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2018年11月 5日 (月)

正門と間違える赤門

“病気自慢”なら負ける気がしない程、多くの病を経験してきた。 その為、治療後の経過観察、定期検査などで、縁の切れない医療機関も増えている。(診察券を集めるのが趣味の一つとなりそうだ!) 今月は、秋の定期検査などで、総合病院3か所、診療所3か所から既に声がかかり、医者通いに忙しい月である。(忙しくて身体を壊さなければいいのだが!)
 
今日は、今月初の医者通いで、本郷の東大赤門前の医院に行ってきた。 昨秋、胆石があるのが見つかったが、治療せずに経過観察することにしていた。 本日は一年後の超音波検査で大きさを調べられた。 『大きさは17mmあります、このまま、手術せずに薬で様子を見ましょうね』と、女医先生のお言葉。 素直に『ハイ、判りました』
 
折角、朝から赤門に来たので。 チョイト周辺をブラブラ・・・・・・
 
 
 
●正門ではありません・・・・・・・・東大の本郷キャンパス(農学部のある弥生キャンパス、工学部の一部がある浅野キャンパスは含まず)には、正門から、反時計周りに赤門、懐徳門、春日門、龍岡門、鉄門、池之端門、弥生門、西片門と、全部で9門ある。 その中でも、最も有名であり、東大の正門と間違えられるのが赤門。、、、、加賀藩13代藩主前田斉泰は、文政10年(1827)に11代将軍徳川家斉の娘溶姫(やすひめ)を正室に迎えた。 この赤門は、その際に建立された御守殿門。 “御守殿門”とは、当時、三位以上の大名が将軍家から妻を迎えた場合、その人・居所を御守殿と称し、表通りからその場所へ出入りする朱塗りの門を御守殿門と呼んだ。 建築様式としては薬医門であり、切妻造となっている。左右に唐破風造の番所を置いている。 国指定重要文化財。、、、、、全部朱塗りで、黒色の金物が締めている。 “赤と黒”とは、いいね! ところで内緒の話、左右の番所の裏側は彩色されてない、知ってた? ひょっとすると、塗装するのケチったか、加賀藩の懐具合が悪かったのか?
 
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●昭和初期の大学・・・・・・・・・・・赤門から入って右奥に建つ2棟、医学部1号館(写真:左)と理学部2号館(右)を見てきた。
 
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・・・・・・・・・・・・・理学部2号館、、、、、理学部の校舎は安田講堂の東側に集中しているが、2号館は赤門の近くにある。 医学部1号館と対をなす建物で、内田祥三の設計により、昭和9年(1934)に完成した。 現在は生物学科が利用しているが、以前は地質学、鉱物学、地理学の各教室も入っていた。
 
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・・・・・・・・・・・・・医学部1号館、、、、、、こちらも、設計は内田祥三で昭和6年(1931)に完成。 現在は、北隣に建設された地上14階建ての医学部教育研究棟と一体利用されている。
 
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・・・・・・・・・・・・・・医学部本館(2号館)も、チョイト撮影。 こちらも、ゴシック様式の建物で、内田祥三の設計により昭和11年(1936)に完成。
 
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・・・・・・・・・・・・・・東大のイチョウ、黄葉にはまだ早いようだ! 見頃は来月初旬。
 
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●忘れちゃったのよ!・・・・・・・・本郷三丁目交差点角の交番の横を入ると薬師堂が見える。 この堂のある一帯に、昭和26年(1951)まで、天台宗の古刹:富元山瑞泉院眞光寺があった。 眞光寺の創建は嘉祥2年(848)と言われている。 その後、永く廃寺同様になっていたが、寛永14年(1636)に清賢法印が、藤堂高虎の助力により再興し、正保4年(1647)諸堂宇及び天神社(桜木神社)が落慶された。 そして昭和20年(1945)の空襲で堂塔伽藍の総てを焼失、昭和26年(1951)には薬師堂と十一面観世音坐像と墓地を残したまま世田谷区給田に移転した。、、、、、仏を忘れて引っ越したのか? 、、、、、忘れ物の、薬師堂、十一面観世音坐像に手を合わせてきた。
 
・・・・・・・・・・・・・本郷薬師堂は、眞光寺の境内に寛文10年(1670)建立したと言われてる。 残念ながら御堂は、戦災で焼失し、昭和22年(1947)に再建され、昭和53年(1978)に新築された。
 
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・・・・・・・・・・・・・・薬師堂から100m程奥に進むと、露仏の十一面観世音坐像が墓地の横で墓泥棒の見張りをしている。、、、、この像は眞光寺の境内に置かれていた。 蓮華座には、享保5年(1720)の銘がある。、、、、、重たそうな像なので、引っ越しの時に捨て置かれたのか? 可哀そうに!
 
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●神社もあった真光寺・・・・・・・・・・・・薬師堂裏の奥に、桜木神社がある。 祭神は菅原道真公で天神様。 神社は、太田道灌が江戸城を築城の際、城内に北野天神を勧請、創建した。 二代将軍徳川秀忠の代に旧櫻の馬場の地へ遷座、元禄3年(1690)その地に昌平坂学問所が設立されることになったため、さらに現在地(本郷の眞光寺境内)へ遷座した。 明治の神仏分離により眞光寺から独立した。、、、、、当社も戦災で社殿は焼失し、現社殿は昭和34年(1959)に新築した。
 
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