再び北品川
一昨日の散歩で、島倉千代子の墓を見ずに帰ったことが気になり、今日の散歩は再び墓地により東海寺に参拝することにした。 JR大崎駅から京急新馬場駅まで、1万歩の散歩です。
①大崎駅・・・・・・・・・・明治34年(1901)、日本鉄道品川線の駅として開業し、昭和の時代までは山手線だけが発着する普通の駅の一つであった。 それが、平成の世になると、埼京線、湘南新宿ライン、東京臨海高速鉄道のりんかい線が乗り入れ、駅前には大規模再開発で巨大なオフィスビルが立ち並んだ。 平成元年の乗降客数は一日約7万人であったが、平成27年には42万人程と急激に増加した。、、、、、都会に住む田舎者となった私は、今朝のラッシュ時に大崎駅に降りると、ホーム上は改札に向かう人で身動きできず。 エスカレータに乗って立ち止まると、後ろから怒鳴り殺されるような恐怖を感じた。
②大崎駅から東海寺大山墓地へ・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・大崎駅を出て、西側のペデストリアンデッキを歩く。
・・・・・・・・・・・・・・「音は聞こえど姿は見えず、ほんにお前は屁のような」、、、、、高架上を疾走する新幹線、その下の盛土を走る横須賀線、どちらも下の道からは見えない!
・・・・・・・・・・・・・・第一三共品川研究開発センターの脇を通り、目黒川に出る。、、、、、川は汚れ、黒ずんでいる。
・・・・・・・・・・・・・・墓地の入り口、山手通りに架かり、京浜東北線・東海道線が走る目黒道架道橋。 ここから、線路沿いに徒歩1分。
③東海寺大山墓地・・・・・・・・・・・・所在地は品川区北品川4
・・・・・・・・・・・・・・・墓地の所々に、曼殊沙華が咲く大山墓地。 今日は、“お千代さん”の墓参りにきたのだが、さて、見つけることができるかな?
・・・・・・・・・・・・・・墓地に入ると、一昨日来た井上勝の墓の方から私と同年代と思われる70歳前後の男性がこちらに来る。 私は墓地の管理人と思い頭を下げ、『おはようございます。』 先方からは、『おはようス、おたくもお千代さんの墓参りですか?』 その瞬間、声も出ず、『エッ、なぜ判るの!』 返事する間もなく、先方はすれ違って行ってしまった。 あの方は、カラオケ好きで、中高年熱烈ファンの一人だったかも?、、、、、、ここで、私の鋭い勘がはたらき、井上勝の墓へ向かう。
・・・・・・・・・・・・・・『ナント、俺はバカ、アホ、ドジのマヌケなんだ、尻の毛が抜け真っ赤っかだ。』、、、、、一昨日来た時に、井上勝の墓の前に、『こんなところに、ペットの慰霊碑を建立し、邪魔だな!』と思ったものが、“お千代さんの墓”だった。、、、、、歌手の墓石によくある、音符と歌詞を彫ったゴチャゴチャしたものではない、綺麗な黒の石で、高さも低い上品な造りの墓石に、綺麗な花が供えられてる。 「島倉千代子」の名は墓石の裏に小さく彫られていた。、、、、、、名が見えなかった、ペットの慰霊碑と間違えたのも無理はない、許す! 『間違えてゴメン、安らかにお眠りください』と、謝りながら合掌。
・・・・・・・・・・・・・墓石の後ろから撮影すると、吾輩がいかに慌て者か?、、、、半円の石の裏に小さく「島倉千代子」の名が見える。 墓と向かい合わせで「鉄道記念物 井上勝 墓」の表示がある。
・・・・・・・・・・・・・・話のついでに、、、、、島倉千代子の出身は、東京市品川区北品川で、地元である。 また、この墓は生前に建てられたそうだ。
・・・・・・・・・・・・・・もう一つ、ついでの話、東海寺は地元の寺であるから、島倉家の御先祖の墓も、場所は離れているが、この墓地にある。 その墓石には、施主として名が記されてた。
・・・・・・・・・・・・・・せっかく、再び参上した墓地なので、今日は一昨日紹介しなかった著名人の墓を御案内。 明治の実業家:西村勝三の墓、江戸時代の暦学者:渋川春海の墓、江戸時代の国学者:本居内遠(もとおり うちとよ)の墓、江戸中期の儒者にして文人:服部南郭先生の墓、肥後熊本藩細川家家臣と一族の墓石、利休居士追遠塔など、など、、、、、古い墓がイッパイ。
④東海寺・・・・・・・・・・・『今日は是非とも、お参りするぞ!』と、やってきた。、、、、臨済宗大徳寺派の東海寺は、寛永15年(1638)徳川家光が沢庵和尚を招聘して開山した。 寺領5千石、境内地4万7000坪を賜った別格本山格の寺院で、臨済宗大徳寺派の江戸触頭であった。 明治維新で廃寺となったものを、かつての塔頭玄性院が旧跡を引き継いで現在に至る。、、、、、明治通りに面し、超高層マンションの谷間に参道がある。 参道の奥、砂利を敷いただけの境内中央に木造の古学殿、鐘楼がある。 鐘楼は元禄5年(1692)に、名工と言われた幕府の御用鋳物師である椎名伊代守良寛によって造られたそうだ。
⑤品川神社・・・・・・・・・・・新馬場駅前、第一京浜を挟み鳥居が見える小高い丘の上に鎮座する神社。(北品川3)、、、、、、文治3年(1185)、源頼朝が安房国州崎明神を勧請し、創建した。 寛永14年(1637)三代将軍徳川家光公により東海寺が建立され、品川神社がその鎮座と定められた。 元禄7年(1694)・嘉永3年(1850)の二度の社殿焼失の際には、時の将軍の命により再建が行われる等、徳川将軍家の庇護を受けました。 明治元年(1868)11月には明治天皇が新都・東京の安寧と国家の繁栄を祈願しるために、当社を含んだ都内の神社を「准勅祭神社」と定めた。 そして、大東亜戦争では、幸い神社は戦火を免れることができた。 しかし、社殿の老朽化は進み、昭和39年(1964)現社殿が鉄筋コンクリート造で再建された。
・・・・・・・・・・・・・・神社の社殿裏に、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだ板垣退助の墓がある。 この地は、元は東海寺の塔頭:高源院があった所である。 高源院は関東大震災後、世田谷区烏山に移ったが、墓所は板垣の意向を汲み(?)現在地に残されたそうだ。、、、、、、墓所は薄暗くチョイとジメジメ、観光地とするには無理かな?
⑥新馬場駅・・・・・・・・・・・明治37年(1904)、京浜電気鉄道の南馬場駅、北馬場駅として開業した。 北馬場駅は目黒川の北側(現:北品川)に、南馬場駅は川の南側(現:南品川)に、それぞれの駅が川を挟んで在った。 駅間の距離は200m程しかなく、昭和51年(1976)の高架化工事に合わせ統合し、“新馬場”駅が誕生した。、、、、改札口は旧北馬場駅、南馬場駅の駅舎位置にあり、ホームは目黒川の上にできている。、、、、、ホームは長く、有効長は200m程の長さである。