上り下り、キツイ小日向
午後から水道橋の循環器クリニックで、定期診断を受け。 帰りに、江戸川橋駅と茗荷谷駅の間にある文京区小日向(こびなた)の町をチョイト歩いてきた。
●幕府直轄の橋・・・・・・・・江戸川橋駅の東側約200mのところに、神田川に架かる古川橋がある。 現在の橋は平成21年(2009)に架けられた、長さ20m程の1径間PC桁橋。、、、、、この橋の初代は江戸時代と思われる。(私の推測、根拠なし) たしかなのは、江戸時代、将軍が鷹狩りの際に通行するルートであったため幕府直轄の橋とされていたそうだ。 この橋の北側に服部坂がある。、、、、、頭上には、首都高5号池袋線が走る。
●忍者ハットリくんの住まい跡?・・・・・・・・・・古川橋を渡り直進すると小日向1丁目と2丁目の境に服部坂がある。、、、江戸時代、坂の上に服部権太夫の屋敷があり、それで服部坂と呼ばれたそうだ。 その服部権太夫とは、徳川家康幕下の旗本、三河の出で、千葉県夷隅郡岩熊村の領主(300石)である。、、、、、現在は服部氏屋敷跡には、明治2年(1869)に小日向神社が移された。
・・・・・・・・・・・・・小日向神社は、当社付近にあった氷川神社と八幡神社とが合祀して明治2年(1869)に小日向神社となった。、、、、氷川神社の創立は天慶3年(940)、八幡神社は貞観3年(860)の創立で、共に古社であった。
●上って下りて・・・・・・・・・神田川から服部坂を上り、小日向台地を西に向かうと、神田川へ下る坂がある大日坂である。 小日向2丁目の南端中央に位置する。、、、、坂の途中に、大日堂と称する寺があることに由来する。
・・・・・・・・・・・・・大日堂とは、天台宗寺院の覚王山妙足院のことである。 妙足院は、寛文年間(1661~1673)に創建したといわれ、本尊の大日如来は、慈覚大師が唐で賜った像で霊験あらたかだと言われている。、、、、、まさに、“お堂”と呼ばれるイメージに近い寺である。、、、、、数年前、こちらの住職に美味しい落雁を頂戴したことを思い出した。 その節は、有難う御座いました。
●戦後生まれ(?)の閻魔さま・・・・・・・・・・・・台地から大日坂を下り西にチョイト歩くと、浄土宗の安養山還國寺(げんこくじ)がある。 今から380年程前(寛永8年、1631)神田神保町にその名を残す旗本神保氏が、増上寺の僧を招き現在の新宿筑土町に庵を作ったのが創建である。 その後明歴の大火により現在地に移転した。、、、、還国寺は周囲を住宅に囲まれた崖下の小さな寺で、境内は墓石や石仏で手狭に見える。
・・・・・・・・・・・・・境内の一角に閻魔堂があり中で、色つやのよい閻魔大王が睨みをきかせている。、、、、還國寺の古い像は戦災などで無くなり、閻魔大王もその後作られたものである。
●再び、小日向台地を上る・・・・・・・・・・還國寺の裏手(北側)の鷺坂(さぎさか)を上る。 坂上の高台には、徳川幕府の老中職をつとめた旧関宿藩主・久世大和守の下屋敷があった。 しかし、この坂は江戸時代にはなく、大正以降、住宅地となり造られた坂である。、、、、、坂上に住む堀口大学や、近くに住んでいた詩人の三好達治、佐藤春夫らによって山城国の久世の鷺坂と結びつけ「鷺坂」という名が、自然な響きをもって世人に受け入れられてきたそうだ。、、、、、“Z”型の坂の形状と、キツイ坂の勾配は、小説の舞台となりそうだ。、、、、、この坂、道幅が狭いのに一方通行ではないのだ! 上りと下りが対面すると、運転手の怒鳴り声が聞こえるらしい。 近所の人が嘆いてた。
●また下る!・・・・・・・・・・台地の上を東に向かい、再び服部坂の上に戻ってしまった、シマッタ・シマッタ! 服部坂の東側(小日向1)、福勝寺門前に横町坂がある。 今度は下りだ!、、、、、鉄砲屋敷(?)の横町なのでその名があるそうだ。、、、、、“鉄砲屋敷”とは何だ!(調べてみたが???)
●名はあるが、由来は?・・・・・・・・・・・横町坂を下り、北へ向かうと、またまた上り坂。 その名は薬罐坂(やかんざか)。 名の由来は?、、、、、坂の東側に小日向公園、西側に浄土宗の生西寺がある。、、、、裏道の人通りも少ないこの坂では、坂の案内標識もない。 名のある坂には、標識を付けて欲しいね、ぜひ、区役所にお願いしたい。
●バテレンの牢・・・・・・・・・・小日向1丁目の住宅地の一角に「切支丹屋敷跡の碑」がある。 碑のある付近一帯は、もと宗門奉行井上筑後守政重の下屋敷だった。 正保3年(1646)岡本三右衛門を始め卜意・南甫ら禁制の切支丹宗徒を監禁するため、下屋敷を切支丹牢屋敷(別に山屋敷の俗称)にした。 岡本三右衛門はイタリア人で、本名はギュセッペ・キアラと云う。 寛永20年切支丹禁制下布教のため潜入したが捕らえられた。 取調べを受け、締められると直ぐに棄教、日本人妻を娶り、名を岡本三右衛門と名乗って恭順の姿勢を示し山屋敷に住み、貞享2年(1685)に没した。 牢に入れられた切支丹は相次いで死亡し、正徳4年(1714)頃、牢は焼失した。 僅かに役所・倉庫などが残されたが、寛政4年(1792)それらも廃され、跡地は分割されて旗本宅地とされた。 切支丹屋敷の面影はことごとく消えてしまった。、、、、、平成26年(2014)、切支丹屋敷跡の発掘調査が行われ、3体の人骨が出てきた。 その内の1体はイタリア人神父である可能性が高いそうだ。 アーメン。
●蛙坂を下り、帰る・・・・・・・・・・・・・切支丹屋敷から茗荷谷駅に向かう途中、貞静学園短大横に「蛙坂(復坂)(かえるざか)」がある。 坂の標識によると、『坂の東の方はひどい湿地帯で蛙が池に集まり、また向かいの馬場六之助様御抱屋敷内に古池があってここも蛙がいた。 むかしこの坂で左右の蛙の合戦があったので里俗に蛙坂とよぶようになったと伝えている。 なお、七間屋敷とは切支丹屋敷を守る武士たちの組屋敷のことであり、この坂道は切支丹坂へ通じている』
●蛙坂を下り、私も帰る!・・・・・・・・・・・坂が多く、上り下りはチョイト、キツイ。 近くのミーハー女子大生を観賞しながら、駅に向かうことにした。