壁に藁束つめた奏楽堂
去年の春、男の一物に痛みを感じ、上野の病院で診てもらった。 以来、この病院には定期的にお世話になり、今日もその後の定期検診があった。 『その後、いかがですか』 『ハイ、気になるような痛み、異常はなく、オシッコの出もいいです』 『それは良かった、では次回は年明けにしましょう』 診察は簡単に終わったと思った時、『アッ、調子いいようなので、前立腺癌の検査しておきましょうね、採血して帰ってください。 結果は次回お知らせします』のお言葉。 アリャリャ、コリャ、ひょとすると、癌があるのかな? 先生は何か隠していないか? 脳裏をかすめる嫌な予感。 もし癌があったら、しかも末期癌で全摘出手術、ウヮ~~70歳過ぎて御釜になるかも、恥ずかし~~い! この正月は、癌が見つからないことを祈り、願うばかり。、、、、、焦心に駆られ、病院をあとにする。
上野駅前まで歩いてきたら、癌のことはスッカリ・サッパリ・キッパリ忘れ、奏楽堂が見たくなり寄ってきた。
● 日本最古の音楽ホール・・・・・・・・ 上野公園の東京都美術館の北側、そして東京藝術大学に隣接する閑静な地に奏楽堂がある。 森の中の木造の建物は明治のロマンと懐かしさをよみがえらせ佇んでいる。、、、、、奏楽堂(旧東京音楽学校奏楽堂)は、東京藝術大学音楽学部 の前身、東京音楽学校の校舎として、文部技官山口半六と久留正道の設計による、木造2階建て桟瓦葺の建物は、明治23年(1890)5月に完成した。 2階の音楽ホールは、かつて瀧廉太郎がピアノを弾き、山田耕筰が歌曲を歌い、三浦環が日本人による初のオペラ公演でデビューを飾った由緒ある舞台です。、、、、、昭和40年代(1965~)に入ると、建物の老朽化が目立つようになり、奏楽堂を東京藝術大学から犬山の明治村へ移す話が出てきた。 しかし、反対意見もあり、昭和58年(1983)に台東区が大学から譲り受けることとなる。 その後、昭和62年(1987)に現在の地へ校舎を移築・復原し、「旧東京音楽学校奏楽堂」として一般への公開を開始した。 国指定重要文化財
・・・・・・・・・・ 奏楽堂前には、同郷の彫刻家朝倉文夫の手による瀧廉太郎像が置かれている。 23歳で没した瀧が、「荒城の月」の曲を考えている姿か? この像は郷里の大分県竹田市の岡城趾にも同じものが置かれているそうだ。
・・・・・・・・・・ 内部は学校らしくシンプルな造りである
・・・・・・・・・・ 2階にある日本最古の音楽ホール。 今は建物全体を奏楽堂と呼んでいるが、かつては、この部屋を「奏楽堂」と称したそうだ。、、、、、梁行16.4m、桁行26.4m、客席338席の小さなホール。 天井は音響を考慮して中央部がヴォールト状(蒲鉾型)になっている。 壁にはスチーム暖房がズラリ。
・・・・・・・・・・ 舞台中央のパイプオルガンは、徳川頼貞侯爵が大正3年(1914)に英国アボット・スミス社に発注し、大正9年(1920)11月にお披露目された。 パイプの総数は1,379本あるそうだ。、、、、数えてみたが、どう見ても100本以上あるとは思えない。 残りのパイプはどこに隠した!
・・・・・・・・・・ ホールの漆喰壁の中には、防音と音響上の効果を狙い、藁束(わらたば)がぎっしりつめられているそうだ。、、、、、先人の知恵!
● こちらは大ホール・・・・・・・・ チョイト、現代の大ホールを見て帰ろうと、上野の東京文化会館に寄ってみた。 『大ホール内部の見学ダメ!』だった。、、、、、建築家:前川國男の代表作で、昭和36年(1961)日本建築学会賞作品賞を受賞した建物。 東京での本格的なクラシック音楽のホールとしては初期のものである。 その後、東京には、クラシック音楽専用として昭和57年(1982)のザ・シンフォニーホール、昭和61年(1986)のサントリーホール等、最新の音響設計技術を用いたホールが開館された。 東京文化会館は平成11年(1999)の改装により、古さを感じさせない音楽ホールとして健在である。
・・・・・・・・・・ 今日は全景写真が撮れなかったので、平成23年撮影の全景
・・・・・・・・・・ 東京文化会館は私の好きな現代建築の一つ
・・・・・・・・・・ エントランス部分も、パチリ!
● そろそろ紅葉・・・・・・・・・ 上野の森にも秋が来た