ダウン!
先日、草加を歩いた日、ポカポカの五月の陽気となり激しい気温差に負け、風邪をひいてしまった。 昨日からは、鼻水タラタラ、喉イガイガ、熱ジリジリ、合間にハクション大魔王。 今日は、近くの医者で薬を貰い家でグッタリ、ティシュを横に置いて寝ています。
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先日、草加を歩いた日、ポカポカの五月の陽気となり激しい気温差に負け、風邪をひいてしまった。 昨日からは、鼻水タラタラ、喉イガイガ、熱ジリジリ、合間にハクション大魔王。 今日は、近くの医者で薬を貰い家でグッタリ、ティシュを横に置いて寝ています。
・・・・・・・・・・ 今日は家を出る時、妻から『何処へ行くの?』 私『未定、何処へ行こうかな?』 妻『電車に乗ってから考えたら。』 私『じゃ~そうする』、、、、で、敬老パス(年間20,510円で都内を走る主要バス、都営交通の電車が乗り放題のパス)で乗れる都営浅草線に乗った。 何となく、浅草線の終点:押上で降り、何となく伊勢崎線に乗り換えた。 乗った電車「準急」、停車駅は曳舟・北千住・西新井・草加・新越谷、、、、何処で降りるか、迷っている間に「草加」だ。 この先「新越谷」まで行ったら昼までに帰れない。 あわてて草加で飛び降りた。 帰りも、敬老パスが利用できる、日暮里・舎人ライナーの駅を目指すことにした。、、、、敬老パス(都の正式名称は「東京都シルバーパス」)は、年寄りにやさしい都政で、石原慎太郎知事の時代(平成12年)に実現した。 ありがたいですね!
①三郷中央駅・・・・・・・・・・ 南北に長い三郷市の“中央”に建設された駅。 JR武蔵野線の「三郷駅」、「新三郷駅」とは離れており、乗換にはタクシーを利用する(?) 平成17年(2005)8月24日に、つくばエキスプレスの駅として、相対式2面2線で開業した。、、、、、駅周辺にはマンションが建ち、若い人が多そうな町である。
・・・・・・・・・・ 駅前の公園には、駅開業の年に福島県三春町から寄贈してもらった「三春滝桜」の子孫樹が植えられている。、、、、、満開なのに、花見する人がいない、もったいない!
②中川橋梁・・・・・・・・・ 中川に架かる、全長752mの「つくばエキスプレス 中川橋梁」は、PC桁とトラス桁が混在する橋梁である。 平成11年(1999)竣工。 施工は三井建設+勝村建設+新井組
・・・・・・・・・・ 橋の際にあったバス停、見て、オヤ? も一度見て、ナンジャ? じっくり見て、ドウナッテンダ!、、、、、平日は、『三郷中央行のバスはありません』、なら土曜・休日は、『12時35分』の1本だけ! 要するに、一週間に2本だけの運行。 こんなバス、誰が利用しているのか??? 疑問は深まる?
③三郷水門・・・・・・・・ 中川から三郷放水路が分岐する位置にある、鉄筋コンクリート造、鋼製ローラーゲート(2門)の水門。 昭和49年(1974)10月完成。、、、、、大雨が降った時、洪水対策として中川の水を放水路で江戸川に流す。 江戸川の水が少なくなると、渇水対策として同様に江戸川に流す。 中川の水が汚れた時は、水質浄化として江戸川の水を中川に流す。 つまり、放水路の水は一方に流れるのではなく、両川に流れるそうだ。、、、、、中川寄りに県道67号が走る境木橋が架かり、すぐ隣に三郷水門がある。
・・・・・・・・・・ 水門から放水路を眺めると、土手にはサクラが植えられ、先には外環道が横切る。
④外環道・・・・・・・・・ 放水路上にはチューブのような遮音壁に囲まれた道路が伸びて行く。 大泉・浦和・川口・三郷・松戸と走り、目指すは東京デズニ-ランドとか。
⑤第二大場川・・・・・・・・ 三郷放水路のほぼ中間地点で、北から第二大場川が流れ下り、放水路に80度ぐらいの角度でぶつかる。
・・・・・・・・・・ 北から流れてきた第二大場川
・・・・・・・・・・ 第二大場川は放水路の数メートル手前で曲がり、放水路と並行して大場川に合流する。 写真:中央右側の柵の外に三郷放水路、左の柵の外側に第二大場川が流れ、その間に桜並木が三郷排水機場まで続く。
・・・・・・・・・・ 日本人は川の土手に桜を植えるが好きだ! 三郷放水路でも両岸に桜並木が続く、、、、、咲いているのに、観る人は少なく。 気分良く咲く桜も、チョイト寂しそう。
⑥長昌寺・・・・・・・・ 放水路の北側に曹洞宗寺院:長昌寺がある。 寺の創建年代は不詳であるが、享保年間(1730前後)以前に開山したらしい。 小さな本堂のかわいらしい寺。
⑦大場川水門・・・・・・・・ 大場川は、埼玉県吉川市付近の干拓にともない、排水のため開削された。 吉川市から三郷市を南へ流れ、都立水元公園へ向かう川である。 その川を放水路が分断するように直交している。 大場川水門はその交点に造られているが、通常は水門は閉じられており、川の水は放水路の下に敷設された導水管によって放水路を横断しているのである。(これを伏越(ふせごし)と云う) 水門が開き、大場川の水が放水路に合流するのは非常時だけである。
・・・・・・・・・・・・・・北から流れ下る大場川
・・・・・・・・・・ 平時は、大場川水門が閉じられ、放水路とは合流しない。
・・・・・・・・・・ 水門の裏側(大場川側)を見ると、写真:ゲートの手前に取水部がある。 水はここから導水管により放水路を横切っていく。、、、、、この工事は昭和50年(1975)に佐藤工業の施工で完成した
・・・・・・・・・・ 水門の対岸、排水口(写真では桜の木の陰で見えない)から出た水は、再び大場川となって南へ流れていく。
⑧三郷排水機場・・・・・・・・・ 国交省が管理する排水機場。 5台のポンプで最大排水量200立方メートル/秒の能力を有し、平成7年(1995)度完成。 三郷排水機場は、中川と江戸川を結ぶ三郷放水路の江戸川側に位置し、中川上流における湛水対策、下流での洪水対策、大場川流域の内水被害対策などを目的として建設された。
・・・・・・・・・・ 江戸川に面した排水口
●・・・・・・・・・・ これにて、三郷放水路を踏破。 三郷中央駅に戻り帰宅。
・・・・・・・・・・ 朝の駅前商店街、食事処の中華そば屋、定食屋などは開いている。、、、、ここ金町では、朝から外食する人が多いのかな?
②葛西神社・・・・・・・・ 駅から常盤線に沿いに歩き、江戸川に出る手前(葛飾区東金町6)に葛西神社がある。、、、、、葛西神社は、平安末期の元暦2年(1185)に葛西清重が、上葛西、下葛西)33郷の総鎮守として、香取神宮の分霊を勧請したと言われている。 江戸時代には徳川家康から御朱印10石を賜り、11月を例大祭とするようになった。
・・・・・・・・・・ 嘉永7年(1854)に建立された正面鳥居。 これより、明神の森となる。
・・・・・・・・・・ 正面鳥居の奥に、もう一つ、高さ約9mの大鳥居がある。 昭和4年(1929)に崇敬者夫妻の金婚式記念に奉納されたそうだ。
・・・・・・・・・・ 経津主神、日本武尊、徳川家康の三柱を祀る本殿。 鉄筋コンクリート造、権現八棟造りで昭和39年(1964)に改築された。
・・・・・・・・・・ 鍾馗石像、、、、、鍾馗(しょうき)は、唐の玄宗皇帝が病中に鍾馗が鬼を退治した夢を見て、魔よけとして始まった。 わが国でも、まもなく五月の節句に幟に描かれたりして登場する。、、、、、境内のこの石像は、念仏講の人々が悪魔降伏を祈り元禄8年(1695)に建てた。
・・・・・・・・・・ 葛西神社は境内社も多く、厳島神社、富士神社、北野神社、諏訪神社、天祖神社、綱神社、道祖神社、椿神社、三峰神社、弁天社、稲荷神社、水神社、疱瘡神社、子録神社など、『なんでも揃って、祀っています』と大安売り!
③光増寺・・・・・・・・ 葛西神社の北200m程(東金町6)に、浄土宗の摂取山蓮池院光増寺がある。、、、、、光増寺は、貞応元年(1222)に草庵として始まり、元仁元年(1224)、親鸞聖人が立ち寄り浄土真宗光増寺となった。 戦国時代、合戦により堂宇を消失、天正15年(1587)、江戸増上寺の僧が浄土宗として中興した。 当地は旧水戸街道沿いにあたり、水戸徳川家の立ち寄り所となり、葵の紋所が使用されている。、、、、現本堂は明治43年(1910)の再建を経て、昭和49年(1974)に現在の堂舎に改築された。
・・・・・・・・・・・・道路正面に見えた山門。 狭き門、高き松、小さき本堂、草庵の雰囲気残り、いいね!
・・・・・・・・・・・・・草庵の雰囲気が残る本堂
・・・・・・・・・・ 境内には、江戸時代からの多くの石仏、碑、墓などが祀られている。 檀家から寄贈されたものもあるようだ。
・・・・・・・・・・ 江戸時代葛飾の生んだ俳人:鈴木松什(しょうじゅう)の墓の後ろで、静かに咲き誇るアカバナミツマタ。 松什は寛政10年(1795)柴又村に生まれ、通称を安五郎、俳名を無有庵といった。 嘉永6年(1853)4月18日病没、年56歳。法名を無有庵俊誉松什禅士という。、、、、、念のため、松什とミツマタは“無関係”
④半田稲荷神社・・・・・・・・ 光増寺の北200m程(東金町4)に半田稲荷神社がある。 ここは、和銅4年(711)に創建され、倉稲魂神・佐田彦神・大宮女神の三柱を祭神とする古社である。 江戸期には麻疹と安産の神様として知られ、歌舞伎や狂言にも描かれているそうだ。(私は歌舞伎には疎く、知らなかった!)
・・・・・・・・・・ 江戸時代から「葛西金町半田の稲荷」と称され、疱瘡・麻疹・安産に霊験あり、江戸市民の信仰を集めた。 歌舞伎役者、花柳界、魚河岸による講もあったようだ。 最近造られた玉垣も魚河岸の尽力があったようだ。
・・・・・・・・・・ 社殿は延享4年(1747)の火災で焼失し、寛延2年(1749)に再建されたが、尾州徳川家の立願により弘化2年(1845)に造替た。 その後、一部修復したが現在の社殿である。、、、、、徳川によって建てられた神社としては簡素な建物であるが、拝所の天井には鳳凰が描かれチョイトこだわりが見えるかも?
・・・・・・・・・・・・・・「願掛け狐」に願い事を書いて納めると効果ありそうだ!、、、、私は、『ジャンボ、一等当選』だけ、ささやかな願いです。
・・・・・・・・・・ 境内の一隅に神泉遺構がある。 この遺構はかつての湧泉井戸で、旧来の形状がよく保存されている。、、、、、享保年間(1716~37)の頃、半田稲荷神社は庖瘡・麻疹・安産に霊験ありといわれ、願人坊主(がんにんぼうず/僧形の芸人)が「葛西金町半田の稲荷、庖瘡も軽い、麻疹も軽い」と全国を謡い踊り歩いたため、参詣人が絶えず、舞踊や長唄でも演じられたという。 井戸の周囲を囲う玉垣には市川團十郎や尾上菊五郎など歌舞伎役者ら寄進者の名が刻まれ、往時の繁栄を偲ばせている。
⑤南蔵院・・・・・・・・・ 半田稲荷神社から北西に800m程の葛飾区東水元2に、天台宗寺院の業平山東泉寺南蔵院がある。 南蔵院は、貞和4年(1348)以前に、在原業平が居住していたといわれる現在の墨田区業平橋付近に創建したと伝えられている。 元禄11年(1698)中之郷八軒町(現:墨田区吾妻橋3)へ移転、しばられ地蔵で有名になった。、、、、関東大震災で被災し、昭和4年(1929)、廃寺となっていた聖徳寺の地(現在地)へ移転した。
・・・・・・・・・・ まずは『しばられ地蔵』の話とは、、、、、享保7年間(1716~36)夏の昼下がり、日本橋の呉服間屋の手代が荷車に反物を山と積んで、業平橋近くの南蔵院の門前で車を止め一休みした。 目がさめると、門前に置いた反物は車ごとない。 あわてた手代はさっそく訴え出た。 取調べに当たったのが町奉行:大岡越前で、「反物が盗まれたのを見すごすとは、門前の地蔵も同罪である。 縄打って引っ立てて参れ」と命じた。 地蔵さんは荒縄でぐるぐる巻きにされ、大八車に乗せられて奉行所へ。 物見高いは江戸っ子の常、前代未聞のお地蔵様の引き立てに、ぞろぞろついて行く。 奉行所の門は開いている。 やがて、頃合いを見て越前守は門をしめさせ、「奉行所の白州へ乱入するとは不届至極、その罰として反物一反を納めよ」野次馬たちは驚いたが、なんとか工面して反物を持ってくる。 それを呉服屋に見させた。 その中から盗まれた反物が発見され、大盗賊団が一網打尽となった。 これにて一件落着。
・・・・・・・・・・ 越前守は地蔵に感謝し、お堂を建て縄解き供養を行った。 以来「しばられ地蔵」は盗難除け、足止め、厄除け、さらには縁結びまで願い事を叶えてくれると信じられた。 願い事をするときは縄で縛り、願い叶えば縄を解く、風習となった。
・・・・・・・・・・ 墨田区から葛飾区に移った「しばられ地蔵」 今日も縄でグルグル巻きの地蔵さんに、手を合わせる人がいた。、、、、健康を願っているのかな?
⑥金蓮院・・・・・・・・・ 駅に近い東金町3丁目、真言宗豊山派の法護山金剛寺金蓮院がある。 チョイト、ここもお立ち寄り。、、、、、永正年間(1504~20)の創建。 旧門末30余ヵ寺をもった本寺格の寺院で、天正19年(1591)徳川家から10石の御朱印を拝領した。 水戸徳川家の祈願所でもある。
・・・・・・・・・・ 本堂左に、宝永7年(1710)に二十六夜待講中の人々が、二世安楽を願って建てた藍染明王の石像がある。 二十六夜待とは、特定の月の26日の夜に人々が寄り合い、飲食などをしながら月の出を待ち、五穀豊穣、商売繁盛などを願うことを。 二十六夜待の本尊は愛染明王であるが、石像を刻むよりも文字を刻む例が多く、愛染明王の石像単独ではあまり例はなく、ここの石像はその中でも古い方に入る。、、、、、愛染明王の姿は、三目六臂(目が三つで腕が六本)であるが、ここの石像は彫が深くハッキリとした姿で残されている。 いいね!
・・・・・・・・・・ 道路元標、、、、、、橋の中央ド真ん中に、国道1号・20号・4号・6号・14号の起点となる道路元標が埋め込まれている。 日本橋北詰には、その道路元標の複製があり、若いカップル、親子が立ち止まって、話題は『自分の家までここから何キロ?』