船橋市行田
雨、雨、雨、連日の雨。 『今日は?』と外を見ると、曇り空だが散歩できそうだ。 途中、降られぬことを祈り、「船橋高架水槽」を見に行田団地まで行ってきた。 9千歩。
①京成西船駅・・・・・・・・ 京成本線の駅で、JR総武本線西船橋駅の北方300m程の処にある。 大正5年(1916)12月30日に葛飾駅として開業し、昭和62年(1987)に京成西船駅に改称した。 優等列車は全て通過し、普通列車のみ停まってくれる駅。、、、、、、、国鉄(JR)総武本線の西船橋駅の開業は、京成西船駅開業から42年後、昭和33年(1958)11月10日である。 駅の大きさ、駅前の賑やかさ、乗降客の多さ、どれを比べても、横綱と序二段ほどの差があり西船橋駅の圧倒的な勝ち!



②成瀬地蔵・・・・・・・・ 西船駅から80歩ほど歩くと、踏切を越えた処(船橋市印内1)に成瀬地蔵(なるせじぞう)が祀られている、、、、、旧葛飾町一帯は栗原郷であった。家康は側近の成瀬正成に慶長5年(1600)に栗原郷4000石を与えた。 のちに次男之成が、2代目の栗原藩主となったが39歳で病没。 その子之虎はわずか5歳で夭折。 寛永11年(1634)に断絶した。 この「成瀬地蔵」は、夭折した之虎の霊と、幼くして他界した地元の子らの霊を弔う為、貞享4年(1687)、印内村名主の田中徳左衛門、忠左衛門と女性だけの念仏講中によって寄進、建立されたものらしい。、、、、“女性だけの念仏講”とは“女子会 ”?

③正延寺・・・・・・・・ 京成本線とJR武蔵野線が交差する西船3丁目に、真言宗豊山派の正延寺がある。、、、、、明治41年(1908)、延命院跡に正覚寺と延命院が合併した寺で、名前も一文字ずつ頂戴し「正延寺」と、わかりやすいね。 本尊・胎蔵界五智如来像は、正覚寺の地中より掘り起こされたという伝承をもつ秘仏で、平安時代の作と推定され、船橋市最古級の仏像で県文化財に指定されているそうだ。、、、、、現本堂は昭和49年(1974)に建立



④印内八坂神社・光明寺・・・・・・・・・ JR武蔵野線沿いに歩くと、船橋市印内2丁目に、八坂神社がある。 神社の主神は須佐之男命だが、仏教の祇園精舎の守護神・牛頭天王を併せた祭神で“印内の天王様”と呼ばれている、、、、神社の広い境内と地続きで、真言宗の光明寺がある、、、、、八坂神社は、隣の光明寺が、約250年前にこの辺りで疫病が流行した際に、京都の八坂神社を勧請したのが起こりらしい。

・・・・・・・・・・ 境内中央に堂々と腰を据える八坂神社

・・・・・・・・・・ 神社の境内隅に間借りしたような、チョイと寂しい雰囲気の光明寺

⑤船橋高架水槽・・・・・・・・・ 今日の散歩でぜひ見てみたかった高架水槽
・・・・・・・・・・ 印内2丁目付近から、畑の先、住宅の先に見えた! 後ろには行田団地が並んでいる

・・・・・・・・・・ 近づいてみるとクラゲのようだ、16本の足(支柱)を数えることができた

・・・・・・・・・・ 芝生上に高さ31m、直径16mの巨大なクラゲが立っている。 昭和36年(1961)に建設され、貯水量5000m3の水槽!

・・・・・・・・・・ 行田団地の上から見ても、足は16本だった。 現在は、平時の給水より、災害時に停電しても給水できる非常用として稼働しているそうだ。

⑥海軍無線電信所船橋送信所跡・・・・・・・・ 中山競馬場の東に、巨大な円を描いている海軍の無線電信施設の跡。 チョイと航空写真で見ると!、、、、、おそらく、誰もが見たことある写真だと思う

・・・・・・・・・・ この施設は日露戦争後、聯合艦隊の行動範囲の拡大に伴い、現:船橋市行田に設置された海軍の無線電信施設である。 太平洋戦争時に真珠湾攻撃部隊に「ニイタカヤマノボレ1208」の電文を送信した施設。 ジーメンス社に発注し、大正2年(1913)に着工したが翌大正3年に第一次世界大戦が起こり日本がドイツに宣戦布告をしたことからジーメンス社の技術者が図面を焼却、帰国してしまい工事は困難を極めたが、大正4年(1915)4月には開所式が行われた。 戦後は、進駐軍が接収し昭和41年(1966)に返還されたが、昭和46年(1971)から翌年までに解体された。
・・・・・・・・・・ 現在、送信所跡を物語れるものは、この巨大な円形(直径約800m)と、円の中心部(行田公園)に設置された記念碑だけである。

・・・・・・・・・・ 外周道路は円を描いているのだが、大きすぎて、カーブも緩やかである。

・・・・・・・・・・ 円形の中に昭和51年(1976)に誕生した、住宅公団の総戸数1736戸の行田団地



・・・・・・・・・・ 霧雨か? チョイと降ってきたので、団地内のバス停から駅に向かうことにした。 散歩は此処まで!
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