バラと紅葉の古河庭園
空は青く、葉は色づいたようで、夫婦で古河庭園へ行ってきた。 上中里駅から、庭園に寄って駒込駅まで、9千歩の散歩です。 (上中里駅、平塚神社、無量寺は昨年も歩いた。詳しくはコチラへ)
●さあ、年越しの準備だ!・・・・・・・・上中里駅前の平塚神社。 こちらは、紅葉する木々は少なく、七五三も終わり人影も少ない、秋の商売はほぼ終わりとなったようだ。 これから、年末の大祓い、新年の初詣、冬の商売に向け準備だ!、、、、、平塚神社は平安後期の創立と言われている。 八幡太郎源義家が兄弟とともに奥州征伐の凱旋途中に、この地を訪れ領主の豊島太郎近義に鎧一領を下賜した。 近義は拝領した鎧を清浄な地に埋め塚を築き自分の城(平塚城)の鎮守とした。 塚は甲冑塚とよばれ、高さがないために平塚ともよばれた。 さらに近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三御兄弟を平塚三所大明神として祀り一族の繁栄を願ったそうだ。
●バラから紅葉へ・・・・・・・・・・・旧古河庭園は、かつて古河財閥を率いた古河家の邸宅。 現在は国有となり庭園は東京都が、洋館は大谷美術館がそれぞれ管理している。、、、、この地は、明治時代は陸奥宗光の邸宅であった。 宗光の次男・潤吉が古河財閥創業者である古河市兵衛の養子となったため、古河家に所有が移った。 その後、古河財閥三代目の当主:虎之助によって西洋館と庭園が造られ現在の形となった。、、、、洋館と洋風庭園は、湯島の岩崎邸など戦前に多くの洋風建築を手掛けたジョサイア・コンドルの設計により、大正6年(1917)に竣工した。 躯体は煉瓦造、外壁は真鶴産の新小松石(安山岩)で覆われ、屋根は天然ストレート葺き、地上2階・地下1階となっています。 (建物内部に入ってみたが撮影禁止であった) 洋館内部は和洋折衷であるが、岩崎邸などと比べると比較的質素である。、、、、今日は、天気も良く、バラと紅葉を一度に見ようと、多くの人が訪れていた。 どうも、欲張りが多いようだ。 私は、バラと紅葉だけで満足せず、立てばシャクヤク座ればボタン歩く姿はユリの花も観賞したく、キョロキョロしながらの散策。
・・・・・・・・・・・・・・日本庭園は近代日本庭園の先駆者として、京都の無鄰菴(山縣有朋別邸)など数多くの庭園を手掛けた小川治兵衛(植治、1860~1933)により作庭された。、、、、、洋館からは見下ろす位置にあるため、館内からは見えずらい。、、、、、紅葉は陽の光を浴び真っ赤に染まった。
・・・・・・・・・・・・・紅葉に招かれたか赤トンボを見つけた。 今や、都会では珍しい御対面。
●都会の中の里の寺・・・・・・・・・・・旧古河庭園の西隣にあるが、山門が庭園とは反対側の裏道に向いて、判りずらいため、訪れる人は少ない。 今日も、我が夫婦だけであった。 静かに佇む真言宗豊山派の寺:無量寺。 創建年代は不詳だが、この地に平安後期から寺院があったことは判っている。 寺地から14世紀頃の板碑が多数確認されているそうだ。 当初長福寺と号し、慶安元年(1648)に江戸幕府から八石五斗余の朱印を賜った御朱印寺。 九代将軍の幼名長福丸と同名であることを避けるため無量寺と改称した。、、、、、この寺は庭の手入れもよく、今日も庭師が入り手入れをしていた。 いつ来ても、里に佇む美しい寺の雰囲気を残している。
●尻を振り振り しもふり歩く 妻は親爺の 下の世話・・・・・・・・・・霜降銀座商店街:「しもふり」をぶらつき駒込駅に向かう。 年寄りはトイレも近くなり、アレ、呼んでいるぞヤバイ!
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