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2018年10月

2018年10月31日 (水)

取り壊される中野駅前住宅

「ポスナーシュロスマン症候群」と云う、聞きなれない眼病を20年程前に患った。 この病気は、発作的な目の炎症により、眼圧が高度に上昇する病気で、ほっておくと緑内障になるそうだ。 以来、年に一回の眼科の定期検診を受けている。 今日は、朝から中野の東京警察病院に行ってきた。 眼底・眼圧・視野・細隙燈顕微鏡・視力・眼底三次元画像解析と、盛りだくさんの検査を受け、担当のドクターの診察を受けてきた。 ドクターは若い女医さんから中年の男性医師に変わり、チョッピリ淋しい。 折角病院に来たのだから手土産として、一部に炎症があるので点眼薬を1ヵ月分処方してくれ、『ひと月後にまたお会いしましょう』、、、、、、と、云うことで午前の散歩時間の大半は病院で費やしてしまった。
 
帰りに、中野駅南口前の「中野駅前住宅」を訪ねてきた。
 
 
 
●シンボルが無くなる・・・・・・・・・・中野駅の北側・南側とも再開発の話がいつまでも続いている。 北側の中野警察学校の跡地 の再開発は終わり、今度は、駅北口前の中野サンプラザ、中野区役所のある一画の再開発かも。 今年、中野区長は区のシンボルである中野サンプラザの解体について『2024年度前後』と表明した。 跡地には「一万人アリーナ」を建設するそうだ。、、、、、高齢化の進む時代、私が区長なら「一万人大銭湯」を提案するね、区民に喜ばれると思うよ。
 
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●駅南側も再開発・・・・・・・・・・中野駅の南側では、駅前のマルイの西側で計画されている中野駅西口地区の再開発と、南口前の駅前ロータリー中野駅前住宅を含む中野駅南口地区の再開発がある。 
 
・・・・・・・・・・・・中野駅南口は、北口と比べると大きな施設もなく、商店街・飲食街とも規模も小さく、元気がない。 再開発では、ロータリーの再整備が計画されている。
 
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●ホームから見える団地・・・・・・・・・・中野駅の南側(中野区中野2)に、昭和26~27年(1951~1952)に建てられた鉄筋コンクリート造4階建ての賃貸住宅:東京都住宅供給公社中野駅前住宅がある。 建設時には、敷地面積約10,200㎡に鉄筋コンクリート造4階建て7棟248戸の規模であった。 現在は、一部取り壊され規模も縮小された。、、、、、中野駅ホームからも、古色蒼然とした年季の入った団地が目の前に見える。、、、、、、完成時には、戦後の復興を象徴するモダンな集合住宅として注目を集めたらしい。 6畳と4畳半のタタミの部屋に小さな台所とトイレ、玄関にベランダと備わっていたが、風呂は無かった。 その後、ベランダ側に風呂場が増築された。、、、、既に築後70年近くなり、取り壊しが進められている。 7棟あった建物も、5号棟はすでに取り壊され、また入居者のいない階段は合板で封鎖されている。 現在は、もちろん入居者募集は行っていない。
 
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2018年10月29日 (月)

下町探検に、東向島・墨田

京成押上線の京成曳舟駅から、東向島・墨田の裏道・路地を探訪して、東武伊勢崎線鐘ヶ淵駅まで、9千歩の散歩です。
 
 
 
●乗降客が増えた駅・・・・・・・・平成相対式ホーム2面2線の高架駅。 平成27年(2015)8月22日に下り線が高架化され、上下線が高架となった。 3階がホーム、2階が改札となっている。 、、、、、一日の乗降客は10年前と比べると1,000人以上増え、19,000人程である。 駅が綺麗になって客が増えたとは思えない、タワーマンションの効果?
 
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・・・・・・・・・・・京成曳舟駅は、かつて狭いホームに簡単な造りの下町の地上駅。 改札はホーム両端に上下線別に設けられ、計4箇所あった。、、、、駅舎の駅名は「京成曳舟」で、ホームの駅名は“京成”を省略し「曳舟」であった。 高架後の現在は、「京成曳舟」に統一された。、、、、、写真は平成18年(2006)と翌年に撮影。
 
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●名所は避けて・・・・・・・・・「向島」と言えば、料亭と芸妓、名勝:百花園、東武博物館、チョイト古くは私娼街:玉の井と鳩の街、、、、、、今日の散歩はこれらを避けて、東向島2丁目・4丁目と墨田1丁目・2丁目の裏道・路地を歩いてきた。
 
・・・・・・・・・・・・・まずは京成曳舟駅の北側、表通りから東向島2丁目に入り、裏道を歩く。 細い道だが、どこの家もチャント玄関がある。 電柱を建てるのも大変だったかも?
 
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・・・・・・・・・・・・・明治通りに出た。 目の前には5+2軒長屋(元は5+5軒長屋?)らしき建物が見える。、、、、、そろそろ、取り壊されるかも?
 
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・・・・・・・・・・・・・・東武伊勢崎線のガードを抜ける。 ちょうど、特急スペーシアが来た! 今日はツイている、何となく嬉しいね。
 
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・・・・・・・・・・・・・・東向島4丁目に入ると、煉瓦塀の大きな駐車場がある。 美しく積まれ、しっかりと残っている煉瓦塀で、これはきっと工場の跡地かも、調べてみたが不明?、、、、、今度来たときは、マンションが建っているかも? 煉瓦塀は残して欲しい!
 
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・・・・・・・・・・・・・・これより、裏道・路地に挑戦する。、、、、、下町のジャングルを奥へ、奥へと進む、行き止まりだったらどうしよう。 泥棒と間違えられたらどうしよう。 ワクワク、ドキドキ感は、まさに探検である。、、、、、徐々に道は細くなる。 薄汚れた町会の掲示板がある。 しかし最後は、白鬚橋と玉ノ井商店街を結ぶ大正通りに出た、ホットした!
 
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・・・・・・・・・・・・・・区営墨田1丁目アパートの北から墨田2丁目に入る。
 
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・・・・・・・・・・・・・・墨田2丁目の裏道はどこも軽自動車1台がヤットのようだ。 ヨーロッパの裏道と同じで、洗濯物がやたらと目につくね!
 
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●壊さないで!・・・・・・・・・・墨田2丁目に自動車用タイヤの再生工場がある。 この工場の脇に事務所と思われる木造モルタル仕上げの建物があり、昭和初期頃の建築と思われる? 1階の窓は建築時のままか、建物四隅にはレリーフを見ることもできる。 全体的に劣化しているので、できれば補修を期待したい。
 
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・・・・・・・・・・・・・もう一件、こちらは煉瓦造の蔵。 建物の状態はいいようだ。 年代不詳?
 
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●一生忘れられない踏切・・・・・・・・・・・鐘ヶ淵駅は、私の脱臼事件 の現場。 あの時の痛みは忘れることができない。 今日も、踏切を見て当時を思い出し、交番を見てお巡りさんに頭を下げてきた。、、、、、教訓:踏切は、女性に、カメラに、夢中にならず、慌てずに余裕をもって横断しよう。
 
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2018年10月28日 (日)

菊の御紋は奉免町

三日前の散歩にて、迎米庚申塚で地元の方に聞いた話では、『武蔵野線沿いに「奉免町」という、昔年貢を免じられた町があり、そこには日蓮宗最初の尼寺がある。 行ってみるといいですよ!』とのこと。 “尼寺”につられ、今日の散歩は奉免町の町歩きとした。 JR本八幡駅からバスで往復し、9千歩の散歩。

 
 
 
●奉免町なんて知らん御免・・・・・・・・・奉免町(ほうめんまち)は市川市北部に位置する、人口1,550人程の町。 畑も残されている住宅地。
 
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●地名の由来は・・・・・・・・・昔、昔のその昔、鎌倉時代のことである。 東京湾の海岸線は、今の総武線よりも、もっと内陸に入り込んでいた。 そこに、美しい着物を着た二人の女性が流れ着いた。 一人は若い娘、もう一人は乳母の女性。 (私の想像では、二十歳ぐらいの色白の娘と、三十歳過ぎの年増の美女) 若い娘は薄い布で顔を隠していたが、その美しい黒髪から身分の高い女性だと、人々は思ったそうだ。 その後、二人はこの地に住み着いたが、村人は気になる(不審な)美女なので、役人に知らせた。 そこで、鎌倉幕府の役人が調べてみたところ、ビックリ、シャックリ止まらない。 その娘は、ナント、後深草天皇の皇女常盤井宮(ときわいのみや)内親王であった。 常盤井姫は難病を患い、美しい顔にひどいできものができてしまい、それを苦に、京の都の宮中から乳母と共にひっそりと姿を消したのだ。 そして小舟に乗り、流れ、流され、下総のこの地に着いたのである。 幕府の役人は村人に、常盤井姫を援助するよう命じ、その代わりに年貢の奉納を免除した。 つまり、村は「奉免」されたのである。、、、、、こののち常盤井姫は若宮の中山法華経寺奥の院にて日蓮の説教に接した。 日蓮は姫に病気治癒の妙符を渡し、その霊験は高く、常盤井姫の病は日毎に良くなり、元の美しい姿に戻った。 その後、常盤井姫は仏の加護を感謝し、美しい黒髪を剃り、日国と名乗り、奉免の地に寺を建てた、これが日蓮宗で最初の尼寺、奉免山安楽寺である。 皇室ゆかりの寺として、安楽寺の寺紋は菊の御紋である。、、、、、以上、常盤井姫伝説である。
 
 
●アレ? 団地がない!・・・・・・・・・我が家から奉免町へ行くには、JR総武線本八幡駅で下車し、町の北側京成バス「姫宮団地入口」バス停で降りた。 バス停の“姫宮”は常盤井姫のことと推察し、団地が見たくバスを降りた若い主婦に『姫宮団地ってどの建物ですか?』と聞くが、『そんな団地はありませんよ、バス停前はパークハイツで、後ろはグリーンハイツです』と、つれない返事。 幻の“姫宮団地”か?
 
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・・・・・・・・・・・・・・どうやら、姫宮団地というものはないようだ、たぶんこの高層集合住宅群を総称して、バス会社の誰かさんが「姫宮団地」と命名したのだろう。 勝手に、自分に言い聞かせた。、、、、大柏川を渡り、奉免町に入る。 武蔵野線が見える! 芋堀り遠足に来たようだ。 “姫宮団地”(?)からだいぶ遠ざかったな。
 
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・・・・・・・・・・・・奉免町の北端、武蔵野線沿いに住宅が並んでいる。 その中に「都美人 ひめみや食堂」の文字が見える。 アレ!、また幻の“姫宮”か? しかも“都美人”だって!
 
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・・・・・・・・・・・・・・食堂の前まで行くと、玄関先に「ひめみや団地自治会」の札が下げられていた。
 
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・・・・・・・・・・・・・・集合住宅が並ぶ団地をイメージした私が馬鹿だった。 姫宮団地は、バス停からチョイト離れた、安楽寺近くの戸建て住宅の団地だった。、、、、建ち並ぶ家を見ると、昭和50年前後に分譲された団地のように見える。
 
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●キツイ、ツライ、70段・・・・・・・・・・・ひめみや団地の脇、小高い丘の上に安楽寺の鎮守社であったと思われる「神明社」がある。 約70段ほどの急な参道階段は、年寄りにはキツイ! 祭神は天照皇大神だが、由緒は不詳。
 
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・・・・・・・・・・・・・社殿裏から眺めると、眼下に「ひめみや団地」の住宅が見える。 身体を反転すると、遠く本八幡駅前のタワーマンションも見える。
 
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●菊の御紋が目に入らぬか、頭が高い!・・・・・・・・・・・静かな住宅地の中にある、奉免山安楽寺は常盤井姫ゆかりの日蓮宗最初の尼寺。 小さなかわいらしい本堂がなんとなく尼寺らしい雰囲気を匂わせる。、、、、、姫の姿を追って、キョロキョロ、境内を見渡すが誰も見えず。
 
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・・・・・・・・・・・・・・本堂正面のガラス戸には、花びら16枚の菊の御紋が見える。 本堂天井にも菊の御紋が!、、、、、“菊の御紋”使っていいのかな?
 
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●観光ガイドはいません!・・・・・・・・安楽寺、神明社を見たので、もう少し奉免町の名所巡りをしてみよう。
 
・・・・・・・・・・・・・まずは、地域のコミュニティーを大切に、皆さんが集う「奉免公民館」。 玄関を入ると、スグに大宴会場。
 
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・・・・・・・・・・・・・・公民館の脇には、奉免町のスカイツリー、KDDIの鉄塔が立っている。 展望台はないようだ!
 
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・・・・・・・・・・・・・こちらは、奉免町のベッドタウン「市営奉免団地」  昭和55年(1980)に建てられた、3DK、5棟(100戸)の市営団地。 家賃お安くしてます。
 
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・・・・・・・・・・・・・奉免町の中央を縦断する、高速道並みに信号機のない、町の幹線道路。 飛び出しに要注意!
 
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●お帰りはコチラ・・・・・・・・・再び大柏川を渡り「市川東高校入口」バス停に出る。、、、本日の散歩では、残念ながら尼僧に会うことはなかった。 
 
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2018年10月26日 (金)

鴨が泳ぐ小松川境川親水公園

都営新宿線船堀駅から総武線新小岩駅まで、1万2千歩の散歩です。
 
 
 
●盗撮犯は御免だ・・・・・・・・・東日本橋(都営新宿線に乗換)で乗った京王線の車両は、昨年のグッドデザイン賞を受賞した5000系。 初めて5000系に乗車した、外観もカッコイイが、クロスシートとロングシートに転換できる内部も見ごたえがある。 初めて電車に乗った田舎者のごとく、キョロキョロ、ジロジロ、周りの通勤通学客に怪しい者に思われたかも(?) 写真を撮りたかったが、車内でカメラを出すと、完全に盗撮犯と思われる。 ここは、船堀駅到着までジッと我慢する。 下車するやいなやホームで慌ててカメラを取り出し、5000系の後ろ姿をパチリ! 『アァ~~ もう少し手前で大きく撮りたかった、残念!』
 
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・・・・・・・・・・・・・・船堀駅は昭和58年(1983)に開業した、相対式ホーム2面2線の高架駅。
 
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●まだ決まってないのか?・・・・・・・・・・・船堀駅前に江戸川区営の複合施設「タワーホール船堀」がある。 その、裏(北側)に建ち並ぶ「都営船堀四丁目アパート」(昭和42年から建てられた全7棟)の取り壊しが始まっている。、、、、、この跡地は約11,000㎡あり、かなり広い。 ここで、この跡地に目を付けたのが、区役所庁舎の移転整備を検討していた江戸川区だ! 船堀駅に近い一等地で、東西に長い同区の中央に位置し、所有者は東京都、コリャほっとけない、申し分のない庁舎移転候補地である。 都と交渉が進められているとか? (他言無用の噂話!)
 
・・・・・・・・・・・・アパートの脇から「タワーホール船堀」の展望塔が見える
 
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・・・・・・・・・・・・・取り壊しが始まった! いつ、跡地に区役所庁舎が建つのか?
 
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●おひまなら来てよね!・・・・・・・・・・船堀駅から北へ約1.0km、中川沿いに、昭和30年(1955)に開場した江戸川競艇場。 名称は“江戸川”競艇場だが、レースは中川で行われている。、、、、、まだ午前8時半、本日は江戸川でレースは無く、“芦屋”と“からつ”の地方開催日である。 それでも多くのひまそうなファンが既にギャンブルモードで舟券を買いに来ている。 私は、ひまそうなファンを見に来た、もっとひまそうな人間。
 
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●寺町の寺・・・・・・・・・・・競艇場の北、東小松川には寺院が点在する。 その内のいくつかに立ち寄ってきた。 真言宗豊山派の二寺を紹介する。
 
・・・・・・・・・・・・・まずは、真言宗豊山派寺院の善照寺。 医王山薬王院と号す。 善照寺は、隆範上人(大永2年1522年寂)が開山となり創建したといわれている。、、、、、元禄12年(1699)に横綱明石志賀之助が引退相撲を境内で行い、以来「相撲寺」と称されているらしい。 また、明治9年(1877)に江戸川区内最初の公立小学校“葛西小学校”が境内に開校した寺でもある。、、、、堂々と構える本堂の横に不動堂がある。
 
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・・・・・・・・・・・・・お次は、真言宗豊山派で無量山光明院永福寺。 本尊は行基作と伝えられる木造阿弥陀如来坐像。 開基年代は不詳だが、開山の宥賢上人は永禄11年(1568)に入寂した。 当初、長福寺と称していたが、九代将軍家重の幼名長福丸をはばかって永福寺に改称した。、、、、、参道は綺麗に手入れされ、緑豊かに、参詣客を迎えてくれる。
 
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●COME ON! 鴨・・・・・・・・・・・・江戸川区を流れる小松川境川を暗渠化し、その上に親水公園が造られた。 それが小松川境川親水公園(昭和60年開園)である。 今日の散歩では、この公園の一部を歩いてきた。、、、、、親水公園にはゴミが無い、水は濁っていない、水面にはビニール袋・空き缶が浮いていない、歩道に犬猫の糞がない、落ち葉もない。 『Beautiful!Wonderful! Heartful!』  江戸川区には“公園ボランティア”と称する個人・団体の住民がいるそうだ。 この人たちが、全員で美化に努め、気持ちよく利用できる公園に努めているそうだ、感謝!、、、、水が綺麗なので、カモが泳いでる。 「COME ON!」と呼べど、無視された。
 
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●無料だ!・・・・・・・・・・江戸川区役所の近くに、江戸川区民センター「グリーンパレス」がある。 ここの3階に「江戸川区郷土資料室」と称した区の歩みを伝える展示室があった。 チョイト拝見。、、、、、懐かしい道具、電気製品、図書、写真などが展示され、30分程で見られる施設。
 
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●通り抜けできる・・・・・・・これまで、新小岩駅は高架下にコンコースがあり、駅の南北それぞれに改札口があった。 現在、高架下に南北を結ぶ自由通路を整備し、北口・南口改札の統合及び駅施設の集約を行う工事が進められている。、、、、自由通路はできたようだ。 改札も1か所に統合された。 残るは既存の駅施設の解体整備というところ。 
 
・・・・・・・・・・・・・南口の券売機が取り外されている。
 
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・・・・・・・・・・・・・自由通路は出来上がり、南北に通り抜けできる
 
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・・・・・・・・・・・・・自由通路から入る高架下の改札口、、、、、私もここから帰宅
 
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2018年10月25日 (木)

貝の見えない曽谷貝塚

今朝のお天気お姉さんの一言、『秋晴れの爽やかな一日です』を聞いて、江戸川沿いに散歩することにした。 地下鉄浅草橋駅では、タイミングよく、アクセス特急成田空港行に乗車できた。 車中で、『矢切駅で下車し、松戸方面に歩くか? 市川方面に向かうか?』思案しているうちに、普通電車に乗り換えるのを忘れ、電車は高速で矢切駅を通過し東松戸駅まで行ってしまった。 『アリャ、コリャ、失敗、どうしよう?』 ここまで来たら、市川大野駅から本八幡方面に歩くことにした。、、、、、武蔵野線市川大野駅から総武線本八幡駅の手前「宮久保坂下」バス停まで、1万歩の散歩です。
 
 
 
●何ジャ、変ジャ、大変ジャ・・・・・・・・東松戸駅で北総線からJR武蔵野線に乗換え市川大野駅は隣駅、勝手知ったる乗換でJRのホームに向かう。 アレ、ホームに大勢の人。 なんか変だぞ、電車が遅れている、『しばらくお待ちください』 のアナウンスが聞こえる。 もう覚悟した、『今日の散歩は失敗かも?』
 
・・・・・・・・・・・・久しぶりに、ギュウギュウ詰めの電車に乗り、次の市川大野駅で下車。 ここも、ホームに大勢の乗客が並んでいる。、、、、、静かに並び電車を待つ姿はさすが日本人、割り込む人、騒ぎ立てる人はいない。
 
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・・・・・・・・・・・・・・市川大野駅には昭和53年(1978)10月2日に開業。 相対式ホーム2面2線の真ん中に中線を有する高架駅。
 
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●欲張って三祭神・・・・・・・・・・市川大野駅南側の小高い処に、迎米(むかいごめ)集落(現:大野町2)の鎮守さまが竹林に囲まれ祀られている。 迎米三社宮と称する神社で、奈良の春日大社、愛知の熱田神宮、兵庫の野口神社、三社の御神体を祀っている。、、、、、ついでに、伊勢神宮、明治神宮も混ぜ、“五社宮”にしたら、御利益アップ!
 
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●村の集積場?・・・・・・・・・・市川大野駅から南西に500m程歩くと、小さな鳥居のある一郭があり、貞享4年(1687)、享保3年(1823)などの庚申塔、文化10年(1812)から昭和33年(1958)に至る17基程の馬頭観音、軍馬徴発記念碑などがある、迎米庚申塚である。、、、、、、“講”はなくなったのか? 残念だが、村の庚申塔・馬頭観音の集積場のようだ。
 
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●まだ、まだある庚申塔・・・・・・・・・・市川大野駅から南西の市川市曽谷に向かって歩く。、、、、、この辺り、道幅が狭く、歩道のない道路も多く、わき見歩きは危険だ!
 
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・・・・・・・・・・・・・花屋の一角に祀られている大野新田の庚申塔(市川市大野1丁目)。 こちらの3基は、いずれも「帝釈天」と彫られている。  左から、慶応4年(1868)、天明8年(1788)、天保9年(1838)。、、、、、この辺の人は柴又の草だんごが好きだったのか?
 
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・・・・・・・・・・・・・さらに、400m程歩くと木戸口庚申塔(市川市下貝塚2丁目)がある。 庚申塔は、左から文政11年(1828)、享保17年(1732)、享保5年(1720)。 300年も前に建立されたものだが、彫りも深く、スバラシイ!
 
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●20人が埋葬された! 殺人事件か?・・・・・・・・・・・・表通りから裏道を歩き曽谷貝塚(そやかいづか、市川市曽谷二丁目)に出た。 縄文時代中期末から後期末にかけての貝塚で、後期末の土器型式曾谷式の標式遺跡(時代を特定する基準となるような遺跡)。、、、、遺跡からは20体の埋葬人骨が出てきたそうだ。 生き埋めなら殺人事件だ!、、、、、その貝塚は芝生の下に埋め戻され、芝の上ではお年寄りが、ゲートボールで体力作り。 貝塚の貝は芝の下。 
 
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●競馬をやっていた神社・・・・・・・・・・・・・曽谷貝塚の南側に、曽谷の春日神社がある。 祭神は天兒屋根命(あめのこやねのみこと)で、寛文11年(1671)に大改築され、元禄時代の検地帳に記載されている古社。、、、、昔は、各家で馬を持っていたので、正月2日に春日神社の前で馬の駆け足競走が行われていたそうだ。 馬券も売っていたのか、気になるね!
 
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●ここは曽谷城址?・・・・・・・・・・市川市の北部、曽谷台地の上に、鬼子母神堂と妙見堂などの堂宇のある日蓮宗の大きな寺院:長谷山安国寺がある。 文応元年(1260)、曽谷の領主、曽谷教信が日蓮上人に帰依して、立正安国に因んで館の傍らに安国寺を建てた。 文応元年(=鎌倉時代)には、頼朝に従って活躍した千葉常胤の千葉六党の5男、胤通が市川を領して、「国分氏」を名乗っていることからして、その一族では無かろうかと思う。 安国寺は千葉氏の繁栄を願う寺とも言われている。 また、曽谷教信が霊夢を見たことで勧請したと伝えられている千葉寺の妙見菩薩像と同木の端っこで彫られた妙見菩薩像を安置している、由緒ある日蓮宗の寺院。、、、、、、安国寺の地は、鎌倉時代の曽谷城址と言われている。 また、安国寺の近くには、別に、戦国期の曽谷城跡もあるそうだ。
 
・・・・・・・・・・・・・・写真は、山門、本堂、鬼子母神堂、妙見堂
 
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●裏道から脱出・・・・・・・・・・・・曽谷の裏道をテクテク歩くが、朝の武蔵野線の遅れが影響し、そろそろタイムアウト。 『どこかバスの走っている表通りに出よう!』、一生懸命歩きバス停を見つけた。 「宮久保坂下」である、ここからバスで本八幡駅に出て帰宅。
 
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2018年10月22日 (月)

練馬の南蔵院

一昨日、散歩(氷川台~豊島園)から帰り『雅万歩』を書いていたら、練馬駅近くに南蔵院と云う大きな寺があることを知った。 今日はこの寺を訪ねてみることにした、大江戸線練馬駅から西武新宿線鷺ノ宮駅まで、1万1千歩の散歩です。
 
 
 
●秋がきたかよ ステテコシャンシャン・・・・・・・・・大江戸線練馬駅で下車し、駅前の大鳥神社に朝の御挨拶をし、練馬区役所の裏を抜け、南蔵院のある練馬区中村1丁目へ向かう。、、、、、秋晴れの下、気分よろしく、スタコラ・スタコラ・ステテコ・シャンシャン
 
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●万能薬「白龍丸」の販売元・・・・・・・・・南蔵院は、真言宗豊山派のお寺で瑠璃光山医王寺と号し、良弁塚に納経をした良弁僧都が延文2年(1357)に中興したお寺です。 江戸時代には12石8斗の御朱印領を拝領していた。、、、、、お寺では 古くから万病に効く「白龍丸」を頒布し、明治10年頃に売薬法で禁止されるまで全国的に広まり、お寺の経済的基礎ともなったそうだ。 恋の病、金欠病、夫婦病に効くなら、私もぜひ試してみたかった! 
 
・・・・・・・・・・・・・・南蔵院通りに面する山門
 
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・・・・・・・・・・・・・・山門脇で慈母観音像のお出迎え。 アリガタヤ!
 
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・・・・・・・・・・・・文禄年中(1592~1596)火災にあい堂塔伽藍、諸記録をほとんど焼失した。 宝暦3年(1753)には寺内の設備を整え、現在の本堂も完成した。 御本尊の薬師如来は秘仏で、33年毎に御開帳されるそうだ。、、、、、明治9年(1876)には、本堂を利用して豊玉小学校が開設された。
 
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・・・・・・・・・・・・本堂の右には、同年に建てられた庫裏がある。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・本堂の左には、宝永4年(1707)に再建された薬師堂
 
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・・・・・・・・・・・・・・薬師堂の前には、宝暦3年(1753)に建立された閻魔堂がある。 チョイト、中を覗いてみた、、、照明のない薄暗い堂内に、剥げ落ちた閻魔大王がいた。 閻魔大王の後ろの壁には病気平癒祈願成就によって奉納された15cmほどの木彫の地蔵尊がズラリ千躰程並べてあると言われている。、、、、、『本当に千躰あるのか(?) ウソだろう。 閻魔の嘘つき!』 
 
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・・・・・・・・・・・・・江戸時代中期に建てられた鐘楼門。 三間一戸、入母屋造りで赤く塗られている。 門の左右には仁王像、上階には正徳5年(1715)銘の梵鐘がある。 
 
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・・・・・・・・・・・・・この他に、赤門長屋門がある。 また、なぜか北海道開拓時代の建物を思い出させる、木造の集会場
 
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・・・・・・・・・・・・・・昭和7年(1932)首のない地蔵様が中村の道端にあった。 近所の住人が地蔵の首を酒代の形に持っていたので、継ぎ合わせたところピッタリと合った。 この不思議な仏縁から、「首継地蔵尊」と呼ばれている。、、、、、バラバラ事件の被害者となった地蔵さま、首が繋がり一安心。、、、、、首継地蔵尊は昭和60年頃(1985)までは、中村の八幡神社に祀られていたが、その後南蔵院に移された。
 
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●大根のない畑・・・・・・・・・・南蔵院を後にして西へ歩く。 ここは“練馬”だ、畑の大根を探しながら歩く。、、、、、住宅地の中に小さな畑を見つけた。 期待はずれで、大根畑ではなかった。 しばらくすると、向かいを歩くお姉さんの足もとに“大根”を発見!(失礼)
 
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●バラバラ事件の現場?・・・・・・・・・中村南3丁目に八幡神社がある。 この神社は旧中村の産土神で江戸時代からの総鎮守。 祭神は応神天皇。 社殿は江戸時代のものと言われているが“?”。、、、、八幡神社の別当は南蔵院であった。 神社の地は、南蔵院の末寺・西光寺(現:廃寺)の旧地である。 首継地蔵尊は、南蔵院に移されるまで当社の一画に祀られていた。 ここで、首と胴体がバラされたのか? はたまた、ここで、首と胴体が継がれたのか? どちらにしても殺人事件である。
 
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●子連れ地蔵尊・・・・・・・中野区上鷺宮1丁目の中杉通り沿いに、北向きに建っている子連れの上鷺宮願かけ地蔵尊。 大きい舟型地蔵尊は、高さ約1.5m で正徳5年(1715)の銘がある。 小さい舟型地蔵尊は80cmほどの高さで、造立年は不明。、、、、、この2体の地蔵に祈願をする人は、白装束で夜中にお参りし、一心に祈願しながら子どもの地蔵を倒すのだ。 そうすると親の地蔵は子どもを起こして貰いたいため、願い事を聞き届けてくれる。 願い事が叶ったら、祈願した人は、自分が倒した地蔵を起こしに行くのだそうだ。、、、、、このような風変わりで、面白い信仰は、人家もまばらだった昭和30年頃(1955)まで続いたそうだ。 今の時代、こんなことしたら、付近の防犯カメラに撮られ、器物損壊で捕まり、ニュースに出演し、恥ずかしい思いをするだけ。
 
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●閻魔と地蔵がコラボして天罰・・・・・・・・・・新青梅街道を渡り、西武新宿線鷺ノ宮駅 まで歩き帰ることにした。 歩きながら頭上に違和感を感じ、右手が頭を撫でる。 『アレ? 帽子がない! お気に入りのハンチングがない!』 カバンの中、ポケットを探すが、何処にも無い。 『ガァ~~ン! 南蔵院か、八幡神社か、置き忘れたようだ』 どうやら、今日は閻魔大王、首継地蔵尊に悪態をつき、天罰が当たった。 『あきらめきれずに あきらめた 去らば高価な ハンチング』、、、、、電車に乗っても、ハンチングのことが忘れられず、寂しく帰宅。
 
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2018年10月20日 (土)

練馬の氷川神社

地図を見ていたら、練馬区桜台6丁目に「氷川神社発祥之地」を発見。 『あれ、大宮の氷川神社はここが発祥地?』、疑問と興味が湧く。 さらに地図を見ると最寄りの駅は地下鉄有楽町線の『氷川台』。 氷川台駅の北には『氷川神社』がある。、、、、、今日の散歩は、この地を訪れることにした。 氷川台駅から、氷川神社・氷川神社発祥之地を巡り、都営大江戸線豊島園駅まで、1万歩の散歩です。
 
 
 
●ネリカンの駅・・・・・・・・・・東京メトロ有楽町線・副都心線の氷川台駅 は、昭和58年(1983)6月24日に開業した。 ホームは相対式2面2線で地下3階にある。、、、、、駅名の氷川台、駅所在地の地名:練馬区氷川台の“氷川”は、近くの氷川神社に由来する。、、、、、藤圭子も歌った「ネリカン・ブルース」の舞台:東京練馬少年鑑別所もこの近く。
 
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●町(小)は嫌よ、台(大)にして!・・・・・・・・・・地名「氷川台」は、氷川神社のある高台の意。、、、、、明治・大正時代は下練馬村と称していた。 昭和7年(1932)には板橋区練馬仲町となり、昭和22年(1947)板橋区から分離し練馬区に所属。 昭和40年(1965)に、新住居表示にて「氷川台」とした。 この時「氷川町」にする予定だったが、同名の地名が板橋区にあるため、“台”を付けたそうだ。
 
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●村の鎮守の神さま・・・・・・・・・・町名の由来となった氷川神社(通称「大氷川」)、古くからの下練馬村の鎮守。 長禄元年(1457)渋川氏が足利氏との戦いの途上、武運長久を祈って建てたと伝えられている。 社伝によると、もとの神社は石神井川付近の、泉が湧きでていた「お浜井戸」のところにあったが、江戸時代の延享年間(1744~1748)に現在地に遷座した。
 
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●商圏は埼玉・東京・・・・・・・・・・全国の“氷川神社”は、さいたま市大宮区の総本社:氷川神社より勧請を受けている。 祭神は須佐之男命。 全国で250社程度存在するが、うち約230社は埼玉県(160)と東京都(70)に分布する、ローカル色豊かな神社系列である。、、、、、ちなみに、練馬区内では、豊玉氷川神社、大松氷川神社、谷原氷川神社、石神井台氷川神社、大泉氷川神社などもある。、、、、、『七五三はぜひ氷川神社で! 先着10組のお父さんには、巫女さんとのツーショット写真をプレゼント』な~んて、あるかも?
 
 
●臭わない、ゴミがない・・・・・・・・・・氷川台の氷川神社から、四宮宿橋(よんのみやじゅくはし)で石神井川を越え桜台6丁目に入る。、、、、石神井川の水質は生活用水が流れ込んでいないらしく、綺麗で、臭わない、ゴミも浮いていない、川底が見える、水草も見える、魚が住めるようだ。 深い川底に下りて、水辺に近づけるといいね!、、、、、ところで、橋名の「四宮宿」とは? (気になるので調べてみたが、“?”)
 
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●発祥地は草茫々・・・・・・・・・・四宮宿橋を渡り桜台6丁目の一画に、小公園ほどの空き地がある。 鎖で閉じられた敷地には、白砂利が敷かれているが雑草に覆われている。 その中に「氷川神社発祥之地」と標された石碑と、井戸のように組まれた石がある。 この地が、先に訪れた氷川台の氷川神社発祥地で、井戸のような石組みが「お浜井戸」であろう。、、、、現在の氷川台氷川神社のご神体が石神井川を流れてきたのを、拾って祭った最初の地とされている。 その後、ご神体は氷川神社の地に遷座した。 このため、春の祭りには「お里帰り」と呼ばれる神事が行われているそうだ。、、、、つまり、この地は“全国的な氷川神社発祥の地”にあらず、超ローカルな“氷川台の氷川神社の発祥地”であった。
 
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●駅名から地名に・・・・・・・・・・「桜台」の町は、南に西武池袋線、北に石神井川で挟まれた、ほぼ1km四方の町である。、、、、、、昭和11年(1936)、池袋線の駅が造られたとき、石神井川南岸の台地に高稲荷神社があり、桜の名所として有名であった。 そこで、駅名は「桜台」と創作し、命名した。 昭和37年(1962)からの住居表示では、桜台駅の北側一帯(以前は「練馬南町」)に駅名を利用し桜台1丁目~6丁目とした。
 
・・・・・・・・・・・・・・高台に鎮座する高稲荷神社。 現社殿は昭和55年(1980)に新築。
 
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・・・・・・・・・・・・・・高稲荷神社下の公園に祀られている庚申塔。 元禄2年(1689)造立。
 
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・・・・・・・・・・・・・・桜台6丁目の町は、坂の多い閑静な住宅街、そんな町の中に小さな都営住宅が点在する。 超豪邸と言える住宅はないようだ。
 
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●拝観謝絶・・・・・・・・・桜台6丁目の西端に臨済宗大徳寺派の円満山広徳禅寺がある。、、、、、広徳寺は、箱根湯本早雲寺の子院として、元亀、天正の頃(1570~92)小田原に建立された。 天正18年(1590)徳川家康に招かれ神田昌平橋に広徳寺と称して建立、寛永12年(1635)下谷へ移転。 江戸時代には『びっくり下谷の広徳寺 おそれ入谷の鬼子母神』と言われ隆盛し、塔頭15院を擁していた。 明治になり寺は衰退し、関東大震災後の区画整理で、現在地へ徐々に移転し、昭和53年(1978)に移転を完了した。、、、、、現在の20,000坪の敷地は、東京の寺では第2位。 ちなみに、規模ではトップの浅草寺が約30,000坪、3位の芝増上寺は16,000坪。、、、、、、参道を奥へ、山門には『拝観謝絶』の四文字が見える。 修業が足りない私はここまで、剃髪して出直さなければ入れないね!
 
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●お隣の禅寺を拝見・・・・・・・・・・オヤ、広徳禅寺の敷地内に隣接して塔頭の桂徳禅院がある。 慶長7年(1602)滝川壱岐守正利が建立した広徳寺塔頭の一つ。 大正12年(1923)震災で焼失後、当地へ移転し、昭和30年(1955)現在地に完成しました。 禅の修行場で墓地はない。 こじんまりした寺であるが、手入れの行き届いた庭が美しい。 こちらはチョイト拝見。
 
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●チョイト秋色・・・・・・・・・・・・・練馬総合運動場横の石神井川沿いを歩き豊島園に向かう。
 
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●遊園地に来たのは何十年前・・・・・・・・・豊島園駅に到着。 平成3年(1991)12月10日、都営地下鉄12号線(後の大江戸線)の駅が開業。 島式ホーム1面2線を有する地下駅。 、、、、何十年前になるか(?)ウォーターシュートがあった頃、来た覚えがある豊島園遊園地。 入園する機会は無くなったようだ!
 
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2018年10月17日 (水)

夕日を撮りに

朝からスカットしない天気、『本日は散歩なし』と宣言したが宵に近づくとムズムズ。 午後3時、お茶の時間に『チョックラ、夕飯まで散歩してくる』と妻に言い残し、夕日に走る電車を撮りに青砥駅に降り立った。 お隣の高砂駅までミニ散歩。
 
 
 
●青砥と青戸・・・・・・・・・・青砥駅は、昭和3年(1928)11月1日に追加開業した駅で、当時の京成の始発駅はまだ押上で、その後京成本線となった日暮里~青砥間が開業したのは昭和6年(1931)12月19日のことである。、、、、昭和61年(1986)に立体交差化工事が完了し、現在の3階建ての高架駅となる。 ホームは2階(押上・上野方面)、3階(高砂方面)に、それぞれ島式ホーム1面2線を有する。 3階ホームからは中川に架かる青砥橋などを眺めることができる。
 
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・・・・・・・・・・・・青砥駅の所在地は葛飾区青戸である。 駅名は「青砥」、地名は「青戸」、はて?、この違いは?、、、、、①本来は“青砥”であったが、住居表示で“砥”の字が難しいので“戸”にした。 ②本来は“青戸”であるが、駅名を付ける時、京成の職員が間違えて“砥”と書いてしまった。  正解は、駅名は「青砥左衛門尉藤綱」、地名は「青戸二郎重茂」という別々の名が由来になっている。 両者ともに鎌倉時代の武将である。 “青砥”君は、承久の乱の功により上総国青砥の地を賜り名字としたと言われているが、“青砥”の地は実在しない。(横浜にあるそうだ) “青戸”君は、この地を本拠として活躍した武将で、かつては青戸城もあった。、、、、つまり駅名、地名も、この地に関わる武士の名から名付けられた。 紛らわしいから、どちらかに統一して欲しい!
 
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・・・・・・・・・・・・・・青砥駅前に「ワルツの塔」というのがある。 ワルツ王と呼ばれるJ.シュトラウスを模した像である。 葛飾区とウィーン市フロリズドルフ区が姉妹都市となり、それにちなんで設置されたそうだ。
 
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●駅周辺をブラブラ・・・・・・・・・青砥駅の1階はショッピングセンターとなって、地元の買い物客で賑わっている。 駅の北側には、「青戸銀座通り会」なる商店街があるが、チョイト元気がないね。 駅の南側には、八幡神社。 昔の地名:本田村・本田町から名付けたと思われる屋号「本田屋」。 チョイト朽ちたが長屋も残る。
 
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●高砂や、この浦舟に帆を上げて・・・・・・・謡曲「高砂」をイメージしたデザインか(?)と思わせる、塔から斜めに張ったケーブルを帆に見立てたような斜張橋:高砂橋。、、、、、中川に架けられていた、青戸と高砂を結ぶ高砂橋は、平成15年(2003)に現在の斜張橋に架け替えられた。 長さ186.5m。、、、、なお、謡曲の「高砂」は、夫婦愛と長寿を愛で、人世を言祝ぐ大変めでたい能。 この“高砂”は兵庫県高砂市のことである、お間違えなきように。 今や、結婚式で謡う人、トント、お目にかからないね!
 
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●夕日が見えない!・・・・・・・・・・夕日を背に、高砂橋の上流側に架かる京成本線中川橋梁を走るスカイライナーの勇姿を撮りたかった。 残念だが、本日は今にも降りそうな空模様、これでは夕日も見えず。、、、、、ラッキー、都営の新型車両5500形が撮れた。
 
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●白ヘビが怖い・・・・・・・・・中川の左岸(高砂側)の土手近くに、小さな池「怪無池(けなしいけ)」と小さな神社「青龍神社」がある。 神社の創建年代は不詳。 この神社では雨乞が行われたそうだ。 また、神社では白ヘビは神の使いとして崇められたそうで、人影のない池の周りを歩くとき、蛇が大嫌いな私はビクビク。 幸い、御対面はしなかった。、、、、池は「怪我の無い池」が「怪無池」となったそうだ。 今の池は睡蓮の葉と、薄紫の綺麗な花に覆われていた。 花の名は?知らん!
 
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●降りそうだ、そろそろ帰ろう・・・・・・・・高砂駅から帰る。
 
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2018年10月16日 (火)

閻魔大王ご縁日

毎月16日は全国的に閻魔さんのご縁日である。 今日は、浅草橋の我が家から深川のゑんま堂まで散歩することにした。 1万歩。、、、、、、ちなみに、お薬師さんは毎月8日、観音さまは毎月18日、お地蔵さんは毎月24日、弁天さまは己巳(つちのとみ)の日、お稲荷さんは午の日が、それぞれのご縁日である。 覚えておくと敬老会で役立つ知識。
 
 
 
●そろそろ出勤時間・・・・・・・・・・午前8時前、ボチボチ、駅から掃き出される人が増えてくる時間。 私も散歩に出る。
 
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●真正面に見える・・・・・・・・・・東日本橋1丁目と2丁目、町境の道路からは、正面にスカイツリーが見える。、、、、、、スカイツリーの見え具合で今日の運勢を占う人もいるかも? 今日は、全体に薄ぼんやり見える、運勢は『先を読む目が曇り波乱の一日』。
 
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●陶器造りの神社・・・・・・・・・・・・日本橋浜町3丁目、超高層ビルの下に浜町神社がある。 神社が鎮座する地は、安政年間に徳川幕府から島津家へ土地の引き渡しがあり、土地に祀られていた天明年間に創始と云われる稲荷を島津稲荷として崇敬してきたといいわれている。 関東大震災後、浜町神社を改称していたものの、戦災により焼失、昭和28年(1953)に浜町神社として改めて建立した。 平成12年(2000)、再開発により現社殿を建立。
 
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・・・・・・・・・・・・・・・浜町神社境内には、埴安大神(はにやすのおおかみ)・加藤四郎左衛門景正命・加藤民吉命を祭神とする陶栄神社がある。 埴安大神は土の神で天照大神の兄弟神とされている。 加藤命と称する2柱は、瀬戸焼の歴史の重要人物で鎌倉前期の陶工景正が「陶祖」と呼ばれ、江戸時代の陶工民吉が瀬戸に磁器をもたらした功績から「磁祖」と呼ばれている。、、、、、この神社の社殿は、昭和44年(1969)愛知県常滑市の陶工により、住吉造りを模し、総釉彩陶器製でつくられている。 また、台座には平安時代以降の陶片が使用されている。、、、、、、注連縄と賽銭箱は陶器ではなかった! 
 
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●化粧中につき顔は出せない!・・・・・・・・・昭和3年(1928)に完成した天下の名橋、重要文化財の清洲橋 も90年経過した、小じわが目立つのか、厚化粧が剥げたのか、只今、塗装工事中。 恥ずかしくて、顔も出せないらしい。
 
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●エレキテルの地・・・・・・・・・・・平賀源内(1728~1780)は安永5年(1777)にエレキテル(摩擦起電器)を完成させ、自宅にて電気実験を行ない安永8年(1780)に51歳にて没した。 自宅のあった江東区清澄1丁目には平賀源内電気実験の地の碑が建っている。、、、、、、死因は感電死? 本当は酒に酔い喧嘩して投獄され、破傷風で死んだそうだ。(コレ、ホントらしい。) 今でも、同類の人はいるね!
 
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●田中角栄と間違えないで!・・・・・・・・・・清澄1丁目のアサノコンクリート深川工場の一角に浅野総一郎の像がある。 この地は、明治8年(1875)、工部省が日本初のセメントを製造した工場があった場所で、明治16年(1883)に浅野総一郎が払い下げを受け、その後民間のセメント工場「浅野セメント」として発展した。  浅野セメントは、戦後日本セメントに改称し、平成10年(1998)には「秩父小野田セメント」と合併して、業界最大手の「太平洋セメント」となった。
 
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・・・・・・・・・・・・・浅野総一郎の像の脇にあった、「明治23年 当時のセメント工場全景」。、、、、、、手前に隅田川が描かれている。
 
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●国宝級のミドリ・・・・・・・・江東区佐賀町1丁目と福住1丁目を結ぶ小さな橋は、昭和4年(1929)に竣工した鋼鉄製トラス橋の緑橋。 大島川西支川に架かり、橋長は23m程、チョイト膨れたトラスのデザインは可愛いものだ。、、、、、関東大震災の復興橋で、歴史的にも貴重な橋なので、個人的には“国宝”(チョイト大袈裟)に指定する。
 
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●福禄寿はいずこに!・・・・・・・・・・深川2丁目の浄土宗寺院の雙修山養源院心行寺は、元和2年(1616)八丁堀に創建し、寛永10年(1633)現在地に移転した。 現本堂は昭和43年(1968)に竣工した。、、、、、深川七福神の福禄寿が六角堂に安置されているが施錠され、姿は見えず、声も聞こえず、軟禁状態。 
 
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閻魔大王のご縁日・・・・・・・・・・“深川ゑんま堂”は、真言宗豊山派の法乗院で賢台山賢法寺と号す。 法乗院は寛永6年(1629)深川富吉町に創建、寛永18年(1641)には現在地(深川2丁目)に移転した。 江戸三閻魔の一つらしいが、昔の閻魔堂は戦災で焼けた。 現在は平成元年(1989)に再建された“ハイテク閻魔様”で、賽銭を入れるとコンピューター制御で堂内には煌びやかに照明が灯り、スポットライトが回り、願い事に応じた説教が流れてくる見世物小屋並みの、高さ3.5mの大きな閻魔がある。、、、、、、、笑っちゃいけないが、笑いたくなる、これぞ“笑い地獄”か? 歴史を感じることができない寺だ!
 
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・・・・・・・・・・・・・・本日は、ご縁日。 本堂1階では、天明4年(1784)に描かれた全16枚の『地獄・極楽図』が展示され、御仏の教えを説いてくれます。
 
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●昭和の市営食堂・・・・・・・・・・・門前仲町1丁目に、震災後の昭和7年(1932)に建てられた旧東京市深川食堂の建物が残されている。 建物は角地に建つ鉄筋コンクリート造2階建て、明るい大きな窓で開放的で、モダンなデザインである。、、、、、震災復興事業の一つとして、低所得者のための市営食堂として利用された。昭和11年(1936)食堂は閉鎖され、終戦後は職業斡旋施設として利用され、昭和51年(1976)から江東区内職補導所となり、平成18年(2006)に閉鎖された。、、、、現在は国・登録有形文化財の指定を受け、『深川東京モダン館』と称し、江東区全域を対象とした観光案内スペースとして、また、新たな文化の発信スペースとして活用している。
 
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●お帰りは門前仲町から・・・・・・・・・・
 
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2018年10月15日 (月)

埼玉の匂いが残る町

JR赤羽駅から東へ1km程歩き、北区王子と同区岩淵町を結ぶ「北本通り」(国道122号)を越えると「北区志茂4丁目」の町がある。 志茂4丁目の東は隅田川の護岸によって行く手を遮られている。 今日の散歩は、私がこれまであまり歩いていなかった「志茂4丁目」の探訪です。 1万歩。
 
 
 
●北のターミナルで下車・・・・・・・・・・・北区随一のターミナル駅:赤羽駅で下車。 三鷹・荻窪駅と同等規模の一日約20万人が乗り降りする駅。、、、、埼玉県とは荒川を挟んで隣り同士。 山の手の三鷹・荻窪駅とは、漂う空気、肌で感じる雰囲気がチョイト違うようだ。
 
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●まずはマリアさまに御挨拶・・・・・・・・・赤羽駅東側の商店街入口近くにカトリック赤羽教会がある。 昭和26年(1951)に建てられたゴシック調の建物、聖堂上部の塔にはマリア像(高さ約1.5m、鉄鋳物製)が安置されている。 祭壇中央には被昇天のマリア様の絵が掲げられている。、、、、、戦後の物資が不足している時代の建物だが、それを感じさせない、デザイン的にまとめられた建物である。
 
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●見えない壁・・・・・・・・・「赤羽」の町と「志茂」の商店街は、“一体感がないの?”
 
・・・・・・・・・・・・・赤羽駅前から、赤羽2丁目の町を東西にのびる商店街:「LaLaガーデン」。 アーケードもあり濡れずに買い物ができる活気ある商店街。
 
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・・・・・・・・・・・・・LaLaガーデンの東端で、道路一本越えると志茂2丁目となる。 ここからは、「志茂スズラン通り」商店街と、「志茂平和通り」商店街がさらに東に続く。 赤羽2丁目から志茂2丁目に入った瞬間から、商店街は道幅が狭まり、アーケードもなくなり雰囲気は一変する、自転車で通り抜ける人もチラホラ、歩く人もチラホラ、お店もチラホラ。 「赤羽」と「志茂」の商店街は、断絶しているようだ。
 
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●寂しいメインストリートの商店街・・・・・・・・・さて、平和通り商店街の東端で、今度は北本通り(国道122号)を渡ると「志茂4丁目」の町に入る。 そして、さらに商店街が続く。 東西に「志茂七溜商店会」が伸び、その東端から南北に「志茂銀座商店会」が伸びている。 赤羽駅から、連続して続く商店街も、志茂4丁目に入ると、めっきり寂れ、ご近所の住人しかお客がいない商店街となった。 “銀座”も寂れ“頓挫”しないように!
 
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●やっぱり、埼玉県だった志茂・・・・・・・・・現在の北区志茂の町(1~5丁目)は、江戸時代には荒川の渡し場があった岩淵宿(現:北区岩淵、志茂の北側に隣接する町)の下流側に位置することから、豊島郡岩淵領下村と呼ばれていた。 下村は明治4年(1871)には、浦和県(現:埼玉県)から東京府に編入されたそうだ。 昭和7年(1932)東京市に編入される際表記を改め、王子区志茂町。 一~三丁目となった。 昭和32年(1957)と、昭和42年(1967)の住居表示で、現在の志茂一~五丁目に再編成された。、、、、、志茂4丁目の町は、昔のあぜ道・農道がそのまま道路になったのか? 細い道がゴチャゴチャ、クネクネ、私好みの裏道・路地がアッチニモ、コッチニモ。
 
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●志茂の古刹・・・・・・・・・・・・・志茂4丁目の中央に位置する真言宗智山派寺院の西蓮寺は、歸命山と号す、埼玉県川口の錫杖寺(しゃくじょうじ)の末寺。 寺は法印淳慶(弘安10年(1287、=鎌倉時代)寂)が開基と伝えられている。江戸時代には満願寺、観音寺、地蔵院の3ヶ寺を末寺に擁していた。 西蓮寺は志茂地域の代表的な寺院である。 現:本堂は、関東大震災後の昭和7年(1932)に再建されたものである。、、、、、、境内には十余基の板碑があり、その最古のものは、弘安9年(1286、=鎌倉時代)の銘がある。
 
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・・・・・・・・・・・・・西蓮寺の付近にあって廃寺となった末寺・観音寺の本堂を、平成7年(1995)、コンクリート打ち放しの近代的な寺院に立てなおした福聚観音堂。 普段は、無人の為、ガラス越しに手を合わせる形式の観音様。 ガラス窓の下にはおみくじ自動発行機がチャント用意されていた。 ガッチリ、稼ぐつもりか?
 
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●参道の長い神社・・・・・・・・・西蓮寺の北、隅田川沿いに志茂熊野神社がある。 神社は、別当寺である西蓮寺住職淳慶阿闍梨が紀州熊野三社権現を勧請して正和元年(1312年)に下村(現:志茂)の鎮守にしたと言われている。、、、、さほど大きくない神社だが、参道はやたら長く、よって境内は細長い。、、、、、現社殿は昭和43年(1968)に鉄筋コンクリート造で再建された。 この時、文政5年(1822)建造の旧本殿は境内社:阿夫利神社の社殿に転用され現存している。
 
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●ここにも西蓮寺の息が・・・・・・・・・西蓮寺が管理する近くの庚申堂。 堂の中には、姿もはっきりしなくなった青面金剛像が安置されている。 造立年不明。
 
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●4体のどれが?・・・・・・・・・志茂銀座商工会の一画に西蓮寺の境外仏である「橋戸の子育地蔵尊」がある。 堂の中に4体の地蔵尊が祀られている。 では、「橋戸の子育地蔵尊」はどれ? 右から2番目という人と、4体全部という人がいるそうだ。 どちらも正解、本当の処は不明らしい。、、、、、右から、元文3年(1738)、元禄13年(1700)、元禄14年(1701)の銘がある、左端は不明。 
 
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●初めての乗車・・・・・・・・・・・志茂4丁目の隣り5丁目に地下鉄南北線志茂駅がある。 南北線には度々乗るが、志茂駅からはいまだ乗車したことがないので、今日はここから帰ることにした。、、、、、平成3年(1991)11月29日、営団地下鉄南北線の駅として開業。 島式ホーム1面2線を有する地下駅。 平成29年度(2017年度)の1日平均乗降人員は12,425人で、東京メトロ全駅の中では同じ南北線の西ケ原駅に次いで2番目に少ないそうだ。 乗降客が少ない割には、綺麗で明るい駅である。、、、、、初めてホームに立ったが、ワクワク感はなく、チョイト残念!
 
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2018年10月12日 (金)

夕暮れの柳原

北千住駅から東武伊勢崎線堀切駅まで、9千歩の夕暮れ散歩。
 
 
 
●西は宿場町、東は下町・・・・・・・・・・・・・北千住駅西口周辺は旧日光街道の宿場町で、昼から賑わう大きな街である。 西口と比べ東口駅前は足立学園(中・高校)の城下町であったが、数年前に東京電機大学ができ大学の城下町に変身した。 高校・大学以外には大きな施設もなく、下町の雰囲気がタップリ残るキャンパス城下町。
 
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・・・・・・・・・・・・・・東口から真直ぐ伸びる「学園通り」。 “学園”は「足立学園」(中・高校)を指す。、、、、、駅の東側に住む人にとっては、生活に密着した商店街で、お惣菜屋・肉屋・八百屋、いずれも買い物する人で賑わっている。、、、、駅から1km程先を荒川が流れ、商圏が限定されているためか、ドでかいスーパーは無い。
 
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・・・・・・・・・・・・・駅前の東京電機大学。、、、、日本たばこ産業 (JT) 社宅跡地に平成24年(2012)に開設された千住キャンパス。
 
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●チョイト裏道を歩く・・・・・・・・学園通りの北側(千住旭町)をブラリ! 『下町だ!』
 
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・・・・・・・・・・・・・・裏道を歩いていると、雑草の中にコンクリート造の鳥居があり、奥には社がある。 三吉稲荷神社だ、天保年間(1830~1844)以前の創建らしい。、、、、、稲荷はゴミ集積場と化したのか?
 
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●小坊主のほうき地蔵さん・・・・・・・・・・千住駅前の学園通り東端の先に足立区柳原の町がある。 この町の東は荒川で、行き止まりの町である。、、、、、理性院は瑠璃山柳原寺といい、真言宗ですが“柳原”の名がついているように柳原村の唯一の寺院であった。 もともと村の北のはずれにあったそうだが、荒川放水路開削工事で当時の敷地は全て河川敷となり、現在地へ移転した。 この時、本堂は曳家で移転したそうだ。
 
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・・・・・・・・・・・・・・境内に建てられたカワイらしい小坊主姿の「ほうき地蔵さん」、、、、、檀信徒の方が、母の菩提を弔うため平成13年(2001)に建立したそうだ。
 
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●下町の田園調布:柳原・・・・・・・・・・・柳原は昭和9年までは葛飾区に属し、葛飾区柳原町であった。 この年に、荒川放水路(現:荒川)ができ、飛地状態になり足立区に移管された。 また、地図を見ると解るが綺麗な半円状の町である。 下町の田園調布だ!
 
・・・・・・・・・・・・・・まずは裏道へを歩く。
 
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・・・・・・・・・・・・・・柳原のメインストリート「千草通り」。 人通りも少なく、両側の商店の7割程は廃業したようだ、復活するのは難しそうだ!
 
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・・・・・・・・・・・・・柳原の中央に位置する柳原稲荷神社。 神社は葛飾郡柳原村の鎮守として慶長11年(1606)創建とされる古社である。 寺は柳原寺の理性院、神社は柳原稲荷神社、両寺社で柳原村の崇敬を集めていた。 入母屋造りの小ぶりの拝殿は、親しみを感じる独特の風情がある。、、、、、本殿の右隣には、昭和8年(1933)に築かれた富士塚がある。 正面鳥居をくぐると一直線に石段が山頂へ通じている。 
 
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・・・・・・・・・・・・・柳原の町を1丁目と2丁目に分ける道路。 両側にはお花見用の桜の大木が並ぶ。 この道路は、北千住駅南側の大踏切りから伸びてきて、柳原で荒川土手にぶつかる。
 
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●荒川土手に上がった・・・・・・・・・京成本線荒川橋梁が見える、スカイツリーも見える。
 
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●哀愁の駅・・・・・・・・・人影は少なく、駅前にはポツリとラーメン屋が一軒、哀愁を帯びた薄暗い駅は寂しい二人が別れる駅。 私の好きな駅。、、、明治35年(1902)に開業した東武伊勢崎線堀切駅
 
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2018年10月10日 (水)

綾瀬川の11橋

秋晴れの下、埼玉県の草加宿付近から東京都の北端:足立区花畑まで、綾瀬川に架かる橋を見ながら歩いてきた。 1万2千歩。
 
 
 
・・・・・・・・・・・・・・綾瀬川は埼玉県桶川市に源を発し、蓮田市・さいたま市・越谷市などを流れ、草加市で古綾瀬川を合わせ、都県境の足立区花畑付近では伝右川と毛長川を合わせ、葛飾区上平井で中川に合流している。 埼玉県南部と東京都東部の底平地を流れる延長約48Kmの一級河川。
 
 
●立って通勤、座って通学・・・・・・・・・草加駅の開業は明治32年(1899)である。 現在は、両外側の通過線各1線が、島式ホーム2面4線を挟む全6線の高架駅である。、、、、通勤通学の時間帯、都心に向かうホームは人も多い。 到着する電車はいずれも満員、座って通勤は無理だね! 田舎方面に向かうホームは、大学生らしき若者が多い。 こちらは、座って・眠って・化粧して・スマホいじって楽々通学できるね。 
 
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●スタコラ速足で抜ける・・・・・・・今日は宿場町「草加」を見学するつもりはなく、飲み屋・風俗店の並ぶ裏道、旧家が残る旧街道を、飛脚のごとく速足で抜け、草加宿の北端から、「草加松原遊歩道」に向かう。
 
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●綾瀬川に沿って・・・・・・・・・・芭蕉の像が迎えてくれる札場河岸公園、ここから北に向かい綾瀬川に沿って草加松原遊歩道が1km以上整備されている。、、、、、私は、遊歩道の南端近くの谷古宇橋から左岸沿いに綾瀬川下流(東京方面)に向かい歩くことにした。
 
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・・・・・・・・・・・・・・まずは、綾瀬川に架かる谷古宇橋(やこうばし)。 アーチ型の橋は、草加松原遊歩道にある歩道橋:矢立橋
 
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・・・・・・・・・・・・少し下ると「埼玉県神明排水機場 」が対岸に見える。、、、、、昨年の夏に散歩した処だ!
 
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・・・・・・・・・・・・・・・対岸の神明排水機場と、手前にある古綾瀬川排水機場を結ぶように架かる小さな橋:松江橋。 昭和54年(1979)の架橋、歩道橋であるが、自転車、バイクも通れるようだ。
 
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・・・・・・・・・・・・・・松江橋の脇に「埼玉県古綾瀬川排水機場」がある。 古綾瀬川は、綾瀬川の支流で、草加市の北に隣接する越谷市を源とする川。 ここで、古綾瀬川は綾瀬川に合流する。
 
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・・・・・・・・・・・・・車道専用のコンクリート橋とその両側に鋼製の歩道橋が増設された八条大橋。 “大橋”というほど大きくはないがコンクリート造の八条大橋は、チョイト古そうだ。 両側の歩道橋は昭和40年(1965)に完成した。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・草加駅から西へ1km程の処に手代新橋 (てしろしんばし)がある。 橋上には県道327号が通り、草加駅前と八潮・三郷を結んでいる。
 
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・・・・・・・・・・・・・・手代新橋の下流に手代橋が架かっている。 昭和30年代の映画のワンシーンを連想させるようなコンクリート橋、いいね! 、、、、、、この橋から、右岸(下流に向かって右側)は草加市だが、左岸(左側)は八潮市となる。 つまり、綾瀬川が両市の境界である。
 
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・・・・・・・・・・・・・・川の上に何やらトラス状の構造物が? 綾瀬川水管橋である、つまり水道管が川を越える専用橋である。
 
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・・・・・・・・・・・・・・水管橋の南に、真言宗系の西福寺がある。 寺は善徳山と号す。 たびたびの火災にあい史料を焼失したため開創は定かでないが、嘉吉3年(1443)と言われてる。、、、、、火難・災難除けのお札を貼っておいたらいいかもね?
 
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・・・・・・・・・・・・・・谷古宇橋から約2.5km下った地点、草加市手代町と八潮市柳之宮を結ぶ宮代橋がある。 この橋は昭和58年(1978)完成の歩道橋である。、、、、草加、八潮の両市とも財政難なのか、やたら歩道橋ばかり造っているようだ。 せめて乗用車ぐらいは通れる橋を造って欲しいね!
 
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・・・・・・・・・・・・・・両岸とも八潮市西袋に位置する柳之宮橋は架け替える計画があるそうだが、どうも工事は遅れているようだ。 これも財政難かな???
 
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・・・・・・・・・・・・・・八潮市西袋に架かる西袋橋。 これまた歩道橋なり!
 
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・・・・・・・・・・・・・・西袋橋から100m程下流に架かる水管橋。 この橋の西詰(右岸側)は東京都足立区(花畑桑袋団地)、東詰(左岸側)は八潮市西袋である。
 
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・・・・・・・・・・・・・私の前を歩く、校外学習の小学生。 『チョイト、速く歩けよ!』と、怒鳴りたくなったが堪えた! 『しっかり勉強しなよ!』と、声をかける。 これ以上、声をかけると先生に怪しまれるので、黙ることにした。、、、、、私も人間が出来てきたようだ。
 
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・・・・・・・・・・・・・・本日の最後は、水管橋の下流に架かる足立区の桑袋大橋(くわぶくろおおはし)。 この橋を渡ると、最北端の都営住宅であろう都営花畑第四アパートである。
 
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・・・・・・・・・・・・・・以上、草加から東京都に至るまで、水が綺麗になった綾瀬川に架かる11橋の御紹介。
 
 
●年寄りばかり・・・・・・・・桑袋大橋を渡り、都営花畑第四アパートからバスで谷塚駅に出て帰ることにした。、、、、バスを待つ人、バスに乗る人、みんな年寄りだ! この人も、あの人も、どの人も、みんな敬老パスで乗ってくる。 そう言う私も同じだ。 『ひょっとすると、このバスは世紀末のバスかな?』
 
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2018年10月 8日 (月)

取り壊される団地

昭和30年代に建てられた「八幡山アパート」。 建て替え工事が進む前に一度は見ておきたかったので、今日の散歩は京王線八幡山駅から小田急線経堂方面に歩いてきた。 1万1千歩。 
 
 
 
●山の手の駅・・・・・・・・・八幡山駅(はちまんやまえき)は杉並区に属する駅だが、八幡山は駅の南側に隣接する世田谷区の地名である。、、、、、大正7年(1918)5月1日、京王電気軌道の松沢駅として開業し、昭和12年(1923)9月1日に現在の八幡山駅に改称された。 外側に通過線(本線)を持つ、島式ホーム1面4線の高架駅である。、、、、、高架下には、シャレたショッピングモールがあり、やっぱり山の手の駅だ。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・ホームから見る、「都立松沢病院」(中央右側)。 約1,300床を有する近代的な精神科専門の病院である。 病院の敷地は緑豊かで、61,000坪と広い!
 
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●淋しそうな団地・・・・・・・・・・八幡山駅南側のゴチャゴチャした小さな飲食街を3分程歩いて抜けると、道の先にポイントハウスが見えた。 これだ、これです、これなのだ! 私が一度見ておきたかった建物です。 今、各地の都営アパートは耐震化、少子高齢化に対応すべく建て替えが進められている。 ここ八幡山アパートも例外でなく、建て替えが進められている。 ポイントハウスもいずれ壊される運命にある。
 
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・・・・・・・・・・・・・・八幡山アパートは、昭和36年(1961)に竣工した、総戸数う547戸、全30棟の都営住宅である。 南北に走る環八通りの東側(八幡山3丁目)に1号棟から22号棟まで、西側(粕谷2丁目)に23号棟から30号棟まで建てられた。
 
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・・・・・・・・・・・・・・ポイントハウスとは、フラットな型の棟が並ぶ団地において、景観にアクセントをつけるため、チョイト見た目の変化つけるように配置された棟を指す。 八幡山アパートでは、1号棟、3~6号棟、19号棟、20号棟の7棟がポイントハウスである。 各棟とも5階建て、各階2戸の造り、ほぼ同一形式である。、、、、、期待に応え、7棟一挙公開!
 
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・・・・・・・・・・・・・ポイントハウス以外のフラットな棟は4階建てで、各戸ともベランダ側に増築され広くなっている。 しかし、エレベーターはなし、取り壊しの計画あり、無駄遣いは致しません。 入居者募集もしていないようだ。
 
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・・・・・・・・・・・・・徳利のようでもあり、トーチカのようでもあり、個性的な身体つきの給水塔。 塔身には横に輪切りのラインが入り、達磨落としのようでもある。 この塔も昭和36年に完成したそうだ。、、、、、子供がいない公園、雑草に覆われた給水塔、洗濯物の干されていないベランダ、どれも消えてゆく団地の光景、寂しそうで悲しそうだ。
 
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・・・・・・・・・・・・・環八通りを挟んで向かいにあった、23~30号棟の一画は「粕谷二丁目アパート」と名を変え新しく建て替えられている。
 
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●台風で荒れたね!・・・・・・・・・・・八幡山アパートに別れ、都立公園:蘆花恒春園 の中を抜ける。 公園は台風21号、24号により、大木は倒れ、枝は飛び、荒れていた。 公園を管理する人も休日出勤(?)で忙しそうだ。
 
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●アメリカ製のガスタンク・・・・・・・・蘆花恒春園の隣(粕谷1丁目)に東京ガス世田谷製圧所があり、ここに5基のガスタンクがある。 ガスタンクが出来た昭和31年(1956)、この付近は廻沢(めぐりさわ)と呼ばれていたので、ガスタンクは今でも「廻沢のガスタンク」と呼ばれている。 一番最初に設置されたガスタンクは、本体をアメリカで作り、昭和31年に、ここで2基組み立てられたそうだ。 当時のタンクは、今は無い。、、、、、5基が一度に見渡せる撮影ポイントを探したが、残念ながら見つからなかった!
 
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●オヤ、雨か?・・・・・・・・・・・千歳船橋駅に向かい歩いていると、チョイト、イヤな雲行きとなってきた。 その時、一粒の雨がポツリ。 急に不安になり、急ぎ足で歩く。、、、、しばらく歩くと、バス停が見え、ちょうどタイミングよくバスも来た。 一瞬の判断でバスに飛び乗る。 乗ってから、『これは、どこ行きのバス?』 『経堂行き、まあ~いいか』 車窓には雨の降る様子はなかった。 慌てて乗ったので、バスに乗った停留場も不明(?)

2018年10月 7日 (日)

荒川土手

昨日・今日、散歩する時間がつくれなかったが、夕方にチョイト余裕ができ、荒川土手を歩いてきた。 京成押上線四ツ木駅から荒川土手を歩き京成本線堀切菖蒲園駅まで、7千歩のミニ散歩。 
 
 
 
●お灸の四ツ木駅・・・・・・・・・四ツ木駅は大正元年(1912)11月3日に開業。 大正12年(1923)には荒川放水路(現:荒川)の開削に伴い現在地に移転。 平成9年(1997)から平成11年(1999)にかけ、駅は高架化される。 現在は、相対式ホーム2面2線の高架駅である。 ホームの端は荒川と並行し流れる綾瀬川の近くまで伸びている。
 
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・・・・・・・・・・・・・駅前南側には「渋江商店街 」があるが、薄暗く、静かな、元気のない商店街だ。 北側は、四ツ木~青砥間の高架化工事が始まり現場の仮囲いが線路に沿って伸びている。、、、、、完成すると11箇所の踏切りがなくなり、隣りの立石駅は高架となる。現時点では、2023年の完成予定。  
 
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・・・・・・・・・・・・・工事現場の前に『四つ木の灸』の看板を出す、趣きのある木造家屋がある。 「四つ木の灸」は、お灸の世界では超有名らしい。 昭和6年(1931)より現在地で家傅のツボを用い昔からの打膿灸をはじめ、温灸、小灸、鍼の治療をしているそうだ。 私は熱そうで、怖そうで、お灸は今だ未経験。 いずれ寝小便するようになったら治療してもらうかな。
 
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●荒川土手に出る・・・・・・・・・綾瀬川に架かる四つ木小橋を渡り、荒川と綾瀬川の間を仕切る荒川土手に出た。 
 
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●西日がまぶしい!・・・・・・・荒川土手から西を眺めると、川向こうのスカイツリー、遠くには夕日が輝いている。、、、、、、西日のまぶしさに刺激され、凄腕の写真家になったつもりで、パチリ、パチリ。
 
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●綾瀬川の菖蒲・・・・・・・・・・・・堀切菖蒲園の近くでは、綾瀬川に堀切菖蒲水門がある。 綾瀬川は下流の新小岩付近で中川と合流している。 台風の時など、中川の水が遡り、綾瀬川の流れを妨げぬように堀切菖蒲水門が造られた。、、、、ゲートの高さを低く抑えるため、「二段式ローラーゲート」と称するゲートで、円筒状のようなものが、かまぼこ型に2分割し、水門を閉鎖するチョイと変わったゲートである。 また、操作室も頭をカールしたようなユニークなデザインで面白い! 平成8年(1996)3月の完成。
 
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●堀切JCT・・・・・・・・・・・水門の先には首都高の堀切JCTがある。
 
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●お帰りは菖蒲園から・・・・・・・・・京成本線堀切菖蒲園駅から帰宅。
 
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2018年10月 3日 (水)

不動明王を祀る二寺

東武伊勢崎線五反野駅で下車し、日暮里・舎人ライナーに向かい西の方角に歩いてみた。 チョイト、のんびり歩いたので、目的のライナーの駅までは到達できず、残念! 9千歩。
 
 
 
五反田と間違えるローカル駅・・・・・・・・・五反野駅周辺は、遠く昔、低湿地帯で河川が年中洪水を起こし、定住することが極めて難しい土地であった。 その後、河川の改修工事がなされ、江戸時代には綾瀬村の一部である弥五郎新田の小字で「五段野」ともいわれ、徳川氏の御料地として豊かな農村に発展した。 現在は「五反野」の地名は無くなり、駅名のみが残っている。 土地勘の無い人は「五反田」と間違えるそうだ。、、、、、駅の開業は大正13年(1924)10月1日。、、、、、、現在は、島式ホーム1面2線を有する高架駅。 緩行線にのみホームがあり、緩行線の外側を急行線が疾走して通過し、ローカル駅の無念を実感できる。
 
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・・・・・・・・・・・・・・駅周辺も、ワクワクするような賑わいもなく、覗いてみたい店もない、これが“北千住から2つめの駅か?”、まさにローカル駅だ。 (私の住む浅草橋も秋葉原の隣り駅だが、知る人も少なく。 また、“浅草”と間違える人もいる。)
 
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●用意周到・・・・・・・・・太い柱・梁が組まれ外に出ている、足立4丁目の歯医者さんの建物。 これは、意識的なデザインか?、はたまた今後の増築用に、あらかじめ柱・梁を組んでおいたのか?、、、、、私の勝手な推測では、今後の医院の規模拡大に備え、拡張できるように造ったものであろう。 増築する程に、繁昌していると良いのだが?
 
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●蒲団を敷く向きは?・・・・・・・・・・Y字型の三叉路、鋭角の敷地に建つ、“くもじい”と“くもみ”がよろこびそうな、とんがった住宅。 こちらでは、蒲団をどのように敷いて寝ているのか? チョイト、気になりました。
 
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●ガンバレ、昭和の商店街・・・・・・・・・梅田1丁目と2丁目の境の通り:長さ約350mに40店舗程が店を開けている「ゆめろーど千代田商店街」。 今日、私が歩いた時刻は午前9時前。 まだ店は開いておらず、人通りもまばら。、、、、、どこの商店街も寂れて行くが、ここも同じ悩みがありそうだ。 商店街では、中元・歳末の福引セール、ポイント発行、フリーマーケットと、各種イベントを企画して活性化に取り組み、努力しているそうだ。 元気が出るといいね!
 
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・・・・・・・・・・・・・・商店街の中にある休憩スポット:「プチテラス」。 中央には巨大なパイナップル型の蘇鉄の木を配し、周囲にイギリスのストーンヘンジを連想させる細長い石のオブジェが円形に並ぶ。 チョイト、ひと休み!
 
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●難聴を治してくれるか石不動堂・・・・・・・・・・ゆめろーど千代田商店街を抜けると旧日光街道である。 ここに、創建年代不詳であるが、「石不動尊」の扁額が掛けられた小堂がある。 小堂のなかには石製の不動尊が座している。 この不動尊は、別名「耳の不動さま」ともよばれて、耳を病む人の強い信仰を受けているそうだ。 実は、私も難聴なので、ぜひ治して欲しく賽銭箱には20円入れてきた。、、、、、ところで、堂内のお不動さまは鉄製の扉に鍵がかけられ、お顔がはっきり見えず。 覗きを得意とする私もガッカリ!
 
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・・・・・・・・・・・・・石不動堂の脇道を入って行くと、子育:八彦尊を祀る赤不動明王院がある。
 
 
●お不動さまは化粧直し中・・・・・・・・・・足立区梅田4丁目に、真言宗豊山派の万徳山梅林寺明王院がある。 明王院は、治承2年(1178)の草創である。 江戸時代には、鷹狩りの折の御膳所となり、また源家の古い祈願所でもあったことから寺領13石の御朱印状を拝領している。 本日はどうやら、本堂の化粧直しで塗装工事のようだ。、、、、本尊の不動明王は拝見できず。
 
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・・・・・・・・・・・・・境内の小堂には咳に効験のある八彦尊が祀られている。
 
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●またまた、お不動さま・・・・・・・・足立区梅田・関原の裏道を秋風に吹かれのんびり歩き、関原の大聖寺の横に出た。 チョイト、大聖寺にも手を合わせて行く。、、、、、真言宗豊山派寺院の大聖寺は、関原山不動院と号し、ここも不動尊を祀る寺である。 大聖寺は宝徳元年(1449)の開山とも、文明7年(1475)の開山とも言われている。
 
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●足立区にも城があった!・・・・・・・・・・尾竹橋通りを横断し足立区本木2丁目に入ると、かつての総理を思い出させる中曽根神社 がある。 ここは、千葉氏が鎌倉時代に築いた中曽根城の城跡でもある。、、、、、“こんな平らな場所に城を構えても、戦車でスグ潰される”と思うのは現代の若い人。 私は境内のイチョウの大木から落ちた銀杏の悪臭に潰された! クサ~~イ!!
 
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●タイムアウトだ、帰ろう!・・・・・・・・・足立区本木北町の本木小学校前まで来ると、時刻は10時半過ぎ。 『そろそろ帰らないと、昼までに戻れない!』、散歩はココまで。、、、、ちょうどバスが来た!
 
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2018年10月 2日 (火)

静かに潜行するdeepな町

新宿区の一画に、周囲の町よりすり鉢状に低くなっている町がある。 町の中は坂が多く、裏道の所々には階段もある。 道は複雑に入り組み、小規模なアパート・マンションが雑然と建ち、行きかう人も少ない。 新宿にあって飲食店は少なく、アジア系外人・学生の住まいが多そうだ。  なにか大きな変化が町に起きそうな妖気が漂い、もっか静かに潜行している“deepな町”:新宿7丁目である。、、、、、この町を探訪してきた。 9千歩。
 
 
 
●新宿区新宿7丁目て、何処?・・・・・・・・・・新宿1丁目・2丁目・3丁目は新宿御苑の北側で、JR新宿駅の東側に広がり、伊勢丹・マルイのある繁華街を含んだ、いわゆる『内藤新宿』と呼ばれた処である。 一般に『新宿』と称してイメージする地区である。 新宿4丁目は「バスタ新宿」の東側に位置し、新宿高校の手前までの小さな一画の町。 新宿5丁目・6丁目は1丁目・2丁目のの北側(大久保側)で、靖国通りと抜弁天通りに挟まれたエリア。、、、、、さて「新宿7丁目」は、6丁目のさらに北側に位置し、南側の抜弁天通りと北側の大久保通りに挟まれ、西側は明治通りに面し、東側は若松町に隣接した、ほぼ長方形の町である。 以前は「東大久保2丁目」と呼ばれた町である。
 
・・・・・・・・・・・・・新宿7丁目(写真:左側)の南側を通る抜弁天通り、右側は新宿6丁目
 
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・・・・・・・・・・・・・西側には明治通り(中央)が通る。 右側が新宿7丁目、左側は大久保1丁目。
 
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・・・・・・・・・・・・・北側には大久保通り(手前)がとおり、向かいには都営戸山ハイツ(戸山2丁目)が建ち並ぶ。
 
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・・・・・・・・・・・・・・東側は写真:右側に新宿7丁目、左側は若松町が隣接する。
 
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●幻の新宿7丁目駅・・・・・・・・・・新宿7丁目と6丁目の境である抜弁天通りの地下に、都営大江戸線の東新宿駅がある。 駅は東京メトロ副都心線の東新宿駅と接続している。 平成12年(2000)12月12日、大江戸線全通時に開業。 開業前の駅名は仮称「新宿7丁目」であったが、開業時に「東新宿」となった。、、、、、都営のホームは地下18.3mの深さにあり、島式1面2線である。
 
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●名のある坂・・・・・・・・・新宿7丁目の、名のある坂を3か所紹介する。
 
・・・・・・・・・・・・・その1、、、、、抜弁天交差点の永福寺門前から下る「久左衛門坂(きゅうざえもんざか)」。 案内には、「徳川家康の江戸入府以前から大久保に居住していた島田家の草創久左衛門が新しく開いた坂道であったため、こう呼ばれるようになったという。」、、、、坂の両側は新宿7丁目のメインストリートのようで、揃いの街路灯が並び「新宿7丁目 商和会」と表示されている。 両側の店と言っても、薬局、スーパー、コンビニなどはなく、アジア系の飲食店が数軒、“商店街”とは言えない! 
 
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・・・・・・・・・・・・・その2、、、、、久左衛門坂の北側にある「梯子坂(はしござか)」。 この坂は、「久左衛門坂北方の裏通に在り、東へ登り十間許り、坂道急にして 恰も梯子を登るが如し、故に名付く」そうだ。 45段の階段で、上り口には銭湯:東宝湯がある。、、、、、冬の宵、丹前を身につけた若い夫婦が、肩を寄せ合い、銭湯から帰る後ろ姿が絵になりそうな坂だ。
 
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・・・・・・・・・・・・・その3、、、、、新宿7丁目の北側で大久保通りに平行する「椎木坂(しいのきざか)」。 坂は大久保通りから下がって、大久保通りの下を水平に進み、大久保通りに向かって上がって行く。 どうやら、大久保通りの旧道だったらしい。 坂の案内では、「昔、戸山学校(現在の戸山ハイツ)の構内に椎の大木があり、この坂道を覆っていたため、こうよばれるようになったという。また、古くはこのあたりが砂利取場であったところから、砂利坂 とも呼ばれた。」とある。、、、、、道沿いの小さなマンションから出てくるのは、アジア系の外人さんが多いようだ。
 
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●次は、名も謂れも無い裏道・・・・・・・・・・・・
 
・・・・・・・・・・・・明治通りに平行する裏通りで、抜弁天通りから入り大久保通りまで、途中の横道がない、一本道。、、、、どちらが入口か?出口か? 判らんけれど、先へ進むだけ! 最後は木造住宅の間を鍵の手に曲がり、終わる。
 
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・・・・・・・・・・・・・・椎木坂から分岐し、階段を下る。 その先は、階段で車は通れぬ裏道がある。 もちろん、無名の坂もあちらこちらに。
 
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●古刹2寺・・・・・・・・・・・両寺とも歴史ある寺のようだ。
 
・・・・・・・・・・・・・その1、、、、、、、慶安元年(1648)の創建と言われている、曹洞宗の永福寺。 山号は大久保山。 境内には山手七福神の福禄寿を祀る祠がある。
 
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・・・・・・・・・・・・・その2、、、、、、、寛政年間(1789~1801)に東大久保縄手に創建され、鬼王稲荷神社(歌舞伎町2)付近への移転し、文政年間(1818~1830)に現在地に移転した、曹洞宗寺院の観音庵。 山号は昇龍山。 観音庵は徳川関東三筆の尼寺の筆頭として創建された。 天下太平を祈願した徳川家が、江戸の仏師に刻ませた如意輪観世音菩薩を勧請し、ご本尊としたため、徳川御本丸・西本丸・尾張徳川・大奥等の帰依殊のほか篤い、手厚い庇護を受けた。 しかし、明治維新により徳川家との縁は切れ、さらに昭和20年の空襲により本堂・庫裏・伽藍すべてを焼失した。、、、、、戦後、本堂が再建されたのは平成2年(1990)のことである。
 
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●昭和の裏道が、あっちゃ・こっちゃに残る町・・・・・・・・・・写真を見てね!
 
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●工事が大変だったでしょう・・・・・・・・町の周囲は、幹線道路で大きなマンション、オフィスビルが並んでいる。 しかし町の中央部は、ゴチャゴチャした裏道が交差する町。 そこには、小さなマンション、アパート、住宅が、無節操に建っている。 新宿7丁目はこう云う町だ。 しかしなぜか、こんな町の中に大きなマンション:「戸山マンション」がある。 建物は8階建て、総戸数110戸、建築時期は昭和45年(1970)、施工は飛島建設。 なんと今から40年以上前のことだ!、、、、、当時は今以上にゴチャゴチャした町で、資材搬入・安全管理・近隣対策など工事に苦労したと思うね! 
 
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●何か起きそうだ・・・・・・・・・そんなこんなの新宿7丁目、いつまでも現状のまま時が過ぎるとは思えない。  そろそろ、『再開発』、『町並み保存』、『道路拡張』などなど、いろいろ出てきそうだ!、、、、、しかし、私の生ある間には解決しそうもないね? 

2018年10月 1日 (月)

人助けした新大橋

日本列島を縦断した猛烈な台風24号が過ぎ去り、朝から台風一過の青空。 『さて、散歩に行くぞ!』と声を張りあげたが、チョイと待て『熱中症に御注意!』とNHKのお天気お姉さんの声。 『青空の下に出ると、なるほど、久しぶりの30℃超えは、お目々クラクラ、お肌イタイタ、日差しが強い』。 暑さに鈍くなった身体に要注意、急に心配になり、散歩は夕方にしよう!、、、、、改めて午後3時過ぎに、夕飯までの間散歩に出た。 浅草橋の我が家から中央区浜町を抜け、「新大橋」を渡り江東区森下へ、墨田区両国を周り、両国橋を渡り我が家まで、1万歩の散歩をしました。、、、、、今日の話は新大橋です。
 
 
 
●古くなった新大橋・・・・・・・・・・まず現在の新大橋は、隅田川に架かり、橋上には新大橋通り(都道50号)をとおす2径間連続斜張橋。 西岸は中央区日本橋浜町、東岸は江東区新大橋。 橋長は 170.0m、幅員は 24.0m、竣工 昭和52年(1977)3月27日。 橋の中間に黄色の塔が2本、空に向かって伸び、塔から両岸方向に出た、2本のケーブルが桁を支えている。シンプルな構造の斜張橋である。、、、、、竣工してから既に41年になる、“新”大橋ではなく、“古”大橋であるが、古さを感じさせない橋。
 
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●チョイト、助平心で下からパチリ・・・・・・・・・・普段見ることが少ない橋底。 スカートの中を見る気分に似ているのかな? 両岸には耐震装置も付いている。
 
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●夕日に照らされ・・・・・・・・そろそろ、夜の顔に変わる時刻? 
 
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●現新大橋は何代目?・・・・・・・・・・元禄6年(1694)12月7日、隅田川に3番目の橋として「新大橋」が架けられた。 「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と命名された。、、、、、その後、新大橋は幾度も、流失、崩壊し、その都度架け替えられ、回数は20回以上になったそうだ。 最後の木橋は、明治18年(1885)に架けられた。、、、、、明治45年(1912)7月19日にはピントラス式の鉄橋として現在位置に架けられた。 この橋は、戦後まで使用され、現在の橋に変わることになった。 旧新大橋は、現在、愛知県の明治村に移築保存されている。
 
・・・・・・・・・・・・・西岸の説明板に載っていた旧新大橋の写真。
 
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・・・・・・・・・・・・・・東岸には旧新大橋の橋柱が保存されている。
 
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・・・・・・・・・・・・・・関東大震災の折には、旧新大橋は他の橋がことごとく焼け落ちる中で唯一被災せずに残り、避難道として、多くの命を救った。、、、、、それからは、「人助け橋(お助け橋)」と称されている。 震災後、このとき助けられた人により、「震災避難記念碑」が西岸に建てられた。
 
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