宮・将軍生母側室の塔が並ぶ。
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・・・・・・・・・・・・・秀忠夫婦の石塔   秀忠の宝塔は焼失し、正室江与の石塔に合祀されている。、、、、、世が世ならば、台徳院霊廟と称する壮大な墓所が残されているのだが、徳川の世は遠く去り、大東亜戦争に負け、今は夫婦で小さな墓に眠る秀忠に、哀れさを感じた。
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・・・・・・・・・・・・・・静寛院和宮の青銅製宝塔
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台徳院霊廟・惣門・・・・・・・・・・ 台徳院霊廟は、二代徳川秀忠の霊廟建築である。 壮大な規模を持ち、江戸時代初期を代表する建造物群であったが、一部の建物を除き、戦災で焼失した。 惣門は数少ない罹災を免れた建築である。 寛永9年(1632)に造営された。
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●・・・・・・・・・・ 芝公園にはまだまだ古いもがある、、、、、このあと、芝丸山古墳にのぼり、チョイと「芝」の町を歩き帰宅。

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