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2018年11月

2018年11月30日 (金)

味噌屋の田中さんの家

川口の田中徳兵衛さん、知る人は少ないと思う。 私も会ったことはないが、川口で味噌の醸造と材木商を営み、立派な洋館の住宅を残した人である。 今日は、その旧田中家住宅を見に行ってきた。 JR川口駅から、市役所、薬林寺、旧田中家住宅を巡り、埼玉高速鉄道川口元郷駅まで、8千歩の散歩です。
 
 
 
●新宿に直に行けない!・・・・・・・・JR京浜東北線の川口駅は、明治43年(1910)9月10日に川口町(かわぐちまち)駅として開業。 昭和9年(1934)に川口駅に改称した。 島式ホーム1面2線の地上駅。 橋上駅舎を有し、コンコースと自由通路がある。、、、、、駅の乗車人員は、埼玉県内では大宮(一日約25.5万人)、浦和(約9.2万人)に次いで3位の約8.4万人である。(ちなみに、東北の表玄関:仙台は約8.6万人) あゝそれなのに、特急はもとより、宇都宮線、高崎線も通過する、京浜東北線しか停まらない! さらに、新宿・渋谷に直に行けない! 
 
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●オリンピックに間に合う!・・・・・・・・・・・川口駅から北東に約1Km、昭和34年(1959)に完成した川口市庁舎(鉄筋コンクリート造、地上5階、地下1階)がある。 築後約60年が経過し、現在、老朽化、狭隘化、耐震性能不足など、諸問題を抱えているそうだ。、、、、、建物の中に入ってみたが、よく手入れして丁寧に使われているようで、“古い、汚い、手狭”といった感じはなかった。
 
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・・・・・・・・・・・・・庁舎の諸問題を解決すべく、現庁舎の斜向かいに、新庁舎(1期工事分)を建設中。 1期工事が完成すると、現庁舎を取り壊し新庁舎の2期工事を始めるそうだ。、、、、1期工事の概要は、施設面積:5,574.29㎡、規模:地下1階:地上9階、高さ:37.52m、工期:平成30年1月~平成32年3月、設計は日建設計、施工は地元業者のJV
 
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●用水路のような川・・・・・・・・・・・・川口市庁舎から東に向かい青木橋芝川(しばかわ)を越える。、、、、芝川は桶川・上尾を水源とし、大宮・川口を流れ荒川に合流する荒川の支流である。 昔は江戸と見沼田圃を結ぶ通船路でもあった。、、、、物流の大動脈だったかも?
 
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●持病、治して!・・・・・・・・・・・・・青木橋を渡ると、真言宗智山派寺院の瑠璃山薬林寺がある。 薬林寺の開基は室町時代、開山は錫杖寺を中興した宥淳和尚で、寛正元年(1460)とされている。 薬林寺はその昔、樋の爪村(現:川口市朝日)の芝川のほとりに大伽藍を配し建てられていた。 しかし天正年間(1573~1591)北条氏との戦いに敗れた岩槻太田の落人が、樋の爪村薬林寺へのがれて来た時、村民が集って堂を破壊してしまい、その後再建の時に現在地へ移転したと言われている。、、、、、無量寿阿弥陀如来を本尊とする寺である。 また、境内には川口三薬師の一つと言われている「岡の薬師」と称される薬師堂に薬師如来像が祀られている。、、、、、賽銭もはずみ、目の炎症、腰痛、虫歯、便秘、性欲減退、物忘れ、足のむくみ、などなど、私の持病が治るよう願掛けしてきた。 これ全部治ったら、賽銭箱に万札を入れてもいいね!
 
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●建築費3億円?・・・・・・・・・・・薬林寺の南500m程、岩槻街道に面して旧田中家住宅がある。 今日の散歩の目的地だ。、、、、、田中家は江戸時代から続く麦麹味噌の醸造業と材木商を営み、家業が発展してきた。 また、田中家では家督を相続する者が「徳兵衛」を名乗り、現代に残る邸宅は、4代目徳兵衛(明治8年~昭和22年)が築いたそうだ。 4代目は、埼玉味噌醸造組合の組合長、村会議員、県議会議員、貴族院議員を歴任した。  5代目は戦後、川口市長として地域の発展に貢献した。、、、、住宅は大正10年(1921)に上棟し、大正12年(1923)に完成した煉瓦造の3階建て洋館と、昭和9年(1934)に増築された和館、さらに茶室、文庫蔵、煉瓦塀、池泉回遊式庭園などで構成されている。 建築費は、現在の金額で約3億円(推定)。、、、、、現在は川口市の所有で、国指定重要文化財。
 
・・・・・・・・・・・・・・洋館
 
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・・・・・・・・・・・・・・和館、、、、、洋館と一体として繋がっている。
 
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・・・・・・・・・・・・・庭園
 
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・・・・・・・・・・・・・茶室、、、、、昭和48年(1973)に味噌蔵の建築材を活用して造った。 我が家より広い茶室で、ビックリ・シャックリ!
 
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●埼玉高額鉄道!・・・・・・・・・・・平成13年(2001)3月28日に開業した、埼玉高速鉄道の川口元郷駅から帰る。、、、、荒川を挟み、川口元郷駅と隣の赤羽岩淵駅間の運賃は210円。 JRの川口駅と赤羽駅間の運賃は133円。 やっぱり、埼玉高額鉄道だ!
 
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2018年11月28日 (水)

高円寺の高円寺

今月初めの眼科の定期診断で、右目に小さな炎症が見つかった。 早期発見早期治療で只今、点眼薬で治療中。 今日の診察では、もうしばらく点眼薬を続けるように云われた。、、、、「目は心の窓」、「目は口ほどに物を言う」、、、私の輝く瞳で、受付の女性を見つめてみたが、私の気持ちが通じないようだ、無反応。 「コリャ、間違いなく、目が侵されている」と、自覚した。
 
診察の後、中野の病院から高円寺駅まで歩いてきた。 8千歩。 



落ち着いた都市(まち)・・・・・・・・・・・「中野四季の都市(なかのしきのまち)」は、平成20年(2008)頃から警察大学校の跡地 にできた再開発地域である。、、、、ここには、中央の公園を囲むように、オフィスビル、明治・帝京平成・早稲田の各大学キャンパス、警察病院、中学校などが建ち並んでいる。、、、、一番高い建物はオフィスビルの22階、病院、大学などは10数階建てで、公園も広く、超高層ビルに囲まれた威圧感はない。
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●電車がGO!・・・・・・・・・中野駅の西側に架かる跨線橋を渡り、中央線の北側から南側に移る。 中央線の快速・特快・特急、中央総武線の緩行、東京メトロ東西線が、しきりなしに走り抜ける鉄道ファンには楽しい処。
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●家光は駅名の名付け親?・・・・・・・・・JR高円寺駅の南東に高円寺がある。 宿鳳山高円寺は、弘治元年(1555)に開山した曹洞宗の寺院である。 本尊は観音菩薩で、寺の周辺に桃の木が多くあったことから「桃園観音」と呼ばれている。(チョイと艶っぽい名で、ぜひ一度、拝んでみたい) 将軍徳川家光が鷹狩りの際、度々立ち寄り、お茶の接待をした徳川家ゆかりの寺でもある。 山門、本堂の瓦に三つ葉葵の紋が見られる。 また、高円寺のある地は、かつて小沢村と呼ばれていたが、家光によって高円寺村と改めさせられたそうだ。 寺の高円寺が地名となり、駅名となった。、、、、、高円寺は寛保2年(1742)、弘化4年(1847)、明治33年(1900)、昭和20年(1945)と4度罹災した。 現在の本堂は昭和28年(1953)に、木彫りの名人でもある気仙沼の宮大工:中村青雲により再建された。


・・・・・・・・・・・・山門を入ると、両側に楓の木が並ぶ。 チョイト紅葉には早かったようだ! 
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・・・・・・・・・・・・同じ参道の写真、、、、三年前(15/12/20)に訪れた時の紅葉。

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・・・・・・・・・・・・扁額と中村青雲の彫刻が迎える本堂。 本尊の桃園観音はこの中に! ぜひとも、拝観したいが無理だな。

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・・・・・・・・・・・・本堂の手前には地蔵堂がある。 中央に「桃園子育地蔵尊」、右に三匹のサルと小さな子供の石仏、左に子づくり道具の石仏。、、、、手を合わせたが、はて(?)何を願っていいのやら。
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・・・・・・・・・・・・本堂の隣りに稲荷社。 ここの石造の鳥居は、門柱に龍の細工が施されている「双龍鳥居」である。 双龍鳥居は同じ杉並区の馬橋稲荷神社と品川区の品川神社にもあるが、珍しい鳥居だ。
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●御朱印で客寄せ?・・・・・・高円寺駅の南東100m程の位置に、高円寺が別当寺であった氷川神社がある。 創建年代は不詳であるが、高円寺が開かれたと同時期の鎌倉時代の創建か(?)、、、、、戦災で社殿は焼失し、現社殿は昭和46年(1971)に再建された。 鉄筋コンクリート造の社殿はシンプルでモダンな感じがするが、正面のガラス戸などは埃にまみれ汚れが目立つ。

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・・・・・・・・・・・・境内社の一つに、馬橋4丁目の陸軍気象部に祀られていた気象神社が、戦後、昭和23年(1948)に氷川神社の境内に遷座された。 全国唯一の神社である。 気象予報士を目指す受験生、脱雨男・脱雨女を願う人で、結構、参拝する人が多いようだ。、、、、、神社の絵馬は、天気占いの下駄型である。

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・・・・・・・・・・・・チョイト、聞きかじった話、、、、、氷川神社の御朱印は押されるハンコのデザインが、毎月、季節に合わせた絵柄に替わるそうだ。 また、気象神社の御朱印は、その日の天気によりハンコのデザインを、お日さま、傘、雪だるまなどに替えているそうだ。、、、、、私は御朱印をお受けしていないので問題ないが、受けている人は毎月参拝したくなるね。 出来たら、一年分(12ヵ月)御朱印を授かったら、パーフェクト賞で巫女さんとの握手券を貰えるといいね!      (写真はなし、ゴメン!)



●エライコッチャ・エライコッチャ・電車が着たぞ!・・・・・・・・・・大正11年(1922)に開業した高円寺駅。 駅の名物は「高円寺阿波おどり」で、発車メロディはお囃子をアレンジした曲である。 

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2018年11月26日 (月)

そうか!終点まで行ってしまた

日暮里・舎人ライナーに乗り西新井大師西駅で下車するつもりでいたが、先頭車両の一番前に乗ったため降りたくなくなり、とうとう終点の見沼代親水公園駅まで行ってしまった。 引返すのもイヤなので、見沼代親水公園駅から草加駅までの散歩となった。 1万2千歩。
 
 
 
●いい歳して!・・・・・・・・・・・電車の一番前に乗ると、70過ぎた爺さんでも運転手になった気分で『出発進行!』 恥ずかしさはすっ飛び、カメラ構えて先頭の窓ガラスにへばり付いたまま、終点まで乗ってしまった。、、、、、写真が青っぽく写っているのは電車の窓ガラスの色、私のせいじゃない。
 
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●埼玉県まで伸びない都営交通・・・・・・・・見沼代親水公園駅は東京23区の最北端の駅で軌道はここまで、300m程先からは埼玉県となる。、、、、実現の見通しは低いが、この先鳩ヶ谷方面に延伸する噂はあるようだ。
 
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・・・・・・・・・・・・・・中央の車の後輪のあたりが都県境である。 手前は東京都で、愛称「尾久橋通り」も東京都に入ってから始まるので、「ここから」です。 埼玉県側の愛称は「第二産業道路」という。
 
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●読めない、書けない地名だ・・・・・・・・・・埼玉県川口市榛松(はえまつ)の町に入ると、榛松不動院がある。 真言宗智山派寺院の不動院は、三嶋山龍蔵寺と号す。 不動院の創建年代は不詳だが、400m程北にある榛松三嶋神社傍に創建され、後年現在地へ移転した。
 
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・・・・・・・・・・・・・境内・門前に石塔・石仏が並んでいる。 江戸時代の馬頭観音、庚申塔もある。 
 
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●榛松の町・・・・・・・・・榛松は川口市の東端に位置し、草加市とも接する。 全体的には住宅地のようだ、所々に建設関係の資材置き場もある。 ビニールハウスもあった!、、、、、古い商家、古い農家、古い寺社など、“古い”ものは見当たらない。 戦後、宅地開発で生まれた町かも?
 
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●緑が欲しい寺・・・・・・・・・・・・榛松の隣り川口市新堀の町に入る。 オウ!山門に仁王さまがいる、デカそうな寺がある。 チョイト、寄って行こう。 慶長15年(1610)の開創といわれている、真言宗智山派の天命山正源寺である。、、、、、山門は平成21年(2009)の竣工。 本堂は平成7年(1995)、客殿は平成6年(1994)に建てられたそうだ。 すべてが新しい建物で、仁王像も木像ではなく塑像のようだ。 本堂前は広い墓地と駐車場がある。 しかし、緑の樹々が無い。 実に殺風景な寺であった。
 
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●緑が溢れる寺・・・・・・・・・・草加市西町に入ると、真言宗智山派の真蔵院がある。 寺は長渓山興精寺と号す。 真蔵院の創建年代は不詳、当寺の本尊背面の銘には享保5年(1720)に完成したと標されているそうだ。 江戸時代中期には創建していたと推定される。、、、、、小さな本堂に、緑あふれる境内、田舎の寺を思い出させる素朴な風景を創り出している。 いいね!
 
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●・・・・・・・・・・・・・・・日光街道(国道4号)の歩道橋を渡り、草加駅に向かう。 
 
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●そうか!万の神を合祀したのか・・・・・・・・・・草加神社は、駅西側の草加市氷川町にある神社。 神社は、天正年間(1573~1592)に大宮氷川神社を勧請、氷川社と称して創建、南草加村の鎮守社であったと言われている。 明治6年村社に列格、明治42年に谷古宇稲荷神社、高砂八幡神社、宿篠葉神明神社など近隣の11社を合祀、草加神社と改称した。、、、、神社の本殿は天保(1830-1843)頃の造営と伝えている、拝殿は平成16年(2004)に整備された新しい建物である。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・参道脇の公園には、蒸気機関車:C56(シゴロク)形のSLが保存されている。 昭和12年(1937)に三菱造船で誕生し昭和44年(1969)まで約32年間旅客貨物用として活躍した列車。
 
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●焼いて焼かれた 二人の仲は ザラメまぶして より甘く・・・・・・・・草加駅西口到着。 “胡麻せんべい”と“ざらめせんべい”を土産に買って帰る。
 
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2018年11月25日 (日)

バラと紅葉の古河庭園

空は青く、葉は色づいたようで、夫婦で古河庭園へ行ってきた。 上中里駅から、庭園に寄って駒込駅まで、9千歩の散歩です。   (上中里駅、平塚神社、無量寺は昨年も歩いた。詳しくはコチラへ)
 
 
 
●さあ、年越しの準備だ!・・・・・・・・上中里駅前の平塚神社。 こちらは、紅葉する木々は少なく、七五三も終わり人影も少ない、秋の商売はほぼ終わりとなったようだ。 これから、年末の大祓い、新年の初詣、冬の商売に向け準備だ!、、、、、平塚神社は平安後期の創立と言われている。 八幡太郎源義家が兄弟とともに奥州征伐の凱旋途中に、この地を訪れ領主の豊島太郎近義に鎧一領を下賜した。 近義は拝領した鎧を清浄な地に埋め塚を築き自分の城(平塚城)の鎮守とした。 塚は甲冑塚とよばれ、高さがないために平塚ともよばれた。 さらに近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三御兄弟を平塚三所大明神として祀り一族の繁栄を願ったそうだ。
 
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●バラから紅葉へ・・・・・・・・・・・旧古河庭園は、かつて古河財閥を率いた古河家の邸宅。 現在は国有となり庭園は東京都が、洋館は大谷美術館がそれぞれ管理している。、、、、この地は、明治時代は陸奥宗光の邸宅であった。 宗光の次男・潤吉が古河財閥創業者である古河市兵衛の養子となったため、古河家に所有が移った。 その後、古河財閥三代目の当主:虎之助によって西洋館と庭園が造られ現在の形となった。、、、、洋館と洋風庭園は、湯島の岩崎邸など戦前に多くの洋風建築を手掛けたジョサイア・コンドルの設計により、大正6年(1917)に竣工した。 躯体は煉瓦造、外壁は真鶴産の新小松石(安山岩)で覆われ、屋根は天然ストレート葺き、地上2階・地下1階となっています。 (建物内部に入ってみたが撮影禁止であった) 洋館内部は和洋折衷であるが、岩崎邸などと比べると比較的質素である。、、、、今日は、天気も良く、バラと紅葉を一度に見ようと、多くの人が訪れていた。 どうも、欲張りが多いようだ。 私は、バラと紅葉だけで満足せず、立てばシャクヤク座ればボタン歩く姿はユリの花も観賞したく、キョロキョロしながらの散策。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・日本庭園は近代日本庭園の先駆者として、京都の無鄰菴(山縣有朋別邸)など数多くの庭園を手掛けた小川治兵衛(植治、1860~1933)により作庭された。、、、、、洋館からは見下ろす位置にあるため、館内からは見えずらい。、、、、、紅葉は陽の光を浴び真っ赤に染まった。
 
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・・・・・・・・・・・・・紅葉に招かれたか赤トンボを見つけた。 今や、都会では珍しい御対面。
 
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●都会の中の里の寺・・・・・・・・・・・旧古河庭園の西隣にあるが、山門が庭園とは反対側の裏道に向いて、判りずらいため、訪れる人は少ない。 今日も、我が夫婦だけであった。 静かに佇む真言宗豊山派の寺:無量寺。 創建年代は不詳だが、この地に平安後期から寺院があったことは判っている。 寺地から14世紀頃の板碑が多数確認されているそうだ。 当初長福寺と号し、慶安元年(1648)に江戸幕府から八石五斗余の朱印を賜った御朱印寺。 九代将軍の幼名長福丸と同名であることを避けるため無量寺と改称した。、、、、、この寺は庭の手入れもよく、今日も庭師が入り手入れをしていた。 いつ来ても、里に佇む美しい寺の雰囲気を残している。
 
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●尻を振り振り しもふり歩く 妻は親爺の 下の世話・・・・・・・・・・霜降銀座商店街:「しもふり」をぶらつき駒込駅に向かう。 年寄りはトイレも近くなり、アレ、呼んでいるぞヤバイ!
 
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2018年11月23日 (金)

二人連れの浅草

夕食前の散歩と買い物。 チョイト浅草へ、、、、
 
 
 
●かっぱの通り道・・・・・・・・・国際通りの東側は浅草六区・仲見世・浅草寺である。 私の散歩は、国際通り西側の八幡神社付近から。
 
・・・・・・・・・・・・まずは、西浅草2丁目の八幡神社。 神社は、江戸時代当地域にあった田島山誓願寺が宇佐八幡宮の御神霊分神を勧請して元禄13年(1700)創建された。 明治維新に際して浅草神社の兼務社となる。 昭和20年(1945)の空襲で被災し、昭和24年(1949)に再建した。 その後、昭和47年(1972)に鉄筋コンクリート造により現社殿が完成した。
 
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・・・・・・・・・・・・・八幡神社近くの「かっぱ橋本通り」をチョイト歩く。、、、、「かっぱ橋道具街」に直交する商店街。 商店が多く並ぶが、“どぜう”の飯田屋はその中でもピカピカのピカイチ。 創業:明治36年(1903)の老舗。 お腹が鳴るね!
 
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●カッポレ・カッポレ・そこどけ・カップル・・・・・・・・・・・浅草六区をぶらつき、木馬館を覗き、浅草寺へ向かう。、、、、祝日のせいかカップルが多い、羨ましいね!、、、、、大衆演劇の木馬館は御老人専門(?)
 
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●収入が気になる寺、さぞ儲かっているでしょう!・・・・・・・・境内は、“満員御礼”の垂幕があってもよさそうな混み様。
 
・・・・・・・・・・・・・まずは、浅草寺本堂の左奥にある淡島堂に参る。、、、、元禄年間(1688~1704)に紀州加太の淡島明神を勧請して堂が建立された。 現在の淡島堂は、戦後、旧影向堂の仮本堂であった建物を移築・改修したもので、本尊は阿弥陀如来。、、、、、毎年2月8日には、淡島堂にて「針供養」が営まれる。 この日は、日頃使用して折れた針を柔らかい豆腐に刺して感謝の意を表すもので、多くのご婦人方で賑わうそうだ。、、、、注射針も焼き豆腐に刺して供養し、若い看護士さんで賑わうといいね! 見に来たい!
 
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・・・・・・・・・・・・・淡島堂と本堂の間に橋本薬師堂がある。、、、、当初は観音堂の北方にあって北薬師と呼ばれた。慶安3年(1649)三代将軍徳川家光が観音堂の北西に再建し、堀に架かる橋の傍らにあったので、家光自身が橋本薬師堂と名付けた。平成6年(1994)現在の場所に移転、建物は桁行3間×梁間3間。 屋根は入母屋造瓦葺。外部はかなり改変され、前面にあった向拝は取り除かれているが、浅草寺境内に遺存する堂宇の内、浅草神社の社殿と同時代で二天門や影向堂脇の六角堂に次ぐ古建築である。 薬師如来座像を本尊とし他に前立ちの薬師如来と十二神将像が安置されている。、、、、扉は閉まり、中は見えない。
 
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・・・・・・・・・・・・・さて、本堂に到着。 浅草寺本堂は本尊の聖観世音菩薩を奉安することにちなみ、観音堂とも呼ばれる。 旧本堂は国宝に指定されていたが、昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲により焼失した。 その後全国の信徒からの浄財により、昭和33年(1958)に今日の本堂が再建された。  本堂の設計は川崎大師、増上寺なども手掛けた大岡 實(1900~1987)、施工は清水建設。
 
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・・・・・・・・・・・・・・本堂周辺もパチリ!
 
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●皆さん幸せ!・・・・・・・・・・・おみくじ“吉”で喜び、“凶”で騒ぎ、どちらにしても今宵は泊まって二人は幸せ。 どうも羨ましいカップルばかり。 
 
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●日も落ち、男一人さみしく帰る・・・・・・・・・寒くなった、青森でも初雪が観測されたそうだ、風邪をひかないように、温かい缶コーヒーで飲みながら帰ることにした。
 
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2018年11月21日 (水)

上り下り、キツイ小日向

午後から水道橋の循環器クリニックで、定期診断を受け。 帰りに、江戸川橋駅と茗荷谷駅の間にある文京区小日向(こびなた)の町をチョイト歩いてきた。
 
 
 
●幕府直轄の橋・・・・・・・・江戸川橋駅の東側約200mのところに、神田川に架かる古川橋がある。 現在の橋は平成21年(2009)に架けられた、長さ20m程の1径間PC桁橋。、、、、、この橋の初代は江戸時代と思われる。(私の推測、根拠なし) たしかなのは、江戸時代、将軍が鷹狩りの際に通行するルートであったため幕府直轄の橋とされていたそうだ。 この橋の北側に服部坂がある。、、、、、頭上には、首都高5号池袋線が走る。
 
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●忍者ハットリくんの住まい跡?・・・・・・・・・・古川橋を渡り直進すると小日向1丁目と2丁目の境に服部坂がある。、、、江戸時代、坂の上に服部権太夫の屋敷があり、それで服部坂と呼ばれたそうだ。 その服部権太夫とは、徳川家康幕下の旗本、三河の出で、千葉県夷隅郡岩熊村の領主(300石)である。、、、、、現在は服部氏屋敷跡には、明治2年(1869)に小日向神社が移された。
 
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・・・・・・・・・・・・・小日向神社は、当社付近にあった氷川神社と八幡神社とが合祀して明治2年(1869)に小日向神社となった。、、、、氷川神社の創立は天慶3年(940)、八幡神社は貞観3年(860)の創立で、共に古社であった。
 
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●上って下りて・・・・・・・・・神田川から服部坂を上り、小日向台地を西に向かうと、神田川へ下る坂がある大日坂である。 小日向2丁目の南端中央に位置する。、、、、坂の途中に、大日堂と称する寺があることに由来する。
 
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・・・・・・・・・・・・・大日堂とは、天台宗寺院の覚王山妙足院のことである。 妙足院は、寛文年間(1661~1673)に創建したといわれ、本尊の大日如来は、慈覚大師が唐で賜った像で霊験あらたかだと言われている。、、、、、まさに、“お堂”と呼ばれるイメージに近い寺である。、、、、、数年前、こちらの住職に美味しい落雁を頂戴したことを思い出した。 その節は、有難う御座いました。
 
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●戦後生まれ(?)の閻魔さま・・・・・・・・・・・・台地から大日坂を下り西にチョイト歩くと、浄土宗の安養山還國寺(げんこくじ)がある。 今から380年程前(寛永8年、1631)神田神保町にその名を残す旗本神保氏が、増上寺の僧を招き現在の新宿筑土町に庵を作ったのが創建である。 その後明歴の大火により現在地に移転した。、、、、還国寺は周囲を住宅に囲まれた崖下の小さな寺で、境内は墓石や石仏で手狭に見える。
 
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・・・・・・・・・・・・・境内の一角に閻魔堂があり中で、色つやのよい閻魔大王が睨みをきかせている。、、、、還國寺の古い像は戦災などで無くなり、閻魔大王もその後作られたものである。
 
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●再び、小日向台地を上る・・・・・・・・・・還國寺の裏手(北側)の鷺坂(さぎさか)を上る。 坂上の高台には、徳川幕府の老中職をつとめた旧関宿藩主・久世大和守の下屋敷があった。 しかし、この坂は江戸時代にはなく、大正以降、住宅地となり造られた坂である。、、、、、坂上に住む堀口大学や、近くに住んでいた詩人の三好達治、佐藤春夫らによって山城国の久世の鷺坂と結びつけ「鷺坂」という名が、自然な響きをもって世人に受け入れられてきたそうだ。、、、、、“Z”型の坂の形状と、キツイ坂の勾配は、小説の舞台となりそうだ。、、、、、この坂、道幅が狭いのに一方通行ではないのだ! 上りと下りが対面すると、運転手の怒鳴り声が聞こえるらしい。 近所の人が嘆いてた。
 
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●また下る!・・・・・・・・・・台地の上を東に向かい、再び服部坂の上に戻ってしまった、シマッタ・シマッタ! 服部坂の東側(小日向1)、福勝寺門前に横町坂がある。 今度は下りだ!、、、、、鉄砲屋敷(?)の横町なのでその名があるそうだ。、、、、、“鉄砲屋敷”とは何だ!(調べてみたが???)
 
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●名はあるが、由来は?・・・・・・・・・・・横町坂を下り、北へ向かうと、またまた上り坂。 その名は薬罐坂(やかんざか)。 名の由来は?、、、、、坂の東側に小日向公園、西側に浄土宗の生西寺がある。、、、、裏道の人通りも少ないこの坂では、坂の案内標識もない。 名のある坂には、標識を付けて欲しいね、ぜひ、区役所にお願いしたい。
 
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●バテレンの牢・・・・・・・・・・小日向1丁目の住宅地の一角に「切支丹屋敷跡の碑」がある。 碑のある付近一帯は、もと宗門奉行井上筑後守政重の下屋敷だった。 正保3年(1646)岡本三右衛門を始め卜意・南甫ら禁制の切支丹宗徒を監禁するため、下屋敷を切支丹牢屋敷(別に山屋敷の俗称)にした。 岡本三右衛門はイタリア人で、本名はギュセッペ・キアラと云う。 寛永20年切支丹禁制下布教のため潜入したが捕らえられた。 取調べを受け、締められると直ぐに棄教、日本人妻を娶り、名を岡本三右衛門と名乗って恭順の姿勢を示し山屋敷に住み、貞享2年(1685)に没した。 牢に入れられた切支丹は相次いで死亡し、正徳4年(1714)頃、牢は焼失した。 僅かに役所・倉庫などが残されたが、寛政4年(1792)それらも廃され、跡地は分割されて旗本宅地とされた。 切支丹屋敷の面影はことごとく消えてしまった。、、、、、平成26年(2014)、切支丹屋敷跡の発掘調査が行われ、3体の人骨が出てきた。 その内の1体はイタリア人神父である可能性が高いそうだ。 アーメン。
 
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●蛙坂を下り、帰る・・・・・・・・・・・・・切支丹屋敷から茗荷谷駅に向かう途中、貞静学園短大横に「蛙坂(復坂)(かえるざか)」がある。 坂の標識によると、『坂の東の方はひどい湿地帯で蛙が池に集まり、また向かいの馬場六之助様御抱屋敷内に古池があってここも蛙がいた。 むかしこの坂で左右の蛙の合戦があったので里俗に蛙坂とよぶようになったと伝えている。 なお、七間屋敷とは切支丹屋敷を守る武士たちの組屋敷のことであり、この坂道は切支丹坂へ通じている』
 
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●蛙坂を下り、私も帰る!・・・・・・・・・・・坂が多く、上り下りはチョイト、キツイ。 近くのミーハー女子大生を観賞しながら、駅に向かうことにした。
 
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2018年11月19日 (月)

古道を歩く、大塚道・王子道

我が家で地図を見ていたら、大塚駅前から都電荒川線沿いに一般道が飛鳥山まで伸びている。 一般道は町ごとに、折戸通り、栄通り、お岩通りなど、名がついている。 各通りは以前歩いたこともあるが、今日は大塚駅から王子駅まで通しで歩いてきた。 1万歩。
 
 
 
●レトロ感が残る駅・・・・・・・・JR大塚駅は、明治36年(1903)の池袋~田端間開通時に、池袋・巣鴨・駒込の3駅と同時に開業した。 その後、明治44年(1911)に王子電気軌道(=王電、現:荒川線)が大塚~飛鳥山間で開業する。 この時、王電の現:大塚駅前停留場は現JRの真下に乗り入れた。、、、、大塚駅ガード下の停留場、レトロな感じが残ってるね!
 
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・・・・・・・・・・・・・大塚駅ホームから見下ろす北口駅前。 右端のビル陰に大塚道がある。
 
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●流転の不動・・・・・・・・大塚駅北口前のビルの一角に「瀧不動」が祀らている。、、、かつて、大塚駅の北から南東方向に谷端川が流れていた頃、現:豊島区北大塚1-14付近の谷端川沿いに石造不動明王立像があり、地元の人々の信仰を集めていた。 川の流れが小さな滝のようになっていた場所に位置していたため「瀧不動」と呼ばれていた。 ところが、昭和10年(1935)頃に行なわれた谷端川の暗渠化工事に伴い「瀧不動」は所在場所の近隣居住者の個人所有となり、敷地内で維持管理されるようになった。 その後、昭和20年(1945)4月の空襲で直撃を受け、台座部分を残し破損した。 昭和30年(1955)頃、かつての所有者が石造不動明王坐像として再造立し、空襲の際に破損を免れた台座に据え、所有者敷地内に安置した。 その後、平成11年(1999)の所有者自社ビル建築に伴い、石造不動明王坐像も現在地に移設・安置された。、、、、いろいろ苦労を重ねた石仏のようだ。 駅前なので、行き交う人の中には手を合わせて行く姿が見られる。 きっと、ご利益あるよ!
 
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●古道だった折戸通り・・・・・大塚駅前から北上し庚申塚交差点までの「折戸通り(おりどどうり)」。 この道は、鎌倉時代頃にはあった「大塚道」で古道である。
 
・・・・・・・・・・・・・「折戸通り」の入口。 折戸は、この付近の旧地名。
 
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・・・・・・・・・・・・・通りの奥から、ガタンゴトン・ガタンゴトン、電車の走る音が聞こえる! 大塚駅前停留場を出た電車が、次の巣鴨新田停留場に向かう音だ。
 
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・・・・・・・・・・・・・・通りの両側は“元気な商店街”という雰囲気はないが、そこそこの数の店舗が並んでいる。
 
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・・・・・・・・・・・・・・折戸通りに面する文化の発信拠点を2つ。、、、、平成6年(1994)に完成した座席数約130の萬劇場は、年間50~60本の演劇公演が行われているそうだ。 また、2台のグランドピアノをそなえた、座席数50の音楽サロン:西巣鴨音楽堂。、、、、小劇場に小ホール、ぜひ一度は行ってみないと!
 
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・・・・・・・・・・・・・折戸通りの終わりは庚申塚交差点
 
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●美人に弱い猿田彦・・・・・・・・・・折戸通りが巣鴨地蔵通りにぶつかる庚申塚交差点角に巣鴨庚申塚がある。 巣鴨庚申塚は江戸時代中山道の立場として栄え、旅人の休憩所として簡単な茶店もあり、人足や馬の世話もしていました。 ここは中山道板橋の宿場にも近く、地蔵通りを巣鴨駅の方から来ると、右に向かえば桜の名所:飛鳥山にでる王子道。 左に向かうと今来た大塚道(折戸通り)である。 庚申塚には、道しるべを兼ねた立派な庚申塔が建っていたそうだが、今は庚申塚に埋められていると言われている。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・現在は、庚申塚に猿田彦大神を合祀している。、、、、猿田彦大神は、天孫降臨の時に天の神々の通り道に立ちふさがっていた神で、猿とは直接的な関係はない。 その時、この猿田彦を色気で悩殺し、天孫降臨を先導させたのは、天照大神が天岩戸にこもったとき、胸乳をかき出し腰巻をズリ下げてベリーダンスをした美人の天鈿女命(あめのうずめのみこと)である。(私も同席して踊りを見たかった) この先導以来、猿田彦は「道と境界を守る神」つまり道祖神と同一視され、信仰されるようになる。、、、、庚申堂では、狛犬に変わり猿神。
 
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・・・・・・・・・・・・・すぐ近くには「庚申塚停留場
 
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●アッという間に通り抜け・・・・・・・・・・庚申塚交差点から北に「栄和通り」となる。 この交差点が、飛鳥山に向かう古道「王子道」の始まり。 栄和通りは都電に並行して、白山通り(国道17号)までの約300mである。 
 
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・・・・・・・・・・・・・白山通りを挟み「新庚申塚停留場」がある。
 
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●巣鴨の四谷怪談・・・・・・・・・白山通りから、王子道は「お岩通り」と呼び名が変わる。 お岩通りは、途中に四谷怪談のお岩様の墓があることから名付けられた。 お岩通りの端は西ヶ原4丁目。
 
・・・・・・・・・・・・写真、右端から中央奥に向かう道がお岩通り。 幽霊は出ません!
 
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・・・・・・・・・・・・・踏切の正面に、お岩様の墓がある妙行寺 。 お岩様は田宮家により丁重に弔われ一段高い処に祀られている。 階段下に田宮家の墓が並ぶ。、、、、この寺は四ツ谷にあったが明治42年(1909)に現在地に移転した。 それで、お岩様も縁がなかった、巣鴨のお地蔵様の近くに引っ越したという。
 
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・・・・・・・・・・・・・お岩通りの終点。 西ヶ原4丁目。
 
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●飛鳥山までもう少し・・・・・・・・・・・・西ヶ原4丁目から先の王子道には、愛称はつけられてない。 名無しの道は飛鳥山停留場までの続く。
 
・・・・・・・・・・・・西ヶ原四丁目停留場。 王子道は都電とクロスする。
 
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・・・・・・・・・・・・・・滝野川1丁目には、「元文五庚申」(1740)「十二月吉日」が読み取れる庚申塔が道端にある。、、、、庚申塔に綺麗な花が、ご近所のお婆さんが供えたものか? このような供え物をするお爺さんを想像するには無理があるね。
 
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・・・・・・・・・・・・・手入れの行き届いた木造住宅。 どちらも、雨戸が閉められているが、空き家ではないようだ。 将来に向け残して欲しい住宅だ!
 
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・・・・・・・・・・・・・大正13年(1924)創立の桜丘中学・高等学校円形校舎が見える。、、、、、円形校舎は、建物の平面形状が円筒形になっている校舎で、昭和30年代(1955)頃に多数建設された。 円形にすることで廊下や壁が節約でき、建設コストを安く押さえることができ、狭い土地を有効活用できることから、注目されブームとなり全国で100棟以上建てられた。 しかし、その後は建設されず、築後50年以上経過した現在は残っている建物も少なくなってきた。、、、、建物が授業中に回転すると面白いね!
 
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・・・・・・・・・・・・・飛鳥山に近づき道幅は狭くなって約50m進むと、明治通りに出る。 
 
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・・・・・・・・・・・・・「飛鳥山停留場」も近い。 停留場の前は飛鳥山 。 これにて、本日の王子道の散歩は終わり。
 
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●・・・・・・・・・・・王子駅から帰宅。 
 
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2018年11月17日 (土)

夕暮れの立石

荒川に夕日を撮りに行ってきた。 ついでに、京成押上線四ツ木駅から立石駅まで夕暮れの散歩。 9千歩。
 
 
 
●ぎんぎんぎらぎら 夕日が沈む・・・・・・・・夕日を撮りに荒川に、また来てしまった。
・・・・・・・・・・・・・夕日が沈みはじめた四ツ木駅で下車する。、、、、、ホームに立つと夕日が目を射し眩しい。
 
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・・・・・・・・・・・・・・木根川橋も夕日に染まっていた
 
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・・・・・・・・・・・・・荒川土手からみる夕日、今日はナイス!
 
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・・・・・・・・・・・・・・東四つ木避難橋には、三脚を据え夕日を捉える人もいた。
 
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・・・・・・・・・・・・・夕日を見ながら歌う。 ♪♪ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む ぎんぎんぎらぎら 日が沈む 真っ赤っ赤っ赤 サルのケツ みんなのおケツも真っ赤っ赤 ~♪♪ アレ?・・・? 小学校で習った歌と違う、失礼しました。 この歌は下校時に歌ったものです。
 
 
 
●宵闇の散歩道・・・・・・・・・夕日も沈み夕暮れとなり、立石駅まで歩いてきた。
 
・・・・・・・・・・・・・四ツ木駅の北側に延びる「まいろーど四つ木商店街」、道路拡張の為か店の数は減り、街路灯に商店街の旗が空しくなびく。
 
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・・・・・・・・・・・・・・寂しい商店街からはずれ、寂しい裏道を行く。 四つ木2丁目付近。
 
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・・・・・・・・・・・・・立石3丁目付近から線路際を歩く。 四ツ木~青砥間のこの付近では高架化工事が始まっている。
 
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●ボツボツ、チラホラ・・・・・・・・・立石駅南側の「立石仲見世商店街」と「立石駅通り商店街」は、夕飯の買い物をする人がボツボツ。 飲んでる人もチラホラ。、、、、、この付近も再開発の話が進んでいるようだ。 いつまで続くのか、下町のこの光景。
 
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●夜の立石駅・・・・・・・・・・明かりに浮き出る夜の駅、日中の雰囲気とは変わり、寂しげではあるが心安らぐのはなぜだろう。
 
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2018年11月16日 (金)

のどかに散策、東松戸から

押上で東武に乗換て北千住方面に行く予定で、浅草線浅草橋駅のホームに立つと、今夏から運転された浅草線新形車両5500形が入ってきた。 ラッキ~~、迷わず印旛日本医大行きのこの電車に飛び乗り、急遽行先変更し北総線東松戸駅まで新形車両の乗り心地を楽しんだ。、、、、、散歩は東松戸駅から武蔵野線沿いに奉免町まで1万歩。
 
 
 
●歌舞伎の顔・・・・・・・・・・・・外観は歌舞伎の隈取りを今風にアレンジしたデザイン、内装は落ち着いた和の雰囲気のデザインの東京都交通局5500形新形車両。 “観て楽しい、乗って楽しい車両”である。、、、、、今年度中に8編成が運用となるそうだ。
 
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●高いね!北総線・・・・・・・・・東松戸駅 は、平成3年(1991)3月31日に北総開発鉄道の駅として開業し、平成10年(1998)3月14日にJR武蔵野線の駅が開業した。、、、、、北総線の駅は地上17mの高さにあるが、それ以上に高いのが運賃である。 我が家(浅草橋)からだと、浅草橋→押上→高砂→東松戸の北総線利用ルートでは、所要時間約25分、運賃770円。 浅草橋→西船橋→東松戸のJRルートでは、所要時間約40分、運賃470円。 北総線ルートの運賃はJRルートの約1.6倍、コリャ高い! 所要時間はかなり短いのだから、その分負けて安くして欲しいね。
 
・・・・・・・・・・・・・北総線東松戸駅は、3階に改札、4階に島式ホーム2面4線の高架駅。
 
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・・・・・・・・・・・・・・JRの東松戸駅は、1階に改札、ホームは2階。
 
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●緑の中を散策・・・・・・・・・小春日和の下、武蔵野線に沿って西船橋方向に歩く。
 
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・・・・・・・・・・・・・・「新堀込遺跡」の標識が畑の中に立っている。 縄文時代の貝塚は地中に埋め戻され見えない。、、、、、せめて、味噌汁のシジミの殻、フライドチキンの骨などを埋めておいて、見ることができれば嬉しいのだが!
 
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・・・・・・・・・・・・・掘割を走る武蔵野線
 
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・・・・・・・・・・・・・ナンジャ、アレ?、、、、、視線の先に、グランドキャニオンの岩山のような形のものが見える。 灰色の表面はモルタルか? かなり大きいぞ! 上部に窓のような穴が開いている、誰か地元の人に聞いてみよう。 しばし人影を求め探すが、誰も通らない。、、、、、どうしても気になるので、地図を開き方角を求め、推理・・・何だろう?、、、、、も一度、カメラの望遠で覗く。、、、、、10分後、判った! NTT松戸高塚(電話局)の鉄塔を足場で覆い、塗装工事(?)でもしているのだ。灰色は工事用のシートの色だった。、、、、、、帰宅後、調べてみたら、4年前に近くで撮影した鉄塔の写真(下)があった。
 
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・・・・・・・・・・・・景色は畑から、林の中を抜け、再び武蔵野線が見えた。 線路は複線が三線になった、これは次の市川大野駅の中線が分岐したからである。、、、、駅はスグソコ!
 
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●・・・・・・・・・・・JR武蔵野線の市川大野駅 の前に出た。、、、、ここからは、武蔵野線の東側を歩いてみた。 初めて歩く道だ!
 
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●楽しそうな寺があった!・・・・・・・・・・駅から200m程東に向かうと、日蓮宗寺院の本光寺がある、光胤山と号す。 本光寺は、中山法華経寺の上人が、正平16年(1361)に創建した。 現本堂は昭和42年(1967)に再建。、、、、境内のあちらこちらに貼り紙・案内・置物・像があり、ナンダか、いろいろ賑やかな寺のようだ。
 
・・・・・・・・・・・・・本堂屋根にはソーラー発電が設けられ、光熱費節約!
 
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・・・・・・・・・・・・・境内には最近作られたと思われる、石塔・石像などの墓碑が10基以上点在する。 各墓碑には賽銭箱も備えられ、財布は空になる。
 
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・・・・・・・・・・・・・・本堂前には“浄土”宛ての郵便ポストが置かれていた。 お婆さんが、亡くなったお爺さん宛に、『一人で呑気に女遊びしないでね』と便りを送るのかな?
 
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・・・・・・・・・・・・・本堂の賽銭箱前には“お参り”について、チョイト丁寧な説明文があった。、、、、、本堂では“縁結び”を、本堂前の稲荷堂では“縁切り”を、両方お願いするとどうなるのかね?
 
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●姫宮の町に着いた!・・・・・・・・・・・市川大野駅からは千葉県道9号船橋松戸線を歩いた。 道端に、南無妙法蓮華経と彫られた題目庚申塔(寛政8年(1796)の銘)があった。
 
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・・・・・・・・・・・・・道は、高貴な美女:常盤井姫が住みついたといわれている、先日歩いた奉免町 に出た。、、、、、ここからは、バスで本八幡駅に行き帰宅。 

2018年11月14日 (水)

東糀谷の双子の水門

京浜急行空港線の大鳥居駅で下車し、南前堀水門、北前堀水門を見て、大鳥居駅に戻る、9千歩の散歩。
 
 
 
●オオ、鳥居がない!・・・・・・・・・・・環八通り(都道311号)と産業道路(国道131号)が交差する「大鳥居交差点」の真下に、十文字を斜めに切るように大鳥居駅の地下ホームがある。、、、、、大鳥居駅は、明治35年(1902)6月28日、蒲田~稲荷橋間開通と同時に開業。駅名は、当時、穴守稲荷の大きな鳥居が現在の駅付近にあったことに由来する。 大鳥居駅からなくなった大鳥居 は、現在、天空橋駅付近(羽田空港島の多摩川寄り)に移設されている。、、、、、大鳥居駅の地下化は、昭和60年(1985)に着工し、平成9年(1997)11月23日に地下ホームとなり営業を開始した。 まさに大鳥居交差点(駅ホーム)の部分だけを地下化したような構造で、地下ホームに立つとホーム両端の先には地上へ向かい線路が伸びている。
 
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・・・・・・・・・・・・・出入口は東西に1か所。
 
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●双子の水門!・・・・・・・・・・・羽田空港の西側を流れる海老取運河に接続する二つの用排水路に同じような水門がある。 その名は、「南前堀水門」と「北前堀水門」。 両水門は東京湾の高潮災害から地域を守るために造られた。 南前堀は大田区東糀谷6丁目と羽田旭町の境に、北前堀は南前堀から300m程北側に寄った東糀谷6丁目の町にある。 二つの用排水路とも、現在は末端部200~300m程が船溜まりとした利用され残されている。 その先は、これまた同じように用排水路は埋められ、それぞれ「南前堀緑地」、「北前堀緑地」として公園となっている。、、、、両水門の形式・大きさ・竣工年度も同じである。 形式は単葉ローラーゲート式、水門の大きさは幅6mX高さ5.5m、昭和41年(1966)完成。
 
・・・・・・・・・・・・・南前堀水門、、、、、用排水路は首都高速・横羽線の高架下で、水門は海老取運河に面している。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・水門の内側には、首都高下に船泊がある。(現在は係船禁止のようだ) 水門から300m程で水路も埋め立てられていた。
 
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・・・・・・・・・・・・・・その先には、水路を埋め立てた「南前堀緑地」が約400m続く。
 
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・・・・・・・・・・・・・・緑地の端部(水門から最も離れた処)に、煉瓦造りの南前堀排水場跡がある。、、、、、案内板には、「この排水場は糀谷地域の地盤が低いので、満潮の時海水が逆流しないように水門を設け、雨水や生活排水を堀へポンプで排水するために造られたものです。特に台風など大雨の降った時には街を水害から守るため、おおいに活躍しました。 排水場は東京都で建設し、昭和十八年より大田区が引継ぎましたが、下水道の普及により、昭和五十六年に廃止し、同年に堀も埋立て、緑地として区民に利用されることになりました。」、、、、、、昭和初期の建物と思われるが、“資料館”などにすれば、まだまだ使えそうだ。 素敵な建物でこのままではもったいない! 
 
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・・・・・・・・・・・・・・北前堀水門、、、、、こちらの水門は海老取運河から約100m、用排水路を入った位置にある。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・水門の内側には100m程が、船溜まりとして使われている。
 
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・・・・・・・・・・・・・船溜まりの先は、水路を埋め立て「北前堀緑地」が約600m続く。 こちらの緑地の端部にも、北前堀排水場があったが取り壊された。
 
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・・・・・・・・・・・・・緑地の中程には、水路を埋め立て後、昭和59年(1984)に架けられた北前橋がある。 一般道の下を、緑地の散策が安全にできる心配りだ。
 
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●ここでも建て替え・・・・・・・・・・南前堀水門の西側に「東糀谷六丁目アパート」がある。 昭和45年~46年(1970~1971)に建てられた、全7棟(783戸)のチョットした団地である。、、、、築後50年程になる団地で、高層棟もあるが、5階建ての中層棟から建て替えの話があるそうだ。 最近、彼方此方で、都営住宅の建て替えが多いね! より高層化して、実入りを増やし、オリンピックの財源にするつもりか?
 
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・・・・・・・・・・・・・羽田空港寄りの棟の10階からの眺望。 手前は羽田中学校、その先に海老取運河、対岸は羽田空港。、、、、なかなか、いい景色だ! 
 
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2018年11月10日 (土)

大森の閻魔大王

大森の密厳院に閻魔大王が居ると聞き、ぜひお会いしたくなった。 チョイト事前の情報を整理していたら、その寺には八百屋お七の地蔵さまも居ると判り、こちらにもお会いしてみたくなった。 お寺は大森海岸駅の近く、ならば、お七が火炙りになった鈴ヶ森にも寄ってみよう。、、、、、、そう云うことで、京浜急行立会川駅から平和島駅まで、9千歩の散歩です。
 
 
 
●通過します!・・・・・・・・特急電車は遠慮もなく、猛スピードで通過していく、ベンチに座ったお客は動かない。 チョイト悲しくなる立会川駅。、、、、、明治37年(1904)5月8日に開業。 
 
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●神社のM&A・・・・・・・・・・・立会川駅から南へ100mたらず、この地の鎮守:天祖・諏訪神社がある。天祖神社の祭神は天照大神と豊受大神で、諏訪神社は、建御名方刀美神と小碓命を祭神とし、両社を併せて古くは神明宮・諏訪社と称し、かつては東京湾に面し、立会川を挟んで並んで祀られていた。 天祖神社の創建は、西暦1100年から1190年頃に遡ると謂われている。 諏訪神社は、江戸時代初期の寛永8年(1631)以前の創建と思われる。 両社は昭和40年(1965)に合祀され天祖・諏訪神社と称されるようになった。、、、、綺麗に均整のとれた社殿は、昭和40年(1965)に改築された。
 
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●家康も歩いた旧街道・・・・・・・・北品川~鮫洲辺りまでは商店が並び、『旧東海道』として賑わいのある道だが、、、、しかし、立会川を越えると商店は少なく、会社・マンションなどが目立つ。 何か、面白いものはないか、左右に首振り歩く。 何もない!
 
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・・・・・・・・・・・・・・看板建築の建物があった! 味わい深い建物である。
 
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・・・・・・・・・・・・・・こちらは、海運稲荷神社。 海運業の商家が商売繁盛を願い祀ったのかな?
 
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●南無妙法蓮華経・・・・・・・・・旧東海道が第一京浜国道にぶつかる品川区南大井に鈴ヶ森刑場跡がある。 鈴ヶ森刑場は、日光街道の小塚原刑場、中仙道の板橋刑場とともに3大刑場といわれた。 徳川幕府の南の処刑場である。、、、、この近くにある鈴ヶ森八幡社(磐井神社)に鈴石(振ると音がする酸化鉄の一種)があったため、いつの頃からか「鈴ヶ森」と呼ばれるようになった。、、、、刑場は、慶安4年(1651)に開設された。 間口40間(74m)×奥行9間(16m)という広さがあり、閉鎖される明治4年までの220年の間に10万人から20万人もの罪人が処刑されたといわれている。、、、、、刑場は東海道に面し、江戸への入口にある。 当時は浪人による犯罪も増え、彼らに警告を与える意味でこの場所を選んだと言われている。、、、、刑場に隣接する日蓮宗の寺院:鈴森山大経寺が無縁受刑者の回向供養を専らとし、現在に至る。
 
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・・・・・・・・・・・・・磔台火炙台の石が残されている。 花と線香があげられていた。 
 
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・・・・・・・・・・・・・四角い石に四角い穴があいた磔台(はりつけだい)、、、、、説明文によると、丸橋忠弥を始め罪人がこの台の上で処刑された。 真中の穴に丈余の角柱が立てられその上部に縛りつけて刺殺したのである。、、、、、、十字架のようなものに縛られ、下から槍で刺される、磔は痛そうだ、刑の執行も見たくない!
 
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・・・・・・・・・・・・丸い石に丸い穴があいた火炙台(ひあぶりだい)、、、、、説明文によると、八百屋お七を始め火炙の処刑者は皆この石上で生きたまま焼き殺された。 真中の穴に鉄柱を立て足下に薪をつみ縛りつけて処刑されたのである。、、、、、想像を絶する怖さ、懇ろに手を合わせてきた!
 
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●・・・・・・鈴ヶ森刑場跡付近で、第一京浜国道(国道15号)を横断し、京急大森海岸駅前を抜け、大田区大森北の町に入る。
 
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・・・・・・・・・・・・・大森北のカトリック大森教会にお立ち寄り。 大正時代に創立し、昭和初期は高さ17mの鐘楼を持つゴシック式の素晴らしい建物の教会であった。 昭和20年(1945)の空襲で教会は焼け落ち、昭和47年に現在の聖堂が完成した。
 
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●閻魔さんも八百屋さんも・・・・・・・・大田区大森北3丁目、本日の散歩の目的地:密厳院がある。 真言宗智山派寺院の密厳院は、八幡山祈念寺と号し、文安5年(1448)に法印雲誉が創建したといわれています。、、、、、モダンな本堂が建てられた。
 
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・・・・・・・・・・・・・顎髭のある閻魔大王は本堂の御本尊の脇に祀られていた。 像は江戸時代の物で、約115cmとのこと。 本堂新築の折りに閻魔大王像も修復されたそうで、ピカピカの綺麗な姿をしていた。 チョイト、迫力不足だ!
 
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・・・・・・・・・・・・・境内にある石造地蔵菩薩立像(お七地蔵)は、高さ1.6m。 天和2年(1682)、恋故に放火の罪に問われ、鈴ヶ森刑場で火炙りの刑に処せられた八百屋お七の霊を供養するために、お七の住んでいた小石川の念仏講の人々が、三回忌にあたる貞享2年(1685)に建てたもの。(写真:中央)、、、、、地蔵さんではお七の容姿が想像できない。 美人だったのか気になるところ。
 
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●・・・・・・・・・・・・・浄土真宗本願寺派寺院の最徳寺は、明光山と号す。 寺は、文暦元年(1234)鎌倉において藤原氏の一族永頓開基、権少僧都永順が開山したと言われている。徳川家康の関東入国後に当地へ移転した。
 
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●稲荷すし詰め・・・・・・・・・・最徳寺から平和島駅まで、約600mほどの道沿いに数社の稲荷がある。 稲荷、稲荷、稲荷、と続く。
 
・・・・・・・・・・・・・その1、、、、、東貫森稲荷神社
 
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・・・・・・・・・・・・・・その2、、、、、穀豊稲荷神社、、、、町内会館と同居?
 
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・・・・・・・・・・・・・・その3、、、、、、甘酒稲荷神社、、、、咳に効く神で、治ると甘酒を献じる。
 
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●神社・寺が多すぎた!・・・・・・・・平和島駅 に到着。 今日は、なぜか疲れた! 気力なし!
 
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2018年11月 7日 (水)

壁に藁束つめた奏楽堂

去年の春、男の一物に痛みを感じ、上野の病院で診てもらった。 以来、この病院には定期的にお世話になり、今日もその後の定期検診があった。 『その後、いかがですか』 『ハイ、気になるような痛み、異常はなく、オシッコの出もいいです』 『それは良かった、では次回は年明けにしましょう』 診察は簡単に終わったと思った時、『アッ、調子いいようなので、前立腺癌の検査しておきましょうね、採血して帰ってください。 結果は次回お知らせします』のお言葉。 アリャリャ、コリャ、ひょとすると、癌があるのかな? 先生は何か隠していないか? 脳裏をかすめる嫌な予感。 もし癌があったら、しかも末期癌で全摘出手術、ウヮ~~70歳過ぎて御釜になるかも、恥ずかし~~い! この正月は、癌が見つからないことを祈り、願うばかり。、、、、、焦心に駆られ、病院をあとにする。 
 
上野駅前まで歩いてきたら、癌のことはスッカリ・サッパリ・キッパリ忘れ、奏楽堂が見たくなり寄ってきた。
 
 
 
●日本最古の音楽ホール・・・・・・・・・・上野公園の東京都美術館の北側、そして東京藝術大学に隣接する閑静な地に奏楽堂がある。 森の中の木造の建物は明治のロマンと懐かしさをよみがえらせ佇んでいる。、、、、、奏楽堂(旧東京音楽学校奏楽堂)は、東京藝術大学音楽学部 の前身、東京音楽学校の校舎として、文部技官山口半六と久留正道の設計による、木造2階建て桟瓦葺の建物は、明治23年(1890)5月に完成した。 2階の音楽ホールは、かつて瀧廉太郎がピアノを弾き、山田耕筰が歌曲を歌い、三浦環が日本人による初のオペラ公演でデビューを飾った由緒ある舞台です。、、、、、昭和40年代(1965~)に入ると、建物の老朽化が目立つようになり、奏楽堂を東京藝術大学から犬山の明治村へ移す話が出てきた。 しかし、反対意見もあり、昭和58年(1983)に台東区が大学から譲り受けることとなる。 その後、昭和62年(1987)に現在の地へ校舎を移築・復原し、「旧東京音楽学校奏楽堂」として一般への公開を開始した。 国指定重要文化財
 
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・・・・・・・・・・・・・・ 奏楽堂前には、同郷の彫刻家朝倉文夫の手による瀧廉太郎像が置かれている。 23歳で没した瀧が、「荒城の月」の曲を考えている姿か? この像は郷里の大分県竹田市の岡城趾にも同じものが置かれているそうだ。
 
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・・・・・・・・・・・・・内部は学校らしくシンプルな造りである。
 
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・・・・・・・・・・・・・2階にある日本最古の音楽ホール。 今は建物全体を奏楽堂と呼んでいるが、かつては、この部屋を「奏楽堂」と称したそうだ。、、、、、梁行16.4m、桁行26.4m、客席338席の小さなホール。 天井は音響を考慮して中央部がヴォールト状(蒲鉾型)になっている。 壁にはスチーム暖房がズラリ。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・舞台中央のパイプオルガンは、徳川頼貞侯爵が大正3年(1914)に英国アボット・スミス社に発注し、大正9年(1920)11月にお披露目された。 パイプの総数は1,379本あるそうだ。、、、、数えてみたが、どう見ても100本以上あるとは思えない。 残りのパイプはどこに隠した!
 
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・・・・・・・・・・・・・・ホールの漆喰壁の中には、防音と音響上の効果を狙い、藁束(わらたば)がぎっしりつめられているそうだ。、、、、、先人の知恵!
 
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●こちらは大ホール・・・・・・・・・チョイト、現代の大ホールを見て帰ろうと、上野の東京文化会館に寄ってみた。 『大ホール内部の見学ダメ!』だった。、、、、、建築家:前川國男の代表作で、昭和36年(1961)日本建築学会賞作品賞を受賞した建物。 東京での本格的なクラシック音楽のホールとしては初期のものである。 その後、東京には、クラシック音楽専用として昭和57年(1982)のザ・シンフォニーホール、昭和61年(1986)のサントリーホール等、最新の音響設計技術を用いたホールが開館された。 東京文化会館は平成11年(1999)の改装により、古さを感じさせない音楽ホールとして健在である。
 
・・・・・・・・・・・・・・今日は全景写真が撮れなかったので、平成23年撮影の全景
 
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・・・・・・・・・・・・・・私の好きな現代建築の一つ
 
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・・・・・・・・・・・・・・・エントランス部分も、パチリ!
 
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●そろそろ紅葉・・・・・・・・・・上野の森にも秋が来た。 
 
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2018年11月 5日 (月)

正門と間違える赤門

“病気自慢”なら負ける気がしない程、多くの病を経験してきた。 その為、治療後の経過観察、定期検査などで、縁の切れない医療機関も増えている。(診察券を集めるのが趣味の一つとなりそうだ!) 今月は、秋の定期検査などで、総合病院3か所、診療所3か所から既に声がかかり、医者通いに忙しい月である。(忙しくて身体を壊さなければいいのだが!)
 
今日は、今月初の医者通いで、本郷の東大赤門前の医院に行ってきた。 昨秋、胆石があるのが見つかったが、治療せずに経過観察することにしていた。 本日は一年後の超音波検査で大きさを調べられた。 『大きさは17mmあります、このまま、手術せずに薬で様子を見ましょうね』と、女医先生のお言葉。 素直に『ハイ、判りました』
 
折角、朝から赤門に来たので。 チョイト周辺をブラブラ・・・・・・
 
 
 
●正門ではありません・・・・・・・・東大の本郷キャンパス(農学部のある弥生キャンパス、工学部の一部がある浅野キャンパスは含まず)には、正門から、反時計周りに赤門、懐徳門、春日門、龍岡門、鉄門、池之端門、弥生門、西片門と、全部で9門ある。 その中でも、最も有名であり、東大の正門と間違えられるのが赤門。、、、、加賀藩13代藩主前田斉泰は、文政10年(1827)に11代将軍徳川家斉の娘溶姫(やすひめ)を正室に迎えた。 この赤門は、その際に建立された御守殿門。 “御守殿門”とは、当時、三位以上の大名が将軍家から妻を迎えた場合、その人・居所を御守殿と称し、表通りからその場所へ出入りする朱塗りの門を御守殿門と呼んだ。 建築様式としては薬医門であり、切妻造となっている。左右に唐破風造の番所を置いている。 国指定重要文化財。、、、、、全部朱塗りで、黒色の金物が締めている。 “赤と黒”とは、いいね! ところで内緒の話、左右の番所の裏側は彩色されてない、知ってた? ひょっとすると、塗装するのケチったか、加賀藩の懐具合が悪かったのか?
 
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●昭和初期の大学・・・・・・・・・・・赤門から入って右奥に建つ2棟、医学部1号館(写真:左)と理学部2号館(右)を見てきた。
 
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・・・・・・・・・・・・・理学部2号館、、、、、理学部の校舎は安田講堂の東側に集中しているが、2号館は赤門の近くにある。 医学部1号館と対をなす建物で、内田祥三の設計により、昭和9年(1934)に完成した。 現在は生物学科が利用しているが、以前は地質学、鉱物学、地理学の各教室も入っていた。
 
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・・・・・・・・・・・・・医学部1号館、、、、、、こちらも、設計は内田祥三で昭和6年(1931)に完成。 現在は、北隣に建設された地上14階建ての医学部教育研究棟と一体利用されている。
 
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・・・・・・・・・・・・・・医学部本館(2号館)も、チョイト撮影。 こちらも、ゴシック様式の建物で、内田祥三の設計により昭和11年(1936)に完成。
 
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・・・・・・・・・・・・・・東大のイチョウ、黄葉にはまだ早いようだ! 見頃は来月初旬。
 
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●忘れちゃったのよ!・・・・・・・・本郷三丁目交差点角の交番の横を入ると薬師堂が見える。 この堂のある一帯に、昭和26年(1951)まで、天台宗の古刹:富元山瑞泉院眞光寺があった。 眞光寺の創建は嘉祥2年(848)と言われている。 その後、永く廃寺同様になっていたが、寛永14年(1636)に清賢法印が、藤堂高虎の助力により再興し、正保4年(1647)諸堂宇及び天神社(桜木神社)が落慶された。 そして昭和20年(1945)の空襲で堂塔伽藍の総てを焼失、昭和26年(1951)には薬師堂と十一面観世音坐像と墓地を残したまま世田谷区給田に移転した。、、、、、仏を忘れて引っ越したのか? 、、、、、忘れ物の、薬師堂、十一面観世音坐像に手を合わせてきた。
 
・・・・・・・・・・・・・本郷薬師堂は、眞光寺の境内に寛文10年(1670)建立したと言われてる。 残念ながら御堂は、戦災で焼失し、昭和22年(1947)に再建され、昭和53年(1978)に新築された。
 
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・・・・・・・・・・・・・・薬師堂から100m程奥に進むと、露仏の十一面観世音坐像が墓地の横で墓泥棒の見張りをしている。、、、、この像は眞光寺の境内に置かれていた。 蓮華座には、享保5年(1720)の銘がある。、、、、、重たそうな像なので、引っ越しの時に捨て置かれたのか? 可哀そうに!
 
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●神社もあった真光寺・・・・・・・・・・・・薬師堂裏の奥に、桜木神社がある。 祭神は菅原道真公で天神様。 神社は、太田道灌が江戸城を築城の際、城内に北野天神を勧請、創建した。 二代将軍徳川秀忠の代に旧櫻の馬場の地へ遷座、元禄3年(1690)その地に昌平坂学問所が設立されることになったため、さらに現在地(本郷の眞光寺境内)へ遷座した。 明治の神仏分離により眞光寺から独立した。、、、、、当社も戦災で社殿は焼失し、現社殿は昭和34年(1959)に新築した。
 
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2018年11月 4日 (日)

貝塚がある奥戸

肌寒い薄曇りの朝である、『散歩してくる』と家を出たが、さてどっち方面に向かうか? 考えながら浅草橋駅へ、JRに乗るなら2階改札、浅草線なら地下の改札。 迷ったあげく、敬老パスで乗れる浅草線に。 ホームに立ってまた迷う、押上方面か、泉岳寺方面か。 タイミングよく、成田空港行の快速が来た。 乗ってからまたまた迷う、何処で降りようか? とうとう押上を過ぎ快速区間となり、いくつかの駅を通過するので、とりあえず、次の青砥駅で下車した。 駅ホームから町を眺めると、青砥橋が見えた、『今日の散歩は、青砥橋を渡り、奥戸の町を歩こう!』 これで決まり。、、、、、
今日の散歩は、京成青砥駅から、奥戸の町を抜けて新小岩駅まで。 1万1千歩。
 
 
 
●ホームは見晴らし良し・・・・・・・・・・青砥駅 の下り(成田方面)ホームは、一般のビルより高い3階にあり、眺望抜群。 電車もよく見える。
 
・・・・・・・・・・・・3階ホームの先は屋根がないので、ヤッホ~~。
 
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・・・・・・・・・・・・・中川、青砥橋が見える、もちろん電車も見える。 よし、このあと、青砥橋を渡ろう!
 
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●30年程前にできた橋・・・・・・・・・・・青砥駅の東側を流れ下る中川に青砥橋が架かる。 青砥橋は、橋上を環七通りがとおり、右岸の青戸2丁目と左岸の高砂1丁目を結ぶ、昭和60年(1985)1月に開通した橋。 橋長は640.8m、、、、、現在の橋が架かるまでは、渡し船もなかったそうだ。 
 
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・・・・・・・・・・・・・・青砥橋から見る中川の分岐点。 写真左から流れ下る中川は、中央で中川新中川に分岐する。 右奥に流れ下るのは新中川。 中川は手前に流れてくる。
 
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●戦後の大工事・・・・・・・・・青砥橋を渡ると高砂1丁目。 高砂1丁目は、なぜか、高砂駅、高砂2~8丁目とは新中川で隔てられ、チョイト飛地のような状態。 その1丁目で、中川と新中川が分岐する先っぽに新中川通水記念公園がある。、、、、、東京都(東京府)は、戦前から中川の洪水対策として中川放水路(現:新中川)の建設を計画し、一部着工していた。 戦後、カスリーン台風による洪水で甚大な被害をこうむり、放水路建設を再着工した。 新中川は昭和38年(1963)に第一期工事が完成し通水に成功した。 その時の記念に、公園内に立派な記念碑が建てられている。 碑には、細かい字でウンジャラ・カンジャラ・ゴチャゴチャ書かれているが、その中に「一 主要建造物 道路橋 一六橋   鉄道橋 二橋   排水所 四箇所   伏越 三箇所   水門 一箇所   一 総工費 五十三億八千百万円   昭和三十八年九月一日建立」と記されていた。 大工事だったそうだ。
 
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●日活青春映画の橋・・・・・・・・・新中川通水記念公園から新中川を200m程下流に行くと、掘削工事に伴い架橋した高砂諏訪橋が架かっている。 高砂諏訪橋(たかさごすわばし)は、新中川の最上流に架かる橋で、左岸(東岸)の高砂2丁目と右岸(西岸)の高砂1丁目を結ぶ。 幅員は4.5mしかない、そろそろ架け替えの話も出るのでは?、、、、下流側に人道橋が増設され人車分離されている。、、、、、昭和40年頃の日活青春映画の、吉永小百合、浜田光夫が自転車で橋を渡るシーンに出てきそうな橋だ。
 
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●奥戸の町? 知らない?・・・・・・・・・・「奥戸」聞いたことのある地名だが、何処にあるの? 多分、多くの人はこんな感じだと思う。 私も、「奥戸」の名所は?「奥戸」と聞いて思い出すのは?、即答できない。 環七通りから外れ、奥戸3丁目付近を通り抜けてきた。
 
・・・・・・・・・・・・奥戸7丁目北交差点の角にある小さな祠の水神社。 境内の清掃はしっかり行われている。
 
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・・・・・・・・・・・・・奥戸村の鎮守である奥戸天祖神社
 
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・・・・・・・・・・・・・・『何だか、特徴のない通りだな!』と、ブツブツ独り言。 すると畑があった。 JA(農協)もあった。、、、、、この辺は都会か?、田舎か?、住宅地か?、何なの? 混合・ミックス・まぜこぜ・グチャグチャ?
 
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・・・・・・・・・・・・・・そうだ!森永乳業の工場もあったんだ。 牛はいないようだが!
 
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・・・・・・・・・・・・・『けっこう広い空き地だ、マンションがたつのかな?』と、思いながら、草茫々の空き地の前に来ると。、、、、「鬼塚」の案内板がある。、、、、、塚のいわれは不明だが、「鬼塚」と呼ばれるこの塚は、室町時代と江戸時代の2度にわたって築造されている。 平面型は方形ないし不整の円をなし、東西約13.9m、南北約15.4m、高さ約1.0m(海抜)の大きさ。 室町時代においては、東西約8m、南北約8.5m、高さ約70cmの方形の塚が造られ、中央に土坑が穿たれていた。 その中からは石臼、陶器鉢が出土。 塚の南側には、ハマグリを主体とした貝殻が堆積していた。 この小貝塚は、生業活動に伴う何らかの儀礼行為の結果と判断されている。 江戸時代になると、稲荷を祀るために、中世の塚の上にさらに土を盛り、塚を作り直している。 塚の上に寛保2年(1742)銘の祠がある。 鬼塚は室町・江戸時代を通して、この地域に生活した人々の精神文化を知る上で、きわめて貴重な史料だそうだ。、、、、、いくら貴重でも、国宝、世界遺産にはならないと思われる。
 
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・・・・・・・・・・・・・奥戸には貝塚まであった。 何でもある町だ!、、、、その奥戸の町とは別れ、東新小岩6、7丁目から『みのり商店会』を歩き新小岩駅へ向かう。 商店会は南北数百メートルに100店舗程で構成されている。、、、、、まだどの店も開店準備中で、営業している店は少なく、元気な商店街か?疲れた商店街か?判断つかない。
 
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●またまた新小岩・・・・・・・・・・・今日も新小岩駅から帰宅する。

2018年11月 3日 (土)

荒川の夕日に嫌われた!

夕日の荒川を撮りに散歩に出たが、雲が厚く綺麗な夕日は次回にお預け。
総武線新小岩駅から、荒川に並行して流れる中川・綾瀬川沿いに歩き、京成押上線四ツ木駅まで、1万歩の散歩。
 
 
 
●恐怖の0m地帯・・・・・・・・・新小岩駅から蔵前橋通りを歩き、平井大橋の東詰から中川左岸(東側)の土手に出る。、、、、、時刻は15時半をまわり、そろそろ薄暗くなってきた。
 
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・・・・・・・・・・・・・中川の土手から見ると、写真右側の土手下の道路面が、左側の中川の水面よりかなり低いのが判ると思う。、、、、、堤防が決壊すると、恐ろしいことになりそうだ!
 
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・・・・・・・・・・・・・・川沿いに建つUR賃貸住宅の西小岩リバーハイツは14階建てであるが、住居は2階以上で、1階には住居はない。 浸水を考慮した設計なのか? 堤防が決壊しないことを祈るだけ、クワバラ・クワバラ。
 
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●恐怖と癒し・・・・・・・・・・・歩く先には、夕暮れの「上平井水門」と首都高中央環状線の「かつしかハープ橋」が見える。
 
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・・・・・・・・・・・・・・上平井水門は、中川と綾瀬川との合流点に昭和45年(1970)3月に造られた水門。 有効幅員30m×4連の大きなスケールが魅力である。 中川と綾瀬川は、荒川と江戸川とに挟まれた低湿地帯を流れる排水河川で、この辺りは特に地盤が低く、約7.5km離れた東京湾で生じた高潮の影響を受ける。 上平井水門は高潮により洪水を阻止する目的で造られた。、、、、、土手下の道路からは、水門が見上げる位置にあり、ここでも堤防が決壊しないことを祈るばかり。 
 
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・・・・・・・・・・・・・首都高中央環状線は荒川と中川を仕切る土手上をと遡り、中川と綾瀬川の合流する上平井水門の上流側で、綾瀬川の左岸(東側)沿いに北上する。 かつしかハープ橋は、その合流点に架かる4径間連続S字形曲線斜張橋。 橋長は455m。 昭和62年(1987)9月9日に開通した。、、、、橋梁の発展に尽力した故:田中豊博士(1888~1964)の功績を記念して設けられた田中賞を、昭和61年度に受賞した橋である。、、、、、楽器のハープから名付けられた橋。 きれいな形だけでなく、走行時にハープの曲が流れると癒されるのだが。
 
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●50年前に架橋・・・・・・・・・・・・上平井橋は中川に架かる2連下路曲弦ワーレントラス橋で、右岸 (西詰) の東四つ木と左岸 (東詰) の西新小岩を結んでいる。 現在の橋は、昭和40年(1965)竣工。、、、、、架けられて半世紀、交通量も増えたが、あと20年ぐらいは耐用できそうだ。
 
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●夕日は休み・・・・・・・・・・・東四つ木避難橋を渡り、荒川土手にでたが、今日はあいにくの曇り空。 夕日が見えない。、、、、、、東四つ木避難橋は、昭和62年(1987)に綾瀬川に架けられ、東四つ木地区から荒川左岸堤防上に避難できるようにした人道橋。 この橋があれば、地震、洪水などの災害時に荒川堤防上まで逃げられそうだが、利用する機会が訪れてほしくないね。、、、、天気が良ければ夕日の美しい景色が見られる。 先日も夕日に嫌われ、今日も嫌われた、残念あきらめる。
 
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●・・・・・・・・・墨田区八広と葛飾区東四つ木を結び、荒川・綾瀬川に架かる木根川橋(きねかわばし)。 昭和44年(1969)完成の美しいトラス橋。 長さ466m。
 
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●明かりが灯る・・・・・・・・夕暮れ、東四つ木の町を四ツ木駅に向かう。
 
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2018年11月 1日 (木)

今年も酉の市

●よく効く御守・・・・・・・・・・・一年は早いもの、カレンダーも残るは霜月・師走の二枚のみ。 気持ちは、のんびりした行楽・食欲・文化の秋から、年末・年始の準備にそろそろ切り替えだ。 今日は「一の酉」、午後から夫婦で浅草鷲神社 の「酉の市」へ行ってきた。 毎年、授与される開運の「熊手御守」だけでなく、今年は「三の酉」まであり神社の隣の長國寺では「火除御守」をもらってきた。

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●・・・・・・・・・・・・お参り済ませ、熊手やさんをチョイト拝見。
 
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●また来年、酉の市に来よう!・・・・・・・・・ヨオー、チョチョチョン・チョチョチョン・チョチョチョン・パ、、、、、福が授かり、7億円当たり、来年は大きな熊手を買うか!

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