『今日も気温は30℃以下で熱中症の心配なし』と、天気予報で確認し散歩に出た。 昨日同様に、今日は向島辺りから水戸街道を“タップリ歩いてやろう”と東向島駅に向かう。 押上で東武伊勢崎線に乗り換えるのだが、“東武”に乗り入れている“東急”で信号トラブルが発生し、ダイヤは滅茶苦茶。 とりあえず、着た電車に乗り行先変更。 西新井駅で下車し、日光街道に向かい歩き始めた。 1時間程歩いてから方向を確認したら、“とんでも八分 歩いて十分”、向かっている方向が違う! これでは、一日がかりの散歩になってしまう、急ぎ軌道修正し、竹ノ塚駅に出て帰宅。、、、、と言うことで、西新井駅から竹ノ塚駅まで、1万歩の散歩です。
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西新井駅 ・・・・・・・・・ 島式ホーム3面6線の地上駅で、橋上駅舎を有している。 伊勢崎線は上下線別に、2面4線を使用する。 残る1面2線は大師線用。 西新井駅は明治32年(1899)8月27日に開業。
・・・・・・・・・・ 東口の駅ビル「トスカ東館」は昭和56年(1981)に完成した。、、、、私の住む浅草橋には、今だ“駅ビル”と言えるような施設なし。 あるのは高架下の小さなビーズ屋、衣料品屋程度。 負けてるね!
・・・・・・・・・・ 大師線では、昨年3月から、昭和30年代の東武鉄道の標準色である、インターナショナルオレンジの車体にミディアムイエローの帯を回したリバイバルカラーの8000系車両で運行している。 この塗装の車両は、昭和33年(1958)から昭和39年(1964)頃まで、東武鉄道の20m級通勤車両として使用されていた。 懐かしのカラーだ。
②環七通り・・・・・・・・・ 西新井駅の北東で環七通りを横断し足立区島根3丁目に入る。 さすが“環七通り”だ、中央分離帯があり、交差点か歩道橋でないと、向かい側に横断できない。 ズルッコシイ横断は禁止!
③来迎寺・・・・・・・・・ 環七を横断し島根3丁目に入ると、多宝塔の上部が住宅屋根の後ろに見えた。 チョイと見に行ってみよう!、、、、来迎寺は建久6年(1195)に創建され、その後江戸時代天和年間(1681~1684)に尊宥和尚が再興した。 当初は、西新井大師総持寺の末寺にして、近来は大和長谷寺の直末となっている。 境内には、樹齢数百年の榎と松の古木が、本堂を隠すように枝を出す。 また、古い庚申塔が数基、子育地蔵尊、宝篋印塔、六地蔵尊なども点在する。 山門と多宝塔は近年の建造。、、、、、寺を出たとたん、右手の甲が痒~い、かゆ~い、やぶ蚊にやられた、あ~もうダメ、かゆ~い!
④樹齢300年の黒松・・・・・・・・ 来迎寺から国土安穏寺に向かう途中に、大きな黒松がある。 地元嶋根村の旧家桐田家の黒松である。 こちらのお宅には将軍の鹿狩り(ししがり)の際に、村の御用勢子人足が使用した旗が保存されていると言う。、、、、、我が家には、父が大東亜戦争に出征したときの日の丸ぐらいしか残っていない。 チョイと旧家とは言えないね。
⑤国土安穏寺・・・・・・・・ 日蓮宗、天下長久山国土安穏寺(こくどあんのんじ)と称す。 創建は応永17年(1410)、開基は千葉太郎満胤(室町時代の武将、千葉氏14代当主)である。 当初は長久山妙覚寺と称した。 江戸時代に将軍秀忠および家光が当所巡遊の折の御善所となり、八世日芸聖人の大宇都宮釣天井予言の功により、寛永元年(1624)現寺号を賜り徳川家祈願所位牌安置所となる。 これより寺は、葵紋の使用を許された。 現在の諸堂宇は、明和年間(1764~1772)に建てられた鐘楼を除き、昭和以降の造営である。
・・・・・・・・・・ 国土安穏寺の境内を出たとたん、今度は両手、両腕が痒~い、右手で左腕を搔き、左手で右腕を搔く。 あ~、目茶目茶かゆ~い。 手の甲・腕の表面に、うっすら丸い膨らみが、数か所できている。 アッチャコッチャ、掻きながら歩く、この辛さ、南無阿弥陀仏、南妙法蓮華経、アーメン、念仏を三度唱えても効き目なし。、、、、、足立区島根はヤブ蚊の原産地か?
⑥普門寺・・・・・・・・ 国土安穏寺から北へ100m程(足立区島根4)に、真言宗豊山派の普門寺がある。 この寺は、延慶年間(1308~1310)の草創で、嶋根村名主の菩提所。、、、、、門は閉ざされ、石敷きの参道には雑草が伸び、ひょっとすると、ここもヤブ蚊の産地か? 両手搔き搔き、危険を察知し遠ざかる。
・・・・・・・・・・ この辺りは、かつて空いた田畑に都営団地を建てたのか、不整形の敷地に中低層の小規模都営住宅が点在する。 方向感覚を狂わす、曲がりくねる道路を行く。
⑦鷲神社・・・・・・・・ 西新井駅と竹ノ塚駅の中間ぐらいの足立区島根4丁目25に鷲神社(わしじんじゃ)がある。 “鷲神社”を“おおとりじんじゃ”と読むのは浅草育ちの人間だけか?、、、、、社伝によると鷲神社は文保2年(1318)の中興で、古代の海岸線とされる所が南にあり島の根の様にでた当地に祭神が船で到着したことから浮島明神とも呼ばれたそうだ。、、、、、社殿は昭和31年(1956)に再建した。 私好みのシンプルなデザインで気に入った!
・・・・・・・・・・ 境内社の三峯神社前の石の鳥居(写真:左)は享和2年(1802)の建立。 隣の大きな御影石の灯籠は、昭和61年(1986)に建てた、高さ4.7m、重量35トン。
・・・・・・・・・・ 参拝を済ませ、『はて、私は今どこに?』 地図を出してみた。 ナント、西新井駅と竹ノ塚駅から同距離程の地点で、日光街道に出るにはチョイと時間がかかりそう。 無計画にブラブラ歩いたからだ! 我が家の昼食に間に合うよう、これより竹ノ塚駅に出ることにした。、、、、、まだ、ヤブ蚊の後遺症も残り、手搔き、腕搔き、恥をかき、竹ノ塚駅を目指す。
⑧炎天寺と六月八幡神社・・・・・・・・ 竹ノ塚駅に向かう途中、足立区六月(ろくがつ)3丁目に、真言宗豊山派の幡勝山成就院炎天寺がある。、、、、、この寺の名:炎天寺、昔の地名:六月村の由来には、できすぎの話がある。:::『時は天喜4年(1056)八幡太郎源義家が奥州干渉(後三年の役)への向途、暑さにうだりながらこの地にやってきた時、やにわにその弱みを急襲したのが野臥で、さすがの源氏の精鋭部隊も苦戦を強いられた。 そこで義家が石清水の八幡神に撃退を祈念したところたちまち形成逆転して大勝利、そこで義家は岩清水八幡を勧請して祀り、さらに討死者を弔うための一寺を建立し、源氏の白幡のお陰で勝ったので山号を「幡勝山」、願いが叶ったので院号は「成就院」、時あたかも盛夏六月のこととて寺号は「炎天寺」と名づけ、村人には「六月村」の村名を与えた。旧暦六月は真夏8月なのだ。』、、、、、作られたような話だが、信じよう!
・・・・・・・・・・ 現在の六月村の交差点(六月3)
・・・・・・・・・・ 炎天寺(写真:左)と六月八幡神社(写真:右)。 当然だが、炎天寺は六月八幡神社の別当寺であった。
・・・・・・・・・・ 炎天寺には、小林一茶も関係している。、、、、江戸後期、俳人:小林一茶は当地で、「蝉鳴くや 六月村の 炎天寺」、「むら雨や 六月村の 炎天寺」など、数句を詠んだといわれている。 炎天寺では、毎年、「一茶まつり」を催し、句を詠んでいるそうだ。
・・・・・・・・・・ 私も一句、「炎天に 両手搔き搔き イライラと」、、、、迷句?
⑨竹の塚第2団地・・・・・・・・ 昭和40年(1965)頃に、駅の南側、線路沿いに建てられた住宅公団の住宅。 土地の使い方にも余裕が見られる、50年前の団地。
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竹ノ塚駅 ・・・・・・・・ 竹ノ塚駅は伊勢崎線の開業から約7ヶ月後にあたる明治33年(1900)3月21日に開業した。 現在は高架化工事が進められている。、、、、、平成27年(2015)の乗降客数は約72000人/日で、伊勢崎線内の駅では6番目である。 ちなみに7番目は西新井駅である。 西新井駅には急行・準急・普通が停まり、竹ノ塚は普通だけしか停まらない。 こんなことアリ? もちろん、アリ。