島津山、池田山の麓を歩く
台風の影響か、連日の雨空で散歩もできず、家でゴロゴロ、ウジウジ、ダラダラ、ぐうたら親爺であった。 今日は久しぶりの秋空、品川駅の西側に位置する島津山(清泉女子大のある山)、池田山(池田山公園のある山)の山裾の路地・裏道を歩き都営三田線白金台駅まで、1万歩の散歩です。
● 鉄道創業の駅・・・・・・・我が国の鉄道は、明治5年(1872)10月15日に新橋~横浜間で開業したと、「歴史」の教科書に書かれている。 ところがドッコイ、その約4か月前の明治5年6月12日(旧暦5月7日)に品川~横浜間で先行開業(仮開業)していた。 なぜか?答えは簡単、新橋~品川間の工事が遅れてたからである。 つまり、品川駅は日本で最初に開業した鉄道駅である。 この頃の品川駅は、ホームの東側に東京湾の波が打ち寄せる相対式ホーム2面2線の小さな駅であった。、、、、、近い将来(2027年)には、中央リニア新幹線の創業駅にもなる予定だ!
・・・・・・・・・・ 品川駅高輪口の駅前ロータリーに「品川駅創業記念碑」がある。 創業時のダイヤは、横浜発8時・品川着8時35分、品川発9時・横浜着9時35分、横浜発16時・品川着16時35分、品川発17時・横浜着17時35分の上下各2本であった。 運賃は大人・下等で50銭也 (現在の貨幣価値に換算すると5,000円ぐらいに相当するらしい)。 現在、品川~桜木町の運賃は388円、安くなったのか?

・・・・・・・・・・ 現在の品川駅は一日乗降客数(JR東・JR東海・京急の合計)が100万人を超えるマンモス駅である。 朝の通勤時は、海側(港南口)に建ち並ぶ超高層ビル群に通勤客が流れて行く。 高輪口に向かう通勤客は1割ぐらいかな。



● 毛利家により移転させられた・・・・・・・ 京急品川駅の向かい(品川プリンスホテル前)に高山稲荷神社がある。 神社は室町時代頃の創建といわれ、当時は現在の品川プリンスホテルの地に小高い丘陵があり、その頂に高山稲荷神社があったそうだ。 神社までは二百数十段の階段を上ることから、“高山”稲荷神社と称されたらしい、、、、、明治時代に入り、毛利公爵が当地に邸宅を構えることになり、毛利家より替地の寄進があり、神社は現在地へ移転することとなった。 毛利家跡地には、昭和53年(1978)に品川プリンスホテルが開業した。、、、、、、現在の高山稲荷神社は、第一京浜に面した小さな境内に祀られている。 行き交う人は多いが、手を合わせる人は少ないかも?



● かつてホテル、今は?・・・・・・・・・・品川プリンスホテルの裏側(西側)に回り込むように、第一京浜から西に折れた高輪4丁目の坂の中程に、昭和2年(1927)頃に建てられた、旧ホテル品川の建物がある。 昭和62年(1987)に休館するまではホテルとして営業していたが、現在は会社の寮か? 個人の所有か?、、、、、何やら、ホテル時代の思い出物語がドラマとなりそうな建物だ!



● 島津山は高級マンションが並ぶ・・・・・・・・ 現:清泉女子大本館は旧島津公爵邸(島津山)の洋館である。 この洋館は旧岩崎邸を手掛けたジョサイア・コンドルの設計である。 島津公爵邸も名建築と聞いているが、なにせ“女子大”だ。 手続きを踏んで行かないと、チョックラ見学に来ましたとはいかないので、まだ見たことがない建物の一つである。、、、、、島津山周辺は起伏の多い地で、「島津山」、「Shimaduyama」の名を冠した高級マンションが並んでいる。 外交官向けのマンションもあるようだ。、、、、今日は“女子大の”北東側の裏道・路地を怪しまれながら歩いてきた。
・・・・・・・・・・ 港区高輪4丁目の裏道、、、、、、清泉女子大の方向に上り坂を行く



・・・・・・・・・・ これより品川区北品川6丁目に属す坂を下る。、、、、、下ると、かつて谷底であったと思われる「北品川6」と「東五反田3」の境界となる裏道に出た。




・・・・・・・・・・ 引き続き、品川区東五反田3丁目の階段坂を上る。 坂の上は、清泉女子大の北側に位置する裏道である。 その先には、再び階段坂があり、下ることになる。、、、、、今日もアップ・ダウンが激しい散歩となった。



・・・・・・・・・・ 上記の道に北側で並行するもう一本の裏道、、、、、こちらは、坂が多く、曲がりも多く、路地も多く、安アパートの多い、高級住宅街の異次元空間である。







● 伊豆長八の鏝絵があった神社・・・・・・・島津山を回り桜田通り(国道1号)に出た。 出た処は、品川区東五反田3丁目、桜田通りに面し袖ヶ崎神社がある。、、、、、平安時代、保延3年(1137)に、伏見稲荷大明神を勧請したと伝えられている。 神社は、何度かの火災で社殿を焼いているが、延享2年(1745)の火災では、仙台藩伊達家が新社殿を寄進した。 また細川豊前守が、金箔塗りの神狐1対を奉納したとの記録もある。 幕末の嘉永2年(1849)に建築された土蔵造りの社殿には、名工伊豆長八の描いた「八岐の大蛇」の鏝絵があったが、戦災で消失した。、、、、現神社は桜田通りの拡張で境内が整備された。、、、、、長八の鏝絵はあきらめて、アイドルの写真を飾ったら、若者の参拝が増えるかも、試してみては?



● 池田山の麓・・・・・・ 桜田通りを横断し、東五反田4丁目から、再び、裏道を歩く。 港区白金台2丁目に入った。、、、、、この辺りは、池田山公園の北東になる。 裏道には一般住宅・アパートが並んでいる。 洗濯ものも見える、私には親しみやすい雰囲気の町だ。



● 白金の屠殺場・・・・・・・・港区白金台3丁目に、「元禄今里地蔵」と彫られた碑のお堂がある。 堂の中には、小さな地蔵様:「今里地蔵尊」が祀られてる。 元禄に建立されたようだ。、、、、、「今里」はこの辺りの旧地名である。 この辺りの地名は、現在のカッコいい「白金台」の前は「芝白金今里町」、さらに昔は「今里村」であった。、、、、、明治時代には、牛肉を食べる文化が入り、時の政府がココ「今里」に屠殺場をつくった。 そして、町の肉屋は競って、ココの屠殺場から肉を仕入れるようになったのである。 現在、老舗の肉屋「今半」など、店名に「今」の字がつくのは、ココ「今里」との繋がりを示しているのだ。、、、、、なお屠殺場の痕跡は、現在は、何も残っていない


● 戦後まで残っていた用水路・・・・・・・・・・・今里地蔵から150m程北に歩くと、港区立白金台幼稚園がある。 その脇に三田用水の遺構が残されている。、、、、、、「三田用水」とは、玉川上水を現在の下北沢で分水し、渋谷・三田・目黒・大崎・高輪付近まで給水する上水路である。 三田用水は昭和49年(1974)まで利用されていた。
・・・・・・・・・・ 用水路の断面(U字型)がそのまま残された遺構が階段の脇にある。 この辺りは標高が低く、築堤で用水を流した。

・・・・・・・・・・ 白金台幼稚園の前には用水路上に架かっていた橋の遺構と思われるコンクリート構造物がある

● 共同使用の白金台駅・・・・・・・・ 東京地下鉄(東京メトロ)南北線と都交通局(都営地下鉄)三田線の共同使用駅である。 平成12年(2000)9月26日に開業した。、、、、シロガネーゼの町であり、その先入感が強いのか、電車を待つ女性が美人に見えた! ただし、一部例外もアリ!


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